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■夏の日の想い出・食事の順序(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2014-06-20
2014年6月25日。今回の物語は私の知らない所で始まる。
隣でトラックの乗車口がバタンと閉まる音で彼女は目覚めた。
「何時だっけ?」
と自問自答してそのあたりに転がっているスマホを探す。なかなか見つからなかったが五線紙の間に挟まっているのを発見。時刻を見ると5時。もう太陽が昇っている。4日前が夏至だった。この時期の朝は早い。
「まだ眠いけど起きるか」
そう言って彼女は10年物の真っ赤なヴィッツを降りて、道の駅のトイレに行く。男女表示を確認して赤いマークの方に入り、個室に入って寝ている間に溜まっていた排泄物を放出する。ペーパーで拭き、服を整えて、便器から離れると自動で水が流れる。手洗いの所に行き手を出すと自動で水が出てくる。こんなの中世の人が見たら「魔法だ!」って騒ぐだろうなと思った。
手を洗ったついでに顔も洗い持参のタオルで拭く。少しストレッチしてから車に戻る。
「さて」
彼女はポーチの中から手鏡と毛抜きを取り出すと《顔のむだ毛》の処理を始めた。
タイミングが難しいんだよなと彼女は思う。この時期は早く処理しないと暑くなってからでは大変だ。基本的にアイドリングはしたくない。そもそも明るくなってしまうと、この処理を終えるまでトイレに行けないから辛い。しかし、暗すぎると《むだ毛》が見えなくて抜けないのである。ほんとに毎朝これ面倒くさい。お金を貯めてレーザー脱毛したいな、と彼女は思っていた。
その日私は午前中アルバムの楽曲のアレンジについて風花と打ち合わせした後、午後からは鈴鹿美里の音源製作をしているスタジオに行き、完成間近の音源を聞かせてもらい、細かい調整点を彼女たち、および★★レコードの鷲尾さんと話し合った。
その作業が終わった後、美空から新居で買ったオーディオの配線が良く分からないから見てと言われていたので、念のためオーディオケーブルを数本持参して、車で彼女の家まで行く。それを接続してあげて、少々おしゃべりしていたところで政子からお腹空いたという電話が入る。すると美空も「一緒に行っていい?」
などと言うので、覚悟を決めて! 美空をカローラフィールダーの後部座席に乗せ、私は新宿区の自宅マンションへの道を走った。なお、この車の助手席は基本的には政子専用である。
(この時期はまだ恵比寿のマンションへの引越前)
6月下旬は日が長い。もう6時過ぎというのに、まだ明るい。日没は多分7時くらいだったかなと思いつつ、美空とおしゃべりしながら走っている内に渋滞に引っかかる。まあこの時間は仕方無いよなと開き直り、流れに任せる。
そしてその渋滞をやっと抜けて、少し郊外っぽい所を走っていた時であった。
私は真っ赤なヴィッツが独立型の店舗外ATMブースの前に停まっていて、シャッターの降りたブースの外側にやはり真っ赤なカットソーとスカートを穿いた女性が外向きに立っているのに目を留めた。
私はなぜそのそばに車を寄せたのか、自分でもよく分からない。
「何かお困りですか?」
と私は車を停め窓を開けて、彼女に声を掛けた。
すると彼女は凄く嬉しそうな顔をして寄ってくる。
「ごめんなさい。もし良かったら携帯を貸してくれるか、公衆電話のある所まで連れて行って小銭を恵んでくれないかしら?」
と彼女は言ったのだが、私も美空も『おっ』と思う。
彼女は見た感じ30歳前後で、髪も長くセンスの良いお化粧をしているが、その声が男の声だったのである。
ニューハーフさんかな?と思いつつも私は平然として
「何があったんですか?」
と尋ねた。それで彼女はこのような説明をした。
夕方になって、お金を下ろしておかなきゃと思ってコンビニか何か無いかなと思っていた所でちょうどここのATMを見つけた。時間がもう19時近くで焦っていたので、どこでもいいやと思い、ここに入る。それでホントにぎりぎりでお金を下ろすことができて、彼女がお金を下ろし終わった所でATMは営業終了の表示に切り替わったという。
それでホッとして降ろしたお金をバッグに入れ、出ようとした所でスマホを落としてしまった。それが滑っていきATMの機械の下に行ってしまう。
