【女子中学生・冬の旅】(6)

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S中では、2月21-23日(月火水) に学年末テストが行われた。
 
5科目+音美保体技家である。この内、体育はスキー大会の結果で評価するのであらためて試験は行わないということだった。
 
技術では1月からやっていた電気回路の製作で評価するということだったが、千里はハンダ付けがどうしてもできず(「先生、ハンダが逃げます」と言ってた)、抵抗器を発火!させ、この手の才能が皆無であることを示した。家庭科は調理ての評価だったが、千里は料理が得意なので、こちらは高評価をもらった。
 
美術は絵を描いたが、
「村山さん、ほんと上手いねー」
と美術の先生に褒められた。
 
保健のペーパーテストはよく分からないことも多くて適当に書いた。
 

音楽は例によって、リコーダーの代わりにファイフを吹いて好評価を得た。音楽のペーパーテストは、最近音楽理論や楽典をかなり、きーちゃんに習っていることもあり85点を取った。実技と合わせて90点とされた。
 
曲を聴いて題名と作曲者を答える問題では実際に掛かったのはオッフェンバックの『地獄のオルフェ』の『カンカン』(*40)だったが、千里は『運動会のテーマ』と書いて、△にしてもらった!他にも数人同様の解答をして△をもらった子が居た。他にサンサーンスの『亀』(*41) と書いて△をもらった子も居た。
 
留実子はトーマスの『カロライン行進曲』と書き、藤井先生が
 
「そんな曲あったっけ?と音楽事典で確認した」
などと言っていた。もちろん×である。だいたいトーマスって誰??
 
セナはバッハの『極楽と地獄』と書き
 
「江戸時代に翻訳されたらそういうタイトルだったかもね」
と言われた。むろん×である。“バッハ”も名前が惜しいと言われた。
 

(*40) 原題は Orphée aux Enfers. 日本では大正時代に翻訳された時に付けられた『天国と地獄』という邦題もよく知られている。ギリシャ神話のオルフェウスの物語の“爆笑パロディ版”である。
 
死んだ妻を連れ戻そうと地獄に行き竪琴を弾いて地獄の王を感動させ妻を連れ戻す許可を得たものの、現世に戻るまでは決して妻の姿を振り返って見てはいけないという条件だったが・・・というのがオリジナルの話。
 
このパロディ版では2人の夫婦仲は冷え切っており、各々愛人がいる。オルフェは妻が死んでくれたのでこれで愛人と暮らせると喜び、妻のエウリュディケーも愛人というのが地獄の王プルートーだったので死んで地獄に行けて喜んでいた。しかしそこに天界の王・ジュピターが介入してきて・・・という少し大人向けのコメディ。あまり教育にはよろしくない!
 
『カンカン』は別名で『ギャロップ』とも呼ばれる。
 
作曲者は Jacques Offenbach (1819-1880). オッフェンバックはフランス語読みでドイツ語読みではオッフェンバッハ。ドイツのケルン生まれで後にフランスに帰化している。このペンネームはドイツの都市オッフェンバッハ(父親の出身地)から採られたものであり、本名はヤコプ・レヴィ・エベルスト (Jakob Levy Eberst).
 
この試験では、ドイツ語読み・フランス語読みともに正解とした。オッヘンバック、オッフェンバッフなどの表記揺れもOK。オッフェンパックは不可。
 
正解は『地獄のオルフェ』の『カンカン』だが、『ギャロップ』でも正解。また『地獄のオルフェ』“のみ”でも正解とした。『天国と地獄』も可とした。
 
(*41) 『動物の謝肉祭』の『亀』は『地獄のオルフェ』の『カンカン』を敢えてスロー演奏した曲である。この回答をした本人は「原曲のほうのタイトルがどうしても思い浮かばなかった」と言っていた。
 

音楽の試験(実技・筆記)および保健の筆記試験を受けたのはR、技術と家庭の実技をしたのはYであった。
 
基本5科目では、先日の実力テストと同様、数学・理科をY、国語・英語・社会をRが受けている。
 

試験が終わった後、千里は2月26-27日の土日に旭川に行って来ようと思ったのだが、きーちゃんに連絡したら
 
「こないだはお疲れ様。まだ疲れが残ってるだろうし、今月はお休みにしよう」
と言われた。
 
「疲れですか?特に無いですが」
 
何の疲れだろう?と思う。試験の疲れかな?
 
「凄いね。さすが若いだけあるね。その後、身体の調子が変だったりはしない?」
 
「別に大丈夫ですよ」
「それも良かった。でもあれはほんと驚いたね」
 
何に驚いたんだろう?
 
「結局千里が最初に言ったのが大正解だったね」
「そ、そうですね」
 
話がさっぱり分からないので、千里は適当に話を合わせておくことにした!!
 
ということで、今月の旭川行きはキャンセルとなり、次は3月の春休み中に行くことにした。
 

旭川行きが中止になったので、26-27日は千里Rは天野道場に行き、清香や勾陳と手合わせをした。
 
一方、千里Yは27日、蓮菜の家で、おひな祭り・兼・千里の誕生会をした。千里の誕生日が3月3日なので、毎年一緒にされてしまう。例によって千里の母がおやつなどをたくさん差し入れてくれた。玲羅も一緒に蓮菜の家に行き、豪華な段飾りの恵香たちと一緒にお雛様の前でパーティーをした。
 
蓮菜、千里、玲羅が和服で参加したが、沙苗とセナにも和服を着せた。留実子は「ぼくは男の子だから」と言って欠席したが、おやつだけ後で届けておいた。
 

ところで人形町に行っていた千里Vであるが、術のコピー作業が終了したのは、予定より遅れて19日目の2月18日午前中であった。
 
コピー作業は、
 
(1) 使用頻度の高いと思われる術(ほとんどを左右の手指の組合せのみをキーにした)
(2) 習得したいと思う人が多そうな術(片手の指と足指の組合せ)
(3) 使用頻度の少ないもの(両手指と足指の組合せ:10個ずつセットで書き込み)
(4) 余技の類い(片手の指2本と足指の組合せ)
 
