【娘たちの予定変更】(4)
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(C)Eriko Kawaguchi 2017-04-14
千里は大学のレポートを無事期限の8月6日(金)までに全て提出した。4ヶ月分の授業内容をわずか半月くらいでトレースしながら書いたので、頭がオーバーロードしたような気分であった。
8月8日はそれで気分転換も兼ねて、先日の呉服店で開かれた、着物ミニ講座に参加した。若い女の子が多数居て、千里も心が解放されていく気分になる。
講座が終わってお店の外に出たら、ばったりと桃香に出会う。実は桃香はまた渋谷で迷子になっていた所であった。
「千里、和服買うの?」
と桃香が訊く。
「実は先週ここで浴衣買ったんだ」
と千里は答える。
「へー?男物?女物?」
「えへへ、女物」
「おぉ。千里は女物の服を着るべきだと思っていたよ」
と桃香は言った。
結局隣の喫茶店に入る。メニューを見て桃香がギョッとした雰囲気があったが、千里が
「金曜日にバイト代入ったから、ここは私が持つよ」
と言うと、桃香はホッとした感じであった。
「サンキュ、サンキュ。じゃ何かの時に埋め合わせを」
などと桃香は言っている。
「そういえば千里、先週の試験期間中、全然見なかったけど、大丈夫?」
「実はちょっと休んでたから、レポートに代えてもらったんだよ。もう全部レポートは出した」
「それは良かった。もう大丈夫?」
「うん。平気平気」
どうも桃香は千里が病気で休んだと思ったようである。
「呉服屋さんから出てくるから振袖でも買うのかと思った」
桃香は甘いコーヒーを飲みながら言う。
「実は振袖を買いたいなと思ってるんだ」
と千里はブラックコーヒーを飲みながら答える。
「へー、いいんじゃない?成人式用でしょ?」
「うん。でもそんな写真、父親には見せられないけど」
「見せちゃえばいいじゃん。どうせそのうちカムアウトするんでしょ」
「カムアウトかぁ」
「やはり千里、女の子になりたいんだよね?」
「そうだねぇ。小さい頃ずっと女の子になりたいと思っていた」
「なっちゃえばいいと思うよ〜。最近そういう子、珍しくないし」
桃香は、寝坊での遅刻欠席が多い上に、授業よりバイトを優先しているので特にこの頃までは大学に出てくる率が低く、千里の“実態”があまり分かっていなかった。
「でも私これまで和服って全然知識が無かったんだよね。こないだ浴衣を買ったから、着方を解説してあるサイト見ながら頑張って着てみて、夜中のコンビニとかに行ったりしてたんだけど、5分くらいで着崩れしちゃって」
「あれ最初はなかなかうまく行かないと思うよ。私は自己流で着ているけど、人に教えるまでの自信は無い」
と桃香は言う。
「でも実際問題として、振袖買うにしても、どんなのがいいかとか、どんなのが似合うかとか、さっぱり分からないんだよね。幸い、成人式まであと4ヶ月くらいあるし、浴衣の季節じゃなくなったら街着とか買って、それで又練習してから、12月くらいに振袖買おうかなと思っているんだよ」
と千里が言うと、桃香はその考えの重大な欠点を指摘する。
「千里、振袖は買ってすぐ受け取れるものではない。お仕立てに時間が掛かる」
「え!?」
「特に千里は背が高いから、既製品ではサイズが合わないはず。浴衣着てるって言ってたけど、おはしょり作れないでしょ?」
「うん。実は、おはしょり無しで着てる」
「お仕立てには3〜4ヶ月は掛かると思う。だから今月中くらいに買っても多分成人式ぎりぎりだよ」
「わぁ、それはマジで考えてなかった」
「振袖選び、手伝ってあげようか?見立ててあげるよ」
「それ、頼もうかなあ」
「でも千里、どんな浴衣買ったの?」
「赤い花柄なんだけどね」
「それ見たい。そうだ。今週の花火大会とかに、それ着てこない?なんか数物科の女子みんなで行こうとか言ってたよ」
そういえばもし合宿とかにぶつからないなら花火大会を見に行かない?というのは友紀からも誘われていた。千里は普通の服で行くつもりだった。
「え〜?みんなの前で女物の浴衣を着るの?」
「みんなにも千里が女の子であることを理解してもらった方がいい。それに夕方からだから、多少変でも目立たないよ」
女の子だってことはだいぶ理解されている気はするが、確かに多少着付けがまずくても、夕方なら目立たないかも知れないなという気はした。
「そうだなあ。花火大会に浴衣着ちゃおうかな」
「うん。頑張れ頑張れ」
8月11日。千里は日中、千葉県クラブ選手権大会が近いので、市内の体育館に集まって練習していたローキューツのメンバーと一緒に汗を流した後、いったんアパートに帰ってシャワーを浴びる。
その上でパンティとブラにスリップを着けてから、浴衣を着た。帯の結び目があまり自信が無かったものの、まあいっかと思い(浴衣では自転車が使えないので)タクシーに乗って、桃香との待ち合わせ場所まで行った。
やがて桃香がやってくる。桃香はピンクの浴衣を着ていた。千里の帯の結び方がおかしいと言って直してくれた。
一緒に花火大会の会場へ歩いて行く。
他の子たちも近くまで来ているはずなのだが、携帯がつながりにくくなっていて連絡がつかない。それでこの日は結局桃香と2人だけでずっと花火を見ていた。
3時間くらい桃香とおしゃべりしていたのだが、桃香とこんなに長時間話したのは、ひょっとしたら初めてかもという気がした。桃香はさかんに千里にスカート穿いて大学に出ておいでよとか、いきなりスカート穿く勇気がなかったら、最初はキュロットでもいいんじゃない?などと唆していた。
千里も“男装”での通学が限界に来ているのは感じていたので、もう夏休み明けからは女装で通学するようにしようかなぁと思い始めていた。
そういえば、私、なんで男装で通学しているんだろう?と考えたら、どうにも理由が分からなかった。
千里がそんなことを考えていると、後ろで《りくちゃん》や《いんちゃん》が呆れているようだった。
花火大会から帰ってバッグの中から携帯を出すと、母から着信していたことに気付く。それで少し遅い時間ではあるものの、掛けてみた。
