【春花】(7)

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千里1のお遍路は大詰めにさしかかっていた。10月15日も天気が良かったので朝から宿近くの札所にお参りし、その後高松市からさぬき市の札所を打って回る。
 
宿の近くの83一宮寺(8:00)
13.6km(130分)歩いて84屋島寺(10:45)
5.4km(45分)歩いて85八栗寺(12:10)
6.5km(65分)歩いて86志度寺(13:55)
7.0km(70分)歩いて87長尾寺(15:40)
15.1km(150分)歩いて宿泊(18:45)
 
屋島寺は源平の屋島の戦いが行われた屋島の山上に建つお寺である。源平ゆかりの遺物なども多数残る。
 
「豫州ってキチガイだと思ったよ」
と《こうちゃん》は言った。
 
「あいつらの兵はほんの30-40人だった。こちらは本隊が河野通信と戦いに出て留守にしていたものの、それでも帝(みかど)の守備兵は300人はいた。しかしわずか30-40騎でその300人に挑んできた」
 
千里は静かに聞いている。
 
「大将の豫州が先頭に立って攻めてきた。教経(のりつね)殿が弓で迎撃して、その先頭に立っている豫州を撃とうとした。でも近くを走っていた部下が豫州をかばうようにして矢に倒れた。後で確認したら腹心の佐藤継信だったようだ。他にも何人か身代わりになって倒れたが、それでも豫州や弁慶は飛んでくる矢を刀で払いながら突撃して、帝のおられる船まであと10mくらいまで来た」
 
「さすがにこれはまずいのではと時忠殿がおっしゃって、檀ノ浦(*8)から脱出することにした。水手(かこ)たちが怖がっていたけど、野蛮人の源氏もさすがにお前たちを撃つことはないと時忠殿がおっしゃって、それで船を漕ぎ始めたけど、確かにやつらも非戦闘員の水手(かこ)は撃たなかったよ」
と《こうちゃん》は懐かしむような顔で語る。
 
(当時都で貴族化していた平氏から見ると、“未開の地”関東の源氏は何をするか分からない野蛮人というイメージである)
 
「沖合まで脱出した所で遠くに白旗を立てた伊豫水軍の影を見た。時忠殿の決断があと少し遅かったら、全滅していた。姫帝も長門の壇ノ浦ではなく、讃岐の檀ノ浦で龍宮に行かれることになったかも知れん」
 
千里は《こうちゃん》の言葉が気になった。
 
「姫帝(ひめみかど)と言った気がしたけど、安徳天皇ってやはり女の子だったの?」
「あわわ、聞かなかったことにしてくれ」
と《こうちゃん》は慌てて言った。
 
(*8)こうちゃんも語っているように土篇の壇ノ浦は山口県西端、木偏の檀ノ浦は香川県の屋島東岸の地名。紛らわしい名前である。
 

次の札所・八栗寺に行く途中、その檀ノ浦を通るので、千里は海に向かって般若心経を唱えた。
 
87番長尾寺は静御前が鎌倉で解放された後、この地に来たという伝説がある。なぜわざわざ四国のこんな所まで来たのだろう?と思った時、さっき《こうちゃん》が語ったことを思い出した。
 
「もしかして静御前って屋島の戦いに参加していた?」
「すげー女武者が1人いたよ。こちらの兵があいつ1人に10人くらい斬られた。あるいはそいつかもな」
 
「義経の率いていた30-40人って凄い精鋭だったんだ?」
「だと思うよ。台風の海を渡って四国まで来るような奴らだから。さすがにそのこと自体に俺たちは度肝を抜かれた。まあその女武者が10人分なら弁慶や千光坊は100人分だった」
「凄いね!」
 
この日は長尾寺から更に“次の札所”の傍まで歩き、近くの旅館に泊まった。
 
10月15日の行程47.6km
 

10月16日(水)も晴れだった。
 
千里は宿の近くにある88番札所・大窪寺にお参りした。納経してここまで87個の御朱印を頂いた掛軸に88番目の御朱印を頂く。これで88ヶ所全ての札所を打ったことになる。それでここで“結願証明書”も頂いた。
 
大窪寺に1時間半ほど滞在した後、38.8kmを歩いて1番札所・霊山寺まで行った。ここで改めて納経し、88個押された御朱印を見せて“四国八十八ヶ所霊場満願之証”を頂いた。これで四国霊場を一周したことになるので、千里はモードを“オフ”にした。
 
これでお遍路ではなくただ1人の普通の女に戻る。
 
宿の近くの88大窪寺(8:00)
38.8km(6時間)歩いて1.霊山寺(15:30)
 
本日のお遍路としての行程38.8km
9月16日霊山寺を出て以来の行程1156.7km(294.5里)
 

季里子たちは取り敢えず“友人の家”に転がり込んでから、着換えや最低必要な物資を買いに出ることにした。幸い都内は割とまともに動いている。
 
季里子の母に子供たち2人を見ていてもらい、父・季里子・夏樹の3人で出かける。父のCX-5, 季里子のデミオを出して郊外のホームセンターに行き、布団を2セット買ったが、布団に関しては翌日更にあと2セット買った。元々この友人宅に布団が3セットあったので、初日はプラス2セットあれば何とか寝られたのである(季里子・夏樹・父・母が1つずつ使い、子供2人は1つの布団を共用する)。
 
それから改めてまた出かける。父は食器や雑貨の類いを買いに、季里子と夏樹は着換えの類いを買いに行く。夏樹が男物の服を買おうとしていたので、季里子は唆した。
 
「男物なんてどうせ使わないじゃん。日常は女物しか着てないんでしょ?」
「そりゃそうだけど会社に行くのに男物も必要だから」
「女物の服で出て行けばいいじゃん。どうせバレてるんでしょ?」
「私の性的な傾向はバレてはいるけど、女物の服で出て行ったら叱られるよぉ」
「そこを強行突破で」
 
しかし季里子がうまく唆したので、結局夏樹は下着類は当然女物ばかりで、通勤服も、女性用ビジネススーツを買ってしまったのである。
 
「首になったらどうしよう?」
などと言っている。
 
「オカマバーに転職するとか」
「実は学生時代面接に行ったことあるんだけど、うちは女性は雇えないからと言って断られた」
「ああ・・・」
 

夏樹が女性用生理用品まで買っているので
「生理ごっこ?」
と季里子が尋ねると
「うん、見逃して」
と焦ったように夏樹は言った。
 
「別に構わないよ」
と季里子も応じた。
 

翌10月28日、夏樹は“友人宅”で季里子たちと一緒に朝御飯を食べたあと、女性用スーツを身に付け、お化粧はせずスッピンで、但し眉だけは整えて、会社に出かけた。季里子は勤めているマツダの販売店が大雨の被害でとても営業できない状況なので、最低限の復旧作業が終わるまで自宅待機ということになっている。それで季里子の父と2人で出かけたのだが
 
