【娘たちの面談】(1)

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2011年8月30日(火).
 
千里が午前中、インプに乗って千城台の房総百貨店体育館に行き、基礎練習をしていたらバイクが停まる音がする。バイクに乗ってくるのは誰だろう?と思っていたら、体育館に入って来たのは雨宮先生である。この場所を教えたのは誰だろう?と訝る。蓮菜かな?
 
「いたいた。ちょっと頼みがある」
「何ですか?」
「今私が乗ってきたCBR400RRを貸すから、あんたのインプ貸して」
 
ああ、また女歌手か誰かと揉めて逃亡したいんだなと思った。きっと自宅に戻れないのだろう。
 
「CBRって何ですか?」
「バイクよ。400cc」
「私、バイクの免許持ってません」
「なんで持ってないのよ?」
「だって必要無いし」
「あんたファミレスのバイト行くのにバイク乗ってなかった?」
「あれは原付です。ホンダのディオチェスタですよ」
「CBR400RRもホンダなんだけど?ちょっと排気量が大きいだけ」
「普通免許では50ccを越えるバイクには乗れないので」
 
「面倒くさいなあ。だったら、あんた二輪の免許取っておきなさい」
「いいですよ。夏休みだし、大会も終わったところだから、自動車学校に通います」
「自動車学校に行かずに、直接運転免許試験場に行けばその日に免許取れるのに」
「それは運転できる人ならいいけど、私、ふつうのバイクは乗ったことないですから」
 
「スクーターに乗ってるんなら似たようなものよ」
「さすがに違うと思いますけど」
「だったらいつまでに免許取る?」
「じゃ10月までに」
「9月中に取りなさい」
「分かりました。では9月中に」
「インプレッサは借りてっていい?」
「困ります。私、帰られなくなります」
「仕方ないなあ。しょうがないから、ケイのフィールダーをぶん取って来よう」
「ああ、可哀相に」
 
それで雨宮先生は帰っていった。
 

そういう訳で千里はその日の内に千葉市近郊の自動車学校に行き、普通自動二輪のコースを申し込んだ。むろん性別は女と書いた!
 
四輪免許を持っている場合、第1段階は実技9時間、第2段階は実技8時間と学科1時間である。卒業試験まで入れて最速 9/2+8/3+1=5+3+1=9 と9日間で卒業して、そのあと試験場に行けば免許を取れる計算になる。
 
取り敢えず30,31日, 9月1日で合計6時間の教習を受けたが、やはりスクーターに乗っているので、全く問題無く教習は進んだ。
 
「あんた、小型二輪に乗っているんだっけ?」
「いえ。原付です」
「ああ、それで。あんたうまいもん」
と教官から言ってもらった。
 

UTP社長の須藤美智子はその日★★レコードに行き、ローズクォーツの担当者・南頼高と打合せしていたのだが、帰ろうとした時、廊下で制作部の太荷次長から呼び止められた。
 
「須藤さん、久しぶり」
「ご無沙汰しております」
「今どこにいるんだっけ?○○プロ?」
「いえ。今は独立して宇都宮プロジェクトという会社をやってるんですよ」
「へー。何かいいアーティストいる?」
「ローズクォーツというバンドと、あと活動休止中なんですが、ローズ+リリーというデュオを抱えています」
 
「へー。でもごめん、それどちらも知らないや。それより有望なバンドがいてさ。近々デビューさせたいんだけど、プロダクションが決まってないんだよ。もしよかったら、引き受けてくれないかな」
と太荷次長は言った。
 
「ぜひそのお話聞きたいです」
と須藤。
 
「じゃ取り敢えず音源聞かせるから、ちょっと来て」
「はい」
 
それで2人は会議室に入った。
 

9月1日(木).
 
千里が自動車学校の後、夕方千葉の桃香のアパートに寄ると桃香が
 
「今週末バイトは?」
と訊く。
 
「特に無いけど」
と千里が言うので《きーちゃん》と《てんちゃん》がギクッとしている。この千里の返事は、今週末のバイトはふたりで代行してね、という意味になる。
 
「だったら、ちょっと富山まで付き合ってくれ」
「いいけど」
「池袋24:30のバスに乗るから」
「ちょっと待った。バスで行くの?」
 
千里はてっきり新幹線と思ったのである。
 
「このバスは片道3000円なんだよ。凄いだろ?」
と桃香は得意そうに言う。
 
「3000円〜!?そのバス、トイレ付いてるよね?」
「そんな上等なものは付いてないけど、途中1ヶ所トイレ休憩するから問題無い」
「何列シート?」
「4列シート。でも私と千里で並んで座れば問題無い」
 
「嫌だ。トイレも無い4列シートのバスに6時間とか7時間も揺られていくなんて絶対やだ」
と千里。
 
「このバスは実は10時間掛かる。それで少し安い」
「10時間なんて絶対嫌だ」
 
千里は実はおしっこが近い。これは血糖値が高めであることから来ている。
 
「でもこれがいちばん安いんだよ」
と桃香は言っている。
 
「だったら、私今ちょうど友だちから車借りてたから、それに乗ってかない?」
「借り賃は?」
「ただ」
「でもガソリン代とか高速代とか、かからない?」
「下道を走って行けばいいよ。ガソリン代は、千葉から高岡までだいたい420kmだから、あの車の燃費が13km/Lとして片道32L。ガソリン代が120円として3800円。1人分のバス代と大差無い」
 
「おお、それは素晴らしい!それで行こう」
 
千里はインプレッサを雨宮先生に取られてなくて良かったと思った。
 

そういう訳で今週末のバイトは《きーちゃん》が神社で、《てんちゃん》がファミレスですることになった。ほんとうは8月28日で千里の今年の日本代表の活動も終わったし、9月いっぱいは大学も夏休みなので、その間はバイトは自分でやるから2人は休んでいてよ、と千里は言っていたのである。実際30日の夜は千里自身がファミレスの夜勤に入っている。しかし結局《きーちゃん》と《てんちゃん》の夏休みは千里が富山から帰った後ということになった。
 