うっそーと思い、近くにあったパンフレットなどを使って、何とか機械の下からスマホを取り出した。それでホッとして、それを持ちATMブースの外に出たら、彼女が出るのと同時にシャッターが降りた。
そしてその瞬間、自分のバッグをブースの中に忘れてきたことに気付いたのであった。
「それで取り敢えずスマホでここのATMの管理をしている銀行の電話番号を調べたのよね。ところがそれ調べて番号をメモした所で、バッテリーが切れちゃったのよ。バッグの中に免許証も車のキーも入っているから、どうにも身動きできなくて」
と彼女。
「スペアキーはお持ちじゃなかったんですか?」
と美空が訊く。
「財布の中なのよね〜」
「で、その財布もバッグの中ですか」
「このスカート、ポケットが無いものだから。ポケットのあるスカートだったら、そこに車のキーは入れるんだけど」
「ああ。確かに女物の服ってしばしば機能性を無視してますから」
「どっちみち財布が無いと、公衆電話のある所まで行けても電話が掛けられない」
「確かに」
ということで私は彼女に自分の携帯を貸して、それで彼女は管理している銀行に電話をするが、営業時間外ということでつながらない。それで美空が自分のスマホを使って検索し、時間外の問合せ先を調べてくれたので、そこに掛け直す。それでやっと連絡が付き、こちらに警備会社の人が来てくれることになった。
「来るまできっと時間が掛かりますよ。私の車の中で少し休まれませんか?」
と言って車内に入れる。
「すみませーん」
と言って彼女は後部座席に乗り込む。美空を助手席に移動させた。
「無糖のコーヒーでも良かったら」
と言って車内に常備している缶コーヒーを勧める。
「ありがとう。私も無糖しか飲まないの」
と言って彼女はそのコーヒーを飲んだ。疲れていたのだろう。ほとんど一気飲みであった。
美空が彼女に興味津々という感じである。
「何をなさっている方ですか?」
「あ、お仕事?一種の自由業みたいなものかな」
「へー。ライターさんみたいな?」
「ああ。物を書く仕事ではあるわね。あまり儲かってないけど」
「今日はお仕事でこちらに?」
「うん。私はだいたい車の中で書くのよ。それが集中できるから」
「ああ、そういう人結構いますね。自宅の机では気が散るってんで、しばしば狭い所に入るといいという人が多いみたい。お湯を入れてない湯船の中で書くとか、押し入れの中で書くとか、トイレで書く人も多いよね」
と美空は私の方を見ながら言う。
「うん。トイレって結構発想するんだよね。私もかなり車の中で書いてる」
と私は答える。
「あれ?あなたたち、どこかで見たことあると思ったら、KARIONの美空ちゃんと蘭子ちゃんだ」
と彼女は言った。
「蘭子という名前が出てくるなんて、まさか同じ業界の人だったりして?」
と美空。
「いや、その隅っこの方ですよ。KARIONやローズ+リリーとは比較にもなりません」
と彼女はほんとに恐縮しているような言い方である。
「じゃ、もしかして作曲なさるんですか?」
「うん。実は今月中に3曲書かないといけないのよね」
「今月ってあと5日と4時間半くらいしかないですね」
「調子が出ると一気に1日で1曲仕上げられるんだけど、詰まるとなかなか進まないのよね」
「それ分かります」
と私は答えた。
そんなことをしている内に、警備会社の人が2人到着した。
シャッターを開けてもらう。中に女物のバッグがあるが、当然本人確認が必要である。
「中を確認させて頂きます」
と言って警備員の年上っぽい人が言い、バッグの中から運転免許証を見つけて取り出す。
「お名前と生年月日をよろしいですか?」
と警備員さん。
「えっと」
と言って彼女は一瞬躊躇う。男名前を言うのが恥ずかしいのだろう。
「杏堂真一(あんどうしんいち)、1984年7月3日生です」
女性の格好をした人が男名前を言っても警備員さんは変な顔はしない。このあたりはさすがプロである。
「干支は何年生まれですか?」
「ネズミ年です」
「財布の中にはおよそ幾らくらい入っていますか?」
「さっき降ろした5000円と、後は小銭が多分500-600円くらい」
それで警備員さんはバッグを渡してくれた。バッグの中のキーで彼女がヴィッツのロックを解除すると、警備員さんは頷いていた。一応書類にサインをくださいと言って渡されたものに、杏堂さんはサインしていた。
そして警備員さんたちはシャッターを再度閉めて帰って行った。
