【春春】(3)
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(C) Eriko Kawaguchi 2022-11-04
ところで3月1日に高校を卒業した竹下リルであるが、当然大学に進学する気など無い(あちこちの大学からお誘いはあった)。大学の勉強などする時間があったら、その間に泳ぎたい所だ。
しかし大学に行かないと無職ということになり、世間体が・・・と気にする両親に言われて、リルは3月2日付けで、ムーランの社員になった。卒業してすぐに入社させたのは、この日から「国際大会日本代表選手選考会」が行われるので、健康保険を使えるようにしたためである。本人は1日朝の卒業式が終わったら、ホンダジェットとヘリコプターで東京に移動したのだが、保険証はムーラン東京を通して、2日のお昼には本人に渡した。
そして大会が終わって津幡に戻ってきたら、金堂多江と同様にムーランのセントラルキッチンで働いてもらうことにした。
また、リルの妹ハネ(4月から高校2年)は、これまでも姉に付いてきてよくプライベートプールで泳いでいたのだが、4月1日付けで正式のクラブメンバーとして登録した。4月の日本選手権には参戦予定である。
(2人の名前は、リルケ・ハイネに由来する。その下の弟は椎良(しいら)で、これはむろんシラーである!残念ながら彼は水泳はしない。せっかく美少年なのに残念ながら女装の趣味も無い!現在はサッカー部に所属している:バレンタインを持ち帰るのに、親に車で迎えに来てもらったらしい!)
3月30日(水)の夕方に唐突に転勤を告げられた夏樹であるが、まずはその日の内に不動産屋さんに連絡を入れた。すると転勤のためということであれば(これ大事:正当な理由が無く、単に引っ越したいということなら違約金を取られる場合がある)、一応3月中の告知になるので4月分の家賃まで払ってもらえばいいというこどであった。但し実際には敷金から引かれるだけなので、4月の引落しは発生しないらしい。
続いて夏樹は優子に電話を入れる。優子は大喜びで
「これで親子3人、一緒に暮らせる!」
と嬉しそうに言っていた。
その後、夏樹は自分の両親に連絡を入れる。両親は
「せっかく、かなでちゃん、こちらに来てくれるかと思ったのに!」
と残念がった。夏樹は
「時々千葉にも連れてくるから」
と言っておいた。
更に夏樹は季里子に電話した。
「良かったね!これで娘さんと一緒に暮らせるね」
と季里子も喜んでくれた。
そこまで連絡した所で、引越の準備のために、すべき作業のリストアップをしていたら、優子から連絡がある。
「ねぇ、なっちゃんが高岡に引っ越したら、私たちのパートナーシップ宣言はどうなるの?」
「あっ・・・」
夏樹もそのことをきれいに忘れていた。日本の法律に基づく婚姻届と違い、パートナーシップ宣言は自治体単位である。
「高岡にはパートナーシップ宣言制度は無いの?」
「確認する」
それで10分後に優子から連絡がある。
「高岡を含めて、富山県にはパートナーシップ制度のある地域無いんだけど、金沢市と白山市にはあるみたい」
と優子は調べた結果を報告する。
夏樹は即言った。
「だったら、私もゆうちゃんも、奏音も全員金沢に住民票を移そうよ(*15)。それでパートナーシップは金沢市のものに書き替えてもらうか、移行が難しそうだったら、金沢市であらためて宣言すればいい」
(*15) 現在3人の住民票・戸籍はこうなっている。
戸籍:夏樹は千葉市、優子と奏音は高岡市で奏音は優子の娘として同じ戸籍に入っている。
住民票:夏樹と優子は千葉市の住民になっおり、優子は夏樹の同居人として同じ住民票になっている。奏音は単独の住民票で高岡に置いている。
奏音を夏樹の養子にしたいのだが、そのためには奏音の住民票を千葉に移す必要があり、それに優子の両親が抵抗していた。
「でも住民票を金沢のどこの住所に置くの?」
「うーん・・・1Kのアパートでも借りて、そこに置こうか」
「それなら、普通に3人で暮らせるアパート借りて、最初からそこに引っ越したほうがいいと思う。住民票置くだけのアパートとかもったいないよ」
「確かにそうだ」
夏樹は小さなアパートでも借りといて、仕事が遅くなった時は高岡まで戻らずに、そこで寝ればいいやと思ったのだが、優子に言われてみれば、確かに普通に優子・奏音と3人で暮らせる2DK程度のアパートを借りた方がいい気がする。
「じゃ、そちらで適当なアパート探しといてくれない?」
「いいよ。そちらの引越作業は?」
「たぶん1人で何とかなるんじゃないのかなあ」
「でもお仕事しながらなんでしょ?私、そちらに行こうか。アパート探すのはお母ちゃんに頼む。そしてなっちゃんが仕事に行ってる間に私、荷造りするよ」
「そのほうがいいかな。でもどうやってこちらに来る?」
「ムラーノ運転して行くかも」
「分かった」
それで優子が引越の手伝いに千葉に行くことになったのである。
優子はこのことを両親に話した。すると、夏樹が金沢支店に転勤になったというのは、歓迎してくれたものの、金沢に優子・奏音と一緒に引っ越すというのには反対した。
「高岡じゃダメなの?金沢のどの付近?」
「会社はF町、イオン金沢というか昔のサティの近くなんだよ」
「だったらここから車で30分で行けるはず(*16)」
(*16) 父はかなり短い時間を言っている。後述するが、朝の通勤時間帯にその時間で到達するのは、少なくとも四輪の車では困難(雪の日以外はバイクを使う手はあるが)。
「でも高岡市にはパートナーシップ宣言の制度が無いんだよ」
「へ!?」
それで優子は、パートナーシップ宣言は自治体レベルで定められた制度なのでできる自治体とできない自治体があるというのを説明する。
「なんて不便な。全国統一すればいいのに」
「全くそう思う」
すると、優子の父・宮春は言った。
「よし。全員で金沢市に引っ越そう」
「え〜〜〜!?」
「そしたら、お父ちゃんの通勤は?」
と母が訊く。
「サティの付近からなら福岡(*17)までは車で30分ちょっとで行けるよ」
(↑今の家からサティ付近までは30分で無理なことを認めてる!!)
