【春春】(4)

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千里は、じゅうちゃんを呼んだ。彼が来るまでの間に、千里のCX-5に載っている楽器類をユニットハウスの中に運び入れた。
 
このユニットハウスにはトイレとシャワーのユニットが接続されていることが判明。当面これで乗り切れるかも知れない。
 
やがて、じゅうちゃんが軽トラを運転してやってきた。千里はまずバスの件を叱った。
 
「あ、バスってそっちだったの?」
などと言っている。
 
「これじゃ車が駐められないから、取り敢えずバスはどけといてよ」
「どこに置いときます?」
「火牛アリーナにでも。館長に言っとくよ」
「分かりました」
 
「手順があるから、ちょっと待ってて」
 
ここから“パズル”が必要である。千里は急いで計画表を書き、夏樹にもチェックしてもらった。
 

千里がバスを出して、取り敢えず林の前に停める。
 
「このバスは左ハンドルだ!」
「右側に乗降口が無いと、出入りできないから」
 
バスを敷地の左端に駐めているので、右側に乗降口が無いと、乗り降りできないのである。日本に返還される前の沖縄ではこのタイプのバスが走っていた。
 
「よくこんなの転がってたね」
「偶然見付けたので」
 
(褒められたと思っている)
 
夏樹には家の中で待機しておいてもらい(優子を残さないのは、九重が優子をレイプしたりしないように!夏樹なら万一レイプされてもいいことにする)、千里と優子でCX-5に乗ってイオンに向かう。そして優子がMX-30を運転して一緒に新居に戻る。バスが駐まっていた場所にMX-30を駐めた。
 
「じゃ、なっちゃん、MX-30に載ってる荷物を中に入れといて」
「分かった」
 

その後、このようにした。
 
(1)両親には16時くらいまで待ってと伝える。
 
(2) 千里がバス、九重が軽トラ、優子が CX-5 に乗って、全員で火牛アリーナに行く。千里が館長の白石さんに声を掛けて、バスを駐車場に駐めさせてもらった。
 
(3) CX-5に千里・優子の2人で乗り、九重の軽トラと2台で近くの PLANT-3(ホームセンター)に行く。
 
千葉で使っていた布団はMX-30に載せてきているものの「千葉より金沢は寒いから」ということで掛け布団と毛布を買い、また物の整理用に、カラーボックスとか衣裳ケースとかの収納用品を買った。夏樹の管楽器収納用に高さ180cmの本棚も買った。また今日明日の分の食料や雑貨なども買って、これらを軽トラに乗せ、2台で一緒に新居に戻る。
 
(4) MX-30 の前に CX-5, その前に軽トラを駐め、軽トラに載せてきた荷物を家の中に運び込んだ。MX-30の荷物はもう全て搬入が完了していた。
 
その後、ユニットハウス内で少し打ち合わせた。
 

この家の電気・上下水道は、4月1日(金)の段階で既に申し込んでいたので、そのまま使用できた。取り敢えず千里の名前で申し込んでいたので、追って夏樹の名義に変更することにする。
 
電話についはNTTに連絡した所、引越シーズンで立て込んでいるので、どうしても5月になると言われる。それで固定電話は無くてもいいことにした!(つまりNTTとは契約しない)代わりにWiMAXを契約することにし、オンラインで申し込んだ。
 
ガスは使うかどうか未定だったので保留していた。
 
「どうする?」
「ガスの調理器具は私は恐い。絶対空炊きする」
と夏樹は言う。
 
「千葉でも使ってなかったね」
「お風呂だけガスだったんだよ」
「あっそうか」
「一戸建てなら、お風呂は灯油がいいよね」
「一般的にはガスより安いと思う。追い焚きとかしないし」
 
「じゃガスは使わないことにするか」
 
ということで、ガスは契約しないことにした。
 
しかし結果的には家が建つ4月19日(?)までは、シャワーが使えないことになる。
 
「夏でもないし、ボディーシートで身体拭いておけばいいよ」
「どうしてもお風呂入りたくなったら、高岡の実家に行けばいいし」
「すんませーん」
 
(千里は、こういう話を聞かせるために九重もここに居させている)
 
洗濯機と冷蔵庫については、新しい家ができた所で運び込んでもらうので、それまでは洗濯機・冷蔵庫無しで頑張ることにした。買物はまだ涼しいので、冷蔵庫無しでも何とかなるし、洗濯物はコインランドリーを使ったり、高岡の実家に持っていって洗濯する!
 
そこまで話ができた所で千里は
 
「何かあったら呼んでね」
と言って、じゅうちゃんと一緒に引き上げた。
 

それから優子たちはイオン金沢に行き、両親と奏音を連れて来た。奥にMX-30, その前に父の車を駐めた。奏音の服とか布団を一緒に持って来ているので、それを夏樹がユニットハウスに搬入した。
 
両親はいかにも安っぽい家が建っている(実際は置いただけな)ので不安そうにしていたが、隣に今、基礎工事だけしている所に、新居を建てる予定で、それができたらそちらに移動すると説明した。建物ができる時期については言わなかった。半月でできると言ったら、絶対不安に思うだろう。
 
「まあ何ヶ月かだったら、何とかなるかな」
と両親は言っていた。
 

「え〜〜!?13日が結婚式なの!?」
と邦生は、母の言葉に仰天した。
 
1週間後じゃん!
 
「だって、あんたたちもう3ヶ月も一緒に暮らしてるじゃん。きちんと籍を入れなきゃダメだよ。それで真珠(まこと)ちゃんのお母さんとも話して、日取りも決めたから」
と邦生の母は言う。
 
「日取りはいつがいい?」ではなく「日取りは決めたから」である!
 
