【春転】(6)

前頁次頁目次

1  2  3  4  5  6  7  8 
 
6月18日、ある週刊誌がアクアに関する“ビッグスクープ”を報じた、
 
いわく“アクアの華麗なる淫乱生活”というものである。
 
報道によると、アクアは現在3人の女性と一緒に暮らしており、毎日日替わりで各々の女性とナイトライフを送っているというのである。
 
この雑誌が発売された18日0時すぎから、コンビニでこの雑誌を買った人たちがネットに書き込み始め、大騒動になる。
 
しかしTKRの松前社長は、★★レコードの町添社長にも連絡を取り、TKR及び★★レコード(及び系列会社)の社員を動員して、全国のコンビニ・書店でこの雑誌を買い占めた。また千里と若葉もフェニックスグループ・ムーラングループの社員や播磨工務店のメンバーを動員した。
 
その結果、コンビニでは朝までには全て在庫切れとなり、キオスクや書店でも開店直後に在庫が無くなって、実際にこの雑誌を手にした一般の人はごく少数だった。
 

千里は、この件がネットに書き込み始められた午前0:30頃、コスモスに電話した。
 
「私もついさっき気付いて、どうしようかと思った」
と、さすがのコスモスも困惑しているようである。ひとつ対処を間違うと、アクアのタレント生命に関わる。
 
「朝一番にアクアに記者会見させたい。必要なら私も同席するから」
「何とかなる?」
「何とかする」
「分かった。千里ちゃんに任せた」
 
コスモスに電話した後、千里は代々木のマンションの10階に来る。時刻は午前1時前である。そして3人の住人(?)に言った。
 
「君たち悪いけど、即刻引っ越して」
「即刻って、今日ですか」
「今すぐ。これから朝までに私の友人たちの手で君たちの荷物を運ぶから」
「え〜〜〜!?」
 

それで、千里は彩佳・桐絵・宏恵を「今着ている服のままでいいから」と言って、地下駐車場に連れて行き、ホンダ・シャトルに乗せる。これは実は《きーちゃん》の車である。目立たないようにするため、アクアと接点の無い車を使用した。
 
5分ほど走って、市ヶ谷のマンションの地下駐車場に駐める。
 
「ここが君たちの今日からの住まいになるから」
と言って、3人を8階の801号室に連れて行く。
 
「ここも3LDKだから、1人1部屋ずつ使って」
と千里は言った。
 
「嘘!?もう荷物が入ってる!」
 
緊急事態なので《くうちゃん》に全部転送してもらったのである。洗濯機などの配管や電気の配線も朝までに《せいちゃん》がやってくれた。
 

「ここの鍵、渡しておくね」
と言って、千里は3人に1個ずつ鍵を渡した。
 
「悪いけど、代々木の1005号室の鍵は返して」
「あ、はい」
 
それで3人は代々木のマンションの“10階の”部屋の鍵を千里に返却した。
 
「でもどうして、こんな急な引越を?」
と彩佳が訊くので、千里は例の週刊誌を彼女たちに見せてあげた。
 
「何これ〜〜〜!?」
と驚いた後は、彼女たちは大笑いしていた。
 
「でも笑いごとじゃないですよね」
「朝一番に龍虎に記者会見させるから大丈夫。ちなみにここは4月から借りていたから、君たちは4月からここに住んでいたことにして」
 
「何かの目的があって借りていたんですか?」
「何かで必要になりそうな気がして確保していたんだけど、まさかこういう用途で使うことになるとは思わなかった」
 
「へー!」
 
「ちなみにここのお家賃は?」
「1人1月1万円でどう?」
「借ります!」
 

ちなみにここからの通学時間(自転車)はこうなった。
 
彩佳 青山学院 15分→20分
桐絵 早稲田大 15分→10分
宏恵 お茶の水 30分→15分
 
つまり、彩佳以外は通学時間が短縮された!
 

コスモスは深夜ではあったが、##放送の鶴岡部長に電話し、アクアに朝からそちらの局で会見をさせて欲しいと申し込んだ。鶴岡さんはそもそもアクアに関する報道があったことをまだ知らなかったが、報道内容を聞くと、二つ返事でOKを出した。
 
それでこの日の朝7時から、##放送でアクアの会見が行われることになった。
 
記者会見には、アクア本人とコスモス社長だけが出席した。##放送の阿藤見津世アナウンサーが代表質問する形で進められる。阿藤アナが選ばれたのは、これまでアクアとの絡みがほとんど無かったからである。
 
なお、この会見に出席したのはアクアFである。これはMよりFの方が機転が利くし度胸もあるので、万一の場合に備えたものである。それにMは彩佳と実際に日々セックスしているという“後ろめたさ”も持っている。
 

最初に阿藤アナウンサーが、週刊誌の報道内容の要点をフリップに書いたものを示して、視聴者に説明した。この番組で初めて、そんな報道があったことを知った人が大半であった。
 
「この報道に関してアクアさんのご見解をお聞きしたいのですが」
と阿藤は緊張した面持ちで言ったのだが、アクアもコスモスも笑顔である。
 
「いやもう、話を聞いて私、爆笑しちゃいましたよ」
とアクアは言う。
 
「報道で書かれた3人の友人とも話したんですが、彼女たちも大笑いしてました。ほんとに想像力豊かな記者さんがおられるんですね」
 
「済みません。事実関係を説明して頂けると助かるのですが」
 
「彼女たちと同居したのは彼女たちのマンションが崩壊したからなんですよ」
とアクアは言った。
 
「テレビなどでも大きく報道されたので、覚えておられる方も多いと思うのですが、昨年10月に新宿でマンションが崩壊して、上の階の住人を救出するのに自衛隊まで出動する騒ぎがありましたよね」
 
「あの事件ですか!」
 
「報道で書かれていた3人の女子というのは、私の小学校以来の親友です。長い付き合いでほとんど同性の友人と変わらないので(*13)、お互い恋愛要素とかも無いんですよ」
とアクアは前提的な説明をする。
 
(*13)龍虎に男の友人とか居ないはず、と後から桐絵にツッコまれた。
 

「それで彼女たちはこの崩壊したマンションに住んでいて、崩壊した時は幸いにも全員外出していて無事だったんですが、住む所が無くなったので、私のマンションに取り敢えず避難してきたんです」
 
「それで彼女たちと同居なさったんですか」
 
「私は都内某所のマンションに住んでいるのですが、実は私はそのマンション内に2つ部屋を所有しています」
 
「どうして2つお持ちなのでしょう?」
 
「最初1つ買ったのですが、同じマンションに住む友人が結婚して引っ越すのに買い手を探していたので、私が買い取りました。そちらが広いので、昨年の夏以降はそちらに住んでいました。元の部屋は、その内売却しようと思ってましたが、そういう事情で偶然そこが空いていたので、3人にはその部屋に入ってもらいました。だから正確には同居してないですね」
 
