【春零】(6)
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7月12日(火).
H南高校で今年1回目の水泳の授業が行われた。全員一度に連れていくと密が発生するし、そもそもまともに泳げないので学年単位である。次のように時間を割り振っている。
9:30-11:30 3年生
11:30-13:30 2年生
13:30-15:30 1年生
送迎バスは2年生を連れてきたら3年生を連れて帰り、1年生を連れてきたら2年生を連れ帰る、というように運行される。つまり送迎バスは5往復する。
→回送
←3年(1)
→回送
←2年(2)
→3年
←1年(3)
→2年
←回送(4)
→1年
←回送(5)
それをクラスごとに1台で3台使用する。結構なコストが掛かると思うが、それを無料でやってくれる所が“お金を減らしたい”若葉の流儀である。
但しこんなことするからお客さんが来てくれて結果的に黒字が増える。委託しているバス会社からもコロナで客が減っている折、沢山仕事をもらえて感謝される。
晃たち1年生は4時間目の授業が休みになり早めにお昼を食べる。そして12:30に送迎バスで火牛スポーツセンターに行く。入場前に全員簡易検査キットによる感染検査を受ける。ここで2人陽性になった。2人は中には入れず待機室で待機になる。そして保護者に連絡が行き、保護者の車で迎えにきてもらう。実は3年生でも3人、2年生では生徒2人と教師1人が引っかかったらしい。オミクロン株は無症状の人が多いので、本人たちも全く自覚症状が無かったという。
陰性だった生徒・教師で中に入る。全員スタッフさんからロッカーの鍵を渡される。エレベータは使わず、エスカレーターで地下の競技用プールまで降りる。狭い密閉空間を作らないためである。
本来は50mプールのほうも横に使えば25mプール×20レーンになるのだが、現在感染防止対策でレーン間を透明のプラスチック板で区切っているので、そういう使い方ができない。それで25mプールのみを使用して授業は行われる。25mプールは貸し切りだが、50mプールの方には一般のスイミングクラブ会員が入っているようであった。
晃は206という番号の赤いタグが付いた鍵をもらった。その番号を見て赤いマークがあり、201-299という表示のあるロッカールームに入る。
女子ばかりだ!
「あれ〜ここ女子更衣室?」
などと晃が声を出すと
「君は女子なのだから、女子更衣室に来るのが当たり前」
と美奈子に言われた。
「で、でも・・・」
体育の時間は当面女子更衣室は使わず面談室を使うという話だったのに!
「大丈夫だよ。ここはロッカーだけオープンスペースにあって、着替えは洋服屋さんのフィッティングルームなどと同様のカーテンのある個別着替え室で着替えるから」
と同じバスケ部の津田秋奈が言う。
「だったらいいか」
「男女分けずに使わせてもいいくらいだよね」
「それはさすがにまずいと思う」
(でも一般の遊泳プールでは、そういう所もある。家族一緒に入れるのが利点)
個室に入ろうとしていたら、このロッカールームに日和が居ることに気付く。日和は晃や美奈子たちを見ると物凄く不安そうな顔で
「もしかしてここ女子更衣室ですか?」
などと言っている。日和が持っている鍵には赤いタグが付いている。まあ日和なら赤いタグを渡されて当然だろうなと晃は思った、
日和は汎用品のブラウス、つまり校名の入っていないブラウスに明らかに女子用の学生ズボンを穿いている。一応「ワイシャツにズボン」という男子制服に準じた格好ではあるが、女子にしか見えない!胸の膨らみもあるし。
「ヒヨちゃん大丈夫だよ。ここは着替えは洋服屋さんの試着室みたいな個別の着替え室で着替えるから、男女混じってもいいんだよ」
と美奈子が言った(嘘は言ってない)。
「そうだったんですか!よかった」
と日和はホッとしたような顔である。美奈子が
「こっちおいで」
と言って、着替え室が並んでいる所に連れて行く。
それで日和は晃・美奈子・秋奈たちと並びの着替え室に入り着替えた。
ドキドキしている日和を見て、晃はかえって落ち着いてしまった。それで個室着替え室の中で安心して水着に着替える。
晃が着替え室を出ると、美奈子と秋奈が待っててくれた。
「お待たせ」
「もっと可愛い水着を着ればいいのに」
「お姉ちゃんに任せると絶対恥ずかしい水着を選ばれそうだったからお母ちゃんに選んでもらった」
「ああ、それは賢明だ」
どうも2人は日和がどんな水着を着て出てくるか期待?しているようだ。
「まさか水泳パンツじゃないよね」
「あの子、胸が膨らみ始めてるから男子水着はもう着られないと思う」
やがて少し恥ずかしそうな顔をして日和が着替え室から出てくる。
「おお、可愛いじゃん」
「なんか女の子水着みたいで恥ずかしい」
と本人。
彼女(でいいと思う)は、ワンピース水着のパレオ付きを着ていた。胸の所は乳首の形が出ないようにちゃんとカップが入っている。紺地だがグリーンの蛍光色のラインが曲線状に入っていて、女性的な身体のラインを強調する。胸元にはリボンも付いているし、襟元とパレオの裙には小さなレースも付いている。
あまり水泳向きではなく、水辺着という感じだ!