『ごめんね〜』
『まあいいよ。今週末は頑張るよ』
 
そして千里と桃香は千里のインプレッサで高岡まで往復することになったのである。もっとも先の計算はかなり誤魔化している。
 
だいたい千葉から伏木までの道のりは420kmではなく460kmくらいある。インプレッサスポーツワゴン(20S 2000cc)の燃費はカタログ値では13km/Lだが、実際には運転のうまい千里が走らせても10-11km/Lである。そもそも千里は燃費よりグリップ優先のタイヤ《ポテンザ》を履かせている。また下道で行けばカーブが多いし夜間走行でライトも使うと燃費は恐らく8km/L程度まで落ちる。この時期のガソリン代はレギュラーでも144円/Lである。130円くらいのGSはあるかも知れないが120円というのは厳しい。そしてこの車はハイオクなのでレギュラーより10円くらい高い。
 
それで本当の所を計算すると、460÷8=57.5L 57.5×150=8625円という計算になる。つまり少しずつ誤魔化して実際に掛かる費用の半分以下を千里は言ったのである。
 

千里はいつも駐めている立体駐車場からインプを持って来た。
 
「あれ?これMTか」
「そうだけど」
「悪い。私ゃMT運転する自信が無い」
「私がひとりで運転するから大丈夫だよ」
「ホント?じゃ休み休み行こう」
「うん」
 
それで千里は桃香を後部座席に乗せて「寝ててね〜」と言うと、国道17号で高崎まで北上し、18号に乗り換えて軽井沢方面に走る。桃香は最初寝ていたものの、高崎をすぎた深夜2時頃起きて、千里としばらくおしゃべりしていた。しかし碓氷峠(うすいとうげ)に掛かると「何ここ〜!?」と言って絶句する。
 
物凄い急カーブの連続だが、千里はシフトをこまめに切り替えながらごく普通の速度で走り抜けて行く。結果的に乗っている人には絶叫マシン並みの重力が掛かる。桃香は三半規管がおかしくなった。
 
「千里、すまん。もっとスピード落としてくれ」
と悲鳴をあげて言う。しかし千里は
 
「無理。これ以上遅くしたら危険。追突される」
と言って楽しそうな顔で走って行く。
 
実際には千里の前にはフェアレディZ(3700cc 355ps)、後ろにはマジェスタ(4600cc 347ps)が居て、3台が高速に走り抜けていっていた。パワーのあるマシンに挟まれて2000cc 155psの車でしっかり走った千里も凄いのだが、そもそもこんな速度でここを走る車はめったに居ない。交通量の少ない深夜だからできるワザである(しかもわざわざカーブのよりきつい(=通る車の少ない)旧道側を走っている)。
 
「助けてくれ〜!重力の方向が分からない」
「男ならこのくらい耐えられなきゃ」
「今だけ女になりたい」
「じゃ寝てる?」
「そうしよう」
 
それで桃香は軽井沢に到着するまで寝ていたようである(軽井沢は碓氷峠を登り切った所にある。軽井沢の先の下り坂はとってもまともな道である)。
 
今回の行程は大半を実際には《こうちゃん》が運転しているのだが、碓氷峠だけは『ここ運転したい』と言って千里自身が運転した。本人は「楽しかった!」と思っている。眷属たちもこういうのが大好きな《こうちゃん》以外は悲鳴をあげていた。《すーちゃん》などは『パス』と言って飛んで逃げ出して少し離れた空中から眺めていた。
 

峠を登り切った所にあるローソンで休憩したのだが、桃香は「疲れたぁ」と言ってコーラを飲んだだけで夜食に買ったスパゲティにも手を付けないまま放心状態である。桃香は実は遊園地の絶叫マシンが大好きなのだが、碓氷峠は絶叫マシンよりも凄かったようである。
 
「この後はこういうの無いよね?」
と桃香は訊く。
 
「この後、安曇野方面に出る道が(有料の三才山トンネルを通らない場合)結構凄いんだよね。それから安曇野から糸魚川に行く道もなかなか楽しい」
 
わざわざ安曇野に回らずそのまま国道18号を北上すれば、この先の道はそれほどでもないのだが、そんな道を走るつもりは毛頭無い。
 
「まっすぐな道は無いの〜?」
「高速走る?」
「いくらするんだっけ?」
「えっとね・・・」
と言って千里は携帯で確認している。
 
「佐久ICから小杉ICまで5990円の所が今すぐ乗れば深夜割引で3000円」
 
今3時すぎなので4時までにICを通過すると深夜割引が適用される。
 
「それなら乗ろう」
「OK」
 

それで軽井沢から先は高速に乗って、上信越道→上越JCT→北陸道と走ったので桃香は重力の急激な変動にさらされることなく安眠できた。なお、実際には千里もこの先は眠って運転は《こうちゃん》に任せた。
 
高速を通ったおかげで予定より早く、9月2日(金)の朝8時頃、高岡の桃香の実家に到着する。
 
「あれ?もう着いた?」
「うん。桃香お疲れ様〜」
「いや、千里こそお疲れ様。少し寝た?」
「途中の道の駅で仮眠したよ」
「そうか。全然気付かなかった」
 
実際には呉羽での時間調整以外は、短いトイレ休憩だけで、ほぼノンストップ運転している。ガソリンは桃香のアパートに来る前に満タン(50L)にし、高崎付近でも一度満タンにしたが、高岡に入る頃はかなり少なくなり、市内の島石油で給油してまた満タンにしておいた。2度の給油の時、桃香は寝ていたので全然気付いていない。碓氷峠で無茶やったものの、その後は高速を走ったので結局ガソリン消費は58Lほどで平均燃費は7.9km/Lと、とても優秀な数値になった。
 