「ごめんねー。友だちと花火大会に行ってたから気付かなかった」
「それはいいけどね。あんた今年もお盆は帰って来られないんだっけ?」
「無理〜。今年は10月まで全く時間が無いんだよ」
「玲羅が言ってたけど、今年はあちこち海外にも行ったんだって?」
「うん。バスケの試合で、6月にはロシア、7月にはリトアニアに行った。今月は海外には行ってなくて沖縄に行った程度だけど、来月はチェコに行って、10月にはインドに行ってくる」
「忙しいね!」
「去年は夏にタイに行っただけだけどね」
「・・・・」
「どうしたの?」
「タイって、もしかして性転換手術を受けた?」
「まさか。試合やってただけだよ」
「あんた結局いつ性転換手術したんだっけ?」
「うーん。。。再来年くらいに受けようかと思っているんだけど」
「え?だって既に済んでいるよね」
「まさか」
「うーん。。。。」
「あ、そうそう。忘れてたけど、今月末は深川と札幌に行くよ」
「留萌には来ないの?」
「チームと一緒だから無理。8月28日に札幌で試合があって、その前に23日から25日まで深川市で合宿するんだよ」
「へー」
「それで28日の試合に出すと言われてるけど、この試合、HTBで録画になるけどテレビ放送されるから」
「ちょっと待って。それあんた女子の試合に出るんだよね?」
「私が男子の試合に出る訳ない。それと26日には同じHTBで選手へのインタビューもあって、メインは最終ロースターに選ばれる可能性のある札幌P高校出身の石川選手と佐藤選手なんだけど、旭川N高校出身の私にも一言しゃべらせるからと言われた」
「え〜〜〜!?それ何時?」
「26日のインタビューは15:45から。28日の試合は14:30からでスカイAスポーツ+で生中継されて、HTBの放送は録画で夜中の0:30から」
「そのスカイ何とかってうちのテレビで映るんだっけ?」
「さあ。私そういうの分からないから玲羅に聞いて」
「そうする。どっちみち父ちゃんが間違って見ないように、その時間帯はテレビのコンセント抜いて、テレビが壊れていることにしとこう」
「たいへんね〜」
と千里は他人事のように言った。
「そういえば、あんた成人式はどうするの?市から案内が来てたんだけど」
と母は訊いた。
「千葉の方で出るよ。留萌の方には出ない」
「何着るの?」
「振袖着ようと思うんだよ。今週末、友だちに見立ててもらって予約するつもり」
「そうかぁ。そっちで着るんならいいか」
母としては“世間体”を考えるのだろう。もっとも留萌でも、私のこと女の子と思っている人の方が多いと思うけどね。
「写真撮ったら、お母ちゃんに送るね」
「うん」
と母は短く答えた。
マウンテンフット牧場のオーナー山本さんが
「俺がおごるから、みんないっぱい食べてよ」
と言って、函館から来た美鈴・ミラ・理香子、旭川から来た天津子・織羽、そして亜記宏と、亜記宏を送って来てくれた龍一さんまで網走から呼び、美智(春美)・しずかも一緒に、焼肉を食べた。
子供たち3人は「お肉、おいしい〜」と言って喜んで食べていた。
食事の後、子供たち3人を桜川陽子と桜木八雲の2人が
「お姉ちゃんたちと遊んでようよ」
と言って、別棟に連れて行ってくれた。
それでその後、大人だけで話し合った。山本さんは
「色々各々にわだかまりはあるだろうし、簡単に消えるものではないと思う。でも、あんたたち、子供たちのことを一番に考えて話し合うといいよ」
と言った。
それでこの日、主として話し合ったのは、子供たちをどこに置くかという問題であった。
まず亜記宏の許には置けないというのが決まる。
男の亜記宏1人でとても子供3人の面倒は見切れない。お店の仕事は夜中まで続くし早朝から仕込みもしなければならない。そうなると子供たちに朝御飯も晩御飯も、食べさせるのが難しいし、学校の参観とかにも行ってやれない。
それに亜記宏自身、今は居候(いそうろう)の身である。また破産処理に時間が掛かることから、その間にヤクザ紛いの債権者が来て悪質な嫌がらせをしないとも限らない。安全を考えても当面亜記宏の許には置かない方がいいだろう。
それと、重大だったのは、しずか(和志)の性別問題である。
しずかは元々身元不明の少女ということになっていたので、女児として今の学校に受け入れてもらっている。亜記宏の許に引き取ったりした場合、男児として学校に通うことを強要されかねない。
それを考えると、しずかは今のままの生活の方が間違い無く幸せである。
理香子にしても、現在函館の学校で、男の子たちに「準・男子」と認められて他の男の子たちと、仲良く遊んでいる。理香子も今のままの環境の方が幸せである。
そう考えると、結局、子供たちは今居る所にそのまま居た方が良いのでは無いかという方向に、大人たちの意見はまとまっていった。
「それで織羽の性別なんですけど」
と天津子は言った。
「私、あの子にお母ちゃんって慕われているし、毎日一緒にお風呂入ってるから見ちゃったんだけど、あの子、性別が曖昧ですよね?」
「実はそうなんです」
と亜記宏も言った。
「どういうこと?」
「あの子の性別は、生まれた時に見た産科のお医者さんもよく分からないと言ったんです。精密検査してもらったら《性別が曖昧である》ということが明確になりました。それで実はあの子は、性別の届出を保留しているんです」
「出生届の提出を保留しているの?」
とミラが訊く。
「いえ。性別を記載しないまま出生届を出すことが可能なんですよ」
「そんなことできるんだ!?」
「僕も正直、美智と出会っていなかったら、その付近のことも知らなかったと思います。やはり美智との出会いで僕自身、性というものについてたくさん勉強したし」
と亜記宏。
美智はそのことばに少ししんみりとしている様子である。
「私はあの子を次女と認識していたんだけど、あっちゃんは次男と言ってたね」
と美智が言う。
「あの子、結構精神的に不安定みたいで、自分は男と認識している時と、女と認識している時があるみたい。でも僕と有稀子が連れ回って北海道のあちこちに行っていた頃は、ずっと男の子みたいな言動をしていたんです。だから男という意識になってきたのかと思っていたんですけど、今回会ったら女の子になっているから、あれ〜?と思ったんですよ」
