【春春】(7)
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(C) Eriko Kawaguchi 2022-11-18
その日、歩夢がセーラー服で学校に出て行ったら、クラスメイトから言われる。
「あゆちゃん、セーラー服で登校することにしたの?」
「いや、それが出がけにお風呂場で水道を出したつもりがシャワーになっててさ」
「あぁ」
「学生服、ずぶ濡れになっちゃったから、仕方ないからこれ着て出てきた」
「なるほどー」
「お母ちゃんに異装届け書いてもらった」
「どんな?」
というので見せる。
異装届け
2年1組 川口歩夢 2022年4月11日
制服が出がけにずぶ濡れになってしまったので、今日1日、私服で授業を受けさせてください。
保護者 川口珠望
「それ、私服じゃなくて制服だという気がするけど」
「個人的にはそう思いたい」
「これを機会にもうセーラー服で登校しなよ。応援してあげるよ」
「セーラー服で登校したーい」
朝のホームルームで担任の先生に異装届けを出して事情を説明すると
「ああ、全然問題無いよ」
と担任の先生は言ってくれた。
「でもそれ私服じゃなくて制服という気がするけど」
と先生は半ば冗談のように言った。それで歩夢は言ってみた。
「私これで毎日登校してもいいですか?」
「え、えっと、それは申請書を保護者から校長に出してもらったら、話し合いの結果次第では」
と担任は焦ったように言った。
ともかくも、それで、歩夢はこの日1日、セーラー服で学校生活を送ったのである。
「私トイレどうしよう?」
実はトイレのことは何も考えていなかった。
「もちろん女子トイレを使えばいい。一緒に行こうよ」
「ありがとう!」
部活にもセーラー服で出たが
「川口さんの普通の格好じゃん」
とみんな言っていた。
実を言うと、部活に行く時は、毎日セーラー服に着替えて参加していたのである。吹奏楽部の顧問が寛容な先生だったので、それで容認されていた。そして大抵、そのまま下校していたが、先生たちは特に注意しない。
4月13日(水).
優子と夏樹は、昨夕まで基礎工事だけで何も無かった場所に、朝起きてみると立派な2階建ての家が建っていたので仰天した。その日の午後に引き渡しとなり、優子たちは慌てて準備をした。
14時ジャストに、播磨工務店の徳部と青池が来た。
まず千里が、播磨工務店の青池指定の口座に工事代金を振り込む。それで青池が千里に領収書と引き渡し証の入った封筒を渡した。それで播磨工務店の2人は帰って行った。
(千里は封筒の中身を優子・夏樹たちには見せなかったし、金額について双方何も口にしなかった。それで夏樹は、千里さんはきっと自分たちに話した金額よりかなり高い金額を払ったのではと想像した:優子は何も考えなかった!)
その後、優子の父と夏樹が各々のパソコンを操作して千里の指定する口座に合計976万を振込み、夏樹が残額の借用証を提出して取引は成立した。
ここで宮春の口座は北陸銀行、夏樹の口座は千葉銀行だったが、千里は各々と同じ銀行の口座を指定してくれたので、振込手数料が最少で済んだ。
その後、少しおしゃべりしていた時、千里に電話が掛かってくる。
「はい。あ、ちょっと待って」
と言ってから、千里はスマホをいったん保留にすると、優子に訊いた。
「緑組の金石からなんだけど、荷物の運び込みの図面は書いてくれた?」
「あ!忘れてた!」
「じゃ書いて、金石が来た時に渡してもらえる?」
「うん。ごめーん」
「運び込みは明日の夕方くらいでもいい?」
「うん。夕方の方が人がいるから」
それで千里は緑組の人に、用意しておいてもらうから現場で受け取ってと伝えていた。
「用紙ある?」
「あれ〜?どこ行ったかな」
探すが見付からない。
「じゃもう一部プリントするよ」
「ごめーん」
それで千里はバッグの中からパソコンとプリンタを出して、図面をプリントしてくれた。
その後、千里と夏樹で一緒に法務局に行き、登記を変更、あわせて抵当権を設定した。
その間に優子は母に頼んで、奏音を幼稚園に迎えに行ってもらった。一方、優子は父と2人で(2台の車で)イオンに行き、布団を2組買って帰って来た。新築祝いもしたいので、今夜両親に泊まってもらうためである。
またユニットハウスから、自分たちの布団、奏音の布団を移動したが、取り敢えず1階の仏間に置いた(エレベータはあるけど、体力より気力が足りない)。また、電子レンジ・IHヒーター・ケトルをLDKに移動した。
「そういえば、家の前にずらっとグレーチングが敷いてあるんだね」
と父が言う。
「そういえばそうだね。なんか雨水溜めてトイレ流すのとかに使うと言ってたから、そのための設備かな」
覗き込むと深さ50cmくらいの溝になっているようだ。底が白いのは何故だろうと優子は思った。
(雨水は集めて溜めて、屋根にも流し、屋根の融雪・冷暖房費の節約にも使う。青葉の家と同じシステム。実は少し実験させてもらっていて、その実験費用として“出精値引”をしてもらった。グレーチングが敷かれている意味は後述)
そして・・・その後、頑張って荷物の配置図を書いた。これは現在ユニットハウスのほうに置かれているテレビと冷蔵庫、あとは本棚・ラックの類いの配置である。、
優子は図面に記入していて、家のレイアウト図の下にある四角い枠は何だろう?と思った。そういえば、前もらった図面にもあった気がする。
この時、優子は眼鏡を掛けていなかった(見付からなかったので)が、書かれている文字の先頭がmで、終わりもmで途中にrがある気がした(何て適当な見え方!)。
「メモランダム(memorandum)かな?」
と思い、そこに
「エレクトーン・クラビノーバは入らなかったら、2階中央の部屋に」
と書いた。
その日(4/13 Wed) は、とても御飯を作る気力が無かったので、夏樹に法務局帰りに、お寿司とかお惣菜とかをたくさん買ってきてもらい、それで夕食にした。
「しかし一週間で家が建つって凄いね。そんな短期間で建てたようには見えないのがまた凄い。昔は家を建てるといったら半年かかったもんだけど」
と父は感心していた。
実は1夜で建ったというのは、言わないほうがいいよね?多分。
ユニットハウスに接続していた浴室は2階の浴室になっていたので、奏音はこの日、優子と一緒に2階の浴室で入浴し、アヒルさんやお魚さんたちと遊んでいた。
この日、両親は1階の和室で、優子・夏樹・奏音は1階の仏間(仏檀はまだ入っていない)で寝た。実は布団を、ユニットハウスから母屋に移動はしたものの、2階まで運ぶ気力が足りなかったのである
翌日 4月14日(木).
