【夏の日の想い出・止まれ進め】(3)

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吉川日和(入瀬コルネ)は8月26日(金)の放課後、いつものようにフラミンゴで練習していたら、休憩時間の時、スマホにメールが着信していることに気付く。母からで
「土日のライブでお手伝いお願いしたいって音楽部長の川内峰さんから。学校に迎えをやるって」
 
ということである。
 
“川内峰”さんって、川内部長さんのことかな〜と思う。メールしてみると
 
「人手が足りなくて。月曜の朝までには帰すから伴奏をお願い」
ということである。
「伴奏とか言われてもぼく何も楽器できませんが」
と返信すると
「もしかしたらコーラスになるかも知れない。それと大型時代劇の衣裳合わせもしたいし」
ということだったので
「分かりました。では行きます。能登空港に行けばいいですか?」
とメールする。
「今どこに居る?」
「氷見南IC近くの火牛体育館氷見分館というところで通称はフラミンゴ・ピーコックというんですが。6月にできたばかりだから、まだGoogle Mapにも載ってないんですよ」
「多分分かると思う。そこに車で迎えに行かせる」
「分かりました」
 

それで日和は部長に言ってあがらせてもらう。控室でシャワーを浴びて下着を交換。ブラウスを着て制服のズボンを穿く(スカートを穿くのが恥ずかしいのでズボンを穿いている)。
 
やがて夏野明恵さんが来て、顧問の奥村先生に声を掛ける。奥村先生も顔見知りなので「よろしくお願いします」と言って、日和を引き渡した。日和の着替えとかの荷物は、五月ちゃんが「自宅に持ってってあげるよ」と言ったのでお願いした、
 
それで日和は、明恵が運転する放送局のヴェゼルに乗った。
 
「このまま東京まで走るんですか?」
「ううん。飛行機に乗る」
「じゃ能登空港か富山空港?」
「いや、氷見飛行場」
「へ?そんなのどこにあるんですか」
「9月2日に開港する」
「まだ開港してないじゃないですか」
「テスト飛行だよ」
「へー!」
 

それで車はフラミンゴを出てから10分ほどで飛行場に到着した。
 
「なんか工事してるなあと思ってたけど、こんな山の中にショッピングセンターとかでもないだろうし、工場かなと思ったら空港だったんですか」
 
「空港ではなくて飛行場ね」
「それどう違うんです?」
「大きくて公共性のあるのが空港。小さいのやプライベートなのが飛行場」
「へー」
 
飛行場には多数のヘリコプターやドローンが駐機している。しかし1機だけ中型の固定翼プロペラ機が駐まっていて、明恵と日和は飛行場スタッフにそこへ案内された。
 
「今日はホンダジェットじゃないんですね」
「うん。これはHAL Do228。この飛行場は地元との“口約束”で、緊急時以外はジェット機を離着陸させないことにしてるんだよ」
「ああ、騒音の問題ですか」
「主としてそれだね。一応滑走路はジェット機の離着陸に耐えられるように造られている」
 
「そうだ、明恵さん」
「うん」
「ぼく今生理中なんですけど、どこかでナプキン買えるところありますかね」
「今日泊まってもらう小鳩シティにはコンビニもあるからそこで買えばいいよ」
「よかった」
「でも着替えとかも必要だよね。向こうに連絡しとくよ」
「ありがとうございます」
「ちなみにナプキンのブランドは?」
「肌思いです」
「OKOK。でも取り敢えず別ブランドだけど2個プレゼント」
と言って、自分のを分けてくれた。
 
「ありがとうございます!」
 

それで待っている内に、やがて真珠さんと邦生さん、そして日和の知らない女性2人(田中世梨奈・日高久美子)も来て、この6人が乗ったところでDo228は氷見飛行場を離陸した。
 
日和はプロペラ機というのは初体験で、プロペラの音が物凄くうるさいなと思ったが、近くに飛行場があるのは便利だと思った。
 
飛行機の機内で28日に越谷の小鳩アリーナでおこなわれるネットフェスで、西宮ネオンさんと川内みねかさんの伴奏をお願いしたい、と久美子さんから説明がある。
 
「それだけのためにわざわざぼくたちが呼び出されたの?伴奏できる人なんて東京にもゴロゴロいるじゃん」
と邦生さんが言っている。
 
日和も同感だと思った。まあぼくの場合、衣裳合わせもあるらしいし。
 
邦生さんは楽器を4つ持っていた。チューバ・ホルン・トランペット・トロンボーンらしい。久美子さんはアルトサックス、世梨奈さんは小さなケースでフルートらしい。
 
でも邦生さんも自称が“ぼく”なんだな。真珠さんも“ぼく”だし。ぼく少女って結構居るのかなと少し2人に親近感を持った。
 
↑自分を少女に分類している。やはり生理が来て女としての自覚ができてきたのかな?
 

Do228は40分ほどの飛行で熊谷の郷愁飛行場に着陸した。プロペラ機だと2〜3時間かかるのだろうかと思っていたのに(そんなに掛かる訳が無い)意外に早く着いたので、これ楽でいじゃんと思った。
 
郷愁飛行場で郷愁ライナーに乗り換える。これは日和は初乗車になった。農大前という駅で降りる。そこに千里さんがいたので会釈した。でも千里さんの車(ロッキー)には明恵さんと真珠さんだけが乗り、日和たち4人はもう1台駐まっていたエスティマに乗る。SCCのドライバーさんが運転して1時間半ほどで、公園のような所に着いた。ここが越谷の小鳩シティということだった。
 
まずはここを案内してもらった。地上に小鳩ホール、地下に小鳩アリーナがある。小鳩ホールは映画『お気に召すまま』のラストシーン、カーテンコールの場面に使われたと説明された、
 
「普段はここの客席には1000体以上の人形がまるで観客みたいにして並んでいるんですが、今回はここから中継をするので人形たちは地下のアリーナの方に移動してもらって、代わりにモニターとスピーカーのセットを並べました」
と説明される。
 
モニターは2000個くらい(誰もきちんと数えていない!)、スピーカーは4000個くらいあるという。これが全部点いたら壮観だろうなと日和は思った。
 

それから長い階段を降りて小鳩アリーナに行く。エレベータを使わないのは密回避のためだという。楽器などを運搬する時はもちろんエレベータを使ってよい。邦生さんや久美子さんは楽器を1階のフロントに預けていた。
 
「大きーい」
「普段は、ここを本拠地とするバスケットチーム、チーム白鳩が使用しています。小鳩ホールから移動してもらった人形たちが2階席に座っています」
 
「あれ人形か」
「観客が居るのかと思った」
 
体育館には前後にステージが設営されている。これを交互に使用して、他方で演奏している間に他方は清掃・消毒するのだという。モニターは回転椅子に乗せられていて、ステージが切り替わると一斉に180度回転して演奏するステージを向くのだという。すごーい!
 