と亜記宏。
「織羽ちゃんは私が保護した時『君は男の子?女の子?』と訊いたら自分でも分からないと言いました。下着は女の子用をつけてましたね」
と天津子。
「ぼくはちんちん無いから、女の子用のパンツ穿きたい、とか言っていたので、女の子用を穿かせていました。プリキュアがいいなと言ったのでプリキュアの女の子パンツも買ってやりました」
「うん。私が保護した時、プリキュアのパンツ穿いてた」
「あの子プリキュアも仮面ライダーも好きなんですけど、仮面ライダーの女の子パンツは見つからなくて。上は男の子シャツでも女の子シャツでも構わないみたいです」
と亜記宏。
「あの子、自分のこと『ぼく』と言うの?」
「男の意識の時は『ぼく』ですが、女の意識の時は『わたし』になるみたいです」
「うーん・・・・」
「だけど、男の意識でも女の子のパンツが穿きたかったんだ?」
「女装趣味だったりして」
という意見が出て、ちょっと笑いも出る。難しい話をしていただけに、みんな一様に緊張がほぐれた。
天津子が言う。
「それで、数日、一緒に暮らしていたらスカート穿きたいと言い出したんで穿かせて。だから、やはりこの子、女の子なんだろうなと思ったので、結局女の子の服を着せて、それで幼稚園にも女児の格好をさせて行かせているんですよ。幼稚園でも女の子たちの中に溶け込んで遊んでいるみたいです。確かにちんちんは無いから、着換える時とかも問題は起きてないみたいで。まあパンツまでは脱ぎませんし」
山本さんがおもむろに言った。
「横から口出して申し訳無いけど、もしかしたら、借金取りから逃げ回っていた時は、危険な状態なのでサバイバルのために男の意識が働いたのかもね。でもそれが海藤さんに保護されてからは、安心して、男の意識を仕舞い込んで、女の意識を表に出したのかも」
「もしかして一種の二重人格ですか?」
「あり得ると思う」
「男と女の二重人格か・・・・」
「だったら、あの子を私たちは男の子として扱うべきなんでしょうか?女の子として扱うべきなんでしょうか?」
と美鈴が迷うように言う。
天津子はしばらく考えていたが言った。
「あの子のあるがままに扱えばいいと思います」
他の面々もしばらく考えていた。
「きっとそうなんだろうね。あの子は、男の子とか女の子とかいう分類をしてはいけないんだよ」
と美智が言った。
「あの子はこのまま私に預けてください。子供たちは定期的に会わせればいいですよね?私、そういう子をありのままの形で育てて行きたいです」
と天津子が言った。
天津子は“オカマ”は嫌いらしいが、このタイプの子には優しいようである。
それでミラが結論を出すように言った。
「やはり、さっき言ったように、この子たち3人は今のままの場所で、今のまま育てることにしよう」
全員がそのミラの意見に同意した。
8月12日。
千里は早朝アパートを出ると、インプレッサに合宿の荷物を放り込んで東京北区の合宿所に入った。お盆直前の12-14日の3日間、U20日本代表の合宿が行われるのである。
できたら公共交通機関で来たい所だが、公共交通機関だと千葉から赤羽までは800円で行けるものの、アパートから千葉駅までの交通機関が、特に早朝・夜間は存在せず、タクシーを使わざるを得ない。そうなるとアパートから千葉駅まで2000円掛かる。千里はこのアパートってやはり不便だよなあと思い始めていた。
これに対して最初から合宿所まで自分の車で行くと、合宿所までのガソリン代は500円くらいなので、貧乏性の千里としては、どうしても車を使う選択になってしまう。千葉駅まで車で行く手もあるが(スクーターでは荷物が多すぎて無理)、駅近くは駐車場代が恐ろしい。合宿所なら(選手は)無料で何日でも駐めておける。
U20の合宿は6月22-29日のロシア遠征以来である。フル代表候補を兼ねている千里と玲央美、ユニバ代表候補の星乃・雪子・留実子、などは、引っ切りなしに合宿をやっているイメージなのだが、兼ねてない人にとっては、1ヶ月半ぶりの合宿となり、普段の自分のチームを離れてハイレベルな練習をするのは良い刺激になる。
そういう訳でこの3日間は主として連係プレイを確認しながら、各々の調整をした感じであった。
千里がU20の合宿をしていた時期、札幌では国体の北海道地区予選が行われた。この予選は2007年から4年連続、札幌選抜(P高校主体)と旭川選抜(N高校主体)の決勝戦になった。2007,2009年には札幌が勝っているが、2008年には旭川が勝っている。それで札幌側もかなり心して掛かったのだが、旭川は先日のインターハイで決勝に進出できなかった悔しさをそのままぶつけてきて物凄くハイテンションだった。その勢いに札幌側がたじたじとする場面が多々出る。札幌側は渡辺純子がひとり気迫で対抗していたものの、最後は旭川・湧見絵津子の逆転ゴールで旭川選抜が勝った。
旭川選抜は2年ぶりの国体出場である。
そして札幌P高校は2年連続高校三冠の夢を打ち砕かれた。
試合後、渡辺純子がほんとうに悔しそうにしていて、高田コーチはまたまた彼女が頭を丸坊主にしたりしないよう気をつけておかねばならなかった。
8月14日。夜遅くに合宿が終わった千里は合宿の荷物は《たいちゃん》に預けてアパートに持ち帰って洗濯!してもらうことにし、自らはインプレッサの“後部座席”に横になると、《こうちゃん》に『大阪までよろしく〜』と言って眠ってしまった。
《こうちゃん》はぶつぶつ文句を言いながらも、千里に擬態して運転席に座り車を出す。しかし《こうちゃん》は本人は否定するものの女の子の格好をするのが結構楽しいようである。女子トイレに入るのが楽しみ、などと危ないことも言っている。おっぱいは無いし、男性器官も付いているので女湯には入れない。もうちょっと若い内なら女になっても良かったかもと言ったこともある。彼は今からメスの龍になっても子供を産める年齢ではないらしい。つまり子供を産めるのなら性転換しても良かったのかも!?
