【夏の日の想い出・星導きし恋人】(1)
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(C) Eriko Kawaguchi 2021-05-28
その日、上田雅水はいつものように男子寮の自分の部屋で目を覚ますと、取り敢えずトイレに行った。いつものようにパジャマのズボンとショーツを降ろしながら便座に座る。そしておしっこをするが、何か違和感を覚えた。
何だろう?と思ったが、まだ起きたばかりでボーっとしているので深くは考えない。終わった所でいつものようにペーパーで拭くが、この時も変な感じがした。でもあまり深く考えず、そのままショーツとパジャマのズボンをあげた。
雅水はほぼ“女の子”的な生活をしている。下着は女物しか持っていないし、学校の制服と信濃町ガールズの制服以外では(外で穿ける)ズボンは1本も持っていない。寮内ではだいたいスカートを穿いている。でも男子寮はスカートで出歩いている子が多いので、気楽だ。
母からは「中学卒業するまでには性転換手術を受けようね」などと言われているし、自分でもそのつもりである。
「お姉ちゃん(上田信希)が今年手術して、ボクは来年かなあ」
などと漠然と考えている。
声変わりが来ないように、小学5年生の時以来ずっと女性ホルモンを飲んでいた。去年の夏に去勢手術を受けた後は、ホルモンの効きがよくなったみたいで、胸も膨らんで来たし、精神的に“女の子の気分”になることが多くなってきた。一応お股はいつもタックして女の子っぽい外見にしてはいるものの「夏は蒸れるしなあ」などと思う。ボクも早くちんちん切ってもらいたい、と雅水は考えていた。
ユキさん(ツキさんかも)が朝ごはんをドアの前に置いてくれるので、それを中に入れてスマホで芸能ニュースなど見ながら食べる。食べた後の食器は丁寧に洗ってから、ドア外の回収ボックスに入れておく。出かける前にシャワーを浴びようと思い、服を全部脱いでからシャワールームに行く。身体全体に熱いシャワーを当てると細胞が活性化されていく気分である。
髪を洗い、顔を洗い、耳の後ろ・首筋を洗って“豊かな”おっぱいを洗う。この時少し変な感じがしたが何だろう?と思った。腕を洗い、脇の下、お腹、そしてお股をきれいに洗う。きちんと“割れ目ちゃん”の中まで丁寧に洗う。この時も何か変な気もしたのだが、まだ頭が完全には働き始めていないので深く考えない。足を洗い、バスマットの上に座って足の指の間もきれいに洗った。
浴室から出てバスタオルできれいに身体を拭く。髪はすぐには乾かないからタオルを髪に付けたまま脱衣室を出る。1人暮らしなので誰にも気にせず裸のまま歩いて衣装ケースの所まで行き、「今日はこれにしよう」と言って、キティちゃんのパンティを穿いた。
パンティを穿いた時に、きれいに前面がフィットするのが、タックしているメリットだよなあと思う。余分なものがついてると盛り上がりができて変なんだもん。
いつものようにAカップのブラジャーを着けようとしたのだが、なぜかきつくて入らない。
あれ〜?なんでと思ったが、姉(信希)の下着が残してあるのに気づき、姉の衣装ケースからBカップのブラジャーを取りだし「お姉ちゃん貸してね」と一人言のように言って、自分の胸に着けた。
ブラウスを着ようとするがいつも着てるブラウスが入らない。
今日はどうしたんだろう?最近胸が成長してきている気はしていたけど、入らなくなったのかなあと思う。それでブラウスも姉が使っていたものを借りることにして身につけた。
ここまでは女の子仕様だけど、雅水は男子中学生として学校に通っているので、セーラー服を着るわけにはいかない。実は所有しているセーラー服が壁に掛かっているのをチラッと見てから、ちょっと抵抗感はあるものの、学生ズボン(雅水のウェストに合うように姉が改造してくれた)を穿き、学生服(これは女子のコスプレ用品で胸が大きい)を着た。
髪もだいぶ乾いてきたので、タオルを外し、ブラシを入れてから、長い髪をボンボン付きの髪ゴムで左右にまとめた。芸能活動のためということで長髪の許可を取っているが、三つ編みかゴムで束ねてと言われている。雅水はツインテールにするのが好きなので左右に分けている。この髪型は女子のクラスメイトたちも「可愛いよ」と言ってくれる。
そして雅水は唇にリップクリームを塗ってから、“赤い”学生カバンを持ち、22cmサイズの赤いローファーを履くと
「行ってきまーす」
と言って、部屋を出た。
雅水にとっては“いつもの通り”“何も変わらない”朝だった。
小浜市ミューズ・ヒル“鏡の迷宮”でのアクアの写真集撮影に付き添っていた秋風コスモス社長は、川崎ゆりこ副社長からの緊急連絡を受け、予定を早めて5月9日(日)夕方、撮影に参加していた信濃町ガールズの子たちと一緒に帰京した。
事態は急ぐので、熊谷の郷愁飛行場にG450が到着すると、用意してもらっていたヘリコプターで新木場の東京ヘリポートに移動する。何かお役に立てたらと花咲ロンドが言うので彼女も連れて行く。正直コスモスは今、猫でもいいから誰かそばに居て欲しい気分だったので、ロンドの心配りはありがたかった。
東京ヘリポートには高村友香マネージャーが迎えにきてくれていたので、彼女の運転するコスモス専用車 BMW 225xe iPower White に乗って、信濃町の事務所に向かった。
(感染拡大防止の観点から、車両の“使い回し”を基本的には避け、車と乗る人はできるだけ固定している)
事務所に入り、ロンドには待っているように言って、ゆりこと2人だけで会議室に入る。
「状況を説明して」
「はい」
と言って、ゆりこは緊張した面持ちで、説明を始めた。
5月5日(水祝)に、ラピスラズリは大阪の放送局でバラエティ番組の撮影に参加した。2人は倉橋光枝マネージャーと一緒にHonda-Jet