無論女子水着にしか見えない。男子のワンピース水着は普通にあるが、男子用のワンピース水着に胸カップやリボン・レースは無いと思う!だいたいパレオ付きだし。
「問題無いと思うよ。荷物をロッカーに入れよう」
「うん」
それで晃たちもロッカーに着替え等を入れたが、日和も自分の番号のロッカーを見付けてそこに着替えを入れたようである。同じクラスの五月に
「おお、可愛い」
と言われて恥ずかしがっていた。
シャワーゾーンを通ってプールサイドに出る。
日和は準備体操の時も五月に連れられて2組女子たちの集まりの中で体操をしていた。女子たちみんなに「可愛い」と言われて照れていた。
晃も1組女子たちのグループの中で準備体操したが、晃の水着姿のお股の所に他の女子たちの視線が集まっていることに“女子水着初体験”でドキドキしている晃は気付かなかった。何だかうなずき合っていた子たちも居た。
晃自身は「みんな可愛い水着を着てるなあ」と思った。
水泳の授業は習熟度別である。A.全く泳げない人 B.10m以上は泳げるが25m泳げない人、C.25m程度は泳げる人 D.ターンできる人。Dクラスを奥村先生が指導していた。
Aが0-1レーン、Bが2-3レーン、Cが4-6レーン、Dが7-9レーンを使用する。5-6レーン、7-8レーンの仕切り板を揚げてもらい、各々一体で使えるようにして往路・復路を分離し、衝突事故を防止する。
晃は25m自信無いなあと思いBに入って練習したが
「あんた25m行けるじゃん」
と言われて後半はCクラスに行き、ターンの練習をした。先生が手で補助してくれて身体の転回の要領を学ぶ。補助してくれるのは男子生徒は男先生、女子生徒は女先生である。第4レーンの両端を男女別に使用している。晃はもちろん女子のグループに入り、女先生に補助してもらう。
転回の要領を覚えても、ターンを始めるタイミングが最初なかなか掴めなかったが、授業が終わる頃にはそれも分かってきて、だいたいきれいにターンできるようになった。しかしスタミナが持たず、ターンしてからプールの半分くらいまで行った所で力尽きた。
「高田さんは筋力トレーニングとかしたら、50m, 100m 泳げるようになりそうだね」
とCクラスを指導してくれた柚津先生から言われた。
なお日和の方はAクラスで、ひたすらバタ足の練習をしていた。彼女はビート板でも沈んでしまうので、泳げるようになるまでの道は遠いようである。
授業のラストでは、奥村先生がうまく乗せられて、200m個人メドレーを披露した。バタフライ→背泳→平泳ぎ→クロールで25mプールを1往復ずつする。
「すげー」
「速〜い」
「さすが元国体選手」
みんなバタフライはあまり見たことが無いので、結構な歓声が上がっていた。
「バタフライって凄く効率の悪い泳ぎ方のような気がする」
「下手な人がやるとそうだけど、奥村先生みたいに上手な人がすると、実はとても効率がいいらしいよ」
「へー」
授業が終わった後は、晃も日和も美奈子・秋奈・五月たちと一緒に女子用ロッカールームに入る。晃は個室着替え室の中で水着を脱いで身体を拭き、(女子用)下着と制服ブラウスにスカートを身に付けた。水着は水道の所で絞ってから水着入れに入れた。
日和も汎用品のブラウスと女子用学生ズボンに着替えて出て来た。
「ひよちゃん、下はスカート穿けばいいのに。持ってるんでしょ?」
↑誘導尋問
「え〜?持ってはいるけど、男子はスラックスという規則だし」
↑きれいに誘導に引っかかっている。
「ひよちゃんがスカート穿いてても先生たち誰も注意しないと思うよ」
「そうかなあ」
などと言って、日和は悩んでいた。
この子が女子制服で学校に出てくるのは時間の問題だなと晃は思った。
しかし今日は日和のお陰で、ドキドキの女子水着デビューした晃はあまり目立たなくて済んだ!
この日、日和が付けていたパレオについて、女子たちは
「ちんちんがあるのが目立たないように付けたのではなく、ちんちんが無いことを確認されないように付けたのでは」
と推測していた。
日和にはどうも生理があるようだ、というのも女子の間では噂になっている。
7月15日(金).
真珠と初海は千里のVolvo XC40を借りて輪島市の朱雀林業まで往復し、明日から金沢市内のショッピングプラザで始まる“ビスクドール展”に出品する“VIPドール”たちを薫館長から預かり金沢に運んだ。今回、ウォーキングドールのマリアンも行くことになる。スイスイ1号は輪島でお留守番である。スイスイ1号は人形たちの“お父さん”である。
VIPドールたち以外の展示する人形は、テレビ局が手配した業者さんの手で運ばれた。ただし梱包を解くのは、真珠が招集した!TIF(*42) のメンバーとH高校ミステリーハンティング同好会のOGたちの手で行われた。
(*42) TIF = Toyama Ishikawa Feminines. 真珠のバイク仲間たちの自称。石川県東部・北部、富山県西部のメンバーが多い。
7月16日(土).
彪志が伏木にやってきた。彼は自分のフリードスパイクで郷愁飛行場まで行き、朝一番のHonda-Jet
Blackで能登空港に来たので、千里がVolvo XC-40で迎えに行った。
つまり対応したのは最近北陸の案件を担当している4番ではなく6番である。2Aが妊娠して以来、6番は芸能関係の大半の打合せをこなし、またこの手の作業にも多く借り出されている。実は今週末、千里4は地元(兵庫県)で大会に出ていたので、6番の対応となった。千里3は日本代表の合宿中である。
11時頃、彪志と千里は伏木の青葉邸に到着する。青葉が迎えに出る。
「ごめんねー。私が迎えに行くつもりだったけど、妊婦は休んでなさいと言われたし、実際は休む暇もなくアクアのアルバムの制作やってるから」
「そちらが大変そうだ」
それで、青葉、桃香、千里、彪志、朋子がリビングに集まり話し合う。
「これ母子手帳と妊娠診断書」
と言ってそれらを見せる。
「避妊に失敗したのかなあ」
「そうだと思う。御免ね」
と青葉は謝るが
「いや、僕の方こそ謝らなきゃ。青葉、それでなくても忙しいのに。水泳はどうするの?」
「出産まではお休みするしかないね。出産してからまた頑張るよ」
「うん」
「しかし妊娠中は自動的に水泳がお休みになるし、テレビ局もお休みだろうから青葉にとっては逆に良い休暇になるのでは、とこちらでは言っていた所なんだよ」
と桃香は言う。
「それはあるかもね!青葉はあまりにも忙しすぎたよ」
と彪志。
「それで予定日は・・・3月15日か」
と彪志は診断書を見ながら言ったが、桃香が言った。
「震災の12年後、3月11日に出て来たりしてね」
「あるかも!」
と彪志も言った。しかしあれからもう12年かと彪志は感慨深げに思った。
彪志の親戚や友人で亡くなった人も多数居た。
「それで彪志君、結婚してくれる?」
と桃香が訊いた。
彪志はそのことまで考えていなかったようで一瞬考えたが
「もちろん。いつ結婚式あげる?」
と訊く。
「結婚式より、この場合、先に籍を入れてしまったほうがいいと思う」
と桃香。
彪志は再度少し考えたが
「確かにそうだ。挙式の日程はあらためて考えるとして、早急に婚姻届けを出そう」
「彪志さんの御両親とも話し合いが必要だよね」
「うん。来週にも向こうに行って話し合ってくる」
と彪志は言ったが、千里が
「来週と言わずに明日にも行って来ない?」
と言う。
「明日ですか?」
千里は青葉が妊娠記者会見を開かなければならないことを説明し、そのためには1日も早く婚姻届けを出す必要があることを説明した。
「きゃー記者会見ですか!」
「私も行くよ。お母ちゃんと桃香も同行する?」
「そうだね。行こうか」
「だったら明日朝いちばんに、能登空港から花巻空港に飛ぼう」
と千里は言う。
「その手があるか」
「だから行くのは、私と桃香、お母ちゃん、彪志君の4人」
「え?私は?」
と青葉は言うが
「妊婦を飛行機に乗せる訳にはいかないし、そもそも長旅はさせられない」
と桃香に言われた。
えーん。私もしかして出産まではあれこれ制限付き?