「4月13日が日和(ひより)がいいらしいよ」
と真珠は言う。
 
「4月13日は十二直が“さだん”で結婚するにはとてもいい日なのよ」
「平日なんですけど・・・」
 
「結婚式の日くらい、お休みもらいなさいよ。真珠ちゃんのお友達の明恵ちゃんに確認したら、この日は14:37以降がラッキータイムなんだって(*20)。だから15時すぎに婚姻届を出して、17時くらいに挙式、19時くらいから祝賀会といった線がいいんじゃない?」
 

(*20) 14:37は金沢地方のこの日の月出時刻である。前日の4/12も“たいら”で、婚礼には比較的良い日であるが、19:16からボイドが始まるのて、その前に祝賀会も終わらせたいから、平日では厳しい。
 
結婚式の選日のひとつの流儀:
 
(1) ボイド時間帯は絶対に避ける
 
(2) 本人たちや重要な関係者の都合が良い日を選ぶのが基本。
 
(3) 結婚記念日を忘れないように誕生日にぶつける人も多い。
 
(4) できたら新月から満月に向かう時期
 
(5) 可能なら金星逆行期間も避ける
 
(6) うまく都合が付けば太陽と月が同時に出ている時間帯に挙式だけでも挙げる。
 
占星術的には上記の(1)が最も重要で、後は(2),(3)で決めればいいのだが、候補が絞り込めない時は(4)-(6)の条件で絞り込む。太陽と月の出没時刻は、国立天文台サイトの「暦計算室」のコーナーで確認すれば良い。
 
(7) 十二直を見る場合、婚礼に関する吉凶は↓
たつ○ のぞく× みつ○ たいら○ さだん○ とる× やぶる× あやぶ× なる○ おさん× ひらく○ とず×
 
※十二直は物事によって、どれが吉になるか違うので注意が必要。工務店の暦によく掲載されている建築吉日は婚礼吉日と同じなので、それを参考にすると良い(工務店の暦では三隣亡と不成就日も外してある)。
 
(8)友引・仏滅などの六曜は全く無意味な迷信なので、見る必要は無い。候補が複数あり迷う場合は考えてもよい。
 

「こういうご時世だから、祝賀会はリモートで。参加してくださる方には前日にお料理を届ける。ムーランさんなら、最悪当日のお昼までなら多少の追加注文は受けられるって」
 
「それで祝賀会は火牛ホテル使って、お料理はムーランから配送してもらうことにした。近隣はムーランのデリバリー部隊が運んで、遠隔地にはクール宅急便で送り届ける」
「なるほど」
「青葉さんの所には、千里さんが持ってってくれるって」
「やはり千里さんだけが居場所を知ってるんだ!」
 
(真珠も知っているが決して誰にも言わない)
 
「それであんたたち、着るウェディングドレスは決めた?」
と母は訊いた。
 

4月6日の夕方、夏樹たちはホットプレートを使って焼きそばをして夕食としたのだが、テレビも無いし、WiMaxの機械が届くまでは動画とかも見られないし、お風呂も入れない。(水が冷たいから、茶碗も洗いたくない!)ので、寝ようかということになる。
 
「今夜は少し寒い気がする」
「ファンヒーターか何か買ってくれば良かったかなぁ」
などと言っていたら、ピンポンが鳴る。
 
「はい」
「こんばんは。徳都です。預かっている荷物の一部を“緑組”に頼んで持って来ました。それと、バスの件でご迷惑お掛けしたので、先行して新しい家に設置予定のボイラーも持って来ました。取り敢えず接続しますね。後で新しい家につなぎ直しますので」
 
「あ、はい」
 
それで、千葉で荷物を搬出してくれた人がエアコンを運び込んで来て、あっという間にユニットハウスに取り付けてくれる。
 
「これまた後日、新しい家に移動しますので」
「いいんですか?」
「その分の料金は個人的に徳部からもらいました」
「徳部さん、ありがとうございます」
「いえいえ。私のジョークは千里には通じなかったみたいだし」
 
やはりジョークだったのか!
 
じゅうちゃんは、最初にユニットハウスに接続されているシャワールーム(未使用)を取り外し!代わりに90cm×90cmサイズの洗面台ユニットを接続、更に180cm×270cmサイズの浴室ユニットを接続した。そしてその隣に90cm×90cmサイズのボックスをを2個置き、片方にボイラーの機械を入れた。台所の外側に灯油タンクを取り付け給油パイプをボイラーまで引いていく。(当然のことだが、ボイラーのすぐそばに灯油タンクを取り付けてはならない)
 

 
それに水道管および、電気の配線をした。これで台所・洗面台・お風呂の水道でお湯が使えるようになる。灯油も18Lの青いポリ容器1個からタンクに注いでいた。
 
「この灯油容器、ここに置いといもいいですか」
「はい、使います!」
 
エアコンを取り付けてくれた人は、洗濯機を運んで来て、お風呂の隣のボックス内に置いた。また冷蔵庫は台所に置いた。更にテレビも運び入れた。
 
2人の作業は物凄く手際よく、これだけの作業をわずか30分ほどで終えたのである。
 
「バイクも家の横に置いておきますね」
「ありがとう!」
 
「エレクトーンとかは後がいいですよね」
「それが助かります。さすがにここには入りません」
 
しかし、徳辺(九重)たちのおかげで、夏樹たちはこの日から暖かいお風呂に入ることもできたし、お湯で茶碗を洗えたし、洗濯もできたし、暖かく夜を過ごすことができた。
 
翌日には優子の父が4人用のコタツと、ストーブを1個高岡の実家から持って来てくれた。もうシーズンも終わりかけなので(と思った!)、今ファンヒーターを使用すると、灯油が残ってメンテが大変である(と思った!)。
 

4月7日、夏樹はビジネススーツ(スカート型)を着て、新居から歩いて新しい勤務先に出社した。歩いて15分くらいかなと思っていたが12分で到達した。
 
(通勤はウォーキングシューズ。ビルに到達してからパンブスに履き替えた)
 
8階建てのオフィス・ビルである。3階に“YY楽器・金沢支店”、8階に“△△音楽教室”という表示がある。夏樹は3階にあがり“YY楽器・金沢支店”と書かれているドアを開けた。
 
「おはようございます。本日、こちらの支店長に赴任してきた古庄です」
と挨拶する。
 
「支店長、お疲れ様です」
と言って、笑顔で32-33歳くらいの女性が出て来た。
 
「楽器課長の寺下です。臨時支店長代理を務めておりました」
「それはお疲れ様です」
 

とにかく行ってくれと言われて来たので、こちらの業務を何も聞いてないと夏樹が言うと、寺下さんと教室課長(兼・教室長)の山道さんとで、まずは全般の業務を説明してくれた。
 