「古庄さん、女の子になっちゃったの?」
と父から尋ねられた。
「うまく季里子さんから乗せられちゃって。叱られたら男物に着替えるかも」
と夏樹は不安そうに言った。
 
それで会社に出て行くが、会社が入っているビルの玄関の所で同僚の女子社員と偶然遭遇する。
 
「お早う、古庄さん」
と声を掛けられる。ギクッとしながらも
「お早う、川端さん」
と挨拶を返す。
 
「雨の被害どうだった?」
と訊かれるので
「住んでいたアパートが崩れてた。取り敢えず友だちの所に泊めてもらっているんだよ」
「友だちって、男?女?」
「えっと、女かな」
「ああ、そうだよね」
と川端さんは言った。
 
「川端さんとこはどうだった?」
「うちは高台に家があるから何とか無事だったんだけど、電気もガスも水道も停まったまま」
「千葉は9月の台風15号以来、もう停電が常態化してるね」
「ほんと困ったもんだよね」
 
夏樹の服装のことは何も言われないまま、彼女とおしゃべりしながら会社のあるフロアまで行く。夏樹が男子更衣室に行こうとしたら、川端さんは夏樹の袖をつかんで停めた。
 
「こっちにおいでよ。誰も文句言わないよ」
と言って女子更衣室を指さす。
 
夏樹は少し考えてから答えた。
「使わせてもらおうかな」
 
それでこの日夏樹は女子更衣室で制服に着替えたのであった。なお靴は通勤にも使用したローファーを使用する。
 
この日、制服自体は男子更衣室に置かれている夏樹のロッカーから取ってきたが、着換えた通勤服は女子更衣室内の段ボール箱に入れた。翌日からはその段ボール箱に入れている制服に着替えるようになった。何人かの同僚女子と一緒になったが誰も文句は言わず、楽しく夏樹とおしゃべりしていた。
 
このようにして夏樹の“新しい生活”は始まった。
 

 
10月16日、霊山寺を出た千里は、板東駅まで0.7kmほどを歩き、電車に乗って徳島駅まで行き、市内の温泉宿に泊まった。そして温泉にゆっくり浸かって旅の疲れを癒やした。ちなみにこの温泉の脱衣場でも、千里は数人の入浴者と握手をした。お風呂に入った後は、お遍路衣装の洗濯を《たいちゃん》に頼み、普段着に着替えた。
 

翌日は昼近くまで寝ていて、その後起きだして徳島駅から電車に乗った。
 
徳島10/17 13:25-14:33高松14:40-15:32岡山15:56-16:35姫路
 
姫路駅からは《こうちゃん》に持って来てもらったハイゼットの助手席に乗って彼の運転で貴司の家に行く。この時間帯は貴司はまだ会社で仕事をしているし、美映はMM化学のバスケチームの練習指導!に出て行っている。
 
そして緩菜は放置されている!
 
この家の鍵は千里1も持っている。この家の建築を千里が播磨工務店の子たちに頼んだのが2016年12月で完成したのは2017年10月である。分裂した後だったのだが、話が混乱したりしないように《きーちゃん》は3人の千里に家の完成を報せ、ちゃんと全員に鍵を配っていた。
 
それで千里1もここの鍵を持っているのである。
 

千里が1階奥の“貴司の部屋”に入って行くと、緩菜(1歳2ヶ月)は自分で起き上がって“心の声”で千里に語りかけてきた。
 
『お母ちゃん、満願おめでとう』
『ありがとう。なかなか来れなくてごめんね』
と言って千里は緩菜を抱き上げるとしっかりと抱きしめてキスした。
 
『お母ちゃん、汗臭い』
『まあたくさん歩いているから仕方ない』
 
『お母ちゃん、瞬嶽さんから預かった“倉庫”の鍵が開いてるよ』
『え?ほんと?』
『私が閉めてあげるね』
と言って、緩菜は千里の心の奥にある“ドア”を閉め閂(かんぬき)を降ろしてしまった。
 
『これだとお母ちゃんが見つめただけで妖怪とかは粉砕されちゃうよ』
『へー。それも悪くないんじゃない?』
 
緩菜が『おっぱいもらってもいい?』などというので、千里は胸を出して緩菜に飲ませてあげた。緩菜は嬉しそうだった。緩菜がお腹空いたというのでオムライスを作ってあげたら美味しそうに食べていた。
 
千里は緩菜と3時間くらいおしゃべりしていたが、
『そろそろママ(美映)が戻ってくるから』
と言うので
『またね』
と言って、ずっと持って歩いた鈴をお遍路満願の記念に緩菜にプレゼントしてから退出した。
 

千里が姫路の細川邸を出た後で、《きーちゃん》《こうちゃん》《くうちゃん》の3人はこそこそと話し合った。
 
『封印掛かったよな?』
『掛かった。もう千里と握手しても性転換したりはしない』
『結局何だった訳?』
『緩菜はさっきの抱擁で性転換した。完全な女の子になった』
 
『ひょっとして緩菜を性転換させるのが目的だったのかも』
『用が済んだから封印された?』
『じゃ今まで性転換された人たちは?』
『巻き添えかもね』
『何て迷惑な!』
 
『でもほぼ全員喜んでいるよ』
『千里2と3が頑張ってフォローに回っていたけど、50人くらい性転換された中で元に戻りたいと言ったのは5人だけ』
 
『死ぬほど悩んでいた人たちが随分救済されたと思う』
『まあ歳末助け合い運動かな』
『それまだちょっと早いのでは?』
 
『だけど千里1が緩菜を抱いたのはこれが初めてじゃないのに』
『お誕生日の時はまだ緩菜自身が覚醒していなかった。だから自分は女の子になりたいという意志も不明確だった』
『そうか。性転換の意志の無い人に***の法は効かない』
『だから前回は作動しなかったのか』
 