「そもそも青葉はアルバム制作で忙しい」
と千里。
「そうなんだよね。できるだけ早くアクアに楽曲を渡したいんだけど。今遅れ気味で。身体が2つほしいくらい」
などと青葉は言っている。
「青葉が2人になると子供が2人産まれたりして」
と桃香。
「え〜〜!?」
千里はすぐパイロットのエリッサに電話し、明日できるだけ早い時間に能登から花巻にフライトしたいから、飛行許可を取ってと言った。
「花巻から先は?」
「夕方できるだけ遅い時刻に花巻から熊谷。月曜の夕方18時くらいに熊谷から能登。帰りは翌日火曜日に熊谷にフェリー(回送)」
「了解でーす」
「よろしく」
桃香は言った。
「向こうの御両親とも、少し揉める可能性があるけど、婚姻後の住所・住民票をどこに置くのかが問題だ」
「戸籍と住民票ね」
と千里が訂正する。
「今私何て言った?」
「住所と住民票」
「同じことじゃないか!」
「まあよくある言い間違い」
「出発と離陸の時刻とか」
「出産と分娩とか」
「白とホワイトの塗料とか」
「パソコンやPCからなら簡単に操作できるとか」
「うーん・・・」
「戸籍は浦和に置くのがいいと思う」
と千里は言った。
「それが妥協点かもね」
と朋子も言った。
「結婚しても彪志君は仕事の都合で浦和を離れられない。青葉も北陸から動けない。だから取り敢えず戸籍は盛岡と高岡の中間の浦和に置いておけばいい」
と千里。
「浦和なら母も妥協する気がします」
と彪志も言った。
「住民票はどうする?」
「結婚する以上2人とも同じ場所に置くしかないからなあ」
「それも浦和に置こうよ」
と青葉は言った。
「いいの?」
「でも私はここにずっと居る」
「つまり書類の上でだけ浦和に住民票を置くのか」
「それなら何とかなりそうだね」
「だから結婚してもリモート夫婦」
「俺はそれでもいい」
「じゃその方向で向こうの御両親とも話し合おう」
彪志は母に電話を入れた。青葉が妊娠したというのを聞いて、文月は仰天していた。
「青葉ちゃんって妊娠できるの?」
「現に妊娠している」
「それどうなってんのよ?」
「合理的な説明は困難だけど、妊娠しているという事実だけでいいと思う」
「うん。私もそれでいいことにする」
「婚姻届けの提出と結婚式の日程について話し合いたいから明日そちらに行きたいんだけど」
「美容院行って来なくちゃ!」
この日のお昼は、千里が彪志を迎えに行っている間に朋子が買ってきていたトンカツを温めて食べた。容子と紀子もこちらに呼んで9人で食べる。
青葉・彪志・千里・桃香・朋子・由美・緩菜・容子・紀子
千里がお味噌汁を作り、御飯も盛って配った。
「こういう多人数での食事はここ2年くらいほとんどしてなかった」
と容子が言う。
「でも春から女子寮も人数制限が緩和されたし、来年の春くらいにはほぼ自由になるかもね」
と紀子。
午後からは青葉・容子・紀子はスタジオに籠もり、桃香は自分の部屋に入って添削の仕事をする。千里はXC-90に彪志・朋子・由美・緩菜を載せて、近くの氣多神社(越中国一宮)に行き、参拝して安産の御守りを頂いてきた。その後、朋子も美容院に行った。
XC90を使ったのは、チャイルドシートの関係でXC40には4人しか乗らないからである。
妊娠が判明したので、千里はコスモスに連絡して話し合い、青葉は夜9時には寝せることにした。この日はその後を千里が引き継ぎ、容子・紀子を使って作業を進めた。基本的には楽曲を南田容子に試唱させて、それを聞いた上でスコアに調整を掛けていく。紀子は雑用係で、夜中にコンビニまで行っておやつを買ってきたりもしている。
また歌詞や楽曲をシステムに入力する作業もできるようになっていて、今回は初期には2人で手分けして入力してくれた。だからスタジオには青葉のパソコン、容子のパソコン、紀子のパソコンが並んでいる。
現在アルバムに収録する候補曲は13曲あるが、まずは映画に関係している『お気に召すまま』『私を口説いて』『ごめんね。私女の子だったの』の3曲はこちらの作業レベルでは完成して花咲ロンドに送っている。後は東京でまずはエレメントガードが伴奏を作り、アクアの時間が取れる時間帯に順次録音していく。
『沖に娘だ』は『お気に召すまま』のパロディだが、この曲については千里と花ちゃんとの話し合いで、先に舞音に歌ってもらい、アクアはそれを逆カバーすることにした。それでアレンジに関しても花ちゃんに投げている。それを招き猫バンドが演奏して舞音の歌を載せ、そこまでできた所で、伴走は流用して、それにアクアの歌を乗せる作業進行になる。
7月16日の夜は、千里の指示で『金色の太陽』のスコアをほぼ完成させて夜の1時くらいに寝た。この曲は千里が書いた曲である。書いたのは1番で、この日スタジオで作業したのは6番だが、6番は制作をしながら1番もほんとによく復調してきたなと思った。
翌日、7月17日(日).