優子はお弁当を作る気力が無かったが、夏樹が自分の分と奏音の分を作ってくれたので、助かったと思った。
この日の午前中は、優子、優子の両親の3人でユニットハウスの荷物を、新しい家に運び入れた。特に楽器類、CD/DVD関係、また重要な技術書などは業者さんには任せられないので、自分たちで運ぶ。
楽器類については、本棚から楽器を降ろしていったん和室に運び込み、優子と父で本棚を抱えて、エレベータで2階まで上げた。
「エレベータはいいね!」
「ほんと助かる〜。これ持って階段あがるんだったら、きつかった」
優子と夏樹の部屋に、段ボールを下敷きにしてその上に置いた。それで和室の楽器を取りにエレベータで下に降りる。父は訊いた。
「1階だっけ地下だっけ?」
「へ?地下なんて無いよ。1階1階」
「いやパネルにBってあるし」
「汎用品を使ってるからじゃない?」
「あっ、そういうことか」
3往復して楽器類を2階に運び込むことができた。
CD/DVDや技術書は、楽器で疲れたので、取り敢えず仏間に放置した!
お昼は作る気力が無かったので!ドミノピザを頼んで、3人のお昼御飯にした。
午後からは、食器とか鍋などの類い、それと着替えの類いをユニットハウスから移動した。残るはテレビと冷蔵庫などの大物だが、これは緑組さん頼みである。
また仏間に置いていた優子たちの布団と奏音の布団を頑張って2階に揚げた。これで今夜からは2階で寝られる。
高岡の実家の荷物の移動はたぶん5月になるだろうなと思った。
夕方18時、“緑組”の金石さんが来て、荷物を優子が指定した場所に搬入・設置してくれる。ちょっと見た分には、特に壊れているものとかは無い感じであった。ユニットハウスの方に入っているテレビと冷蔵庫も移動してくれた。
しかし父は重たい洗濯機とかを金石がひとりで楽々抱えているので
「凄い腕力ですね!」
と感心していた。
質問される。
「今、ユニットハウスの方に仮に取り付けていたエアコンですが、設置先が指定されていないようなのですが」
「あっ」
実は全く考えていなかった!
「すみません。後で考えますので、適当に置いておいてください」
「分かりました。取付の代金は頂いておりますので、決まったらご連絡ください」
「ありがとうございます!」
ということで、エアコンはユニットハウスから取り外し、そのまま1階の階段下のクローゼットの中に置かれた。
更に質問(確認)される。
「すみません。エレクトーンとクラビノーバですが、この指示書ではミュージックルームの所に『入らなかったら、2階中央の部屋に』と書かれていますが、普通に入ると思うので、そのままミュージックルームに入れていいですか?」
「ミュージックルームってどこでしたっけ?」
「図面のここですが」
と言って、金石さんは図面の下のほうの“メモ欄”(と優子が思っていた場所)を指し示す。
「ちょっと待って」
と言って、優子は(やっと見付かった)眼鏡を掛ける。
これで文字が読める!!
すると一番下の“メモランダム” (memorandum) と書かれているかのように思っていた場所は、よく見ると“ミュージック・ルーム” (music room) と書かれていることに気がついた。
「こんな所にミュージックルームとかあったんだっけ?」
「音楽をなさる方ですと、近隣に音が響かないように、地下に練習室を作られる方が多いですね。地下室は容積率に含まれませんし(*42)」
うっそー!?
それで念のため設置先確認で、金石さんと一緒にエレベータに乗り“B”のボタンを押すとゴンドラは1階から“下に”降りて行く。そしてドアが開いたらそこには20畳ほどの広い地下室があった。ただし、表側は全面掃き出し窓になっていて外光が差しこんでおり、結構明るい。でも一応明かりを点けた。
「ここの明かりのスイッチはオートにしておくと、人が来た時に自動で点くようですね」
「じゃオートにしておこうかな」
と言いつつ、優子は思考停止している。
金石さんはレーザーメーターで距離を測り、やがて
「エレクトーンはこのあたりに置いたほうが音響的に良い気がします」
「ではそこにお願いします」
「クラビノーバはこの対向位置に置きましょうか。それとも並べましょうか?」
「じゃ対向位置に」
「はい」
違っていたら、クラビノーバなら自分と夏樹ででも動かせると思った。
それで緑組の人は音響的に良いという場所に防振マットを敷き、エレクトーンとクラビノーバを運び込んで。その位置に設置した。
(*42) 地下室の面積は、延べ床面積の3分の1までは容積率に算入しない。例えば総二階建ての家で1階と同じ広さの地下室を作ったら、地下室の面積は丸ごと不算入になる。但し、空堀りを作ることが条件である。
14日の夕食後、両親は高岡に戻った。今日あまり肉体労働していない母が父の車を運転していった。
その後、優子は夏樹を地下室に連れて行った。
「これは凄い」
と言って、夏樹がエレクトーンで『エーゲ海の真珠』を弾いてみると、いい感じの反響が帰って来る。
「ここは防音室ではなく、本当に音楽室だね。ちゃんと音響設計されているよ」
「へー。凄い」
(優子はよく分からない)
「この音楽室作るだけで500万掛かる気がする」
「まあ全部合わせて1000万だから、いいよね」
「なんか申し訳無いくらいだね」
掃き出し窓を開けて外に出てみると、そこから地上への階段があることが分かる。
「これつまり非常脱出口ということ?」
「空堀りだね。地下室を作る時は、外気に通じるこういうエリアを作る必要がある。空気の入れ換えと非常脱出口を兼ねるんだよ」
「でも逆にそこから侵入されない?」
2人は階段を上ってみた。天井に白い不透明のポリカーボネートか何かの板があり、その上にはグレーチングが置かれている。
「転落防止のためにグレーチングを敷いているんだね」
「そのためのグレーチングだったのか」
「更にその下にこの板があるから、万一グレーチングを開けて何かの作業をしている時に転落してもこの板で停まる」
「なんで溝の底が白いんだろうと思ってた!」
「そして、グレーチングの上には2階サンルームの張り出しがあるから、ここにはあまり雨が降り込まない」
「うまくできてるね〜」
「サンルームを作ったのは、ひとつは廂(ひさし)代わりだろうね」
「なるほどー」
夏樹はグレーチングをチェックした。
「このグレーチングは、下からはここのロックを解除すると簡単に外せるけど、ロックがポリカーボネート板より下にあるから、上からはこのワイヤーを切断しない限り、外せないようになってる」
「それかなり太いワイヤーだね」
「うん。消防署ならこれを切るカッター持ってると思うけど、切断する時は、かなりの音が出ると思うよ」
「それで防犯になってるんだ!」
「まあ掃き出し窓にちゃんと内側から鍵を掛けておけば、簡単にはそれも侵入できないしね。ワイヤー入りガラスだし」
この辺りは、播磨工務店のメンツが“関東司令室”や姫路の“ロビン”の家(多分jgirlの最後付近で書く)や現在美映が住んでいる家、浦和の家、伏木の青葉の新居、などで実験してきた成果だが、色々分かったことを元に以前の住宅にもフィードバックして改良している。
優子は夏樹がお風呂に入っている間に(川島信次の母)康子さんに電話してみた。
「新しい彼女と結婚して、その人の養子にする件は了承済みだし、私は奏音が20歳になるまで、大学に行った場合は学部を卒業するか24歳になるまで、送金するつもりだよ」
ということだったので、ありがたく頂くことにした。それで返済計画は次のように変更された。
頭金:976万(夏樹550 宮春426)
月割り:
2022.04-2023.03 12月×18万=216万
2023.04-2025.11 34月×12万=408万
4年弱のローンである!