(*17) “福岡”は高岡市西部の地域名(旧福岡町:2005年に高岡市に合併)。JR福岡駅、能越自動車道・福岡PA/ICがある。優子の父は現在の自宅
(高岡市南部)から車で15分ほどかけて福岡地区の会社に通勤している。
北福岡駅→上福岡駅→福岡駅→南福岡駅というルートは大移動、というネタがあった。南福岡駅は福岡県で博多駅の近く、福岡駅は富山県、上福岡駅は埼玉県、北福岡駅は岩手県。但し北福岡駅はその後“二戸(にのへ)駅”に改名した。
それ以外に伊那福岡駅(長野県/飯田線)もあるし、また昔は加賀福岡駅(石川県/北陸鉄道)、美濃福岡駅(岐阜県/北恵那鉄道)もあった。
福岡という地名は多い。
「5人で暮らすとなると3LDKくらい必要だよ。借り賃も高いよ」
と優子は言う。金沢市内で3LDKなら8万から10万しそうである。
「マンションとかだと階段の登り降りが大変だよ。一戸建てを買おう」
「お金は?」
「この家を売ればいい」
「え〜〜〜!?」
「だってまだローンが残っているのに」
住宅ローンはまだ200万くらい残っている筈である。更には、7年前に父が叔父の保証かぶりをして負った負債を銀行から借りて払った分のローンも少しずつ返していたのが、残り100万ほどある。うちには全くお金が無い。
「新しい家を建てるのにお金を借りたらそのお金の一部でこちらの残ローンは返済すればいい」
「それほとんど詐欺だし、そもそもローン審査が降りないと思う。だいたい夏樹の引越には間に合わない」
と優子は言った。
ところが! 思いも寄らないことが起きたのである。
夏樹から金沢転勤の報せを受けた翌日、3月31日(木)の午前中、父の弟(優子の叔父)が、訪問してきたのである。
叔父は小さな会社を経営していたが、2015年7月、取引先の大企業が倒産したのの連鎖倒産に巻き込まれ、会社は倒産、本人も破産に追い込まれた。そしてその借金の中で優子の父が保証人になっていた800万円が父にかかってきたのである。この800万を工面するのに、父は全ての資産を失い、優子も
40万ほど支援している。
(優子の務めていた会社が倒産し、買ったばかりの車を手放す羽目になったので、その売却差額を送金した。その時売った車(アテンザ)を偶然千里が買った)
父は不機嫌そうな顔をしていたが、一応兄弟なので居間にあげる。すると、叔父は、床に頭を着けて「あの時は済まなかった」と改めて謝った上で、日本銀行の封がされている札束を8つカバンから出して積み上げた。父が目を丸くしている。
「7年前は本当に申し訳無かった。あの時、迷惑を掛けた800万円を返しにきた。これは元金だけど、利子はいくら必要か言って欲しい。来週くらいにも用意して振り込むから」
「利子など要らんけど、この金はとうしたの?」
叔父は破産後は会社の経営をすることは諦め、会社勤めをしている。あまり大した給料ではないようで、これまで保証かぶりのお金の返却の話をしたことは無かったはずである。
「実は宝くじに当たったんだよ」
「宝くじか!」
「2000万円当って。高額だから受け取るのに時間が掛かったんだけど、昨日取り敢えず浩光兄さんのところに行って900万返してきた。それで今日は宮春兄さんのところに来た」
「それじゃ300万しか残らないじゃないか」
と父はひとの心配をしている。
「信販会社とかの借金はいいけど、兄さんたちから借りたのは法的に免責になっているといっても放っておけない気がして。残った分は子供の学資に使わせてもらうつもり」
叔父の子供さんは・・・今大学生くらいかな??
父は考えていた。
「偏頗(へんぱ)弁済になると思う」
と父は硬いことを言う。
「だからこっそりと返すということで。それで現金で持って来た」
「まあいいか」
と父は言い、受け取りだけ書いて署名捺印し、叔父に渡した。
叔父は何度もお辞儀をして帰って行った。
「お父さん」
と母が言う。
「うん。借金が返せる」
と父が初めて嬉しそうに言った。
「優子、ちょっと付いてきてくれ」
「うん」
それで父は優子と一緒に出かけ、まずは500万円を北陸銀行に入金した。
それから、住宅ローンを借りている富山銀行に行き、200万円を入金した上で窓口に行き、住宅ローンの残高を一括返済したいと言った。金額を計算して引き落としてもらう。そして精算書を受け取った。抵当権解除の委任状は自宅宛てに郵送するということだった。
次に、保証かぶりのお金を払うためにローンを借りた富山第一銀行に行き、100万円を入金した上で、ここでも窓口で、ローンの残高を一括返済したいと伝える。計算して引き落としてもらい精算書を発行してもらった。
これで大きなローンは全て完済した。いったん家に戻る。
父は母に言った。
「お前ローンとか抱えてないか。そういうのがあったら、まずはそれを完済しよう」
すると母は「実は・・・」と言ってカードローンに50万の残高があることを告白した。「すぐATMに行って返済しよう」と言って、今度は父と母で一緒に出掛けて行き、30分ほどで戻って来た。
「優子、お前は借金は?」
「無職の人にお金を貸してくれる人は居ない」
「確かに」
「これで480万円残っている。これで金沢市内の土地を買って家を建てよう」
「そのお金では土地を買うので精一杯という気がする」
「こちらの土地・建物を担保にお金を借りる」
「大して担保価値無いと思うけど」
「取り敢えず良さそうな所を探そう」
「まあ探すだけなら」
そんな話を3月31日にしたのである。
優子は唐突に思い出した。
「ねえ、今私が使っているムラーノだけど、これ千里さんからタダでもらったのよね」
「タダだったんだ!」
「それも車検切れで廃車にする予定だったのをわざわざ車検を通してから渡してくれたんだよ。お金に余裕ができたら、あの時の車検代だけでも渡せないかと思ってたのよね」
「あの車の車検って、その後こちらで通した時はいくら払った?」
「12万払った」
2019.06 千里がムラーノの車検を通してから優子に譲渡
2021.06 優子が車検を通す
「だったらそれも含めて30-40万くらいあげたら」
と母が言う(気が大きくなってる:とても危険な兆候)。
「ちょっと連絡取ってみる」
それで優子は千里にメールを送ってみた。
(この手のメールや電話の接続は実は“司令室”が電話交換みたいなことをして最適の人につないでいる。司令室で取ることもある)