桃香は実家に到着するとそのままお昼まで寝ていた。それで桃香が起きてから昼食を取りながら本題に入る。昼食にはこの夏の余り物のそうめんを茹でて食べた。
 
今日は金曜日なので青葉は学校に行っている。実はその青葉が居ない間に3人で話し合いたかったようである。
 
「青葉を実質的な養女にしたということで、親戚とかに引き合わせて行ってたんだけどね」
と朋子は言う。
 
「うちの母さん(敬子)や典子(朋子の妹)は市内だから5月中に会わせた。この2人には青葉が戸籍上は男の子であることも言ってある」
 
「まあ典子叔母ちゃんは物わかりが良いから」
と桃香。
 
「富山・石川近辺に住んでいる親戚にはだいたい6月までに引き合わせているけど、青葉の性別のことは言ってない」
 
「わざわざ言うこともないと思う」
と桃香は言う。
 
「大阪の喜子姉ちゃんはお盆に旦那と娘連れてこちらに来たんだよ。じいちゃんの25回忌だからと言って」
 
朋子が言う“じいちゃん”というのは戸籍上は伯父(父の兄)の湯川鐵國である。喜子はその娘(養女:鐵國の恋人の娘だが鐵國の種ではない)だが、朋子の実父・湯川芳晴が早く亡くなったため、鐵國は朋子に自分を「お父ちゃん」と呼ばせていたし、朋子は喜子のことを「お姉ちゃん」と呼んでいた。
 
鐵國は結局生涯独身で子供も居なかった(少なくとも朋子は聞いてない)のだが、喜子・朋子・典子の3人の女の子をひとりで育てた(敬子は娘たちを放置して東京で暮らしていた)。
 
ここの家は鐵國の死後、それを相続した喜子(当時既に大阪在住)から朋子の夫・光彦が買い取ったものである。その資金は銀行から借りて20年ローン(2007年完済)にしたが、光彦も間もなく亡くなったので本当にローンを払ったのは朋子である。喜子はこの家を売ったお金を元に大阪でマンションを買った。結果的にはその資金を朋子に出してもらったようなものなので、そのことを済まないとずっと朋子に言っていたという。喜子としては鐵國の実の姪である朋子ではなく、血の繋がっていない自分が遺産を相続したこと自体、後ろめたい気持ちもあった。そういう経緯もあり、喜子と朋子は今でも仲が良い。
 

「二十五回忌法要とかしたんだっけ?」
「私も忘れていたから、慌ててお寺さん呼んで仏壇の前とお墓でお経をあげてもらったんだよ」
「そうだったか」
 
「その時に青葉を引き合わせて、喜子姉ちゃんにも青葉の性別のことは言ってあるけど、こんなに可愛かったら問題無いと言ってくれた」
 
「可愛いかどうかは性別とは関係無いけどね。でも喜子伯母ちゃんは、やや取り扱いに注意が必要だけど、筋を立てて話せば理解してくれる人だし、色々味方になってくれる人だ」
 
と桃香。
 

「それで、今度、四国の和彦(にぎひこ)さん所につれていきたいんだよ。本当は夏休み中に行きたかったけど、あの子、合唱大会とかで忙しかったから」
 
「なるほどー」
 
和彦は朋子の夫(桃香の父)光彦(あきひこ)の父である。四国の土佐清水市に住んでいる。
 
「私だけでは不安だし、桃香も一緒に来てくれる?」
「うん。いいよ」
 
「それでまず青葉の性別のことだけど、どう思う?」
と朋子は少し迷うような顔で桃香に訊く。
 
「言わない方がいいと思う」
と桃香は即答する。
 
「やはりそうよね」
 
「和彦さんたちに言えば、結果的に親戚中に言わないいけなくなるけど、中にはこういうことに理解のない人もいる」
 
「うん。それを心配したのよ」
「実際、聖火(みか)さんとこの清(きよし)さんが実質女になってしまっているみたいだけど、お姉さんの萌枝(もえ)さんがかなり反発しているらしいね。洋彦(きよひこ)伯父から聞いたんだけど」
と桃香が言うと
 
「あの人は名前の読み方を『さやか』と変えたらしいよ」
と朋子が言う。
 
「へー。改名したのか。結婚しているのによく改名が認められたね」
と桃香は言ったが
 
「漢字を変えずに読み方を変えるだけなら裁判所とかの審判は必要無い。役場に届けるだけで終わり」
と千里が言う。
 
「そんなに簡単なんだ!」
「桃香も読み方を『いさむ』とかに変えちゃう?」
 
「うーん。。。。少し悩んでみようかな」
 
(実際にはそもそも読み方を管理していない自治体もあり、その場合は何の届けも必要無い。単に知人に浸透させるだけで済む)
 

朋子と桃香はしばらく四国方面の親戚のことで色々情報交換をしていた。それで千里が言った。
 
「いろいろ込み入った話もあるみたいだし、私はしばらく席を外してようか?」
 
しかし桃香は言った。
「いや。千里にも知っておいて欲しい。千里も一緒に行くんだし」
 
「なんで〜?」
「千里は私の奥さんだから、夫婦は一緒に行く」
と桃香。
「いつの間に私、桃香と結婚したのよ?」
と千里。
 
「いや、千里ちゃんも向こうの親戚に会わせておきたいから、一緒に来て」
「でも私別に桃香さんと夫婦じゃないですけど」
「うん。でも千里ちゃんも青葉のお姉さんだから」
「そういうことなら、いいですよ」
 
それで結局千里も敬老の日の連休に桃香たちと一緒に向こうに行くことになった。
 

この日は午後に、冬子と政子が高岡にやってきた。千里が買物ついでにインプレッサで富山空港まで2人を迎えに行った。
 
「これ冬の車と似てるね」
と政子が言ってる。
 
「冬子の車って何だったっけ?」
「カローラ・フィールダーなんだけどね」
「じゃ同系統の車だよね」
と千里は言う。
 
「今回はあまり予算が無いから、そのフィールダーに乗ってくるつもりだったんだけど、知り合いが借りて行ってしまったもんだから、結局チケット屋さんで格安チケット買って、飛行機で来た」
 