美由紀にバイト代3万円でお留守番(緩菜と由美の見守り)を頼み、千里は自分のXC-40に朋子・桃香・彪志を乗せて能登空港に向かう。千里・桃香・朋子は訪問着を着た。彪志は実家に今週行くとは思ってなかったので適当な服である。
能登空港からはHonda-Jet
Blackに乗り込み、エリッサの操縦で花巻に飛んだ。花巻空港には彪志のお父さん・鈴江宗司(65)が迎えに来てくれていたので、彼のホンダ・グレイスに乗って、盛岡郊外にある鈴江家に行った。
「大変ご無沙汰しておりました」
と朋子が挨拶。お土産に『福うさぎ』を渡す。
一同は家の中にあげてもらって、まずは仏檀にお参りする。千里が「御仏前・川上青葉」と書いた封筒を仏檀に置いたが「何か厚そうだ」と思って彪志は見ていた。
お茶を頂き、手土産に持って行った“福うさぎ”を開けて頂いた後、仕出しが取られていたので、それも頂きながら本題に入る。
まず彪志と青葉を結婚させることは問題無く合意となる。
彪志は2019年7月6日、青葉にエンゲージリングを贈っており、青葉はお返しに彪志にオメガのスピードマスターを贈っている。それで結納式はもう今更省略することにした。
本来なら婚約した段階で挙式の日程など決めるべきだったのだが、青葉は当時、世界水泳、短水路選手権、インカレ、などの大会が目白押しで、代表合宿も続き、平行して卒論をまとめていてとても時間が無かった。更に東京オリンピックの代表有力候補だったのでオリンピックが終わってから具体的な話はするつもりだった。
ところがオリンピックは延期され、思いがけず金メダルを取ったので水連の説得でパリまで現役を続けることになった。それで結婚式も保留のままになっていたことを彪志と千里があらためて説明した。
本籍を置く場所について、桃香から現在彪志君が住んでいる浦和に置くというのではどうかという案が出され、お父さんが
「僕も考えていたけど、それがいいと思う」
と言うので、お母さんはやや不満そうだったが、それで合意に達した。
この戸籍の置き場所がやはり最大の問題だった、住民票も同じ場所に置くことで合意する。ただし青葉は仕事の都合もあり、北陸を離れられないので遠距離夫婦にならざるを得ないと千里が説明し、これもお父さんが
「やむを得ないでしょうね」
と理解してくれたので、これもお母さんは不満がありそうだったが合意に達した。
あとは“時期”の問題となる。
千里は、青葉が“公人”なので、できるだけ早い時期に、妊娠して水泳を一時期休むことを記者会見を開いて説明する必要があるので、できたらすぐにでも婚姻届けを提出したいと説明した。
「記者会見まで開かないといけないって大変だね!」
「オリンピックの金メダリストですからね〜」
しかしお父さんは理解を示してくれて、その場で、既に本人たちの分は記入されている婚姻届けの証人欄に、署名捺印をしてくれた。朋子も署名捺印をして、いつでも提出できる状態にする。
「結婚式はいつあげましょうか」
と朋子。
「結婚式も早めにやっちゃいましょうよ」
と宗司。
「いい日取りあります?」
「調べてました。取り敢えずこれは土日になる吉時です」
と千里がリストを見せる。
2022.07.31(日.先負.みつ) 6:45-18:46
2022.08.06(土.先負.なる) 13:01-18:41
2022.10.01(土.友引.みつ) 11:06-17:25
2022.11.26(土.先勝.なる) 8:58-16:29
2022.12.03(土.友引.たいら) 13:40-16:27
2022.12.25(日.友引.たつ) 8:43-12:09 16:14-16:33
「9月には、いい日は無いですか?」
とお父さんが訊く。
「9月はこれですね」
と言って千里は平日を含むリストを見せる。
2022.08.31(水.赤口.なる) 8:42-18:10
2022.09.02(金.友引.ひらく) 10:53-18:08
2022.09.06(火.赤口.みつ) 15:23-18:02
2022.09.07(水.先勝.たいら) 16:18-18:00
2022.09.29(木.赤口.たつ) 8:45-17:28
2022.10.01(土.友引.みつ) 11:06-17:25
「ま、実を言うと、青葉の関係者には芸能人が多く、芸能人は土日より平日のほうが助かるんですけどね」
「なるほどー!」
とお父さんは感心していた。
「これ結婚式さえこの時間帯に入っていたら披露宴は少し外れても大丈夫ですよね?」
と宗司。
「はい。ただの宴会ですから」
と千里。
「でしたら9月2日・金曜日の11時くらいに挙式で夕方から披露宴というのではどうです?」
と宗司は言った。
「確かに8月6日では慌ただしすぎますよね」
と朋子も言い、9月2日に挙式・披露宴をすることにした。そして婚姻届けは連休明けの7月19日(火・友引・みつ)にも提出することを決めた。またコロナがまだ落ち着かないので、披露宴はネット形式で行うことも決めた。
結婚式の場所としては“中間地点”という趣旨から、千里が名誉副巫女長を務める、越谷F神社でしようということになり、千里が辛島宮司に電話を入れて了承された。友引ではあるが平日の日中なので空いていた。
披露宴は越谷の小鳩シティの空いているスタジオを使うことにして、予約を入れた。103スタジオが取れた。ここならネット中継施設がある。
婚姻届けの提出日、結婚式・披露宴の日取りが決まった所で千里は青葉に連絡を入れ、青葉は石崎部長に連絡した。
「だったら水連への産休届は婚姻届けを提出した後で行おうか」
「はい、分かりました」
「記者会見する必要があるかも知れないよ」
「はい、それはやります」
7月16-17日(土日).