『元々緩菜は10月に生まれる予定だった。だけど細川君が浮気して8月に生まれてしまった。だから本来の誕生日が来た所で覚醒したのかも』
 

彼らの報告を聞いて、ここまで散々振り回された千里2と千里3は言った。
 
「1番を一発ぶん殴りたい!」
「自分で自分を殴っても痛いだけだと思うぞ」
と《こうちゃん》は言った。
 

千里1はその後《こうちゃん》が運転するハイゼットの助手席でうとうとしながら市川町に移動した。
 
市川ラボでシャワーを浴びて汗を流す。お遍路衣装の洗濯は既に頼んでいたのだが、他の服も《たいちゃん》に『悪いけど洗濯しといて』と言ってスヤスヤ眠った。
 
「なんか千里、復活してから眷属使いが荒くなってないか?」
と《りくちゃん》。
「でも私は千里が復活してくれただけで嬉しいよ」
と《たいちゃん》は言いながら洗濯機を回した。
 

10/18 朝1番に普段着のまま市川ラボに駐めているバイク Gladius 400 に跨がり神戸まで走る。そして阿倍子の家に行く。千里に気付いて京平(4歳)が鍵を開け中に入れてくれた。
 
「お母ちゃん、お早う」
「おはよう、京平」
 
と言って抱きしめる(むろん性転換はしない!)。例によって阿倍子は寝ていて、京平はひとりで朝御飯を作ろうとしている所だったらしい。
 
「朝御飯ね。作ってあげるからテレビでも見てなよ」
「ありがとう。そうだ四国お遍路満願おめでとう」
「ありがとう。緩菜に鈴をあげたから、京平にはこの杖をあげるよ」
「これなんか凄い杖という気がする」
「確かに凄いかもね」
 
それで千里は京平にもオムライスを作ってあげた。美味しい美味しいと言って食べていた。それで1時間くらいおしゃべりしてから
「またね」
と言って家を出た。そして三ノ宮駅まで走った所で
 
『こうちゃん、このバイク市川に戻しといて』
と言ってバイクを降りると電車に乗った。
 
《こうちゃん》はぶつぶつ言いながらバイクに跨がっていた。
 

千里は今日はこのようなルートを辿る。
 
三ノ宮10/18 9:06(JR)9:28大阪/西梅田9:38-9:44なんば/南海難波10:00-11:25極楽橋11:34(ケーブルカー)11:39高野山/高野山駅前11:45(バス)12:06奥の院前
 
南海電車の中で《たいちゃん》が『お遍路衣装乾いたよ』と言って持って来てくれたので、着ているポロシャツの上にその衣装を着てしまった。
 
鈴と杖は緩菜と京平にあげてしまったので、お遍路衣装と菅傘だけで参道を歩き、奥の院まで行った。そしてここでも納経した上で掛軸最後の御朱印をもらった。これで納経軸の完成である。
 
奥の院には1時間ほど滞在してから山を下りる。
 
奥の院前15:22(バス)15:43高野山駅前/高野山15:52(ケーブルカー)15:57極楽橋16:06-16:53橋本17:10-17:58新今宮18:08-18:24大阪18:30-18:59京都
 
この日はそのまま京都駅近くのホワイトホテル!に泊まる(偶然にも予約が取れた)。
 
(ホワイトホテルは京都駅に近い有名な安ホテル。部屋数が少ないのでいつも旅慣れた人の予約で一杯である)
 

10月19日朝、ホワイトホテルで朝食を取るが、お遍路衣装なので、興味を持った他の客に訊かれる。
 
「歩いて一周してきたんですか!」
「すごーい!」
「後は東寺にお参りしてご報告するだけなんですよ」
「なんか握手してもらったら御利益ありそう」
というので、千里は何人もの泊まり客と握手した。
 
《こうちゃん》が面白くなさそうな顔をしているので千里1は何だろう?と思った。しかし千里2と千里3は握手した人たちに異変が見られなかったという報告を《きーちゃん》から聞いてホッとした!!
 
千里はホワイトホテルを出ると、そのまま東寺まで歩いて行き、お参りをしてから高野山まで入れて89の御朱印が押された掛軸を提示して“成満証”を頂いた。
 
これで千里1のお遍路は完全に終了した。
 

その日の新幹線で東京に移動し、千葉まで行って康子の家に行き、満願の報告をして仏檀にお線香をあげ、掛軸、お遍路衣装に菅傘は康子さんにあげた。
 
「もらっていいの?」
「お母さんの名代でお遍路してきたようなものですから」
「じゃもらっておくね。掛軸は表装してもらおう」
と言って、康子さんは衣装と菅傘を仏檀に供えていた。
 

千里はその日は康子さんの家に泊めてもらい、翌10月20日、とりあえず桃香が滞在している高岡の桃香の実家まで新幹線で移動した。
 
「お遍路満願おめでとう。全行程歩いたんだ?」
「はい。約1200km 300里かな」
と言って、89の御朱印が押された掛軸のカラーコピーを朋子に渡した。
 
「これコピーですけど、お母さんにあげますね」
「わあ、仏檀に飾っちゃおう」
「そうそう。出発の時、おにぎりありがとうございました」
「うん。お接待、お接待」
「南無大師遍照金剛。じゃ、お母さんにも納札1枚お渡ししますね」
 
「しかし歩きお遍路ってその間の食事と宿泊費が凄いんじゃないの?」
とちょうど来ていた、朋子の妹・典子さんが言う。
 
「そうなんですよ。だから歩きお遍路は実はいちばん贅沢だとも言われますね」
「どのくらい使った?」
「計算してないですけど、1日食費と宿泊費で7000円使ったとして30日間で21万円になるかな」
 
「ひぇー!」
と言っているのは桃香である。
 
それを見て青葉は先日の起工式で神主さんに210万円払ったと聞いたら桃姉は腰を抜かすだろうなと思った。
 

結局千里1はそのまましばらく高岡に滞在することになった。かなり身体が傷んでいるから、ヒーリングしてあげるよと青葉が言うので、そのヒーリングを受けるのもあった
 
もっとも青葉は10月24日には、短水路選手権に出場するのに東京に出ていき、千里と桃香が高岡に取り残される。
 
「でも私たちもそろそろ東京に戻ろうか」
「そうだな。だいぶ長居してしまったし」
 
それで週明けの10月28日(月)に帰ろうかと言っていたのだが、そこに飛び込んできたのが25日に千葉を襲った豪雨のニュースである。
 
当日は千葉の友人・知人と全く電話がつながらなかったが、千里は《こうちゃん》に様子を見てきてくれるよう頼んだ。すると、康子さんの家は元々低い所にあるので1階は完全に床上浸水したが、2階は無事で康子さんは2階に避難したまま孤立していたので、とりあえず食糧を投下してきたということだった。また千葉玉依姫神社にいたかもと思った後藤真知については、神社自体が高台にあるので無事ではあるが身動きが取れないようだったので、こちらにも食糧を投下してきたという。
 