などと冬子が言っているので、千里は吹き出すのをこらえるのに苦労した。
 

「でもうちのフィールダーより、このインプレッサの方がパワーがあると思う。1800ccくらい?」
と冬子が訊く。
 
「1994cc」
と千里は何とか普通の表情を保ちながら答える。
 
「なるほどね〜」
「冬のフィールダーは?」
「あれは1496cc」
 
「なんでそんな半端な数字なの〜?2000ccとか1500ccとか、きっちりした数字にすればいいのに」
と政子は言っているが
「その必要性が無いから」
と千里と冬子が同時に言った。
 
「越えたらまずいんだよね」
「そうそう。2001ccになってしまうと5ナンバーではなく3ナンバーになってしまう」
 
「あ、税金が高くなるんだっけ?」
「そうそう」
「だから切りの良い数字の少し下を狙う」
「そもそもエンジンは円筒形だから体積の計算は結構難しい」
「ああ、円周率掛けるしね」
 

その日の晩に千里が山のようなボリュームの鶏の唐揚げをあげ、それをペロリと政子が食べるのを見て、桃香はあっけに取られていた。
 
「買い物した時ついでにミスドも買ってきたけど」
と千里が言って、ミスドの10個入りドーナツが3箱出てくる。
 
桃香は4個食べた。千里も4個食べた。青葉は2個食べたが、朋子は「脂っこいの苦手」と言って1個しか食べなかった。冬子は2個食べた。
 
そして政子が17個食べたので、桃香はもうポカーンとしていた。
 
「なぜそんなに入る?というより、どこにそんなに入る?」
と桃香。
 
政子はとってもスリムな体型である。体重は42kgくらいだ。
 
「政子の胃袋の謎を解明したらノーベル賞がもらえるかも」
と冬子は言っていた。
 
しかし唐揚げ5kgの内の3.5kgくらい、ドーナツ17個を食べると、さすがに
「お腹いっぱいになった」
と政子も言っていた。
 

冬子と政子は3日に“ローズ+リリー”のそっくりさん《ゴース+ロリー》という名目でのライブがあるので来ていて、ついでに青葉にヒーリングをしてもらったのだが(冬子は性転換手術の傷跡のヒーリング、政子は心のヒーリング)、ライブは14時からなので、午前中は伯母・清香と臨月の従姉・千鳥の家に寄るということだった。これも千里が送って行ったのだが、行っている最中に千鳥が産気づいて、病院に運ぶ手伝いをした。
 
その後、千里が冬子・政子をライブ会場まで送る。千里はどこか近くで終わるまで待っているよと言ったのだが
 
「楽屋で休んでいるといいよ」
と言い、中まで連れていく。ライブには★★レコードの加藤課長も来ていて、千里を見ると会釈をしたのでこちらも会釈をした。千里は加藤課長とはAYAの制作会議で2007年に会って以来、何度か顔を合わせているが、冬子たちと一緒に来たのには少し驚いたようであった。それで加藤さんが千里に何か言おうとした時、イベンターの人が来て言う。
 
「すみません。楽屋口に駐めてあるブルーバード・シルフィは、こちらのどなたかのお車でしょうか?」
 
「あ、ごめーん!僕のだ」
と加藤さん。
 
それで加藤さんが車を移動しに行こうとしたのだが千里は言う。
 
「あ、課長さん、お忙しいでしょうし、私が駐車場に移動させておきます」
 
それで加藤課長は
 
「醍醐さんでしたね。ケイちゃんの関係者でしたか。じゃ、お願いします」
 

それで千里は課長から鍵を受け取って車を移動しに行ったが、加藤さんが「醍醐さん」と呼びかけたので、あちゃぁ、私が醍醐春海であることが蘭子にバレたかな?と思った。しかし楽屋に戻ると冬子は特にそのことについて何も言わない。さっきの聞き落としたかな?と千里は思った。加藤さんとは冬子と政子がステージに出ている間に、色々意見交換をした。
 
「マリちゃんかなり精神的に回復してますね」
と千里は言う。
 
「うん。あれならローズ+リリーの復活も近いかなと僕も思っている」
と加藤さんも言っていた。
 
今日はあくまで「そっくりさん」と称してライブをしているのだが、これなら「本物」に戻れる日も近い、と思わせられるしっかりしたステージであった。
 
千里たちが楽屋で待機していた間に、清香から千鳥の赤ちゃんが生まれたという連絡が入った。風の盆のお祭りの最終日である9月3日に生まれたことからまつり→茉莉花(まつりか)で「茉莉香(まりか)」と名付けられた。後のフラワーガーデンズのドラマー“ジャスミン”である。
 

ライブが終わった後は、青葉とその友人2人、と一緒に八尾(やつお)に入り、風の盆を見る。風の盆は公式には9月3日の21時頃に終わるのだが、実はその後から9月4日朝4時頃に掛けてが、本当の風の盆のクライマックスなのである。冬子の知り合いの、地元の民謡家の先生とその家族やお弟子さん7人が街流しをしていて、冬子もそれに参加していた。この8人の後ろに青葉と友人2人が続いて歩いていたので11人編成の街流しに見える。
 