Blueで伊丹に飛び、撮影に参加している。その後、本来なら6-7日(木金)は高校生の2人は東京に戻して学校に行かせるべきだが、9日(日)から2時間ドラマ『シンデレラ』の撮影に入ることになっていたので、6-7日は本来8-9日に撮影する予定だったCMの撮影を京都市郊外でおこなった。2人はずっと伊丹空港から近い豊中市内のホテルに泊まっている。
2人が2日間の結構ハードな撮影で疲れているようだったので8日午前中はホテルで休ませた。そして9日からのドラマの撮影に備えて、昨日8日(土)夕方 Honda-Jet
Blueで熊谷に戻した。そして熊谷に到着した所で緊急連絡が入った。
5日に撮影したバラエティの出演者から2名コロナ感染者が出たというのである。ラピスは倉橋マネージャーともども、ただちに郷愁空港内の空き部屋に隔離した。そしてすぐにPCR検査を受けさせた。Hona-JetのパイロットもPCR検査を受けさせた。
幸いにも4人とも陰性であった。しかし特にラピスとマネージャーの3人は濃厚接触者なので、2週間の自己隔離を要請された。パイロットさんも念のため自主的に隔離してもらうことにした(Homda-Jetの機内では操縦席から後方に空気が流れるので、パイロットは比較的安全なはず)。またCM撮影に立ち会った人にもPCR検査をお願いし、3人が泊まったホテルの部屋の消毒も要請した。
ここまでは、ゆりこが小浜にいるコスモスと電話やメールで連絡を取りながら、指示し、また報告を受けていたものである。
「陰性で良かった」
「ラピスはまだワクチン打ってなかったんですよねー」
「ラピスが主力の中ではいちばん後回しになってしまっていたね。アクアも舞音ちゃんもワクチン打ってるのに」
アクアはMとFで時期をずらして、Fは山村に、Mは千里に頼んで打ってもらっている。舞音はミューズの子たちに山村が打っていたら「私にも打って下さい」と言ったので、山村は「まいっか」と思って打ったと言っていた。葉月は治験期間中に山村に欺されて!打たれている。
(山村に欺されたのは他に、佐藤ゆか・竹中花絵・三陸セレン・山鹿クロム・羽鳥セシルなど。坂出モナは山村がセシルに打っているのを見て自主的に打って欲しいと言って打ってもらった。他に千里に欺されたのが、青葉・大崎志乃舞・その弟(妹)、恋珠ルビー、水谷姉妹、また光帆・音羽、など。青葉は“人間での”記念すべき第1号治験者である!)
(§§ミュージックへのワクチン接種は、千里・山村・若葉の3人が別ルート!でワクチンを入手して打っている。全員ドイツのBioNTech社が開発したもので、日本政府がPhizerから入手しているものと同等製品である:BioNTechが開発元でPhizerは協力会社。他に丸山アイが入手して数十人に打っているものもあるが、これは多分Moderna製と思われる。BioNTechと同じmRNA型である)
姫路スピカは実は小浜でのローズ+リリーのライブに参加した時に打っている。リズムは『ロミオとジュリエット』の撮影前に接種した。西宮ネオンは結婚式の前に花嫁ともども打った。コスモス自身は早い時期に千里に頼んで打ってもらった。川崎ゆりこは若葉に欺されて!打たれている。
主要タレントでまだ打っていなかったのは、ラピスラズリのほか、品川ありさ・高崎ひろか・七尾ロマン・Ye-Yo といった面々である。
「ちょっとまだ打ってないA契約の子たちに、優先順を付けて全員接種させるようにしよう。ちょっと計画を作って」
「分かりました」
「ラピスラズリは大阪遠征中に感染者と接触していたので、結局寮に戻ってきてないんですよね。だから寮は安全圏でした」
「それも運が良かった」
「ということで、問題は『シンデレラ』の撮影なんですよ」
ゆりこはかなり疲れた表情をしている。コスモス不在中に緊急事態が発生し、この24時間、あまりまともに寝てないのではないかとコスモスは思った。
「テレビ局には状況を説明して、取り敢えず今日の撮影は延期になりました」
「うん。でもあまり延ばせないんでしょ?」
「放送日程が既に決まっているので、大幅な延期、具体的にはラピスの自主隔離が終わる2週間後までの延期は困難です」
ラピスは今週は『シンデレラ』の撮影に専念する予定で、他の仕事は入れてなかった。それで調整の手間はかからなかったものの、問題はその『シンデレラ』である。
「謝って、誰かに代わってもらうしかないだろうね。迷惑料も向こうの言い値で払うよ。私が鳥山さんに連絡して向こうがよければ今から謝りに行ってくる」
「すみません」
「まあ人に謝るのが社長の仕事だし」
「ああ、私はそういう仕事やりたくない」
と、ゆりこは言っている。
それでコスモスがΛΛテレビの鳥山さんに電話した。すると鳥山さんも
「ああ。コスモスちゃん、戻って来た?だったら、ちょっとそちらに行っていい?」
というので、鳥山さんが来るのを待つことにする。
待っている間にロンドにも簡単に状況を説明した。
「とうとううちの近辺まで来ましたか。でも陰性で良かった」
「うん、ほんとに良かった」
鳥山プロデューサーが来社したのは、もう0時すぎであった。会社に残っているのは、コスモス、ゆりこ、ロンド、それに「帰りなさい」と言ったものの、何かのためにと言って残ってくれている美咲瞳サブデスクの4人だけである。
応接室に通し、美咲が全員に上等のブルーマウンテンコーヒーを煎れ、ケーキも出した。
「このコーヒー美味しいね!」
と鳥山さんはご機嫌であるが、疲れたような表情は隠せない。かなり調整に飛び回っていたのだろう。
「ご迷惑掛けて申し訳ありません」
とコスモスは謝るが
「いや、こちらこそ謝らなければ。感染者の出た番組はうちの系列放送局だし」
と鳥山さんは言う。その件では、大阪の当該テレビ局の社長から直接事務所に謝罪の電話があり、ゆりこが受けている。
「単刀直入に」
「はい」