「どこからともなく食糧が飛び込んで来たら変に思わないかな」
「きっと自衛隊が緊急投下してくれたんだと思うよ」
「ああ、そうかもね」
 
しかし康子さんは霊感無いから自衛隊と思うかも知れないけど、真知ちゃんは少し霊感があるから“龍が食糧を持って来てくれた”と思うかもね。まあそれで動じるような子ではないだろうけど。(八村塁に見えたというのはさすがに千里の想像外)
 
なお康子さんは仏檀の位牌とか、千里からもらった菅笠とお遍路衣装を持って2階に避難したらしい。掛軸は東京の表装屋さんに出していたので、結果的に無事だったらしい。
 
なお常総ラボに関しては被害は出ていないようだということだった。そちらを《びゃくちゃん》がチェックしていたら、隣の運動公園の人が来て、こちらの体育館だけでは足りないので、そちらにも避難民を入れさせてもらえないかということだったのでOKしたということだった。すぐそばで2つの避難所が使えることになったので、常総ラボは女性のみということにしたらしい。
 
避難所は男女を分けてくれるだけでもかなり避難した人のストレスが小さくなる。
 
また《びゃくちゃん》は、“ちょうどその辺にいた”《こうちゃん》に頼んで大量の食糧を調達してきてもらい
 
「これうちの備蓄ですけど良かったら」
と言って、避難してきた人たちに提供したら、歓声があがっていたらしい。
 

千里(千里1)と桃香は結局関東方面が少しは落ち着いたと思われた10月30日(水)になって新幹線で東京に出ていった。
 
千里は康子さんが心配だからと言って、東京駅から更に千葉に向かい、桃香は早月と由美を連れて小田急で経堂まで行く。
 
それで
「ただいまあ」
と言ってアパートのドアを開けたのだが・・・
 
「何これ!?」
と絶叫する。
 
「すみません、お邪魔してます」
と季里子が言った。
 
桃香は室内に多数の人間がいるので唖然としていた。
 

 
取り敢えずこの狭い1DKのアパートにこの時点で座っていたのは下記のメンツである。
 
紫尾季里子 桃香の妻?
紫尾来紗 季里子の長女(2013.6.03生)
紫尾伊鈴 季里子の次女(2014.8.10生)
季里子の父
季里子の母
古庄夏樹 来紗と伊鈴の遺伝子上の父
高園桃香
高園早月 桃香の長女(2017.5.10生)
川島由美 桃香の次女(2019.1.04生) (*9)
 
(*9)話が面倒になるので桃香の次女ということにした。由美は法的には川島信次を実父とし実母不明の、千里の養子である。但し遺伝子上の父が信次、遺伝子上の母が桃香であるという正式なDNA鑑定書が作られている。季里子は小空と小歌のことは知らない。結局桃香の遺伝子上の子供は4人いるのである。もっとも桃香の友人たちは「桃香にはあちこちの女に産ませた子供がきっと10人は居る」などと噂している。
 

9畳の部屋に9人というのは、その内4人が子供とはいえ、かなり密集した感じがある。全員を紹介できるのが季里子だけなので、紹介するが、季里子の父は彼女と桃香を一度強引に別れさせているだけにかなり恐縮していた。
 
夏樹を季里子は「元旦那の夏樹ちゃん」と紹介したが、夏樹が女装なので、桃香は昔の愛人なのだろうと解釈したようであった。“夏樹”という名前は女性でもある名前だ。逆に季里子が桃香を「私の夫」と紹介した時、夏樹は「キリちゃん、男の人とも付き合ってるの?」と嫉妬するような視線で桃香を見た。
 
「この子、男に見えるけど女なんだよ」
「なんだ。それならいいや。FTMさんですか?」
「いや、ただのレスビアンです」
と言いつつ、桃香は嫉妬の視線を感じたので、この子、まだ季里子に気があるのかな?と思った。でも男なら嫉妬するけど女ならいいって、なぜだ?と考えるもののよく分からない。
 

人物の紹介が終わった所で、季里子が事情を説明した。
 
「季里子も、その元カノさんも、住んでいた所が大雨で崩壊したのか。だったら住む所が見つかるまで取り敢えずここに居ていいよ」
と桃香は言った。
 
「ほんとに申し訳ありません」
と季里子の父が言うが
 
「困った時はお互い様ですよ」
と桃香は言った。
 
しかしこの夜、9人がこの狭いアパートで寝るのはかなりの困難を生じた。結局“唯一の男性”である季里子の父は台所で寝て、来紗・伊鈴は季里子のそばに、早月・由美は桃香のそばに、そして季里子の母と夏樹は各々単独で寝ることになった。
 

一方千葉に向かった千里は、康子の家を見て腕を組んで悩んだ。
 
「1階は畳を全部入れ替えないといけないし、そもそも床下の掃除とかもしないといけないけど、便利屋さんとかはみんな今どこも空いてないみたいだし、そもそも電気もガスも水道も止まったままで」
と康子は困ったように言った。
 
太一はガス会社に勤めているので、復旧作業やお客様対応に追われていて、とても実家のことまで手が回らないらしい。
 
「そのあたりは私が何とかしますよ」
と千里は言い、《きーちゃん》に電話して
「これ何とかしてくんない?」
と頼んだ。
 
すると《きーちゃん》は余力があると思われた仙台コシネルズのメンバーを呼び出し、彼女たちに畳の交換と床下掃除をしてもらった。
 
もっとも康子さんは彼女たちの性別に首をひねっていた。
「あなたたち、女性ですよね・・・」
などと言うので
 
「ああ、私は男の娘ですよ」
「私は元男性」
「私は男性を廃業済み」
などとメンバーたちが言うので
 
「ごめんなさい!変なこと訊いて」
と康子さんは恐縮していたものの
「性別のこと言われるのは全然気にしませんから」
と彼女たちも笑顔で言っていた。
 
もっとも康子さんは性別の方に注意が行ってしまったので、彼女たちの多くが韓国人・中国人・(一部モンゴル人)であることには気付かなかったようである。
 
彼女たちの作業は10月31日(木)と11月1日(金)の2日間で完了し、康子さんは1階でも生活することができるようになった。それでも電気・ガス・水道は止まったままである。千里はミラを運転して比較的物資があると思われた埼玉まで買い出しに行って、食糧のほか、カセットコンロの予備とボンベ多数、ペットボトルの水、モバイルバッテリーなどを調達してきた。バッテリーは桃香のアパートで充電してくる。
 