しかし返済計画は翌月、もっと短縮されることになるのである。
これで翌日(4/15 Fri) 千里に電話して承認を得た。
「でも地下に音楽室があったのにはびっくりした」
(遠回しに文句言ってる)
「あれ?言ってなかったっけ?ごめーん」
「いやもらってた図面にはちゃんとミュージックルームって書いてあったけど、私、気がつかなかった」
「モニカちゃん、エレクトーンもピアノも弾くし、音楽練習室は必要だろうと思って設計に入れたんだけど、私、すぐ物事忘れるから、ごめんね」
確かにこの人は物忘れの天才だった!
ユニットハウスは、15日の17時頃、徳部さんが来て、(人目があるのでクレーンで)トレーラーに積み込んで撤去していった。
庭が物凄く広く感じられた(この日は!)。
4月16-17日(土日).
今シーズンのWリーグ最終戦が、代々木第1において、千里たちの属するレッド・インパルスと、ブリッツ・レインディアとの間で行われた。レッドインパルスは2連敗してしまった。今シーズンは、せっかく準決勝で女王・サンドベージュを倒して、優勝のビッグチャンスだったが、準優勝に終わった。
終了後、千里は「優勝できなかったし、主将を辞めたい」として、辞表を出したが却下された!(本気で主将は辞めたい)
4月17日(日).
夕方何か音がするので優子がリビングのカーテンを開けてみたら、バスが庭にバックで入ってくる!
嘘!?と思って表に出てみると、バスは後ろの壁ギリギリに停止した。エンジンを留めて、播磨工務店の徳部さんが降りてくる。
「あのぉ、これは・・・」
と言うと
「あ、御主人、ユニットハウスをどけたから、もういいだろうと思って、退避させていたバスを戻しに来ました」
「あ、えっと・・・・」
と優子が、どう言おうか考えていたら、奏音が飛び出してくる。
「わーい、バスだ、バスだ!」
と言って、喜んでいる。
「ドアはここのボタン押すと開くよ」
と徳部は奏音に教えている。
「ありかとう、おじいさん」
と言って、奏音はバスの中に飛び込んで行く。
奏音に“おじいさん”と呼ばれてしまった徳部(じゅうちゃん)は、あまりのショックに呆然と立ち尽くしていた。
優子は「まいっか」と思い、徳部に
「お疲れ様でした」
と言って、自分もバスの中に入り、奏音と鬼ごっこをして遊んだ。
夏樹は、帰宅すると、またバスが庭に駐まっているので驚いた。
「ゆうちゃん、これどうしたの?」
「ユニットハウス撤去したから、もういいだろうというので戻したんだって。徳部さんが」
「これ、ずっと置いとくの〜?」
(凄く嫌そうな顔)
「奏音が気に入って遊んでるから、いいんじゃない?」
「子供のプレイルームか!」
この後、バスには奏音のおもちゃが多数持ち込まれることになる。
なお、この家の間口は約14.5m, 家の幅はサンルームまで入れて6.3m なので、バス(2.5m)を駐めても庭の駐車可能スペースは 5.1m幅残る。優子は
「家のそばに2台、バスの前に1台、合計3台駐められるかなあ」
と考えたが、実は最大8台駐めることが可能である。
↓最大駐車図(普通の車6台+軽2台)
↑の"house"はサンルーム分を含む。1階部分には構造物が無いので、上図右端の車はちゃんとドアを開けることができる。
バスを左側および後方の敷地境界フェンスから10cmという芸術的な幅で駐めたのは子供の転落防止のためである。子供はだいたい15cm幅が空いていると転落すると言われる(子供の平均頭幅は2歳で14.0cm, 5歳で14.6cmらしい)。このため歩道橋の柵は15cm以下で作られている。それより狭くしたのである。
4月18日(月).
朝、明恵は真珠のスペーシアを運転して火牛ホテルに迎えに行き、“新婚宿泊”を終えた邦生と真珠を職場と学校に送り届けた。邦生は、千里が今朝来てくれなかったので、バストが膨らんだままで「困るよぉ」と思いながら、真珠が買ってきたCカップのブラとバストの大きなブラウスを着て銀行に入り、いつものように女子更衣室で女子制服に着替えて、結婚後初勤務に就いた。
更衣室では南田里菜が邦生の胸を触って、楽しそうな顔をしていた。
何か俺もう男に戻れなくなってない?
