広告:彼が彼女になったわけ-角川文庫-デイヴィッド-トーマス
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■七点鐘(1)

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(C)Eriko Kawaguchi 2016-09-19

 
それは10月の初旬であった。
 
私はその日、取材で山奥の集落まで行っていたのだが、村の長老の話は要領を得ず、記事にするのに必要なだけの内容を得るのに予定の時間をかなりオーバーした。帰ろうと思ったらもう最終のバスが出てしまっている。
 
「ここは皆さん、交通はどうなさっているんですか?」
と80歳くらいの『娘さん』に尋ねると、
 
「ここは朝夕1本ずつのバスとあとは週に2度巡回してくる農協ストアの送迎バスが頼りなんですよ。年寄りばかりで車の運転ができる人もいないので。何でしたらお泊まりになって明日の朝お帰りになります?」
と言う。
 
「いえ、この記事を今夜中にまとめて提出しなければいけませんし、明日は朝から別の取材もあるので。タクシーの電話番号教えていただけませんか?」
 
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その問題もあるが、記者のモラルとして、取材対象からお茶程度を超える便宜の提供を受けることはよくないという気持ちがあった。
 
「ああ。この集落に来てくれるタクシーは無いんですよ。一番近いタクシーの営業所まで25kmほどあるので、割に合わないと言って拒否されるんです」
 
私は、誰か車が運転できる人に一緒に来てもらうべきだったと後悔した。私は家が貧乏だったこともあり、学生時代に車の免許を取りに行けなかったのである。そして就職してからは仕事が忙しすぎて、とても取りに行けない。
 
「えっと、どこかこの時間帯でもバスの走っている所か、タクシーが来てくれそうな村ってどこでしょう?そこまで歩いて行きます」
 
「でしたら花序集落でしたら確か22時くらいの高崎行きがあったはずです」
と言って娘さんは地図を出して教えてくれた。
 
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「県道777号をまっすぐ歩いて行けばいいですから。まだ40代の頃に1度歩いた時は4時間掛かったんですけど、記者さん、男の方だし若いから急いで歩けば何とか間に合うかも」
 
現在時計は20時である。花序まで地図上で見ると14kmほど。時速7km程度で歩く必要がある。取材用の資材が10kgほどある。結構きついが歩くしかない、と私は思った。
 

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娘さんが県道の所まで送ってくれたので、礼を言って私は早歩きで歩き出した。
 
最初は良かったものの、やがて上り坂になるとこれがかなりきつい。私は日頃の運動不足を痛感した。
 
疲れてくるが、夜中にこんな山の中で立ち往生したら危険でもある。道路は雨が降ったあとで、しばしば水たまりができているが、懐中電灯を持って来ていなかったので、何度か水たまりに突っ込んでしまい、靴がずぶ濡れになる。しかしそれでも歩かなければならない。
 
30分も歩く内に、やはり泊めてもらうべきだったかと後悔し始めていた。時々道路脇の森の中でカサカサという音がする。タヌキかキツネだろうか。或いは野ねずみかリスだろうか。まさか、イノシシとかクマとかじゃないよな?などというのも考える。
 
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21:10頃。私はようやく峠までたどり着いた。かなり疲れている。喉が渇いた。自販機を見た時にお茶でも買っておけば良かったと後悔する。しかしここからはたぶんずっと下りだ。頑張ろうと自分に言って私は歩き続けた。
 
そして10分もした時である。
 
突然前方で車のヘッドライトが光った。私は焦る。道幅は4m程度しかない。私はできるだけ道の端に寄った。車が近づいてくる。
 
そして私のそばを通過する時、車が派手に水たまりの中に突っ込んだ。
 
「わ!」
 
と思わず声を上げる。車がごく至近距離を通過したので私は転んでしまったし、車が跳ね上げた水たまりの泥水がまともに身体に掛かってしまった。
 
車が急ブレーキで停車する。
 
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運転席から懐中電灯を持った人物が降りてくる。
 
「大丈夫ですか?」
と声を掛けてくれたのは30代くらいの女性である。
 
「はい、何とか」
「車、当たりました?」
「いえ。当たってませんが、びっくりして転んでしまって」
 
「あら、大変。水浸し」
「いや、泥はねが来て」
 
「車に乗って下さい。うちで何かお着替えでもお渡しします」
 
「でもこの身体で乗ったらあなたの車の座席を汚してしまいます」
「ぜんぜん平気ですよ。座席にはカバーを掛けてるから、それを洗濯すればいいだけです」
 

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それで私は女性の車(フェアレディZであった)の助手席に乗せてもらった。女性の車はその道をまっすぐ進み、峠を少し過ぎた所で脇道に入る。こんな所に脇道があったとは気づかなかった。夜間なので、視界の認識が極端に低下している。
 