「桃香に電話したら、向こうもお友だちで家が崩れちゃった人をしばらく同居させることになったらしいです。だから私はしばらくここでお母さんと暮らすことにしますよ」
 
「ありがとう!助かる」
と康子は言った。
 
千里は子供たちはあの狭いアパートでは辛いのではと考え、こちらの1階が使えるようになった時点でミラを運転して経堂まで行き、子供4人をこちらに連れてきた。これで向こうは人数が大人5人になるので、まだ何とかなるだろうと考える。来紗と伊鈴について康子から聞かれたら千里は「桃香の隠し子なんですよ」と答えておいた。
 
「桃香さんが産んだ子?」
「桃香はこの子たちの父親ですね」
と言うと、康子さんはかなり悩んでいた。
 
「桃香さんってやはり実は男性なんだっけ?」
「女だとは思いますが、たぷんちんちんあります」
「私もう性別が分からなくなって来た」
「なんか微妙な人が多いですね」
 
季里子は最初毎日経堂から電車で千葉まで来て子供たちの世話をしていたが、康子が「あなたいっそ泊まり込んだら?」と言うので、結局、康子・千里・季里子の3人で子供たち4人の世話をすることにした(桃香はどうせ役に立たない)。
 
ちなみに康子は来紗・伊鈴が「桃香と季里子の間の子供」というのを信じてしまったようである!
 
(結果的に経堂は、季里子の両親、夏樹、桃香の4人が暮らすことになる)
 
なお、夏樹は11月11日になって都内のアパートを確保することができ、転出していった。季里子の父が保証人になってあげた。ちなみに契約書類の性別欄には女の方に丸を付けた。桃香は最後まで夏樹を女性と思い込んでいた。季里子および両親が住む場所(2DKのアパート)も11月18日には見つかった。
 

アクアはこの春にタヒチで写真集の撮影をしたばかりなのだが、高校卒業前にあと1冊写真集を出したいという話があり、11月上旬にドイツのロマンティック街道で撮影をしてくることになった。
 
これまでアクアの写真集は(テレビ番組の企画やライブ写真集などを除いて)このようなところで撮影してきた。
 
2015 ハワイ
2017 プーケット
2019 タヒチ
 
最初撮影候補地としてはセーシェルが挙げられ、川崎ゆりこが
「アクアのセミヌード写真集出しましょう」
と言ったのはコスモスが却下したが、却下の理由というのが
「女の子の身体なのがバレたらヤバいじゃん」
ということだった。ゆりこは
「今更だと思いますけど」
と言ったのだが、ともかくも今回は着衣での撮影となった。
 
アクアの写真集はこれまで南の島で撮影してきているので、今回は趣向を変えてロマンティック街道に行くことにした。
 

撮影は(2019年)11月1日(金)にドイツへ飛び、1週間ほど掛けて撮影し、11月10日(日)に帰ってくるコースである。
 
11/1(Fri) NRT 11:00 (JL407 787-9) 15:15 FRA (12'15)
フランクフルト泊
11/2(Sat) フランクフルトで撮影。ヴュルツブルクに移動して泊。
11/3(Sun) ヴュルツブルクで撮影。ローテンブルクに移動して泊。
11/4(Mon) ローテンブルクで撮影。アウクスブルクに移動して泊。
11/5(Tue) アウクスブルクで撮影。フュッセンに移動して泊。
11/6(Wed) シュヴァンガウのホーエンシュヴァンガウ城、ノイシュヴァンシュタイン城で撮影。フュッセンに戻って泊。
11/7(Thu) フュッセンで撮影。ミュンヘンに移動して泊。
11/8(Fri)ミュンヘンで撮影。フランクフルトに戻る。
11/9(Fri) フランクフルトで多少の追加撮影。その後数時間フリータイム。
FRA 11/9 19:40 (JL408 787-9) 11/10(Sun) 15:00 NRT (11'20)
 
帰りの方が速いのはむろんジェット気流のせいである。なお11月は冬時間であることに注意(日本との時差は8時間)。
 

申し訳無いが、今井葉月にはこの期間は学校を休んでもらい、一緒に行くことになる。山村マネージャーはスケジュールもハードであることから、葉月ひとりではアクアのボディダブルは無理だと主張。それでもうひとり姫路スピカも参加させ、スピカがアクアの男役のボディダブル、葉月が女役のボディダブルをすることになった。最近スピカはかなりアクアのボディダブルにかりだされているが、やはり演技力のある人にしか代役は務まらないからである。この年はスピカは自分自身のタレント活動での収入より、アクアの代役としての報酬のほうが金額的に上回ることになる。
 
実際には、山村とアクアの話し合いで飛行機にはアクアMが乗ってFは転送することにした。Fはせっかくパスポート作ったから、それで自分も一緒に出国してみたいと言ったのだが、長旅で疲れているアクアを撮影する訳にはいかないからどちらかは転送せざるを得ないのである。
 
アクアと葉月・スピカ以外に撮影に同行するのは、コスモス社長、和泉、マネージャーの山村勾美、緑川志穂、桜木ワルツ、和城理紗である。今回、アクアのサポートでやはり若い女子が必要とコスモスが判断し、緑川志穂か河合友里のどちらかに付いてきてと言った。すると、ふたりともロマンティック街道に行きたいと言ってジャンケンした結果、緑川志穂が勝って付き添うことになった。河合友里が悔しがっていた。
 
ちなみに部屋割では山村は1人部屋にして緑川・桜木・和城の3人で1部屋、している。山村はほぼ男扱いである。葉月とスピカも相部屋だが、アクアはツインのシングルユースという建前で3人のアクアが泊まる。ベッドは女の子のFが1個独占し、MとNは同じベッドで寝る。コスモスと和泉は同室であるがこれは2人がたくさん打ち合わせる必要があるのもある。
 
なお、スピカは実は従姉の竹中花絵と一緒に、半月前にドイツにわたり、写真家の桜井理佳および助手(三輪志保・四家芳絵・六本松晃)と一緒にロマンティック街道を巡ってロケハンをしている。男の子アクアと女の子アクアが並んだポーズの確認をするのに2人必要なので従姉を同行したのだが、むろんスピカが男の子役である!それでスピカは半月にわたりロケハンの被写体役をした上で、本番撮影でもアクアのボディダブルを務めた。
 