夕方、邦生は歩いて自宅に戻ったが、18時すぎに千里が訪問してきた。
「ごめんねー。バストを縮小するのは30分くらい掛かるし、その間は軽い痛みもあって動けないから、朝やると出勤できなくて困ると思って」
「それ大きいままじゃ駄目なんですか?」
と真珠が言っている。
「もちろん私はそれで構わない」
と千里。
「ぼくは困りますー」
と本人。
「じゃ、ジャンケンで勝った方の意見に従うとか」
「それだと、まこが絶対勝ちます」
なるほどねー。真珠はじゃんけん強そうだ。
「ま、取り敢えず小さくするよ。大きくしたかったら、また言ってね。あるいはこれを飲んでもいい」
と言って錠剤を“真珠に”渡す。
「女性ホルモン?」
「そそ」
「わーい。くーにんに飲ませちゃお」
「拒否」
「じゃ小さくするよ」
「お願いします」
千里は布団を敷いて邦生に寝るように言い、それで彼の身体にタッチして“部分的女性化”を解除した。
「こんなものかな」
「まだ結構胸があるんですけど」
邦生の胸はCカップほどあったのがAカップほどまで縮んでいる。
「女性としてパスするには最低このくらい胸があったほうがいいよ。更衣室とかで『こいつ男では』と不審がられるよ」
「私、男ですー」
「でも実質女として生活してるし。男の人でもこの程度の胸の人はいるから」
真珠が
「このくらいは胸はあった方がいいです」
というので
「ハズバンドもそう言っていることだし、これで」
と千里も言って、邦生の胸をAカップ程度にしたまま帰っちゃった。
「おっぱいがこんなにあったら男湯とか入れないよぉ」
「そもそも男湯に入れる訳が無い」
「だいたい千里さん『月曜日におっぱいは小さくしてあげる』と言ってたもんね。『おっぱいを無くしてあげる』とは言わなかったと思う」
「そんなぁ」
4月21日(木).
この日の放課後、春貴は女子バスケット部員8名と愛佳の母をキャラバンに乗せて、火牛スポーツセンターに向かった。今日は“猫帯”の西側:タビーの指定だった。
「なんか作業服を着た人が多数歩いてますね」
「ここの体育館の競争率が激しいので、第2体育館を作ることになったらしいです。この体育館の北側に建築するんですよ。もう伐採は終わって、今基礎工事しているみたいですね。それができると、予約も取りやすくなると思います」
「へー。確かに競争が激しいみたいですね」
春貴は今基礎工事していたら、できあがるのは来年かなあと思った。
今日の練習では、最初の20分間は普段あまりできてないドリブル走の練習をひたすらした。そして5分休んでから、残りの40分間で試合形式の練習をした。普段コートの上でこういう練習を出来てないので、みんな感覚がうまく働かなくて、イージーミスをするケースも多い。春貴は、5月下旬のインターハイ予選前に2回くらいここに来た方がいいなと思い、予約を入れておいた。
今日の試合でひとつ問題が発生した。
「リバとビナは紛らわしい!」
ということであった。
それで河世のコートネームは、リパからキューに変更された。
かわよ→かわいいよ→キュート→キュー
である。
「本人あまり可愛くないんですけど」
「でも君は女装すれば女の子で通るよ」
「1度女装してみようかな」
「女子制服、調達してきてあげようか」
帰りは愛佳のお母さんに運転してもらった。生徒たちと一緒に1時間走りまくったので、春貴はかなり疲れていた。愛佳のお母さんに来てもらって良かったと思った。
4月22日(金).
春貴自身と、新入生4人のバスケットボール協会・会員証が届いたので、自分の分を取った上で、1年生4人にはこの日の部活で配った。
「H南高校・女子と書かれてる〜」
と晃が言っている。
「それは単なるチームの名前だし」
「男子チームに女子のコーチやマネージャー、女子のチームに男子のコーチやマネージャーがいることもあるし、チーム名と性別は無関係」
「これ本人の性別は書かれてないんですね」
「まあデータベースには登録されているよ」
「なるほどー」
(会員番号の中に本人の性別識別子が含まれていることを春貴は知らない。先頭が“全員2”であったので、男女で違うことに気付かなかった!)
「いよいよ、明日は初戦だけど、頑張ろう」
とみんなに言う。
「僕は応援席にいればいいですか?」
と晃が訊くので
「君もベンチに座ろう」
と春貴は言う。
「でも試合に出ないから」
「君はマネージャーということで」
「あ、なるほど」
「男子チームに女子のマネージャーがいることは多い」
「うちの高校にはそんな制度無いけどね」
「ちなみに明日、試合にも出たかったら、今日中に性転換手術を受けよう」
と姉の舞花が言っている。
「勘弁してよ〜」
「マネージャーだったら女子制服ですかね」
と1年の美奈子。
「え〜〜!?」
「みんなと同様のユニフォームでいいよ」
「背番号は無しでね」
「良かったぁ」
なお、ユニフォームに背番号を縫い付ける作業は、美奈子と五月がやってくれることになっており、彼女たちにエントリー表のコピーを渡した。(河世は裁縫が苦手で、この手の作業に向かない)
ふたりは美奈子の家で一緒に作業をした。美奈子の妹の玲衣香も手伝ってくれた。
「なんか晃君まで11と番号が指定されてるけど?」
「じゃ縫い付けちゃおう」
「明日までに性転換すれば出場できるよね」
4月22日(金)の夕方、津幡組の選手とスタッフが、千里のA318を使用して熊谷に移動した。出発前にパスポートを確認したが
「あ、私のパスポートが無い」
などと金堂多江が言い出す。
「君は世界水泳にはリモート参加だな」
「探しますからちょっと待ってて」
「探す!?」
置き場所が決まってないのか??