「東雲はるこちゃん、町田朱美ちゃんの今回の出演はキャンセルということに」
「はい。申し訳ありません。必要でしたら、迷惑料もお支払いしますので」
「キャンセルになった原因が元々うちの系列のテレビ局の番組だから、今回は責任相殺でキャンセル料も迷惑料も無しということにしない?」
「はい、それでいいです」
その時、鳥山は臨席しているロンドに気が付いたようである。
「君、花村ロンドンちゃんだったっけ?」
「すみません。花咲ロンドです」
「ごめん!」
「いえ。あまり売れてないし」
「いや割と知名度あると思うよ」
名前を言い間違っておいて“知名度ある”と言われても困るのだが。
「君、シンデレラの姉役をしてくれない?」
ロンドがスケジュールを管理している美咲瞳を見る。
「ロンドちゃんの予定は動かせるよ」
「でしたらやります」
「助かる」
それでシンデレラの姉(町田朱美にアサインしていた)の代役は花咲ロンドが務めることになった。すると残る問題はシンデレラ本人の代役である。
「それで『シンデレラ』の撮影日程なんだけど」
「はい」
「予定では9日(日)から16日(日)までの8日間を予定していた」
「ええ」
「これをキャスティング変更に伴うシナリオの書き直し、一部の衣装や小道具・セットの作り直しを明日、というか今日10日の内にやってしまって、11日・火曜日から撮影を開始し、18日・火曜日までに終わらせたい。実は18日というのが、技術部とも話したんですが、放送に間に合うギリギリの日程なんですよ」
『シンデレラ』は、カボチャの馬車のシーン、シンデレラの衣装が変化するシーンなどをCGで処理する必要がある。撮影が終わった翌日に放送などということはできない。
撮影日数自体の短縮は無しということのようだ。元々“8日”というのがかなり厳しい日程だったと思われるので、それ以上の短縮は無理なのだろう。
「衣装などの調整作業は朝1番から始めないといけないから、朝までに代役を決めたい」
今は5月10日(月)午前0:30くらいである。つまりあと5時間程度以内に決める必要がある。深夜ではあるが芸能関係者は午前2時くらいまでは連絡が付くことも多い(逆に午前中は寝ていて連絡が取れない人が多い)。
「今回は人気絶頂のラピスラズリが主演するというので、制作前から前評判が高かった。代役を考える場合、人気がそれ未満の女優さんでは、視聴率も取れないし、スポンサーにも降りられて、物凄い損害が出る可能性がある」
「その代役の女優さんのギャラ相当分をうちが出してもいいですよ。ロンドのギャラも今回はタダでいいですし」
とコスモスは言ったのだが、鳥山さんはとんでもないことを言った。
「それでさ、物は相談。こちらこそ割増しでギャラ払っていいからさ、アクア君を1週間貸してくんない?」
「え〜〜〜〜〜〜!?」
5月の連休明け、峰川旅世は、1ヶ月ぶりに、ある場所での拘束(?)生活から解放され、娘イリヤのスカイラインに再び乗車し、首都圏に舞い戻った。1ヶ月の間に、取り敢えず手足も首!も切断されていないし、焼き印も押されていない。手枷や足枷も付けられていない。
車はあるビルの駐車場に入って駐車する。
「ここは?」
「主人の命令である。今日からここで働きなさい」
「あ、はい」
それでイリヤは奴隷!を連れてビルの中に入った。むろんイリヤも奴隷も三層の不織布マスクを付けている。校長室に入る。
「こんにちは、峰川です」
「こんにちは、ようこそ高梨学園へ。お待ちしておりました。校長の高岩です」
と品のいい女性がにこやかに挨拶し、イリヤたちとエア握手した。向こうもマスクを付けているから年齢がよく分からないが50歳前後のような気がした。
ソファを勧められるので、ビジネススーツ姿のイリヤと、比較的フォーマルなドレス姿の旅世が座る。事務の20代男性!がコーヒーとお菓子を出してくれる。
「それでは、今日からこちらの“峰川旅子”をお願いします」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。3月に高校を定年退職なさったんですね」
「そうです。高校と中学の1級教諭免許(現在の専修免許相当)を所持しています。数学が本来の専門ですが、理科も科目追加しているので教えることができます。免許はありませんが、英語や古典も専門の教員並みの知識を持っています。毎年センター試験、今年からは大学入学共通テストになりましたが、解いていますが、全教科ほぼ全問正解しているみたいですね」
とイリヤが奴隷!に代わって説明する。
「それは頼もしい。大手と違って、うちのような予備校では、複数のジャンルを教えられる先生は大いに助かるんですよ。授業のスケジュールが組みやすいですし、そもそも関連する分野の話まで授業ですることができて、生徒が物事を連関して理解することができるんですよね」
「やはり解析学とニュートン物理学は凄く繋がっているし、そもそも物理の問題の多くが三角関数と一次代数方程式にベクトル演算で解けるし、漢文と英語って意外に考え方が近いし、地学と地理とかも深く関わり合ってますよね」
とイリヤ。
「そうなんですよ。そのあたりが片方しか分からない先生だと生徒も知識が分断してしまうんです」
と校長先生は言っている。
旅世はとても不安だったので尋ねてみた。
「あのぉ、私の性別のことは聞いておられますでしょうか」
「ええ。聞いてますよ。性別なんて個人的なことですから問題ありません。それにうちは男女同給ですし」
「分かりました」
「結婚なさっているので法的な性別は変更できないのだそうですね」
「確かにそうです」
「お名前についても、給与振り込み先だけ戸籍上の名前で、普段の仕事は通称でよいと思います」
「ありがとうございます」
どうもイリヤが全部説明して了承を取ってくれているようだ。もっとも結構勝手な説明をしているみたいだぞと旅世は思った。でも奴隷としては御主人様のいいなりである!