・7年前に父が保証かぶりで800万円の負債を負うことになった時、その借金の本来の借主であった叔父が、お金ができたといって800万円を返しに来た。
・それでこちらは住宅ローンと、その時に新たに借りたローンを完済した。
・2019年にムラーノを譲ってもらった時、わざわざ車検を通してから譲渡してもらったので、せめてあの時の車検代も含めて30-40万千里さんに払いたい。
すると、10分ほどして千里から直接電話が掛かって来た。
「あの車は元々“信恵ちゃん”の物だから、私よりよっぽど“信恵ちゃんの夫”だった優子ちゃんにこそ権利があると思う。私は籍は入れていても、事実上彼女とは全く結婚生活の実態が無かったんだよ。ほとんどセックスもしてないし」
「そんなこと“信恵”も言ってた。あまりにも忙しくてデートできないって」
「多分“彼女”とは2度しかセックスしてない」
「なるほどねー」
(本当は“信次”とのセックスが2度だけで、“信恵”とは10回くらいセックスしている。しかしここでは言わないことにする)
「新婚旅行の最中にも急ぎの仕事が飛び込んで来て、私ひたすら仕事してたもん」
「なんて悲惨な」
優子はSEって大変なんだなあと思っているが、実際にはあの時は上島雷太が逮捕されて、彼が書いていた楽曲が使えなくなり、数人の作曲家で必死に代わりの曲を書いていたのである。ケイ・千里・丸山アイ・青葉、毛利五郎や田船美玲など中堅の作曲家が、みんなフル稼働だった。あまりの忙しさを緩和するため、千里と青葉は“松本花子”を作った。
「ムラーノは本来の持ち主のところに行っただけだよ。だから車の代金は要らないよ」
千里は実は、貴司と結婚するのに、信次の遺品の車は使えないと思い優子に譲ったのだが、優子は夏樹と結婚してもムラーノが前の“妻”の遺品だということは全く気にしていない!夏樹もそういう細かいことを気にする人ではない。
「でもわざわざ車検を通してもらったから。せめてその分の代金だけでも」
「うーん・・・じゃ10万だけもらおかな」
「うん。じゃ口座番号教えて」
「じゃそれは後でメールするよ」
「うん」
「だけど、優子ちゃんも“モニカ”ちゃんと別居生活で大変だね。折角結婚したのに。また千葉に行く時は言ってね。飛行機手配するし」
「あ、それなんだけど、モニカは金沢支店に転勤になったんだよ」
「ほんと!?」
モニカって誰だ?と両親は一瞬思った。
「4月7日からこちらで勤務。だから一緒に生活できる見込み。引越の手伝いで私も千葉に行ってこなくちゃ。ひとりでは荷物整理できないみたいだし」
「ああ。だったらさ。今私、S市に来てるんだけど、明後日、4月2日に熊谷まで飛ぶから一緒しない?」
(↑事件がそれまでに解決するだろうと千里5は予見している)
「あ、助かる。ムラーノ運転して行こうかと思ってた」
「優子ちゃんがムラーノで行くと、向こうから2台で帰って来ないといけないからきついよ。車を使わずに行けば、向こうから彼女の車を2人で交替で運転して来れて楽ちん」
「言えてる。そうさせてもらおう」
「じゃ2日のたぶん15時か16時になると思うから」
「分かった。だったらその時刻に」
千里5はこの話し合いの結果だけ千里4に伝えた。
「4月2日に解決してるの?」
「青葉がてこずってたら(*18)、千里ちゃんがチョチョイと解決しちゃえばいい」
「私が解決したら番組にならないよ!」
「来月からは『金沢コイルの霊界探訪』にするとか」
「それ、グレースがやってよね」
「やだ」
(*18) “てこずる”の漢字は“梃子・擦る”。梃子(てこ)で動かそうとしても棒が、すべってしまうほど、重たいこと。“手こずる”は誤字。
それで、4月2日(土)、優子は父に車で送ってもらい、能登空港まで行った。
千里に電話すると、外人女性のパイロットさんが迎えに来てくれて、それで飛行機に搭乗するが、前回使ったのとは別の塗装の機体であった。飛行機はすぐ飛び立った。
「ありがとう。これ車検代」
と言って、優子が封筒を渡すと、
「さんきゅー」
と言って受け取り、中も見ずに用意していた10万円の受け取りを渡す。
「中身見なくていいの?」
「まあ、間違い無いだろうし」
と千里は言っている。
「まあ私もわりと適当。桃香は結構きちんとやるね」
「うん。あの子は1円玉までしっかり数える。私はいつも適当」
「私もそっちだなあ」
「でも金沢支店ってどこにあるの?」
「イオン金沢店の近く」
「示野?」
「そっちじゃなくて福久のほう」
「あ、そっちか」
「そこから歩いて行ける所らしい」
「あの付近か。だったら、優子ちゃんの家から朝は1時間近くかかるかな」
「やはりそのくらいかかるかな」
「昼間や夜間はパンダちゃんやフクちゃんや白ちゃんが居なければ30分で行くかも知れないけど、朝夕は時間かかると思うよ」
「フクちゃん嫌らしいよねー。一度フクちゃんに切符切られた」
「やはり先頭にならないようにしないと」
「それが肝心だよねー」
「でも金沢に住もうと言ってるんだよ」
「ああ、通勤時間節約で?」
「それはあるけど、それよりパートナーシップの問題があるんだよ」
と優子は言う。
「あ、そうか!高岡だと、パートナーシップが無いんだ!」
と千里はすぐに答えた。
「そうなのよ。でも金沢にはある」
「桃香が高岡に戻らない理由のひとつなんだよ、それ」
「なるほどねー」
「じゃ金沢にマンションか何か借りて、優子ちゃん・奏音(かなで)ちゃんと3人で暮らすの?」
「それがうちの父ちゃんが、金沢に家を建てて、みんなで引っ越そうと言い出して」
「へ?」
それで優子が、ここまでの話の経緯を話した。
「でも私も金沢のどの付近が安いかとかよく分からなくて。誰か金沢方面の知り合いに訊かないといけないかなあと思ってるんだけどね。どっみち、家を建てるなんて話は、モニカが引っ越してくる4月5日か6日には間に合わないから、まずはアパートでもいいから借りないといないと思ってて。それは明日くらいにでも、うちの母が探しに行ってくれる予定」
千里は腕を組んで考えた。
「ねぇ。偶然にも、先日、金沢の住宅地を買ってさ、来週くらいにもそこに家を建てるつもりなんだけど、そこ優子ちゃん買わない?」
「へ?」
「場所はね、この付近」
と言って、千里はバッグから取りだした石川県の紙の地図でその付近を指し示した。
「ここ、支店まで歩いて15分で行ける!支店はここなんだよ」
と優子は夏樹の勤務予定地を指差す。
「ああ、△△音楽教室と書かれてる。あれ?モニカちゃん、△△だっけ?」