という順序で進んだ。一般の霊能者が使うようなもので、習得している人が多いもの約300個が省略された。これらは全て2代目にも伝えられている。
 
例えば封印に使用される****明王の第3法などがこの類いで、この法は千里自身も小学生時代に小春から習って習得していた。
 
子牙がどうしても残したかったのが(3) である。学ぶ人が少ないから、たぶん多くは千里の娘か孫娘にそのまま伝えられることになるだろう。
 
(4) はわりと消滅しても構わない類いのものなので後回しにした。子牙は実は時間との闘いをしていた。
 

「これが2715個目。**明王の秘伝。別名**明神第27の秘伝。これの使い手は現在僕と瞬嶽の2人だけ(*43). 左手の親指と小指で左足の小指を挟んだ」
 
「お疲れ様でしたー」
 
どの術をどの指の組み合わせで記録したかは、作業しながら子牙自身が名称・効力・副作用などを記録し、きーちゃんが自分の知る範囲で別名や注釈も書き添えた。同名異術についてはコメントを付けた。
 
「基本的に別名が多いよね」
「多分みんな勝手に名前付けてるんです」
「例えば薬師如来第二十の術(*42) は、実は大慈観音第十七の秘法と同じもの」
「あ、その別名はわりと有名です。角行の髄・乙酉番とも言います」
「そうそう。それもある」
 

(*42) この術は大層な名前が付いている割りに、実は使い手の多い術であり、きーちゃんや桃源なども使用する。千里はこの術を学ぶ前提条件を既に満たしているので、教えれば千里なら多分3日で習得する(普通の修験者なら半年かかる)。
 

この記録は夏までに、きーちゃんの手でデータベース化されることになる。整理にあたっては子牙自身が書いた秘伝解説書(後述)も参考にした。このデータベースを閲覧できるのは、千里、きーちゃんの2人だけにする。難しい文字が多かったので、きーちゃんは当時はまだあまり普及していなかったUTF-8で記録した。ごく一部“文字鏡”の文字番号(≒大修館「大漢和辞典」の文字番号)で記録したものもある。当時、UTF-8をネイティブに使える良いテキストエディタが無かったので、せいちゃんに頼んで製作してもらっている。
 
千里の身体の“秘術マップ”は後に瞬嶽も書き留めてくれた。きーちゃんはその記録もデータベース化した。両者には微妙な差違があり、子牙か瞬嶽かどちらかが勘違いしたものと思われるが、きーちゃんにはどちらが誤りかは判断できない。なお両者比較の結果明らかな誤字・誤記と思われるものは修正した。
 

(*43) 瞬嶽が2013年に死去したことで伝承者が居なくなるが、2015年に火喜多高胤が千里から学んで伝承者が復活する。子牙と千里の努力が報われた例である。
 
青葉や火喜多によれば“究極の秘法”だが、この秘法には代替策もあるので、子牙の言では「余技」の部類。瞬嶽はこの秘法を千里の身体に記録しようとして、既に記録されていることに気付いたので省略した。それで瞬嶽には千里の身体に先に秘法を記録したのが子牙であることが推察できた。虚空は子牙と同様「余技の類い」と思っているので練習してない。むろん彼は前提条件を満たしている。
 
子牙や瞬嶽が千里を記録媒体に選んだのは、千里の“記録容量”が凄まじかったからである。子牙が足の指を使ってしまったので、瞬嶽は千里の肋骨(左右で24本)を利用した。
 
性転換を起こす(羽衣瞬嶽型)***の法は、千里の左第十肋骨に性転換したい人の手を触れさせることにより起動される。しかし子牙はこの秘法のオリジナル(虚空子牙型***の法:若返り効果が無く、また使用間隔の制限が無い)も千里の身体の別の場所に記録している。千里1が散々の男の娘を性転換させるのに(本人も無意識のまま)使うのがこちらである。
 

作業終了後、子牙は
「御飯炊いといて」
と、きーちゃんに言って1時間ほど出掛けてきたが、牛肉、白滝、白ネギ、白菜、焼き豆腐、椎茸、春菊、卵を買ってきた。
 
「わあ、鋤焼きですか」
「打ち上げパーティーね」
 
それで中華鍋に材料を入れて煮て、すき焼きを作った。千里もさすがに3週間近い作業で疲れたので、たくさん食べた。
 

食べ終わってから、子牙は言った。
 
「良かった。これで僕が集めた術を次世代に遺せる。ありがとう」
「子牙さんもお疲れ様でした」
「私も疲れましたけど、師匠もほんとにお疲れ様でした」
 
「これで安心して逝けるよ」
と子牙は言った。
 
これが2005年2月18日13時頃だった。
 
千里は
「どちらに行かれるんですか?」
と訊いた。でも、きーちゃんは厳しい顔をした。
 
「ありがとね。さようなら」
と言い残すと、子牙の姿は揺らぎだし、薄くなっていって消えた、
 

「え?子牙さん、どこに行ったの?」
と千里は訊いたが、次の瞬間、千里ときーちゃんは、何も無い空き地に座っていた。
 
「え?ここどこ?」
と千里はあたりを見回して言った。
 
「子牙さんの家が“あった”場所だよ」
「何で無くなったの?」
「元から何も無かったんだろうね」
「え?どういうこと?」
「つまり、私たちは子牙さんの幽霊と3週間会ってたんだよ」
「え〜〜〜〜!?」
 

千里は何か古い本のようなものをきーちゃんが持っていることに気付いた。
 
「その本と手紙は何?」
「え?何だろ?」
と、きーちゃんも分からないようである。
 
きーちゃんは和綴じの本1冊と封書を手にしていた。封書は“五島照子様”と書かれている。子牙の後継者さんだ。
 
和綴じの本を開いてみると、どうも子牙の様々な秘伝について解説した本のようである。きーちゃんは飛ばし読みをしていたが、最期のページで噴き出した。
 
「どうしたの?」
 
「これ見て」
と言って、最後のページを見せる。そこには
 
《平成十七年二月十八日癸酉》
と書かれていた。
 
「今日の日付?」
「そそ。お茶目だね」
 

きーちゃんは子牙さんにもらっていた、2代目子牙さんの連絡先の電話番号に電話を掛けた。
 
70-80代くらいの感じの女性の声で応答がある。きーちゃんが、かいつまんで要件を話すと「すぐ行く」ということだった。
 
千里たちは2月の寒空の下、空き地で待っているのも辛いので、2軒先にあった古ぼけた喫茶店に入った。
 
「いらっしゃい」
という、事務的な挨拶。
 
2人はカウンター席に座り、メニューを見て、きーちゃんが
「モカ2つ」(*44)
と注文した。
 
すると65-66歳くらいの店主さんは、今どき珍しいサイフォンでコーヒーを煎れてくれた。千里はそんな器具は初めて見たので「へー!」と思って、器具内のコーヒー液の動きを見ていた。女子中学生が興味深そうに見ているので、店主さんも笑顔である。
 