千里は桃香・政子と3人で沿道を観光客のような顔をして冬子たちに付いて歩いたが、政子が沿道の食物屋さんで色々買ってよく食べるので桃香はまた呆れていたようである。
 
午前5時頃に朋子がおにぎりとお茶を持ってきてくれて、聞名寺境内で一休みする。その後、富山市街地まで戻る。
 

「冬子さんたちは飛行機で東京に戻るんですか?」
と解散したところで青葉が訊く。
 
「少しどこかで休憩してから帰りたい気分。徹夜明けで飛行機の気圧変化に曝されるのは辛い」
と冬子が言っている。
 
「だったら私たちの車の後部座席に同乗して東京に戻る?」
と桃香が言った。
 
「東京にどこ通って帰るの?」
と政子が訊く。
 
「まず一般道を通るオプションと高速道路を通るオプションがあるのだけど」
と千里が言うと
「高速!」
と桃香・冬子がほぼ同時に言った。
 
「う〜ん。じゃ、長岡経由関越、直江津経由上信越道、東海北陸道・愛知経由、米原経由名神・東名、の中からひとつ選択」
と千里が言う。
 
富山−東京間のルートは(高速を使う場合)下記4ルートが代表的である。
 
富山(北陸道下り)長岡(関越)東京 430km
富山(北陸道下り)上越(上信越道)藤岡(関越)東京 400km
富山(北陸道上り)小矢部砺波(東海北陸道/東海環状道)豊田(東名)東京 570km
富山(北陸道上り)米原(名神/東名)東京 640km
 
更に東海環状道の土岐JCTから中央道に行くルート、あるいは上信越道から長野道を通って中央道に行くルートもある。
 
なお高速料金はいったん下に降りたり名古屋高速や首都高など別料金の所を通らない限り、どういうルートを通っても最短距離で計算される。
 

「うーん。関越かなあ」
と冬子は言ったのだが、政子が
 
「愛知って名古屋県だっけ?」
などと言い出す。
 
「名古屋が愛知県ね」
 
「名古屋ならひつまぶしを食べられるよね?」
「ああ」
 
「名古屋にちょっと寄ってひつまぶし食べて行こうよ。食事代と余分な高速代はケイが出してくれると思うし」
と政子。
 
「というより高速代は全部私が出すよ」
とケイ。
 
「じゃ名古屋経由で行こうか」
「OKOK」
 
「でも千里も寝てないでしょ?いったん家に戻って少し寝てから行く?」
と桃香は言ったが
 
「私眠りながら運転するの得意だから大丈夫だよ。すぐ出発しよう」
と千里は言う。
 
「眠りながら運転するの〜?」
と桃香は言うが
 
「普通だよね、それ」
と冬子も言っている。
 
「脳を左右半分ずつ眠らせればいいんだよ」
「それそれ。片目だけ開けておく」
 
(千里はマジだが冬子はジョークと思っている)
 

そういう訳で
「大丈夫〜?」
と心配そうな顔をする青葉をよそに、千里・桃香・政子・冬子は千里のインプに乗ると、すぐに出発した。
 
富山ICのランプを昇って北陸道上り線に乗る(北陸道は米原方面が上りで、新潟方面が下り)。そして実際、政子も冬子も桃香も、みんな風の盆を見て徹夜しているのですぐに眠ってしまった。千里自身も《こうちゃん》に『よろしく〜』と言って、眠ってしまう。それで《こうちゃん》が千里の身体の中に入って車を動かし、インプレッサは小矢部砺波JCTから東海北陸道を南下した。
 
富山を出たのが朝6時くらいだったが、8時頃に川島PAでトイレ休憩する。
 
「あれ?もうここまで来たんだ」
と冬子が驚いている。
 
「名古屋はどこかお店知ってる?」
「そうだなあ。11時からなんだけど、昭和区の**ってお店」
「ちょっと待ってね」
と言って、千里はカーナビで確認している」
「40分で行くね。少し休んでいこうか」
「そうしよう。千里少し寝るといいよ」
「そう?じゃそうさせてもらおうかな」
 

政子が
「お腹空いた。朝御飯食べよう」
などと言っている。
 
「ここはハイウエイオアシスがあるんだね。そちらで何か食べられるかな」
と冬子。
 
「私はまだ疲れが残っている。まだ寝ていたいし、この後、うなぎを食べるならお腹を空かしておきたい」
と桃香。
 
「だったら、冬子と政子ちゃんで行ってくる?」
と千里が言うので、2人で行こうとした。
 
ところが数歩歩いた所で冬子がふらっとして座り込む。
 
「どうしたの?」
「軽い貧血かな。大丈夫」
と冬子は言うが
 
「冬子、疲れが溜まっているんだよ。冬子も寝てるといいよ。私が政子ちゃんには付き合うよ」
などと千里が言う。
 
「でも千里も徹夜の上ここまで運転してきて疲れているでしょ?」
「私は運転しながら寝てたから平気。冬子、アルバムの制作とシングルの制作が同時進行して辛かったとか言ってたし、まだ休んでいるといいよ」
 
「あれ?私そんなこと言ったっけ?」
と冬子は悩んでいる。
 

この時期は、冬子はローズ+リリーの『After 3 years, Long Vacation』の制作をする一方で、芹菜リセのアルバム制作、スリファーズの制作も進めていた。またKARIONのシングル『恋のブザービーター』が全く売れず、制作を主導した★★レコードの滝口さんの進退問題が浮上し、その問題でも連日各方面と打合せをしていたし、一方で冬子は木原正望と何度もデートに応じており、公私ともにかなり多忙であった。
 
「千里は眠くないの?」
と政子が訊く。
 
「私は寝ながら歩くし、寝ながら食べるから平気」
「だったら、ふたりで行こうか」
 
ということで、結局千里と政子がハイウェイオアシスの方に行き、冬子と桃香は車内で寝ていることにした。さすがの桃香も徹夜で八尾の街を歩いた後では女の子を襲う元気も無く!冬子も無事であった。
 

「朝早いけど、開いてる店あるかな?」
などと言って見ていたのだが、フードコートがもう開いていたので
「良かった良かった」
と言って入り、取り敢えず高山ラーメンを食べる。
 
朝から平気でラーメンが入るのは、今日のメンツの中ではたぶん政子と千里の2人だけである。
 
ふたりで昨夜の風の盆のことや、ゴース+ロリーのライブのことなどを話す。その内ラーメンを食べてしまったので、丼屋さんで、千里は焼き鳥丼、政子はカツ丼を頼んで、また食べながら話す。ところがカツ丼を食べ終わった所で政子が突然何か考え込むようにした。
 