「フランチャイジーなんだよ。でも何に使うのに買ったの?」
「それが自分でも分からなかったんだよ。何かで数日中に使いそうな気がしたから買った」
「千里ちゃん、わりとそういうのあるよね?」
「うん。去年も東京で似たようなことがあったのよね」
(自分でも分からないままマンションを借りたら、そこに彩佳たちが住むことになり、結果的にアクアのスキャンダルになりかねないことを未然に防いだ)
「目的が無かったのなら、買いたいかも。でもいくら?」
「土地は600万円で買った。建物はこれから発注するけど、1000万円くらいかな」
(+100万円は抵当権を消去するためのアドオンなので、土地代は600万と考えている)
「うち、叔父さんから返してもらったお金の残りが今450万くらいあるんだけど」
「それ頭金にローンででもいいよ」
「ほんと?」
「正確な金額は工務店にきちんと計算させるけど、1600万円を超えることにはならないと思う。その1600万円の内、400万円くらい頭金でもらったら、残り1200万円を例えば5万円ずつ240ヶ月=20年とか」
「たぶんもう少し短期間で払えると思う」
「じゃそのあたりは、無理せずに払える範囲で計画して連絡してよ。何なら1万円ずつ1200ヶ月=100年でもいいし」
「それはさすがに無茶だ。私100年も生きてないし」
しかしそれで千里は桜坂から買った土地をそのまま優子に売り渡すことにしたのである。
「今そこは更地?」
「ホロ家が建ってるから、それを崩して新しい家を建てる。そこに住む予定の人の生年月日教えて」
「うん」
それで優子は、住む予定の5人の生年月日を千里が渡したPPC用紙に書き出した。
府中優子 1990.10.04
古庄夏樹 1982.06.22
古庄奏音 2016.08.19
府中宮春 1963.04,05
府中春子 1968.05.02
(奏音は夏樹と養子縁組させるつもりなので、その予定で書いている)
「お父さんもお母さんも名前に“春”が付くんだ!」
「そうそう。だから春春コンビと言われた」
「へー。あ、お父さんは昭和38年の春生まれだから“宮春”だ」
「そうなのよ。語呂合わせ。お姉さんは昭和40年生まれで洋花(よおか)」
「語呂合わせ姉弟か。もしかして神無月で10月生まれ?」
「そうなのよ!」
千里は訊いた。
「性別を確認したいんだけど」
「うん」
「優子ちゃんは男?女?」
「ちんちんはいつも付けてるけど意識としては女かなあ」
「やはり、毎日ちんぷ摩擦してちんちんを鍛えよう」
「うむむ」
「モニカちゃんは?」
「ちんちん無くなったから女でいいと思う」
「そんなもの無くなって良かったね」
「無くなったのが嬉しくてたまらないみたい」
「奏音ちゃんは?」
「本人はちんちん欲しいと言ってるけど女でいいと思う」
「あの子、可愛いから、ちんちん無いほうがいいと思うなあ」
「最終的には性別は自分で選ばせるということで」
「お父さんは?」
「若い頃は女装させられたとか言ってるし性転換アプリで女顔化した自分の写真に見とれたりしてるけど、失業や離婚の危機までおかして女装生活する根性は無さそうだからたぶん男でいい」
「取り敢えず去勢してあげようか?」
「老け込みそうただからバスで」
「お母さんは?」
「私男に生まれたかった、女に学問は異らんと言われて大学にも行かせてもらえなかったとか、よく言ってるけど、性転換手術までする気は無さそうだから、女でいいと思う」
「とりあえず放送大学を勧める。まずは男と対抗できる知識を身に付けよう」
「それいいかも知れない。勧めてみよう」
「取り敢えず現在の性別なら、本命卦はこうなる」
と言って、千里は名前の横に書き出した。
優1990F 艮東
モ1982F 乾東
奏2016F 巽西
父1963M 坎西
母1968F 坎西
「じゃこれで運気が良くなるような部屋の配置で家を建ててあげるよ」
「よろしくー」
「部屋は20個もあればいい?」
「そんなに要らない!」
600万円の土地って60坪くらいだと思うけど、そこにどうやって20個も部屋のある家を建てるんだ?4〜5階建て??
「両親は1つの部屋でいいし、私とモニカもひとつの部屋でいいし、奏音が大きくなったら、部屋をひとつ使って最大3つかな。あ、両親の部屋は1階にして」
「OKOK。でも優子ちゃんかモニカちゃんがもう1人くらい産んだりして」
「タネは〜?」
「モニカちゃんに訊いてみなよ。精子の冷凍保存はもう無いのかって」
「え〜〜〜〜〜!?」
「あるいは優子ちゃんを1晩だけ男に変えてあげようか?それで生セックスすれば、モニカちゃん、優子ちゃんの赤ちゃんを妊娠するかもよ」
「それもいいなあ。一度射精してみたーい」
「桃香は射精は凄く気持ちいいとか言ってるよ」
「やはり、あいつ精子あるんだ!」
「だって5人の女に8人の子供産ませてるんだから」
「悪いやっちゃ。去勢する必要があるな」
「私も10回くらい去勢したし、季里子ちゃんにも20回くらい去勢されてる」
「去勢されても生えてくるとは、しぶといちんちんだ」
郷愁飛行場に着くと、千里が“黒いインプレッサ”を貸してくれた。それで優子はその車を運転して千葉まで行き、夏樹のアパートに入った。
アパートに入ってみて、優子は呆れた。全然荷造りできてないじゃん!私が来なかったらやばかったよ。
最初に判明したのは、これは運送屋さんの手を借りないと無理だ!ということであった。衣料などはどうにでもなるが、大型家具の類いは、女2人では動かせない(夏樹はもう男性時代のような腕力は無い)し、載せられる車も無い。そもそも荷物が1Kの荷物とは思えないほど凄い。書籍類は前から多いなと思ってたけど、たぶん本だけで段ボール箱30個くらい必要だ。2018年の水害で全て失ったと思うが、あの後買い集めたのだろうか。エレクトーンやクラビノーバは素人にはどうにもならない。冷蔵庫・洗濯機もあるし。バイクも課題だ。
4月3日、優子はあちこちの運送屋さんに電話してみたが、どこでも、今の時期は無理だと言われる。引越のシーズンだもんね〜。しかも料金がむっちゃ高い!通常期の倍になっているようだ。
優子は、色々裏情報を知ってそうな桃香に電話してみる。
「千里の知り合いの運送会社で“緑組”という所があるんだよ。ここは播磨工務店という建築会社の運送部門だから、一般の仕事は受けてない。でも千里に頼めばやってくれるはず」
結局千里頼りか!