練習用のスタジオなども見学してから、1階に戻る。ここで宿泊所のルームキーが配られたが
「吉川日和(ひな)様、お荷物が届いております」
と言われる。
 
“ひな”というのもよくある読まれ方である。多分“ひより”の次に多い。他に“ひわ”とか“はるか”とか読まれることもある。前出のように兄は自分を“はるな”と呼ぶ。本人ももはやどうでもいいと思っている。
 
荷物を見ると見覚えのある旅行バッグである。どうも萌花が用意してくれたようである。ドラマの撮影の間は§§ミュージックの寮の萌花の部屋に泊まっていたが、その時の着替えは、「荷物にもなるしまた来るし」といって部屋に置いて来ていた。それを送ってきてくれたようだ。
 
日和はその荷物を受け取り邦生さんたちと一緒に宿舎の5階に行き、自分の部屋505に入った。荷物を開けてみると、ブラジャーが3枚、ショーツが6枚、ソックス3足、Tシャツ5枚、スカート3着である。他にスウェットの上下(シャツと膝丈スカート)がある。またナプキンの“肌思い”があるがこれは前回東京に来た時、生理が来るタイミングではなかったものの念のため寮でもらっておいたものである(女子寮では生理用品が無料支給される)。だから未開封である。しかし・・・
 
「ズボンは無いの〜〜!?」
と日和は思った。
 
(もちろん萌花は意図的にズボンを外してスカートだけ荷物に入れた)
 
でもナプキンが入っていたので「助かったぁ」と思った。
 

晩御飯がデリバーされてくるのでそれをいただく。21時に打合せをしますということだったので、日和はアラームを掛けて一眠りした。
 
打合せは117スタジオでおこなうということだった。日和は、結局制服のブラウスとズボンでスタジオに行った。音楽部長さんや萌花なども来ている。日和は手を振って、萌花の隣に座った。
 
「なんでズボン穿いてるの?スカート穿けばいいのに」
「スカートとか恥ずかしいよぉ」
 
日和が行ったのが20:50頃で21:02くらいに久美子さんが
 
「ごめんなさい。遅くなって」
と言って走り込んできた。
 
「これで全員揃ったかな」
と川内部長さんが言う。
 

「それでは“Luminaries”の第1回打合せを始めます」
と川内峰花部長は言った。
 
「27-28日、明日・明後日は三大ネットテレビ、アロロ、ジェッターTV、あけぼのテレビ共同主催の“ネットサマーフェスティバル2022”が開かれます。§§ミュージック関係では、27日明日に仙台で常滑舞音ちゃんとアクアのライブ、28日明後日にここ小鳩アリーナで、その2人以外の20アーティストのライブが行われます。その中で皆さんには、西宮ネオンちゃんと川内みねかの伴奏をお願いします。どちらも30分間の演奏です」
 
「つまりアーティストごとに伴奏者が交替するんですね」
と邦生さんが尋ねる。
 
「そうなんです。多数のアーティストが次々と登場するので、ずーっと同じ伴奏者では似た感じになりがちなので、雰囲気を変えたいんですよね」
 
「でもぼくたちは、ネオン君の曲にも、ルンバさんの曲にもあまり馴染みがないですし、演奏したこともないですよ」
 
ルンバさんって誰だろう?と日和は思っている。
 
「それは構いません。元々ネオン君は専任バンドとかもないし固定の楽曲提供者も定まっていないので、実は必ずしも音楽の方向性が明確じゃないんですよね」
 
「ああ。その点はリズムちゃんとか、舞音ちゃんみたいな明確な方向性が感じられない面ありますよね」
 
「そうなんですよね。リズムにしても舞音にしても早い時期に専任バンドができたから、バンドと一緒に音楽を作ってきたような面がありますね。2人とも大半の歌詞を自分で書いてるし」
 
と川内部長は言う。
 

「ルンバさんの場合は方向性があまりにも多数あるので把握出来ない」
「あの子は器用貧乏なんですよ」
 
「じゃあ、ぼくらの音楽をやりますよ」
「ええ、それでいいです」
「ところでパートは誰が何ですか。ぼくは取り敢えずトランペット、ホルン、チューバ、トロンボーン、と持って来ましたが」
 
「それをまず決めなければならないんですが、皆さん何が出来ます?」
というので、全員声域とできる楽器を書き出してもらった。
 
(下記で括弧付きは楽器は持ってきてないが演奏できるもの)
 
吉田邦生(Alt) Tp Tb Horn Tuba (Dr)
田中世梨奈(Sop) Fl (Pic)
日高久美子(Sop) ASax (TSax)
上野美津穂(Mez) Cla (Asax)
吉川日和(入瀬コルネ)(Sop) Vn Fl
吉川萌花(入瀬ホルン)(Sop) (Electone) Gt Vn Fl Horn
観音倭文(麻生ルミナ)(Alt) (Piano/Electone) Fl Cla
杉本ひかり(七石プリム)(Alt) (Electone) Vn Fl Cla ASax (TSax)
守口清美(夏江フローラ)(Sop) (Piano) (Vib/Mar) Fl Cla ASax (TSax)
 
日和は最初
「ぼく楽器はできません」
と申告したが、妹のホルンが
「お姉ちゃんは私よりヴァイオリンもフルートも上手いです」
と言い、勝手に楽器を書き足した!
 

「さすが信濃町ガールズはみんな能力が高い」
と邦生が言う。
 
「私たち来る必要無かったのでは?」
と世梨奈。
「私、カウンセリング室に帰ろうかな」
と美津穂。
 
「まあそう言わずに楽器を割り当てよう」
ち川内さんは言った。
 
「吉田さんドラムスが打てるんですね。ちょっと打ってみてもらえます?」
と言って譜面と、消毒済み書かれた袋に入ったスティックを渡される。それで邦生さんはドラムスセットに座り譜面を見ながら打つ。
 
格好いーい!
 
女性ドラマーって格好いいなと日和は思った。
 

みんな拍手をする。26-27歳の女性が言った。
 
「充分セミプロなら名乗れる。このくらいでプロ名乗ってる人もたくさん居る」
「じゃ合格だね」
「うん。合格合格」
 
ということで邦生さんはドラムスになった。楽器4つも持って来たのに!
 
「ホルンちゃんのギターは一昨日聞かせてもらった。ギター弾きが君だけみたいだから、君がギターね」
「はい」
 
「それでプリムちゃんがベースで」
「分かりました」
 
「ルミナちゃんはエレクトーンも弾くんだったね」
「はい6級持ってます」
「セミプロレベルだね。じゃ君がキーボード」
「はい」
 

あれ〜プリムさん、ベースとか書いてないのにと思うが、この付近は先行して演奏させてみてたのかなと日和は思った(*10).
 