結局、竹下姉妹や南野さんまで入って何とか見つけ出した。
「どうでもいいけど、あんたもう少し部屋を片づけなさい」
と南野さんに叱られて
「ごめんなさい」
と言っていた。
熊谷に移動した後は、郷愁プールで少し調整をした上で、26日に深川に移動する予定である。青葉もここでみんなに合流した。
4月27日(水)、
神奈川県の横浜国際プールで、水泳の日本選手権が始まる。ただし、27日は練習日で競技は明日28日からである。
日本選手権は通常は4月上旬に開催されるのだが、今年は様々な事情で何度も日程が変更された。
2020年の東京五輪が2021に延期
↓
2021夏予定の福岡世界水泳が2022年春に延期
↓
2022の日本選手権は代表決定には遅すぎるので3月に代表選考会を行い、日本選手権は世界水泳後の6月に延期
↓
福岡水泳は更に2023夏に延期、代わりに2022年6月にブダペストで世界水泳をする。
↓
6月に日本選手権をすると世界水泳代表が出られない!遅くすると9月のアジア大会の代表が決められない。
↓
日本選手権は4月下旬に繰り上げ。辰巳が使えないので会場は横浜国際に。
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大きな大会の日程がずれまくりの玉突きが起きており、その日程変更費用も莫大なものだし、振り回されている選手たちは本当に可哀想である。
日本選手権は例によって、予選を午前中に行い、午後は休み(プールが開放されるので練習してもよい)、夕方からB決勝→決勝が行われる。女子の1500m, 男子の800m はタイム決勝で、最終組を決勝時間帯に行う。
各々の出場種目は下記である。
川上 400 400iM 800 1500
南野 400 400iM 800 1500
金堂 400 400iM 800 1500 200iM
リル 400 400iM 800 1500 200iM
ハネ 400 400iM 800 1500
福山 400 400iM 200 200iM 100 50
広島 200 200iM 100 50
筒石(男子) 400 800 1500
先月の代表選考会では↓が代表に決定している。
1500 川上・竹下
800 川上・金堂
400 竹下・金堂
400iM 金堂・川上
男子の筒石は400,1500で代表になっている。
各々は前回2位以内になれなかった種目でアジア大会の代表を目指す。
代表選考会でも津幡組はドーピング検査が異様とも思えるほど厳しかったが、今回も物凄い厳しさだった。津幡組を敵対視しているのではと思うくらいである。むろんみんな食事にしろ、風邪薬などにしてろ、充分注意しているので、検査に引っかかったりすることはないはず。
青葉の日程はこのようであった。
4/28(木)
10:00 400予選
16:17 400決勝
4/29(金)
10:22 400iM 予選
11:35 800予選
17:35 400iM 決勝
4/30(土)
16:58 800決勝
5/1(日)
15:50 1500 Time決勝
29日は800mの後で400iMの予選なら辛いが(それでも決勝進出できる程度の成績は出せる)、逆なので楽勝だった。
400mでは今回2位に食い込んだ。優勝はリルである。しかし800mで金堂に1位を奪われ、こちらも2位であった。また400m個人メドレーでは1位を奪還した。
ということで、青葉、金堂、竹下リルの三つ巴の戦いが続いている感じである。
今回この手の大会に初めて参加した竹下ハネは、出場した4種目全てで決勝に進出(1500は午前中の1組目で出たが最終組下位の成績を上回った)。メダルには届かなかったものの、賞状を4枚もらって大喜びしていた。
短距離で、福山希美が200mで2位、広島夏鈴が100mで2位、に入り、いづれもアジア大会の代表を確実にした。また男子の筒石は800mで優勝(前回は3位)して、こちらもアジア大会の代表を確実にした。
そういう訳で、青葉は世界水泳の代表を逃した種目でもアジア大会では代表となり、結局長距離4種目に出ることになる。また福山希美・広島夏鈴の2人もアジア大会の日本代表として強化日程に参加することになる。
青葉は最終日5月1日(日)の15:50からの1500mタイム決勝で美事優勝を収め、金メダルを手にした。その後、ドーピング検査を受けてから、更衣室で水着を脱ぎ、ジャージの上下に着替えていたら、水連の腕章を付けた女性が入ってくる。そして恐い顔(!?)で
「日本水連の春山と申します、川上青葉さん、ちょっと水連までおいでください」
と言われた。
青葉は「何?何?」と思いながら、その春山さんに付いていく。そして車に乗せられ、新宿区のJOCの入っているビル内の、水連事務局に連れて行かれた。
面談室に通される。白衣を着けた女性が入ってきた。
良くない傾向だなと思った。私ドーピング検査に引っかかったのかなあ。何か変な物食べたり飲んだりしたっけ?と考える。
白衣を着た女性は《日本水泳連盟・医学委員・春坂黍子》という名刺をくれた。
ぎゃー!やはり私、ドーピング検査に引っかかったんだ!!
と思うがここはポーカーフェイスである。
「川上さんに教えて頂きたいのですが」
「はい」
「あなたは出生時には男性でしたよね」
「はい、そうです」
あれ??
「でも性別再設定手術を受けて女性になった」
また、その話かい!と思い、まずは概略を話す。
「その件は東京オリンピック前の昨年4月にJOC医学部会の鐘本さん、および、水連のH医学部長、T強化部長の前でもお話ししたのですが、私は中学3年生の時に確かに性別再設定手術を受けて機能的な女性になり、20歳の誕生日が来てすぐ、法的な性別の変更を行いました。ところが2019年に突然身体に変調が来て、完全な女性に変化してしまったんですよ。だから現在私は、卵巣・子宮もあり、毎月生理が来ている完全な女性です」
「そのようなことがあったんですか。ではその話はあとでH“前部長”に再確認しますが、あなたが女性ホルモンを摂取し始めたのはいつですか」
ああ。医学部長が交代してたのか。しかし引き継ぎとかしてないのか!?それに、この人は今自分がした説明を全然聞いてないし。性別移行自体に相当の疑いを持っているようだと感じる。それで青葉はこれまで誰にも言っていなかったことを正直に話すことにした。
「その件は、他人に迷惑を掛けるので、あまり話したくないのですが」
という前提を置く。
「ここで聞いた話は絶対に他言しませんので、本当のことを教えてください」
「小学5年生の時から、知り合いの宮坂美麗さんという人から女性ホルモンをもらって飲んでいました」
「5年生の時からですか」
と驚いたような顔をする。どうもそんなに早く女性ホルモンを取り始めたというのは想定外だったようだ。
「それはどういう人ですか?」
「私が入っていた将棋部の部長さんのお姉さんなんですよ」
「その人は医療関係者か何かですか」
「違いますが、女性ホルモン剤を入手できる立場にあったんです」
「その宮坂さんの連絡先は?」
「震災の後の混乱で、お姉さんとも、弟さんとも現在は音信不通なんですよ」
「その人と連絡が取れそうな人を知りませんか?」
青葉は少し考えた。
「私の商売敵なんですけどね。花巻市に住んでいる、木村登夜香なら分かるかも知れません」
「商売敵(しょうばいがたき)?」
「私は霊的な相談事をよくされています。いわゆる霊能者というものですね。彼女も同様の仕事をしているのですが、お互いにライバルなんですよ、だから仕事によっては協力することもありますが、敵対したり、客を奪い合うこともあります」
「なるほど。その人の連絡先は?」
「スマホに入っています。ちょっと待ってください」
と言って、青葉はスマホをアンロックし、アドレス帳を開く。カ行の所に木村登夜香の登録がある。
「連絡取ってみますね」
と言って、青葉は彼女に電話しようとしたのだが停められる。
「待ってください。私が電話します」
と言って、春坂さんは、青葉のスマホを取り上げて!、部屋の外に出ちゃった!