車はそのまま板橋本町から首都高に乗り、美女木JCTで外環道に入って、大泉JCTから関越道に入る。関越をひたすら走って長岡JCTで北陸道へ。そして北陸道をひたすら西進して米原JCTで名神に入る。朝9時頃、桂川PAに入って車を駐め、千里を起こした。
「おーい。桂川(かつらがわ)だよ」
(京都の桂川は「かつらがわ」と読み、福岡の桂川は「けいせん」と読む)
千里は大きく伸びをして起きて、交替で運転してくれた《こうちゃん》と《きーちゃん》に「ありがとね」と笑顔で御礼を言って、トイレに行く。顔を洗って、その後車に戻ってから、取り敢えずメイクをした。
その後、千里が自分で運転して名神を走り、吹田ICから大阪中央環状線に移って千里(せんり)ICを降り、GSに寄って満タンにしてから、月極駐車場にインプを駐める。
最初の頃は時間借りの駐車場を使っていたのだが、毎回数千円の駐車料金を払うのと、時間借りの駐車場で何日も駐めておける駐車場が少ないので、使用頻度は低いものの、月極駐車場を『細川千里』の名前で契約してしまったのである。
貴司のマンションに向かう。時計を見るともう10時近い。
合宿所を出たのが22時頃で、このルートなら普通なら6時か7時くらいに大阪に着くのだが、お盆で混んでいたので普段より3時間くらいよけいに掛かった。実は東名を通れば渋滞するのが目に見えていたので、わざわざ北陸道を経由したのである。
『だけど千里、熟睡していたのに、貴人と交替で運転したこと分かっていたんだな』
と《こうちゃん》が言った。この往路では途中4時間ほど《きーちゃん》が運転していた。
『いつも交替で運転してくれているし、5時間以上の連続運転はするなと私はいつも言っているし』
『まあ俺は72時間くらいは連続運転しても平気だけどな』
『できるかも知れないけど、連続運転はどうしても注意力が落ちるから、しないでね。今回は山谷PAと徳光PAで交替したんでしょ?』
『・・・・・』
『どうしたの?』
『千里起きてたの?』
『寝てたけど、そのくらいは分かったよ』
《こうちゃん》が悩んでいたが、《りくちゃん》がトントンと肩を叩いていた。千里はどうしたんだろう?と思った。
千里が「分かった」のは「交替した時」に気付いていたのではなく、今《こうちゃん》と話していて、彼の心理を無意識に読んでしまったので、「今」分かったのだが、その辺りの微妙なことは《たいちゃん》くらいしか認識していない。
駐車場を出てから近くのコンビニに寄って朝御飯にサンドイッチ2つ、肉まん2つと甘い紅茶を2本買う。それでマンション入口まで行き、エントランスを開けるのに自分が持っている鍵を出そうとしたら、ばったりと貴司が緋那と一緒に出てくる所に遭遇する。
「ぎゃっ」
と貴司はマジで言った。
「おはよう、緋那さん」
と千里は笑顔で緋那に声を掛けた。緋那の方が顔がこわばっている。
「昨夜は貴司の所に泊まったの?」
とあくまでにこやかに笑顔で訊く。
「いや、泊まってない。さっき貴司を誘いに来た所」
と緋那は答える。
貴司の表情を見ても、本当のようだ。
「じゃ、朝御飯買ってきたから緋那さんにあげるね。貴司はこれから私と一緒にホテルのモーニング食べに行くから」
と千里は言った。
緋那は10秒くらい千里の顔を見つめていたが、
「分かった。またね」
と言って、千里が差し出したコンビニの袋2つ(暖かいのと冷たいのを分けて入れてもらっている)を受け取ると、そのまま千里中央駅の方に歩いて行った。
「『またね』じゃなくて『永遠にさよなら』でいいんだけど」
と千里は呟く。後ろで《こうちゃん》が指を折っているが『彼女に危害を加えるのは禁止』と釘を刺しておく。
「さて、貴司、モーニング食べに行こ、貴司のおごりで。それともお部屋に帰って、おしおきしてからにする?」
「いや、モーニング食べてから、デートしない?」
「うん。そうしようか」
と千里は笑顔で言って貴司と腕を組むと、近くのNホテルに一緒に歩いて行った。
「じゃ、おしおきは後でね」
「おしおきって何するの?」
「そうだなあ。やはり浮気のおしおきと言ったら、おちんちん切断の刑かな」
「勘弁してよぉ」
「緋那さんとキスした回数切断する。3回キスしてたら3回切るけど」
「どうやって3回も切るのさ?」
「切断して縫合して切断して縫合して切断して最後は廃棄」
「なんか地獄の責め苦って感じだ。でも天に誓って、僕は緋那とはキスしてない」
「おちんちんが惜しくて私に嘘つくの?」
「嘘はついてない。緋那とキスしたのは去年の6月が最後だよ。あれ以来、手も握ってないよ」
「ふーん。よほどおちんちんが惜しいのね」
千里はこの日と翌日ずっと貴司と一緒に過ごし、日中は近くの体育館でバスケの練習をして汗を流した。バスケの練習をするのは2人にとって最高のデートなのである。
「じゃ国体予選頑張ってね」
と千里は言った。来週21-22日に国体の近畿ブロック予選が行われる。貴司は大阪代表チームのメンバーとしてその大会に臨む。
「うん。でも千里は国体とかは出ないの?」
「今年は忙しすぎて無理。それにそもそも今年は千葉県で開催されるから、千葉は《優勝請負人》さんたちのスペシャルチームなんだよ。だから選手選抜が行われない」
「ああ・・・例の地元が必ず優勝しなきゃいけないってやつか」
「なんか物凄く無意味なことしている気がする」
「同感」
それで、16日の夜にまたインプを運転して(もらって)千葉に戻った。
「おしおき」に関しては、おちんちんを切断する代わりと称して、あの付近の毛を全部剃ってしまった。ついでに足の毛も剃ってあげたら、何だか自分の足に見とれているようである。
「せっかく毛を剃ったし、スカートとか穿いて外出してみる?」
「スカートなんて穿いてて人に見られたら恥ずかしいからパス」
「ふーん。人に見られなかったらスカート穿きたいんだ?」
「別に穿きたくない!」
「怪しいなあ。今度貴司のウェストに合うスカート買ってきてあげるね」
