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■夏の日の想い出・受験生のクリスマス(2)
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それを見て司会者の治枝さんが
「取り敢えず私が場を持たせておく。誰かヴァイオリン貸して」
と言うので、アスカは手に持っていた《Rosmarin》を渡す。その楽器を持って治枝さんはステージに出て行き、サティの『ジムノペディ1番』を弾き始めた。この曲は4分くらいかかるはずである。
「お母ちゃん、弾けそう?」
「少し休めば大丈夫と思うんだけど」
「美奈さんと望海さんの順番を入れ替えますか?」
と私は訊いたが
「無理」
とアスカが言う。
「望海の楽曲は激しいから最後に置かないと、望海の後で美奈は弾きたくないよね?」
とアスカ。
「どうにもならないなら入れ替えてもいいけど、できたら先に弾きたい」
と美奈。
「仕方ない。冬、美奈ちゃんのも伴奏してよ」
とアスカ。
「私なんですか〜?」
「望海ちゃんの伴奏は体力使うから、美野里ちゃんが2人続けて伴奏するのは無理だもん」
「私もふたり連続は辛いですけど」
「でも冬がやるしかない」
私もやむを得ないかなと思い、アスカの母が持っていた伴奏譜を手に取った時のことであった。
「ごめんなさい! 遅れました!」
と言って楽屋に飛び込んでくる人物がいる。何だか派手なドレスを着ている。
「あんた誰?」
とアスカ。
「え?」
と言ってその人物はきょろきょろしてる。
「えっと・・・チェリーツインのコンサート会場はここでは・・・・」
「違いますけど」
「ここ、新宿文化ホールですよね?」
「そうですけど、少なくともチェリーツインではない」
「あれ〜〜〜!?」
「桃川さんでしたっけ?」
と私は彼女に言った。チェリーツインのバックバンドのドラマーの人だ。
「はい」
「チェリーツインは確か、新宿文芸ホールですよ。文化ホールじゃなくて」
「えーー!?」
「時々間違う人いるね、確かに」
「済みません! すぐ移動します。ごめんなさい」
「何時からですか?」
「公演は夕方なんですけど、リハーサルを13時からする予定で」
今は既に13時半である。
「既に遅刻のような」
「冬、知ってる人?」
とアスカが訊くので私は答える。
「チェリーツインというアイドルユニットのバックバンドの人なんです」
「へー。楽器は何するの?」
「大学のピアノ科出たんですけど、チェリーツインではいつもドラムス打ってます」
と本人。
「ピアノ科?」
「はい」
「どこの?」
「北海道教育大学って、すみません、田舎の大学で。そこの特設音楽課程というののピアノ専攻を出たのですが」
「特音の出か! レベル高いじゃん。だったら、あんたこの楽譜弾けない?」
「へ!?」」
「冬?この人のピアノ聴いたことある?」
「あります。初期の頃はこの人がピアノ伴奏をしていたんですよ。上手いですよ」
「よし、じゃお願いしますよ。簡単な伴奏だから」
「でも私、演芸ホールに行かなきゃ」
演芸ホールではなく文芸ホールなのだが。この人また更に会場間違わないかと心配になった。
「でももうリハーサルにはどっちみち遅刻じゃん」
「えっと・・」
「あ、治枝さんの演奏が終わる」
「よし。それじゃよろしく」
と言って、アスカは桃川さんに楽譜を持たせて、美奈と一緒にステージに送り出してしまった。
美奈が今日演奏するのは、日本の唱歌・古謡の類いである。『さくら』に始まって、滝廉太郎の『春』、『この道』『波浮の港』『椰子の実』『黒田節』『こきりこ』
と演奏して『浜辺の歌』で締めくくる。
特に難しいアレンジはしておらず、よく知られた曲ばかりでもあり、基本的にはピアノのスキルがある程度ある人なら初見で充分伴奏可能なので、アスカがちょっと試してみたくなったのだろう。
「だって何だか面白そうなキャラじゃん。それにポップス系のミュージシャンは機転がきく人が多いし、ステージ度胸がありそうな感じだったから、予想外の音符が並んでいるの見ても何とかすると思ったしね」
とアスカは言っていた。
アスカの思惑通り、桃川さんはぶっつけ本番なのにこれらの曲の伴奏をきれいにこなした。無事演奏を終えて美奈と桃川さんが戻ってくる。入れ替わりに望海と美野里が出て行く。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございました。助かりました」
「どうもどうも。でも遅刻〜」
「それは最初から遅刻だったような」
「あ、これ今日のお礼です」
と言ってアスカの母が封筒を渡す。
「すみません! でもきっと私向こうでは罰金だ」
「その補填に」
アスカの母がタクシーを呼んで行き先を告げ料金も支払っていたので、それに乗せて桃川さんを送り出した。