今日、体調が悪くて欠勤になっている先生の代替講師を手配しなけれぱと思っていたということで、旅世はこの日早速、予備校の教壇に立つことになった。
「今日はバネの力学のお話の予定だったんですが、先生大丈夫ですよね?」
「ええ。バネだったら問題ありません」
と女声で答えながら、バネ定数、XY成分への分解、x = r cos(a) / y = r sin(a), 重力とのバランス、などといった項目を脳内で高速スキャンする。
「でもこの格好でいいのでしょうか?」
とドレスを着ている旅世は不安になるが、
「ジャージとかは困りますし、イブニングドレスとかも困りますが、その程度の服でしたら問題無いですよ」
と校長から言われて、そのまま教室に連れられていく。
大学院卒業以来36年間教壇に立っていたものの、女性の格好で教壇に立つのは初めてである。
校長に続いて入っていく。
感染対策で、入口の所で手をアルコール消毒する。教室のドアは自動ドアである。教室の窓は全開されている。生徒たちは“千鳥”状に着席している。つまり定員の半分で運用しているようだ。
校長先生が教壇に立って生徒たちに説明する。
「今日は加藤先生が病気でお休みなので、代わりに峰川旅子先生に物理の授業をお願いします」
旅世が教壇に立つ。
「紹介して頂いた、峰川旅子です。数学と理科が専門ですが、英語や国語を教えることもあるかも知れません。よろしくお願いします」
と(女声で)告げた。
「ランゼ先生よろしくー」
という声が教室の中からする。見ると昨年度まで自分が教えていた女子生徒・春川まゆみである。“ランゼ”は名前の“旅世”の“旅”からドイツ語のReise(ライゼ)になっていたのが、長い年月?の内に“ランゼ”に変化したものである。女性名っぽいので、もう20年くらい前から勤めていた学校の生徒たちの間で受け継がれていたニックネームである。
「春川さん、なんでここにいるの?」
と旅世は尋ねた。
「私、大学全滅しちゃった。1年浪人することになったから、先生よろしく」
「ありゃあ全滅か。だったら1年でちゃんと合格できるように頑張りなさい」
と言って旅世は
「授業を始めます。テキストの67ページを開いて」
と言い、この予備校での最初の授業を始めた。
最初は少し緊張したものの2〜3分もすると、普段の調子になる。女声での授業は高校でも結構やっていたから、喉の負担なども感じない。むしろ“改造”されたおかげか、男声より楽に出せる気がする。
それに自分は男の格好でも女の格好でも別に調子は変わらない。ついでに、男の身体でも女の身体でも大差無い気がする、と旅世は思った。
小浜でのアクアの写真撮影が10日(月)23時すぎに終わった後(*1)、私は助手さんたちの撤収作業を手伝ってあげていたのだが、山村マネージャーが走って来て
(*1)コスモスと鳥山の深夜の会議から22時間ほど経っている。
「会長、すぐ来て下さい」
と言う。何だろう?と思ったら、山村はアクアと私を“黒いインプレッサ”に乗せて、藍小浜まで連れて行った。
「桜井さんの付き添いは醍醐先生にお願いしました」
「あ、うん」
アクアが泊まっている特別室に入る。
「ちょっと変なことが起きますけど、細かいことは詮索しないで下さい」
「うん?」
と答えたら、突然周囲の様子が変わる。キョロキョロしていたら、
「こちらへ」
というので部屋の外に出る。
「ここは?」
「信濃町の§§ミュージックの倉庫です」
私は一瞬考えたが・・・いいことにした! なんかこの程度のことは日常茶飯事のような気もする。
事務所に入って行く。
「あれ?撮影が早く終わったの?」
と川崎ゆりこが驚いているが、コスモスは平然としている。
「駆け付けてきてくれて助かった。説明するから座って」
というので、アクア・私・山村はソファに座る。
コスモス、ゆりこ、それにΛΛテレビの鳥山プロデューサーがいる。
「じゃ状況を説明するね」
とコスモスは言った。
5日(水) ラピスラズリが大阪の番組に出る。
6-7(木金) ラピスラズリが京都でCM撮影
8日(土)夕方 熊谷に戻る。感染者発生の報告。ラピス隔離。PCR検査は陰性。
9日(日)シンデレラ撮影開始予定だった。
22時頃 コスモス事務所に戻る
24時頃 鳥山来社
10日(月) アクアは水着撮影。23時頃終了
23:30 コスモスが山村に連絡し至急帰京するように言う。山村はHonda-Jetを夜間に飛ばすつもりだったが、千里の判断で転送で東京に戻ることにする。
24時 アクア(F)・ケイ・山村が事務所に戻る。
「実は昨日からラピスラズリ主演で『シンデレラ』の撮影をする筈だったんだけど」
「はい」
「ラピスラズリが出演した番組でコロナ感染者が2名出て、番組の出演者とスタッフが全員濃厚接触者として2週間の隔離になった」
「わっ」
写真集の撮影に精神的な影響を与えないため、コスモスは撮影が終わるまで連絡しなかったのである。
「全員PCR検査して、最初に見つかった2人以外に4人も感染者が判明している。幸いにもラピスラズリも倉橋マネージャーも陰性だった。でも隔離期間中は活動ができない」
アクア(F)は凄く嫌な予感がした。
「放送日程は動かせない。ラピスが2週間後まで使えないから代役を起用する必要がある。でもラピスラズリ以上に人気のある人でないとスポンサーは納得しない。制作を中止すれば数千万円の損害が出る」
まさか・・・
「それで申し訳ないけど、アクア、東雲はるこの代わりにシンデレラをやってくれない?」
やはり!
「ちなみにシンデレラの姉は花咲ロンドがすることになった」
ボクはいいけど・・・とアクアFは悩む。
「私、女役だけのオファーはお断りしてるんですけど」
「基本的ににはそうだけど、今回は緊急事態だからさ」
とコスモス社長が言う。
アクアも考える。こういう場合は、他の事務所に迷惑をかけないよう、同じ事務所の中で代役を出して解決すべきだ。しかし人気のあるラピスに代われるとしたら自分か常滑真音しかいないだろう。でも舞音はまだドラマなどに出たことがない。演技力は未知数だ。となると結局自分がやるしかない。
しかしその時、アクアはあることに気が付く。
「私、今週末にライブがあるんですけど」
「うん。だからその日1日だけはアクア抜きで葉月を代理に使って撮影する」
ひぇー!?
でもボク、ライブの前にはたくさん練習したいよぉ。
「それとね、アクア君が女役だけの仕事は受けないと言うから、急遽シナリオを書き換えて、シンデレラは男の子だったことにしたから」
と鳥山さんが言う。
「男の子じゃ王子と結婚できないじゃないですか!」
とアクアFは言った。
まさか同性愛なのか?しかしどっちみち男同士では世継ぎを作れないぞ。まさか性転換させられたりして。「我が国には良い医者がいる」とか言われて!?
「こういうストーリーにしたんだよ。今日1日でシナリオ書き換えた」
と鳥山さんは説明した。
「ある所に貿易商人が居て、美人の女性と結婚した。やがて可愛い女の子が生まれた。夫婦はその子にシンデレラ(Cinderella)という名前を付けた」
「やはり女なんですか?」
「まあ聞いてて」
「はい」
「商人は跡継ぎの男の子が欲しかったが、その後子供は生まれなかった。そして奥さんは病気で亡くなってしまう」
「商人は愛する妻を亡くして泣いたが、跡継ぎも欲しかったなあと思った。するとシンデレラがある日、父のところに来て言った」
『私が跡継ぎになるよ。商売の仕方とか、航海のこととか教えて』
『女の子にそんなこと教えられないよ』
『だったら、ボク今日から男になる』
と言って、シンデレラは長い髪をバッサリ切った。
『おい』
『お父さん、ボクに男の服をくれない?』
『分かった』
それでシンデレラはその日から男の格好をし、名前もシンドルと改めて、父と一緒に貿易の仕事をするようになった。
Cinderellaという名前は元々Cinder-ellaという構造で、Cinder(シンドル)という名前に女性を表す ella という語尾が付いたものである。それでその語尾を外して男名前にしたのである(*2).