8月17日(火)。桃香に見立ててもらって振袖を買うことにしていたので、渋谷駅で待ち合わせし、一緒に坂を登ってあの呉服屋さんに行った。今日は千里はキュロットを穿いてきたので
「おお。可愛い。可愛い。今度、それで学校に出ておいでよ」
と桃香は言っていた。
そういえば大学にキュロットとかスカートとかで行ってないよなあ、と千里は思った。入学式にレディススーツで参加して以来である。
このお店では着付けした状態のシミュレーション写真を見られるということでまず千里の写真を撮る。ぐるっと回転してみせて、その動画も撮る。
その後、様々な振袖をそのシミュレーター上で着せてみるのだが、これが本当に雰囲気が出ていて、わかりやすかった。そのシミュレーションソフトを桃香が自在に操って候補を絞り込んでいくので、お店の人が
「このソフト、ご存知ですか?」
と訊いていたが、桃香は
「このソフトは初めてだけど、類推が効きますよ」
と言っていた。
千里は「さっぱり分からない!」と思った。やはり桃香に付いてきてもらって正解だったなと思った。
千里は作曲作業に使うCubaseなどは教えてもらって色々操作しているものの、実はふだん自分が使っている機能以外はさっぱり分からない。使ったことのないメニューがたくさんあるし、実はドラムスエディタの開き方が未だによく分かってなくて、毎回あれこれ試行錯誤している内に開かれて「やった!」と思ったりしている。
結局、セット価格62万8千円の赤系統「友禅風」の作品を選び、代金はその場で自分の携帯から振り込みを掛けた。振袖を即金で買ったおかげで、練習用の街着を1枚、サービス品としてもらってしまった。
千里はお店を出てから
「やはり着付け教室に通った方がいいのかなあ」
と独り言でもいうかのように呟いたのだが、桃香は千里の性別問題を心配する。
「着付け教室では女性がみんな下着になって着付けの練習するから、その中に男の子の千里が混じっていたらまずいよ。男性用の着付け教室もあるけど、男性用の着物の着方覚えても仕方ないよね?」
と桃香。
うーん。男性用の着付け教室からは私は追い出されるだろうなと思う。
話している内に、桃香の母が普通の和服なら着付けできるから、うちの母に習わないか?と桃香は言った。それでその提案に乗ることにし、9月下旬の連休に桃香の実家の高岡に行くことにした。
その時期は世界選手権の選手にもし選ばれていたら、フランスに行っているのだが、千里はこの予定が入ってきたということは多分自分は選ばれないのだろうという気がした(万一選ばれた場合は桃香に謝るつもりだった)。
「でもその、うちの実家に来る時にさ」
と桃香が言う。
「うん」
「千里、スカート穿いておいでよ」
「え〜〜〜!?」
「だって女の子の和服着るんだよ。スカートくらい人前で穿けなきゃだめだよ。スカート持ってるよね?」
「持ってる」
「じゃ頑張ってみよう」
「そうだね。スカートにしようかな」
と千里は答えた。
やはり、秋以降は私、完全女装生活かなあ。
8月21-22日、国体の近畿ブロック予選が行われた。貴司たちの大阪選抜は奈良には勝ったものの兵庫に敗れ、決勝進出はならなかった。
貴司たちは昨年も和歌山に勝ったものの兵庫に敗れて決勝に進めなかった。貴司が一昨年国体本戦に行けたのは、2008年は成年男子が47都道府県から参加する方式(全県大会)だったからである。
全県大会になる区分は毎年変わる。
少年男子 2007 2010 2014
少年女子 2006 2011 2015
成年男子 2008 2012 2016
成年女子 2009 2013 2017
(2006,2007はまるで逆のようにも思えるが、実際にこの区分で実施されている。なぜここの順序が逆なのかは不明)
8月23日、早朝羽田空港に集合する。
今日からフル代表の深川合宿が始まるので、早朝から集合したのである。6:45のJALに搭乗したのだが、行き先の新千歳の天候不順で飛ぶかどうか分からないまま、機内で1時間待たされる。どうにか飛べるようだということになり8時頃やっと離陸したが、もしかしたら仙台にダイバートするかも知れない、などという恐ろしい話もあった。しかし無事9時半に新千歳に到着した。
田原監督、主将の三木さん、そして札幌P高校出身の石川美樹の3人が新千歳空港に急遽設けられた席で記者会見した。更に美樹は地元のラジオ局に出演するというので別行動になった。
他のメンバーは先行して深川市に入り、練習場となる深川市総合体育館に入って、さっそくウォーミングアップをして、夜明コーチの指揮のもと練習を始めた。監督、三木さん、石川美樹も午後には合流した。
この合宿の後は、8月28日札幌、29日仙台、31日山形と、場所を移しながらニュージーランドとの親善試合をし、9月1日に世界選手権に出るロースター12名が発表されることになっている。今回は3日間の親善試合に出る選手は最初から発表され、専用サイトに公開された。
■1 PG.羽良口 富美山 SG.三木 村山 SF.広川 佐伯 早船 佐藤 PF.横山 宮本 鞠原 高梁 C.白井 馬田 石川
■2 PG.羽良口 福石 SG.三木 花園 SF.広川 佐伯 千石 前田 PF.横山 宮本 花山 簑島 C.白井 馬田 中丸
■3 PG.羽良口 武藤 SG.三木 川越 SF.広川 佐伯 早船 山西 PF.横山 宮本 寺中 月野 C.白井 馬田 黒江
千里と玲央美は札幌の試合には地元だから出すと言われた。他にやはり北海道出身の石川美樹も札幌の試合にアサインされている。
ここで3試合とも出る、羽良口・三木・広川・佐伯・横山・宮本・白井・馬田の8人は確定ということだろう。これはリトアニア遠征の時に玲央美が言っていた話ともほぼ一致する。あの時は佐伯さんまでは玲央美は名前を挙げていなかったが、確かに彼女はリトアニア遠征でも安定したプレイを見せていた。残りの4人をこの試合での様子を見て決めるということなのだろうが、恐らくは既にほぼ決まっていて、最終的に調子を落としていないかを確認して発表するのだろう。