「千里、一口だけでもブラックのまま飲んでごらん」
と、きーちゃんが言うので飲んでみた。
 
「こんな味のコーヒー、初めて飲んだ」
「モカは独特の風味と酸味があるよね。多分コーヒーの原種に近い味」
「へー」
 
そんな会話を店主さんが微笑んで見ていた。
 

(*44) これは2008年春にモカ・ハラリ(エチオピア産)の輸入豆から残留農薬が検出されてモカが輸入禁止になってしまうよりも以前の物語である。
 
モカには何種類かあるが、エチオピア産のモカ・ハラリ(ハラー)とイエメン産のモカ・マタリが日本では多い。味の感覚だが、筆者の個人的な感想では、モカ・マタリはややマイルドな味、モカ・ハラリはより野性的な味と思う。
 
実際にエチオピアではコーヒーの栽培に農薬は使用していないし、そもそも栽培しているのではく、野性のコーヒーの豆を採取していた。農薬検出の原因は、豆の輸入の際に使用した麻袋に、何か別の作物を入れていた時に付着していた農薬が検出されたのではと言われている。
 
検査にひっかかったのはモカ・ハラリなので、モカ・マタリは無関係だったはずが、一緒に輸入が停まってしまった。
 
その後、一部の輸入元が2009年に、大手輸入元も2010年に、厳しい洗浄・輸送管理を独自に行って検査をパスし輸入再開した。当時モカ・ハラリを輸入禁止にしたのは日本だけだったので、コーヒーの販売会社の一部は、アメリカでモカを買い、それをアメリカ国内の工場で挽いて製品として加工した上で日本に輸入して販売するという、抜け道で販売を続けた。
 
それにしても当時はモカの生豆が国内で枯渇し、喫茶店などがモカの確保に苦労していた。
 

「こちらへは観光ですか」
と店主さんは、きーちゃんに語りかけた。
 
言葉が地元の人ではないと思ったのだろう。
 
「知人を訪ねてきたんですよ」
「ああ、そうですか」
「その2軒先の四島さんの御主人なんですけどね」
「四島さんはもう20年くらい前に亡くなりましたよ」
「空き地になってたんでびっくりしました」
「家はだいぶそのままになってたけど、確か5年くらい前に取り壊しました」
「なるほどー」
「確か娘さんがいたはずです。連絡先を調べましょうか。多分近所の誰か知っていると思うので」
 
「連絡先はお聞きしたのでさっき電話して、今こちらに向かってきて下さっているのですが」
「連絡付いたのなら良かった」
 

のんびりとコーヒーを飲んでいたら、喫茶店の前を80歳くらいの和服姿の女性が通りかかる。千里は、きーちゃんと一瞬顔を見合わせる。きーちゃんが喫茶店のドアを開けて
 
「五島さんですか?」
と呼びかけた。それでその女性も喫茶店に入ってきた。
 

店主さんが気を利かせてくれて
「宴会部屋をお使い下さい」
と言って案内してくれたので、3人でそちらに移動した。きーちゃんは、スパゲティ・ナポリタンを3人前注文した。
 
「私は四島画太郎さんに昔お世話になった者です」
と言って名刺(*45)を出すと、向こうは驚いて
 
「だったら随分小さい頃のお話なんですね」
と言う。
 
(*45) 名刺は“心霊相談家・天野貴子”と書かれている。でも彼女は実際には一般の心霊相談などは受けていない。個人的なコネで持ち込まれる話だけで手一杯である。“十二天将”に参加したことで更に多忙になり、心霊相談の多くは“シュテントウジ”の順恭や、桃源の弟子・桃月(28)などに投げている。
 

「それでとても信じてもらえないでしょうけど、実は画太郎さんに手紙で呼び出されて今朝こちらに来て、しばらくお話していて、これを渡されたんです」
と言って、きーちゃんは先代子牙からもらった秘伝集と手紙を渡す。
 
「そして話がだいたい終わった所で画太郎さんも家も幻のように消えてしまって、それで気がついたらその本と手紙を持っていたんです」
 
「すみません。その家ってどんな感じの家でしたか?」
と照子さんは尋ねる。
 

それで、きーちゃんが掘りゴタツがあり、照明は裸電球で、暖房は火鉢で、冷蔵庫がなく、食料は台所の床下収納庫に入れられていてなどと説明する。すると
 
「確かにお会いになったのは祖父だと思います。その家は祖父が亡くなった後建て直して、その家も父が亡くなった後、4年前に取り壊したんですよ」
 
きーちゃんも千里も腕を組んだ。この喫茶店の店主さんが言っていた“四島さん”というのは、先代子牙の息子で、この2代目子牙の父のことだったようだ。確かに店主さんは「娘さんがいたはず」と言った。「お孫さんがいたはず」ではなく。
 
「済みません。お祖父様が亡くなったのはいつでしょうか?」
「祖父が亡くなったのは昭和48年2月18日でした」
 
きーちゃんは頭の中で暗算する。
 
「つまり今日は画太郎さんの三十三回忌ですか!」
「そうなんです。だから天野さんのお話を信じる気になりました」
 

きーちゃんが2代目子牙から聞いた略年表
 
1874.7.28 四島画太郎誕生
1899.6.14 四島貞徳誕生
1922.11.19 四島照子誕生
1940.12.31 照子が五島次郎と結婚
1972.11.19 照子(50) 2代目子牙に指名される
1973.2.18 四島画太郎(98)没
1974.6.__ 家を建て直す(在来工法)
1985.3.17 四島貞徳(85)没
2000.8.__ 家を崩して更地に
 
天野貴子は見た目が35-36歳に見える。35歳の人が32年前に画太郎に会ったとしたら当時3-4歳だったことになるので、冒頭の照子さんの発言となった。
 
照子さんは言う。
 
「私は50歳の時に子牙の2代目に指名されたのですが、私も霊的なお仕事を若い頃からしてきていましたけど、とても祖父の霊力には及ばないと思いました。だから2代目に指名はされたのですが、その名前は名乗らなかったんです」
 