脇道に入ってから5分ほど走って車は小さな集落の中の1軒の家に到着する。こんな山奥の集落には似つかわしくない、ずいぶんと西洋的な建物である。
 
「中に入って下さい」
と言われて、女性と一緒に家の中に入る。女性が鍵で玄関を開けたので、私は
 
「おひとりですか?」
と尋ねた。
 
「ええ、夫は単身赴任しているし、娘は高校に通うために町で下宿しているんですよ」
 
確かにこんな山奥の集落からでは高校に通うのも大変だろう。しかし女性のひとり暮らしの家に夜間お邪魔するのは、何とも気が引ける。とはいってもこちらも濡れた服を何とかしたい。
 
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「シャワー浴びてきてください。その間にお着替え用意しておきます」
「すみません」
 

それでシャワーを浴びていたら、浴室の外の脱衣所の所に彼女が来て
 
「ここにお着替え置いておきますね。夫のもので申し訳ないのですが」
と言う。
 
「あ、いえ、お借りします」
と私は答えた。
 
浴室を出て置いてあるバスタオルで身体を拭く。そして着替えに置かれていた服を取ろうとして私は困惑する。
 
外に居るであろう女性に声を掛ける。
 
「すみません。ここにあるの女性用の服のようなのですが」
「あ、すみません!間違ったかも」
 
女性がこちらに来る雰囲気なので私はいったん浴室内に待避する。
 
「ごめんなさーい。私何勘違いしたのかしら。これ、娘の服だわ。やだぁ、まだボケる年でもないのに。ちょっと待ってください」
 
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それでしばらくすると、また女性が来て
「これは間違い無く、男物だと思います」
と言って脱衣所から出た。
 
それで私はまた浴室から出て、服を確かめる。今度は男物のようである。それで、灰色のトランクス、白いアンダーシャツ、それにトレーニングウェアの上下を身につけた。確かにトレーニングウェアならサイズが少々違っていても問題無い。
 

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外に出て行くと、女性は台所の片付けをしているようであった。
 
「良かったらその濡れた服をお貸し下さい。乾燥機付きの洗濯機があるので、2時間程度で着られるようになると思いますので、それまでお休みになっていてください」
 
「助かります!」
 
それで女性に着ていた服を渡すと、洗濯機を回していた。
 

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「お体が冷えたでしょう。お酒でも飲まれます?あるいはコーヒーとか」
「じゃコーヒーでも」
 
それで女性はコーヒーを入れてくれる。あらためて見るが、なかなかの美人である。既婚女性でなければ口説きたくなるくらいだ。
 
「このコーヒー美味しい!」
「夫がコーヒーにうるさいので私も覚えたんですよ。これはトアルコトラジャです」
「なるほど!これがトアルコトラジャですか。初めて飲みました」
 
「うちはいつもレギュラーコーヒーの豆が数種類置いてあって、しばしば独自のブレンドで煎れたりするんですよ」
 
「お客様とか多いんですか?」
「ええ。友人がよく遊びに来てくれるんです」
「だったら、こういう場所でも気が紛れるでしょうね、あ、失礼」
 
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「いえいえ。本当に何も無い山の中だから。私も仕事帰りに買物をして帰宅する所だったんですよ。そちら様はハイキングか何かですか?」
 
「あ、いえ。龍沼集落の古老に、取材で行っておりまして。あ、すみません。私、雑誌記者です」
と言って私は名刺を出した。
 
「ああ、そういう関係の方でしたか。私は名刺は持ってないのですが、月目スネ(つきめ・すね)と申します」
 
「月目さんですか。いや、色々お世話になってしまって。それで取材が遅くなって帰りのバスを逃したので、花序まで歩いて行こうとしていたんですよ。あ、でももう花序の最終バスにも間に合わないな」
 