「ではアクアさんとお友達3人は、同じマンションの別の部屋に住んでおられる訳ですか?」
 
「その状態がしばらく続いていましたけど、3人は別のマンションを契約してもうそちらに引っ越していますよ」
とアクアは言う。
 
「ああ、もう出ておられるんですか」
「2-3ヶ月前じゃなかったかなあ。引越シーズンで空き物件ができるのを待って、安い所を見つけたんですよ」
 
「なるほどですね」
 
「だから確かに私は彼女たちと一時的に同じマンションに住んではいましたけど、そもそも別の部屋だったし、彼女たちとは長い付き合いの友人なので、恋愛とか、ましてや乱れた関係とかになるわけがないです」
とアクアは笑いながら語る。コスモスも微笑んでいる。
 
「とすると、彼女たちとは単にお隣さん関係ですか?」
と阿藤さんはまだ緊張した面持ちである。
 
「一応、彼女たちは“家賃代わり”と言って、私に御飯を作ってくれていました。それだけですね。私も仕事で疲れて帰って来てから、彼女たちと一緒に御飯を食べると、古くからの友人だけに、癒やされて疲れが取れる思いでした」
 
「では彼女たちとセックスしたりすることは無かったんですね?」
 
「それは全く無いですね。だいたい私が女の子とセックスするとかあり得ないじゃないですか」
とアクアは笑いながら言った。
 
テレビを見ていた人の多くはここで納得した!
 
アクアは明確にそういう言葉を使ったわけではないが、自分が女だから女の子とセックスするのはあり得ないという意味に聞こえた。
 
「えっと、アクアさんは恋愛対象は男性でしたっけ?」
 
「私の恋愛については、これまでも何度かご説明したことがありますが、私は恋愛というのが分からないのですよ。ドラマや映画で恋人の役を演じてますけど、それは過去の色々なテレビや映画のラブシーンを思い浮かべて、恋をしている人はこう行動するのではというのを想像して演じているだけです。私にはたぶん恋愛感情が存在しないのだと思います」
 
とアクアは言った。
 
「ちなみにアクアさんの性別ってどちらでしたっけ?」
とやや混乱気味の阿藤アナは訊いた。
 
「私は男の子ですけど。私が女の子に見えます?」
とアクアは発言したが、ほとんどの視聴者が
 
「いや、女の子にしか見えない!」
と思った。
 

そういう訳で、この“スクープ”はスクープとして成立する前に消滅してしまったのであった。
 
昨夜、アクア(F)・千里・コスモス・ケイは深夜コスモスの自宅に集まって、緊急会談をした。それで記者会見の“路線”について話し合った。
 
(A)事実無根であるとして“怒り”、名誉毀損での巨額訴訟をちらつかせて謝罪と訂正広告を出すよう要求する。
 
(B)あまりにぶっとんだ記事に“大笑いした”と言って、記事を笑い飛ばしてしまう。
 
(A)路線で行っても、この手のメディアは訴えられることに慣れてるし、絶対に訂正記事など出さない。対決姿勢を見せると、他のメディアも調べ始め、ボロが出る可能性がある。
 
(B)路線で行けば、元々この雑誌の記事に信憑性が無いことは多くの人が認識しており、スベっただけだと思うだろう。だから笑い飛ばした方が、こちらとしては有利。
 
ということで、笑い飛ばしてしまうことにしたのである。
 
それで最初は同席者もコスモスの他、千里、ケイに弁護士さんと言ってたのをコスモスだけにすることにした。
 

しかしこの事件の余波で、彩佳たちとの同居は7ヶ月半で解消された。
 
アクアMは、やっとこれで毎晩帰って来てから疲れている身体でひと運動させられる生活から解放されると思った。
 
しかしそれは甘かったことをすぐに思い知ることになるのである!
 

記者会見の後、山村は
 
「龍、よくやった。名演技だった」
と彼女を褒めた上で
 
「後は俺に任せろ」
と言ったので、“後のこと”は彼に任せることにした。
 
山村はこの記事の情報源を調査した。龍虎と彩佳たちの関係が漏れるルートが存在したとすると、再度別のメディアにも漏れる危険がある。
 
山村は記事を書いた記者の家に深夜密かに侵入し記者に催眠術を掛けた。その結果、彩佳たちが使ったタクシーの運転手から漏れたことが判明した。
 
彩佳たちは都心に住んでいるので、買物(週1回のまとめ買い)に行く時、荷物が多いのと電車の密集密閉を避けるため、タクシーで移動していた。そのタクシーの中で彼女たちがした会話から、彼女たちがアクアと同居していることに気付いた運転手がそれを酒場で知り合いの記者に話したのが、この記事ができるきっかけになっていた。
 
むろん記者は裏付け取材をした訳ではなく、女子3名がアクアと同じマンションに住んでいるというだけの情報から、勝手に妄想を膨らませて“淫乱生活”なる記事を創作!した。しかしアクアの“爆笑記者会見”を見て、編集長は
 
「やはりアクアが女の子3人と淫乱生活ってのは、あり得ないのでは?だってアクアはどう見ても女でしょ?」
 
と言い、記者もそうかもと思い、少し反省した。
 
山村はこの守秘義務を守らなかったタクシー運転手にお仕置きをした。
 
彼にまず“夢”を見させて、不当な利益はそのまま持っていたら天罰が当たると脅した。それで彼はビビって、記者からもらった謝礼を全額赤十字に寄付した。彼はその後“うっかり”社長が激怒する発言をしてしまい、退職するはめになる。彼はやはり天罰が当たったのかもと反省した。ちなみにその後は宅配便会社に転職したが、二度と守秘義務を破ることは無かった。
 

山村はまた、今後このようなことが起きないように、彩佳たちにタクシーの使用を禁止した。代わりに彼女たちに、ヤリスを1台預けて、買物はこれを使うように言ったのである。
 
「お前たち免許は持ってたよな?」
「私と桐絵は持ってる」
と彩佳。
 
「私も取りたいけどお金が無くて」
と宏恵。
 
「龍虎に教習所代を出させるからお前も取りに行くといい。お前たちが感染したら、龍虎にも移す危険があるから、お前が免許を取るのは、龍虎にとっても有意義だから」
 
「そういう話だったら出してもらってもいいかな」
「物事は大義名分があればいいのさ」
と山村は言った。
 

「龍虎が女の子になってしまったのは病気のせいだと言えばみんな納得する。女になりたくて性転換手術を受けたと言ったら人気急落する」
 
「龍の性別って、元々不安定ですけどね。昔から男になったり女になったりしてた」
と桐絵。
 
「ここしばらく、ちんちんは出張中みたい」
と彩佳。
 
「ああ、なかなか戻って来ないかも知れないぞ。このまま女になったことにしてしまおうと龍虎には言ってる」
と山村。
「ああ、それでいいんじゃない?」
と宏恵。
「龍にちんちんが無くても問題無いよね」
と桐絵。
 