「なるほど。それで長く“子牙”の名前をお聞きしなかったんですね」
 

そのあたりまで話した所で照子は、きーちゃんが渡した本を開いてみる。
 
「凄い貴重な資料だ」
「そんなに凄いですか」
「祖父が見い出した多数の秘術の詳細が記載されています。でも私が持ってても宝の持ち腐れかも」
「きっとそれを活用できる人が現れますよ」
「でもこれ図書館とかに置く本じゃないですよね」
「図書館の司書さんはこの本はてたらめを書いた有害な本だと思うでしょうね。それに変な人がこういう術を覚えたら危険です」
 
照子さんは少し考えていた。
 
「この本は天野さんが持っていて頂けませんか?多分祖父が天野さんを呼んだこと自体、そういうオプションを考えたんだと思います。私も老い先短いです。天野さんのようなお若い方に持っていてもらうほうがいいいです」
 
「五島さんは後継者さんは?」
「子供・孫はいますけど、霊的な仕事をしている子はいません。弟子も取っていません」
「そうですか」
「子供も孫も、揃いも揃って霊感など皆無の子ばかりで」
 
それって逆に微妙な霊感の持ち主がいたら面倒だったなと、きーちゃんは思った。
 
「分かりました。ではお預かりすることにします」
と言って、きーちゃんは受け取った。
 

照子さんは封筒を開ける。すると郵便局の通帳と印鑑、キャッシュカードに手紙が入っていた。
 
「残高が150万円(*46)近い。そして毎年2月18日、1000円を引き出しては入金してある」
「通帳が無効にならないようにしていたんでしょうね」
「でも今年1月17日に20万円引き出してある」
 
それは多分、貴子たちを呼ぶための資金だったのだろう。
 
照子さんは読んでいたが驚くような顔をした。
 
「天野さんたち、1月31日からここに滞在なさっていたんですか?」
「実はそうなんです。3週間も居たと言ったら信じてもらえない気がしたのでさっきは今朝来たことにしました」
 
「天野さんたちにわざわざ来て頂いたから、この通帳の残高を使って、その交通費と日当を渡してくれと書かれています」
 
「いや、そのなの要りませんよ。私は懐かしい方にお会いできただけで嬉しいです」
ときーちゃんは言った。
 
(*46) 昔は郵便貯金の預け入れ限度額が150万円だったためと思われる。
 

「でもこれは祖父の遺言だと思います。どちらからいらしんんですか?」
「旭川なのですが。。。」
「北海道ですか!」
「はい」
「それは本当に遠い所からご苦労様です」
「でも交通費とか、ましてや日当とか要りませんよ」
 
照子さんは考えていた。
 
「でしたら、私が天野さんたちに日当を払うというのはどうでしょう?遠くからご足労頂いたお礼に」
 
「そうですね。そこまでおっしゃるのでしたらお預かりしようかな」
 
それで、照子さんは日当として、きーちゃんと千里の2人に合計4万円×21日=84万円(向こうを出た1/30と帰着予定の明日2/19を含む)と、交通費として、その場で“乗換案内”で確認して、飛行機での羽田−旭川の往復運賃(ここからの羽田空港までの交通費を含む)34690×4 = 138760 合計978,760円を払うと言い、きーちゃんも了承した。実際には小銭のやりとりが面倒なので98万円とした。
 
むろん照子さんは画太郎さんの通帳から同額を引き出せるので本人の経済的な負担は無いはずである。
 

3人は喫茶店でコーヒーや紅茶を何度もお代わりし、オープンサンド、オムライス、カレーライス!、ハンバーガー(絶品だった)などまで注文して4時間ほど滞在した。この3週間の子牙さんの様子をきーちゃんと千里が語ると
 
「なつかしー。いつもそういうジョークを言ってました」
と照子さんは言っていた。
 
「女学校ネタはよくやってました」
「もしかして、画太郎さん女の子になりたかったとか?」
「それあると思います。あまりがっちりした体格じゃないし、きっと若い頃は女装させられてますよ」
「ありそー」
 

「でも天野さんは物凄いパワーの方のようにお見受けします。何かあったら私が頼ることもあるかも」
と照子さんは言っていた。さすがこちらの力量をある程度推察したようである。きーちゃんも彼女は一流の霊能者だと思った。これだけパワーがあったら、子牙を名乗ってもいいのに!さすがに紫微や歓喜には及ばないが、もしかしたら桃源や沙本とかに近い力があるかも。
 
「私でできそうなことでしたら、取り敢えずご相談には乗りますよ。役に立つかどうかは分かりませんが」
と、きーちゃんも答えた。
 
「村山さんは物凄い霊媒ですね」
「そうなんです。だからこの子は誰かが守ってあげないといけないです」
と、きーちゃんは言っていた。
 
千里の本当のパワーはまず普通の霊能者には分からないだろうなと、きーちゃんは思う。子牙でさえ、気付かなかったようだもん(実はそれが子牙の誤算だった)。
 

きーちゃんは、四島邸跡に、大量の野菜や缶詰、また練炭などが放置されているのだけどと言った。
「きゃー。ごめんなさい。孫に取りに来させます」
 
それで電話していたが、やがて26-27歳の女性が顔を出し
「お祖母ちゃん、練炭も野菜も車に積んだよ」
と言った。
 
「あんたついでに私たちを運んで」
ということで、3人は喫茶店を出てから、お孫さんの七尾善美さんが運転するBMWミニ(*47)に乗った。こんな車に乗っていること自体、経済的なゆとりを感じさせる。
 

(*47) ミニはイギリスのBMC (British Motor Corporation) が開発し1959年に発売した小型自動車である。BMCは1952年にオースチンとナッフィールドが合併して誕生した企業で、後者が所有していたブランド“モーリス”も所有した。
 
(このBMCはイギリスの自動車メーカーであり、スイスの自動車メーカー BMC : Bicycle Manufacturing Company とは無関係である)
 
それでこの車は当初、Austin SE7EN (オースチンセブン)、Morris Mini Minor (モーリス・ミニマイナー)という2つの名前で販売された。SE7ENというのはオースチンの過去の人気車の名前を流用したもので排気量は850ccだった。このため海外ではオースチン850, モーリス850 と呼ばれた。
 