この支店の業務は、フランチャイズしている△△音楽教室の運営と、楽器販売保守部門が2つの大きな柱である。合わせて楽譜やCDなどの販売も行っている。販売している楽器は、管楽器類:弦楽器類:鍵盤楽器類=2:3:5。鍵盤楽器では電子キーボードが数的には多いが、教室の生徒さんを中心に、ピアノ類やエレクトーンも売れているらしい(金額的にはエレクトーン、次いでクラビノーバが多いということだった)、
 
「歴史的には市内でピアノ教室を運営していた$$楽器と、主として小学校や幼稚園向けに足踏み式のリードオルガンの製造・販売をしていた££楽器が合併して¥¥楽器になりまして。リードオルガンの技術者が多数いたことから、1980年代にYY楽器の傘下に入って、リード・オルガンだけでなく、パイプオルガンのメンテも行うようになったんですよ」
 
「パイプオルガンか!」
 
やはり自分はパイプオルガンから逃れられないのだなと思う。音楽教室運営の責任者をしてればいいという訳ではないようだ。
 
「パイプオルガンについては、北陸の重要拠点になっているので、担当地域は、北陸三県のほか、長野県・岐阜県・新潟県にまで及びます。この地域には現在60台ほどのパイプオルガンが設置されており、様々なビルダー(*21)のものがあるのですが、保守契約を委託されている所もありますし、それ以外でも緊急の点検や修理を依頼される場合もあります。特に2020年春以降は、コロナのせいで本国から技術者が来日できないことが多く、臨時に依頼されるケースが増えて、忙しくなっていたんですよ」
 
(*21) パイプオルガンを作る製造者は“メーカー”ではなく“ビルダー”と呼ばれる。あれは“作る”というより“建てる”ものである。多人数の技術者がいる大きなビルダーから、個人の職人さんがほぼ1人で組み立てる所まで様々である。
 

「更に現在、建築計画中の大型パイプオルガンがあり、亡くなった前支店長の**は、色々調整に飛び回っていたようで」
 
それで支店長が過労死した訳だ!
 
なお、前支店長さんは50代の男性だったらしい。50代の男が過労死したから、39歳の女である自分が送り込まれてきた訳か!体力のある若い人を起用するとともに、きっと女のほうが男より無理しないと考えたか。支店長が2代続けて過労死したら、その後、誰もやりたがらなくなる。って、私過労死しないよね?
 
「大規模ってストップとパイプ数は?(*22)」
「70ストップ5000本くらいの予定です。実際の数は制作中に変わる可能性があります」
「それは国内でも10個くらいしかない規模じゃないですか!(*23)」
 
うちの会社がこれまで製造を請け負った中でも五指に入る規模のオルガンだ。国内で製造したものの中では間違い無く最大(中国で6000パイプのオルガンを製作したことがある:後述)。
 
自分は本当に最高に忙しい所に来たようだ。そして、この製作を仕切ることのできるのはたぶん自分か国重部長や武石常務あたりしか居ないと思った。常務や国重さんが本社を離れることはできないから自分に任されたんだ。北陸の人と結婚したからなんて全然関係無いじゃん!
 
これ、実際の製造は、たぶん坂本課長が直接こちらに来て指揮を執ることになるだろう。自分がまずしなければならない仕事は、坂本さんが来るまでの環境作りと仕様確定・予算見積もりだな。
 
(*22) パイプオルガンは様々なサイズのパイプに空気を送って音を出す。パイプは10mを越えるものから数cmのものまで様々である。当然小さいパイプは高い音が出る。そしてパイプの数が多いほど多くの音が出る。空気を送るのは現在は電動方式だが、古くは人力とか水車とかで送っていた時代もある。
 
パイプオルガンの簡易型として発展したリードオルガンでは、足踏みペダルにより送風していた。
 
ストップとは音色のセットを切り替える装置である。エレクトーンで言うと音色選択あるいはレジストレーション変更ボタンに相当する。伝統的には、ストップ操作をする助手が付いていて、楽譜上の指定あるいは演奏者の指示に従い、これを操作して音色を切り替える。小浜のミューズシアターに導入したものなど、近年のパイプオルガンには、これをエレクトーンのレジストレーション変更ボタンのように、演奏者自身が切り替えられるように作られていて、助手無しでも演奏できるものがある。
 

(*23) 2021現在の日本国内でストップ数70以上のパイプオルガン↓
(数字はストップ数−パイプ数:ミューズシアター以外は実際の数字)
 
東京芸術劇場 (126-8286)
NHKホール (92-7640)
愛知県芸術劇場 (93-6883)
京都コンサートホール (90-7155)
東京芸術大学奏楽堂 (76-5368)
所沢市民文化センター (75-5563)
サントリーホール (74-5898)
ミューズシアター (73-5604)
川崎シンフォニーホール (71-5248)
新宿文化センター (70-5061)
ハーモニーホールふくい (70-5014)
 
教会などの小型のオルガンではストップが4個以下でパイプも30〜200個程度のものも多い。1ストップ30パイプなら、音色は1種類で2オクターブ半しか音が出ないことになる。それでも教会のミサには結構使えるし、電子キーボードなどで伴奏するより、随分荘厳で、有り難みを感じる。
 

午前中、色々と書類を見て、また決裁を待っていた大量の書類にひたすらハンコを押した。お弁当(自分で作って来た:優子は引越疲れでダウンしていた)を食べた後、市内のショッピングモールなどに出店している店舗を寺下さんと一緒に巡回し、各々の店長と名刺を交換してきた。
 
夏樹の名刺は午前中に社内のプリンタで印刷した。女性的な角丸四角形のペールブルーの紙に「YY楽器金沢支店長 古庄夏樹」と丸ゴシックで印刷されていて、エレクトーン、フルート、ヴァイオリン、ギターの絵が印刷されている。また名刺の縁取りに『主よ人の望みの喜びよ』の楽譜が薄い灰色で印刷されている。分かる人には分かる名刺だ。
 
夕方には(勤務時間を越えるが、支店長の勤務時間はわりと無視される)山道さんと一緒に、8階の音楽教室に顔を出して、この日来ている講師さんたちを集めて挨拶した。
 
「挨拶のメッセージ代わりに」
と言って、夏樹は教室のロビーに置かれたSTAGEAの前に座ると、『トッカータとフーガ・ニ短調』を演奏してみせた。
 
講師さんたちから思わず歓声と拍手が起きた。
 
ま、つかみはこんなものかなと夏樹は思った。
 
「女性の支店長さん、応援します」
「楽器のできる支店長さんは大歓迎です」
などという声も出ていた。
 

翌日(4/8 Fri)は、その70ストップ5000パイプのオルガンを作るという顧客を訪問することになった。来てみると、火牛アリーナである!
 