それで優子は、おんぶにだっこで悪いと思ったが、千里に電話してみた。
「ああ。あいつら、ちょっと荒っぽいから、大事なものはやらせないで。万一壊れても最悪買い直せるものだけ頼んで」
という話であった!
“緑組”の営業担当者はその日(4/3)の内に来てくれた。部屋の中を見てから尋ねられる。
「エアコンの取り外し・取り付けもしましょうか?」
「お願いします。素人では辛いです」
「エレクトーンとクラビノーバの移動もこちらに依頼なさいます?」
「引越シーズンで他に頼める所が無いのでお願いします」
100万円以上する楽器だが、残しても行けないし、壊れた時は壊れた時だ!千里は“買い直しがきかない物”は預けるなと言ってたし。
「他にバイクもお願いしたいんですが」
「何ccですか?」
「250ccです」
「分かりました。エアコンの取り外し・取り付け、エレクトーンとクラビノーバにバイクの移動まで入れて10万かな」
と言った。
うっそー!?普通ならエレクトーンの移動だけで10万取られるのに。それに荷物が1DKにしては多い。本当に大丈夫か?と不安になるが、他に頼める所が無いので頼むことにした。
4月5日の夕方19時に取りに来てくれることになった。「サービスです」と言って、段ボール箱を50個と荷造り用テープをくれたが、これだけで2万くらい行っている気がした。ガソリン代と高速代も2万くらい飛びそうなのに。高速も使わずに下道を走っていくとか??下道で走ると碓氷峠や白馬付近がかなりきついけど(←優子自身は高速代をケチって何度もこのルートを走っている)。
もしかしたら、千里さんが「知り合いだから安くして」とか言ってくれたのかな?それならこの料金もあり得るかも。
3日の夕方、帰宅してきた夏樹に、優子は運送屋さんに頼んだことと、引越先の説明とをした。
「引越先はマンションとかじゃなかったの?」
と夏樹が驚いて訊いた。
「それがさあ」
と言って、父が張り切って、金沢に家を建てるという話になってしまったこと。千里さんから、金沢市M町、YY楽器金沢支店まで歩いて15分ほどの場所に土地・家屋付き1600万円の家を買うことにしたことを説明した。
「なんか凄い話になってる」
「私も急展開で驚いている。でも千里さんの持って来た話なら間違いないと思う」
「それは私もそう思う。あの人は信頼できる。でも1600万円の支払いは?」
「分割払いでいいよと言われてる。だから無理なく返せる計画を立てて提示してほしいって。引越が落ち着いたら、お父ちゃんと話して決めないと。父ちゃんか今450万ほど持ってるのよ」
「言ってたね!450万なら頭金になりそう」
「そうそう。これ使い込まない内に、支払わなければ」
「私も500万出すよ」
「そんなお金あるんだ!」
「代理母の報酬でお兄ちゃんから1000万円もらった。その半額でこのMX-30を買った。だから残り500万残ってるんだよ」
「それ使っていいの?」
「もちろん。私たちの家だもん」
「でも代理母の報酬に1000万円って凄いね」
「それまでの不妊治療で2000万使ったらしいよ」
「ひぇー!恐ろしい」
それで1600万円の内、1000万円くらいは、支払いのメドが付いてしまったのである。
ところで桃香は、高岡の家が区画整理に掛かって、それで青葉が新しい家を建て、そこへの引越のために11月13日に浦和から高岡に来て以来、ずっとこちらに居る。そして、だいたい昼まで寝てて、その後、酒を飲みながら、夜遅くまでゲームとかをしているようである。
桃香は料理もできないし、食事の買物させるとお金ばかり使って大した量が無かったりする。そもそも車の運転が下手なので、危なくてさせられない。
子供と一緒に遊ぶくらいはできるので、朋子は孫2人(緩菜・由美)を桃香に見ていてもらって、その間に買物に行って来たりする。(青葉が手配してくれた、らでぃっしゅぼーやにも助かっている)
青葉や千里が桃香を高岡に置いているのは、青葉がずっと関東方面に滞在しているため、桃香が浦和に戻ると、こちらの家は朋子ひとりになってしまい、何かあった時にヤバいからである。たぶん猫程度には役立つはず!
しかし高岡滞在が3ヶ月に及んだ2月中旬、朋子はたまりかねて言った。
「あんたさ、30代の健康な女が何もせずに昼間から酒飲んでるだけというのは絶対良くない。まだしばらくこちらに居るのなら、パートにでも出たら?」
「私のできる仕事とかあるかなあ」
「うーん・・・」
と朋子も悩む。
桃香は気が利かないし愛想が悪いから、コンビニスタッフなどの客商売は難しい。料理のセンスが絶望的に無いから、厨房とか食品製造工場とかの仕事もてきない。運転が絶望的に下手だからGSスタッフとかウーバーみたいな仕事もできない。
(なんか絶望するものが多い)
実は千葉に居る桃香Aがやってる塾講師というのは、桃香ができる数少ない職業のひとつである。理学修士を持っているだけあり、科学的な知識は膨大である。専門の数学だけでなく、物理や化学についても詳しく実際『高園先生の有機化学の講義は分かりやすい』と評判である。
桃香は生徒からの高度な質問にもスラスラ答えるし、理科系大学入試問題の難問も20-30秒考えただけで「あ、分かった」と言って解いてしまう。生徒からの信頼が絶大である。他の先生も桃香に色々尋ねたりする。
もっともみんな桃香のことは男性と思っているけど!
でもお陰で男子トイレを堂々と使えて「便利便利」と思っている。桃香は、また男子更衣室を使うのは平気である。
(桃香Aは社会的には男性に性転換済みかも!?)