一方吉田は
「なるほど。自分のドラムスは別として音楽能力の高い信濃町ガールズでリズムセクションを固めるのか。練習時間の取れない中、うまい方法だ」
と考えていた。
 
「それでフローラちゃんはヴィブラフォンで」
「はい」
 
「それでは久美子ちゃんはアルトサックス、世梨奈ちゃんはフルート、美津穂ちゃんはクラリネット、コルネちゃんはヴァイオリンで」
 
「ああ、きれいにまとまった」
「すごーい!」
 
へー。ヴァイオリンなんて伴奏に使うものだったのか。ギターとベースとピアノにドラムス、あとせいぜいサックスくらいかと思ってた、と日和は思った。萌花がヴァイオリンケースを日和に渡してくれた。
 

(*10) 正解。一度、プリム・ルミナ・ホルンの3人と打ち合わせていた。一応↓が暫定的に提出していた編成表。
 
Gt.入瀬ホルン B.七石プリム KB.麻生ルミナ Dr.吉田邦生 Fl.田中世梨奈 Cla.上野美津穂 ASax.日高久美子 Ch.入瀬コルネ・夏江フローラ
 
もし邦生のドラムスに問題があったら、プリムにドラムスを打ってもらい、邦生にはトランペットをお願いする。ベースはルミナ、キーボードをフローラと移動させるつもりだった。
 
他のグループでも結構直前の担当楽器移動が起きていた。
 

「それでは今日は解散します。明日の朝から練習お願いします」
と川内さんは言った。
 
「すみません。譜面は?」
と邦生さんが尋ねる。
 
「明日の朝までにこの編成用のアレンジを書かせます」
「え〜〜!?」
 
演奏曲目は9:30の西宮ネオンが5曲と、16:30の川内みねか4曲ということだった。でも今夜一晩で9曲編曲して明日1日で覚える?大変だぁ!と日和は思った。
 

「あ、コルネちゃんとホルンちゃんはちょっと来て。衣裳合わせしよう」
というので萌花と一緒に部長に付いていく。
 
先日の奈良時代のものとはまるで違う、普通の時代劇で見るような感じの女性の衣裳がいくつか用意されている。衣裳係さん?は日和と萌花を見て
 
「これが似合うかな」
と言って、それぞれ羽織ってみた。
 
なるほどー。衣裳合わせってサイズを確認するのではなく、色合いとかを見るのかと思い至った。
 
少し試行錯誤した上で「この色合いのにしましょう」と言われた。部長さんも頷いている。
 
「ふたりとも結構派手なのが似合うね」
「ですね。だからその役にピッタリだと思いますよ」
 
何の役をするんだろう。どうも萌花と姉妹あるいは先日のドラマみたいに2人でセットの役っぽい気がするけどと日和は思った。またこの時代の髪型に結った鬘(かつら)を制作するということで日和も萌花も頭のサイズを計られた。
 
「お姉ちゃん、すごく小顔だね」
「ぼく洋服も萌花のお下がり着てますー」
「なるほどねー」
 

それで解放されて自分の部屋に戻った。
 
部屋にケトル、スティックコーヒーなどもあるので、お湯を沸かしてキャラメルマキアートを入れて飲みながら、渡された、西宮ネオン君、川内みねかちゃん、の歌9曲を入れたMP3レコーダーを取り敢えず聴いた。
 
西宮ネオンのはわりと単純な伴奏が入っているなあと思う。ヴァイオリンの音は入ってないけど、根音をハイトーンで弾いていればいいのかな?と思った。
 
川内みねかちゃんって聞いたことないけど、凄く可愛い曲だなと思った。ぼくがあまり女の子アイドル知らないから聞いたことないだけで売れてる歌手なのかななどとも思う。西宮ネオンの曲に比べて“曲のできがいい”と思った。多分名のある作曲家の手による曲なのだろう。
 
日和は聞き終わると、少しヴァイオリン練習しておこうと思い、ケースから取出すと、部屋に置いてある電子キーボードでソの音を出してG線を合わせ、そこから5度ずつ上に、D線・A線・E線と合わせる。そして軽〜く『ツィゴイネルワイゼン』を弾き始めた!
 

翌日は朝7時に朝食がデリバーされてきた。それで御飯を食べていると、またデリバーに音がするので見てみるとスコアが入っている。総譜とヴァイオリンのみのパート譜である。これ印刷するだけでも大変そうと思った。
 
8時過ぎ、館内放送?がある。
 
「お早うございます。川内です。みなさんの所に西宮ネオンの分のスコアをお届けしました。それで各自練習していて下さい。16時から合わせます、川内みねかの分は明日のネオンのステージが終わった所でお渡しします」
 
ああ、なるほどまずは最初の演奏に集中したほうがいいよねと思った。それでスコアをざっと読んでからヴァイオリン・パートを練習するが、簡単だなあと思った。これなら初見でも行けそうと思った。
 
10時頃、萌花が部屋にやってきた。
 
「一緒に練習しよ」
「うん。いいけどギターとヴァイオリンではあまり“一緒に”練習にはならないと思うけど」
「いいじゃん、各々練習してればいいのよ」
「そだねー」
 
「あれ?お弁当食べないの?」
「とても入らない」
「じゃ残ってる分もらっていい?」
「いいけど」
 
それで萌花は日和が残したお弁当を食べていた。なんか7月までの日常風景だし、ドラマの撮影でこちらに滞在した間もこんな感じだった。
 
食べ終わると萌花はベッドに横になり!?その状態でギターを弾いている。そんな弾き方があるのか?
 

「寂しくしてない?」
と日和は訊いてみた。
 
「ああ、それは平気。みんな優しいし。ここは派閥とかもないんだって先輩が言ってたよ。そういう分派行動的なものを社長が嫌ってるからって。だから逆に誰とでも仲良くできない子には辛いかもね」
「ああ。でもそれならモエは大丈夫だ」
「うん。居心地いいよ」
 
萌花はひととおり全曲弾いてから
「これなら初見でも行けたな」
などと言っている。
 
「こちらもー。多分臨時編成のバンドだから易しく弾けるようにアレンジしてるんだよ」
「そうだろねー」
 
と言って、後はギターも持たずに持参のおやつを食べながらずっとおしゃべりしていたが、なかなか楽しそうである。東京に出て来てからの生活が物凄く刺激的で楽しくてたまらないようだ。同じくらいの年齢の子か多いので、その子たちと連日おしゃべりしたりしているらしい。萌花はまさに誰とでも仲よくなる子だから、ほんとに楽しいんだろうなあと思った。
 

ぼくはどうしようかなあと思う。バスケットも楽しいけど、東京での音楽生活も楽しそうだし。
 
それに日和は高校卒業後のことも考えていた。一応今文系コースに籍を置いているけど、成績は就職コースの子まで含めても学年で最下位付近だし自分が入れる大学は無いと思う。といって高卒で就けるような仕事もあまりピンと来ない。
 
女子だと飲食店のフロア係さんとか事務職とか、お店の売り子とかもありそうだけど、男子の仕事が無いよなと思う(*11)。ぼく非力で力仕事ができないしなどと考えたりする。運送屋さんのドライバーとか荷物持てないし、プログラマーは勤務時間が長くて、凄い体力が必要みたいだし。そもそも自分がプログラムとか書ける気がしない!
 