事務局で挨拶したら、館長の白石さんが出て来て、まずは名刺交換する。白石さんは、60代の女性である。小学校の校長先生をしていて2021年春に退職したらしい。穏やかな感じの人で、これなら生徒に慕われたろうなと思った。
 
「ちょっと失礼」
と言って、内線を掛けている。
「YY楽器の新任の支店長さんが、いらっしゃっているのですが。はい。ではお通しします」
と言っている。
 
「今、ちょうど社長が来ておりますので、ぜひこちらもご挨拶したいとのことです」
とのことで夏樹たちは社長室に通された。
 
「おはようございます。YY楽器、金沢支店長に就任しました、古庄です」
と挨拶し、向こうも
「おはようございます。サマーガールズ・フェニックスの社長、村山です」
と向こうが挨拶する。
 
「え?」
「あれ?」
 
と双方驚いて声を出す。
 

「千里さんが社長なの?」
「夏樹さんが支店長になったの?」
 
白石館長も寺下課長も驚いている。
 
取り敢えず応接セットに座って話す。20代の男性がケーキとコーヒーを持ってきてくれた。千里がコーヒーを飲み、ケーキも一口食べたので、夏樹たちも頂いた(ここは物凄く換気されていて寒いくらいである)。
 
「ここは、元々妹の青葉が“うっかり”この土地を買ってしまったからさ。それで私が体育館を建てることにしたんだよ。するとそこにローズ+リリーのケイが乗ってきて、ライブ会場としても使えるのにしてくれと言って、それで運営会社を設立したから、私が社長で、ケイが副社長。実際には同等の権限を持っている」
 
「へー!」
 
「2021年1月に小浜のミューズシアターにパイプオルガンを建設したけど、今度はここにも作ろうという話になってね。コロナで国境を越えての移動が困難で、小浜でもそれで苦労したから、今度は国内のメーカーに依頼しようということになった。それで10年ほど前に中国の蘇州(スーチョウ)に大規模なパイプオルガンを建設していたYY楽器さんにお願いすることにしたのよね」
 
千里が“蘇州”を“そしゅう”ではなく“スーチョウ”と発音したので、夏樹は『できるな』と思った。
 
蘇州(スーチョウ)のオルガンのビルドには夏樹も参加している。あれは(責任者じゃ無かったから!)わくわくする作業だった。でもあの時も最初の営業担当者は過労死している!うちの会社、なんか過労死多くない??
 
(亡くなった人は蘇州語が分からず北京語で話していたものの、相手と充分なコミュニケーションが取れなくてストレスが溜まったとも聞いた)
 
夏樹はこの時、蘇州語(上海語に似ている)を覚えた。営業担当なのだけど(*24)実際には製作の実作業にもかなり参加してパイプを切ったり削ったり、配線のハンダ付けをしたりしていた。テスト演奏もかなりしているが、大規模なオルガンを弾くのは物凄く快感だった。
 
あの時の営業責任者が今常務になっている武石さんで、製作のサブリーダーが坂本課長(当時は主任)である。当時の製作のリーダーの人は、3年後に会社を辞めて“奧さん”の郷里の“常州”(*25)で家具屋さんをしている。でも当地の教会に頼まれて数年前、ひとりだけでパイプオルガンを作っちゃったらしい(制作費は30万元≒600万円だったとか;結構大きなものという気がする)。
 
(*24) 当時は向こうの人とひたすら飲み明かしたので、かなり俗なというか卑猥な表現も覚えた。接待の一環として女をあてがわれて焦ったこともあった。
 
無理矢理服を脱がされて、女物下着を着けているので「え?」と向こうが戸惑った所で「ぼくは“同志”なので君を抱けないけどお話しよう」と言って、おしゃべりして夜を過ごした。ジャニーズの話とかで盛り上がり、結構楽しかった。でも次回はホテルの部屋のベッドで可愛くメイクした美少年が寝て待っていて、これはもう追い出した!
 
(*25) 蘇州(スーチョウ)の西が無錫(ウーシー)で、その西が常州(チャンチョウ)である。常州といっても、茨城県ではない!
 

千里の説明は続く。
 
「こちらも、小浜のとだいたい似たような感じのものを作りたいということで、前の支店長さんには随分奔走してもらったんだよ。それでどうも過労死なさったみたいで。お葬式には行ってきたけど、気の毒なことしたと思ってた」
 
と千里は言う。
 
「小浜のミューズシアターのはドイツのヘクター・ウント・フーファイゼン社ですよね?」
と夏樹は確認する。
 
「さすがよくご存じだ。ミューズシアターを所有しているムーランの社長・山吹若葉の夫が、シュトゥットガルトに住んでいるので、そこの会社を使ったみたいだよ」
 
「もしかして遠距離夫婦?」
「そそ。以前は年に数回ドイツに行ってたけど、コロナが流行り始めてからは1度も会ってないと言ってた。ひたすら電話で話す」
 
「大変そう!」
「モニカちゃんもここ半年ほど大変だったでしょ?」
「その名前は勘弁してよ〜」
 

「モニカって何かあるんですか?」
と帰りの車の中で、羅下さんに尋ねられた。
 
「いや、私が昔時々ガールズ・オンリー・バーに行ってた頃、そのお店の中で名乗っていた“仮の名前”なんだよ」
 
当時“モニカ”名義のクレカまで作っていたことは言わない。
 
「だから当時の常連さんには、よくその名前でからかわれる」
「ガールズ・オンリー・バーって一度行ってみたい!じゃ村山社長さんもそこの常連だったんですか?」
 
「村山さんの彼女というか夫が常連だったんだよね」
 
寺下さんは少し考えていた。
 
「ビアン婚ですか!?」
「そうそう、私もだけどね」
 
「素敵!私も女の子と結婚したいと思ってた時期ありますよ」
と寺下さんはワクワクした顔で言った。
 

優子と夏樹のパートナーシップ宣言だが、この制度を導入している自治体で、“連携協定”をしている所同士なら、簡単に移行できるのだが、あいにく千葉市と金沢市の間にはそのような協定が無い。それであらためて宣言する必要があり、そのための書類も取り寄せなければならないことになる。
 