しかし私たちは大きな驚きを胸に抱いていた。
「あのぉ、杏堂真一さんって、まさかトライアル&エラーの?」
「うん」
「全然気付かなかった!」
と私と美空は同時に声をあげた。
「そ、そうね。この格好だとあまり気付かれないかな」
と彼女は頭を掻きながら苦笑いしている。
「音楽業界の隅っこどころか、ど真ん中じゃないですか!」
「でもトライアル&エラーはいちばん売れたCDでも8万枚だしさ。2年くらい前から事実上休業状態で、昨年末に事務所とも契約解除になったのよ」
「そうだったんですか」
「あれ、だったら、もしかして萌枝茜音って、杏堂さんですか?」
と私は訊いた。
「あら、その名前も知ってるの?」
「今、鈴鹿美里の音源製作に関わっているんですよ」
「あららら」
美空がぜひ色々お話したいです、ということで杏堂さんを夕食にお招きすることにする。杏堂さんの車のカーナビに私のマンションを設定して、ほぼ前後する形で走ってマンションまで行く。杏堂さんの車はマンションの来客用駐車場に駐めてもらう。
「下ごしらえするのに少し時間かかりますから、よかったら先にお風呂にでも」
と言ったら
「実は一週間くらい入ってなかった。ずっと車の中で曲を書いていたんだよ。助かる」
と言って着替えを持ってお風呂場に行く。
「シャンプー・リンスは好きなだけ使って下さい。バスタオルはたくさん重ねて置いてるのを自由に使ってください」
「サンキュー」
その日は政子と美空の希望で、しゃぶしゃぶにする。グラム150円のオージービーフの薄切りを取り敢えず2kg解凍したが、こんなので足りる訳がないのは当然で、5kgか6kg解凍するハメにはなるだろうなという覚悟である。
私はお肉を解凍しながら、付け合わせの野菜を切り、レンジでチンして食べやすくする。美空が皿と箸を準備してくれたが、政子は動く気配は無い。
しゃぶしゃぶの鍋に水を入れてテーブルの上のIHヒーターで煮る。ごまだれを作ってポットに入れそれもテーブルに置く。
やがて杏堂さんがお風呂から上がってきた。お化粧は落としているが、青いカットソーと黒いプリーツスカートの組合せである。髪も洗ったようで、まとめてヘアゴムで留めている。
「普通に女の人に見えます」
と政子が言う。
「ありがとう。私、大抵の所ではパスする自信あるし、プールなんかも女子更衣室使うけど、声だけがダメなのよね。練習はしてるんだけど、なかなかうまく女声が出せないのよ。だから女子トイレでも女子更衣室でも絶対に声を出さないように気をつけてるの」
と杏堂さん。
テーブルは私−政子−杏堂さん−美空と囲み、お肉の皿は私と政子の間に1つ、杏堂さんと美空の間に1つ置く。むろん次のお肉は解凍中である。いただきますを言って食べ始める。
「安いお肉で済みません」
「いえいえ。私実は霜降りより、赤身の方が好き」
「私も割とそうですよ。でも声は苦労する人多いですよね」
と私も言う。
「うんうん。上手に女声出せるケイちゃんとか花村唯香ちゃんとかが羨ましいくらいだよ」
「元々そういう傾向あったんですか?」
「うん。でも隠してたから、中学や高校の同級生でも私の性向知ってる人は少なかった。おかげで同じ部活の後輩の女子が私を好きになっちゃって告白されて、傷つけないように断るのに苦労したことあるよ」
「ああ、それは冬も似たような経験あったよね?」
と政子。
「うん。まあね」
と私。
「あれ?冬って中学や高校は女子制服で通学してたんじゃなかったの?」
と美空。
「いや、そう誤解している人はいるけど、私は学生服で通学してるよ」
と私。
「と、本人は主張してるけど、学生服を着た冬の写真って1枚も存在しないんだよなあ。中高生の頃の冬の写真って、女子制服を着ているか、そうでなくても女の子の服を着てる」
と政子。
「やはりそれは嘘としか思えん」
「こないだの松原珠妃ちゃんのCD見たけど、あれ、小学生の時のケイちゃんなんでしょ? ビキニ姿でおっぱいもあったし」
と杏堂さん。
「だから当時から普通に女の子として生活していたとしか思えませんよねー」
と政子は言っている。
「でも高校時代、私が学校で学生服を着てたのをマリは見てるじゃん」
と私は言うが
「きっとそれは私の記憶間違いだ」
と政子。
「そんな無茶な」
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