「どうした?何か辛(から)かった?」
「ううん。ちょっとケイのことでね・・・」
「ケイがどうかした?」
「最近、男の子とよくデートしてるみたいなんだよね」
「ふーん。別にいいんじゃないの?」
「なんか不愉快なのよね」
 
「ああ、嫉妬ね」
と千里は遠慮無く言う。
 
「やはり、嫉妬なのかなあ」
「マリちゃんも男の子とデートしてみたら?」
 
すると政子は少し考えるようにしていた。
 
「実は、こないだから国文科の男の子から何度もデートしない?って誘われているのよね。けっこうフィーリングが合う感じだから、デートしてもいい気がするんだけど」
 
「別に今すぐ結婚してくれということでもなければデートくらいしてもいいんじゃないの?」
 
「でも私もケイも各々男の子とデートしてたら、ローズ+リリーは解散になっちゃうかなという気もして」
 
「ケイともデートすれば?セックスも日常的にしてるんでしょ?」
 
「・・・二股してもいいと思う?」
「全然問題ないと思うよ」
と千里は言った。
 

「いいのかな」
「男の子との恋愛と、女の子との恋愛は両立すると思う」
「やはり?実はそんな気もしたんだけど、同時にふたりと付き合ってよいものだろうかとも思って」
 
「桃香なんて他に恋人がいるのに、夜中に私を求めて来るし」
「千里は桃香が好きじゃないんだっけ?」
 
「私は桃香に恋愛感情は無いよ。そもそも私はストレートだし。まあ仲は良いから、彼氏に振られたら桃香の奥さんになってもいいかなとは思うけど」
 
「千里、彼氏もいるの?」
「いるよ。8年くらいの付き合いかな」
「凄い長く付き合ってるね!」
「24歳くらいになった時、お互いに独身だったら結婚してもいいとお互いの親の許可は得ている」
「すごーい。じゃそれまでに性転換手術するのね?」
「もちろん」
「普段はどうやってセックスしてるの?A?F?X?O?M?」
「その記号の意味が分からない」
と千里が苦笑しながら言うと、政子はわざわざラテン語で言う。
 
「coitus in ano, coitus inter femora, coitus in axilla, coitus oralis, coitus intra mammas」
 
(anoは英語のanus, femora:大腿, axilla:脇の下, oral:口腔, mamma:乳房)
 
すると千里もラテン語で答える。
「coitus in vagina」
 
「千里Vあるの?」
「内緒」
 
「うーん・・・」と言って政子は腕を組んで考え込んでいた。
 

「ねえ、千里。彼氏は居ても桃香とセックスしてるよね?」
「だいたい確率80%で撃退している」
「ん?」
「その内レイプで訴えるぞと言っているんだけど、疲れている時とかは気付くとやられているんだよね〜」
「うーん。。。。」
「目を覚ましたら、確実に殴ったり蹴ったりしてレイプ魔は撃退している」
 
「で、でも、だったら桃香は千里のおちんちんを無理矢理立てて、自分のに入れている訳?」
「まさか。桃香が私に入れるに決まっている」
「桃香ってちんちんあるんだっけ?」
 
「時々ね。きっと精子もある。だから確実に帽子を被せるよう要求している。セックス自体、私は同意してないけど、セックスするなら絶対付けてくれって。私今妊娠する訳にはいかないから。桃香もそれは守ってくれている。そもそも桃香は女役をしたことはないはず。私は男役できないしね」
 
「桃香は千里のどこに入れる訳?」
「もちろんV。桃香はAと思ってるかも知れないけど、私は彼氏にもAは許してない」
「うーん・・・・」
 

「政子ちゃんが元気になるような写真を見せてあげよう」
と言って、千里は自分の携帯の中から1枚の写真を表示させた。
 
「おぉぉぉ!!!これは!!!」
と叫んで嬉しそうな顔をしている。
 
冬子のセーラー服姿である。中学生の頃の写真だ。
 
「千里、なんでこんなの持ってるの?」
「たぶんこの写真を持っている人は全国に数十人居る」
「むむむ」
「冬子って、高校に入る前の活動に関してはけっこう黙ってるよね」
「うむむ。調べてみよう」
 
実際にはこの写真は雨宮先生が酔っ払っている時に見せてくれたものを《せいちゃん》に頼んでコピーしておいたものである。
 
「この写真、私のiPhoneに転送できない?」
「私機械音痴だから無理」
「私もその手の操作、さっぱり分からない」
「まあYour Eyes Onlyということで」
 
「でもかなり元気になった」
「よかった、よかった」
 

車に戻った時、政子がとっても元気になっていたので冬子は
「どうかしたの?」
と訊いたが、政子は
「冬の秘密を知ってしまった」
などと言って楽しそうである。
 
千里はすぐ車を出すよと言ったが、冬子が最低30分は寝てと言ったので、そのくらい仮眠させてもらった。
 
それで車は東海北陸道を南下し、名古屋高速を通って、お店に行く。11:30でお昼が近いので駐車場が満杯だったが、どこか空いてないかと探してぐるりと回っていたら1台出て行く車があった。それで千里はそこにさっと入れた。
 
お店に入ると、けっこう人がいる。しかしちょうど4人座れる所が空いているのでそこに座る。
 
(むろん、駐車場も席も眷属に確保させておいたもの。車を駐めておいたのは《いんちゃん》である。彼女は普段あまり運転したがらないが運転自体はうまい)
 
冬子が「私のおごりだから」と言って、肝入り上ひつまぶしを4つ頼む。店員さんが来てすぐに冬子が頼んだので、他の3人は御品書きを見ていないが、ここに以前来たことがあり値段を知っている千里が「わぁ」という感じで首を振っていた。
 
「千里ここに来たことあった?」
「先輩に連れてきてもらったことがある」
「なるほどね〜」
「何?ここ高いの?」
と桃香が訊くが
「冬子がおごってくれるから気にしないでいいよ」
と千里は言った。
 