1960年にF1の車を製作していたクーパー社が小回りの利くこの車に注目して、レース用の車として、オースチン・ミニクーパー、モーリス・ミニクーパーが誕生した。
 
ミニはその後2000年までは、排気量を大きくしていく以外、基本的なデザインは変わっていない。
 
1968年にBMCはレイランド (Leyland Motors) およびローバー (Rover) と合併して、当初 BLMC (British Leyland Mortor Company) となるが、この会社は10種類もの自動車メーカーを単純に経営統合しただけのもので、あまりにも生産効率が悪かった。そのため、生産体制の統合が進められ1978年にはBL(BL Ltd.)と改名された。この時点で伝統ある多数の自動車ブランドが消滅し、自動車愛好家の阿鼻叫喚が起きた。
 
この会社が更に1986年にローバーグループ (Rover Group PLC) と改名されたので、これ以降のミニは“ローバーミニ”と呼ばれる。
 
この会社は1994年ドイツのBMW(ベーエムヴェー)に買収されたが、一応ローバーミニの名前は維持された。しかし当時規制が進んでいた衝突安全性などの問題をミニはクリアできず、2000年10月、旧タイプ(クラシックミニ)の生産は終了した。
 
その後、BMWが新たに設計した“BMWミニ”が2001年3月2日(ミニの日!)に発売開始された。それ以降に見かけるミニの大半がこの新型のBMWミニである。
 
善美が運転していた車はBMWのマークが入っていたので、この新型ミニであった。
 

照子、善美、きーちゃん、千里の一行はまずは銀行のATMに寄り、照子さんときーちゃんだけが降りた。照子さんはATMで正確に98万円を下ろし、銀行の封筒に入れてきーちゃんに渡す。きーちゃんはその場で受け取りを書いてハンコを押して照子さんに渡す。そして高額の現金を持ち歩くのは怖いと言って、きーちゃん自身の口座に入金した。
 
2人が車に戻ってから、照子さんの指示で、4人は高そうなお寿司屋さんに入り、夕ご飯にした。でもきーちゃんも千里もここまで喫茶店で結構食べていたので、そんなに入らなかった。善美さんは「こんな所おごりでないと来られない」と言って、たくさん食べていた。照子さんはツケで払っていたので、いくら掛かったかは不明である。しかし高級店にツケが利くところが凄い。
 
その後、きーちゃんと千里はホテルに送ってもらった。ホテル代も照子さんが出してくれて、その後、別れた。
 

千里は3週間ぶりにシャワーなるものを浴びて、すっきりした気分だった。私全身に入墨されなくて良かった!などと考えている。その後きーちゃんもシャワーを浴びた。彼女も「すっきりした」と言っていた。お風呂は一応あっても、シャワーの無い生活は結構辛かった。
 
「照子さん自身にはあまりメリット無かったと思うけど、それでこんなにたくさんお金もらっちゃっていいのかな」
と千里は、きーちゃんに尋ねた。
 
「お祖父さんの話聞けただけでも嬉しかったと思うよ。それにあまり生活に困っている感じは無かったし」
「高そうな訪問着着てたよね」
「うん。あれ700-800万円すると思う」
「きゃー」
「霊能者さんとしてわりと繁盛してるんじない?」
「そうかもねー」
 
「それに霊能者間のネットワークは重要だもん。これで彼女は難しい事件を私たちに協力を求めることができるようになったし。そういう繋がりはお互いにメリット大きい」
 
「そういう意味ではメリットあったのかな」
「そのコネクションを作るのに100万円程度は安いものかもよ」
「確かにそれはお互いにメリットあるかもね」
 

翌日、2月19日(土)、千里ときーちゃんは次の連絡で旭川に帰還した。
 
人形町8:14-8:52羽田空港10:35(JAL1105)12:10旭川空港
 
旭川空港からは瑞江を呼び出し、きーちゃんの家で彼女を降ろし、千里は旭川駅まで送ってもらってから、下記の連絡で留萌に帰還した。
 
旭川13:00(スーパーホワイトアロー16)13:17深川13:23-14:21
 
(深川駅の乗換はGに起こしてもらった)
 

「ただいまぁ、疲れたぁ」
と言って、千里VはW町の家に帰ると、畳の上に寝転がった、
 
「Vちゃん生きてる?」
「あまり生きてる自信無ーい」
「電話がつながらないけど、きーちゃんと一緒なら大丈夫だろうと思ってた」
「きーちゃん居なかったら不安だったと思う」
 
それでVがこの3週間のことをかいつまんで話すと
「それでRが雪崩を停めた訳が分かった」
とGは言った。
 
「雪崩を停めた??」
 
それでGは昨日のS中スキー大会の最中に起きた雪崩のことを話す。
 
「危なかったね!」
「公世(きみよ)だけはRに言われなくても助けるつもりだったけど、牧野先生を助けなかったらRは泣くだろうしね。頑張った」
「よくそんな危険なことするなあ」
「A大神様助けて下さい!と祈りながら現場にジャンプしたよ」
「それ本当にA大神様が助けてくださったんだと思う」
「そんな気がする」
 

「だったら雪崩を停めたのも大神様?」
「それがRだと思う。Rはあの時、左右の小指をくっつけるポーズをしていた」
 
「左右の小指同士をくっつけるのは、###の術。確かにそれを起動すれば動き始めの雪崩なら一時的には停められるかも」
とV。
 
「だからそれをRが使ったんだよ」
「教えてもいないのに?」
「Vちゃんだって、そのくらいできるでしょ」
「できる気がする。でも###の術を使うには、前提として★★の術と&&の術を既に身に付けてないとできないはず」
 
「Vちゃんの身体にはそのどちらも記録されてるんでしょ?」
「うん」
「だから身に付けてるじゃん」
 
「え〜〜〜!?それって身に付けてることになるわけ!?」
「子牙さんも気付かなかった思わぬバイパスだったりして」
「あの人、その手の抜けが多い気がする」
 
子牙は千里にそれほどのアクティブな霊力があるとは思いもよらず、ただの霊媒と思っていたので、千里自身がその術を使える可能性は全く考えていなかった。
 
「話聞いてると粗忽者っぽいね」
「粗忽者とか古い言葉を」
「古い人だから」
 
「だったら**明王の秘伝も使えたりして。これを使うには**の法、###の技、$$$の術を全て身に付けておく必要があるのよ」
 
「それも身に付けてるんでしょ?」
「私の身体には記録されてる」
「じゃ使えるかどうか試してみる?」
「こんなとんでもない術を使えるような所がある?」
「それがうまい具合にあるんだなあ」
とGは楽しそうに言った。
 

Vがかなり疲れているようだったので、Gは唐揚げを大量に作って、ふたりで一緒に食べた。その後Vには寝ているように言った。
 
夜中の2時過ぎにGがVを起こす。
 
「Gちゃん、よく起きれるね」
「携帯のアラーム掛けてただけだよ」
 
Gは大人っぽい黒いドレスを着てお化粧までしていた。Vには黒いスウェットの上下を着せた。
 
「男装してもいいけど」
「私の身体に合う男物の服があるとは思えない」
 
2人とも黒いコートを着た。
 
星子に司令室の留守番を頼み、ライフにVを乗せてGが運転してW町の家を出る。2人とも黒い靴を履いた。
 
大人っぽい服装をしてお化粧までしたのは、運転している所を誰かに見られた時に不審がられないようにである!
 