そして代わりに、青葉を会場からここに連れてきた春山さんが入ってくる。
「申し訳ありませんが、しばらくお待ちください」
などと言われる。暇つぶしにと雑誌を数冊渡された。
どうも口裏合わせなどをされないよう、青葉を隔離した状態で連絡を取りたいのだろう。
青葉は結局30分ほどした所で
「時間がかかりそうなので、ホテルにご案内します。そこで待機して下さい」
と言われて、近隣のホテルに案内された。
何だか高そうなホテルだなと思った。
ツインの部屋に入る。かなり広い。春山さんは
「お食事まだでしたよね」
と言って、春山はルームサービスでディナーを持って来させた。
「これ美味しい」
と春山さんが言うので、こちらも少しリラックスして
「役得ですね」
と笑顔で言った。
春山は実は青葉を2時間ほど観察していて「この子、性転換者とは雰囲気が違う」と思ってしまった。普通の女の子にしか見えない!声もソプラノボイスだし。それで春山はこの子が男だったなんて間違いでは?と思い始めたのである。
食事の後は少し音楽の話をした。
「作曲家としてもご活躍なんでしょう。凄いですね」
などと言われ、結構アクアの話で盛り上がった。
青葉が少し眠くなって、あくびが出たので
「ごめんなさい。寝てて下さい。もしかしたら途中で起こすかも知れませんが」
などと言われる。
それで遠慮無く寝た。
大会の後なので、熟睡していたが、その内起こされて
「大変申し訳ありません。指の長さを測らせてもらえませんか」
と言われる。
「自由に測って下さい。私寝てていいですか」
「はい、もちろん」
と言われたので、トイレに行かせてもらってから再度寝た。
「凄く小さな手ですね」
「私、身長も低いし、手も小さいから、水泳選手として絶対的に不利らしいです。実際、私は短距離なら国体にも出られませんよ」
「ああ」
「長距離を泳げるのは小さい頃、曾祖母に言われて、湾内横断とかを毎週やらされていたお陰なんですよ」
「湾内横断!それ何メートルあるんですか」
「往復2kmですね。潮流があるから実際に泳ぐ距離はもっと長いです」
「じゃ、元々オープンウォーターがお得意だったんですね」
「得意というか、船の上から水中に放り込まれるから、泳がないと死ぬし」
「・・・あのぉ、それ何歳頃の話ですか?」
「物心付く頃からやらされてましたよ」
「もしかして虐待ということは?」
「両親から受けた壮絶な虐待に比べたら、こんなの大したことないです」
「何か聞いてはいけないとを聞いてしまったかも」
「そうですね。私もあまり思い出したくないです」
「ごめんなさい!」
春山は、青葉の両手の人差指・薬指の長さを測定した。彼女は医師免許は持っているので、このようなことをすることの違法性は低い。また、春坂がなぜそのようなものを測定させるのかの意味も推察できた。
左人差62 薬64 (指比0.97)
右人差60 薬61 (指比0.98)
「これは完全に女性の指だ。性転換者なら男性の指のはず。この人は性転換者ではない。元々女性なんだ」
と春山は思った。
(指だけで性別判定するなら、龍虎は間違い無く女性!)
ところで、青葉のスマホを取り上げた春坂は、春山に交替で青葉に付き添ってもらい(監視役)、部屋を出ると、別の部屋に入り、木村登夜香に電話を掛けた。
自分の身分を名乗った上で、川上青葉の女子選手としての参加資格を再確認していると趣旨を説明する。そして昔のことについて知っている人物として、宮坂美麗さんあるいはその弟さんで小学校の時に将棋部長をしていた宮坂昭次さんの連絡先を知らないかと尋ねた。
すると登夜香は
「川上青葉の性別のことなら、私の方がよほどよく知ってます」
と言った。
「美麗さんから女性ホルモンもらっていたのは確かです。川上さんがホルモン剤を持っていたので、当時彼女に催眠術を掛けて入手先を聞き出しましたから」
「催眠術ですか!?」
「あの子は口が硬いんです。他人に迷惑が掛かることはよほどのことがない限り絶対に口を割りませんから」
「はあ」
「霊能者をしてると、物凄く重大な秘密を知ることもあります。それを絶対に口外しないことで、霊能者は信頼されています」
「確かにそうでしょうね!」
「だから川上さんにしても、私にしても“使えん”とよく言われてました」
「使えん?」
「他人の情報を絶対に聞き出せないから」
「なるほどー!」
「でもそもそも、それ以前に、川上は、小学校に入った頃には既に睾丸がありませんでしたよ」
「なんですって!?」
「あの子が戸籍上は男子なのに、女の子の格好で通学していることが小学校で問題になったんです。お母さんが呼ばれたけど、この子は女だと主張するから、だったら医学的な検査を受けてくれと言われて病院に掛かったんです。するとこの子は卵巣も睾丸も無いから中性であるという診断が出たんです。中性なら女の子の格好をしていてもいいだろうということで、スカート穿いて通学することを認めてもらったんですよ。だからそれ以降は基本的に女子扱いでした。まあ中学に進学する時にまた少し揉めたんですけどね」
「その診察はどこで受けたかとかは分かりませんか」
「私は知らないですけど、当時の担任とかに聞けば分かると思いますよ」
「その先生の名前と連絡先は?」
「担任の連絡先とか分かりませんけど、当時の校長先生は山本先生です。2004年に大船渡の○○小の校長をしていた人というので、教育委員会に照会すれば分かるのではないでしょうか」
「ありがとうございます。確認してみます。また後で木村さんにご連絡するかも知れませんがいいですか?」
「どうぞどうぞ。川上さんが活躍してるの見るとむかつきますけど、無理に引きずりおろすのは良心が許さないし。私は夜中1時頃までは起きてますから」
「ありがとうございます!」
春坂はこれは1人では手に負えないと判断した。同僚で親友の春川を呼び、彼女に宮坂さんに連絡を取ってもらうのと並行して、自分は岩手県の教育委員会に電話して、緊急に連絡を取りたいので、2004年に大船渡の○○小の校長をしていた山本先生の連絡先が分かったら教えて欲しいと言った。
向こうはこちらに来て身分証明書とかを確認しないと教えられないと言ったが、明日までに発表しなければならない、日本代表を決めるのにどうしても必要なことだと言うと、向こうから水連に電話を掛けると言って、いったん切った。そして向こうから水連に電話があり、春坂が出た。それで、当時の校長は山本学太郎さんという人で、現在は市会議員をしているということで、その事務所の電話番号を教えてくれた。
春坂はそれで事務所に電話した所、向こうの秘書さんが、教育委員会同様、水連に電話を掛け直してきて、それに春坂が出る。それで山本議員とつないでくれた。
「ああ、川上青葉さん、覚えてますよ。はいはい。保護者がこの子は女の子だと主張するので、だったら医学的な検査を受けてくれと学校は言って、検査を受けてもらったら中性という結果が出たんです。だからそれ以降、基本的には女子児童として扱うことにしました」
「その受診した病院は?」
「盛岡の****病院です」
「ありがとうございます!」
それで春坂はその病院に問い合わせたが、電話では話せないと言って一切話に応じてくれない。それで春坂は「今からそちらに行きます」と言い、バイク通勤している同僚に頼んで東京駅まで急ぎ運んでもらった。そして東北新幹線に飛び乗った、
春坂は23時近くにその病院に飛び込んだ。
病院の院長先生が待っていてくれた。
春坂が日本水泳連盟の身分証明書と医師免許状を提示する。それで院長先生は当時の川上青葉のカルテをモニターで見せてくれた。
確かに睾丸が無いと記載されている!それに陰茎が21mmってマイクロペニス?
