【春水】(1)

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幡山ジャネは昨年のインカレで日本選手権水泳競技大会に出るための標準記録を突破していたのだが、実際に今年(2017年)4月13-16日に行われた同大会に出場し、1500m, 800m の自由形と400m個人メドレーで優勝、400m自由形で準優勝という立派な成績を収めた。
 
この結果を受けて、ジャネは優勝した3種目で文句なく世界水泳の日本代表に選抜された。(他にユニバーシアードの400m, 800m, 1500m自由形および400m個人メドレーの4種目の代表にも選抜された:ユニバーシアードは大学または大学院を卒業した翌年まで出場可能)
 
しかし、身体に障害を持つ選手がこれだけの成績を収めたということ自体が快挙で、これは日本国内だけでなく世界に報道され、ジャネの所にはかなりの取材依頼があった。しかしジャネはその全てを丁寧に断り、練習に集中していた。
 
ジャネは普段は金沢市内で唯一50mプールのある《金沢プール》という所で練習しているのだが、時間帯や曜日によってはそちらは結構混む。それでしばしば25mではあるものの、K大学のプールに来て練習していた。
 
「ジャネさん、見る度に速くなっている」
と青葉や香奈恵などは言っていた。
 
「青葉もタッチがだいぶうまくなったじゃん」
とジャネさんは言う。
 
「布恋さんにだいぶ指導してもらいました」
「ああ、布恋はタッチだけはうまい」
 
布恋本人も苦笑していた。
 

2017年5月22日。
 
この日は青葉の20歳の誕生日であった。
 
青葉自身はこの日に富山家庭裁判所高岡支部に性別の取扱いの変更の申立書を提出した。裁判所には朋子にも付いて行ってもらったのだが、この日朋子の方は、同時に未成年後見人の後見終了の届出を、後見事務報告書・財産目録とともに裁判所に提出した。
 
これで2011年4月から6年2ヶ月ほどに及んだ、朋子による青葉の後見は終了し、結果的に朋子と青葉の法的な“親子的関係”も終了した。
 
「法的な親子的関係は終了するけど、私はずっとあんたの親のつもりでいるから、何か悩んだりすることがあったらいつでも頼ってよね」
と朋子は言った。
 
「うん。この後もずっと『お母ちゃん』と呼んでいいよね?」
と青葉も言う。
 
「もちろん。親子であったという関係は、法的に消滅してもずっと続くんだよ」
と朋子は言った。
 

「ところで来年の1月は成人式でしょ?振袖はどこで頼む?」
「やっぱり振袖なのかなぁ」
「それともコスプレに走る?」
「それ桃姉が許してくれない気がする」
「あの子は自分の時は振袖に結構抵抗したんだけどね」
 
「それ贅沢嫌いな面と、セクシャリティの面とがあるよね?」
と青葉は言う。
 
「うん。あの子はたぶん振袖を着るか、背広とか着て男装で出席するか悩んだと思う」
と朋子も言う。
 
「まあ青葉の場合は、性別に関しては何も悩むことがないから、私も気楽」
「えへへ」
 

朋子は、青葉の成人式のために振袖の購入資金を貯金していたから自分が出すと言ったが、青葉は桃姉の時と同様に自分と朋子と半々にしようと提案。朋子もそれを了承した。
 
「桃香の時は桃香の結婚資金にと思ってある程度積み立てしていたからさ、あの子が結婚するとは思えないから、その資金を成人式の振袖に注ぎ込もうと思って、こちらで友人が関わっている加賀友禅の工房に200万くらいの振袖を頼もうと思ったんだけど、桃香は激安店で2万円でレンタルすると言って、それで結局東京の呉服屋さんで70万円の振袖を買ったのよね」
 
「よく200万円と2万円なんて隔たりから妥結に到達したね」
と青葉は言う。
 
「うん。今考えたらよく妥結したもんだよ」
と朋子も今更ながら本当にそうだと思った。
 
「まあそういう訳で、私はその時の資金が余っているし、というか当時残ったお金で株を買っておいたら、600万円になっているし、青葉も資産が凄いことになっているし、加賀友禅の工房、見に行ってみない?」
 
「うーん・・・。だったら見るだけ」
 
それで青葉は6月3日(土)に朋子と一緒に友禅の工房を見に行くことにしたのである。
 

その日、朋子は友禅工房に行くならと言って少し上等のレディススーツを着た。青葉はいつも大学に行く時に着ているような服を着て出ようとしたのだが・・・
 
だめ出しを食らう!
 
「あんた、その格好で行ったら、妹さんの成人式ですか?って言われるよ」
「えーん」
 
それで朋子が自分で青葉の衣装ケースの中から服を選んで着せる。
 
「なんか恥ずかしいよぉ」
と青葉は情けない声で言うが
 
「女の子はこういう服を着るもの」
と朋子は言った。
 

それでアクアに乗って金沢まで行ったが、スカートが短くて冷えるので青葉は途中からブランケットを膝に掛けておいた。
 
工房の近くにある駐車場に停め、少し古い町並みを歩いて行く。そこは入ったところが普通の店舗になっており、その先に見学コーナーがあった。
 
8畳くらいの座敷があり、4人の職人さんが絵筆を持って一心に彩色作業をしていた。青葉も朋子も静かにその様子を見学した。
 
その後、隣の部屋に移動すると、いくつかの作品が展示されている。
 
「きれーい」
と青葉は思わず声をあげた。
 
「ほんと美しいよね」
 
一緒に見学している母娘のお母さんの方が
 
「これいくらくらいだろう?」
などと言っている。
 
「たぶん100万くらいするんじゃないの?」
と娘さんが言う。
 
「きゃー!」
とお母さん。
 
「きれいだけど、お値段もいいわね」
などとお母さんが言っている。
 
その母娘が次の部屋に移動してから、朋子は青葉に小声で訊いた。
 
「これ幾らだと思う?」
「私は300万と思ったけど」
と青葉。
 
「やはり?私も250万くらいするかなと思った」
「たぶんそのくらいの値段だろうね。これ凄くセンスいいもん」
 

青葉と朋子はその次の間にある染額や小物などの展示も見て、着付け体験コーナーは素通りして表に出た。
 
「目の保養になった」
「うん。きれいだった」
 
青葉は提案した。
「別に揃える訳じゃ無いけどさ、桃姉が70万くらいのだったというから、私も同じくらいの価格のをお母ちゃんと折半で買わない?」
 
「そうだねー。そうしようか?」
「今のお店にも最初に入った部屋に並んでいたよね?」
「そうだっけ!?」
 
それでふたりは店の表に逆戻りして入り直す。
 
「ほら、ここにそのくらいの価格帯のが並んでる」
「ほんとだ!気付かなかった」
 
そんなことを話していたら、店員さんが寄ってくる。
 
「おお、朋ちゃーん!」
などと言っている。どうも朋子の知り合いのようだ。
 
「見つかってしまったか」
などと朋子も応じている。朋子の知人らしい店員さんは《福田美子》という名刺を青葉にくれた。
 
「訪問着か留袖でも買うの?」
「いや、この子の成人式用の振袖をと思って」
「なるほど〜。良かったらこちらにシミュレーション・コーナーもあるから、バーチャルで着てみない?」
 
と福田さんは言った。『なるほど〜』と言う前に一瞬の間があったのは気にしないことにする!
 