「絶対その内お巡りさんに捕まるんだから」
「2km以内にはパトカーは居ないよ」
 

それで2人がやってきたのは、丘の上にある大きな邸宅である。
 
「ここは?」
「明日というか今日だけど、Yちゃんがここで家のお祓いをすることになっている」
「それを私たちが先にやっちゃっていいの?」
「**明王の秘伝を、本体だけにぶつける」
「・・・・つまり雑魚はYちゃんに任せるんだ!」
 
「Yだって、宮司さんが見ている前ではその手の術は使わないよ。自分が凄い所見せたら、宮司さん絶対にYを手放したくないと思う」
 
「それは面倒だね」
「だからこの手の術は人前では使わないのが原則」
「Rは人前で使ったじゃん」
「あれはもう他に方法が無かったし、見てたのは、くみちゃんだけだから」
 

それで2人は鎹邸の敷地内に静かに侵入する。Gは赤外線センサーを可視化するメガネを着けていたが、ここにはその手のセキュリティは無いようだった。
 
2人は邸の裏手にある倉庫の近くまで来た。
 
「物凄い霊圧」
「私がVちゃんを守ってるから起動して」
「分かった」
 
それでGが作ってくれた結界の中でVはあぐらを掻いて座ると、左足の靴下を脱ぐ。左手の親指と小指で左足の小指を挟んだ。
 
浄化!
 
と心の中で唱える。その瞬間Gは結界を解除した。
 

Vの居る場所を中心に半径10mくらいの範囲に多数の青い炎が出現した。その炎がとんどん強くなる。それとともに、まるで轟音のような激しい悲鳴が多数聞こえた。むろん霊感の強い人にしか、この悲鳴は聞こえない。
 
青い炎はいつしか明るい光に変わった。
 
天への光の道ができる。
 
多数の霊魂がその光の道に吸い上げられ、どんどん天に昇って行く。Vは見ていて、漁師さんたちだと思った。その数は多分数百人に及んだ。
 
そして・・・・
 
静寂が訪れ、光の道も消えた。
 

「凄かった」
「びっくりした」
「長居は無用。帰ろう」
と言って、Gは忘れものが無いか確認し、一緒に車の所まで戻る。
 
そしてGは車を運転して鎹邸を離れ、W町の自宅に戻った。
 

「Gちゃん」
「何?」
「お腹空いた」
「空くだろうね!」
「牛肉食べたい」
「待って」
 
冷蔵庫の中を見るが、牛肉は昨日Rに食べさせるのに全部小春の家に転送したばかりである。
 
「買ってくる」
「お店開いてないよ」
「旭川なら空いてる所がある」
 
それでGはVのお世話を星子に任せ、旭川にジャンプした。
 
(鎹邸にジャンプ技を使わなかったのは、行ったことの無い場所だからと、余計な“霊的振動”を起こさないため)
 
そもそもGは車の運転をするのに大人っぽい服装をしていた。女子中生がこんな深夜に出歩いていたら補導されるが、大人っぽい服装のおかげで何とかなる。
 
24時間営業のスーパーに行き、牛肉を2kgほども買った。そして留萌にジャンプして戻る。
 
「買ってきたよ」
「食べる〜!」
 

VはGが買物に行っている間に食パン1斤ペロリと食べ、魚肉ソーセージを5本食べていたが、Gが買ってきてくれた牛肉をしゃぶしゃぶにして食べ出す。Gと星子は自分たちは食べずに見ていたが、Vは牛肉を2kg ぺろりと食べてしまった。
 
「牛肉が無くなった。また買って来ようか?」
「豚肉でもいいよ」
「それ解凍する」
 
Gは今度はホットブレートを出し豚肉を焼く。Vはもりもり食べた。
 
「疲れたから寝る〜」
と言って、Vは寝室の自分の布団に入り眠ってしまった。
 
千里Vはこの後3日も起きなかった。GはVが生きているかどうか心配になり何度も心臓に触ってみていた。千里Vが目覚めたのは2月23日(水) AM4時頃であった。
 
「だいぶ寝た。お腹空いた」
「まだ食べるの〜〜?」
とGがさすがに呆れた。
 
(**明王の秘伝を習得した火喜多高胤は実際に使用することができるのだろうか?使ったら最後衰弱死したりして)
 
なお買い出しは2月21日の午前中に星子がライフを運転してジャスコに行き、大量にお肉を買ってきた。小春の家でも、コリンがやはり21日午後にカローラを運転してジャスコまで行き大量のお肉を買ってきた。
 

2月28日(月).
 
U高校の合格発表があったが、これはほぼ意味か無い合格発表なので(*48)誰の話題にもならなかった。
 
貴司は一応合格していたのでS高校かU高校か“どちらか”には行けることが確定した。
 
(*48) 私立のU高校の入学手続き期限は公立の合格発表の後に設定されているので、公立に合格した人はそちらに入学する。公立の定員がU高校の定員の倍以上ある関係で、風邪を引いたりして公立の入試を失敗した人以外は、U高校の合格者の大半が実際には入学辞退してS高校に行く。またそもそも単に度胸付けで受験する生徒も居る。
 
そして最初からS高校を諦めてU高校に行こうと思っているレベルの生徒は2月の合格発表では合格できない。
 
結果的にU高校の実質的な合格発表は3月末の補欠合格者発表である。
 

3月1日(火).
 