富山県内を複数の地区に分けて、各々の中で試合をする高校バスケットの地区リーグが行われた。会場はその地区の幾つかの高校に分散して実施される。
高岡地区には、高岡市内に10校、射水市に4校、氷見市に2校の合計16校の高校・高専があるが、今回の地区リーグには男子12校、女子10校が参加する。
日程は1日目は、比較的近くの高校同士で総当たり戦またはノックアウト方式の予選をおこない、2日目は予選の順位ごとに1位リーグ、2位リーグ、3位リーグ、4位リーグで順位戦をおこなうということになっている。
男子は12校なので、3校ずつの4つのリーグが行われた。女子は10校なので、H南高校の属する北部地区4校だけノックアウト方式(3決あり)、中部地区と南部地区は3校での総当たり戦となった。
4位校は明日は非公式参加のJ高専と対戦する。高専は現在共学化されているので女子バスケ部もある。このリーグに参加するのは2004年度以降生れの選手で構成したチームである。
春貴は金曜日の午後の練習で部員たちに登録名簿を提示した。この大会は18人まで選手登録できるがそんなに部員が居ないので登録したのは13名+3である。
4 谷口愛佳 153 PG
5 高田舞花 159 C
6 山口夏生 154 SF
7 竹田松夜 155 PF
8 原田河世 165 C
9 鶴野五月 152 PG
10 綾野美奈子 158 SG
11 高田晃 167 PF
12 砂井梨央 163 C
13 菓子弥生 161 F
14 山口一恵 158 PG
15 藤永弘絵 154 F
16 津田秋奈 162 F
-- 吉川日和 Trainer
-- 青木海里 Assistant Coach
-- 湖中弓樹 Manager
海里と弓樹は男子の選手18人枠には入れないので、こちらに連れてきてマネージャーおよびアシスタントコーチとして登録した。彼らは実はモッパー要員である!彼らも背番号を着けていない女子バスケット部のユニフォームを着せている。
「ぼ、ぼく選手なんですか?」
などと晃が戸惑うように言っている。
「当然当然」
「ぼく男の子だったのに」
「お医者さんの診断で完全な女性と確認されたし、学校の登録も女子生徒だから全く問題無い」
「え〜!?」
本人はまだ「いいのかなあ」みたいな顔をしている。
一方、日和は
「ぼくトレーナーで良かったぁ」
などと言っている。彼女(たぶんもう彼ではない)の場合は性別問題より体力・運動能力の問題で選手にするのは困難だ。
彼女は本来マネージャーなのだが、選手以外でベンチに入れるのが、コーチ、アシスタントコーチ、マネージャー、トレーナーまでである。この中で女子選手たちのトレーナーに男子を使うわけにはいかないので、ほぼ女子である日和を使うことにして、男子2人をマネージャーとアシスタントコーチとして登録した。日和は体力が無いのでモッパーにも使わない。
1日目・北部地区の女子の試合は高岡市北部の高岡L高校で行われた。
H南高校の女子バスケ部員は8時に学校に集合し、松夜のお父さんが運転するマイクロバス(こぶたぬき号)でL高校に向かった。なお男子の方だが
「奥村先生、ファイアーバードに駐めてあるマイクロバス、ひょっとして使っていい?」
と横田先生から尋ねられ
「おんぼろですが、それを気にしなければ」
と春貴が答えたのでそれで移動することにした。
「男子が“こぶたぬき号”でもいいですが」
と言ったが
「いや、さすがに恥ずかしい」
と坂下君が言って、男子がオンボロのバス(仮称“ベテラン号”)を使うことになった。
会場への入場は例によってベンチに座るメンバーのみである。それでこの大会では全員生徒手帳を見せて入場することになる。
1列に並び、ひとりずつ生徒手帳を示し自分の名前の所を指差す(声には出さない)。晃はドキドキしながら女子制服姿の写真が貼られた生徒手帳を提示して11番の所を指差す。係(L高校の生徒)が丸を付ける。
“日和まで自分の生徒手帳を見せて入場した後”、青木海里が生徒手帳を見せると
「男子ですか?」
と驚いたように訊かれる。
「ぼくアシスタントコーチです」
「分かりました。了解です」
湖中弓樹もやはり生徒手帳を見せて
「ぼくマネージャーです」
と申告し、2人とも入場することができた。
男性のアシスタントコーチは普通だし、男性のマネージャーもたまに居るので大きな問題は無い。
もっともこの日、実際にマネージャーの仕事をしたのは晃である。春貴の隣に座ってスコアを付けながら、選手の出場時間を報告したり、相手チームの選手情報を伝えたりしていた。連絡事項でマネージャーが招集された時も晃が行った。
晃はふと入場時に日和が「男子ですか?」と聞かれなかったことに気付いた。あの時、日和は普通に入場できて、次の海里の所で性別を確認されたのである。どうなってんだろう?
1回戦は、H南高校−高岡L高校、氷見H高校−J北高校の組み合わせで試合が行われる。この2つの試合では、今日は試合が無いJ高専女子の部員がテーブルオフィシャル、会場校であるL高校の出場しない男女部員がモッパーをしてくれた。
「なんかモップ拭きが適当」
「美しくない」
「まあ下位の試合ではこんなもの」
「美しくコートキープするのって高い技術なんですね」
「そうだよ。君たちも高いレベルを目指そう」
1回戦・高岡L高校との試合。
こちらは、舞花・河世・美奈子・梨央・一恵というメンツで出て行く。舞花がキャプテンマークを付ける。晃は自分が指名されなかったのでホッとしていたようだ。春貴は彼女を今日の試合で使うつもりはないが、緊張感を持たせるため、そのことは言わない。
試合はわりと一方的になった。一恵が司令塔になり、舞花のミドルシュートに美奈子のスリーが調子良く決まる。河世はどんどん相手の中に入って行きランニングシュートを決める。梨央も結構決めてくれる。
一恵は愛佳が「ポイントガードの才能がある」と言ってここしばらく司令塔の練習をさせていて、この日が本番デビューとなった。五月と交替でそつなくポイントガードの仕事をこなし、期待に応えてくれた。
点数が離れていくので、他の選手も随時投入していく。弘絵も第2クォーターと第3クォーターで各々3分くらいずつ出して試合に慣れさせた。
試合はダブルスコアでH南高校が勝った。