診断書では、このような所見が書かれていた。
(1)体型が完全に女児の体型である。
(2)顔の目鼻の配置が女性の配置である。
(3)両手とも、人差指と薬指の長さがほとんど変わらない。これは女児の指である。
左手 2D/4D=43/44=0.98
右手 2D/4D=42/43=0.98
この指比、目鼻の配置、体型などを鑑みて、クライアントは子宮内であまりテストステロンに曝露されていないことが推測される。
(4)現在の性ホルモン量も女性ホルモンの方が男性ホルモンより高い。
(5)性染色体はXXのように思われるが、XYの可能性も排除できない。当病院の設備では精査困難なので、東京の大学病院での検査を勧めたい。
(6)心理検査の結果、クライアントは100%女性である。
以上を以て、陰核肥大の女児の可能性と、睾丸欠損の男児の可能性は半々である。陰核肥大ならテストステロンが高いのが普通なのに、クライアントはそれが小さい。それで、基本は男児であるが、睾丸が欠損していたため男性的発達が不全であった可能性が高いと思われるが、判断は保留したい。心理学的に女性であるのも、男性ホルモンが作用していないためと思われる。
基本的に性別は中性と考えて良い。
「ありがとうございます。これコピーとかを頂けないでしょうか」
「今は渡せない。患者本人の同意書を郵送してもらったら、日本水連宛に郵送してもいい。本人の同意があることは必須」
「それでお願いします!本人の同意書は取れると思います。この画面をスマホで撮影するとかは」
「そんなの、私が“見てたら”個人情報保護法違反だから即帰れと言って叩き出す」
と言ってから、院長は
「あ、ちょっとコーヒー買ってこよう」
と言って部屋を出た。
それで院長先生が部屋を出ている間に画面の写真を撮った。
23時半頃院長先生にお礼を言って診察室を出たが、春坂はすぐに春山に連絡して現在の川上選手の指の長さを測ってもらった。すると現在でも指比は高く女性の手であることが判明した。
それで春坂はS医学部長に連絡して、川上選手はペニス状のものがあったために男と判定されて出生届が出されたが、少なくとも7歳2ヶ月の時点で睾丸は無く、子宮内でも出生後も、そして現在に至るまで、男性ホルモンにはほとんど曝されていないと判断されると伝えた。そして自分の判断では女子選手としての参加資格に疑義は無いと思われると述べた。
それで青葉は女子日本代表にして問題無いという結論が出て、長時間の拘束から解放されたのである。
全くお疲れ様である!
実際は本人は寝ていたので、朝起きてから春山が長時間の拘束を謝罪し、スマホも返して、出て行った。青葉は
「どうも性別の疑いは晴れたみたいだな」
と思い、出羽山のほうに向かってお礼をする。これはきっと美鳳さんが助けてくれたんだ。
それで青葉はルームサービスで運び込まれてきた朝食をのんびりと食べてからホテルを出て、SCCのドライバーの車で熊谷に向かった(合宿に参加する)。
なお、宮坂美麗も春川からの問合せに、確かに青葉に女性ホルモン剤を渡していたことを証言した。
「彼女、明らかにホルモンニュートラル状態だったから、このままでは身体の成長によくないと思って女性ホルモン剤を渡すようにしたんですよ。それで身長が小学1年生くらいのままだったのが、少し伸びたみたいですね」
「彼女、睾丸は元々無かったのか、あるいは幼い頃に正規の医療ではない形で取っちゃったのだと思います。あの子の友だちから聞いたのでは幼稚園は女子制服で通園したらしいし、プール遊びの時とかも、水着姿が普通の女の子で、お股に膨らみとか無かったというから、もし手術したのなら、恐らく幼稚園に入る前だと思います。正確な所は、あまりにも小さい頃のことで、本人も覚えてないだろうけど」
などと彼女は言っていた。
(青葉は母が自分のちんちんを切ってくれた記憶があるが、ちんちんは性転換手術を受けるまでは付いていた(と思う)ので、本人としては夢か何かだろうと思っている)
翌日朝一番に、新医学部長のSは前医学部長のHと会い、川上青葉の性別の件に付いて確認した。それで青葉が、性転換者ではなく、特殊な半陰陽であること、彼女の骨格から判断して、男性ホルモンのシャワーに曝されていないことは明確だという医学的判断が昨年春の段階で出ていること。そしてその書類は川上青葉に関するフォルダにも入っていると指摘された。
「結局、川上さんは半陰陽だったんですか?」
「そうです。極めて希なケースなのてすが。詳しいことは**大学の朝倉教授に聴いて下さい」
(Sは実際、春坂と一緒に話を聞きに行った)
「要するに、川上さんの体内には極めて小さな卵巣や子宮があったものと思われます。でも未発達だった。ところが川上さんは小学生の頃から女性ホルモンを摂取し、中学生の時には性別再設定手術も受けて、機能的には完全に女性になった。するとその身体の中で未発達だった女性性腺が発達し始め、目に見えるサイズまで発達したと思われるんですよ」
「そんなことが起きるんですか」
「以前、アメリカで性転換手術で女性になった人が妊娠出産したというので騒ぎになったことがあります。その後調べた所、彼女がこのケースだったと思われます。身体が女性化したことで、眠っていた本物の女性器が発達して、妊娠出産も可能な状態に変化した、と」
「だったら元々女性じゃないですか」
「だと思いますよ。たまに女性なのに男性的な外見で生まれてくる人があるんですよ」
「なるほどー」
「とっくに結論が出てる問題をまた蒸し返されて、川上さん怒ってたでしょ」
「協力的でしたよ」
「そりゃ、水連と喧嘩する訳にはいかないからね。どこかから圧力があったんじゃないの?」
「いやそれは・・・」
とS部長が口を濁したので、ああ、やはり圧力があって再調査したのだろうとHは判断した。