「でも成人式迎えるような娘さんもいたんだ?桃香ちゃんは知ってたけど」
「うん。桃香と7つ違いなんだよ」
「そりゃまた随分間を開けて作ったもんだね」
「まあ、子供って思わぬ時にできるから」
「うんうん。もう打ち止めかと思ったら突然できたりするんだよ」
 

写真を撮ってもらい、コンピュータの画面上で色々な振袖を着せてみる。
 
「どうもお嬢ちゃんは黒地のものがお似合いの気がするね」
と福田さん。
「私もそう思った!」
と朋子。
 
「そうかな?」
実は青葉はよく分からない!
 
それで黒地の振袖で予算70万円程度ということで絞っていく。
 
「この古典柄・新古典柄ってどう違うんですか?」
と青葉は質問する。
 
「どちらも古典的なモチーフを使用しているんですけどね、古典柄が全身に模様があるのに対して、新古典柄では上半身は模様が入らずに裾と袖に模様を集中させているんですよ。このあたりの作品が新古典柄ですね」
と店員さんは説明してくれる。
 
「なるほどー」
 
「あと、うちはモダン柄の振袖は取り扱っていないんですけどね」
「それはそれでいいと思いますよ〜」
 
「青葉の場合は古典柄の方がいい気がする」
と朋子。
「そうね。新古典柄だとちょっとバランスが良くない感じだね」
と福田さん。
 
また青葉の場合は、身長が159cmと、ごく普通なので、大きな柄より小さめの柄の方が合いそうということになる。それで結果的に3種類に絞り込まれた。
 
「この柄なら、全部、サイズは違うんだけど在庫があるから実際に羽織ってみません?」
「あ、実物があるなら、それがいいですね」
 
それで奥に通されて座敷で実際に着てみることにした。
 

青葉は実はよく分かっておらず「なんか格好いい〜」などと思っている。しかし朋子は3種類羽織ってみた後で、少し考え込んでいる。
 
「途中で候補から外したのでね、473番だっけ?金色の牡丹をあしらったの。あれの在庫ある?」
と朋子は言った。
 
「うん。あるよ。持ってくるね」
と言って福田さんが持って来てくれた。
 
「ああ、こちらの方が似合う」
と福田さんが言う。
「ねえ、やはりさっきの3つよりこちらがいい気がする」
と朋子も言う。
 
「青葉って雰囲気がおとなしいから、地味な柄が合いそうなのに実は結構派手なものも合うんだな」
と朋子。
 
「だったらあれも合わないかな?」
と言って福田さんは別の柄も持って来てくれた。
 
「地の色が黒じゃなくて藍色なんだけどね」
 
それで試着してみる。実は青葉はどれも似たようなもののような気がしている。
 
「ああ、こちらがいい気がする」
と朋子。
「うん。私もこちらがいいと思う」
と福田さん。
 
「じゃこれにしようか?青葉どう?」
と朋子。
「うん。これ結構気に入ったかな」
と青葉も答える。
 
「じゃこれでお仕立しましょう。採寸しますね」
「はい、お願いします」
 

それで青葉は採寸をしてもらった。今頼むと10月にはできあがるということであった。価格はセット価格で76万4640円とのことである。桃香が東京で買ったものは69万8000円だったらしいが「インフレ分だね」などと朋子は言っていた。実際には東京で大量に売るシステマティックなお店と、金沢の少量販売の伝統的なお店では、似たようなクラスの製品でも価格が10万程度違ってくるのではと青葉は思った。
 
費用の分担については、桃香の時は桃香が30万、朋子が39万8000円出したらしい。それで朋子は「今回も青葉が30万で私が46万4640円で」と言ったが、青葉は「インフレ分を入れて、私が35万、お母ちゃんが残りで」と言い、朋子も「まあそれでいいことにするか」と言った。
 
朋子は現金で100万持って来ていた。青葉は200万持って来ていた。それでふたりで出し合ってその場で全額払ったので
 
「あんたたち、どちらもそんな大金持ち歩いてるの?」
と福田さんが驚いていた。
 
「まあ今日は特別に。普段は2000-3000円のもんだ」
と朋子。
「私は仕事柄一応30万くらいは持ち歩いている」
と青葉。
 
「何のお仕事なさってるの?」
「この子、音楽関係の仕事してるんですよ。突然あちこちに呼ばれたりするから、交通費分を持っているみたい」
「ああ、大変そうね」
 
霊能者などと言うと、また色々面倒なことになりかねないから、音楽関係と言ってもらった方がいいかなと青葉は思った。
 
現金で払ったので、浴衣と街着、普段使いの草履をプレゼントすると言われたが、青葉は自分では選ぶ自信が無いので、朋子に選んでもらった。
 
「凄く派手な気がする」
「うん。あんたは少し派手な服に身体を慣らした方がいい」
 

青葉と朋子が浴衣と街着を選んでいた時、さっき友禅の作品展示室で見かけた母娘が振袖を選んでいるようであった。向こうもいったん出口まで行った後、表の店舗まで戻って来たのだろう。
 
「桜はあまり好きじゃないなあ。薔薇とかがいいけど」
「申し訳ありません。うちの店は薔薇模様は扱ってないんですよ。桜の入ってないものなら、こちらはどうでしょう。ほぼ菊で、少し牡丹も入っているのですが」
「ああ、それならいいかな」
 