おそらく桃香が「高い」という言葉から想像する値段の3〜4倍だろうなと千里は思った。
 

しかし高いだけあって、ひつまぶしは物凄く美味しかった。ボリュームもあるので政子が喜んでいる。
 
「ひつまぶしって3度美味しいって言うよね?」
と桃香が訊く。
 
「1度目はそのまま食べる。2度目は薬味を掛けて食べる。3度目はお茶漬けにする」
と千里が説明する。
 
「よし、そうやって食べよう」
 
実際には冬子は半分くらいしか食べなかったので、その残りは政子が食べていた。政子は凄く元気で
 
「美味しい美味しい。ほんとに美味しい」
と言って、楽しそうに食べていた。
 

お店を出た後は冬子が
「休める所があるから」
と言って冬子の伯母・田淵風帆の家に連れて行き、そこで結局夕方まで休ませてもらうことにする。風帆は
「来た以上はお稽古してもらう」
などと言って、冬子に胡弓、政子にも三味線を渡して弾かせていた。
 
「あんたたちも何かしてみる?」
と千里・桃香にも声を掛ける。
 
それで千里は胡弓、桃香は太鼓を借りて演奏してみる。桃香の太鼓は
「あんたリズム感いいね」
と褒められた。千里の胡弓については
「経験者?」
などと訊かれる。
「私ヴァイオリンを弾くからその応用です」
と千里は答えた。
 
「なるほどー。それでいきなり音を出せたわけだ」
と風帆は感心していた。実際桃香も胡弓を少し触ったが、全く音が出なかった。
 

「ヴァイオリンはどのくらい弾くの?」
と風帆の娘で実家にいりびたっている美耶が訊く。
 
「下手ですよ〜」
「どのくらい下手なのか弾いてみて」
と言って、自分のヴァイオリンを持ってくる。ヤマハのV20Gという楽器だと言っていた。
 
千里が弾き始める。ヴィヴァルディの『四季』より『春』第一楽章である。
 
「お、うまい」
と桃香が声をあげた。冬子も美耶も「へ〜」という顔をしている。
 
ところが
「え!?」
という声が思わずあがる。桃香が難しい顔をする。
 
そして千里は約3分半の第一楽章を弾き終える。
 
一応みんな拍手をしてくれる。
 
「なんか時々つっかかっていた」
と桃香が言う。
 
「私は移弦する時に一瞬音が分からなくなるんですよ」
「なるほど〜」
 
「つまり移弦しなければ上手いんだ!」
と美耶が言う。
 
「そういうことで、全体的には下手であるということで」
と千里。
 

しかし政子は
「何か間違ったんだっけ?」
などと言っている。
 
「間違ったと言っても6-7セントの違いだった。だから、音感の発達していない人には間違ったこと自体が分からない」
と美耶は言う。
 
「今ここにいる人のほとんどはその6-7セントの違いの分かる人ばかりだったみたいね」
と風帆伯母は笑いながら言っている。
 
「どうも私はそのほとんどから外れる人のようだ」
と政子。
 
「その問題は、練習すればわりと短期間で改善される気がする」
と冬子が言う。
 
「その時間が無いもので。すみませーん」
と千里。
 
「まあ確かにバイト忙しいみたいだもんなあ」
と桃香は言った。
 

風帆伯母の家で結局、夕食までいただいてしまう。このままここで1泊して明日の朝帰ればいいよ、などという話になりつつある。
 
「千里ちゃん、太鼓もうまいね〜」
「高校時代に雅楽の合奏団をやってたんですよ」
「雅楽かあ。担当楽器は?」
「いろいろやりましたよ。龍笛、篳篥(ひちりき)、鉦鼓(しょうこ)、和琴(わごん)」
「和琴聞いてみたいなあ」
 
などと言っていた時に、冬子の携帯に着信がある。
 
「あ、はい。明日の朝1番ですか?ちょっと待って下さい」
と言って冬子は
「東京行きの最終は何時だっけ?」
と美耶に尋ねる。
 
「22:10.もう間に合わない」
「高速バスは?」
 
「冬子、高速バスに乗るくらいなら、私たちが送って行くよ。だいぶここで休ませてもらったから」
と千里が言う。
 
「そうしようかな」
 
それで冬子は電話の向こうの相手に明日朝1番に行くと伝えていた。
 

「じゃ出発しよう」
「ああ、おにぎり作ってあげるよ。夜食に」
と言って、美耶がおにぎりをたくさん!作ってくれた。大半は政子のお腹に入るであろう。風帆もコーヒーを入れてスタバのタンブラーに入れてくれる。
 
「タンブラーは今度名古屋に来る時に返してもらえばいいから」
「じゃお借りしていきます」
 
それで結局22:30頃に風帆伯母の家を出て、千里は途中富士川SAで30分ほど休憩しただけで走り続け、朝4時前、東京の冬子のマンションに辿り着いた。(実際に運転したのは《こうちゃん》である)
 
「ありがとう。助かった」
「冬子、随分忙しいみたいだけど無理しないようにね」
「うん。気をつけるね」
 
その後、千里は千葉まで走り、5時頃に桃香のアパートに辿り着く。桃香は走っている間も、ほぼ寝ていたのだが、部屋に入ると
 
「なんか眠い」
と言って、スヤスヤと眠ってしまった。千里は微笑むと車を駐車場に入れてきて、そのあとジョギングに出た。
 

2011年9月12日(月).
 