「お住まいはどちらですか?」
「高崎市内なのですが」
「でしたら、朝になってからそちらまでお送りしますよ」
「すみません!」
 
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「ところで、こんな話を聞いておられます?」
と月目さんは言った。
 
「はい?」
「龍沼の古老のお話なら、龍沼の伝説をお聞きになったんでしょう?」
 
「ええ。若い娘の所にどこぞの貴人が通ってきていたが、素性が分からなかった。それで、男が帰る時に、服の裾に糸巻きの糸の端を結びつけておいた。明るくなってからその糸を辿っていくと、山奥の沼に到達した。それで通ってきていたのは、沼に棲む龍神様であったかと察した。似たような伝説は奈良県の三輪にもありますし、佐賀県の唐津にもありますね」
 
「あちこちに同じタイプの話があるようですね。でもここの伝説にはその前もあるんですよ」
 
「前があるんですか!?」
 
「その龍神様が通ってきていた娘ですけど、最初は男だったんですよ」
「え〜〜!?」
 
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「でもある時、満月の晩の真夜中にだけ湧き出すという不思議な水を飲んだら娘に変わってしまったというのです」
「へー!」
 
「その泉は元々龍沼と地下水脈でつながっていると言われます」
「なるほどー」
 
「だから、龍沼の龍神様は意中の子を見初めたのだけど、困ったことに男であった。それでまずはその男に泉の水を飲ませて、女に変えてしまって、そのあとで夜這いを掛けたんでしょうね」
「面白いですね」
 
「その泉が湧き出した場所は、化女と呼ばれて、それが後に字を変えて花序になったんですよ」
 
と言って月目さんは紙に《化女》《花序》と並べて書いて見せた。
 
「それは面白い。これ記事にしていいですか?」
「いいですよ。ついでに花序のその女に変わる水が出たという泉も見られます?」
「残っているんですか?」
 
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「ええ。普通に名水として評判です。残念ながら、それを飲んで性転換した人は聞いたことないですが」
「それで性転換したら大変ですね。じゃ、そこも教えて下さい」
「じゃ明日に。今夜は、お休みになって下さい。お布団用意しますね」
 
「何から何まで済みません!」
 

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私は用意してもらった布団で寝た。少しだけ寝るつもりだったのだが、山道を歩いた疲れが出たのだろう。朝、月目さんに起こされるまで熟睡していた。時計を見ると7時であった。
 
服は乾いているということで受け取り着替えた。麦ご飯と若布の味噌汁に焼海苔、沢庵という朝食を頂く。
 
「すみません。女の1人暮らしなもので、大したものが無くて」
「いえ、こういう朝ご飯大好きです」
 
朝食後、彼女が茶碗を洗っている間に私は取材の道具がそろっているのを確認する。彼女の運転するフェアレディZの助手席に乗って花序まで行った。
 
問題の性転換の泉というのは村の外れの農道脇にあり《聖浄水》という簡素な札が立っているだけである。
 
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「この聖浄水というのは、元々は成娘水と書いたそうです」
「おお!」
「飲んでみられます?」
 
飲めば女になる水というので、私は一瞬ためらったものの、これも取材だ。まさか本当に性転換する訳であるまいと思い、私は手で水を汲んで飲んでみた。
 
「美味いですね!」
「でしょ。私もこの水を中学生の時に飲んだら、1年ほどで女になったんですよ」
「え!?」
 
私が驚いて絶句していると
 
「まさか本気になさいました?」
と言う。
「びっくりしたー!」
と言って私は笑う。
 
「でも女になるのもいいかも知れませんけどね」
「なんでしたら、いい病院紹介しましょうか?」
「あ、いや、それは10年くらいしてから考えます」
 
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彼女はそのまま私を高崎駅まで送ってくれた。よくよくお礼を言って降りようとした時、彼女がつぶやくように言った。
 
「あなたはこれから1年ほどの間に7人の性転換者に会うでしょう」
「え?」
「そしたら、また私の所にいらっしゃいません?」
「え?あ。はい」
「じゃ。また」
 
私は首をかしげながら車から降りる。フェアレディZが走り去る。私は狐につままれたような気分になったが、気を取り直して会社の方に行くバス乗り場に向かった。
 

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広告:ここはグリーン・ウッド (第5巻) (白泉社文庫)