山村は彩佳と龍虎の関係を知らない。Mが消えてしまったことを彩佳に告げる件は龍虎(F)が自分で伝えるからと言っているので任せている。むろん消えたはずのMが彩佳と毎夜レスビアンセックスしているとは思いもよらない。
 

千里は6月18日はアクアの会見の後、一緒に事務所に行き、今後のことについてコスモス・ケイ・千里・アクアの4人で再度打合せをした。お昼ももらって食べた後、一度自宅に戻り、夕方にはNTCに入り、合宿に参加した。
 
今回は日本代表候補の第6次合宿になる。“候補”の合宿としては最後になる。日程は6月19-28日で、たぶん合宿終了後に代表12名が発表されるのだろう。招集されたのは前回と同じ16名である。実際には12名はもう決まっていて、今回の合宿で調子悪そうな人がいた場合、また万一怪我をする人が出た場合に、交替させるつもりでいるのではないかと想像した。
 

2021年6月19日(土).
 
第2回ビデオガールコンテストの二次審査が行われた。
 
一次審査を通過したのは140名だが、保護者が署名した芸能活動承諾書を提出したのは118名だった。この118名を一次審査の得点順に8個のグループに振り分けていく。つまり 1-2-3-4-5-6-7-8- 8-7-6-5-4-3-2-1- 1-2-3-4-5-6-7-8- 8-7-6-5-4-3-2-1- のような順番に振り分けて成績が平均するようにした。それで各組2位以内、特に惜しい場合は3位までが本選進出である。
 
今回の審査では、各自の自宅にWebカメラ付きパソコンを送付していたので、自宅やホテルの部屋から、そのパソコンの前でリアルタイムでパフォーマンスしてもらい、審査員と質疑応答をして採点した。
 

今回本選に進出したのは22名である。今回ほんとに惜しい人がいて3位で本選進出になった人が6名も出た。
 
川崎ゆりこは
「この22人の中に男の娘は何人いるかなあ」
と楽しそうに話していた。
 

2021年6月21日(月).
 
理史は仕事が夕方で終わった後、自分のCR-Zに乗り、八王子に向かった。龍虎から改めて話したいことがあると言われたので、彼女の新しい家に向かったのである。
 
門のリモコンや家の鍵は元の家のものをそのまま持って行ったからと言われていたので、門の前でリモコンのボタンを押すと門が開く。ガレージは全て扉が開いている。ポルシェと、2台の“アクアのアクア”が駐まっている。つまり、アクア・マクラの双方が来ているということなのだろう。
 
1台空いている所に自分の車を駐めた。
 
屋根付き通路を通り、玄関でピンポンを押すと、ドアが開くが、
「鍵持ってるんだから、自分で開ければいいのに」
と言って、マクラが理史に抱きついてキスした。
 
マクラは赤いブラウスとチェックのスカートを穿いている。可愛い!と思う。
 
ピンポンの直後にドアが開いたので、エンジン音が聞こえた時点でここまで来て待っていたのだろう。
 
彼女が理史を案内して、LDKではなく、アコーディオンカーテンで仕切られた向こう側の“ラウンジ”まで連れて行かれる。
 
もうひとりのアクアがソファに座っている。
 
スカートを穿いている!
 
でもアクアがスカートを穿いているのは今更だ。マクラは赤と緑のチェックのスカート、アクアは青系統のチェックのスカートである。
 
彼は理史を見て
「お帰り、サトシちゃん」
と言った。
 
「“お帰り”なんだ?」
「ここはもうサトシちゃんのおうちでもあるから、自由に使ってね」
「自分の荷物持ち込んでもいいよ。一番奥の部屋がボクの部屋だから、サトシの荷物はそこに置いてね」
とマクラが言う。
 
しかし“同じ顔”“同じ声”で話されると何だか変な気分になる。今はアクアが青い服に青系統のスカート、マクラが赤い服に赤系統のスカートを着ているから区別がつくけど、服を交換されたりしたら、2人を見分ける自信が無い。
 
男アクアもブラジャーつけてるし!
 
「隠れ家に使わせてもらうかも」
と理史は答える。
 
「まあボクたちも隠れ家的に使っているしね」
とアクアは言った。
 

「でも忙しいのによく2人とも休めたね」
「先週『白鳥の湖』を突然踊ったので今日は1日特別休暇をもらったから」
「特別休暇3日あげると言われたのに1日だけで誤魔化された」
 
理史は吹き出しそうになった。さすがに彼女たちは3日も休ませてもらえないだろう。
 
「結局君たちは双子なのか?」
と理史は尋ねた。
 
「そのあたりの事情を説明する前に、ボクの両親のことを話さなければならない」
とアクアは言った。
 
マクラがペーパーフィルターでコーヒーを入れてくれる。コーヒーカップはマイセンと見た。コーヒーはブルーマウンテンだが普通のブルーマウンテンとは風味が少し違う気がした(実は普通のジャマイカ産ではなくニューギニア産ブルーマウンテン。主としてヨーロッパに出荷されており、日本ではレア)。理史は1口飲んで味わった上で、スティックシュガーとピッチャーに入っているミルクを入れて飲んだ。
 
マクラはクッキーの入ったお菓子入れも出したので摘まむ。お菓子入れは深川製磁と見た。お菓子はブランドは分からないがフランスっぽい味付けだという気がした。こないだフォションのクッキー喜んでいたし、龍はフランス系の味が好きなのかなと思う。
 
「まあ長い話になるんだけどね」
と言ってアクアは話し始めた。
 

・ボクは、ワンティスのメンバー、高岡猛獅と長野夕香の間の子供である。2人が法的に婚姻していなかったので、長野の苗字を名乗ることになった。それどころか、理由は不明だが、両親はボクの出生届けも出していなかった。
 
・両親はボクを友人のスタジオミュージシャン、志水英世・照絵夫妻に預けていた。
 
・2003年12月27日早朝、両親は中央高速で事故を起こし即死した。志水夫妻は今後のボクの扱いについて遺族と相談しようと葬儀の席にボクを連れて行ったが事務所の社長に追い払われてしまった。志水夫妻は自分たちでボクを育てようと決意した。
 
・2006年夏、幼稚園の年中さんだったボクは原因不明の病気で倒れ、それから2年ほど入退院を繰り返す。ボクに戸籍が無く健康保険にも入れないため医療費が凄まじくかかり、経済的にも大変だった。
 