未定の4人の中で高梁王子はまず確定だ。残りの3人の内、石川美樹を記者会見に出したりしているということは彼女も入れるつもりなのかも知れないと千里と玲央美は言い合った。ただセンターを3人選ぶ場合、黒江さんの方が1歩リードしているようにも見えるのだが。
23日午後から25日昼過ぎまで実質2日間おこなわれた深川での合宿では、紅白戦や連携練習が中心であった。見物客がけっこう来ており、羽良口・三木・横山などの有名選手、地元出身の石川美樹と更に玲央美や千里にまで声援が掛かっていた。
ファンサービスでスリーポイント合戦やろうよと三木さんが提案し、シューター4人とスリーの上手い玲央美も加わって5人でスリーポイント合戦をした。彰恵が記録係、江美子がゴール通過の判定係を買って出てくれた。
時間制限をせずに全員25球(5球×5ヶ所)ずつ撃ち、三木さんは15本、川越さんは12本、玲央美は13本入れたが、亜津子と千里は25本全部入れたので「すげー」という声があがっていた。
「あんたたちは遠慮というものを知らない」
と彰恵が!言っていた。
エレンは苦笑していた。
むろん千里たちが“トップシューター”のエレンに花を持たせるような手加減などしたらエレンはプライドを傷つけられてマジで怒るだろう。だからこそ2人は手を抜かなかったのである。
しかしどうも今回の合宿は、強化より広報の方に重点があるようである。やはり玲央美が言っていたように、フル代表というのは看板商品だし、親善試合というのは興行なのだろう。
このスリーポイント合戦を夜明コーチがじっと見つめていた。
25日の午後からは、ずっと見学してくれた人たちのためにサイン会まで開かれた。最初は『代表確定』っぽい8人を並べていたのだが、地元深川のバスケ協会の要請で、北海道出身の石川美樹、玲央美に千里までサイン会の列に加えられた。
サインを求めて並んでいるのは、中学生や小学校高学年くらいの子が多い。むろん実際にバスケをしている子たちだろう。女子が多く来るかなと思っていたのだが、実際には男子も結構いた。各々のメンバーの前に12-13人並んでいた。基本的にはこちらで用意した色紙に書くのだが、ボールとかバスケットウェアを持参していて、これに書いてくださいと頼んでいる子もいた。
千里が鳥が飛んでいくような美しいサイン、玲央美がライオンの顔のように見える格好いいサインを書いていると、玲央美の向こうに座った石川美樹が「ふたりともすごーい」と言っていた。
このふたりのサインは、けっこうもらった人たちが騒いでいたので、バスケ協会の広報班と、テレビ局まで近づいて来て、わざわざ2人のサインを撮影していた。おかげでふたりの所にサインを求めて並ぶ人の数が増え、千里と玲央美は各々25-26人に書いた。
なお、美樹は「サインなんて考えてなかった!」と言って、慌てて直前にチームメイトの川越美夏と相談しながらデザインを考えていたようである。
「でもレオもサンも、サインなんて結構書いているの?」
と美樹は後で訊いた。
「今まで30-40枚書いたかな」
「右に同じ」
とふたりが答えると
「私はサイン頼まれたことない!」
と美樹は言っていた。
「白井さんとこに並んだ人が最初あまりに少なかったから、どうも内輪で動員掛けたみたいな感じだったね」
と後で彰恵が言っていた。
「あの人は3月に代表になったばかりで、知名度がないから仕方ないよ」
と千里は答えた。
馬田さんも昨年夏から日本代表に参加してまだ時間が経っていないが、こちらは何とかなったようであった。
千里や玲央美のサインを求めた人が多かったのは、やはりふたりの死闘を何度も北海道の人たちが見ているのもあるんだろうな、と千里は思った。
つまり玲央美の言っていた“人気”が自分たちも北海道限定では、まま「ある」ということなのだろう。
この日は札幌に移動して、札幌のホテルに泊まった。
翌26日の午後はテレビ番組に10分間ほど出演した。主として監督とエレンさんが話したが、石川美樹も1分くらいアナウンサーと受け答えした。玲央美と千里も一言ずつ発言した。
千里は
「今回は強い人たちに揉まれて物凄く勉強させてもらいました。最終的なメンバーに選ばれるかどうかは分かりませんけど、誰が選ばれても今年の日本代表は物凄く強いと思いますので、みなさん期待してください」
と言った。
後で玲央美から「自分は落選確実だけど」と言っている感じだったと指摘された。
「そうかなあ。できるだけ表現をソフトにしたつもりだったけど」
と千里は答えた。
千里はメンバーを見ていて
・代表は確定したろうと思い、落ち着いている人(広川さんなど)
・ボーダーラインかなと考え、そわそわしている人(佐伯さんなど)
・微妙なので今度の試合で何とかアピールしようと思っている人(黒江さんなど)
・落選確実と思い、意欲を失っている人(花山さんなど)
・達観している人(玲央美など)
というのがいるなと思った。それ以外に高梁王子のように「なーんにも考えていない子」もいる。そんなことを玲央美に言ったら
「私はそんなに達観してないよ」
と苦笑しながら言われた。
「まあでも無理してアピールしようとして怪我でもしたら嫌じゃん」
と玲央美が言う。
「それが達観しているということだと思うよ」
と千里は言った。
「千里もそういう意味では達観派だな」
「彰恵や江美子も同様だと思う。あの2人は最初から補欠での招集だったしね」
「うん。でも今回の一連の合宿ではあの2人とか、私や千里とかのクラスがいちばん鍛えられた。プリンもね」
「まあそれが私たちを招集した最大の目的だろうね、協会としては」
28日の札幌での試合(14:30開始)では、(佐藤)玲央美と(石川)美樹はスターターに指定された。初戦のスターティング5は、このようであった。
羽良口/三木/佐藤/石川/白井
つまり、美樹はセンターではなく、パワーフォワードの位置に入れられた。美樹は今日の試合ではフォワードとして使うというのを直前に言われたらしい。外国出身センターが2人いて、他に安定したプレイをする黒江さんがいる状況では確かに美樹はフォワード役の方が出場可能性はあるかも知れない。これは千里も玲央美も盲点だった。