コスモスと和泉の話し合いで撮影はだいたい1時間ごとに“衣装チェンジ”してアクアに男子衣装・女子衣装を着けてもらおうということになったので、山村はその時にMとFを入れ替えようと考えアクアにも話した。男の子アクアには女装の葉月、女の子アクアには男装のスピカが相手役をする。
 
これまでの写真集撮影ではアクアが複数いるのに葉月は1人でやっていたので、撮影の後半になるほど葉月がクタクタになっていたのだが、今回はスピカも加わっているのでも最後まで葉月もスピカも元気に撮影ができた。
 

 
撮影は最初のフランクフルト・アム・マインでは『アルプスの少女ハイジ』でハイジがアルプスが見えるかもと思って登ったカタリーネン教会、クララ・ゼーゼマンの家のモデルになったと言われるゲーテハウス、そのゼーゼマン家から見えていたレーマー広場、また近くの聖母の泉、聖バルトロメウス大聖堂なども背景にして写真を撮る。
 
基本的に写真は男装アクア(中身は龍虎M)+女装葉月で撮影して1時間以内に服装を替えて男装スピカ+女装アクア(中身は龍虎F)で撮影している。アクアの衣装チェンジが大変だが、時間を置きすぎると太陽光線の加減が変わってしまい、あとで合成困難になってしまうのである。
 
もっとも実際にはアクアはまったく衣装チェンジしていない。人間そのものが入れ替わっているので本人は割と楽である。また撮影に適した場所は事前にスピカと従姉の2人で見つけているので短時間で撮影をすませることができる。
 

2日目のヴュルツブルク(ロマンティック街道の北端)ではレジデンツ(司教宮殿)、石像が建ち並ぶ旧マイン橋などで撮影をする。
 
3日目のローテンブルク・オプ・デア・タウバー(ロマンティック街道の宝石と言われる)は“ドイツの黒田武士”ことゲオルク・ヌッシュのエピソードが残る旧市街で撮影する。ドイツの古い街並みが残っている。ここを征服した将軍が、4リットルほど入る大杯の酒を一気飲みしたらこの町を焼かずに済ませると言ったので、市長のヌッシュが、自分が飲むと言って一気飲みしてみせたというものである。アクア(M)が、その市長が飲んだという大杯(のレプリカ)を抱えて飲む真似をする所を撮影している。4Lは水でも辛いので、飲み干すシーンを撮るのはやめることにした。
 
4日目のアウクスブルクでは“我らが聖母大聖堂”、“聖ウルリヒおよび聖アフラ教会”、また“7人の子供”のレリーフの前や“シュトイネルネ・マ”(片腕のパン屋“ハッカー”(パン職人の名前))の像などの前で撮影をした。
 
「7人の子供というのに6人しか居ない」
とアクア(F)が言うと
「もう1人はそこに描かれている棺(ひつぎ)の中に居るんだよ」
とコスモスが教えてあげた。
 
「えー?だったらこれはお葬式?」
「子供を亡くした人が作らせたものらしいね」
「そうか。悲しい場面だったのか」
 
この日はロマンティック街道の南端フュッセンに移動する。
 

5日目はこの旅の、そして撮影の目玉ともなるノイシュヴァンシュタイン城に行った。このお城の見学は、ホーエンシュヴァンガウ城とセットで、必ずそちらから先に行くことになっている。アクアは普通の服装のほか、中世の騎士の格好、お姫様の格好をして撮影している。アクアが騎士の格好の時は葉月がお姫様の格好、アクアがお姫様の時はスピカが騎士の格好である。しかし桜木ワルツの騎士の格好をさせて、スピカと花絵が女性の衣装で加わった写真も撮った。これはそのまま写真集に残る予定だが、スピカと花絵はまるで双子の侍女のようである。
 
アクアは衣装チェンジが大変そうだが、実際には龍虎Mは騎士の服装、龍虎Fはお姫様の格好のままで、実は衣装チェンジはしていない。
 
「ところでドイツ語でお城のこと、何と言うか知ってる?」
と桜井さんがアクアたちに訊いた。
 
「うーん。英語ではキャッスル(castle)、フランス語ではシャトー(chateau)だから、やはり何かCの付く言葉かな・・・」
などとスピカが悩んでいる。
 
「城ス」
と桜井さんは言った。
 
「へ?」
「正確に発音するとSchloss(シュロス)(*10) だね」
「それちょっと面白いですね」
「日本語の塔と英語のタワー(Tower)が似ているような感じ?」
 
(*10)綴り最後のssは“エスツェット”にして Schloß と書かれることもある。
 

「ここまでに寄った、ヴュルツブルクとかローテンブルクとかの“ブルク”も城ですよね?」
と和泉が尋ねている。
 
「そうそう。日本で言えば戦国時代の城のような城砦(じょうさい)がブルク(burg)で、安土桃山時代以降の城のような城館がシュロス(schloss)なんだよ」
 
「なるほどー」
「だからこのノイシュヴァンシュタイン城はSchloss Neuschwanstein」
 

そんなことを言いながら撮影していた時、少し向こうの方に人だかりがして歓声が上がっていたので見たら、若い白人の美形男子が騎士の衣装をつけて撮影している。
 
「あれはミハエル・クラインシュミットじゃん」
と和泉が言う。
 
「『太陽の騎士(Sonnenritter ゾーナリター)』のローエン(Lohen)を演じた人ですよね?」
とスピカ。
 
「そうそう。でもあれは太陽の騎士の衣装じゃないね」
「うん。もっと新しい時代の騎士の格好だと思う」
「また何か新しい映画かあるいはドラマか」
「でも観光客っぽい人を遠ざけていないし、握手とかまでしてるから何かのキャンペーンかも」
 
などと話していたら、向こうがこちらに気づいたようで、近づいてきた。この時はアクアFがお姫様の衣装をつけていた。
 
「Are you Ms "AQUA" from Japan?」
(日本のアクアちゃんだよね?)
「Yes, I am AQUA. Herr Kleinschmidt. I watched the Movie "Sonnenritter", You were so cool(*11) in that movie」
(はい、アクアです、クラインシュミットさん。『太陽の騎士』の映画見ました。かっこよかったですね)
 
(*11)アクアたちは英語で話しているが実はドイツ語でも cool は外来語として「かっこいい」という意味に使用される。
 

「Thank you. I am very appreciated to be praised by number one Japanese girl singer」
(ありがとう。日本で1番の少女歌手に褒められると僕も嬉しいよ)
 
などとミハエルは言っている。アクアは何も思わなかったようだが、和泉が反応した(そもそも最初にMs AQUAと言われている)。
 
「Entschuldigung. He is often misunderstood, but, He is NOT a grl singer. AQUA is a boy singer」
(すみません。よく誤解されるのですが、彼は少女歌手ではなく少年歌手です)
「Kidding!」
(嘘でしょ!?)
 