青葉は、何か桜に嫌な思い出とかがあるのだろうかなどと思った。
 

アクアの今年のスケジュールは、年末年始のツアーの後、1月いっぱいまでドラマ『時のどこかで』の撮影があり、その後2月はCD制作の後『ときめき病院物語』の撮影に入る。その合間に4月にはタイに行って写真集の撮影をし、ゴールデンウィークにまたツアーを行った。そしてドラマ撮影の合間を縫って6月にはCDの制作をする。『ときめき病院物語』は6月いっぱいでクランクアップした。7月の前半は小休止となったものの、7月中旬から8月頭に掛けて初の全国ツアーで12ヶ所を回ることになる。アクアは最初からドームのような巨大な会場でライブをしていたので、5000人〜1万人クラスの会場はデビュー前にローズ+リリーのライブに「玉割り役」で参加した時以来で、かえって新鮮な感じがした。観客がより近くに感じられるので、こういう会場もいいなと思った。
 
中学生時代はやはり仕事があまりに忙しすぎて、ほとんど学校の勉強をすることができなかった。しかし4月になぜかアクアが3人に分裂!?してしまったので、それから自主的に進研ゼミの中学講座を取ってしっかり勉強するようになった。それで4月に高校に入った頃は、授業が実際問題としてよく分からなかったのが7月頃になると、特に英語で進展があり、動詞の変化形なども何とか頑張って覚えたので
 
「忙しいのに最近よく勉強してるみたいね」
と先生から褒められた。
 
実は3人のアクア(龍虎)は(長期)記憶を共有しているので誰か1人が覚えたことは他の子も覚えている。実はそれでお芝居の台本も分担して覚えることができるし、試験前の勉強も科目を分担して3人で勉強していたりする。また結果的にお互いが今どこに居るのかもほぼリアルタイムに近い形で把握することができる。
 
もっとも記憶の共有はしばしば混乱も引き起こしていたのだが(まだ降りる駅ではないのに他の子が降りるのに釣られて降りてしまったり)、7月8日に《こうちゃん》がアクアのマネージャーになって、3人居ることを彼にだけ打ち明けた後は、《こうちゃん》が記憶の伝達をブロックする練習をさせてくれて、そのお陰で、共有したい情報と自分だけ覚えていればいい情報を分別することができるようになった。このお陰で、かなり楽になった。
 

「ところで龍ちゃんって、たいていズボン穿いてきているけど、何度かスカート穿いて来たね」
とクラスメイトから言われた。
 
「うーん。まあその日はそんな気分だったからかな」
 
実はスカートを穿いてきたのは(ほとんどが)アクアFである。
 
「上着も2種類持っているのね。右前袷の日と左前袷の日がある」
「うん。あれもその日の気分で」
 

龍虎の学校は6月から夏服に変わった。龍虎は冬服同様に夏服も3セット作ったが、その内の2つは洋服屋さんに頼んで最初から右前袷で制作してもらった。洋服屋さんからは
 
「全部右前袷でなくていいんですか?」
と尋ねられたが、
「他の子と合わせたい時もあるので」
と言い、1つだけ左前袷にした。
 
制服が切り替わってから龍虎たち4年生のクラスではこんなことを言っていた。
 
「うちの学校って夏服だけスカートがチェックなんだよね〜」
「冬もチェックでいいと思うんだけど、どうしてだろうね」
「どちらもチェックなら、洗い替えに流用できるのにね」
 
「ところで今日の龍ちゃんはそのチェックのスカートなんだ?」
「うん。チェックのズボンを見つけきれなかったから」
「じゃこのままスカート?」
「いや、冬服のズボンを流用しようかと思ってる」
「なるほどー」
 
この初日に出てきていたのはアクアNであった。
 
Nは女装好きの男の子である。
 
ちなみに他の“男子”2人は、成美は当然ふつうの女子制服の夏服を着ているし、昭徳はワイシャツに黒ズボンという普通の男子学生のスタイルになっている。
 

龍虎たちの学校の特別教室棟は、地上4階・地下2階建て(但し出入口は2階にあるので、地下3階・地上3階に近い)で、サイズは72m x 24m である。
 


 
大雑把に言うと、音楽関係の教室が4Fに、理科系教室と視聴覚室(小ホール)が3Fに、食堂・調理実習室・図書室などが2Fにある。図書室に隣接して積層書庫(*1)があり、ここは3階分の高さに4フロアの書庫が積層されている。
 
(*1)本棚の支柱と建物の支柱が兼用されたもの。本棚の支柱が天井を支える形になるので、重たい本をたくさん入れる割に意外に強い。
 
教室の天井は2.7mであるが、積層書庫の天井は2.1mしかない。これは一般的な女子の身長を想定した設計であり、長身の男性教師は気をつけて歩かないと天井に頭をぶつけそうだと言う。
 
今年入った男子生徒3人の内、龍虎は156cmで全く問題ない。成美は169cmで、彼もあまり問題は無い。しかし昭徳は176cmで、歩いていて結構恐怖を感じるらしい。
 
特別教室棟の地下北側はB2,B1,1Fを吹抜で貫いて第2体育館《乳香》があり、バスケットやバレーの練習・試合で使用されている。そして南側はB1,1Fを貫いて室内プールが作られている。25m x 8コースの本格的なものである。中高生の大会で会場として使われることもある。
 
プールは建設費用の問題で屋外・地上に作る学校が多いが、C学園のプールがこんな地下に作られたのは、1つは都心に近い学校で土地のやりくりが厳しかったことと、もう一つは《のぞき》対策である。
 
大会が行われるような時以外は、基本的に生徒カード・職員カードを持っていないと地下に入ることができないようになっている。
 
「監視カメラも設置されているけど、あれ顔認証機能があって、男が歩いていたら警報がなるらしいね」
「警報が鳴るだけ?射殺されるって聞いたけど」
「さすがにそんなぶっそうな仕掛けは日本には無い」
「だいたい男の先生はどうするのよ?」
「予め顔をデータベースに登録しておくんじゃない?」
「あきちゃん(昭徳)がそれ用に写真撮られたって聞いたけど」
「まじ?」
 
「でもボクは写真撮られなかったよ」
と龍虎が言うと
「龍ちゃんは女の子にしか見えないもん」
と言われる。
 
「試しにやってみよう。これ男顔か女顔かを判定するアプリなんだよ」
と言って、香代がスマホを取り出す。そして龍虎を撮影する。
 
するとアプリの判定は「女顔100%」だった。
 
「やはり」
「香代は?」
「自分の写真でやってみたら女80%だった」
「写真と実物は違うかもよ。ちょっと貸してみてよ」
と言って、香代のスマホで彩佳が彼女を撮影する。
 