出雲の藤原民雄から青葉に連絡がある。
 
「青葉ちゃん、君の性転換手術をしてくれるかもって所を見つけたよ」
「ほんとですか?どこですか?」
「アメリカのカリフォルニア州サンフランシスコ近くのバーリンゲーム市という所にあるX医院という所。君、B先生は知ってる?」
「はい、もちろん。でも数年前に亡くなられましたよね?」
「うん。ここの院長さんはB先生の下で技術を学んだ人らしい。だから技術は確かだと思う」
「わあ」
 
「こちらも少し向こうの病院と話したんだけど、中学生の性転換手術をした実績はあるらしい」
「ほんとですか!」
「一応特例でも16歳以上なんだけど、倫理委員会の許可が下りたら15歳でも手術できるということらしい。だから来年の5月22日以降なら手術してもらえる可能性がある。まあ手術後の療養を考えたら夏休みだろうけどね」
 
「嬉しいです。実際16歳でやってくれる所もなかなか無いんですよ」
 
「一度診察してもらいに行く?予約が必要らしいし、何なら君が直接その病院に問い合わせた方がいいかも。青葉ちゃん、英語はできるよね?」
「ある程度は。でしたら、連絡してみます。電話番号教えてください」
 
「うん」
 

それで青葉は向こうの開院時間に合わせて電話をしてみた。日本から電話していると言うと、向こうの院長先生が出てくれた。それであれこれ訊かれることに答えていったのだが
 
「そういうことであれば、15歳になったら手術できる可能性があると思います。一度こちらにいらしてください」
と言われる。
 
「分かりました。それでは日程を調整してからあらためて予約させて頂いていいですか?」
「うん。待ってるよ」
 
それで青葉は朋子と相談した。
 
「私はあんたの保護者だから当然付いていくけど、私、英語がわからない!」
と朋子は焦ったように言う。
 
それで結局桃香に電話する。
 
「なんと15歳で手術してもらえるかも、ということか! OKOK.私も一緒に行くよ。でも旅費ある?」
と桃香は言っている。
 
「旅費は私が何とかするよ」
と朋子。
 
「だったら千里も連れて行こう。あの子も英語ができるし、同じ立場の者が一緒にいれば心強いだろう」
 
「確かにそうね。だったら千里ちゃんも都合のつく日程を確認して。それに合わせて私は有休、申請するから」
 
「ところで母ちゃん、パスポート持ってる?」
「私は2年前に社員旅行で韓国に行った時に作った。あれまだ使えるよね?」
「有効期限は5年か10年で作っているはずだから、大丈夫だと思うよ。でも青葉のパスポートが要るかな」
「あれ申請したらどのくらいでできるのかしら?」
「2〜3週間掛かるはずだよ」
「すぐ申請に行ってくる!」
 
「だったらこちらもすぐパスポート申請するから」
と桃香は言った。
 

それで桃香が千里に尋ねてみると
 
「10月22-23日、11月5-6日を避けてもらえばいい」
と言う。
 
「あまり遅くなってもいけないし、10月の上旬くらいでまとめてみよう。千里、パスポートは持ってたっけ?」
「持ってるよ。今年は何度も海外に出てるし」
「そういえばそうだったね。じゃ私もパスポートを取らねば」
 
それでパスポートが出来るまでの時間を考えて10月5日頃以降という線で青葉が向こうの病院と交渉した所、結局10月7日(金)に診察してもらうことになった。それで10月6日(木)にこちらを発つ。
 
パソコンの前で桃香が悩んでいる。
 
「どうしたの?」
「日程が近いから、あまり安いチケットが無い」
「ああ、そうだろうね」
「これがいちばん安い。往復81,210円」
「へー」
「直行便だとどうしても往復10万するんだけど、SVO経由でこの値段。SVOってどこだっけ?」
「それモスクワだけど。シェレメーチエヴォ国際空港。モスクワ経由でアメリカに行くって、つまり地球を反対向きに回っていくということ?それ何時間かかるのよ!?」
 
「42時間15分」
 
「直行便で行こうよぉ。今回、旅費はお母さんが出してくれるんでしょ?直行便なら10時間で行けるのに4倍も時間を掛けるメリットを見い出せない」
 
「そうかなあ。でも2万違うよ」
「2万円の差で30時間も余計に時間を使うのは割に合わない」
 

それで今回は桃香も渋々直行便を選択した。
 
HND 10/7 0:45 - 10/6 19:15 LAX (DL636 B777 10h30m)
 
深夜の出発なので少しだけ安くなるようである。
 
6日はロサンゼルスに1泊し、翌7日朝一番の飛行機でサンフランシスコに移動する。所要時間は1時間半くらいなので6時の飛行機に乗れば7時半くらいに着く。サンフランシスコ空港からバーリンゲームへはバスで20-30分で到達できるので、サンフランシスコ空港付近で朝食を取る(ただし青葉は検査を受けるので前日夜9時以降絶食)。
 
結局青葉と朋子の行程はこのようになる。
 
高岡10/6 13:38(はくたか15)15:56越後湯沢16:04(Maxとき332)17:20東京
羽田空港10/7 0:45 (DL636) 10/6 19:15ロサンゼルス空港(泊)
ロサンゼルス空港10/7 6:00(WN3959)7:20 サンフランシスコ空港
サンフランシスコ空港 8:06(バス)8:27 バーリンゲーム市内
 
桃香はその日程を使うことにして、その格安チケットサイトで予約を入れる。この時、旅行者の名前と年齢・性別はこのように入力した。
 
Tomoko Takazono F 51
Momoka Takazono F 21
Aoba Kawakami M 14
Chisato Murayama M
 
そこまで入力してから、千里の方を振り向いて尋ねる。
 
「千里、誕生日来てたっけ?」
「まだだよ。私の誕生日は3月。だからまだ20歳」
 
桃香が後ろを向いている間に、桃香の後ろに突然指が出現し、キーボードを操作して、千里の性別をFに変えてしまった。
 
「そうか、そうか。おひな祭りだったね?」
「そそ。3月3日」
 
それで桃香は画面の方に向き直って
 
「年齢は20っと」
 
と言いながら20と入力する。振り向いていた間に性別が書き換えられていることに桃香は気付かない。
 
そして桃香は《名前のスペル》に間違いが無いか指でたどって確認した上で確認ボタンを押し、そのまま予約を確定させた。
 
 
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【娘たちの面談】(1)