控室に入り、全員下着とユニフォームを交換する。1回戦ではアウェー扱いで赤いユニフォームを使ったが、決勝戦はホームになるのでレモンイエローのユニフォームを使う。早速新しいユニフォームが活躍している。
女子選手たちが着替えている間、日和、海里、弓樹は壁を向いてユニフォームだけ交換していた。女子たちは見ようと思えば彼らの着替えが見えるが、一応見てない(という建前である)。日和がブラジャーも着けて完全に女子の下着であったことは多くの女子部員が目で確認し頷き合っていた。
着替えが終わったところでみんなお弁当を食べる。男子3人は隅のほうで食べ始めたが、美奈子が日和を1年女子の輪の中に強制連行し、一緒に食べる。この輪の中にはむろん晃もいる。
「ヒヨちゃん可愛いお弁当だね。お母さんが作ったの?」
日和のお弁当はラブパトリーナのツバサ?のキャラ弁である。結構複雑な造形がそぼろ、炒り卵、桜でんぶ、青のり、で作られている。焼き海苔、グリーンピース、かまぼこ、プチトマトなども使用されている。
「ぼくが作ったぁ」
「型紙とかあった?」
「型紙もぼくが作ったぁ」
「すごーい。ヒヨちゃん絵が上手いんだね」
「でもこんなに少なくて足りる?」
「ぼくあまり食べないから」
「たくさん食べないと、おっぱい大きくならないぞ」
「そうかなあ」
「今それAカップでしょ?」
「ううん。まだAAカップ」
「来年までにはBカップにしよう」
と言うと、俯いて恥ずかしがっているので
「可愛いー」
と言われていた。
午後からは決勝戦と3位決定戦が同時に行われる。決勝戦のT/OをしてくれたのはJ高専の4-5年生の選手だった。モッパーは引き続き高岡L高校の出場していない選手である。モップ掛けが適当なのは愛嬌である。
決勝戦の対戦相手はJ北高校であった。ここはインターハイの予選では3回戦まで行った(BEST16)。そこそこ強いチームである。
現時点での最強布陣、愛佳・舞花・夏生・河世・美奈子というメンツで出ていく。この相手とは結構競るかなと思ったのだが、点数はじわじわ離れていく。1Q 16-20 2Q 16-18 3Q 18-22 4Q 16-24 ということで、合計66-84 という18点差で快勝した。最終クォーターは向こうが力尽きた感じだった。
春貴はうちの女子バスケ部が充分実力を付けてきていることを確信した。
そういう訳でこちらは1位になった。明日高岡C高校と対戦できるかは向こうの結果次第である。
控室で試合用のユニフォームを練習着に着替えていたら、他の地区の結果情報が入ってきた。西地区1位は高岡S高校、そして南地区の1位は高岡C高校だった。インターハイ予選の再現のような組み合わせである。この相手なら2敗して3位というのもあり得る組合せだ。
2日目の会場は高岡S高校の体育館と連絡があった。
7月17日(日)。やはり朝8時に集合して松夜のお父さんの運転する“こぶたぬき号”で会場に向かった。そして今日も生徒手帳を見せながら入場した。昨日同様、日和は何も言われず、海里と弓樹は性別を確認されるので
「アシスタントコーチです」
「マネージャーです」
と申告して入場した。
春貴は晃に通告した。
「C高校との試合ではルミちゃん使うから」
「はい」
と素直に返事する。彼女も少しは覚悟を決めたのだろう。
「君の性別のことは矢作監督にも話している。それでぜひうちとの試合には使ってと言われたから使う」
「そうだったんですか」
それで晃は初めて女子の試合に出ることになった。
この日は最初に9:00から高岡C高校とH南高校の試合が行われる。
テーブルオフィシャルは高岡S高校のチームが務める。またモッパーは会場校・S高校の試合に出ない部員が務めた。
「美しい」
「さすが強豪校はモッパーも上手い!」
と1年生たちから声が出ていた。
試合が始まる。スターターはこのようになった。
C高:分家★/鷹野/府中/初瀬/寺下
H南:愛佳★/美奈子/舞花/晃/河世
寺下さんと河世のティップオフはまた寺下さんが勝ち、向こうが先に攻めて来る。相手SF府中さんのシュートを晃がきれいにブロック。それを河世が取り舞花にパス。舞花が自らドリブルで速攻する。しかしギリギリで追いついたPF初瀬さんがブロック。こぼれたボールをSF府中さんが取ってまだ戻りきっていなかったC寺下さんにパス。寺下さんがシュートするが今度は河世がブロック。こぼれたボールを愛佳が取り、美奈子にロングパス。美奈子が美しくスリーを決めて、やっと点数が入った。
0-3
とこちらが先行した。
その後も両校はお互いに攻めるものの、どちらもしっかりブロックするので、なかなか点が入らない。第1クォーターを終わって点数は10-9と物凄いロースコアであった。春貴も矢作監督も厳しい顔をしていた。
第2クォーターに入っても似たような状況が続く。どちらもよく守る。何度かスティールされたので、シュートの数は向こうが多いのだが、河世と晃がよくブロックするので、なかなか点が入らない。それで強敵のC高校と競っていくのである。第2クォーターは 11-10 で前半を終わって 21-19 と2点差である。
第3クォーター。向こうは何か仕掛けてくるかと思ったが、特に奇策は採らない。オーソドックスな攻守を見せていた。このクォーターは 8-9と、こちらが1点上回った。こまでの合計は 29-28 と1点差である。
第4クォーター。矢作監督はとうとう動いた。
ゾーンを組んできた。但しPFの初瀬さんを美奈子に専任で付けるボックス1(*43)である。残りの4人でゾーンを組む。
(*43) 卓越した選手(シューターや外人センターなど)に1人専用マーカーを付けた上で、残りの4人でゾーンを組む戦法。ここで4人が長方形状に配置されるのをボックス1と言い、菱形に配置されるのをダイヤモンド1と言う。
H南高校が事実上のダブル・センター(河世と晃)で攻めているので、矢作監督は、ゴール近くの守りか堅いボックス1を採用した。
ゾーンは守備としては堅いが、各選手の運動量がどうしても大きくなり消耗も激しいのが欠点である。特に主力と控え選手の間に力量の差がある場合は、主力は物凄く消耗し、長時間はできない。だから第4クォーターになるまで矢作監督は我慢していた。
こうなると、相手の陣地に入れるのは実質河世だけである。晃は中には入れてもシュートを決めきれない!だいたいブロックされてしまう。基本的に妨害役の練習しかしてないから、妨害にめげず点を取る練習はあまりしていない!