「Perhaps, Half of AQUA's fan are convinced AQUA is a girl」
(多分アクアのファンの半分はアクアのことを女の子だと思いこんでいる)
 
などとコスモスまで言っている。
 
「アクアちゃん、パスポート見せてあげなよ」
とスピカが言うので、パスポートをバッグから取り出してミハエルに見せるとSEx:Mの記述を見て
「I cannot believe!」
(信じられない)
 
などと言っている。
 
「But why are you wearing a princess dress?」
(でもなんでお姫様のドレスを着てるの?)
 
「He is playing both male knight and female lady in new photo book」
と言って、和泉は桜井さんに言って、仮編集した騎士姿のアクアとお姫様姿のアクアがヴュルフブルクのレジデンツ前で並んでいる写真を見せる」
 
「Oh! cool and cute! It's as if you were boy and girl twins」
(おぉ、格好いいし可愛い。まるで男女の双子みたい」
 
「AQUA's fan get anger, if we do not include AQUA's photo in girl's costume」
(女の子の服を着たアクアの写真を載せないとファンが怒るんですよ)
 
「I agree. I am not gay, but I think I can marry you with such a cute style」
(同感だね。僕はゲイじゃないけど、こんな可愛い格好した君となら結婚できそうだ)
 
「He is often so told」
(よく言われます)
 
「By the way, You are not gay or transgender, are you?」
(ちなみゲイとかトランスジェンダーではないよね?)
 
「I am straight. I like girls」
(私はストレートですよ。私は女の子が好きです)
 
この発言にここに居た日本人スタッフのほとんどが『嘘つけ!』と思ったが、話が面倒になるので口には出さない。しかしクラインシュミットは
 
「I'm relieved to hear that」
(安心した)
 
などと言っている。
 

この後、お姫様姿のアクアと騎士姿のミハエルが並び、大勢の観光客が写真を撮っていた。ドイツ人などの観光客の大半はアジアの有名女性歌手らしいと、きっと思っている。
 
向こうのスタッフとこちらの撮影班も写真を撮ったのだが、コスモスと向こうのマネージャーとのその場の話し合いで、この写真はお互い自由に使って良いことにして、念のため覚え書き(英語)に双方サインした。それでこれは写真集にも残ることになった。
 
この日は2つの城の周囲で日暮れ近くまで撮影を続け、フュッセンに引き返す。そして翌日はフュッセンで、その次の日は近くのミュンヘンで撮影し、フランクフルトに戻る。ここで多少の追加撮影をした後、数時間のフリータイム(実際にはアクアも葉月も疲れたようでホテルで寝ていた)を経て帰途に就いた。Fが飛行機に乗りたいというのでMのパスポートを持たせて飛行機に乗せた(Fのパスポートには出国記録が付いていないので入国できない)。国際線に乗るのは初めてなので、とても楽しんでいたようである。Mは転送である。
 

龍虎は11月10日にドイツから帰国したのだが、11月20日(水)に“お引っ越し”をした。これまで3年間暮らした赤羽のマンションはあくまで“通学用”だったので、卒業したら別の場所に移りたいというのがあった。どこかの賃貸マンションにと思ったのだが、コスモス社長は
「お金はあるんだから、マンション1個買っちゃいなよ」
と言った。
 
最初は3月末に引っ越すつもりだったのだが、その時期は引越する人が多いので、引越業者さんも忙しい。それでオフシーズンの11月にやってしまうことにしたのである。通学は大変になるが、仕事が終わった後帰宅するのは楽になる(多分)。
 
それで龍虎は多忙なので申し訳無かったが千里にマンション選びを依頼し、千里は仕事に便利な場所として代々木駅(の出口)から歩いて(エントランスまで)5分のマンションを「買っといたよ」といって地図と鍵を渡した。
 
「代金は?」
「6500万円だったから払っておいた。都合のいい時に返してくれればいいよ」
 
なんか「6500円だったから払っておいたよ」みたいな感じだなぁと龍虎は思った。マンションは“消防車の梯子が届く高さ”の10階で、3LDKである。「MFNが1部屋ずつ使えばいいよ」と千里は言った。
 
「あ、それもいいね」
 
現状はダブルベッドに3人で寝ているので、しばしば朝には毛布や布団の取り合いになっている。(むろん本来毛布も布団も3人分ちゃんとある)
 
引越の作業も千里さんに頼んだ。彩佳たちに声を掛けると“余計な整理”をされそうだし、こうちゃんさん(山村マネージャー)に頼むと、彼の趣味の部屋にされてしまいそうだ。千里さんは自分の“お友達”を使って荷物を移動してくれて、赤羽のマンションと似たような雰囲気になっていた。カーテンなども赤羽のものは全部再利用している。ベッドは「3人で1部屋ずつ使えばいいよ」と言っていた通り、各部屋にダブルベッドが1個ずつ置かれていた。赤羽で使用していたベッドはNの部屋に入れてあった。
 

青葉たちの湯の丸高原での合宿は11月22日に終わったのだが、女子長距離陣6人と水野コーチは、青葉が作ったというプールを見に津幡までやってきた。青葉たちは水連の車で長野駅まで送ってもらったので、そこから新幹線で金沢駅まで行った。そこに千里と布恋が、オーリスと(青葉の)マーチ・ニスモで迎えに来たので2台に分乗してデファイユ津幡まで行った。
 
体育館の建設作業、アクアリゾートの基礎工事が進む中、青葉たちは奥の駐車場に車を駐め、管理人小屋に入って中まで降りて行く。小さな小屋から階段で地下に降りて行くので、金堂さんや竹下さんは不安そうな顔をしている。しかし小屋から階段を15段ほど降りた所に作られているエレベータでその地下へ降りて行くと「すごーい!ひろーい!」と声があがっていた。
 