春坂はそれまでアメリカの性転換選手リア・トーマスが男性的な体格なのに女子選手として扱われ、メダルを総舐めにしているのを苦々しく思っていた。実際、彼女については、あちこちから疑問の声があがっており、近く性転換選手の参加条件は厳しくなりそうだという空気が流れていた。
それで日本水連の一部(あくまで一部)は、現在日本国内に数十名居る性転換女子選手について参加資格の再調査ををして欲しいとS医学部長に持ちかけ、Sも調査自体は構わないとした。ここで問題になったのが、日本女子の長距離女王として活躍中の川上青葉だった。もし川上が近い内にFINAが出すと噂される新基準では女子として認められないということになれば、大変なことになる。
そんな時“ある方面”(後述)からの圧力もあり、緊急に川上の参加資格の再調査が行われたというのが内情だった。川上以外の性転換選手で問題にしたいほどの成績を上げている選手は居ない。みんな男子時代より大きく記録を落としている。また多くの選手が「筋力だけでなく精神力も落ちた」と言っている。筋力は短距離、精神力は長距離で効いてくる。
川上に関する調査のタイミングは本人に心理的な動揺を与えないように日本選手権の終了後でなければならないが、代表選手を渡欧させる5月5日の前日までに完了させたい。つまり実質3日間で終了させる必要があった。春坂はギリギリになるかも知れないと思っていたが1日の内に終了して安堵した。
春坂は、その“排除派”の中心付近に居た人物で、彼女は川上青葉について「性転換選手が天然女子選手と一緒に競技するのはアンフェアだ」と思っていた。しかし直接会ってみて、川上が背も低く、女としても華奢な体格だし、全然男性的でないのにあれ?と思った。そして調査を機にすっかり、青葉を応援する側になった。
それで結局春坂と親友の春川・春山(春春春トリオ)は排除派グループから離脱してしまったのである。
川上青葉の参加資格に疑義が無ければ、何といっても日本女子長距離のエースだし、長く世界レベルに遠かった日本女子長距離陣にあって世界でメダルを狙える貴重な選手である。彼女に刺激されて、同じ津幡組の金堂・竹下も伸びてきている。多分パリ五輪ではその(天然女子の)金堂と竹下がエースだ。
「元々睾丸が無かったか、遅くとも5歳頃までに取ったのなら、たとえ陰茎が存在していたとしても、女の子と同じでいいじゃん。男の娘はみんな3歳児健診か小学校入学前の健康診断で睾丸を取ってあげるべきよ」
(↑過激から過激に走るタイプ)
春坂はこの後、S部長と一緒に朝倉先生の話を聞きに行き、性別というものの深淵を感じた。朝倉先生は
「出生時に男性と判定されていた人で外性器も男にしか見えない状態だったのに妊娠出産した例が、日本でも5年前にありましたよ」
と言っていた(フェイのケース 2017.03)。
「凄いですね」
「川上さんの身体は私も診させて頂きましたが、彼女はその5年前のクライアントより、更に女性的です。川上さんは生理もあるので、競技引退して結婚したら、きっと赤ちゃんを産めますよ」
「生理があるなら、間違い無く女ですね!」
(↑青葉からも生理があると聞いているのに、話を全然聞いていない!)
なお、実は、青葉の睾丸が消滅したのは、小学1年生の5月である(小学校入学前と大差無いと思う)。
出羽の美鳳から「睾丸を失った男の子(実は彪志)がいるから、あんた睾丸要らないなら、その子にあげてもいい?」と言われ「はい、あげてください」と言って、取り外してもらったものである。
そしてこの盛岡での性別診断を受けたのが8月だったので、“その時点では”青葉には睾丸も卵巣も無かった。
後に青葉は、美鳳から『睾丸のお返しに』と言われて、彪志の夭折した姉の卵巣と子宮(H大神が時間を遡って採取してきた)を移植されている。この時青葉は「女の素」を注入された夢を見た。それで、将来青葉と彪志の間に子供ができるとそれは彪志の両親にとっても青葉の両親にとっても、遺伝子的な孫になる。
この卵巣のおかげで、青葉は4年生の最後の授業の日に初潮を経験するが、当初は生理間隔が不安定で、美麗から女性ホルモン剤をもらって飲むようになってから生理周期は安定するようになった。
美鳳は卵巣移植と同時に青葉の陰嚢にダミーの睾丸を放り込んだ。青葉が4-5年生の時に“魔法で機能停止させた”のは、実はこのダミー睾丸である。この睾丸はサイズも赤ちゃんサイズで、男性ホルモンはほとんど生産していなかったが、あらためて機能停止させられた上に体内の卵巣が生み出す女性ホルモンの影響を受けて、中学2年の時には自然消滅してしまった。
ともかくもこの大騒動と春坂の抜群の行動力の結果、5月2日、アジア大会代表が無事発表され、日本選手権で上位に入った選手はそのまま代表合宿に入った。
津幡組の代表にならなかったメンバーとスタッフは5月2日にG450で北陸に帰還した。
例によって、津幡組の長距離陣(青葉・金堂・竹下リル・筒石)は、「代表合宿では充分な量の練習ができないので」ということで、特に許可をもらって熊谷に移動し、同じ日程で練習を続けた。
短距離の希美・夏鈴は他の代表選手と一緒にJISSでの合宿に参加したが「練習時間が充分取れない」と苦情を言っていた。
「君たち普段はどのくらい練習してるの?」
と代表コーチが訊く。
「津幡でも熊谷でも専用レーンだから、毎日12-13時間は泳いでますよ」
「ひぇー!?津幡組が強い訳だ!」
とコーチが絶句していた。
「羨ましい」
と他の選手たちからも声が出る。
「代表合宿は、選手の人数分のレーンを用意して欲しいよね」
とアジア大会代表に滑り込んだ(南野に僅差で勝った)永井蒔恵が言っていた。彼女は津幡に来たことがあるので、その環境の良さを知っている。また彼女が所属するクラブは津幡組のように24時間とはいかないが、トップクラスは毎日2度、合計5時間ほどレーンを独占して使えるようになっている。
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【春春】(7)