それで結局5月6日(金・みつ)にすることにし、その日は休ませてもらって、市役所に行き、宣言をすることにした。
 

邦生はその日、銀行に出勤すると、上司の沢本課長に言った。
 
「すみません。急で申し訳無いのですが、13日にお休みを頂けませんでしょうか」
「ああ。いいよ」
「実は突然結婚することになって」
「ああ、結婚するとは言ってたもんね。日取りが決まったのね」
と課長は言ってから
「お仕事は続けてくれる?」
と心配そうに訊く。
 
「もちろん続けます」
「良かった。今君に辞められたら困るからよろしく。明日入ってくる新人を君に1人付けることになっているから、津幡の件はその2人でお願いね」
 
「分かりました!」
 
「2月に指輪をもらったとか言ってたよね」
と花畑係長が言う。
 
「いえ、私が贈ったんですが」
「最近は女から男にもエンゲージリング贈るんだっけ?」
「いえ。相手は女性なので」
 
と邦生が言うと課長は目をパチクリさせていたが
 
「最近は色々なのがあるから、それもいいかもね」
と言っていた。
 
「ありがとうございます」
 
「ぼくはホモには抵抗があるけど、レズは構わない気がする」
などと花畑さんは言っている。
 
何かこういう微妙な人居るよね?レズは抵抗あるけどホモは構わないとか、ホモは気持ち悪いけど、レズならいいとか。
 
自分と真珠の関係は自分としてはストレートのつもりだけど、人によってはレスビアンに見えたり、ゲイに見えたりするかも知れない。
 

「披露宴とかしないの?」
と係長が訊く。
 
「一応、ネット祝賀会形式で、夕方19時から21時まで」
「おお。だったらぼくも参加したいから招待してよ」
「ぼくにも招待状ちょうだい」
と課長・係長が言うので、ふたりに葉書を渡した。
 
「参加してくださる場合は、この招待状に記載しておりますURLかQRコードからお願いします」
 
などと言っていたら、長野珠枝が立ってくる。
「祝賀会というと、会費制なのね?」
 
「はい、そうです。会費は1万5千円にさせて頂いて、御祝儀はご辞退させていただきます。支払いは、各種クレカのほかPayPayでも払えますので、またネットですので、服装は平服でお願いします」
 
「ネットなら、豪華ドレス着ても意味ないよね!」
「はい。ドレス着るのは結婚する当人たちだけです」
 

「相手も女の子なら、どちらもウェディングドレス?」
「なんか、そういうことになっちゃいました。私がタキシード着ると言ったのですが却下されて」
「そりゃ折角の結婚式だもん、ちゃんとウェディングドレス着なよ」
「恥ずかしいんですけど」
 
「女同士なんて最近珍しくないから恥ずかしがることないよ」
と長野さんは言っていた。
 
課長は言った。
「でも13日は水曜日だよね。その後、新婚旅行とかに行かないの?」
「コロナのご時世なので、新婚旅行はパスで」
「でも課長、木金はお休みあげましょうよ。結婚式の翌日に勤務とか可哀想ですよ」
と長野さん。
 
「そうだね。君、水曜から金曜まで有休あげるから、ゆっくりと日曜まで過ごしなさい」
「そうですか。ではそれでお願いします」
 
それで邦生は有休届けを書き直してデジタル捺印し、課長に送信した。
 
「くにちゃん、その招待状30枚くらいちょうだい」
と三村小梢が言う。
 
「30枚!?」
「いつもの女子会メンツに配るから」
「あははは」
 

4月8日は学校・幼稚園などが始まる。この日の朝、“古庄奏音”は新しい制服を身に付け、優子に手を引かれて、新しい幼稚園に登園して行った。富山石川ではあまり言葉の差違は無いし、だいたい神経が太い子なので、奏音はすぐ新しいお友だと仲良くなったようであった。
 
奏音の苗字だが、どうせ苗字を変えるなら、引越のタイミングで変えるのがよい、と大人たちの意見が一致し、夏樹は4月中に奏音を自分の養子にする予定である。それで、奏音は法的には、実母の優子、養母の夏樹という2人の母親を持つことになった。
 
幼稚園には「苗字が変わる予定」ということで、フライング登録した。
 
本人は「こしょう・かなで」「こしょう・かなで」と100回くらい発音練習していた。更には「古庄さ〜ん」と呼ばれて「はーい」と返事する練習もたくさんしていた。
 
「わたし、かわるのはみょうじだけ?せいべつはかわらないの?」
「女の子のままだよ」
「おとこのこになったら、たっておしっこしてみたいなあ」
「大人になってから、男になりたいか女になりたいか、自分の気持ちで選べばいいよ」
 

4月8日(金).
 
H銀行では、昨日まで火牛ホテルで研修を受けていた新入行員たちが各支店に配属されてきた。
 
瑞穂は朝7時に真珠に起こされ、半分眠りながら御飯を食べ、お化粧してから出掛けようとして、邦生に「口紅塗り忘れ」と指摘されて慌てて塗ってから出掛けていった。
 
「間に合うかな」
「道に迷わなければ大丈夫と思うけど」
 
その後、邦生も出掛けた。
 
11時頃、会議室に呼ばれるので行くと、支店長・融資課長・渉外課長・投資課長と揃っているので緊張する。邦生の後から、女子行員が1人入ってくる。
 
見知らぬ顔だし、お化粧が初々しいので、新人と判断する。この子を火牛タウンの件で自分に付けるのかな。
 
でも意志の強そうな顔をしている。やはり金沢支店に配属されてくる女子って、“OL”気分の子は居ないよなと思った。たぶん富山の本店も同様だろう。新人研修の準備の時に共同作業した本店の子たちももテキパキとした“できる”感じの子ばかりだった。1人、邦生同様ズボンを穿いてる子が居て、思わず握手した!
 