世界選手権はひたすら大型選手との戦いである。そこに180cmの美樹は貴重なのかも知れない。
しかし美樹がフォワードになるなら、フォワード枠の争いはより激化する。
千里は2,4ピリオドに出してもらった。20分間のプレイ時間の間に8本のスリーを決め「全然ロースター枠、諦めてないじゃん」と玲央美から言われた。そういう玲央美も1,4ピリオドに出してもらい、20分間のプレイ時間で16得点している。ゴール数では千里も玲央美も同じである!他に王子も16得点し、この3人で結局日本チームの得点の4分の3を叩きだした。
一方ニュージーランド側では、アメリカ出身のJillian Harmon(185cm age:23)が物凄く頑張り、ひとりで34得点も取る大活躍を見せた。王子は何度か彼女とぶつかりそうになったが、「あいつ、すげー。負けそう」などと言いながらも頑張って彼女に対峙していた。
「あの選手、千里と誕生日が同じだよ」
「わっ」
「1987年の3月3日生まれ」
「ついでに髪も長い」
「千里ほどの長さではないけど、ああいう長い髪の選手は珍しい」
「しかし体格が違う」
「大きいよね〜」
この試合は、玲央美や千里・王子が頑張ったにもかかわらず、ハーモンひとりにやられてしまった感もあり、結局77-74で負けてしまった。
ところでハーモンはアメリカ生まれのアメリカ育ちでアメリカの大学を出ているが、お母さんがニュージーランド生まれなので、ニュージーランド代表になる資格があったらしい。彼女は2008年の北京五輪にもニュージーランド代表として出場している。
「そういうどこの国の代表になるって、選べるもんなんですか?」
と王子が試合終了後、たたまま近くに居た早船さんに訊いていた。
「普通は生まれた国あるいは両親の国籍で、その人の国籍も定まるけど、彼女みたいに親が他国生まれだったりすると、移動できる場合もある。陸上競技のマリーン・オッティなんてジャマイカ代表として6回オリンピックに出た後、スロベニアに移動して7回目のオリンピック出場を果たしている」
「そんなのもありですか!?」
「バスケットの場合は、1回でもどこかの国の代表になっていたら、それ以降他国の代表にはなれない。だからオッティみたいなことはできない。馬田さんも白井さんも、中国やアメリカでは代表にはなっていないから、日本に帰化したことで、日本代表になる資格が得られたんだよ」
と早船さんは解説する。
「じゃ、私、U19日本代表になってるから、今からアメリカ代表になるのは無理ですね」
「ああ、プリンはアメリカ代表を目指したかったかも知れないね」
「WNBAには行きたいですけどね」
「プリンはWNBAに行けると思うよ。取り敢えずWリーグとかオリンピックとかで実績を重ねるといい」
と早船さんは優しく言った。
「どっちかというと、プリンは男に性転換してNBAに参戦したいのでは?」
「あ、それも狙っていたのですが、母が性転換はやめてと泣いて頼むので、性転換はしないことにしました」
「男の子になりたいんだっけ?」
「別になりたくはないけど、男になってもいい気はします」
「プリンはむしろ女の子に性転換すべき」
という声も出て
「それもよく言われます」
と本人は言っていた。
夜の飛行機で新千歳から仙台に移動して、28日は仙台で泊まった。千里も玲央美も、また江美子も王子も出番が終わってしまったので、自主的にかなりハードな練習をしていた。広川さんがそれを見て「君たちほんとに元気だね」と言って4人の練習を見ていた。
この日の試合(16:00開始)はどうもニュージーランドチームは軽く流している雰囲気があった。昨日とは雰囲気がまるで違うのである。そんな中で2,3ピリオドに出してもらった中丸華香が、物凄い気迫でニュージーランド選手を押しのけてリバウンドを取りまくっていたのが印象的だった。
「中丸君、凄いね」
と千里たちの近くの席に座っていた富永代表が言っていたので、かなり良い印象を持ったかなと千里は思った。彼女が成長してくれると、この後のU20アジア選手権も楽になる。
この日の試合は69-99で日本が勝った。
29日は仙台で泊まり、30日の朝から新幹線で山形に移動した。
この日は記者会見を行い、田原監督と、三木エレン・羽良口英子・武藤博美・白井真梨の4人が会見に臨んだ。また羽良口さんは地元のラジオ局の番組にも出演した。彼女は山形県の出身で、U20代表・鶴田早苗の中学の先輩でもある。
この日の練習は明日に響かないように軽めのものだったが、千里・玲央美・彰恵・江美子・亜津子・王子・華香といった面々は、もう出番が終わったのでかなりヘビーな練習をおこなった。
それで千里たちがさすがにかなり疲れたなと思っていた夕方18時、唐突に夜明コーチが「紅白戦やるぞ」と言う。
「え〜〜!?」と思わず亜津子が叫んだ。彼女はさっきまで「さすがに練習のやりすぎ。もうシャワー浴びて寝る」と言っていたのである。
チーム分けは明日の出場選手対それ以外である。つまりこうなる。
Aチーム
PG.羽良口 武藤 SG.三木 川越 SF.広川 佐伯 早船 山西 PF.横山 宮本 寺中 月野 C.白井 馬田 黒江
Bチーム
PG.富美山 福石 SG.花園 村山 SF.佐藤 千石 前田 PF.高梁 鞠原 花山 簑島 C.石川 中丸
「あっちゃんが疲れてるならずっと休んでていいよ。私が全ピリオド出る」
と千里が言う。
「いや、2,4に出してくれ」
と亜津子。
「OKOK。じゃ私が1,3ね」
それで亜津子は最初の10分間、ベンチの後ろで横になって寝て体力を回復させていた。
試合は落選濃厚なメンバーの多いBチームがかなり頑張った。それで結局82-84でBチームが勝ってしまった。千里が8本、亜津子が7本、更に玲央美まで4本のスリーを放り込んでいるし、182cmの華香は195cmの白井、190cmの馬田の2人に負けずにリバウンドを取っていた。彼女は勘が良いので、ボールが落ちてくる所に最初から居る。それで身長の差を埋めてしまうのである。