それなら、取り敢えず22-23歳くらいまで?、信濃町ガールズとかしてもいいかも知れない気がして来ていた(*12).
 

(*11) 五月は「ひよりちゃんは性別男と書いた履歴書出しても、女子として配属される」などと言っていた。実際体力が一般的な女子より低いし、男性器も(多分)存在しないから女子扱いで何も問題無い気がする。
 
というか日和は五月などが推察しているように実際に女だということは?生理があるのが何よりの証拠。ただなぜ突然高校1年になって生理が来たのかは不明だが。
 
(*12) この付近は川泉スピンや広瀬のぞみなどと事情が似ている。
 
萌花は日和に
「お姉ちゃんは23-24まで信濃町ガールズやって、その後はお嫁さんになればいいよ」
などと言っていた。
 
ぼくお嫁さんになれるんだっけ?と疑問を感じている。
 
(料理も得意だし、きっといいお嫁さんになれる。ただ赤ちゃん産むにはもう少し身体を鍛えないと大変だと思う。体力が無さ過ぎる)
 

お昼は萌花は日和の部屋にいることを連絡し、一緒に配送してもらってこちらで一緒に食べた。そして13時半頃、川内さんから連絡がある。
 
「みんな伴奏が簡単だ。初見でも行けると言っているので14時から合わせます」
 
やはりみんな簡単だったんだ!
 
それで14時に昨日と同じ117スタジオに行くが、日和は萌花に乗せられてスカート穿いちゃった。少し恥ずかしいけど、知り合いが居ないし、まあいいかなと思った。
 

それで合わせてみると一発で全曲合った。
 
「時間が無いので易しめのアレンジを依頼したら易しすぎたようですね」
と川内さんも言っていた。
 
「じゃ念のため用意していた、この譜面で『西の街から』だけでも」
と言って渡された譜面を斜め読みすると、さっきのより難しくなってる!
 
「このレベルの譜面5つだと1日では厳しかったかも」
「だから1曲だけ」
 
「多分2曲行けますよ」
と世梨奈さんが言う。
 
2曲は大丈夫だという意見が他からも出るのでもう1曲『夢のアーチ』という曲もレベルの高い譜面をもらった。
 
それで各々部屋に戻って練習し、21時に再度集まることになった。その時点での出来を見て、難しいほうのスコアを使うかどうか決めるという。
 

「ちょっとベースパート弾いてよ」
と萌花が言う。
 
「うん」
 
それで日和がキーボードでベースパートを弾き、萌花のギターと合わせる。さっきの譜面のように一発では弾けないので、結構つっかかり、つっかかりになったが、萌花は何とか弾きこなした。
 
「お姉ちゃん、ベースパートを通して演奏してMIDI録音してくれない?」
「ああ、なるほど」
 
それで日和はキーボードを録音モードにしてベースパートを弾いていく。少し間違ったが気にせず最後まで弾き通した。
 
「じゃこれを流しながら私練習する。お姉ちゃんもそれに合わせてヴァイオリン弾くといいよ」
「そだねー」
 
それで練習しているとだいたい弾けるが何ヶ所か引っかかる。そこはMIDI再生を停め、各々ゆっくりと弾いて正確に弾けるようにし、またMIDIの再生を再開する。そんなことをしている内、18時頃までにはふたりともほぼ弾けるようになった。ベースパートのMIDIは一度録り直した。
 
ここで夕食がデリバーされてくるので一緒に食べる。そのあと2曲目を同様に練習していると、これが19時半頃までにはだいたい弾けるようになった。
 
「あとは正確にアットテンポで弾けるように弾き込むだけかな」
「うん。頑張ろう」
 
それでたくさん練習していると20時半頃までには充分自信を持って弾けるようになった。
 

それで21時にまたスタジオに集まる。
 
合わせてみると2曲とも一発で合った。
 
「あんたたち凄いよ」
と川内さんは言っていた。
 
「結構ギリギリで仕上がったかな」
「おやつ食べながらゲームしたりする時間は無かった」
 
といった声が出ていたので、やはりみんな仕上がったぱかりだったようである。
 
「じゃ通し稽古をしよう」
というので、通して5曲練習した。易しい譜面で3曲。その後、難しい譜面に交換された2曲を再度合わせる。それでこの日は22時半に解散した。
 
「明日は早めに朝食をデリバーさせますので7時半集合で」
 

それでこの日は寝た。萌花は自分の部屋に帰って寝た。日和は寝る前にナプキンを交換しておいた。
 
翌日は5時に起きてトイレに行ってまたナプキンを交換してから、缶コーヒーを飲んで、そのあと一通り練習した。やはり簡単な3曲は問題無く弾ける。難しい2曲について各々5回くらい練習した。
 
5時半に朝食が配送されてくる。それを食べてから再度練習する。6時半すぎには充分自信が持てるようになった。萌花に連絡したら「今起きたぁ!」という返事。あの子遅くまで誰かとラインでもしてたのではと思った。
 
「練習の手伝いして」と言うので、荷物を持って部屋を出て、萌花の部屋に行った。それで昨日録音したMIDIデータをこちらの部屋のキーボードに入れて再生させ、それに合わせて萌花がギターを弾き、日和もヴァイオリンを弾くというので練習した。でもそれでだいぶうまく弾けるようになったようである。
 
7:20に一緒に部屋を出てスタジオに向かう。
 

7:35くらいに全員揃う。それで5曲通して練習したら、やはり最初の3曲はいいが、後の2曲は「演奏はできてるけど合格点ではない」と言われる。それで各々の楽器奏者に、直して欲しいところ、注意して欲しいところを指導する。
 
全員で演奏しているのを聴いててひとりひとりの演奏の問題点を指摘するってこの人すごっと思った。萌花は何ヶ所か注意されていたが、日和は特に注意されなかった。注意されなかったのは、日和とベースのプリムちゃんだけである。日和もこの子は能力が高そうと思って見ていた。
 
1時間近く練習して8:30すぎに「うん。合格点に達したね」と言われた。それで
「本番用の衣裳です」
と言って服が配られる。
 
白地に赤青緑の5cm幅程度の斜め線が入ったTシャツと白い膝丈スカートである。
 
どこで着替えるのかな?と思ったらみんなその場で着替えてるようだ。まいっか、全員女性みたいだしと思い、日和も着替えた。結局スカートで演奏するのか。知ってる人の前ではないからいいよね?
 