・2007年7月、志水英世が事故死する。夫を失い収入も激減した中で原因不明の病気の子供を抱えて、照絵は途方に暮れた。しかも保険が使えないので高額の医療費がかかる。照絵はミュージシャン時代のコネを辿って、ボクの母の妹・長野支香に接触し、泣きついた。長野支香は照絵の話を信じてくれた。
 
・支香さん1人では手に余るので、支香さんは上島雷太に相談した。上島さんは驚いたものの、取り敢えず病院代は全部自分が出すと言ってくれた。
 
・上島さんはまず、ボクの戸籍を作ることが必要だと判断し、この手の問題に詳しい弁護士さんに依頼してボクの戸籍を作ってくれた。
 

「これが凄いドラマティックだったんだよ」
とマクラは言った。
 
長い話というのもあり、アクアとマクラは交互に説明する。理史はやはりこの2人は双子なのだろうと思いながら、話を聞いていた。
 
アクアが羊羹を出してきて切り分けて3つの小皿に乗せる。九州の小城(おぎ)の羊羹という話である。マクラはお茶を入れた。同じく九州の八女(やめ)茶だと言った。
 
「これ見せてあげる」
と言って、マクラは1枚のラミネート加工されたホロスコープを見せてくれた。
 
「ボクの出生チャート。これはボクのお母ちゃん、長野夕香が、友人の占い師さんに頼んで作ってもらったホロスコープだという話だった。照絵さんがこれを保管していたのが第1のヒントになった」
 
理史はチャートに書かれている名前を見る。
 
“高岡龍虎 M 2001.08.20 14:21 町田市”
 
と印刷されている。つまり高岡夫妻は実際には入籍していなかったものの、いづれちゃんと婚姻して、龍虎の母も龍虎も高岡の苗字を名乗らせるつもりだったんだろう。
 
「それから、ボクの養育費を高岡の両親が志水の両親に送金するのに使っていた口座の暗証番号が2525で、これがボクの出生時の体重だと夕香お母ちゃんは言っていたらしい。それで弁護士さんは町田市内の産婦人科を1軒1軒訪ねて、2001年8月20日14:21に体重2525gで生まれた子供がいなかったか聞いて回った。そしてついに見つけたんだよ」
 
「その弁護士さん凄いね!」
 
「出産した女性はどうしても名前を名乗らなかったらしい。でも母の写真を見せたら間違いなくこの人だと、お医者さんも助産師さんも証言してくれた。更にはボクのDNA、支香叔母ちゃんのDNA、夕香・支香姉妹の母にあたる松枝さんのDNAを鑑定してもらって、ボクは遺伝子的に、松枝さんの直系子孫であるが、支香さんの直系子孫ではないという鑑定結果が出た。松枝さんの子供は夕香・支香の2人だけだから、理論的にボクは夕香の子供ということになる。それで裁判所はお医者さん・助産師さんの証言、ホロスコープと暗証番号の件も含めて総合的に判断して、ボクが長野夕香の子供であることを認めてくれた。それで、やっとボクは戸籍が作られたんだよ」
 
「ほんとに凄い」
 
「それで支香叔母ちゃんがボクの未成年後見人になるとともに国民健康保険の被扶養者にしてくれて、高額の医療費がかかる問題も解決した」
 
「戸籍が無いと本当に大変なんだなあ」
 

アクアが今度は握り寿司を出してきた。
「形が悪いのごめんね」
「もしかして手作り?」
「100円ショップのお寿司の型で酢飯を整形してお刺身載っけただけだから」
「お魚は柵で買ってきてボクが切った」
「すごーい」
 
2人の説明は続く。
 
「DNA鑑定については、父親の方も、父方の親戚のDNA鑑定の結果との比較で、父の猛獅に兄弟姉妹がいないことから、猛獅の子供であることが理論的に確定していた。でも当時、父の父・越春さんは、さんざん猛獅の隠し子を名乗る人たちに欺されて疑心暗鬼になっていたから、ボクが猛獅の子供であることを認めてくれなかった。それでボクの戸籍の父親欄に関しては、越春さんの同意があればその親子関係を認めるという審判になって、ボクの父親欄は空白にしておくことになった」
 
「それ、いまだに認めてくれてないの?」
「これをボクがデビューして半年くらいの頃にもらった」
と言って、アクアは1枚の文書を見せる。
 
同意書と書かれており
「私、高岡越春は、長野龍虎が高岡猛獅の子供であることを認めます」
となっている。
 
「もらったんだ!」
「なぜこれをまだ提出してないかについては後で説明する」
「うん。龍たちはあれこれ事情が複雑すぎるよ」
「自分でも思う」
 

2人の説明は続いた
 
・病気の件に付いては、上島さんが、色々なお医者さんにボクの病状を説明して回った結果、似たような症状の病気について書かれた論文を見たことがあるというお医者さんに到達した。それで、その論文を買いた先生の所にボクを連れて行ったら、間違い無くその病気であることが判明した。
 
・原因はとても発見しにくい場所にある腫瘍で、それを摘出した上で化学療法をすれば治る可能性があると言われた。それで手術を受けることになる。
 
・その手術前日に、醍醐春海先生というか村山千里さんを含む、旭川N高校女子バスケット部のメンバーと知り合った、千里さんたちのチームも明日物凄い強豪と対戦するけど頑張って勝つから、龍虎も手術頑張れと約束した。実際に約束したのはチームメンバーの佐々木川南さん。
 
・当日、千里さんや川南さんたちのチームはほぼ負けという状態から千里さんのトリックプレイが決まって奇跡の大逆転勝利を収めた。ボクの手術もMRIで見ていたのより実際の病巣が大きく困難な手術となり一時は心臓が停止する事態にもなったけど、幸いにもすぐ動き始めてくれて、何とか手術は成功し、ボクは生還した。
 
・それ以来、ボクと旭川N高校女子バスケット部のメンバーとの交流は続いている。
 
・それで退院することになるが、この時、ボクの面倒を見られる大人がいないという問題が出てくる。
 

「当時、志水のお母さんは、福井の実家に帰らなければならない状況だった。ボクは退院しても頻繁に通院することが必要だから福井には行けない。支香叔母ちゃんは仕事が忙しくて、ツアーなどにかかると何週間も帰宅できない。ボクが入院している間はいいけど、ボクが退院してしまうとお世話が出来ない」
 
「それで田代の御両親の里子になったということだったね」
「そうなんだよ。だからボクはそれ以来、田代さんちの子供として育てられたから、ボクは田代龍虎を名乗っている」
 
「越春さんの同意書をボクが提出しないのは、田代の両親に悪いと思っているからだよ。だってボクが小学1年の時から、この同意書をもらった中学2年の時までずっと育ててくれたのに、唐突に父親欄に名前を入れたら、子供を取られちゃう気がするじゃん。だからボクはこれを提出するつもりはない」
 