その華香のプレイに田原監督が思わず「ヒュー!」と声をあげたりする場面もあった。ただ田原監督は全体的にはほぼ無言で試合を見ていた。一方夜明コーチは盛んに選手たちに発破を掛けていた。
そして試合終了後、田原監督が言った。
「勘違いしている人もあるかも知れないが、最終12人のロースターは明日の試合が終わってから決める。現時点では誰も当選確定していないし、誰も落選確定していない」
特に広川・横山・馬田といった面々が厳しい顔をしていた。3人はその後、武藤さんを誘って4人で夜遅くまで練習したようである。
ちなみに亜津子は試合終了後ホテルに直行して、結局シャワーも浴びずに熟睡したらしい。
8月31日。「代表候補」の活動最後の日。明日には「代表」12名が発表され、その後は本戦まで、その12名での活動になる。
なお世界選手権に参加するために必要なビザは、現時点での代表候補28名全員分が取得されていて、誰が選ばれても入国に支障は出ないようになっている。
19:00。試合が始まる。最終戦のスターターは羽良口/三木/広川/横山/白井である。おそらくは世界選手権でもこの5人が基本的なスターターになるはずだ。
この日は昨日あまり気を抜きすぎたと反省したのか、ニュージーランドは割とマジだった。しかし日本も昨日の紅白戦で負けたことから、広川・武藤などの中核選手が物凄く頑張った。お互い気合いが入っているので、かなり激しいぶつかり合いも起きるが、今日の審判は意図的でない衝突はファウルを取らない方針のようである。
そしてその事故は起こるべくして起きたのかも知れない。
第3ピリオドの開始から4分ほど経った頃、黒江さんがゴール下で相手選手と激しいボールの取り合いをして、結局は向こうにボールを取られ、シュートされて得点を奪われた。
それで川越さんがスローインして、武藤さんがドリブルで攻めあがっていく。選手はみんなフロントコートに行ったのだが、ひとり黒江さんだけが倒れたままゴール下に留まっている。
審判が笛を吹いてゲームを停めた。
田原監督とトレーナーの田中さんが飛び出して黒江さんの所に行く。
「どうした?」
「すみません。ただの打ち身です」
田中さんが黒江さんの足に触っている。
「これ骨折している可能性があります」
「何!?」
医師が呼ばれていく。
「うん。これ骨折している気がする」
と言って、添え木を当てて包帯で足をぐるぐる巻きにした。そして担架で運び出される。
試合は黒江さんの代わりに馬田さんを入れて続行された。
コート外に居た千里たちが寄っていく。
「どうですか?」
「病院に運んだ方がいいです」
と医師が言う。
「すぐに連れて行こう」
と富永代表が言い、結局、山形のバスケ協会の人と、代表チーム事務の赤井さんが付いて病院に運ばれていった。
「無理しすぎたのかなあ」
と玲央美が呟くように言う。
「黒江さんはいちばん微妙な立場だったからなあ」
と亜津子も言う。
「アピールしようと必死だったんだろうね」
と江美子が言う。
彼女は29歳である。代表選手としては今がピークの時期。2年後のロンドン五輪では31歳になるので、今回に賭けていたであろう。昨年までの段階ではロースター当確だったのが、帰化選手の白井さんの加入で、難しい立場になってしまった。
今回代表の監督を務めている田原さんは昨年日本代表の監督に就任するまでは黒江さんが所属するレッドインパルスの監督をしていた。黒江さんは田原さんにとっては愛弟子であるが、代表監督としては立場上ドライな決断をしなければならない。
この後、試合は、ニュージーランド側の猛攻に日本が耐える展開が続いたが、第4ピリオドも半ばになって、チーム最年長の三木さん(35歳)が、自ら志願してコートに出ると、体格の良いニュージーランド選手を華麗なフットワークで翻弄しては3連続スリーを叩き込むなど、底力を見せる。
千里も亜津子もそのエレンのプレイを熱い目で見ていた。
エレンの活躍に刺激されて広川や横山、そして馬田も頑張り、最終的には81-86で日本が勝った。
しかしエレンは試合終了後座り込んでしまい、しばらく立てないようであった。主将としての責任感から、自分の体力限界を超えた力の使い方をしてしまったのであろう。
試合終了後の公開インタビューも、エレンは「エイちゃん、あんたやって」と言って羽良口さんに譲り、先に控室に帰らせてもらっていた。その羽良口さんは山形弁で観客に挨拶して、大いに観客は沸いていた。
病院に行った赤井さんから連絡が入り、黒江さんはやはり骨折しているということだった。ただ骨はズレてないので、多分2〜3ヶ月で復帰できるだろうということらしいが、彼女はこれで今回の世界選手権の代表は無理だし、Wリーグでも年内の復帰は絶望的である。
田原さんと富永さんは、黒江さんの所属チームレッドインパルスの小坂代表に電話して黒江さんを怪我させてしまったことを謝っていた。
一方、千里たちは22時頃、ホテルに戻った。
シャワーを浴びた後で数人で誘い合って結局亜津子の部屋に、千里・玲央美・江美子・彰恵の4人が集まって、0時すぎまでおやつを食べながらおしゃべりした。おやつが足りなくなるので途中2回もコンビニまで買い出しに出た。
「いいかげんもう寝ようか」
などという話が出ていた午前1時頃、玲央美の携帯に電話が入る。田原監督からである。千里や亜津子も一緒だというと、その3人で富永代表の部屋まで来てくれないかという。
「何だろう?」
「こんな夜中に呼び出されるってのは、その3人にフル代表に入ってくれという話では?」
と彰恵が言うが
「あっちゃんは入ると思うけど、私や千里が入るとは思えない」
と玲央美は言った。
「性転換して男子代表になってとか」
と江美子。
「私はそれでもいい」
と玲央美。
「私は性転換なんて絶対嫌」
と千里。
「まあそうだろうな。せっかく性転換して女になれたのに」
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【娘たちの予定変更】(4)