(全国で10万人くらいが観るのだが?)
 
衣裳に着替えてからもう一度合わせた。これは衣裳を着て緊張したのをほぐす意味もあったと思う。
 
そのあと8:50くらいにアリーナに移動した。
 

Bステージはちょうど甲斐姉妹と水谷姉妹だったようである。水谷姉妹が何か歌を歌っている。木の枝とか、机の端とかにやわらかい時計みたいなのが掛けてあるのは何だろうと思った。あと床に寝ている人がいるのは何してるんだろう?とも思う。
 
反対側のAステージでは既に別の演奏者がスタンバイしている。やがて8:58:30くらいで演奏が終了し、多くの拍手が聞こえた。水谷姉妹・甲斐姉妹が手を振っている。床に寝ていた人も起き上がって手を振っている。8:59:00 舞台照明が落ちる。アリーナ席の椅子が一斉に回転する。
 
すごーっ!
 
と思った。
 

Bステージで演奏していた人やダンサーたちは向こう側の階段から退場する。入場口と退場口を分けているのはきっと感染対策だろう。
 
Aステージの方は演奏が始まるまでの1分間がチューニングタイムで音合わせをし、また各々の楽器の音がきちんと聞こえていることを確認する。
 
9:00:00 Aステージのライトが点灯し、ドラムスのフィルインとともに、前奏が始まる。バックに並んでいたダンサーたちが踊り出す。ダンサーたちも伴奏者たちも登山の服みたいなのを着ている。
 
やがて前奏が終わるとともに立山煌くんが『山があるから山ガール』を歌いだした。彼、可愛いよねなどと思って見ている。
 

甲斐姉妹・水谷姉妹が歌っていたほうのBステージは楽器が片付けられている。ほんの5分ほどで楽器は撤収され、そのあと清掃、そして消毒が行われる、そして西宮ネオン用の楽器が設置される。ドラムスとヴィブラフォン、電子キーボードが設置されたところでステージに入ってくださいという指示がある。
 
ギター・ベースに信号ケーブルが接続される。日和が持つヴァイオリンにはピックップが取り付けられた。ヘッドフォンを渡される。消毒済みというシールが貼られた袋を破って取り出し、装着する。袋は回収される。
 
「あと10分」
という看板が掲げられる。ここでは反対側のステージで演奏が放送中だから大きな声などは出せない。
 
ダンサーの子たちが入ってくる。彼女たちも日和たちと同じ、三色のペイントがあるTシャツを着ている。下は紺色のミニスカートである。わあ、あんな短いスカートでなくて良かったと思う。あんな短いスカート穿いてと言われたら恥ずかしいよぉなどと思う。でも何人かショートパンツ穿いてる子がいるのは本人の好みかな?
 
「あと5分」
という看板が出たところできらきらしたスーツを着た西宮ネオンさんが登場する。伴奏者一同に会釈するので、こちらも会釈を返す。気持ちいい人だなと思った。
 

9:29. 立山煌の演奏が終わり、ステージライトが落ちる。こちらではチューニングが行われる。日和も急いで弦の音をGDAEに合わせた。ちゃんと弦を弾いた音が自分のヘッドフォンからも聞こえるのを認識する。ステージに向けたタイマーがカウントダウンしていく(後で聞いたがこれはバスケットの試合で使うタイマーらしい)。
 
タイマーが0になった瞬間ステージの照明が点灯し、邦生さんのドラムスが打たれる。日和も前奏を演奏し始める。ダンサーの子たちが踊り出す。そして前奏が終わるとともに西宮ネオン君の歌が始まった。
 
客席から多数の手拍子が聞こえてくる。こんな所で演奏するの気持ちいいなあと日和は思った。
 
ネオン君は1曲目を歌い終わってから客席に向かって挨拶をする。歓声が凄い。これリアルで観客入れてるのと変わらない気がする。司会者のレディススーツを着た女性(高校生くらい?)が出て来て、しばらくトークするが、そのトークの内容で笑い声や歓声などもある。日和も大量のモニター群を見ていたが、観客は女性が圧倒的のようである。ネオン君が結婚した時はファンが大量に減ったらしいけど、また少しずつ戻って来てるんじゃないかなあ。
 
2曲目に行く。司会者は下手脇の司会者台の所に戻る。タブレットを見ている。進行を確認しているのだろう。その司会者さんがギョッとした表情を見せた。日和たちもギョッとした。
 

ネオンが譜面と違う歌い方をしたのである。
 
譜面では1番・2番を歌ってからサビに行く。ところがネオンは1番のあと、2番を歌わずにそのままサビに行ってしまった。
 
瞬間的に反応したベースのプリムがサビ先頭の根音を弾き直した。他のメンツもすぐ譜面を飛ばしてサビの所に行く。ネオンも次の瞬間気付いたようだが、平然とそのままサビを歌い続ける。それで曲は予定より30秒ほど早く終わってしまった。
 
観客は特に気付かなかったようだ。時間調整などでこのくらい飛ばしたりするのはよくあることである。拍手の中、司会者が笑顔で出て来てネオンとトークする。司会者もネオンも間違ったことには全く触れない。ごく普通のトークである。でも多分本来より長めに話してから次の曲に行った。
 
3曲目を演奏し、少しトークして4曲目『夢のアーチ』に行く。難しい伴奏なので少し緊張したが、無難に演奏を終えることができた。このあと司会者とネオンがトークするが、司会者は舞台下に置かれた時計に目をやりながら話しているようだ。ここは微妙な時間調整が必要である。(演奏時間を正確にするためドラムスはクリック音を聞きながら演奏する)
 
「では最後の曲『西の街から』」
と言って、司会者は下がった。拍手の中、前奏が始まる。そしてネオンが歌い出す。この曲は次のような構成である。
 
A B A B S / A B S / C S / Coda
 
それで伴奏陣もネオンも演奏していたのだが、ネオンはAメロ・Bメロを2回歌って、最初のサビの後、いきなりCメロに行ってしまった!
 