美奈子は初瀬さんにほとんど抑えられた。それでこちらの得点がほぼ停まる。その間に向こうは着実に得点する。こちらは元々攻撃型のチームなので防御はあまり得意ではない。
それで第4クォーターは12-3 と一方的な試合になった。3点は美奈子のスリーが1本決まっただけである。それで合計 41-31 で10点差で敗れてしまった。
しかし春貴は“全力の”高岡C高校を見たと思った。女王が本気を出して、こちらを粉砕したのである。試合が終わり、高岡C高校の勝利が告げられても相手選手にも矢作監督にも笑顔は無かった。向こうもとても余裕が無かったのである。
それでも両軍の選手たちは試合後握手し、あるいはハグしあって健闘を称えた。
「負けたぁ」
「でも凄い試合だった」
「向こうの本気の本気を見た感じ」
「多分向こうはインターハイと同じような感覚で戦ったと思うよ」
「うん。凄かった」
それで着替えた後、もうお弁当を食べちゃった!カロリー補給しないと身体がもたない感じだった。物凄く消耗した。主力8人(愛佳・舞花・夏生・松夜・美奈子・河世・梨央・晃)はそのまま仮眠を取った。
第2試合まで1時間ほどあるので、春貴は男子の2人にお金を預けて駐車場で待機している松夜のお父さんの所に行かせ、コンビニを2軒まわって!お弁当を20個とペットボトル30本にパンをたくさん、調達してきてもらった。
日和を行かせないのは、マネージャーは事務連絡で呼び出されることもあるし、彼女は、腕力が無いから、こういう用事には役に立たないのもある。
昨日の試合では晃がマネージャー役を務めたのだが、今日は晃を選手で使ったので、日和(登録上はトレーナー)にマネージャーを務めるように言っておいた。
11:00から、H南高校と高岡S高校の試合である。高岡C高校の選手がT/Oを務めるが、15-18番の選手がこれを務めた。たぶん主力は消耗してとてもT/Oなどできない状態だったのだろう。
H南高校も主力が体力を回復していないので春貴は不本意だったが、夏生・松夜・五月・梨央・秋奈というメンツで始めた。こちらが主力を使わずにきたことで向こうはやや憤慨している感じだったが、愛佳や美奈子はとても稼働できない状態だったのである。
しかし控えセンターの梨央がしっかりティップオフに勝ち、夏生がスリーを美しく決めてこちらの先行でゲームは始まる。
最初は少し競ったものの、少しずつ相手を突き放していくことができた。先の試合で消耗した選手の中で体力のある河世と舞花は短時間使用した。でも愛佳と美奈子は最後まで使わなかった。この試合では2年生の夏生と松夜が交代でキャプテンマークを付けた。またポイントガードは一恵と五月が交替で務めた。
それでもH南高校は高岡S高校に 60-71 で何とか勝つことができた。このメンツで県内でもトップクラスのチームのひとつに勝てたことから、やはりうちのチームの底力が付いてきていると春貴は思った。
この試合が終わった後、海里たちが買ってきてくれたお弁当をみんなで食べた。河世・梨央・舞花などはお弁当を2個きれいに平らげた。2個目のお弁当を分けて食べてる子たちも多かった。パンもたくさん買ってたのに、あっという間に無くなった。ペットボトルもきれいに無くなりまた買ってきてもらった。
13:00から第3試合、高岡C高校と高岡S高校の試合が行われる。テーブルオフィシャルはH南高校が担当するので、夏生(24)・松夜(AS)・晃(S)・五月(Timer)の4人が制服(もちろん全員女子制服)を着て務めた。愛佳と舞花はまだ疲れが取れてないようだったので休ませておいた。五月は高校でのT/Oは初体験で緊張したと言っていたが、何とか無難にタイマーを務めあげた。
またモッパーは、弥生・秋奈・海里・弓樹の4人が務めたが正確に務めることができた。何度か試合中の清掃に出遅れて注意されたが概ねは問題無かった。4人が揃って走り最後はピタリと真ん中で終了する所は「美しい。さすが強くなってきた学校だけのことはある」と褒められていた。
試合が始まってから、H南の部員たちや春貴は気がついた。
「あれ?矢作監督は?」
「居ないね。どうしたんだろう?」
「第1試合で消耗してダウンしてるとか」
「ありそうで怖い」
キャプテンの分家さんがコーチ兼任で試合は行われていた。
この試合で高岡C高校は何とS高校に 70-61 の9点差で負けてしまった。S高校は大喜びしていた。どうも勝てたのは3年ぶりだったらしい。
やはり主力の疲れが取れてないから?と春貴は思った。それに何ヶ所か作戦ミス・選手交代ミスみたいなのも見られたので、矢作監督不在というのも大きかったのだろう。
「3チームとも1勝1敗?」
「これどうなるの?」
「得失点差だね」
本部前に得失点表が張り出された。
高C__H南__高S
高C ----- 41-31 61-70
H南 31-41 ----- 71-60
高S 70-61 60-71 -----
W L for agn dif
高C 1 1 102 101 +1
H南 1 1 102 101 +1
高S 1 1 130 132 -2
「なんて際どい点差なんだ!」
「ほぼ横一線」
「1位高岡C高校、2位H南高校、3位高岡S高校」
と発表される。
「うちと高岡C高校で得失点差が同じなのに?」
「その場合は両者の直接対決での勝敗で順位が決まる。うちと高岡C高校の対戦で高岡C高校が勝ってるから高岡C高校の優勝」
と晃が説明する。
「そんな規則があるのか!」
この順位の決め方は晃と五月だけが知っていて、春貴まで「へー」と思った。
しかし全員整列して表彰式が行われた。1位の賞状を高岡C高校の分家主将が、2位の賞状を愛佳が、3位の賞状を高岡S高校の園田さんが受け取り、お互いに握手を交わした。
矢作先生は表彰式にも姿を見せていなかった。春貴と愛佳が分家キャプテンに声を掛けた。
「矢作先生、どうなさったんですか」
「それが第2試合の最中に突然倒れて。すぐ保護者の車で病院に運んだんですよ。私もこれから連絡を取ってみます」
「大したことなければいいですね」
「はい。ありがとうございます」
7月19日(火).