(*2)“シンデレラ”という名前の語源説として実際こういう説が存在する。
シンドルが父と一緒に仕事に出ていくと
『こんな立派な息子さんがいたんですか?』
と仕事仲間から言われる。
『まだ小さいから外に出してなかったんだよ。でもこいつも10歳になったからそろそろ商売のことも覚えさせようと思って』
『へー。でも女の子にしてしまいたいくらい、可愛い息子さんですね』
『まだ男らしくなくて困ったもんだけどな』
そんなことを言われながらも、シンデレラ改めシンドルは一所懸命働き、商売の仕方も覚えた。また毎年1度インドまで父と一緒に航海もしたが、シンドルは船の上でも大活躍であった。彼は特に風を読むのがうまく、彼が乗船するようになってから、船はめったに嵐に遭うことがなくなった。
それでシンドルは“風のシンドル”=Cinder baad “シンドルバッド”と呼ばれるようになった。
「どうして唐突にアラビアンナイトなんです?」
「まあまあ」
『だけどお前よく立って小便できるな』
『だってボク男の子だから』
『・・・・まさかお前、ちんこあるの?』
『秘密』
シンドル・バッドが15歳になった時、父は友人の勧めで再婚した。シンドルとしては新たな母を迎えるのには多少の抵抗があったものの、父も5年我慢したんだし、まあいいかと思った。
それでシンドルは新しい母、そしてその母の連れ子の娘(17歳)とできるだけ仲良くするようにした。
『へー。優しい顔の息子さんなのね』
『なんかドレス着せたら女の子で通りそう。私より美人になるかも』
『ごめーん。全然男らしくないと言われる』
とシンドルは母と姉に笑顔で答えた。どうも父は自分のことは息子で通すつもりのようだなと思い、シンドルも息子としてふるまった。
2年後、シンドルが17歳の年、父は商売のため新たな航海に出るが、この年、シンドルは留守番を命じられた。実は国王の宮殿の改築があり、その宮殿に使用する装飾品を見繕う仕事を任せられたのである。
『航海、ボクがいなくても大丈夫』
『心配するな。俺も20年海の男をしていたんだから』
ところが、“風読み”のシンドルが乗っていなかった船は嵐に逢い、沈んでしまった。1人だけ、何とか他の船に救助されて帰還した父の部下からその報告を受け、シンドルも母も泣き崩れた。
『お母さん泣かないで。ボクたちで助け合って生きていこう。仕事はボクが後を継いで頑張るから』
シンドルは自分も涙が止まらないのに、悲嘆にくれる母を慰めた。
シンドルは今回の航海で亡くなった部下たちの遺族の家を訪れ、死なせてしまったことを詫びて、各々に充分な補償金も渡した。遺族の中で後を継ぎたいと言った息子たちがいたので、彼らを新たに雇い、シンドルは商売を再建した。翌年には新しい船を作って自らインドまで航海し、たくさんの輸入品を積んで戻った。
シンドルが19歳になった年、国王が「王子の結婚相手を決めるパーティーを開く」と発表した。
そのパーティーには未婚でさえあれば、国中の娘が参加できるということだった。
『王子様の相手なんて、どこかの有力なお姫様かお嬢様に既に決まっているんじゃないの?』
とシンドルは疑問を呈すが、母は
『相手は決まっていると思うよ。でもきっと、全国民の中から選んだという建前を取りたいのよ。ひょっとしたら、貴族身分ではなく、軍人か何かの娘で、平民の身分の女なので、こういう形を取るのかもね』
と言う。
『ああ、それはあり得るよね』
とシンドルも答えた。
パーティーは3日間開催され、その最終日にお相手が発表されるらしい。姉は自分が指名されることはないだろうけど、華やかなパーティーに出たいというので、シンドルが用意してあげた豪華なドレスを着せ、可愛くお化粧もして、付き添いの母と一緒にパーティーへ出かけていった。
それを見送ってシンドルは呟いた。
『王子の相手を決めるパーティーか。さぞ賑やかなパーティーなんだろうなあ』
そんなことを言いながらもシンドルは商売の帳簿を付けていたが唐突に涙が出て来た。
『もしボクが女の子なら、ボクだってパーティーに行けるのに』
シンドルは10歳の時からもう9年間も男として生きてきたので、男の意識でいるつもりだったが、唐突に眠っていた女の意識が動いてしまったようである。
『でもボク、パーティーに行くような女物のドレスなんて持ってないし』
9年間の男としての生活で、シンドルは女の服など1枚も無くなっていた。
『女の子に戻りたくなったのかい?』
という声がするので見ると、それは小さい頃からの友人で、シンドルが女の子の“シンデレラ”として暮らしていた頃から仲の良かった、サンドラだった。
『サンドラはパーティーに行かないの?』
『私と一緒に行かない?洋服も貸してあげるよ』
『でも王子様のお妃選びなんて・・・』
『別にいいじゃん。パーティーに出席する人で、マジで王子様に見初められようって子は居ないって。みんな国王主催の豪華なパーティーに興味があるだけだよ』
『そうかもね』
『女でさえあれば自由に宮殿内に入れるんだから、行ってみるに限るって』
『でもボク男だし』
『建前は男だろうけど、中身は女じゃん。“シンデレラ”はちゃんと女物の服を着れば女に見えるよ』
「あのぉ。このセリフ凄くひっかかるんですが」
とアクアは文句を言う。
「気にしない、気にしない」
と鳥山さん。
それでシンドルはサンドラから青いドレスを貸してもらい、お化粧もしてもらった。長い髪のウィッグもつけさせられる。そしてサファイアの首飾りをつけた。
『高そうな首飾り』
『これあんたのお母さんの形見』
『え?』
シンデレラは母の形見と聞いて涙が出て来た。
『あぁん、泣き虫だね。お化粧のやり直し』
『ごめん』
しかし一度泣いたことから、シンドルは女の子らしい気分になってしまった。鏡に全身を映してみると、そこにはまだ16-17歳でも通りそうな美少女の姿がある。
『シンデレラの復活だね』
『なんか女装の変態男になった気分』
『女に戻ったの9年ぶりだしね』
とサンドラは笑っていた。
『でもだいぶ遅くなったよ』
『馬車で行けば平気』
サンドラから渡された銀の靴を履き、一緒に表に出ると、2頭立ての立派な馬車が停まっている。シンデレラはサンドラと一緒に馬車に乗り込んだ。馬車は軽快に走り、あっという間に王宮に到着した。