「それ永遠に提出しないの?」
「越春さんは遺言書を書いて、その中でボクと猛獅との親子関係があることを認めると書いてる。だから、越春さんが亡くなった場合は、ボクの戸籍の父親欄には高岡猛獅の名前が記入されることになる」
 
理史は少し考えていた。そして言った。
 
「龍のお父さんの高岡猛獅さんには兄弟姉妹が居ないと言ったね。龍のお母さんの長野夕香さんの兄弟姉妹は支香さんだけ。だから龍にいとこが存在するとしたら支香さんの子供しかあり得ない。でも支香さんの子供は、先日海原先生との結婚で明らかになったけど、まだ小学生の女の子だけ」
 
「うん」
 
「つまり龍にはいとこがいるはずが無い」
 
「そうなんだよ。ボクのいとこは、海原美奈代だけなんだよ」
とマクラも認めた。
 
「だからアクアとマクラがいとこというのは、大嘘だ」
と理史は指摘する。
 

「いやあ、あの時、ボクたちが2人いるところを河村監督に見られちゃってさ。それでとっさに『アメリカに住んでる従妹です』と名乗ったんだよ」
とマクラは照れながら説明する。
 
(実際に見られたのはNとF。反射神経の良いMはとっさに隠れた)
 
「それが、アメリカに住んでる従妹という話の始まりか」
「その話をもう終わらせようと思って、アメリカで結婚してもう日本には来ないということにしようとしたんだけどね」
 
「どうして終わらせる必要があるの?もう私たちは双子ですと発表しちゃえばいいじゃん。男の子アクアと女の子アクアがいたとなれば、みんなが納得するよ。共同ペンネームみたいなものだと説明すればいいだけだし。エラリー・クイーンとか、CLAMP, PEACH-PIT や 藤子不二雄・岡嶋二人とか。ラララグーンの“ソウ∽”も実は共同ペンネームだった。今は分離したけど。写真集を撮ったのが女の子アクアで、『夏の飛び魚』とかで胸を曝していたのが男の子アクアなわけでしょ?」
 
と理史は言った。
 

「その問題については、理史にショックを与えるだろうと思う説明をする必要がある」
とマクラは厳しい顔で言った。
 
「まずボクたちの身体を見て欲しい」
とマクラは言う。
 
「ボクはサトシの恋人だから、ボクがここで裸になってもいいよね?アクアは男の子だから、男の子のサトシの前で裸になってもいいよね」
 
と言って、2人ともその場で服を脱いで全裸になってしまった。男の子の方も女物の下着を着けていたのは気にしない!彼はショーツ姿ではそこに何も付いてないように見えたのに脱ぐとちんちんがあったのは少し驚いた。どうやって隠してたんだ?
 
男の子アクアの男性ボディ、女の子アクアの女性ボディが露わになる。2人は本当にそっくりだ。
 
「体型が完全に同じだ」
「でないと代役ができないからね」
「何なら身体のパーツの寸法を測ってもいいよ。全部同じだから」
 
ふたりは本当に完全に同じ体型である。違いは、女の子アクアにはバストがあるのに男の子アクアには無いこと、男の子アクアには男性器が股間にぶらさがっているが、女の子アクアにはそのようなものがないことだけである。
 
しかし理史は戸惑った。
 
「どうして2人ともお腹に手術跡があるの?」
 
理史はマクラに手術跡があるのは知っていたので、そのことからもマクラの方が実は“アクア”の本体で、男の子の方はその双子の兄弟かと思っていた。しかし、男の子の方にも同じ傷跡があるのである。
 
「ボクたちは2人であり、かつ1人なんだよ」
とマクラは言った。
 

「どういう意味?」
 
「この件に関しては、村山千里さんが深く関わっている」
とアクアは言う。
 
「千里さんに聞いてもしらばっくれるから確定ではないけど、多分ボクの命は千里さんに依存している」
 
「というと?」
 
2人は各々服を着た。
 
「今逆に服を着た」
「サトシ、観察眼が鋭いよ」
 
そういう訳で、男の子アクア(以下アクアM)が赤い服に赤系統のスカートを着て、女の子アクア(以下アクアF)が青い服に青系統のスカートを着てしまったのである。
 

「お腹空いたよね」
と言って、赤い服を着たアクアが、冷蔵庫の中からオードブルのようなものが乗った皿をいくつも持ってくる。一部の皿はレンジでチンする。小皿多数とお箸、フォークも持ってくる。
 
「これ輪島塗のお箸だけど、この黒いのを理史のにするから使ってね」
「分かった」
 
赤い服を着たアクアMは緑の箸、青い服を着たアクアFは赤い箸を使っている。
 
「飲み物も自由に飲んでね」
と言って、ワイン、ビール、チューハイ、ほうじ茶(冷)、日本茶(暖)なども並べた。
 
「ビールもらう」
と言って、理史はベックス・ビールの350cc缶を氷で満たした箱の中から1個取り、蓋を開けて少し飲んだ。
 

アクアたちは説明を続けた。
 
「ボクは本当は2008年8月1日の手術で死ぬ運命だったんだと思う。ところが映画にもなったけど、ボクは手術前夜に、千里さんに連れられて龍に乗って空を飛び、津軽半島の付け根付近にあるウィタエ(浮田江)という潟湖に行った」
 
「実はお祖母ちゃんの生まれ故郷なんだよ。どこか見たい所あるか?と聞かれて、お祖母ちゃんから聞いてた故郷(ふるさと)を見たい気がしたんだよね」
 
「その湖の傍で千里さんは龍笛を吹いた。凄く美しい調べだった。そしたら湧き水が出て来たんだよ。土地神様が千里さんの笛の御礼に湧出させてくれたと龍のおじさんは言ってた。ボクはその湧き水が美味しそうだったから飲んだ。龍のおじさんは、この水をアクア・ウィタエと呼んでいた。ボクの芸名は本当はこの湧き水が由来なんだよ」
 
「へー!」
 
「アクア・ウィタエは、浮田村の入江(であった潟湖)のそばで湧く水という意味だけど、ラテン語として読むと“命の水”(Aqua Vitae) ということになる」
 
「へー!!」
 
「ボクはここの水をたくさん飲んだ。何杯飲んだか分からないくらいたくさん飲んだ。そしてこの命の水のおかげで、ボクは明日死ぬはずだったのが寿命が延長されたのだと思う」
 
「うーん」
 
「だからボクの生命自体が、千里さんと深く関わっていると思うんだよね。これが前提の話」
 
「うん」
 
(龍虎は霧島大神がした“余計な親切”については認識していない)
 

「2017年4月16日23時頃、千里さんはバスケットボールの代表合宿をしていたんだけど、親友でルームシェアしている高園桃香さんから、子供が産まれそうという連絡が入って、様子を見に行こうとした。そこに雨宮先生から電話が入り、タイで財布を無くしたから助けにきてくれと言われた。更に別のお友達からも風邪で熱が出て動けないから助けてと連絡が入った」
 