支店長が言う。
「紹介するね。こちら今年入社して金沢支店・渉外課に配属された、豊畑雛美(ひなみ)さん、こらは投資課の吉田邦生(くにお)さん」
 
「それで吉田さん、火牛スタジアムと、運営会社のグリーンフェニックスに関して、2人で共同で当たってもらおうと思って」
 
「はい」
 
「そういう訳で、豊畑さん、これから整備工事が始まる火牛スタジアムという案件と、その運営会社のグリーンフェニックスについて、吉田さんと共同で顧客対応をして欲しい」
 
「はい」
 
「では後は、吉田さんから説明してあげて」
「分かりました」
 

それで、支店長たちが出て行くので、邦生はこの会議室をそのまま使わせてもらい、まずは物件の説明をした。
 
・現在津幡町の元スポーツセンター跡地に一大公園ができつつある。
 
・土地の所有者はグリーン・リーフ。ここにこれらの施設が建設済み、或いはこれから建設される予定、
 
−火牛スポーツセンター(専用プール・一般プール・アクアゾーン・火牛ホテル・火牛アリーナ・屋内テニスコート・屋内グラウンドゴルフ場)
 
−火牛バーク(公園)
 
−火牛スタジアム(サッカー場&全天候型陸上競技場)
 
「火牛スポーツセンターが第1期工事、火牛パークが第2期工事で、これが今年の春にオープンした。火牛スタジアムが第3期工事でこの工事はたぶん1年ちょっとかかる」
 
「それで第三期工事の建設費80億円を融資して欲しいという申し入れがあり、うちの銀行は受けた。工事完成後に建築会社にうちが支払い、グリーン・フェニックスは、毎年20億円+利子を4年間払って完済する」
 
「なんか凄いアバウトな返済ですね」
「実際お金を借りる必要は無いんだと思う。ただ銀行と付き合っておきたいからちょっと借りてみたという所」
「うーん・・・」
 
「だからこの機会に、給与の振り込みをうちの銀行からなさいませんかとか、クレカ作りませんかとか、社員の方たちのボーナスが出たらぜひ定期預金をとか、その手の営業をするのが、豊畑さんの仕事になると思う」
 
「なるほどぉ!それはやり甲斐がありますね」
 

邦生は火牛タウンを運営してる各企業について説明する。
 
「何か大きな会社っぽく見えるけど、実は、どの会社もほとんど個人経営の会社なんだよ」
「へー」
 
「押さえておかなければいけないキーパーソンが居る」
と言って、邦生はホワイトボードに書き出す。
 
川上青葉 Green Leaf
村山千里 Phoenix Trine
唐本冬子 Summer Girls Publishing
山吹若葉 Moulin Holding
 

「グリーンリーフは、川上さんの個人資産管理会社で、あまり大きな業務はしてないけど、あちこちのプロジェクトに出資して、凄い利益が上がっている。村山さんのフェニックス・トラインとの共同事業“松本花子”の利益が物凄い」
 
「松本花子って、あの作曲家集団のですか?」
「そうそう。実はこの2人か共同で設立した会社なんだよ」
「へー」
「ちなみに2人は姉妹で、川上青葉はアクアのメインライターの大宮万葉で、羽鳥セシルのメインライター・ 桜蘭有好、そして“霊界探偵”金沢ドイルだよ」
「すごーい!そんなに作曲で活躍している上に霊界探偵までしてるんですか」
 
「更に水泳の東京オリンピック代表で金メダル取ったね」
「あの川上選手なんですか!すごーい!!」
 
「火牛アリーナに隣接する“津幡組”の専用プールが練習の本拠地だね」
 

「フェニックス・トラインは、林業を中核とする企業集団の持株会社。北海道、栃木県、北陸3県、兵庫県に広大な森林を所有していて、製材、製紙、キノコ栽培、牧畜などをしている。ハム・ソーセージも製造しているから、その関連事業で主として北海道にいくつもの養殖場を持っていて水産加工品の缶詰とかも作っている」
 
「あと多数の化学工場を所有していて、プラスチック製品、アクリルボード、防音板、アクセサリーなどを製造している。今私が付けてるこの指輪」
 
と言って、邦生は自分の左手薬指の“プラスチーナ”の指輪を外して豊畑さんに見せる。
 
「あれ、これプラスチックだ!」
 
「まるでプラチナみたいに見えるプラスチックでプラスチーナというんだよ。こういうのを作って普段使いのアクセサリーを製造している」
 
「おもしろーい」
 
「他にもトイレットペーパーとか、不織布マスクとかも作っている。またコットンとか紅茶とかをインドから輸入したり、インドネシアからコーヒーを輸入したり、スペインからスポーツ用品を輸入したり、その手の輸入部門も大きい」
 
「凄い大きな会社なんですね」
 
「どうも50-60人から成る側近集団を持っていて、実際の業務の指揮はその人たちがしているみたいね」
 
「ひとりではできませんよね!」
 
「更にこの人は、山森水絵のメインライター鴨乃清見で、多数の歌手に楽曲を提供している琴沢幸穂、醍醐春海でもある」
 
「琴沢幸穂の名前は結構聞く気がします」
 
「そしてバスケット選手でもあって東京オリンピクに日本代表として出て銀メダルを取得した」
 
「なんでそんなにひとりでできるんですか〜〜!?」
 
「だから村山千里複数人説というのが昔からある」
「うーん・・・」
 

「山吹若葉さんは、移動レストラン“ムーラン”の事業が当たって、その後、ムーラン・リゾート、ムーラン建設、ムーラン・ハウジング、ムーラン・エレクトロニクス、など多数の事業を立ち上げている。物凄く多忙で、ヘリコプターとジェット機で全国を飛び回っている。日本で最も年間移動距離の長い社長さんかも」
 