「おぉ!」
「男顔70%じゃん」
「うっそー!?射殺されたらどうしよう?」
「やはり顔をデータベースに登録してもらおう」
 

しかし室内プールであるので、気温や天候を気にせず水泳をすることができる。実際運動部の子たちが基礎トレーニングに使うので、冬季でも事故防止のため誰か教師が付いているという条件で利用することができるようになっている。ともかくも今年の龍虎たちの水泳の授業は、6月中旬から始まった。その日は雨だったが、室内プールは関係無い。
 
「龍ちゃん、今日はどんな水着持って来たの?」
とクラスメイトの香代が訊く。
 
「どんなって、ごく普通の水着だけど」
と龍虎は答える。
 
「ごく普通の女子用スクール水着?」
「まさかぁ。普通の男子用スクール水着だよ。学校指定のじゃないけど」
 
「あ、それはいけない」
「ちゃんと学校指定のスクール水着を着なくては」
「だって男子用のスクール水着は無いから、高校生らしいものであれば何でもいいと先生に言われたし」
などと龍虎は言うのだが
 
「でも、龍は女子用スクール水着を買ったよね?」
などと龍虎の内幕に熟知している親友の桐絵が言う。
 
「買ったけど、使わないよぉ。女子用水着なんて着られないし」
と龍虎は言ったのだが
 
「龍ちゃんは、女子用スクール水着どころか、ビキニだって着られる」
などと飛鳥(松梨詩恩)が言い出す。
 
「嘘!?」
 
「ほらほら、この写真」
などと言って、飛鳥が出した《衝撃のビキニ・ショット》にみんなが騒然とする。
 
「凄い!」
「こんなビキニが着られるなんて!」
「ウェスト細〜い」
「というか、おっぱいがあるじゃん!」
 
とみんな大騒ぎである。
 
「これ7月1日発売のアクアの写真集の中の1枚。情報源は秘匿しておくけど」
などと飛鳥は言っている。情報源を秘匿も何も、それって、飛鳥のお姉ちゃんからくすねて来たのでは?と龍虎は思った。
 
「こんな写真集作ってたんだ?」
「それは予約しなければ」
 
などとみんな言っている。
 

「でも、龍ちゃん、こんなにおっぱいがあるのなら、男子水着なんて着られるわけないじゃん」
「そうそう。おっぱいあるのに男子水着なんか着たら、警察に逮捕されるよ」
「その前に水泳の授業に出してもらえない」
 
「いや。そのおっぱいは偽装だから。僕はおっぱいは無いよ」
 
「でも私、こないだ龍ちゃんにうっかりぶつかった時に、確かにおっぱいあったよ」
と由美が言う。
 
「ドラマの撮影とかで、偽おっぱいを付けたままにしている時あるから」
と龍虎は言うが、それって多分Fが学校に出てきていた時だろうな、と思う。
 
「今日はおっぱい無いの?」
「水着着ないといけないと思ったから、外して来てるよ」
「取り外しが出来るおっぱいは便利だ」
 
「だけど、龍っていつもブラジャー着けてるから、たまに外してもブラ跡が消えないよね」
などと桐絵は言っている。
 
「ブラ跡がついているのに、男子水着になったら、よくないよね」
「うん。そういうのは人に見せるもんじゃないよ」
「せいぜい温泉とかに入る時だけ」
 
「やはり龍ちゃんは女子水着を着るべき」
などとみんなから言われる。
 
それで龍虎はつい
「でも今日は女子用スクール水着なんて持って来てないし」
と言ってしまった。
 

するとこれまで発言していなかった彩佳がおもむろに自分のバッグから水着を取り出した。
 
「ジャジャーン」
などと言っている。
 
「どうしたの?」
「これ龍のC学園指定スクール水着。ほら、ここに田代って名前書いてある」
 
「おぉ!」
 
「ちょっとぉ、なんで彩佳がそれ持ってる訳?」
と龍虎は抗議する。
 
「きっと龍は女子用水着を着るのを嫌がるだろうからと思ってこないだ龍の所に行った時、キープしておいた」
と彩佳は言っている。
 
「すごーい!」
「彩佳って、龍のおうちによく行くの?」
「鍵持ってるよ」
 
「鍵!?」
「どういう関係?」
 
「こないだ忘れ物を届けた時に預かったまま、返し忘れてた」
「なぁんだ」
 

「でもちゃんと学校指定スクール水着があるんなら、それを着よう」
 
「待って。おっぱいも無いのに、そんなの着られないって」
「平気平気。**だって、全然胸無いし」
「なぜ私を引き合いに出す?」
 
「だいたいこの水着に名前書いてたってのは、着る気満々じゃん」
と飛鳥にまで指摘される。
 
「龍の男子用水着は回収しておこう」
などと言って、いつの間にか彩佳は龍虎のバッグを勝手に開けて、水着セットの中からトランクス型の水着を取りだしている。
 
「待って、それ取らないで」
「龍ちゃんは女子用水着を着ればいいんだから、問題無いじゃん」
「龍ちゃん、みんなと一緒にプールの更衣室に来ていいからね」
 
この学校のプールには男子更衣室が無い!ので男子はB2Fの体育館の第2更衣室で着換えてきてくださいという指示だった。
 
「それはまずいよぉ」
「だって龍ちゃん先週の体育の時も、みんなと一緒に着換えたじゃん」
 
「うーんと・・・」
 
それも多分Fだと龍虎は考える。
 

「そういう訳で話はまとまったから、一緒に着換えに行こうね」
「ちょっと待って〜!」
 
という訳で、今日の龍虎はみんなに強引に連行されて普通にプール付属の更衣室で他の女子と一緒に女子用スクール水着に着替えた。
 
なお、Fから交代しようか?と脳内直伝があったものの、着換えの時におっぱいがあると話がややこしくなるので、今日はNが平らな胸を曝して着換えることにした。
 
「なんだ。女の子下着つけてるじゃん」
「それだと他の男子とは着換えられなかったよ」
「だって男の子下着が見つからなくて」
 
犯人はむろん龍虎Fである、
 
「お股には何も付いてないように見える」
「ボクの小さいから」
 
と龍虎Nは答えておいた。Nは常時タックしているので、水着などを着ても股間は女子のようにしか見えない。アンダーショーツを穿いているからいいが、それを穿いていなかったら、縦筋まで見えてしまうところである。
 
「でもブラ跡はかなり強くついてるね」
などと言って肩に触られる!
 