千里(千里R)が剣道部で練習していたら、貴司がやってくる。
 
「どうかした?」
「これ誕生日プレゼント兼ホワイトデーで」
と言ってお菓子?の箱をくれる。
 
「ありがとう。あ!ごめん、私、貴司にバレンタインあげてない」
 
今やっとバレンタインのことを思い出したのである。
 
「え?くれたじゃん」
「そうだっけ?」
などと言っていたら、隣で玖美子が
 
「自分のしたことをきれいに忘れてるのは千里の平常運転」
などと言う。
 
「あれ〜?私、渡したのかなあ」
「細川君がそう言っているのだから、間違いなく渡してる」
「うーん」
「じゃまた」
「うん。貴司受験頑張ってね」
「ありがとう」
 
「そこでキス」
と玖美子は言うが、千里は貴司と握手して別れた。
 
もちろん握手で性転換したりはしない!(多分)
 

3月3日(木)はS高校の入試、4日(金)はK高校の入試だった。
 
日程がずらしてあるので微妙な生徒は両方受けるが、貴司はK高校には間違っても合格することはあり得ないので、S高校だけを受けた。
 
3月3日は千里の誕生日であるが、誕生日パーティーは2月27日に済ませているし、この日は特に何も無い。もっともP神社で勉強会をしていたら、久しぶりにここに顔を出した小春が勉強会している全員(指導係の花絵さんを含む)に洋菓子を配った。
 
「おお。千里の誕生日か」
「めでたい」
「ハッピーバースデー」
などと千里Yは言ってもらった。
 
お菓子は、宮司・林田さんにも恵香が1個ずつ持って行った。
 
また、部活が終わった後で小春の家に帰宅した千里Rは、コリンがショートケーキを買ってきて、誕生日の御飯も作ってくれていたので、小春・小糸と一緒に4人で食べた。
 
「私の誕生日っていつだろう?」
などと小糸が言っている。
 
「自分の好きな日を誕生日にすればいいよ。それで小春は7月7日だと言ってるし」
と千里R。
 
「じゃ私は6月6日にしようかな」
「いいんじゃない?それで誕生祝いしてあげるよ」
「やった!」
 
一方W町の家では、GとVが星子と一緒に一口カツを作り、またショートケーキを3個買ってきて、G・V・星子の3人で食べた。
 
「ハッピーバースデー to us」
「おめでとう!」
 

3月14日(月)は卒業式の予行練習、15日(火)に卒業式が行われた。卒業式で国歌のピアノ伴奏は音楽の藤井先生がしたが、校歌の伴奏は合唱サークルのピアニストであるセナが(もちろんセーラー服で)務めた。
 
卒業式後、剣道部では卒業生たちにプレゼントを贈った。武智さんには玖美子が、宮沢さんには千里が記念品を渡した。男子の古河さんには竹田君、境戸さんには公世が渡した。
 
ちなみにバスケ部では、久子さんには数子が、友子さんには1年生の雪子が渡した。バスケ部男子で、田臥さんには田代君、貴司には鞠古君、佐々木さんには戸川君が渡した。
 

卒業式の翌日16日(水)、S高校・K高校の合格発表が行われた。貴司はS高校に合格しており、めでたくバスケ部のある高校に進学できることになった。
 
千里は合格発表など何も気にしてなかったのだが、玖美子から言われて貴司に電話し
 
「合格おめでとー」
と言った。
 
「ありがとう!」
と言って、電話口で貴司は30分くらい話していたが、千里は適当に相槌を打っておいた!(話は全く聞いてない!)
 
3月18日(金)にU高校の入学手続きが締め切られ、21日(月)に補欠合格の発表が行われる。これで高校に行く気のある子はだいたいどこかに行けることになった。
 

3月24日(木).
 
S中では終業式が行われて、学校は約半月間の春休みに入った。
 

3月26日(土)朝6時半。
 
千里が津気子に
「10日くらい旭川に行ってくる。駅前まで送ってくれる?」
と言うので、津気子は車を出して千里を駅前まで連れて行く。
 
「多分4月5日・火曜に戻ると思う。御飯は適当に食べててね、これ御飯代」
と言って千里は津気子に4万円入った封筒を渡した。
 
「ありがとう」
 
それで津気子が自宅に戻ると、千里が朝御飯を作っていて
 
「お母ちゃん、お帰り。朝御飯とお弁当作っておいたよ」
と言うので、津気子は
「まいっか」
と思って、千里が作ってくれた朝御飯を食べた。
 
むろん駅に行ったのがRで、ここに居るのはYである。
 
千里がくれたお金は・・・もらっておくことにした!!
 

駅に行った千里の方は、駅前で清香・沙苗と待ち合わせた。やがてそこに公世・弓枝を乗せ、公世たちのお母さんが運転するヴォクシーが来る。
 
「お早うございます。お世話になります」
と言って千里たちは乗り込んだ、ここで座席は、公世が助手席、2列目が沙苗と弓枝、3列目に千里と清香である。
 
千里が(正確にはコリンが)コンビニで肉まんと暖かいお茶を買っていたので、それをみんなで食べながら、おしゃべりして旭川に向かった。
 
いつもの旭川行きでは往復とも瑞江に運んでもらっていたのだが、いつも悪いと弓枝さんが言い、行きは弓枝たちの母に運んでもらった。ガソリン代+高速代として4500円(1人900円)をお母さんに渡している。
 
旭川駅で道田さんと合流する。
 
「大海(ひろみ)さん、ご卒業おめでとうございます」
「さんきゅ、さんきゅ。卒業祝いくれるなら現金とか商品券がいいな」
「では取り敢えず拍手で」
と言って千里は拍手したので、他の子も拍手した。
 
「うん、ありがたい」
 
ということで、道田大海は19日に大学を卒業した。4月1日付けで天野産業の社員になることになっている。
 

旭川駅から一緒にきーちゃんの家に行き
 
「お世話になります」
と挨拶して、濃厚な練習を始める。
 
きーちゃんは千里を手招こして訊いた。
 
「その後、身体の調子がおかしかったりはしない?」
「え?特に何も無いですが」
「異常が無ければ良かった。やはり、あんた丈夫だね」
と、きーちゃんは言っていた。
 

午前中はジョギングに行き、帰ってきて着替えてシャワーを浴びてから筋トレをする。お昼を食べて休憩した後で、午後から素振り、掛かり稽古などをする。おやつを食べて休憩した後、3時頃から対戦方式で練習をした。
 
この道場は冬になる前にオンドルを造り込んだのでかなり暖かい。足袋でも冷たくないし、昼寝するにも気持ち良い。弓枝がよく練習疲れから寝ていた。
 
清香は例によってシャワーを浴びた後、裸で素振りをしていたが、柔良が居ないので、沙苗におっぱいの揺れ方を確認させていた!(弓枝さんに頼むのは恐れ多い)沙苗は「ひー」と思いながらチェックしていた。
 