「身体が3つ欲しいね」
 
「でしょ?それで千里さんも『身体が3つ欲しい』と叫びながら、合宿所を飛び出して駐車場に向かおうとしていた。そこに落雷があったんだよ」
 
「えっ!?」
 
「そしてこの雷に打たれたショックで千里さんは3つに分裂してしまった。1人は子供が産まれそうな桃香さんを助けに行き、1人は雨宮先生を助けに深夜の飛行機でタイに飛び、1人は風邪で倒れているお友達を助けに行った」
 
「待った。なんで人間が3つに分裂するのさ?」
 
「千里さんに訊いたら、よく分からないけど、バナナ・タルタルソースとかって難しい説明された(*14)」
 
(*14)バナッハ=タルスキー(Banach-Tarski)の定理。球を3次元空間内で有限個の部分に分割し、それらを回転・平行移動操作すると、元の球と同じ大きさの球を2つ作ることができる。これは無理数は分数で表せないという性質をうまく使っている。基本的には「賢いホテルの支配人」問題と同じ仕組みである。まるでパラドックスのように見えて実はどこにも矛盾は無い。もっとも千里の説明には誤魔化しがあり、人間は球のように回転合同ではないし、無限個の点ではなく有限個の粒子で構成されているので、バナッハ=タルスキーの方法にそって同じ人間を2人作ることは不可能である。
 

「バナナのタルタルソースでどうして人間が分裂する?」
「でもケイさんとか、どう考えても5人は居るよ」
「あの人、そのくらい居るよね!?」
と理史も納得する!?
 
「たぶんローズ+リリーのケイが1番さん、KARIONの蘭子=水沢歌月が2番さん、この2人が別人なのは確実だと、美空さんも言ってる。蘭子さんに話したことをケイさんが知らなかったりするんだって」
「なるほどー。ふたつのユニットを兼任できる訳無いと思ったよ」
 
「あと、紅石恵子が3番さん」
「紅石恵子ってケイさんなの?」
「そうそう。あまり知られてないよね」
「あんなにたくさん曲を書いてるのに。だったらローズ+リリーやってる人と同じ人の訳が無い」
 
「そして§§ミュージックの会長してるのが4番さん」
「あれ会長の仕事だけで他は何もできなくなるよね?」
「でしょ?コスモス社長もほとんど音楽活動できてないもん」
 
「それ以外に弁護士さんと婚約してるのは別人だと思う。どのケイさんも忙しくて男性と交際する時間なんて無いもん」
「ケイさんは実質マリさんとビアンの夫婦でしょ?他に婚約者がいるのは変だと思ってた。二股までする余裕なんて無いはずなのに」
 
「だからケイさんは最低でも5人はいる。千里さんの予想では8人、丸山アイさんの予想では10人というんだけどね」
 
「10人いても不思議ではない気がする」
と理史は言った。(なんか誤魔化されたような気もした)
 

「それで千里さんが2017.4.16に3分裂しちゃったらボクも3分裂しちゃった」
 
「はあ?」
 
「恐らく、ボクの存在が千里さんに依存してるから、千里さんの分裂の巻き添えでボクも3分裂しちゃったんだと思う。正確には“巻き添え”というより“共鳴”だと言われた。ビルでガス爆発とかあった時に、少し離れた場所にある同じ高さのビルが共鳴で揺れるのと似たような現象だと」
 
「ボクは当時死ぬほど忙しかったから3人になったのを幸いに3人で分担して仕事をするようになった」
 
「それでツアーを3人で分担して日替わりで歌ったし、写真集の撮影も3人で分担して撮影された」
 
「うーん・・・」
 

「だからボクは元々1人なんだよ。試してみるね。サトシ、ボクにだけ見えるように紙に数字を書いて見せて」
と青い服を着たアクアFが言う。
 
「うん」
 
それで理史はアクアFから渡された紙に「23」と書いて、彼女にだけ見せた。
 
「Mちゃん、サトシが書いた数字は何?」
とFが訊くと赤い服を着たアクアMは
「23」
と答える。
 
「じゃ次は男の子アクアにだけ見せて」
「うん」
 
それで理史は今度はアクアMにだけ「3.1417」と書いたものを見せた。Fの方が
「3.1417」
と答える。
 

「ボクたちは元々1人だから記憶を共有する。だからドラマの台本とかは2人で手分けして読んで、倍の速度で覚えちゃう」
 
「便利だね!」
 
「不便な時もあるんだけどね。ひとりが電車を降りようとすると、もうひとりもつられてうっかり降りちゃったりする」
 
「それは大変だ」
 
「ここにアルコールチェッカーがあります」
と言ってアクアFはテーブルの引き出しから小さな機械を取り出す。
 
「呼気チェックします」
と言ってFは自分の呼気をアルコールチェッカーに吹きかけた。
 
「ゼロです」
と言って、Fは表示を理史に見せる。
 
「Mもやって」
「うん」
 
それでMも呼気を吹きかける。
 
ゼロである。
 
「こちらにワインがあります。未成年飲酒します」
と言って、Fはテーブルに乗っていた赤ワインをグラスに注ぎ、それを飲む。
 
「呼気チェックします」
アクアFが呼気を吹きかけると 0.03 mg/L と表示された。
 
「Mやってみて」
「うん」
と言ってMが呼気を機械に吹きかける。
 
0.04mg/L と表示される。
 
「嘘!?」
 
「0.01は測定誤差かな」
とFは言っている。
 
「ボクたちは体液も共通なんだよ。だから片方がお酒を飲むと相手も一緒に酔う」
 
「便利なんだか不便なんだか」
 
「2人がグラス1杯ずつ飲むと、2人とも2杯飲んだ状態になるから気をつけないといけない」
 
「大変だね!」
 
「ボクが生理中の時はMも生理痛を味わう」
「ほんとに大変そう」
 
「ボクが出産したらMも出産の苦しみを味わうだろうね」
とFが言うと、理史は無言になり、ドキドキしたような顔をしている。
 
「片方が怪我すると、他方も同じ場所に傷ができる。試してみようか」
「それはやめて!」
 
「ボクが赤ちゃん産む時に会陰切開されたら、きっとMも切られてる」
 
「それ覚悟はしてるけど、どこか切れてるか、ちょっと恐い」
 
「きっとちんちんが切断されてるよ」
とFが言うので、理史は思わず自分のお股に手をやった。
 

「ただ何でもかんでも筒抜けになるのは不便だから、自分で相手には流したくない情報はブロックできる」
「ああ。なるほど」
「だからセックスする時は全部ブロックする」
とFが言うと、理史は赤くなってる。
 