龍虎は小学生の頃から少なくとも「男子」とは思われていない傾向がある。
 
「水着写真撮った時は一週間前からブラを着けないようにして跡を消したんだよ」
「ちなみにいちばん最近ブラジャーをつけたのは?」
「ドラマの撮影で昨日つけた」
「それなら消える訳ないね」
 

ちなみに3人の男子の中で成美は平然と他の女子と一緒にプールの更衣室で着換えたので(成美が女子更衣室で着換えていても誰も気にしない)、結局、第2体育館の更衣室で着換えたのは昭徳だけであった。
 
また龍虎が女子用スクール水着をつけていても体育の先生は何も言わなかった。ただ一人男子用水着をつけている昭徳が心細そうな顔をしていた。
 

月山淳・和実の最初の子供・希望美(のぞみ)は2015年10月13日に卵子の採取に成功して受精させ、15日に代理母さんの子宮に胚移植を行った。そして昨年7月7日4:20に代理母さんが出産。すぐに和実と淳が引き取って育て始めるとともに、家庭裁判所に特別養子縁組の申請を行った。
 
特別養子縁組が認められるためには幾つかの条件がある。主なものとして
・夫婦共同で養子にすること(男性または女性の単独では認められない)
・親が25歳以上
・6ヶ月以上継続して養育していること(試験養育期間)
・子供は6歳未満(但し6歳未満から養育していれば8歳未満までは申請可能)
 
希望美の場合、生まれてすぐ引き取りすぐに申請していたが、実際には申請した後、試験養育期間が経過する半年間は手続きは留保され(その間に和実も25歳の誕生日を過ぎる)、半年後の2017年1月8日以降に裁判所の調査が開始されたようである。
 
和実と淳は裁判所の調査官に一緒に面談し、DNA鑑定書も見せて、希望美は実際には和実と淳の実子であり、和実が子宮を持っていないので代理母さんに産んでもらったものであることを説明した。
 
「奥さんは失礼ですが、元男性で2012年に性別変更なさってますよね。それでもおふたりの遺伝子上の実子なんですか?」
 
と調査官はDNA鑑定書を見ながら、驚いたように言った。
 
「はい。私は一種の半陰陽なのだそうです」
と言って、松井医師に書いてもらった診断書を見せる。
 
「なるほど、非常に小さな卵巣があるんですね!」
と調査官は言った。
 
実際には和実の卵巣は「時々出現する」という不可思議なものなのだが、そう書いても合理的な説明と思ってもらえないので、松井医師は方便としてとても小さな卵巣があり、卵子の採取も極めて困難であると書いた。そして和実は実際の卵子採取は103回も試行してやっと採取できたことも説明した。
 
「それは大変だったでしょう」
と裁判官も同情的に言う。
 
「子宮も小さなものがあるらしいんですが、小さすぎてとても赤ちゃんを育てることはできないので、代理母さんにお願いしたんです」
 
「そういう事情だったんですね。分かりました」
 

調査官は現在、淳と和実が別居生活になっていることについても質問した。
 
「喫茶店を作ったので、その運用のために私はこちらにいますが、淳は東京での仕事がキリがつかないので、東京に滞在しています。夫婦仲には問題はありませんし、淳も時間が取れる時はこちらに来て、一緒に希望美の世話をしてくれています」
 
「では将来は淳さんもこちらに引っ越してこられるのですね」
「はい。そうです。実際にはまだ2−3年先になると思うのですが」
と淳本人も言う。
 
「システムの作成って職人芸的な要素も大きいので、簡単には他の人に引き継げないんですよ。今手がけているシステムが完成して安定して動作するようになるまでは付いていて欲しいと言われているので」
 
「なるほど」
 
「それともうひとつは生活費の問題もあるんです。一応喫茶店は法的には営業許可も取り、従業員も雇って限定的に営業を開始しているのですが、経営が軌道に乗るまでは不安要素もあります。その間、私の給料で生活を支えることができます」
とも淳は説明した。
 
「ああ、経済的保険の意味もある訳ですね」
 
養親の経済的な安定性というのは結構審査のポイントのひとつなので、この説明にも調査官は好感していたようであった。
 

調査官は、夫婦とはいっても妻が性転換していること、更には夫まで事実上女性化しているということで、初期段階ではあまり良い印象を持っていなかったようだったが、実際には和実が半陰陽で遺伝子的に2人の実子であるという説明で、大きく評価を変えたようであった。
 
調査官は代理母に関することについて、対応した病院(射水市の松井医師、最終的に卵子の採取の場所となった東京の病院、そして胚移植と出産を行った仙台の病院)や、出産した代理母さんにも面談したようである。
 
調査はその後、時間を置いて数回行われたものの、特に3月30日に喫茶店がグランドオープンして、最初の1ヶ月の営業成績が予定を大きく上回る黒字であったとの報告も受け、とうとう裁判所の認可が得られた。
 
2017年7月1日(金)付けで、希望美の1歳の誕生日の直前に、特別養子縁組を認めるという審判結果が届き、和実はすぐに区役所に特別養子縁組届を提出した。これで希望美は法的にも和実と淳の実子となった。
 
このことはクロスロードの仲間にはすぐに同報メールで報され、みんなからおめでとうを言ってもらえた。
 
淳も有休休暇を取って仙台に駆けつけ、また盛岡から和実の両親も来てくれて胡桃も含めて、6人で(サイダーで)祝杯をあげた。
 
(和実・淳・希望美・胡桃と、和実の両親で6人)
 

和実はクロスロードの仲間達の中で千里からはおめでとうメールが2通来ているのに首をひねったが、千里の場合、ままあることなので気にしないことにした。
 
しかし元々は和実と淳の体外授精は、千里と貴司の体外受精(京平)にヒントを得て実行したものなのだが、希望美を代理母と特別養子縁組で実子にした経緯は、この後、千里(千里1)が川島信次との子供(由美)を作るのに真似ることになる。ただし、その試みは信次の死亡により使えなくなり(夫婦でないと特別養子縁組が使えない)、普通の養子縁組を“変則使用”することになる。
 

赤ちゃんの予防接種のスケジューリングはひじょうに大変である。
 
・いついつまでに受けさせなければならないというのがある。
・これを先に打ってその後これという順序のあるものがある。
・それを注射した後は、一定期間他の注射ができないものがある。
・指定された間隔をあけて2回または3回打つものがある。
・絶対に必要な物と、できるだけ打ちたい物、可能なら打ちたい物がある。
・多くの予防接種は事前に予約しておかなければならない。
 
それでいつどれを打つかを決めるのは結構なパズルである。
 
和実の場合は、そういうパズルみたいなのを和実が大好きなので、しっかり計画を立ててもれなく受けさせていった。
 
(しばしばうっかりどれかを受けさせ忘れて病院の先生などに相談してくるママもいるのである)
 