(つまりAメロ・Bメロ・サビを飛ばしてしまった)
 

Aメロを弾こうとしていた伴奏陣はプリムがとっさに根音を弾き直してネオンに合わせてCメロに行く。しかしこのままでは飛ばした24小節のぶん(約1分)早く終わってしまう。何とかしなければならない。
 
ベースのプリムがネオンの傍まで出て行き「Cメロサビの後、もう1回Cメロ・サビ行きましょう」と小さな声で言う。ネオンも頷いた。プリムはその後、ギターのホルンとキーボードのルミナにも伝えたようである。ドラムスの所には遠いし、管楽器・弦楽器にまでは伝えられなかったものの、日和は何らかの対応をするのだと思った。
 
それでCメロ・サビの後、プリムは2拍前にCメロ最初の根音を弾いた。それで全員理解した。伴奏は全員Cメロに戻る。ネオンもCメロを繰り返す。そしてサビを歌った。
 
それからコーダに行くが、コーダは本来4小節なのをプリムとホルンのアイ・コンタクトで12小節も演奏した。ホルンのギターアドリブ4小節まで入った。日和は「ひぇー」と思いながらも必死に何とか合わせて行く。
 
そしてオーケストラ・ヒットでエンド!
 
大変だったけど何とかなったぁ!!
 
物凄い拍手。ネオンが観客席に深々と頭を下げる。そして拍手の中照明が消え、スピーカーの音も止まった。
 

司会者の女性が「お疲れ様でした!」と言う。ネオンが
 
「皆さんごめんなさい」
と謝っていた。
 
司会者も
 
「もし早めに終わってしまったら何とか数十秒場を持たせねばと思って必死でネタを考えていましたが、バンドの皆さんのおかげで助かりました」
と言っていた。
 
ホルンとルミナが
「いや、プリムちゃんのおかげ」
と言っていた。
 
実際彼女がすぐに対策をネオンとホルン・ルミナに伝えたので、リカバーが上手くいった。プリムちゃんまだ中学生っぽいけど、凄い対処能力だなあと日和は思った。
 

向こう側のステージで恋珠ルビー&花貝パールのステージが始まる。こちらは楽器の撤収が始まる。日和たちはいったん117スタジオに戻った。
 
「皆さん、お疲れ様でした」
「疲れましたぁ」
 
「でもみんな素晴らしい対応能力だったよ。何が起きるか分からないのがライブだからね」
と川内部長が言う。
 
「やはり色々起きるものですか?」
「それについては、はい美津穂ちゃん」
 
「間違いは演奏の間違い、ボーカルの間違い両方ありますね。間違って半拍早く出ちゃったとかもよくある。そもそも予定と違う曲の伴奏が始まっちゃったというのもよくある」
 
「ああ」
 
「本番直前になって伴奏者が居ないとか、歌手本人が居ないとか」
「本人居なかったらどうするんですか?」
「本人が来るまで何とか場を持たせるしかない。そのあたり、デビュー前のケイ会長の得意技だったみたいね」
「へー」
 

「野外の公演で落雷があって電気系統全部落ちた中、アコステティック楽器と生歌唱で歌い続けたとか」
「ひゃー」
「天井から吊ってた人形が落ちてきたとか、台風で樹木が倒れて来て会場の壁が壊れたとか」
「色んなことがあるなあ」
「有吉佐和子さんの『一の糸』とかは舞台の上で三味線弾きが亡くなっちゃうんだよね」
「病気ですか?」
「そうそう。病死。ある意味、音楽家にとっては本望かもね」
と川内さんは言っている。
 
「他に観客の投げた紙テープがドラムスのタムの上に乗っちゃったとか」
と美津穂さん。
 
「わっ」
 
「ステージに包丁持った女が乱入してきたとか、ピストル持った女が入ってきたとか」
と川内さん。
 
「怖〜!」
 
「アクアのライブでは爆弾仕掛けられたこともあるからね」
「恐ろしい」
 
「なんかそんな話聞くと、今日のトラブルくらいは大したことない気がしてきました」
「まあこの程度の間違いはよくあることだね。じゃ川内みねかの譜面配りまーす」
と言って川内さんは全員にまた総スコアとパート譜を配った。
 

「4曲なんですね」
「そそ。最後の曲は本人がピアノで弾き語りをする」
「なるほどー」
 
「では自分の部屋に戻って練習してください。15時にこの部屋に再集合で。夕方は私は練習を見てあげられないので醍醐春海先生にチェックをお願いしています」
と川内部長は言って解散する。
 
萌花はプリムちゃんの首に後ろから抱き付くと
「ひかりちゃん、一緒に練習しよっ」
などと言っている。
 
プリムは萌花に抱き付かれて恥ずかしがるような仕草をした。あまりこういう女の子同士のスキンシップに慣れてないのかな。ぼくなんかいつも五月ちゃんとか和菜ちゃんとかに抱き付かれて、おっぱい揉まれたりしてるから平気だけど、などと思う(←それは慣れすぎ!)。
 
「まあいいけど」
「じゃ、2人でうちのお姉ちゃんの部屋に」
と萌花が言う。
 
萌花が「一緒に練習しよ」と言った時は「ん?」という顔をしていた川内さんが、ホッとしたような顔をした(*13)。何だろう?と日和は思った。
 
しかし結局ぼくの部屋に来るのか、
 

(*13) 花ちゃんとしては、男の子である可能性が1%ほど残っているプリムを女子と2人だけにすることはできないと思った。しかしお姉さんが一緒なら、“ホルンも”無茶はしないだろうと考えた。
 
つまりホルンがプリムを逆?レイプする事態を一瞬心配した。プリムが女の子をレイプする可能性は全く考えていない。万一プリムにペニスがまだ残存していたとしても、どう考えても女性ホルモンをやっているとしか思えないプリムに勃起能力があるはずが無い。
 
そもそも彼女(多分既に“彼”ではない)を数ヶ月見ていて、男性的衝動が存在しないことを確信している。早幡そらには男性的衝動があるみたいだけど。そらには小学1年生並みのサイズだが男性器が存在しているという話なので、そこから衝動が生まれるのだろう。
 
プリムは1ヶ月ほど女子寮に滞在しているが、隠しカメラを仕掛けた子たちも彼女のヌード覗き見に成功していないようである。物凄く用心深い(それに多分少し霊感がある)ようだが、それは“男性器がまだ残っている”のを見られないようにするためという可能性と、“既に女の子の身体になっている”のを見られないようにするためという可能性の両方がある。
 

それで日和の部屋に萌花とプリム(杉本ひかり)が来て、一緒に練習する。
 
「ネオンさんの後からもらったアレンジよりは易しいけど、最初にもらったアレンジよりはずっと難しい」
 
「まあ失敗が許されないから、このくらい行けるだろうというレベルより少し落としたんだろうね」
「うん。短時間で完成させないといけないからね」
 
しかしギターとベースが一緒に練習すると、お互いに効率良いようである。4回目くらいにはふたりともきちんと弾けるようになった。日和もそれまでには一応弾けた。
 
「取り敢えず全曲弾けるようにしよう。そのあと各々の内容をレベルアップしていこう」
「うん」
 
「最終的にはちゃんと“弾けてる”レベルにしないといけないからね」
 

お昼は連絡して2人ともこの部屋に配送してもらう。一応4曲とも“弾ける”レベルまで行ったところでお昼を食べた。
 
お昼を食べた後、萌花はルミナ(観音倭文)に電話した。
「しづちゃーん。こっちで一緒に練習しない?505にいるの」
 
それでルミナ(倭文)が来る。倭文は萌花とハグしている。2人は信濃町ガールズ北陸で良きライバルだった。萌花が少しリードしていたが、夏の昇格試験では倭文が逆転で昇格した。でもそのあと萌花もビデオガールコンテストで入賞して追って本部生になった。
 