桜坂の口座に宝くじの当選金が振り込まれてきた。桜坂は早速行動を開始した。店舗の改装費用をサラ金から借りていた100万円をまず全額返済し、あわせてカードは解約した。それから銀行から借りていた50万円(旧店舗をリニューアルした時の改装費用の残額)を全額返済。ローン専用カードも解約した。こういうのを持っていると、誘惑に負けて使ってしまう危険があるので、自らの退路を断つのである。
そして妻に
「借金があったら全部言って」
と言った。
「ごめんなさい、実は」
と言って、3ヶ所から合計150万円借りていたことを告白した。桜坂は自分に言えない状態で無理してたんだなあと思った。それでふたりで一緒に返済してまわった。ローン専用のカードは解約させた。
また、ピアノのローンが20万残っていたのを繰り上げ返済した。
これで“借金の返済”が完了する。桜坂は次の優先は慰謝料と考えた。
桜坂は火傷した少女の親に
「200万円くらい慰謝料を払いたい」
と申し出たが、
「跡が残らずに完治したので、慰謝料は不要。治療費を持ってもらい、先日の御見舞金だけで充分です」
という返事であった。
それで桜坂は少女の完治祝いにと言って彼女に総銀のフルートを(本人の望む品番のもので)買ってあげた。
「ありがとうございます。フルートの練習頑張ります。なんか指が前よりよく動く感じなんですよ」
「それは良かった」
桜坂は娘からも
「お父ちゃん、私も総銀フルート欲しい」
と言われたが
「来年まで待って」
と答えておいた。
桜坂は井原さんと話し合った。
「井原さんの御自宅ですが、20坪なので、例えば300万くらいで買い取るという線ではどうでしょうか?」
「それ私も考えたんですけど、賃貸ということにはできませんか?私も主人を通して“琥珀”に長年関わって来たので、売り渡してしまうと縁が切れてしまう気がして寂しいので」
「それでもいいですよ。賃料はいくら払いましょうか」
「じゃ月1万円で」
「安すぎる気がします」
「それ以上頂いたら、桜坂さんとしては買い取った方がマシな金額になりますし」
それでこの件は井原さんの好意に甘えることにした。
「それから亡くなった御主人の退職慰労金として250万円お支払いしたいのですが」
「2ヶ月しか働いていないのに!」
「昨年の解雇の段階で父は50万しか退職金をお支払いしていません。それは20年以上働いて下さった御主人への退職金としては少なすぎます。その分の補填もしたいのです」
井原さんは深くお辞儀をして
「助かります。頂きます」
と言った。それで桜坂は彼女に250万円を支払った。
「これ娘が建てる家の建築費の足しにあげようかな」
などと井原さんは呟いていたが、桜坂は言った。
「差し出がましいですが、退職金をもらったことは黙っておいて、娘さんたちが本当に苦しい時に助けてあげた方がいいと思います」
井原さんは一瞬考えてから言った。
「絶対そっちがいいですね!」
以上で1000万円の内、約2/3の620万円を使い切った!
新店舗の改装費 100万円
旧店舗改装費の残額 50万円
妻名義の借金 150万円
ピアノローン残額 20万円
火傷した少女へ慰謝料代りの贈り物 50万円
井原さんへ 250万円
今年度末、長女は高校受験である。本人は金沢かせめて七尾の進学校に行きたいと言っている。
新店舗の運転資金も必要である。
桜坂は妻に言った。
「ねぇ、宝石は来年にしてもいい?」
「いいよ。来年が20周年だもんね」
(潜在的借金!娘のフルートも!こういうのは概して利子が高い!!)
盛岡に行った千里たちだが、その日の夕方、また宗司に花巻空港まで送ってもらい、Honda-Jet
Blackで熊谷の郷愁飛行場まで飛んだ。千里は用事があると言って熊谷に残り、彪志のフリードスパイクに朋子と桃香が同乗して浦和に行く。朋子は久しぶりとなった京平・早月と交款していた。朋子はまただいぶお腹が大きくなって来た“こちらの千里”(8ヶ月)の身体も気遣っていた。
翌日は西武園遊園地に行き、15時くらいまで遊んだ。その後、子供たちは彪志に預けて、桃香・朋子は熊谷に移動する。ここで千里と合流し、18時の飛行機で能登空港に飛び、千里が運転するXC40で伏木に戻った。
7月19日(火).
連休明け、彪志は有休を取って朝一番に、天野貴子の車でやってきた(本当は転送されてきた)青葉と2人で浦和区役所に出掛けた。そして青葉の転入届と2人の婚姻届けを提出した。書類は問題無く受け付けられ、青葉と彪志は法的に夫婦になった。
青葉は震災後の2011年4月に伏木に転居して以来、11年間高岡市民だったが、これで生まれ故郷に戻ったようなものである。青葉の誕生地は大宮である。
但し青葉は実際には伏木に住み続ける。出産も高岡市内の病院でするつもりである。
青葉から婚姻届けを提出したという連絡を受け、石崎部長は日本水連に青葉の妊娠に伴う休養届を提出した。この“妊娠による休養届”が実は青葉にとって大きなものとなった。石崎部長は「妊娠診断書を提出してほしい」と言われたので、青葉から直接水連にFAXした。
実はこの時、日本水連では青葉の“女子としての参加資格”について再度協議が行われていたのである。青葉がオリンピックに続き世界水泳でも金メダルを取ったことで、青葉を“元男性だったのに”女子選手として認めてよいのかという議論がまた蒸し返されていた。
4月まで排斥派だった春坂黍子が
「川上選手は性転換選手ではなく半陰陽選手で、しかも小学1年生の段階で睾丸が無かったことが当時の病院の記録に残っているので、FINAの新しい基準でも問題無く女子選手として扱われる」
と説明するが、委員の中にはその情報に疑問を示す人たちも居た。
ところがそこに、川上青葉が妊娠したので休養したいという届けを出したという報せが飛び込んできたのである。
「妊娠したということは間違いなく女なのでは」
「だいたい川上選手は身長が161cmで女子選手としても小柄ですよ。“男性だった時代の名残の有利な体格”なんて全く存在しませんよ」
ということで、青葉の参加資格には問題無いという結論が再度出たのである。
それに委員の大半はこう思っていた。
妊娠出産で1年近く休めば、もうトップアスリートには復帰できないだろう。だったらそもそも問題になるようなことも今後は起きないだろう。
やはり記者会見はしてほしいということだったので、青葉は7月20日、石川県のASテレビのスタッフに代表インタビューを受ける形で記者会見をおこなった。これは全国のΛΛテレビ系列のテレビ局に生中継された。
「みなさんに期待して頂いているのに妊娠で休養することになって申し訳ありません」
「婚姻届けはいつ提出なさるんですか?」
「既に提出しました」
「挙式の日程は?」
「これから検討します」
「避妊とかはなさってなかったんですか」
「結婚するのはパリオリンピックの後にしようと言って、ずっと避妊していたのですが、失敗してしまったようです、本当に面目ないです」
「出産後に競技に復帰しますか?」
「水連の強化部長さんと電話でお話ししたのですが、私は世界水泳で標準記録を突破しているので、来年の社会人選手権と短水路選手権の出場資格があるそうです。だからそれで復帰して、パリ・オリンピックを目指します」
と青葉は笑顔で言った。
2022年7月19日(火).
OCA(アジアオリンピック評議会)は、延期が決まっていたアジア大会の新たな日程について、2023年9月23日〜10月8日とすることを決定した。
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【春零】(6)