桃香は予防接種についてガイドブックを読んでいて途中で分からなくなり、結局千里が日程を組み、適宜病院に予約も入れてくれた。実は千里は京平の予防接種の計画も立てていたので経験者であった。
 
それでまずは生まれて2ヶ月経った7月10日に最初の予防接種を受けに行く。この日程は千里が決めたので、千里が車で連れて行ってくれるものと桃香は思い込んでいたのだが、この日の朝、千里は桃香のアパートに来なかった。
 
困るので電話してみる。
 
電話に出たのはフランス滞在中の千里3である。
 
「ああ、桃香。何?」
「早月を予防接種に連れて行きたいから車を出してくれないかと思って」
「予防接種か。でも私、まだフランスだからさすがに行けないよ。でもお友達に電話して行ってもらうね」
 
むむむ。フランスに居るって、確かに4月頃フランスに行くと言ってはいたが、昨夜もうちに来て一緒に晩御飯食べたじゃん!と思う。しかしまあお友達に連絡して連れて行ってくれるということならそれでもいいかと考える。
 
実際、30分ほどで、お産の時にも来てくれていた千里の友人・天野貴子さんがご自分の車、灰色のホンダ・シャトルでやってきてくれた。
 
「ベビーシートはあるはずと言われたのですが」
「ええ。家に置いてあるんですよ。千里が色々な車に乗っているみたいだから、車には載せておけないと言って。これなんですが、天野さんの車に設置できますかね?」
「ああ、これは3点シートベルトで固定するタイプだから、3点式シートベルトさえついていれば行けますよ」
「3点式シートベルトのついてない車って無いですよね?」
「1994年4月以降に国内で製造された車なら後部座席も3点式シートベルトですね。それ以前から走っている車は今はもうかなり少数だと思います」
「20年以上走っている車は凄いな」
 
それで天野さんがベビーシートをシャトルの後部座席右側に取り付けてくれて、桃香がその横に乗り、天野さんの運転で千里が予約を入れてくれていた病院に行った。
 
「あ、そうそう。千里さんは13日にフランスから帰国なさるそうですよ。さっき電話した時に言いそびれていたから言っておいてと言われました。今の時間はフランスはまだ夜で、寝ておられたみたいで」
と天野さんが言った。
 
「帰国?うーん。。。帰国ねぇ」
と桃香は悩んでしまう。私、フランス土産には何がいいと言ったっけ?などと桃香は考えていた。
 
なおこの日、千里1の方はJソフトのSEとして千葉の○○建設を訪れ、信次と衝撃の再会をすることになった。
 

7月13日にフランスから緊急帰国した千里3はそのまま北区の合宿所に行き、日本代表に復帰してほしいと言われた。その時刻、千里1は川崎のレッドインパルスの体育館に行き、自ら2軍落ちを申し出る。そして千里1が帰った後で、千里3が川崎にやってきて、黒江アシスタントコーチからむしろかなり実力を上げていることを認められる。
 
それで結局レッドインバルスでは、2軍降格を申し入れた千里を「村山十里」の名前で背番号66で登録してしまった。この結果、レッドインパルスには背番号33の「村山千里」(実は千里3)と背番号66の「村山十里」(実は千里1)が共存することになる。66.十里は午前中に横浜の2軍の練習場に来て、33.千里は午後に川崎の1軍の練習場に来るというパターンが《きーちゃん》の誘導で確立するのだが、その前に千里3はインドまでアジア選手権に行ってくることになる。
 
この日の夕方、千里3は経堂の桃香のアパートを訪れると
 
「今朝フランスから帰国したんだよ」
と言って、パリの空港で買ってきたというお土産のボンママンのマドレーヌとジャムを渡した。
 
「あ、これ好き〜!」
と桃香も言う。
 
「でもすぐにインドに行って来なくちゃ行けなくて」
「そりゃ大変だね」
「31日に戻って来る予定だから」
「じゃ気をつけてね」
と言って桃香も明る〜く送り出した。
 
そして千里3が出て行ってから1時間もすると千里1が帰って来て
 
「今日は何か疲れた〜」
と言った。そしてボンママンのマドレーヌとジャムを見ると
 
「あ、このマドレーヌ好き〜。誰かお友達にもらったの?今お茶入れるね」
と言って、紅茶を入れ始めた。
 
桃香は「うーん」と、うなりながら、その千里の後ろ姿を見ていた。
 

7月15日(土)、5月頭から6月中旬まで1ヶ月半の撮影で急遽制作された映画『アクア2008〜奇跡の邂逅』が公開された。当時小学1年生で腫瘍の摘出手術を明日に控えていたアクア(田代龍虎)と、インターハイの強豪高との戦いを前にしていた高校3年生・醍醐春海(村山千里)との出会いをファンタジックに描いた作品で、1時間20分の上映時間の内、約20分がアニメーションになっている。
 
長時間のアニメーションが入ったのは、主演の2人が小学生・高校生で撮影に使える時間が限られていたことから来た苦肉の策でもあるのだが、映画前半のクライマックスであるふたりが龍に乗って旅をするシーンがとても幻想的な雰囲気になる効果も出した。
 
2人が龍に乗って飛行しながら地上の様子を見るシーンは実際にドローンを飛ばして東北自動車道を上空から撮影した映像を使用した。
 
一応、アクア(田代龍虎)・醍醐春海(村山千里)という実名は出しておらず、アクアに相当する小学生は佐藤翌桧(さとう・あすなろ)、千里に相当する女子高校生は可能三恵(かのう・みつえ)という名前になっており、学校名も架空のものに置き換えられている。演じているのは実際には小学3年生の三次香美ちゃんと、本当に高校3年生の品川ありさである。
 
ありさは実際にはサッカー選手であったが、バスケットにも助っ人で大会に出たことがあると言っていた。ただ彼女はサッカーでも蹴ったボールがどこに飛んで行くか分からないという困った選手だったが(それでゴールキーパーをしていた)、バスケットでもシュートは全く入らない(入った記憶が無いらしい)。しかしリバウンドやブロックは本当に上手いので、あまり吹き替えを使わずに撮影ができたらしい。
 
なお、三恵のシュートシーンは品川ありさと身長が比較的近く、体格も似ているエレクトロウィッカのシューティングガード永岡水穂(東京T高校・栃木K大学出身, 172cm)が吹き替えをしている。
 
172cmもの身長があれば普通フォワードをさせられるのだが、東京T高校は強い選手が多く、身長はあってもレイアップシュートが必ずしも得意ではない彼女はフォワードとしてはベンチ枠に遠かった。しかしミドルシュートは割と得意だったので「シューターやってみる?」と言われ、そちらで開花したのである。
 