宮殿の門を入った所に馬車駐めがあるので、そこに駐めて降りる。そして宮殿の建物の中に入った。パーティーはまだ始まって間もない感じだった。
招待されたのは女だけと思ったら男性もわりとたくさんいる。
『どうも王子様のお妃選びに合わせて、貴族の息子たちも自分のお相手を見つけようということみたいね』
『へー。じゃ王子様じゃなくても、貴族の息子に見初められる可能性もあるんだ?』
『シンデレラ、やはりあんた誰かのお嫁さんになりたくなったね』
『そんなこと無いよ!ボクは男だよ。それにボクはお母ちゃんとお姉ちゃんを養っていかないといけないし』
『ふふふ』
とサンドラは笑ったが、彼女がなぜ笑ったのか、シンデレラは分からなかった。
豪華な料理も出ているので、適当に摘まんで食べる。お酒も出ている。シンデレラは実はまだお酒を飲んだことが無かったが、サンドラに唆されて口を付けてみた。
『凄い変な気分』
『あはは。酔ったね』
本当にシンデレラは1口飲んだだけで酔ってしまったようで、足下がふらふらする。それでうっかり身体のバランスを崩して倒れそうになるが、それを誰かが支えてくれた。
『すみません』
『大丈夫?』
と背の高い男性がシンデレラに言った。
『はい。ありがとうございます』
『君可愛いね。ボクと踊らない?』
『あ、はい』
それでシンデレラはその男性と踊り始めた。踊りなんて習ったことがないので、どうすればいいのかさっぱり分からなかったが、彼がうまくリードしてくれるので何とかなった。
しばらく踊っている内に時計がもう11時半になっているのに気付く。あまり遅くなると、母と姉が帰ってきてしまう。自分の女装を母たちに見られる訳にはいかない。
『済みません。そろそろ帰らないと』
『そう?明日も来るよね』
『どうしよう?』
とシンデレラはためらうが、サンドラが傍から言った。
『フレデリック殿下(Votre Altesse Frederic)。大丈夫ですよ。明日もこの子連れて参りますから』
『うん。頼む。じゃ明日(A demain)』
それで彼はシンデレラを解放してくれたので、シンデレラはサンドラと一緒に宮殿を出て馬車に乗った。馬車がシンデレラの自宅に向かう。
『サンドラ、あの人にフレデリックとか言ってたね。知ってる人?』
シンデレラはサンドラが“フレデリック”の前に殿下(votre atlesse)と言ったのを聞き漏らしていた。
『まあ彼を知ってる人は多いね』
『どこかの貴族の息子さん?』
『あ、シンデレラ、あの人を好きになったね』
『そういう訳じゃ無いけど』
シンデレラはもう馬車の中でドレスを脱ぎ男の服を着て、ウィッグも外し、お化粧も落とした。
『ずっと女の格好してればいいのに』
『そういう訳にはいかないよ。ボクが女の子になったら、みんなびっくりする』
『そうかなあ。みんな、やはり君は女だったのかと言うと思うよ』
「あのぉ、このセリフも凄く引っかかるんですけど」
とアクア。
「気のせい、気のせい」
と鳥山。
家に着くと、シンドルは部屋の暖炉を焚き、母や姉が飲むかもと思って、インドで買ってきたアッサムのお茶も入れた。
やがて母と姉が帰ってくる。
『お帰り。お疲れ様。どうだった?』
『素敵なパーティーだったわあ』
『王子様は色々なお嬢さんと踊ってたけど、最後にひときわ可愛い女の子と30分くらい踊っていたよ』
『その人が本命?』
『かもねー。その子が帰った後はずっと席に座っていたし』
『ふーん』
『でもお料理も素敵だったわあ』
『へー』
『シンドルも女の子だったら連れて行きたかったよ』
『あはは。ドレス着てみようかな』
『マジで女の格好してみる?』
『女装罪で逮捕されたら困るからやめとく』
と言いながら、よくボク今日は逮捕されなかったなと思った。
シンドルが用意したインド紅茶を「美味しい美味しい」と言って飲んで、母と姉は寝た。シンドルはつい微笑んだ。
翌日、また母と姉は出かけて行った。そして母たちが出かけてすぐ、サンドラがやってきて、ウィッグをかぶせ、女の服を着せて、“男の子シンドル”を“女の子シンデレラ”に変身させる。今日は赤いドレスにルビーの首飾りをつける。そして今日は金の靴を履いた。
『この首飾りもあんたのお母さんの形見だよ』
『そんなのが残ってたなんて』
今日はシンデレラは泣かなかったが、やはり実母のことを思い出すと女の子らしい気分になった。
今日も馬車で出かける。昨日の馬車は2頭立てだったが今日のは4頭立てで昨日のより立派である。
馬車は昨日より少し奥の大きな馬車がたくさん駐めてある所に駐める。
「ここ貴族様専用じゃないの?」
「大丈夫、大丈夫」
馬車から降りて宮殿の中に入る。フレデリックがすぐにこちらを見つけてやってきた。
『踊ろう』
『はい、フレデリック』
『君の名前を聞き忘れていた』
『シンデレラです』
『可愛い名前だ』
その日、シンデレラは時々休みながらもひたすらフレデリックと踊っていた。
やがて11時半になる。帰らなければ母たちが帰宅する。
『済みません。今日はこのあたりで』
『明日も来るよね?』
シンデレラがサンドラを見ると彼女は頷いている。
『参ります』
『待っているよ』
それでシンデレラは宮殿を退出し、馬車に乗って帰宅した。
シンドルはまた暖炉を入れて、今日は中国の祁門(キーマン)茶を入れておいた。やがて母と姉が戻って来る。
『お疲れ様』
『今日は王子様はずっとひとりのお嬢さんと踊っていたよ』
『へー!』
『昨日最後に踊った人。可愛い子だったわあ』
『ずっとその人と踊っていたということはその人と結婚するのかな』
『そうだと思うよ。それで明日発表するんだと思う』
ボクも今日はずっとフレデリックと踊っていたけど、彼から結婚してと言われたらどうしよう?とシンドルは悩んだ。ボクが女の子になっちゃったら、商売も困るし、お母さんたちも困るしと考えると、女に戻る訳にはいかないと思った。
そして3日目、母と姉が出かけていく。シンドルはサンドラがくるのを待った。ところが・・・
『あれ?』
『今日はサンドラは休みなんだよ。代わりに私が来た』
『サンドラの・・・お母さんでしたっけ?』
『取り敢えずあんたを女の子に変身させるよ』
と言うと、サンドラの母は小さな杖のようなものを取り出すと、シンドルの前でそれを振った。
髪が伸びた?