「Mが彩佳とセックスしてる時の状況をボクも体験してみたいけど、Mったら全部ブロックするし」
「当たり前だろ!」
 
「もしかして週刊誌が報道した女の子?」
 
「3人の中の1人が彩佳。その子がMの恋人。他の2人はその親友だよ。でも彩佳とMの関係を認めたら、彩佳がファンに殺されかねないから、全員恋愛関係は無いって否定しておいた。まあ視聴者は女の子であるアクアが女の子と恋愛はしないだろうと信じてくれたみたいだけどね」
 
その時理史は初めて気付いた。
 
「もしかして僕やばくない?」
「サトシがファンに殺されたら盛大なお葬式してあげるから安心してね」
「安心できないよ!」
「生命保険入ってたほうがいいかもね」
 

「あれ?でもさっき3人に分裂したとか言わなかった?」
 
「2017年4月にM,F,Nの3人に分裂したんだけど、去年2020年1月5日に、Nがボクの中に吸収されて2人になっちゃった」
とFは厳しい顔で言った。
 
「え!?」
「その後も時々Nは実体化するんだけど、大抵はボクの中に入ったまま」
「ちなみにMはMale, FはFemale, NはNeutral」
「ボクは女の子だし、Mは男の子だけど、Nは中性なんだよ」
 
「うーん」
「千里さんによれば、元々のアクアの、女の子になりたい部分がボクになって男の子になりたい部分がMになって、どっちにしようと迷っていた部分がNになったのではないかと」
 
「でももう性別で迷って、男でも女でもない性別未分化の状態を続けるのはやめようと決断できたからNは消えたのかもって」
 
「待って、そしたら」
「ボクが男になるか女になるか決めたら、その時点で片方は消える」
「え〜〜〜!?」
 
「ボクが2人いることを公表できないのは2人いたはずなのに1人になったら、まさか殺人事件?とか思われるからだよ」
 
「普通人間が分裂したり統合されたりはしないから、そんな話誰も信じてくれない」
 
「僕も信じられないんだけど」
 

「実際、いったん1人になったんだよねー」
とMが言う。
 
「Nが消えた時点で、次に消えるのはボクだと思った。だから消える前に自分が生きた記念にと思ってヌード写真を撮ったんだよ」
とF。
 
「そうだったのか」
 
「そして完全に1人になるのは恐らく10月と言われた。それで2人のアクアがいる内に『君はダイヤモンド』を撮影した。あれは2人のアクアの記念碑の映画だった」
 
「それで僕たちの前に両方姿を見せたのか」
 
「もう時間が無かったから。映画の撮影が終わったのが11月2日だった。そして11月3日の夕方、とうとうボクたちは1人に統合された」
 
「え〜?」
 
「ボクはこの世から居なくなっちゃうと思ったから、アメリカに行って、もう日本には帰って来ないという話をしたんだよ」
 
理史は言葉も出ないようである。
 

「ところが消えたのはボクだったんだよねー」
とMが言う。
 
「え!?」
 
「“アクア”は結局は男として生きていく道を選ぶと思った。だから消えるのはボクだと思ったのに1人になってみたらボクが残ってたからびっくり」
とFは言う。
 
「山村マネージャーとかはアクアが1人になってFだけ残ったと思っている。だから「アクアは女の子でした」という記者会見をさせようとしている。拒否してるけどね」
 

「1人だけになってしまったのはショックだったけど、これからは頑張って1人で生きて行かなきゃとボクは決意した。ところがさ」
 
「また2人になっちゃったんだよねー」
とMが言う。
 
「実は11月から2月までは、1人になったり2人になったりを繰り返した」
「ああ・・・」
 
「なんか蛍光灯のランプが切れかかって、点いたり消えたりを繰り返すような感じだった」
 
「とりかへばや物語の撮影が当初遅れたのは、ほとんどの時間、ボクが1人だったから。でも撮影後半からは日中だけは2人でいられるようになって、撮影が進むようになった」
 
「それで何とか放送に間に合わせることができた」
 

「1月以降は安定して2人だよね」
「たまに1人になってたりしてたけどね」
「その時どちらが残るかは、実は自分でコントロールする方法が分かったから、疲れてる方が“内側”に行って、元気な方が“外側”に出てお仕事するようにしていた」
 
「そして3月以降は一度も1人になってない」
とMは言った。
 
理史は考えてみた。
 
龍と道ですれ違って、パスポートを落としたので声を掛け話したのは映画のクランクアップの少し後だ。それはアクアが1人になったり2人になったりを繰り返していた時期だったのだろう。だから“アメリカに行く”=“自分が消滅する”という意味だったのだろう。
 
山梨の旅館で出会ったのは1月だ。その頃はほぼ安定して2人になっていた時期なのだろう。自分が消える心配が少なくなった所で、龍は僕と付き合い始めたのかも知れない。
 

アクアMが「デザートに」と言って、一口サイズのフルーツケーキのようなものを出してきたので摘まむ。スペインのお菓子だと言っていた。
 
「この後、どうなるの?ずっと2人のまま?」
と理史は尋ねた。
 
「それは期待するなと言われてる」
とFが言う。
 
「いづれ1人になることは覚悟しておけと言われてる」
 
「千里さんは言葉を濁すけど、丸山アイさんは、2人ともずっと残る可能性もあるにはあると言った。でもアイさんも期待するなと言った」
 
「僕、その可能性に賭けていい?」
と理史が言う。
 
「ボクの卵子は冷凍保存している。もしボクが消えてしまった後でさ、もしボクの子供が欲しくなったら、その卵子を使って、誰か代理母さんに妊娠してもらえば、ボクの子供ができる」
とFは言った。
 
「ボクの精子も保存されているよ」
とM。
 
「ボクの精子でサトシ君が妊娠してもいいけど」
「僕は妊娠できないよ!」
 

「1人になった場合でも“フリップ状態”になる可能性はあるとアイさんは言った」
「フリップ?」
「身体はひとつなんだけど、ボクになったりMになったり」
「へー」
 
「実はさ、ボクたち、元々そういう状態だったんじゃなかろうかという疑惑もある」
「え〜?」
 
「こんなものがあるんだよ」
と言って、アクアFはまたラミネート加工された紙を出してくる。さっき見せてもらったのとは違うソフトで作成されたと思われるホロスコープが描かれている。
 
「あれ?」
「性別が女になってるでしょ?」
 
そのホロスコープには
 
“高岡龍子 女 2001/08/20 1421 神奈川県町田市”(原文ママ)
 
と書かれているのである。
 

「お父ちゃん、高岡猛獅の遺品の中から見つかったんだよ」
「お父ちゃんはそもそもボクを女の子だと思っていたのではという疑惑がある」
「志水さんちで育てられている時に、お父ちゃんがボクに女の子の服を買ってきてくれたことがあったらしい」
 