千里は桃香Aに
「性転換手術して男に変えてあげようか」
と言ったこともあるが、
「男の身体になったら季里子に振られる」
と言って、辞退した。
「それに私、男になったら絶対、性犯罪者として捕まる自信がある」
などとも言っていた。
「自分の性癖、よく分かってるじゃん」
と千里も答えた。
貴司がこれまで逮捕されなかったのは、ただのラッキーだよなという気もする。貴司もそろそろ男を廃業したほうがいいんじゃないかなあ。
「あんた土方でもする?」
と朋子は訊いたが
「それはさすがに腕力に自信が無い」
と桃香は言う。
桃香は現場に出れば男として扱われるだろう。桃香は女としては割と腕力があるほうだが、男としては非力である。桃香は30kgを持てないから、土方をすれば多分1日でクビになる。
「内職とかは?」
「昔やったことあるけどエラー品が多すぎて、マイナスになった」
確かに桃香はその手の作業をさせると仕事が雑っぽい。結果的には工場のライン労働者とかにも向かない。
「テレワーク」
「20代の子しか取ってくれないと思う」
「そうだ!通信教育の採点者とかは?」
「あれは自己管理が出来て、きちんとした性格の人でないと無理だと思う。私みたいなムラ気のある人間には向かない」
「まああんた確かに自己管理は全くできないよね。あんたひとり暮らししたら半年で孤独死するよ」
「ありそうだ」
しかし朋子は言った。
「要するに、あんたの生活リズムを強制して、毎日仕事をさせる人が付いていれば、できるんじゃない?」
「うっ。そういう人が居たら、ひょっとしたらできるかも」
でも千里はそもそも多忙な上に自分以上にムラ気だからなあと思う。季里子はすごく、きっちりした性格だから、それで千葉の桃香は仕事を続けられている。
「緩菜〜!」
と言って、母は緩菜を呼んだ。
「緩菜さあ、これから“お父ちゃん”(*19) がお仕事することになるから、毎朝8時までに起こしてあげて、10時くらいになったらお仕事するように言ってあげて」
「うんいいよ」
「緩菜は・・・厳しそうだ!」
(*19) 京平と緩菜のおとなたちの呼び方
千里:お母ちゃん
桃香:お父ちゃん
貴司:パパ
彪志:彪志お兄ちゃん
青葉:青葉お姉ちゃん
朋子:おばあちゃん
季里子:ママ
(京平は阿倍子もママ、緩菜は美映もママだが、季里子とこの2人が同時に同じ場所にいることは考えられない。また京平・緩菜はは津気子・保志絵もおばあちゃんと呼ぶ)
早月・由美はまた違う呼び方をするが省略。
優子は、ひたすら荷造りをしていた。結局夏樹が連絡して、夏樹の母も来て荷造りを手伝ってくれた。それで2人で、ひたすら“緑組”さんがくれた段ボールに詰めていく。それで4月3日から5日午後まで3日掛かり・2人掛かりで、何とか夏樹の荷物をまとめたのである。
「でもあの子、Hな本とかが無いのね」
「水害で流されたのでは」
「あ、そういうことか」
「男の子が女の子に変わってしまう漫画とか、だいぶ読んでたみたいですよ」
「ああ、そういうのが好きなのか」
重要な技術書の類い、壊れやすい陶磁器・ガラス製品、CD/DVD関係、パソコン関係の機器、電子キーボードや管楽器などを先に夏樹のMX-30に積み込んだ。他にすぐ使う衣類、また向こうですぐ使いそうな、電子レンジ・IHヒーター・湯沸かしケトル、フライパンと煮鍋などの類いも、自分たちの車に積んだ。荷室だけでは入りきれないから後部座席の床、助手席とその床にもかなり載せた(後部座席そのものは仮眠のため空けておく←シートベルト違反!)。
4月4日の夕方、千里がSCCの車に乗って、夏樹のアパートにやってきた。
「今日契約が成立したから、前の持ち主から私が買い取って、土地の移転登記も終えた。これでいつでもそちらに引き渡せるよ」
「こちらはまだ正確な金額じゃないけど、頭金で1000万くらい払えそう」
「だったら残りは楽勝だね」
夏樹が質問する。
「建築費が1000万円くらいと聞いたんだけど、凄く安い気がするんだけど」
「ユニット工法だから。部品を運んで来て、組み立ててボルト締めるだけ」
「なるほどー」
だから1000万で済むのかな。まあいいか、住めれば問題無いよね、と優子は思う。
(↑プレハブ住宅みたいなものを想像している)
「木下藤吉郎が墨俣に作った一夜城がユニット工法だよ」
「あぁ」
「川の上流で蜂須賀小六たちが、城の部品をせっせと1ヶ月くらい掛けて作る。そして夜中、闇夜に紛れて筏(いかだ)に部品を乗せて川を下り、多人数かけて組み立てて、あっという間に城が出来てしまう」
「昔からそういう考え方はあったのね」
「秀吉は建築の天才だから、知ってたんだろうね」
「それで設計図を書いたんだけど」
と言って、千里は図面を見せてくれた。
「すごーい。1階にも2階にもお風呂とトイレがある」
「2世帯住宅に近いね」
「実質2世帯が暮らすしね。それに5人暮らすのにお風呂トイレが1つしか無いと、まともな時間内にお風呂入れないし、トイレも朝とかパニックになるよ」
「そうかも」
「2階は洗面台が2つある」
「モニカちゃんと、大きくなったら奏音ちゃんがお化粧するだろうし」
「私がお化粧しないことは理解(わか)ってるな」
「優子ちゃんがお化粧した所とか、ほとんど見たことない」
「仏間、6畳で設計したんだけど足りる?縁側で張り出して広げる手もあるけど」
「いや、このくらいあれば充分だと思う」
「そんなにお客さんが来るとは思えないし」
「父ちゃんの葬式する時は“置き縁”で」
「いや葬式でなくても置き縁は便利だと思う」
ここでいう仏間というのは、北陸の住宅に特徴的なもので、玄関を通らずに(掃き出し窓から)直接入れる応接室である。日常生活を送る居間とは区別される。“神婚”で取り上げたような、奈良県の伝統的な住宅では居間の奥に仏間があるが、富山石川の住宅では、仏間の奥に居間がある。
「2階はここに奥行き1間のクローゼットがあるのね。部屋をもう半間広くできないのかな」
と優子が言った。
「それをすると、その部屋が7畳半になっちゃうのよ」
と千里は言う。
「7畳半は禁忌だよね」
と夏樹が言う。優子は首を傾げているので、優子は知らなかったようである。
「うん。切腹の間と言って、絶対に作ってはいけない部屋」
と千里は言うと、自分のパソコンで適当な工務店のサイトを開いて説明した(解説しているサイトは多い)。