『短い髪ではまるで男みたいだからね。女はこのくらい髪が無くちゃ。服も変えよう』
と言って杖を振ると、仕事用のシャツとズボンがあっという間に真っ白なドレスに変化する。
『わっわっわ』
『今日はこれを付けなさい』
と言って、ダイヤモンドの首飾りを渡す。
『これはあんたのお母ちゃんが、お父ちゃんと結婚式をあげた時につけた首飾りだよ』
『わあ』
『今日の馬車はこれにしよう』
と言って、サンドラの母は台所にころがっていたカボチャを取ると。それに杖を当てる。するとかぼちゃが豪華な馬車に変身した。
『昨日のより一昨日のより大きい』
『昨日の馬車はりんごで、一昨日のはみかんだったからね』
『そうだったの!?』
『御者と馬が必要ね』
というとサンドラの母は台所にいる大きなネズミと小さなネズミを捕まえ、それに杖を当てて6頭の馬と御者にしてしまった。
『まるで魔法みたい』
『魔法だよ』
『そうだったんですか?』
『今日も11時半で帰っておいで』
『はい、そうしないと母たちが帰宅しますし』
『万一12時を過ぎると魔法が解けて、ドレスも男物の服に戻るし、馬車もかぼちゃに戻るから』
『それは大変』
サンドラの母がシンデレラに可愛くお化粧をしてくれた。そして今日は透明な靴を渡される。
『これは?』
『ガラスの靴だね』
『ガラスでできた靴なんて初めて見た!』
しかしその靴はピタリとシンデレラの足にフィットした。
『これ結構履きやすい』
『あんたの足にピタリの形に作られているからね』
『へー。それも魔法?』
『魔法でもなきゃビタリと填まる靴にはならない。世界中であんただけに合う靴さ』
『へー』
それでシンデレラは今日はひとりで馬車に乗って、お城へ出かけた。馬車は宮殿に着くと、昨日までのように馬車駐めではなく、建物のそばまで進む。
『いいの?』
と御者に訊くと
『平気、平気』
とネズミの御者は言っている。
建物の前でシンデレラが降りると、そこにフレデリックが待っていた。
『シンデレラ待っていたよ。今日も踊ろう』
『はい、フレデリック』
それでフレデリックはシンデレラの手を引いて宮殿の中に入っていった。そして、ふたりは踊り始めた。
フレデリックとは話が弾んだ。
『へー、君はインドに行ってきたことがあるのか』
『はい。10歳の頃から毎年のように行き来してます』
『それでかな。凄くしっかりした感じ』
『女らしくなくてごめんなさい』
『いや、君はとても女らしいと思う』
シンデレラがインドの様々な様子、また航海中に起きたことなどを話すとフレデリックは興味深そうに聴いていた。
あっという間に時間が過ぎて、11:30になる。
『ごめんなさい。11:30になったから帰りますね』
『帰さないよ』
『え?』
『今日は朝まで一緒にいて欲しい』
『ちょっと待ってぇ』
シンデレラは彼の手を振り解こうとしたものの、彼は放してくれない。
『このまま僕の妻になって欲しい』
『妻になるのはいいけど、今日は帰りたい』
『だから帰さないって』
自分が結婚に同意してしまったことにも気付かないほど焦りながらシンデレラはフレデリックと踊っていた。でもこのままだと12時になると魔法が解ける。
11:50。音楽が停まる。
『シンデレラ、こちらに来て』
『はい』
それでシンデレラは不安な気持ちを抱えたままフレデリックと一緒に広間の奥の方に行く。
玉座!?
王様とお妃様が座っている。
『フレデリック、相手が決まったようだね』
『はい、陛下。このシンデレラに決めました』
『おお、それは可愛い子だ』
待って。なんでフレデリックは国王とこんなに親しそうに話しているの?
王様が立ち上がる。
『皆の者。フレデリック王子の結婚相手が決まった。この娘である』
と王様が言った。
王子(Prince)!??
何だったっけ、それ?
シンデレラは頭の中が混乱した。
『シンデレラ、この指輪を受け取って』
と言って、フレデリックはシンデレラの左手を取ると、その薬指に大きなダイヤの指輪を填めた。
待って、待って、これどうなってるの?
シンデレラは状況が飲み込めずに混乱した。
その時、広間の時計が12時を告げる鐘を鳴らし始めた。
シンデレラは我に返った。
シンデレラの指に指輪を填めるためにフレデリックの手が自分から離れているのを認識し、シンデレラは走り始めた。
『あ、待って』
と言ってフレデリックが追いかけてくる。
時計の鐘が鳴る。3つ。4つ。。。。
フレデリックが追いかけてくるが、捉まったら大変なことになるのでシンデレラは必死で走った。階段を駆け下りる時に、靴が片方脱げてしまった。しかし構っていられない。もう片方の靴も脱いで手に持ち、裸足で階段を駆け下りる。そして、馬車に飛び乗る。
『出して』
『へい』
ネズミの御者が馬車をスタートさせる。もう十二時の鐘は10個まで鳴ってしまった。
そして、お城の門を出た所で最後の12個目の鐘が鳴った。
魔法が解ける。
馬車がかぼちゃに戻る。御者が大ネズミに、6頭の馬は小ネズミになってどこかに走って行ってしまう。道に投げ出されたシンドルは自分が男の格好に戻っていることに気付いた。
『逃げよう』
シンドルはガラスの靴の片方を抱えたまま、大急ぎで家に走り戻った。
フレデリック王子は必死でシンデレラの馬車を追いかけたものの、門を出た所で見失う。
『どこに行ったんだ?』
王子があたりを見回すが、それらしき馬車は見ない。ひとり若い男が走って行くのが目に入っただけであった。
シンドルは何とか家に帰り着く。幸いにもまだ母と姉は帰宅していないようだ。暖炉に火を入れ、急いで顔のお化粧を落とす。昨日・一昨日と化粧を落としたので、やり方は分かっている。
『あれ〜?髪が長いままだ』
仕方ないので、髪は服の背中の中に押し込んで隠した。左手薬指に指輪をしていることにも気付いたので、外してポケットに入れる。
そしてお湯を沸かしていたら、母と姉が帰宅した。
『お帰り。今日は遙か東の国の日本のお茶だよ』
と言って、シンドルは母と姉に日本の宇治産のお茶を入れてあげた。
『日本って黄金の国とかいうの?』
『そうそう。金が豊かだから、家も金で出来てて、道路にも金が敷きつめられていて、人々が着てる服まで金でできているらしいよ』