今年の春、WNBAに行った花園亜津子の補充シューティングガードとしてエレクトロウィッカに入った。大学を卒業したばかりなので、ユニバーシアードの代表候補になっていたのだが、連休明けに代表から落とされてしまったので、千里がそれをコスモス社長に伝えた。そこから「ぜひ吹き替えをして欲しい」と映画制作側が要請し、本人も「千里さんの役なら」と言って、引き受けてくれたのである。
 

この映画では三恵のチームメイト役名・長島遙香(佐々木川南相当)が翌桧に言うセリフ
 
「手術頑張らなかったら、ちんちん切られちゃうぞ」
 
というのが映画の予告編にも(「ちんちん」の所がピー音で消されて)出てきて、その後、ネットでは大いに受けた。そして
 
「**頑張らなかったら、**切られちゃうぞ」
という形の色々な言葉が大喜利のようにツイッターやラインを賑わせることになった。
 
この長島遙香を演じているのは古賀紀恵という実年齢20歳の女優さんだが、このセリフのお陰で突然注目度が上がった。本人は「ちんちん」なんて最初言えなくて、NG出してしまいましたとコメントしていた。
 
もう女を忘れて
「ちんちん切るぞ!」
と防音室の中で20回叫んでから再挑戦したらしい。
 

アクアも千里もこの映画自体には関わっていないものの、映画の公開当日に代表取材に応じて、メッセージを発表した。アクアはちょうどツアーの初日で大阪に来ており、その楽屋で撮影し、千里は日本代表の合宿をしている東京北区のナショナル・トレーニング・センターの練習場で撮影をしている。
 
ついでにアクアはツアーに向けての意気込み、千里も目前に迫ったアジア選手権への意気込みを聞かれていた。
 
なお映画の主題歌は品川ありさ自身が歌う『マイナス1%の望み』であるが、この曲は葵照子・醍醐春海が書いて映画公開前の7月6日(水)に発売された。映画の予告編が6月下旬からテレビやネットに流れていたこともあり、かなりの話題を呼び、予約が30万枚も入って、品川ありさは「うっそー!」と叫んだという。
 
品川ありさの曲で過去に最も売れた曲でも7万枚程度である。
 
なおこのCDのカップリング曲は、この映画で取り上げられたエピソードの中で実際に生まれた曲である『アクア・ウィタエ』で、インストゥルメンタル版と品川ありさが歌う歌詞入りの版とが収録されている。映画内では翌桧と三恵が龍に乗って飛行する時にインストゥルメンタル版が使用され、エンドロールの所に歌詞入りの版が使用されている。
 
インストゥルメンタル版は実はゴールデンシックスが演奏しているのだが、その中で龍笛を吹いているのは、千里本人である。ヨーロッパ遠征から帰った直後の6月16日に演奏に参加したと本人は言っていた。
 
(千里(千里1)は6月13日朝にヨーロッパから帰国し、18日からはまた合宿に入っている。但しこの龍笛を実際に吹いたのは千里2)
 

7月15日(土)から8月6日(日)まで、アクア本人はドラマ『ときめき病院物語』の撮影が終わり、映画『キャッツ♥アイ』の撮影が始まる前の狭間を使って初の全国ツアーを行った。
 
これまではアクア本人のスケジュールが取れないことからドーム5ヶ所のようなツアーしかできなかったのだが、今回は12箇所(7月29日の苗場ロックフェスティバル出演を含む)のツアーとなった。
 
7.15大阪 16名古屋 (17休 18-19学校,20-21休) 22沖縄 23福岡 (24休) 25広島 26高松 (27-28休) 29(苗場) (30休) 31長岡 8.1小松 (2休) 3仙台 (4休) 5札幌 6東京
 
動員人数は20万6千人(+苗場の3万5千人)である。
 
ツアーの日程は2日歌ったら確実に1日以上休めるようになっているが、これはアクアの親代わりである上島先生が要求して実現したスケジュールである。
 

なお、映画は実はアクアのツアーが始まった7月15日から撮影を開始しているのだが、新しくアクアのマネージャーに就任した山村勾美が、こちらのツアーが終わるまではアクアは映画の撮影には参加させないと言った。
 
制作側もツアーとぶつかっているのは承知だったので、ライブのある日まで撮影現場に来いとは言わないから、ライブの無い日には入ってもらえないか、またボディダブルの葉月だけでも通して参加できないかと言ったものの、山村は出演契約の際に「当事務所のタレントの健康と学業に配慮する」という条項(これも上島先生の強い要求により入れられた項目)があったのを盾にとって、アクアも葉月も参加させられないとして、要求を断固拒否した。
 
上島先生という業界の大物の威を借り、アクアの売れっ子タレントという立場を最大利用して、結局葉月をも守ったので、コスモス社長が「頼もし〜い」と言ってくれた。
 
そういう訳で映画の撮影は8月6日までは主役抜きでの撮影を強いられたものの、アクア自身も、専属リハーサル歌手(身長がほぼ同じなので照明などを確認できる)としてツアーに帯同する葉月にしても、この期間はライブの方に集中することができるようになった。
 

青葉はアクアのプロジェクトのプロデューサーということになっているのだが、青葉自身がこの時期は期末試験、およびその直前に当たることからツアーには同行せず、そちらの管理はディレクターということになっているKARIONの和泉さんにお願いすることになった。和泉さんと、マネージャーの山村さん、そしてレコード会社の三田原さんの3人を中心に細かいことは決めていくことになるが微妙な問題については、和泉さんが青葉にメールや電話で確認して、青葉の意見を聞いてくれた。
 
このあたりは青葉と和泉さんの間に充分な信頼関係があるのでうまく行った。
 
なおツアーに同行する伴奏者はエレメントガードの4人と、追加のツアー演奏者4人の8人で構成している。年末のツアーで伴奏者にトラブルが発生したこともあり、今回のツアーでは急病などの場合も考え、予備の伴奏者を数人用意しており、万一の場合にはすぐ交替できる態勢も整えておいた。こういう態勢は充分な予算があるからできることである。
 

青葉は7月前半はアクアのCDの発表記者会見やツアー打合せ、後半は期末試験の準備に追われる一方で《タクシーただ乗り幽霊》の調査を依頼されて、その件で予備調査などをしていた。
 
7月29-30日には、昨年・一昨年に続いて、苗場ロックフェスティバルに伴奏者として参加したが、28日の試験が終わってから越後湯沢に移動し、30日のステージが終わった後、新幹線でとんぼ返りして31日朝から試験を受けるという強行日程となった。
 