向こうも一応弾けるようになったということだったので合わせてみる。
 
「おお、すごくいい感じ」
「でもちゃんとは“弾けてない”部分がたくさんある」
「それは感じた。今の段階では何とか譜面通りに“弾いてる”だけ」
「そこをちゃんと“弾けてる”レベルまで上げよう」
 

それで一緒に“曲のストーリー”を考えながら弾いていく。その内こんな意見が出る。
 
「これ楽曲自体がネオン君の曲より出来がいい気がする」
 
これには全員が同感だった。
 
「売れてないともらえる曲が適当になっていく傾向がある」
「この川内みねかさんって売れてるんだっけ?」
「取り敢えず今の所3作連続ゴールドだよ」
「凄いじゃん。じゃ最近デビューした人?」
「デビューしたのはアクアと同じくらいの時期で、もう8年くらいやってるんだよ。でも去年の9月に出したCDが初めて9万枚売れて」
「わー。じゃ下積みが長かったのか」
「でも若くしてデビューしてるから年齢も確かアクアと似たようなものだよ」
「へー」
 
「去年9月のは統計上は9万枚となってるけど実際には10万枚を突破した可能性もある。でもその後の3作は明確に10万枚を超えた」
「遅咲きの歌手かあ」
「でもデビューした後、7-8年経ってやっと売れ出す人ってこの世界結構いるよね」
「じゃ期待の歌手だからいい曲もらってるのね」
「それあるかもね」
 
夏昇格の子や、ビデオガールコンテストで入った子はまだ“川内みねか”の実像(*14)が分かっていない。日和など、ネットフェスのポスター写真(今日ここで演奏する20組の写真が並ぶ)は見たものの、可愛い子だなあと思っただけで、この人物がさっきまで自分たちを指導してくれた川内部長本人であることを認識していない。
 

(*14) “川内みねか”は山下ルンバ(花ちゃん)が“演じる”謎のアイドル歌手である。山下ルンバとは別の独自のファンクラブを持っており、山下ルンバのファンクラブの20倍以上の人が登録している。
 
彼女が“演じる”謎の歌手シリーズ!?
 
アイドル・川内みねか
ロッカー・山下ルンバ
民謡歌手・高橋隼海花
ポップシンガー・紅型明美
ピアニスト・竹本和恵
 
あけぼのテレビの放送時間枠が空いた時にお遊びでこの5つのキャラを演じたら、特に“アイドル・川内みねか”の反響が大きかった。
 
(多くの視聴者は1人が5つのキャラを演じたことに気付かず、5人の無名歌手が登場したと思った)
 
それでCDを出したら9万枚も売れて本人もびっくりしたのである。その後CDの売上は毎回伸びてきている。前回15万枚だったので次のCDはプラチナ行く可能性もある。
 
“川内みねか”のファンには、この“アイドルを演じる”というお遊びを楽しんでいる人と、ほんとに最近§§ミュージックが売り出した新人アイドル歌手と思っている人の両方が混じっていると思われる。
 
なお“川内みねか”と名前をかな書きにしたのは、川内峰花を“かわちみね・はな”と誤読されないためである。
 

15時に117スタジオに集合する。スタジオに居たのは千里さんである。
 
「あれ〜、千里さんだ」
「おはよう、ヒヨリちゃん」
「あれ?醍醐先生を知ってるの?」
「うん。うちのバスケット部をよく指導してくれてるんだよ」
「へー。バスケットとかもするんだ?」
 
「ではみんなの演奏を聴こうか」
 
それで取り敢えず4曲通して演奏してみる。
 
千里さんは演奏の様子をじっと見ていたが、演奏が終わると、まず全体的な注意をした上で、ひとりひとりの演奏について、ここがどうとか、ここがどうとか、鋭い指摘をしてくる。日和も音の出出し(でだし)が一瞬遅れる点を指摘された。
 
でも川内部長にしても千里さんにしても、なんでこんなに多人数で演奏しているのを聴いてて、ひとりひとりについて注意できるの〜?凄いよと思った。
 

しかし音が一瞬遅れるのは自分でも認識はしていた。が、このくらいいいかなと思っていた部分である。実は弦を移動した時に一瞬遅れていた。意識して遅れないようにしなくちゃと思った。
 
それで各自練習タイムを15分与えてもらう。それでまた合わせる。
 
この1回の修正だけで随分良くなった!
 
「着替える時間が無くなったら困るから先に衣裳配りますね」
と言って配られる。午前中は赤黄緑の線が入ったTシャツだったが、今度はオレンジ色の何かの花の模様が入っている。ボトムは黄色い膝丈スカートである。
 
「ペゴニアですか?」
と倭文ちゃんが訊いてる。
 
「そうらしい。よく分かるねー。私、花は苦手。サボテンを枯らしたことある」
と言うと爆笑となるが
「私、小学校の時私の朝顔だけ咲かなかった」
などと世梨奈さんが言ってる。ぼくのどうだったっけ?記憶無ーいと思う。
 
着替えた後で2回通して練習し、16時になったので
「そろそろステージに行きましょう。進行係が焦ってるかも」
といって下に降りて行く。
 

案の定、進行の腕章を付けた人と途中で遭遇し
「今呼びに行く所でした」
と言われた。
 
Aステージでは桜野レイア with ignis-ex が演奏している。あ、一昨日邦生さんのドラムに「セミプロは名乗れる」と言った人だと思った。ドラムスを打ちながら歌うって面白ーいと思った。
 
日和たちは朝と同じくBステージである。ステージの消毒作業が行われていた。それが終わると楽器が設置される。そして案内されるのでステージに入る。ケーブル類が接続され、ヴァイオリンにはピックアップが付けられる。やがてダンサーの子たちが入ってきた。そして川内みねかちゃんが入ってくる。
 
かっわいい!
 