「江戸時代に武士が切腹する時、卍型に敷いた四畳半の間で切腹し、見届役の人がそれに続く三畳の所に居たんだよ。七畳半の部屋もいけないし、四畳半の畳は巴型に敷かなければならない」
なお巴型の敷き方は茶室などに見られるもので、中央には茶釜がある。卍型と巴型は向きが逆なだけで似ているが、中央にあるのが、切腹と茶釜では大違いである。
「BLはボイラーで、MBXはメーターボックスかな」
「そうそう。ボーイズラブにホンダのオートバイではない」
「BATというのは?」
「バッテリーだよ。野球のパット置き場ではない。屋根に太陽光バネルを載せるから、昼間そこに電気を溜めて夜間はそこから使う」
「へー。凄い」
(再掲)
「EVは?」
「エレベータ。電気自動車じゃない」
「エレベータがあるんだ!?」
「荷物の搬入にも便利だよ」
「だよねー!」
「宅は宅配ボックスね」
「うん。これ作るのでその分LDKが狭くなるけど」
「いや、今の時代必要なものだと思う」
「2階にはサンルームがあるのね」
「事実上のヴェランダだよね。ただ金沢で窓の無いヴェランダ作ると、雪が降った時に純粋に雪積もり場と化す」
「そもそも冬の間は使用不能になると思う」
「だから窓を付けて、サンルームにする。これは非常脱出路を兼ねる」
「ああ」
「ごめん。ヴェランダとテラスとバルコニーの違いが分からない」
「一般には結構混同して使われているんだけどね。建築屋さんによっても微妙に定義が異なるみたいだし」
「ああ・・・」
「ひとつの説明の仕方では、屋根があるものはヴェランダ(veranda) で、バルコニー(balcony) やテラス(terrace) には屋根が無い」
「へー」
「それで1階の床と同じ高さのがテラスで、2階以上にあるのがバルコニー」
「なるほどー」
「ルーフバルコニーって屋根が無いの?」
「ルーフバルコニーといのは、屋根付きのバルコニーではなく、下の階の屋根をちゃっかりバルコニーとして使っちゃった!というもの。実際にはただの屋根」
「なるほどー」
「でも1階にあれば屋根の有無に関係無くテラスだと言う人もいる」
「うーん・・・」
「テラス(terrace)は元々“盛り土”という意味だから。だからテラ(terra)の親戚語」
「そう言われると1階というのが納得できる」
「ほかにも、玄関ポーチとかのポーチ、あとオープン・コリドールというのもあるんだけど」
「待って。今は説明聞くと分からなくなる!」
「でもまあ結局全部似たようなものということで」
「1階の和室は奥で、私たちの部屋は2階の表側なのね」
「上下だと、セックスの音が響くでしょ?」
「なるほどー。それでずらしたのか」
実際には、両親はふたりとも西四命、優子と夏樹は東四命なので、運気の良い配置にすると、結果的にずれるのである。
「でもきれいに半間単位で部屋が区切られるのね」
「そうそう。これが(ムーラン・ハウジング式)ユニット工法の特徴なのよ。部品として工場で作られたユニットを組み立てていくから、中途半端なサイズのユニットは困るのよね。だから幅70cmのトイレとか幅120cmのパントリーとかは作らない」
「なるほどー」
「改築もしやすい。留めてるボルトを外して、入れ換える」
「ああ」
「将来的に何か必要ができたら、ある程度改造ができる」
「それはいいかも知れない」
それでこの設計で問題無いということになった。
千里は持参のパソコンとポータブルプリンタで設計図のコピーをプリントした。
「じゃ、この設計図の上に、本棚とかタンスとかの置き場所を記入しておいてくれる?それを“緑組”に提示したら、そこに設置すると思うから」
「分かった。記入しとく」
千里は最後に言った。
「私もこれから金沢に移動するけど、ついでに多少の荷物を持ってこうか?」
「だったら楽器を頼める?」
「OKOK」
それで千里はインプレッサに、電子キーボード2個と管楽器(フルート、クラリネット、オーボエ、サックス、トランペット、トロンボーン、ホルン)を載せ、帰って行った。
邦生が帰宅すると、真珠がウェディングドレスのカタログを見ていたので、邦生はドキッとした。もう結婚式挙げたい気分になったのかな。でも卒業前に結婚してしまうのも、ひとつの手だよなあと思う。
「くーにん“は”どのウェディングドレスがいい?」
と真珠が訊く。
「そうだなあ。これとか好きかも」
と言って、邦生はひとつのドレスを指差す。あまりゴテゴテしてなくて、シンプルなフォルムのものである。真珠は可愛いから、ドレスはシンプルな方が、本人の可愛さが際立つと邦生は思った。
「くーにんはそれか。じゃ、ぼくが選んだドレスと、くーにんが選んだドレスで並べてみるね」
と言って、真珠はパソコンを操作した。
パソコンの画面に、ドレッシーなウェディングドレスを着た真珠と、邦生が今選んだウェディングドレスを着た“邦生”が並んだ写真が表示される。
「あ、くーにん、やはり本人が可愛いから、こういうのも似合うよ」
と真珠は言った。
邦生は画面を見ていて最初状況が理解できず、30秒くらい考えてから言った。
「まさか俺もウェディングドレス着るの〜〜〜?」
「ウェディングドレスじゃなくて、白無垢の方が好き?」
と真珠は邦生に尋ねた。
4月5日の午後、千里から優子に電話連絡があった。
「私はまだ妙高なんだけどね。向こうからの報告で、もうボロ家の撤去は終わって、今日は昨日決めた設計図に基づいて基礎工事をしている最中らしい。これコンクリートが固まるまで一週間置かないといけないんだよ。それで建物が完成するまでのつなぎに、庭に1DKのユニットハウス置いてもらうから、取り敢えずそれを使って」
「分かった。ありがとう」
「荷物はこの仮住まいに運び込む?それとも新しい家ができてから運び込む?」
「そうだなあ。家はどのくらいでできるの?」
「基礎が固まったら一週間だと思う。だから4月19日の引き渡しかな。その日が建築吉日だから」
「そんなに速くできるの〜〜?」
「ユニット工法だからね」
「じゃ、新しい家ができるまで、荷物預かってもらってていい?」
「OKOK」
“緑組”の人はその日(4/5) 19:05にやってきた。
「遅れてすみません」
と言ったが、来たのは1人である。1人??と思っていたら、彼はまずは100kgほどもあるエレクトーンにプチプチを巻き付けた上で、ひとりで楽々と抱えて、階段を降りていく。その様子がまるでビニールの風船でも持っているかのようで危なげ無いので、優子と夏樹は呆気に取られて見ていた。