「わあい!専用プールだ!」
 
と嬉しそうに言って、水着に着替え、まさに“水を得た魚”のように泳ぐジャネを見て、青葉もここにプール作って良かったなぁ、と思った。他のメンバーも
 
「泳いでいいよね?」
と訊き
「自由にどうぞ」
と言うと、各自水着に着替えて泳いでいた。
 
湯の丸では2人で1レーンを共用していたが、ここでは6人に対して10レーンあるので1人1レーンを独占できる。それで全員思いっきり泳ぐことができた。
 

1時間ほど泳いだ所で休憩する。採暖室に集まって布恋が用意してくれた飲み物なども飲みながら少し話す。
 
「ところでここ更衣室が男女に分かれてないね」
「プール自体が女性専用かも」
「ああ、それもいいなあ」
「男子の場合は、女性の前で裸になっても問題無い人ならOKということで」
「それはかなり難易度が高い」
 
「でもここで合宿の続きをやろうよ」
と南野さんが言う。
 
「ここ、何時から何時まで使えるの?」
と水野コーチが尋ねる。
 
「プライベートプールですから使い放題です。24時間365日OKですよ」
と青葉。
「今管理人が5人いるんですよ。交替で誰かがついてますから、いつでも自由にどうぞ」
と布恋。
 
「本当はその倍置いてどの時間帯でも最低2人いるようにしたいんですが、まだ作ったばかりなので人数が揃わなくて。現状では管理人さんがトイレとかに行っている時は監視者不在になっちゃうんですよ」
と青葉は説明する。
 
「それはこのメンツなら大丈夫だと思うよ。溺れる人がいるとは思えないし」
と水野コーチは言う。
 
「ここの運営費は?」
「青葉のポケットマネーで」
とジャネ。
 
「まあ自分が泳ぐためのプールですから」
と青葉。
「このメンツには公開していいよね?」
「いいですよ。もっとも熊谷の方が便利な人も多いと思いますが」
 
「熊谷にも何かあるの?」
「青葉のお姉さんが作った50mプールがあるんですよ。あちらは観客が5000人入るけど、利用登録しているのは現在8人くらいかな」
とジャネ。
 
「私、ジャネさん、筒石さん、千里姉、千里姉のお友だちの佐藤さん・若生さん、ムーラン社長の山吹さん、それにアクアちゃんで8人かな」
 
と青葉は言いながら、千里姉とアクアを各々3人で数えたら12人だよなと思った。
 
「アクアちゃんって?」
「アイドルのアクアですよ」
「あの子が泳ぎに来るの?」
「一般のプールではファンが騒いでまともに泳げないので、特別にパスを発行したそうです」
「確かにまともに泳げないだろうね!」
 

そういう訳で、女子長距離陣は、しばらくこの津幡で自主的な合宿を続けることになったのであった。
 
なお、当面の宿舎として、播磨工務店の社員が住むことになっていたユニットハウスのアパートを使用することにし、播磨工務店の男性メンバーはムーラン建設の社員用に建てたアパートにまだ余裕があるので、そちらに移動した。
 
(つまりこちらのアパートは合宿メンバーと播磨工務店の女子メンツが利用する)
 
食事に関しては建設作業員用に津幡町内の仕出し屋さんや大規模商業施設からデリバリーをしてもらうことになっていたので、それを暫定プールの方にも持って来てもらうことにした。
 
また青葉から連絡を受けた若葉は、合宿メンバーのためにトレーラーレストランの予備を1個急遽ここに持って来てくれて、“ムーラン津幡店”プレオープンと称した。この店舗は暫定的に女性専用として、建築作業をしている人の中の女性の職人さん・作業員さんと、合宿メンバーのみが使用する。
 
ここではムーランで提供する食事以外にも、持ち込んだ物も食べていいことにして、実質、デリバリーされたものを食べるランチルームとして使用できるようにした。接続用の配管は播磨工務店の人たちが半日で作ってくれた。
 

メンバーの中で、青葉は大学の卒論をまとめなければならないので、昼間は大学に行き、主として夜間にここで泳いだ。ジャネは実家から毎日ここに通ってきて朝7時頃から夜10時頃まで泳ぎ、また実家に帰っていった。竹下リルは日中は高校に行き、夕方から泳ぐパターンで青葉と似ている。そして南野・永井・金堂は“宿舎”に住み込んで、好きな時間に泳ぎに来た。南野・永井は青葉と同様に卒業論文を書きながらになったようである。K大の図書館は部外者でも閲覧だけはできるので、そちらもだいぶ使っていた(「うちの図書館より凄い」と言っていた)金堂はあまり長くは学校を休めないので1週間だけ参加してから仙台に戻るということだった。水野コーチも一週間滞在した後、金堂と一緒に東京に戻ることにした。
 
ちなみにジャネは実家に戻ったら
「あんた筒石さんと離婚したの?」
と言われたらしい。
 
ずっと東京尾久のマンションあるいは熊谷の郷愁村に居て、どちらでも筒石と同居していたので、お母さんとしては実質結婚したのだろうと思っていたようだ。
 
「そもそも結婚してないんだけど。だけど私と君康の関係は何も変わってないよ」
とジャネは答えた。
「だったらその内結婚するの?」
「日本代表から落ちたら考えてもいい。ちなみに私はバージンだよ」
 
(実を言うと筒石と日常的にセックスしているのは“幽霊”のマラであり、“生身”のマソは一度もセックスしていない。キスくらいされるのは許容しているので、嫌いではないのだが、マソは恋愛より水泳という人である)
 
ジャネの母は暫く考えていた。
「筒石さん、ホモってことは?」
「あいつはバイっぽいよ。でも部屋には女の子のヌード写真しかないね。男の子のヌード写真とかは見たことない。まあ隠しているのかも知れないけど」
 
「ちなみにあんた男になってないよね?」
「ちんちんは泳ぐ時邪魔になりそうだから、要らないや」
 

K大の希美と夏鈴も「使わせてもらえたりしませんよね?」と言ってきたので「いいよいいよ」と言っておいた。ここは夜間でも利用できるというのが魅力的なようである。秋から春に掛けてはK大の学内プールも閉鎖されてしまうので、練習場所に困っていたのである。この2人は青葉たちと入れ替わりになった湯の丸での“ナショナル合宿”を終えた後、12月中旬からの参加になった。
 
(日本の水泳では他の競技とは違い“ナショナルチーム”は代表予備軍を意味する。代表は“インターナショナルチーム”である。希美と夏鈴はずっとこのナショナルチームに招集されている)
 
ジャネも“妹分”(娘かも?)の月見里公子・夢子の姉妹を勧誘しその2人も使うことになった。この2人には混んでいる場合は2人で1レーンにしてくれと言っておいたが、実際には1人1レーンを独占可能だったようである。
 
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【春花】(7)