「女の子と思い込んでいたから、こういうホロスコープを作ったのかもね」
「女の子だと思い込んでいたのは、ボクにちんちんが無いのを見ていたからかも」
「実を言うと、ボクが生まれた病院に残っていたカルテには、生まれた子供の性別が記載されていなかった。お医者さんはなぜ記載しなかったのかは覚えてないと言った」
「ボクを取り上げた助産師さんも、子供が男の子だったか女の子だったかは記憶が曖昧だと言った」
 
「それにボクって、中学生時代はちんちん無かったんだよ」
「え〜〜?」
「そのちんちんの無い状態を、§§ミュージックの女子寮で、高崎ひろか・品川ありさ・米本愛心・月嶋優羽(つじま・ことり)とかに見られてる」
 
「当時は個室には風呂がなくて共同浴場だったからね」
「それでボクが男の子か女の子か確認しようと、何度も欺されて裸を見られた」
「それで女の子であることを確認された」
 
「正確に言うと、ちんちんがある時期もあるんだけど、無い時期もあった」
「むしろ無い時期の方が長かった」
「ちんちんが無い状態から唐突に出現する瞬間を彩佳に見られたこともある」
「安定してちんちんがあるようになったのは、実は3人に分裂した後なんだよ」
「だから元々ボクの性別って不安定だったし、今考えてみると、男の子のボクと女の子のボクが入れ替わりで表に出ていた可能性がある」
 
「だから1人に戻った場合もMが表に出たりFが表に出たりする可能性はあるね」
 
「もしそうなった場合は、ボクが表に出てる時はサトシとセックスしてあげるね」
「セックス中にボクに変わってしまったらごめんね」
 
「いや、それてもいいから僕は君を抱きたい」
「ありがと」
と言ってFは理史にキスする。
 

2人のアクアによる長い長い説明は食べ物を摘まみながら5時間くらいに及んだ。もう時刻は夜中0時を過ぎている。
 
「でも疲れたね」
「何か食べて寝ようよ」
「それがいい」
 
それでアクアMが冷凍ピザと冷凍小籠包をチンし、アクアFはジャスミンティーを入れた。ほたる焼きの茶器セットである。有田焼らしい。
 
それでしばらく、常滑舞音とか、羽鳥セシルの噂話などをした。
 

0:30になる。
 
「じゃボクは帰るから、あとは二人でごゆっくり」
と言って、赤い服を着たままのアクアMは家を出ていく。
 
「車で帰るの?」
「うん」
「疲れてるのに大丈夫?」
「平気平気」
と言うと、Mは出て行き、やがて門が開く音がした。出て行ったようである。
 
「ボクたちも寝よう」
とFは言って、理史を誘って、いちばん南側の部屋に入った。
 
「取り敢えず“して”から寝ようよ」
「そだねー」
 
理史はFが消えてしまう可能性については何も考えないことにした。その時が来たら、自分はとても平静ではいられないだろうけど。でも自分が消えるかも知れないという中でFが生きているというのを考えると、Fが自分とのことにも、お芝居や歌にも、全力投球であることが分かる気がした。この子は自分が生きた証(あかし)を残したいんだ。
 

八王子の新居を出た龍虎Mはガレージに駐めてある“アクアのアクア”#3 の“後部座席”に座ると、和城理紗に呼びかけた。
 
「代々木まで頼める?」
「OKOK」
 
それで和城理紗が運転席の所に姿を現し、この車を運転してMを代々木まで連れて行った。Mはその間ぐっすり眠っていた。
 
「着いたよ」
という声で目を覚ます。
 
「ありがとう」
と言って車を降りる。これが深夜1時半頃である。なお和城理紗はこのまま車をあけぼのテレビの巨大駐車場に回送するので、“地下の駐車場は使用しない”。
 
龍虎はエレベータで18階に昇りながら、
「もう10階の方に行くことはないんだろうな」
と思うと少し寂しい気がした。
 
彩佳たちとの“味噌汁の冷めない距離”の生活も、多忙な龍虎にとっては心癒やされることだった。
 
「10階の方は安くてもいいから売却しようかなぁ」
などとも考える。
 

1803号の鍵を開けて中に入る、
 
抱きつかれてキスをされる。
 
「彩佳!?」
 
「お疲れ様。毎日お仕事大変ね」
と言われると今日は1日休暇だったので少し後ろめたい(ワーカホリック)。
 
「ごはん作っておいたよ」
「こんな遅い時間なのに」
 
「同じマンションに住んでたら、遅くなった時は10階に帰ってたけど、市ヶ谷だと深夜眠くなってるのに車運転して帰るの居眠り運転になる危険があるからさ。食事作って持ってきた後、遅くなったら、ここにそのまま泊まってもいい?朝運転して帰るから」
 
「まあいいけど(ダメとは言えないし)」
 
「じゃ、ごはん冷めちゃったけど温め直すから座って座って」
 
と言われて、龍虎は取り敢えずリビングの椅子に座った。
 
彩佳がスープの入った鍋をIHにかけてタイマーをセットする。生姜焼きの乗ったお皿をレンジに掛ける。
 
「もう遅いから、ご飯食べたらすぐ寝ようね」
などと言いながら、龍虎のスカートの中に手を入れてから気付く。
 
「あ、ちんちん戻って来てる」
「昨日帰ってきたかな」
「じゃ、久しぶりに男の子として気持ちよくしてあげるね」
「何もしないで寝ようよぉ」
「うん。龍は何もしなくていいよ、私が全部してあげるから」
 
えーん。これって前より状況が悪化してないか?と龍虎は思うのであった。
 
それに桜井さん、そして理史に裸を見せるために、千里さんに男の身体に戻してもらったから(声変わりが起きないように睾丸は桜井さんに見せた後ダミーと交換してもらったけど)、ちんちんがあると無い時より運動量が大きくなりそう!
 

実際には彩佳は朝、休日は本当に市ヶ谷に帰るが、平日はここから自分の大学に出て行くようになる。市ヶ谷からより、ここからの方がずっと近いのである!
 
大学が終わったら、いったん代々木に戻り、車を運転して市ヶ谷に帰る(?) そして3人で手分けして晩御飯を作り夜22時頃(これより早く龍虎が帰宅することはまず無い)、料理を保温用の発泡スチロールの箱に入れて車で代々木に運び、龍虎の帰りを待つ。彩佳の自転車は代々木のマンションに置きっぱなしである!
 
つまり彩佳は毎晩ここに来て泊まっていくので、Fは彩佳の居ない昼間しかここでは休めない!(Fにとっても状況は悪化したようである)
 
なお、彩佳的見解ではずっとここに居る訳ではないので同棲ではないらしい!?
 
 
前頁次頁目次

1  2  3  4  5  6  7  8 
【春転】(6)