『すごいなあ。シンドルも行ったことあるの?』
『まだ日本までは行ったことない。その手前のシャムまでは1度行ったんだけどね』
『でもどうしたのかしらねえ』
と母と姉が言っている。
『何かあったの?』
『王子様のお相手が決まって発表しようとしたんだけどさ、相手のお嬢さんが逃げ出しちゃって』
『なんで?』
『恥ずかしくなったのかもね。平民の娘さんだから王子と結婚するという話に急に恐くなったのかも』
『ああ、なるほどね』
ボク、恐くなるも何も、フレデリックが王子様だったなんて知らなかったよぉ、とシンドルは思っていた。
王様はパーティーで王子とずっと踊っていた娘の消息を求めた。主だった貴族、軍人などの娘に該当する者がいないか調べさせるが、誰もその娘のことを知らなかった。王様は国民一般に情報提供を求めたが、娘の行方も身元も全く分からなかった。外国の王室の姫君ではというので、隣国に照会するも、やはり分からない。
その内誰からともなく、娘が落として行った“ガラスの靴”(Pantoufle de verre, Glass slipper) が、とても可愛くて、こんな可愛い形の足をした娘は、まず居ないのではないかという意見が出る。
学者たちの意見を聞いた。
そもそもガラスで靴を作るというのは異例だ。革の靴は伸び縮みするから、多くの人に合うがガラスは伸縮しないから完全にその人の足の形に合わせて作る必要がある。つまり、この靴に足が合う人は本人以外には少ないだろう。
しかも娘はこの靴で走ったのに割れなかった。これは石英成分の多い材料でかなりの高温で熔融したたものと思われる。透明度も高いし、ヴェネツィアの腕の良い職人の手によるものだろう。
靴のサイズは一般的な女性のサイズではあるものの、フォルムが美しい。足のアーチがとてもしっかりしていて、これは小さい頃からたくさん歩き回っている女性でないとあり得ないという。
そのような意見を聞いて王子は「彼女は小さい頃から何度もインドに行っていたと言っていた。それでたくさん歩いたのだと思う」と言った。これでほとんどの貴族の娘が脱落した。貴族の娘はあまり運動しないので、いわゆる扁平足が多い。
『平民であることは間違い無い』
『たぶん豊かな商人の娘だと思う』
『身分違いを恐れて名乗り出ないのかも』
『王子が追ったのから逃げ切ったのだから、とても運動能力の高い娘だ』
『そういう娘はきっと丈夫なお世継ぎを産んでくれますよ』
確かに母がひ弱だと子供もひ弱になりやすい。
それで
『この靴がピタリと合う女性を探してみてはどうでしょう?』
という意見が出るので、王様はすぐにこのガラスの靴のレプリカを多数作らせ、それを家来に持たせて、国中に派遣した。
そして、全ての20歳以下の女はこの靴が合うかどうか試してみることとしたのである。
やがて、シンドルの家にも王様の使いが来た。
『この家の娘は?』
『ひとり居ますが』
『この靴を履いてみて』
と言ってレプリカの靴を渡される。姉は履こうとしたが、入らない!姉の足はこの靴には大きすぎるのである。
『だめなようですね』
と言って帰ろうとしたが、その時家来は、ドアの向こうから覗き見するように見ていたシンドルに気がつく。
『その子は?』
『それは、うちの息子ですが』
『男の子かぁ!残念。いや一瞬女の子かと思ったよ』
『この子、顔立ちが優しいから、しばしば女の子と間違われたりするんですよ。でも優しい顔に似合わず、毎年海を渡ってインドまで行って香辛料とかお茶とか染料とか宝石・貴金属を買い付けてくるんですよ(*3)』
(*3) 他の物語でも書いたが昔の西洋で青の染料はラピスラズリを粉砕したウルトラマリンしかなく、ラピスラズリはアフガニスタンでしか産出しないので極めて高価だった。つまり初日に着た青のドレスはとてもレアな品である。しかし貿易商人のシンドルはアフガニスタンのラピスラズリも入手できるし、もっと安価な東洋のインディゴも入手できて、青のドレスを容易に作ることができた。赤い染料はカメ虫を粉末化したものから作られるケルメスやコチニールだが、これもスペインが南米に進出してサボテンでエンジ虫を大量養殖するまでは高価なものだった。
『インド?』
『はい?』
『君、インドに行くの?』
『そうですね。これまで7回行ったかな』
とシンドルは答える。
王様の家来は“インド”という言葉に引っかかりを覚えた。王子が娘はインドに何度も行ったと聞いた、と言っていたではないか。
『ね、君、この靴をちょっと履いてみない?念のため』
『男の子にも履かせるの〜?』
と母が驚いているが、シンドルはどうも年貢の納め時のようだと思った。
ドアの所からこちらに入ってくると、足をレプリカの靴に入れる。
ビタリと納まる。
『おぉ!』
と家来。
『うっそー!?』
と母・姉。
シンドル、いや、シンデレラは服の中に隠していた長い髪を外に出した。
『あんた、そんなに髪長かったっけ?』
いつの間にかサンドラが家の中に入ってきている、
『これあげる』
と言って、白いドレスを渡すので、シンデレラは男物の服の上からそのドレスを着た。誰が見ても女にしか見えない姿になる。
『おお、まさしくあなたは王子が選んだ人だ』
シンデレラは微笑んでガラスの靴の片方を家来に見せた。
『おお、これがあの靴の片割れですね』
そして指輪も見せる。
『これを王子様から頂きましたけど、私、あの方が王子様だなんて全然知らなくて。それで混乱してしまって逃げちゃった。ごめんなさい』
とシンデレラは言った。
『いや、お気持ちは分かります。すぐこちらに馬車を寄こします。どうぞ宮殿においでください。お母様とお姉様も一緒に』
と家来は言う。
『でもあんた男なのでは?』
と母が言ったが、シンデレラは微笑んで答えた。
『ごめんね。私本当は女の子だったの』
と言って、シンデレラは母の手を自分の胸に触らせた。
「あのぉ、このラストのセリフ、とってもとっても、引っかかりを覚えるんですけど」
とアクアは鳥山に言った。
「大丈夫だよ。これはあくまで絵本の中のお話だから」
と鳥山は平然として答えた。
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【夏の日の想い出・星導きし恋人】(1)