写真で見る以上に可愛い。こんな子が§§ミュージックに居たのか。全然知らなかった。アクアと同じ頃からやってるというから20歳くらいなのかな。まだ充分女子高生で通る感じだ(←やはり川内部長と同じ人物であることに気付いてない)
 
みねかちゃんは
「みなさん、よろしくお願いしまっす」
と可愛い声でバンドメンバーに挨拶し、お辞儀をした。すっごく可愛い。
 
(こういう可愛らしさがこの人は全て演技である!ベテランたけに可愛いアイドル歌手をコピーするのもうまい)
 

16:30になるのと同時に邦生さんのドラムスが打たれ始め、前奏が始まる。そして、みねかちゃんの1曲目『秋空の下で約束』が始まる。
 
この人すっごい上手い!
 
と驚く。こんな可愛くて、こんなに歌が上手かったら、たくさん売れてもいいのになどと思う。
 
1曲歌ってからトークする。司会者を入れてないのは、たぶん経歴は長いから自分でMCができるからだろう。今歌った曲は8月31日にリリースする予定の曲ですと言う。客席から「買うよー」という声が返ってくる。
 
「売れてる人は、同じ事務所の他の歌手と発売日がぶつからないように発売するんですけど、私売れてないから、前回が舞音ちゃんと同じ日で今回はアクアと同じ日です」
とみねかちゃんが言うと、どっと笑い声がある。
 
その後もしばらくトークするが、話の仕方がうまい。バックで待機している日和たちもつい笑ってしまったりする。そして気持ち良く2曲目に行く。ムーディーな1曲目に対して2曲目『夏色のアクアマリン』は夏らしくとても明るい歌である。ドラムスは1曲目はロックのリズムだったが2曲目はボサノバのリズムを刻んでいる。それに合わせて伴奏者も気持ち良く波に乗るように演奏し、みねかちゃんも豊かな声量で歌っていく。
 
3曲目アップテンポでディスコ調の『ハイウェイスター』を歌って4曲目の『秋風とお汁粉』はポップロックの曲である。日和たちは最後の伴奏になる。みねかちゃんは軽快な感じで歌っていく。この人は色々な歌い方の引出しを持っているなと思った。
 
最後に3分くらいおしゃべりしてからステージ中央に置かれたグランドピアノの前に座る。そして最後の曲『好きだと言えない』を弾き語りする。このピアノがまた上手い!間奏では超絶技巧も見せて、曲の途中だが大きな拍手が起きていた。
 
そして終曲。
 
余韻を味わうように鍵盤の上に指を置いたままにし、やがて余韻が消えると立ち上がって客席に向かい深々と礼をした。大きな拍手に包まれた所でライトが消え放送時間が終了した。
 

楽屋に戻る。
 
「ありがとうございました。これ謝礼です」
と言って、松原弓香マネージャーが日和・世梨奈・久美子・邦生に封筒を渡した。
 
「じゃ北陸組、送ってくね」
と千里さんが言っている。
 
「はい」
 
日和はヴァイオリンをケースごと萌花に渡すと
「じゃまた」
と言って、ステージ衣装のまま千里さんに付いていく。この時日和は車で熊谷まで行くのかなと思った、
 
が、千里さんが案内したのは小鳩シティの駐車場の片隅に駐まっているヘリコプターであった!!
 
「乗って乗って」
「これで熊谷まで移動するんですか?」
「いや氷見まで飛ぶよ」
「わっ」
 

ヘリコプターは前の操縦席の横に長い席、後ろに独立席が4つ並んでいて、既に操縦席にはパイロットさん、その横の長い席に真珠さんが座っている。千里さんは後ろの座席に久美子・世梨奈・日和・邦生の順に座らせ、その後、真珠さんの横に座った。
 
「じゃ離陸しまーす」
と言ってヘリコプター (Ecureuil-2) は小鳩シティを飛び立った。
 
「あれ?明恵さんは?」
「明恵は一週間こちらに滞在して青葉さんの結婚式の準備」
と真珠さんは言う。
 
「へー」
 
「参加者が多分250人くらいではないかと思うけど、それで放送枠内でピタリと納めないといけないから、アナウンサーさんと一緒にシミュレーションとかリハーサルもしてみると言ってた」
 
「大変そう」
 
真珠も残るつもりだったが、2人居ても仕方ないしというので、明恵だけ置いて真珠はいったん帰ることにしたらしい。
 

ヘリコプターは順調に飛行する。
 
全員機内で衣裳から普段着に着替えたが、日和は東京に行く時に着ていた制服のズボンがなぜか“見当たらない”ので、仕方ないので普段着のスカートを穿いた。
 
ヘリコプターは1時間ほどで氷見飛行場に到着した。速いなと思う。
 
(Do228は巡航速度(Cruise speed) 315km/h, エキュレイユは 245km/h である。ちなみに航続距離(range)は Do228:1111km, Ecureuil:662km)
 
日和をここに連れてきた明恵さんは居ないが、真珠さんと邦生さんが日和を自宅まで送ってくれたので、日和が帰宅したのは19時すぎである。
 
「嘘!?もう帰宅したの?」
とお母さんが驚いていた。
 
「あんたは深夜か明日の朝だろうし、今夜はお父ちゃんと2人だけかと思ってカップ麺ですませるつもりだったのに」
「ぼくもカップ麺でいいよー」
と言って、日和は、緑のたぬきミニを取り出した。
 
「そんなんで足りるの?伴奏疲れたでしょうに」
「ぼくあまり食べないから。向こうでも、出た食事、半分は萌花に食べてもらった」
「ほんとに少食だね!」
 

翌日8月29日(月).
 
日和は朝から学校に行く準備をしていた。普段は前日のうちに準備しておくのだが、昨日はさすがに疲れていたので、夕食を食べたらすぐ寝て、今朝5時に起きたのである、
 
あれ〜。ぼくのズボンどこに行ったんだろう?
 
と考えている内に昨日こちらに戻って来るヘリの中で普段着に着替えようとしたら、制服のズボンが見当たらなかったことに思い至った。もしかして宿舎の部屋に忘れてきたのかなあと思い。萌花にメールしてみた。すぐには返事が無い。きっと昼くらいまで寝てる(向こうは学校は1日から)。
 
母に相談する。
「ぼく制服のズボン、東京に忘れてきちゃったみたい。今日どうしようか?」
 
すると母は言った。
「ズボンが無いのならスカート穿いてけばいいんじゃない?」
「え〜?」
「スカートでは寒くて風邪引くというのなら厚手のタイツとか履くといいですよと寺下先生も言ってたじゃん」
「そんなあ」
 
「あんたもそろそろスカート登校に慣れたほうがいいと思うけどね」
「恥ずかしいよぉ」
「スカート穿いてるところ全国に曝しておいて今更だと思うけどなあ」
「昨日のって全国で放送されたんだっけ?」
「当然。クラスメイトもみんな見たと思うよ」
「きゃー、恥ずかしー!」
 
でも今日、ほんとにどうしよう?
 
 
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【夏の日の想い出・止まれ進め】(3)