20日、私と政子は最後の模試を受けた。試験が終わってから政子に首尾を訊くとVサインをしていたので、かなり手応えがあったようである。
「でも冬、なんで今日は男の子の格好なのよ?」
「え?だっていつもそうじゃん」
「また、ご冗談を」
などと言っていたら、会場の最寄り駅でばったりと秋風コスモスとその事務所の紅川社長に遭遇する。
「わあ、洋子さんの男装って初めて見た!」
などと言ってコスモスが喜んで(?)いる。
「でもまさに、女の子が学生服を着ただけにしか見えない」
「ですよね〜。ほんとに不自然なんだから」
と政子が応じる。
「でもコスモスちゃん、お久〜」と政子。
「マリちゃんもお久〜」とコスモス。
などと言って握手している。ふたりは8月に伊豆のポップフェスティバルで会って以来である。
「そうだ。『雪の恋人たち/坂道』ダウンロードしましたよ。すっごくいい曲。なんでお金取って売らないんですか?」
「受験前で活動休止する約束を私とマリのお父さんとの間で交わしているからなんだよ。だから大学に合格するまでは活動できないんだ」
「へー。なんかもったいない。いい曲なのに。でもマリちゃん、すっごく上手。KARIONの和泉ちゃんが、あの録音は去年の春にしたものって言ってたけど、マリちゃんって元々あんなに上手かったの?」
「オフレコでお願いしたいんだけど、あれは実は最近録音したもの。特にマリのお父さんには内緒で」
「そうだったのか!びっくりしたー。少し安心した。でもマリちゃん、ほんとに上手になってる」
とコスモスが褒めると、政子は「えへへ」などと言って照れている。
コスモスは「オフレコで」と言った内容は誰にも言わずにいてくれる。彼女の後輩の浦和ミドリはそれがきかないので、彼女との会話には神経を使う。
「マリちゃんがあれだけ上手くなるんだから、コスモスも練習すれば上手くなるよ」
と紅川さんは言ったが
「私、練習嫌〜い。私は友達作らない、努力しない、勝利しない、というのがテーゼなんだから」
とコスモスは言う。
「あ、友達作らないってのは私も同じかも」
とマリが言うと
「お、同志!」
などと言ってまた握手している。確かにコスモスはひとりでボーっとしているのが好きなようだ。ただ、紅川さんの教育の成果もあって、今みたいに多少のおしゃべりはできるようになっている。最初彼女が(お姉さんの付き添いで)事務所に来た時は、何を訊かれても恥ずかしそうにして俯いているような物凄い内気な少女だったらしい。そんなアイドルには全く不向きに思える子の才能に気づいた紅川さんは慧眼である。
孤独好きという点では、コスモス、マリ、そして翌年知り合うことになる富士宮ノエルなどは似た性格である。仲良くしているつもりだった子が陰で実は陰湿な嫌がらせをしているなどというのが日常茶飯事のこの業界では、彼女たちのようにむしろ友達つきあいを拒否するタイプの方が精神的な安定は保てるかも知れないと私は時々思う。
「でも8月の《名も無き歌手》として歌ったの、良かったなあ。ああいうのまたやらないの?」
とコスモスが言う。
「うん。あれは我ながら結構楽しかった」
と政子が言うとすかさすが紅川さんが誘った。
「あれと同じような感じで、また《名も無き歌い手》として歌わない? 場を提供するよ」
「ほんとですか? わあ、やりたい!やりたい!」
と政子が言って、私たちはまたステージに立つことになったのである。この後、紅川さんは直接政子の家を訪問し、お母さんに挨拶した上で、出演許可を取ってくれた。ついでにお母さんはコスモスのサインをもらっていた。
その日自宅に帰って(受験生なので)勉強していたら、和泉から電話が掛かってきた。
「冬、25日は空いてる?」
「12月25日?」
「そうそう」
「終業式の後、友達とクリスマス会することにしてるけど」
「受験生なのに余裕があるな」
「お昼を一緒に食べるだけだよ。早々に各自の家に戻って勉強」
「なるほどねー。だったら、夕方以降は大丈夫だよね?」
「実は1件用事がある。これ内緒で」
「その用事はどこ?」
「実は代々木でマリと2人で歌う」
「嘘!?アイドルクリスマスにローズ+リリーが出演すんの?」
「8月に伊豆でやったのと同じ。名も無き歌い手として歌う」
「おぉ!」
和泉が何時頃歌うのかと訊くので、正確な時刻はまだ分からないけど秋風コスモスの前で歌う予定というのを伝える。
「それでKARIONも出るから」
と和泉。まあ和泉から25日に空いてるかと訊かれた時点で予想されたことだ。
「そちらは受験勉強大丈夫なの?特に小風は?」
「まあ何とかなるでしょ。もっともこないだの模試の成績が悪かったら出場禁止と小風のお父さんからは言われている」
「あぁ」
「まあその時は蘭子に小風のパートも歌ってもらえたら」
「うむむ」
「小風のマスク付けて」
「そんなのあり!?」
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