31日の夕方、友人との会話の中から《ただ乗り幽霊》に関する糸口をつかみその日の友人たちの協力による調査からやっと原因を掴むことができた。しかしこの問題を解決するには、極めて大がかりな仕掛けが必要であった。
 
青葉、その幽霊に関連していたお寺、放送局、そして千里の協力で何とか収束させることができた。
 

その千里は7月4日に東京駅で“事故”に遭い、霊的な力を全喪失した。青葉の後ろに居候している《姫様》は、千里の力の喪失は不可逆だと言った。千里は霊的な力の喪失とともに、バスケットの能力も激しく低下しており、日本代表から外されてしまう。恐らく作曲能力や演奏能力なども落ちているのではないかと青葉は想像した。
 
ところがそのほんの10日後、千里は怪我したメンバーと入れ替わる形で日本代表に復帰してしまった。驚いて電話をしてみると、電話の向こうから伝わってくるパワーは、以前に比べると小さいものの、かなり回復していることが伺われ、そんな急速な回復自体があり得ない気がした。
 
千里は7月23-29日にインドのベンガルールで開かれたアジア選手権で大活躍し、チームは優勝、千里はスリーポイント女王とベスト5を獲得した。
 

千里がインドに行っていた時期、ジャネはハンガリーのブダペスト(Budapest)で世界水泳選手権に出場していた。
 
1500m, 800mの自由形と400m個人メドレーに出場したのだが、25日の女子1500m自由形で3位に入り銅メダルを獲得、29日の女子800m自由形でも6位、30日の400m個人メドレーでもメダルに僅かに届かない4位と、出場した全ての種目で決勝進出する快挙を果たした。
 
海外のメディアが"Footless swimmer gets medal"などといったタイトルで彼女のことを報道し、一躍幡山ジャネは時の人となった。1年間意識不明の状態にあった所から復活したことも"Sleeping beauty woke up"などと大いに話題にされたようである。日本のメディアからも取材の申し込みがあらためてあったものの、ジャネはユニバーシアードが終わるまでは練習に集中したいとして現時点では全てお断りした。
 

7月27日(木)、都内の病院。
 
昨日の高松公演を終えて、この後苗場へ移動予定のアクアは山村マネージャー、運転手役の高村友香と一緒に4月に倒れたまま入院していた自分の前マネージャー鱒渕水帆のお見舞いをしにきた。この日はアクアが行くならというので、秋風コスモス社長と紅川会長も一緒に行った。
 
そこにちょうど偶然だったのだが、水帆のお父さんとお兄さんまで田舎から出てきたので、水帆本人は「なんか私のお葬式みたい」などと笑いながら言う。本人はサービス・ジョークのつもりだったのだろうが、その発言が全然笑えないので、一同の間で素早い視線の交換があった。その緊張感で水帆はやっぱり、私死ぬのかな、と思った。
 
見舞客は高村友香を残して全員いったん病室の外に出た。
 
コスモスと紅川、それにアクアも、水帆のご両親の前で
 
「ここまで重症になるまで気付かなかったこと、本当に申し訳ありません」
と深く頭を下げて謝った。
 
「いや、あいつは自分で何でも抱え込んでしまうタイプなんですよ。高校生の頃とかもそれで注意したこと何度かあったんですが」
とお兄さんが言った。
 
お父さんはむしろ
「あいつの不養生のせいです。かえってご迷惑をお掛けして申し訳無い」
と向こうが謝った。
 

お兄さんが、実際問題として妹の病状はどういう状況なのか詳しく知りたいと言った。それでナースステーションに行って相談すると、先生が説明して下さることになった。
 
そこでアクアと山村マネージャーも外れて、ご両親とお兄さん、コスモス社長と紅川会長が医師の説明を聞くことになった。
 
病室に戻ると山村は
 
「友香ちゃん、申し訳ないけど、車にこないだ出したアクアの新しいCDが載っていたと思う。あれ1枚持って来てよ」
と言った。
 
「ああ、お渡ししてませんでしたかね。すみません!取ってきます」
と言って彼女が病室の外に出る。
 
更に山村は
「龍虎、あのさ・・・」
と言いかけたが、アクアは
 
「何かするんでしょ?僕外に出てるよ」
と言った。
 
「5分で終わるから」
「うん」
 

それでアクアが部屋から出て行く。どうも自販機コーナーに行ったようである。
 
「あの、何か?」
と鱒渕は戸惑っている。
 
「水帆ちゃん、あんた生きたい?」
と山村は唐突に聞いた。
 
水帆は少し考えた。
「生きていたい」
 
「だったら自分が生き延びていくというイメージを強く持って」
「はい」
「それでこの注射打っていい?」
 
水帆は5秒ほど考えてから答えた。
「お願いします」
 
それで山村は水帆の腕をゴムで絞って血管を浮かび上がらせると、アルコール綿で消毒する。注射器とアンプルを取り出し、液を吸い上げて、水帆に注射した。
 
「この薬は本人が強く生きたいという希望を持っていれば症状を劇的に改善する。しかし絶望している人はすぐ死ぬ」
と山村は説明した。
 
「私は生きたい」
「よしよし。頑張れよ」
 
「・・・・」
「どうかした?」
「山村さんの性別は?」
「ああ、私はご覧の通り、女装男だけど」
「気付かなかった!」
 
「今強く生きたいと思ったことで、生命エネルギーの水位があがった。それで注意力が少し復活したんだろうね。アクアをあれだけ見ているあんたが私の女装に気付かない訳無いと思っていたし」
 
「まあアクアは女装が好きですね。まあ好きというより女装させられることに快感を覚えている」
と水帆も笑って答えた。
 
「ああ、そうそう。だから積極的に女装することは少ない」
と山村。
「どうもそういう感じみたいです」
と水帆。
 
「ところがアクアの回りにはあいつを女装させたい奴がたくさんいる」
 
「そうなんですよ!」
と鱒渕は楽しそうに言った。
 
「さて注射はした。後は水帆ちゃん、あんたの生きる意志次第。取り敢えず、即死んだりはしなかったから、回復する可能性が高いと思う。頑張れよ」
「はい」
 
それで鱒渕水帆は《こうちゃん》と強く握手した。
 
「そうだ。言い忘れたけど、この注射、たまに性別が変わっちゃうこともあるらしい」
「その場合は男の娘を目指しますから問題ありません」
「よしよし」
 
 
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【春水】(1)