そしてアパート前に停めている2トン・トレーラー(?)に載せた。トレーラーの荷室内には、下に分厚いカーペットが敷かれているし、壁もクッション材が張り巡らせてある。また、エレクトーンを置いた後、床の固定装置をロックしていた。
優子たちは、こんな小さなトレーラーもあるのかと思って見ていた。
彼は同様にしてクラビノーバも移動した。そして170kgもあるバイクも楽々と抱えて積み込んだ。そしてスティールラックと大型本棚は両手に持って運ぶ。更に段ボールなど両手に4個ずつ抱えて持ち出す。
「片手に5個以上重ねるのは会長(千里!)に禁止されてるんですよ」
などと言っていた。
それで1人でわずか30分の間に全ての荷物を運び出した。エアコンも手際よく取り外し、部品はまとめてビニール袋に入れていた。冷蔵庫・洗濯機・テレビも、各々プチプチを巻き付けた上で、ひょいと抱えてトラックに積み込んだ。荷物は全て、丁寧に運んでいた。投げたりは、しない!バイクやテレビなど、重量のあるものは全て床の固定装置で留めていた。また荷物の間には、クッション材をたっぷり入れていた。
手際よく荷物を収納してから、彼は「ではお預かりします」と言って、トレーラーを運転して出発して行った。
2tトラックてはなく、2tトレーラーを使用したのは、実は荷物を一週間程度預かることになったので、その間運転台は使えるようにするためである。
そして実際には、運転して運んで行くのが面倒臭いので夜中まで近くの拠点で休んでいて(飲酒は千里から禁止されている)、人の目が無くなった所でトレーラーだけ抱えて飛んで運んでいく。ガソリン代も高速代も不要なので(段ボール代とクッション代の3万円、保険代の4万円を除いて)実費3万ももらえたら充分であった(全額本人にあげる)。
夏樹と優子は、運送屋さんを見送った後、お弁当で夕ご飯を食べる。再度戸袋とか、台所のシンク下とか、トイレの棚などまでチェックしてから、ふたりでMX-30に乗り、自分たちも出発する。
最終的な部屋の不動産屋さんへの引き渡しは、季里子に頼むことにしていたので、彼女の家に寄り鍵を預けた。季里子が許可したので、夏樹は来紗と伊鈴をハグしていた。
夏樹と優子で交替で運転し、京葉道路→東関東道→外環道→関越道→上信越道→北陸道と走り、小矢部川SAで朝まで寝る。そして朝御飯を食べてから、(4/6 Wed) 9時頃に千里に連絡した。
「おはよう。私もまだ工事状況は見てないんだけど、昨日の内に基礎工事は終わって、もう仮住まいのユニットハウスも置いたらしい。基礎はコンクリートが固まるまでは工事もしないから、一週間はうるさくないと思う。お昼にイオン金沢で落ち合おうか。現地に案内するよ」
「ありがとう!」
一方、優子の両親は奏音の幼稚園の転校手続きをしていた。
4月4日夕方に“確定情報”として新しい金沢の住所を連絡してもらったので、その近くの幼稚園を調べ、急な転勤で孫娘を転校させたいと申し込んだ。
取り敢えず連れてきてというので、4月5日午後1時、奏音を連れて現地の幼稚園に行く。面接を受けて入園許可をもらう。奏音は4月8日(金)からは新しい幼稚園に通うことになった。制服は奏音のサイズのストックがあったので、それを買って帰って来た。
昨年度1年間通った幼稚園にも連絡を入れた。奏音の荷物が少しあるので取りに来てということなので、夕方、取りに行った。そして荷物を受け取った後、園長先生に「さようなら」と挨拶させた。
6日は、朝9時半頃、優子から電話があり、2時頃、イオン金沢で待ち合わせしようということになったので、マクドナルドを買って、車の中で食べながら待機した。
優子たちは10時すぎに小矢部川SAを出発。北陸道を走り、金沢森本ICで降りる。そしてイオン金沢に入る。マクドナルドの前で待ち合わせにしていたのだが、そこに行く前に途中で千里と遭遇した。結局一緒にマクドナルドを買って車に戻る。MX-30が荷物でいっぱいなので、千里のCX-5に、3人で乗り、そちらで一緒にお昼を食べた。
「取り敢えず現地見てもらった方がいいと思うから、このまま私の車で」
というので、MX-30は置いたまま、千里のCX-5で現地に向かう。
「ユニット工法ってネットで検索してみると、結構面白い工法みたいですね」
と夏樹が千里に言う。
「とにかく、安く速くできて、しかも地震に強いのが特徴です。プレハブや、その進化形の軽量鉄骨構造の家だと、壁や窓とかの部材を現地で組立てるけど、ユニット工法は既に完成している部屋や廊下の部品をほんとにポンと置いてボルトで締めることで完成します。高層ビルの小型版みたいな作り方で柔構造だから地震にも強いんですよ」
「ああ」
「学生用アパートみたいなのは、6部屋のアパートが6個の部屋ユニットと階段・廊下のユニットを持ってきて組み立てて、3時間で建ちますよ」
「すごいなー」
「仮住まいの1DKというのは台所と居室ですか」
「6畳の畳の部屋と聞いています」
「お風呂とかトイレとかは?」
「バストイレ付きで頼むと言っておきましたから、付いてる筈です」
そんなことを言っている内にもう到着した。
少し先に播磨工務店の旗(九頭竜図)が立っている。
取り敢えず車を路上、家の少し手前の林の前に停めて降りた。住宅街の家である。家の前の道は7mくらいありそうだ。千里たちは家の左手(家に向かって右手)から近づいて行った。
「あの白いコンクリートが基礎ですか」
「だと思います。コンクリートが乾くにはどうしても1週間掛かるんですよね。それが固まらないと、その上に構造物を置けないので」
などと言いながら、家の前まで来たのだが、全員固まってしまう。
最初に声を出したのは夏樹だった。
「あのぉ、バス付きってこちらのバスたったんですか?」
(下手な絵ですみません)
千里も怒る以前に呆気に取られていた。
「あいつ・・・・」
そこには、基礎工事の行われている場所の横に小さなユニットハウスが置かれ、その隣に30人乗り程度の中型バスが置かれていた。
つまり with bath ではなく、 with bus であった!
※日本語でバスと呼ばれるもの↓
bath:お風呂
bass:低音、楽器のベース、魚の名前
bus:乗り合いバス(omnibusの略)、電子機器のバス
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【春春】(3)