「へー」
 
「2020年春以降のコロナ下で、デリバリー部門が物凄い利益を上げていて、現在個人資産は2-3兆円と思われる」
 
「兆!?」
 
「ムーランの株式をもし公開したら、その10倍行くだろうね」
「公開しないんですか?」
 
「株式公開して、一般の株主ができると、株主たちは会社が利益をあげるように要求する。でも山吹さんは、むしろ資産を減らしたいと思っている」
 
「減らしたいんですか!?」
 
「山吹若葉さんはいつも『お金が余って余って困る』と言っている。だから山吹さんを動かすキーワードはね。『社長、これやるとお金が減らせますよ。やりませんか』という言葉」
 
「私、その社長好きになったかも」
「面白い人だよ」
 

「唐本冬子は、むしろローズ+リリーのケイと言ったほうがいい」
「音楽関係者が多いですね」
「そのつながりが大きいんだよ。ムーランの山吹若葉さんは唐本冬子さんの小学生以来の友人」
「なるほどー」
 
「唐本冬子さんは、自身がローズ+リリーのケイとして歌手をしているし、ローズ+リリーの相棒のマリさんと一緒にマリ&ケイとして多数の楽曲を書いている。そしてアクアの事務所、§§ミュージックの会長だよ」
 
「なんかスーパーウーマンばかりじゃないですか?」
「みんな信じられないよね。ケイさんも昔から複数人説がくすぶっている」
 

「そういえば、川上青葉・村山千里と苗字が違うのは、どうしてなんですか?」
 
「それについては悲しい話をしなればならない」
と言って、邦生はその件を話し始めた。
 
・川上青葉が、東日本大震災で、姉・両親・祖父母を一気に失い、天涯孤独の身になったこと。
 
・たまたま震災のボランティアで行っていた、村山千里と友人の高園桃香が川上青葉と意気投合して保護し、桃香さんのお母さんが未成年後見人になってあげたこと。
 
・それで、川上青葉は、村山千里・高園桃香と姉妹の契りをして、姉・妹と呼び合っていること。後見人になってくれた桃香さんのお母さん・朋子さんのこともお母さんと呼んでいること。
 
それまで巨額のお金の話には動ぜずに聞いていた豊畑さんが、この話にはぼろぼろ涙を流していた。
 
「ほんとに辛いことがあったんですね」
「川上青葉が何にでも全力投球なのは、ひとつはやはり自分を忙しくして涙を流す時間を与えないためだと思うよ」
 
「強い人ですね」
「この4人はそれぞれ強い人だよ」
 

「4人はそれぞれどこに住んでいるんですか?」
 
「山吹若葉さんは、仕事でひたすら飛び回っているから、固定の住所というものが無い。一応住民登録は小浜市に置いている。本人としても、そこが拠点という気持ちがあるみたい。ムーランの登記自体も最初東京にしていたけど、これも現在は小浜市に置いている。彼女の実家は東大和市。唐本さんの実家もその近くにある」
 
「そうか。小学校の同級生だったんですね」
と豊畑さんはメモを見ながら言う。
 
「唐本冬子・ケイさんは現在、東京恵比寿のマンションに住んでいる。でもローズ+リリーでの相棒のマリさんこと中田政子さんと共同生活してるし、彼女の実家にもよく滞在している。中田さんの実家は小平市だよ(*26). でも芸能人の住所は基本的に秘密だから絶対に口外しないでね」
 
「分かりました!」
 
「川上青葉さんは、生まれは埼玉県の大宮だけど、岩手県の大船渡で育ち、そこで震災に遭った。その後は、高園さんの実家のある高岡市伏木に住んでいる。ずっと住んでいた家が区画整理にあったので、同じ伏木地内に新しい家を建てて昨年11月に引っ越した」
 
「村山千里さんは北海道の留萌市の出身。大学に入るのに関東に出て来て、千葉市に6年間住んでいたけど、その後、東京に引っ越して、更には子供を育てるのに、浦和に引っ越した。現在は浦和に建てた家に、実は村山千里さん、高園桃香さん、それに川上青葉さんの婚約者の鈴江彪志さん、そして4人の子供と一緒に住んでいる」
 
「その子供は誰の子供ですか?」
「その説明はあまりにも複雑すぎるから、今度また説明してあげるよ」
「なんか複雑なんですね!」
 
「川上青葉さんが昨年10月29日以来、関東方面に行ってあれこれ作業をしているから、伏木の実家がお母さんひとりになってしまう。それで高園桃香さんが子供たちと一緒に伏木にいっったん戻って一時的に一緒に暮らしている。子供4人の内、2人は小学校・幼稚園があるので、現在は浦和に戻っている」
 
「浦和って市町村合併しましたっけ?」
「大宮と合併して“さいたま市”になったんだよ」
「あ、そうか」
「浦和の家には川上さんの部屋もある。川上さんにとっては、生まれ故郷に戻ったようなものだね」
「わあ」
 
「浦和の家も伏木の家も、川上さんが水泳をして、村山さんがバスケットをするから、地下1階にバスケットコート、地下2階に25mプール作られている」
「すごーい!」
 
「浦和の家は2階建てだけど、伏木の家は平屋建て。こうなったのはやはり土地の問題があると思う」
「浦和だと土地が高そうですね」
「値段以上に広い面積を確保しにくいんだと思うよ」
「あ、そうですよね。田舎だとわりと土地が確保しやすい」
 
「どちらも車が8台駐められる。伏木は平面駐車場、浦和は立体駐車場だけど」
「ああ。でも8台って凄いですね」
「田舎は車が無いと生活できない上に、みんな頻繁に遠距離移動してるから、どうしても車の台数が増えるんだよね。来客も多いみたいだし」
「多そうですね」
 

(*26) 冬子や政子の実家位置を簡単に示しておく。
 
↓東京多摩部部分図

 
冬子や若葉の実家は東大和市。
政子や詩津紅の実家は小平市。
冬子や詩津紅の高校は国分寺市(最寄駅:国分寺)。
若葉や和泉の高校は小平市(最寄駅:恋ヶ窪)。
 
美空が2014年に引越したマンションは国分寺駅から徒歩1分。
上島雷太が逮捕されるまで住んでいた家は国分寺市。
千里がよく使っていた武蔵野線は、国分寺駅の隣の西国分寺駅を通る。
 