『女の子になるということは、こんなこともしないといけないということなのね』
などと沙苗は思いながら、しっかりおっぱいの揺れ具合を見て報告していた。
 
(清香が特殊なだけだと思う)
 
食事の準備や洗濯はコリンがやってくれる。部屋割はこのようにした。
 
No.2 千里・沙苗
No.3 清香・大海
No.4 弓枝・公世
 

3月27日(日)には、越智さんが来て、みんなを指導してくれた。
 
「みんなそれぞれ進化している」
と言って、越智さんは満足そうであった。
 
「工藤さんの妹さんもかなり進化している。この分だと1年後くらいには、村山さんや木里さんの去年くらいのレベルに迫れるかも知れないね」
などと越智さんは言っていた。
 
道田さんも頷いていたので、実際そのレベルかも。
 
「1年後に昨年の村山さんたちのレベルか」
「まあ、その間に私たちはまだまだ精進している」
 
「アキレスと亀みたいに永遠に追いつけなかったりして」
「でも実際にはアキレスは亀を追い越すからね」
「公世も私たちを追い越せるよう頑張ろう」
「うん。頑張る」
 

千里たちが旭川で合宿している間、如月や詩歌たち1年生は天野道場で、忌部さん(いんちゃん)の指導を受けていた。いんちゃんは剣道の腕は錆び付いているとは言っていたが、このレベル相手なら充分アドバイスしてあげられるし、対戦して指導もしてあげられる。
 
千里が居ない時に、こうちゃんは絶対に呼べない!
 
旭川組は28日以降はまた6人だけで続け、4月2日の午後を買物などしたい人のために自由時間にした。もっとも清香と沙苗は買物にも行かずずっと練習していた。千里は天子のアパートに行き一緒に過ごした。
 
4月3日(日)には再度、越智さんに見てもらった。そして、千里以外は4月3日夕方、瑞江が運転する日産セレナで留萌に送ってもらい帰還した。
 
清香たちは4月4,5日は各自素振りなどで練習したり、留萌市内の天野道場に顔を出したりしていた。ここは市街地でクマの心配は無いが、狭いのが問題である。
 

千里だけは4月3,4日も旭川に泊まり、きーちゃんからフルートとピアノ・龍笛のレッスンを受けた。
 
「ピアノやフルートも上達してるけど、やはり龍笛があんたにいちばん合ってるみたいな気がする」
ときーちゃんは言っていた。
 
「私も龍笛がいちばん好きかも」
などと言っていたら、瑞江が来る。4月5日の10時頃だった。
 
「もう帰りの時刻だっけ?」
「その前に、さるお方から、これを言付かりました」
と言って、瑞江は1本の龍笛を千里に渡す。
 
「千里さん、かなり龍笛が上達してきてるので、これを使って下さいということです」
 

これまで千里(千里R)が使用していたのは TS No.228 の龍笛だったのだが、新たに渡された龍笛は TS No.210 で何か名前も彫られている。行書で“赫夜”と書かれている。
 
「あかあかよる?」
と千里は読んだものの自信が無い。
 
「“かぐや”ですよね?」
ときーちゃんは瑞江に確認する。
 
「はい、そうです。“かぐや姫”の“かぐや”です」
「へー。かぐや姫ってこんな字を書いたのか」
 
「“赫”の字は“赤”を2つ並べて、赤赤(あかあか)と明るいことを示します。かぐや姫は光輝く姫だったことから、そう名付けられました」(*49)
 
「でもこの笛、物凄い名品のような気がする」
「吹いてみて下さい」
 
実は、No.200“織姫” No.210“かぐや” No.220“白雪” No.230“銀河”は同じ天然煤竹から作られた姉妹笛である。梁瀬さんの最高傑作だ。
 

(*49) “赫”の字の訓読みは“あかい”“あきらか”で音読みが“かく”(漢音)、“きゃく”(呉音)。つまり“赫夜”を“かぐや”と読むのは音読みである。
 
(“夜”の字は音読みが“や”で“よ”“よる”は訓読み)
 
赫の字を使った熟語にはこのようなものがある。
 
赫灼(かくしゃく)光輝く様。元気な様の“矍鑠”とは同音異義語。
赫怒(かくど)真っ赤になって怒る。
赫喧(かっけん)人格や様子が堂々としていて立派な様。
赫赫之光(かっかくのひかり) 激しく輝く光。それにたとえて名声が高く勢いがあること。
 

千里がその“赫夜”を吹くと、とても素敵な音が出た。
 
「これは良い音のする笛だ」
「音を聞いただけで心が明るくなる感じ」
 
倍音が少なめで透き通るような音なのである。
 
「だから“かぐや”と名付けたんでしょうね」
 
「今までの笛は?」
 
「そのままお持ち下さいとのことです。あるいはオーバーホールさせましょうか」
「一度メンテしたほうがいいかもね」
 
ときーちゃんが言ったので、瑞江はそれを持ち帰ることにした。A大神の指示により、栃木県の岸本メイにメンテナンスを依頼されることになる。
 

半年後に戻って来たNo.228には“若竹”の名前を書いたシールが貼られていた。No,222“月姫”などもそうだが、メイが付けた名前は本体に彫るのではなくシールで貼られている。
 
ちなみに、222(月姫) 224(琴姫) 228(若竹) 229(天照) は 200, 210, 220, 230 を作った煤竹の隣にあった煤竹から製作されたもので、これも元々の素材がかなり良い。どちらも1880年に建てられ1985年に解体された初山別村の古い民家の囲炉裏の上にあった竹を使ったものである。
 
囲炉裏の天井にあった4本の竹の内、いちばん良い状態にあった竹から200などが作られ、その次に良い状態にあった竹から222 などが作られて、その次に良い状態にあった竹から 221 225 226 227 が作られている。もう1本の竹はメイにそのまま渡され、メイ自身の作品として、NS No.1000-1003 の番号が与えられた。NS=那須。この4本が作られたのは梁瀬龍五歿後10年経った年であった。
 

千里は11時半まで龍笛の練習をしてから、瑞江に送ってもらって駅前まで行き、お昼の高速バスで留萌に帰還した。
 
旭川駅前12:30-14:19留萌駅前
 
2005年4月新しい年度が始まる。千里たちにとっては中学最後の学年である。
 
 
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【女子中学生・冬の旅】(6)