東大和から国分寺に出るルートは2つあり、その内のひとつが恋ヶ窪を通る。冬子は高校時代、このルートの電車に乗っていて若葉に痴漢と間違われ、一緒に降りて高校をサボる羽目になる。
 

「その4人、ご結婚は?」
 
「それがなかなか難しい」
「難しいんですか!?」
 
「山吹若葉さんは、実質結婚していて子供も3人居るけど、夫はずっとドイツに住んでいる」
「ドイツ人?」
 
「日本人だけど、自動車メーカーのデザイン部門に関わっていて、それでずっと本社に居るんだよ。だから山吹さんは頻繁にドイツに行ってたけど、コロナの流行でずっと渡航できずにいる」
「大変ですね!!」
 
「川上青葉さんは婚約者の男性がいるけど、多分パリ・オリンピックが終わるまでは結婚式は出きないと思う」
「結婚とかしてられないでしょうね」
 
「唐本冬子=ケイさんは、実態がよく分からないけど、多くの人の見方では、ローズ+リリーのパートナーでもある、中田政子=マリさんと実質結婚しているのではないかと思われている」
 
「ああ。私もそうだと思ってました」
「でもケイさんには他に男性の婚約者がいる。またマリさんは子供を2人産んでいるけど、その父親は公表されていない」
 
「ケイさんに婚約者がいるんですか?」
 
「だから多くの人は、ふたりが同性婚であることをカムフラージュするためにレコード会社から言われて婚約者ということにしている、ダミーではないかと思っている。女同士では子供が作れないから、マリさんの子供は恐らく誰か友人の男性からタネをもらったのだろうと」
 
「ええ」
 
「ところがここに“ケイ複数人説”があって」
「へ?」
 
「ケイというのは10人くらい居て、1人がマリさんと結婚していて、1人がその“男性婚約者”と婚約しているのではないかと」
「うーん・・・・・」
 
ケイ複数人説
1=ローズ+リリーのケイ(マリと夫婦)
2=KARIONの蘭子(水沢歌月)
3=秋穂夢久・紅石恵子(男性の婚約者がいる)
4=§§ミュージック会長
 
(8人説、10人説を唱える人もある)
 
「村山千里さんについては全く分からない」
「はい?」
「彼女は昨年1月に、結婚式を挙げているのだけど、20分の時間差で別々の人と結婚式を挙げている」
「重婚ですか?」
 
「本人は重婚はしてないと言っている。そもそも2つの結婚式に出た村山さんは、別の婚礼衣装を着ていたし、髪型も全く違っていた」
 
「うーん・・・」
 
「そんな短時間に婚礼衣装を着替えられる訳がないし、髪型を変更できる訳が無いから、やはり村山千里は最低2人いるとしか考えられないんだよ」
 
「もしかして双子とか?」
「双子説は多くの関係者が否定している。結局よく分からない」
「うーん・・・」
「結婚相手は、ひとりは細川貴司さんと言って、中学のバスケ部の先輩、もうひとりは、高園桃香さんだよ」
 
「ああ。同性婚なんですね」
「なんか最近多いよね」
「別にいいんじゃないですかねー。本人たちの問題だもん」
と言ってから、豊畑さんは
 
「あれ?でもどちらの苗字も名乗ってないんですね」
と言った。
 
「そそ。そもそもバスケット選手としての登録は“村山千里”のまま。だから、千里さんには、村山千里、細川千里、高園千里の3人がいるのでは?と千里さんの友人の多くが言う」
 
「三つ子?」
「それも多くの関係者が否定している」
 

夏樹が担当地区内の物件に関する膨大な資料を端末で読んでいたら、教室課長の山道さんが、もじもじした感じの21-22歳くらいの女性を連れてくる。女性は長い髪にストレートパーマを掛け、白い上品なワンピースを着ている。講師さんかなと思った。
 
「支店長、ちょっとご相談があるのですが」
と山道さんが言う。
 
夏樹は、個室に入ったほうが良さそうだと判断した。
「ちょっと会議室に入ろうか」
「はい」
 
それで3人で定員6名の小会議室に入る。
 
女性は「自分で自己紹介しなさい」と言われて発言した。
 
「支店長さん、初めまして。池田友紀(ゆき)と申します。」
 

「君、女性的な声を出すの上手いね」
と夏樹は言った。
 
「私のこと分かりました!?」
と本人が驚いている。
 
「普通の人にはリードできないと思うよ。特に声パスする人はそれでもう普通に女性だとみんな思う」
 
「リードされたのって、高校卒業した後では初めてです!」
 
「山道課長、この人を女性講師として雇っていいかという話?」
と夏樹は山道に訊いた。
 
「はい、まさにその通りです」
「私は問題無いと思うけどね」
 

「トイレとか更衣室の利用はどうしましょうか?」
「トイレは普通に女子トイレを使ってもらっていいと思うよ。更衣室は・・・」
と言ってから、夏樹は池田さんに訊く。
 
「池田さん、失礼ですが、去勢とかは?」
「したいんですけど、まだ取ってないんですよ」
「だったら・・・」
 
夏樹は少し考えて言った。
 
「女子更衣室の入口付近に、よく保健室とかにあるカーテンスタンドを立ててさ、そこで着替えてもらううというのはどうだろう?」
 
「男子更衣室ではなくと女子更衣室でいいですか?」
「カーテン立てて、お互い見えないようにすれば、あまり苦情は出ないんじゃないかなあ。この人を男子更衣室には入れられないでしょ」
 
「分かりました。では用意します」
「よろしく〜」
 
「ありがとうございます。嬉しいです」
と池田さんは感謝していた。
 
まあ音楽関係にはこういう人多いよな、と夏樹は思った。
 
なお、彼女は“友紀”は通称で、それで郵便物なども届くが戸籍名は男性的というので、講師名などは通称を使用し社員証もその名前で発行するが、健康保険証や年金手帳、税務申告などは戸籍名を使用することにした。
 
 
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【春春】(4)