【春水】(3)

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アクアの映画の撮影は8月いっぱい精力的に続けられ、結局8月中にほぼ全てのシーンを撮り終えてしまった。
 
何と言っても、8月7日に参戦した主役のアクアがこの1ヶ月間に2度しかNGを出さなかったことで、予定よりずっと早く撮影が進行してしまったのである。監督は当初の予定では、主なシーンを8月中に撮影し、編集しながら追加シーンを9-10月の土日に撮影するつもりだったのだが、結局9月中は撮影をしないという方針を出演者に伝えた。
 
ただ撮影のギャラを期待していた俳優さんが多いので、制作委員会側はその間日数単位でギャラを払う契約の俳優さんには、これまでの出演頻度に応じて4-10回分のギャラを払うということで了承を得た。(メインの俳優さんたちは拘束時間に関係無くグロスの契約)
 
9月はここまで撮影した分のビデオを編集し、その出来を見て、一部のシーンを撮り直したり、あるいは追加シーンの撮影を10月に行うことにする。また予告編の第一段を9月中旬からテレビやネットで公開して、前売券も発売開始することにした。前売券の印刷は既に8月下旬から進めている。
 

この映画の主題歌は当然アクアに歌わせることになっていた。ただ今回それを誰が書くかが結構な問題であった。
 
これまでアクアの歌う楽曲は、青葉とケイが1回交代くらいで書き、歌詞は毎回マリが書くのが定着している。3月に発売した『星の向こうに』と7月に発売した『憧れのビキニ』を青葉が書いているので、今度はケイの番である。しかし今回ケイはローズ+リリーのアルバム制作で全く時間が取れない。そこで3回連続になってしまうものの、今回も青葉にお願いするということで、コスモスは関係者の了承を得た。歌詞についてはマリも多忙だったのだが
 
「アクアちゃんのためなら」
 
と言って忙しい中『真夜中のレッスン』という可愛い詩を書いてくれた。
 
青葉は大学の期末試験が終わった後、8月6日(日)にレジャー水泳客で賑わう芝政ワールドに行って、ビキニ女子たちが闊歩しているのを見ながら、この詩に曲を付けた。
 
そして更に問題だったのが、カップリング曲である。アクアのCDのカップリング曲はこれまで一貫して葵照子+醍醐春海(蓮菜+千里)のペアが書いてくれていた。ところが千里は7月4日の事故のあと
 
「ごめん。今は埋め曲レベルのものしか書けない」
 
という状態に陥っていた。
 

それで困っていた時に、当の千里からコスモスに連絡があった。
 
「雨宮グループの新人作曲家で、琴沢幸穂という人がいるんだよ。この人が凄くいい曲を書いているんだ。彼女に書いてもらえないかな?」
 
と言い、現在ローズ+リリーが制作中のアルバムに入る予定の曲『フック船長』の譜面を送ってくれた。
 
コスモスは音痴なのだが、譜面を読むのは上手い! それでこの曲を見てみてひじょうに良い品質の曲を書いていることを認識した。念のため自らピアノ伴奏をして、ちょうど事務所に居た桜野みちるに歌わせてみたら、みちるも
 
「これカッコいい歌ですね〜」
と言った。
 
琴沢の曲を使うのなら雨宮グループの作曲家の仕事の窓口になっている新島鈴世さんに連絡してということだったので連絡してみたら、新島さんはなぜか笑って!?
 
「琴沢幸穂ちゃんは優秀だよ。その映画のストーリーも把握しているから、すぐ依頼するね。使うかどうかは出来た作品を見てから決めて」
と言ってくれた。
 
楽曲はわずか3日後に送られて来たが『恋を賭けようか』という少し色っぽい感じの曲である。これも念のため、コスモス自身がピアノ伴奏して、桜野みちるに試唱してもらった。
 
「ちょっと言葉遊びが面白いですね、この曲」
とみちるは楽しそうに言う。
 
「うん。小学生はこの言葉遊びに気付かない」
「中高生にはかなり受ける」
「男子大学生がかなり狂う」
 
「これって女子高生になったアクアにピッタリの曲かも」
とみちるは言ったが
「アクアは男子高校生のはずだけど」
とコスモスは訂正しておく。
 
「アクアって、結局男子高校生してるんですか?1度スカートの制服着てるの見たけど」
「あれ、ズボンを友だちに隠されたらしい」
「毎度のことだな」
 
「でも高校生になったアクアにピッタリの曲だと思うよ」
とコスモスは言った。
 
それで採用することにして、新島さんにその方針を伝えた。普通に印税方式で支払うので良いということだったので、それで契約書を交わし、JASRACにも登録した。
 

9月2日に青葉が枚方市のプールでのタッチ練習を終えてホテルに戻ってきた時、コスモスからメールが入っていることに気付く。電話してみると、アクアの映画の主題歌の音源制作をしているので、インカレが終わったら東京に来てくれないかということであった。
 
「映画の撮影はどうなっているんですか?」
「8月中に事実上終了した」
「凄い」
「あの子、2回しかNG出さなかったらしい」
「それはまた凄いですね」
 
「今ビデオ編集中なんで、10月に入ってから多少の追加シーンを撮るかもという状態なのよ」
 
「じゃ明日こちらが終わったら最終新幹線で東京に移動します」
「分かりました。お願いします」
 

インカレ最終日。9月3日(日)。
 
朝1番に行われた400m個人メドレー予選では、青葉は4位でA決勝へ。皆橋君もA決勝、蒼生恵はB決勝に進出した。
 
その後、100m自由形に出た希美はB決勝進出。100m背泳に出た諸田さんは予選落ち。200m平泳ぎに出た香奈恵と中原さんはいづれもA決勝に進出した。
 
予選の部最後に800mリレーの予選が行われる。女子は予選タイム3位でA決勝へ、男子は予選タイム13位でB決勝に進出した。
 

1日目も2日目も中休みは2時間ほどあったのだが、今日は1時間ほどの休憩ですぐ決勝の部に入った。青葉はその間はお弁当も食べずにひたすら寝ていた。
 
14:30女子800mの決勝が行われる。青葉は予選3位だったので3コースである。予選1位で4コースを泳ぐ永井さんは昨年の銀メダリストである。顔を覚えているので青葉が会釈したら向こうも会釈を返してくれた。5コースを泳ぐ予選2位は南野さんだ。
 
「Take your mark」
という声で全員不動の姿勢を取る。
 
各自の後ろにあるスピーカーからブザーが鳴り、一斉に飛び込んだ。
 
昨年は上位4人で激しく争ったのだが、今年はまずは5人の争いという感じになった。こういう長距離のレースでは結構駆け引きの部分もある。3〜5コースの3人と1コースの人、7コースの人の5人がほぼ並んで泳いでいく。そしてお互い相手の位置を把握しながら、仕掛ける時を待っている。
 
ラップカウンターが4になる。
 
南野さんが少しペースを上げた。それに永井さんが続き、青葉もそれに続く。1往復してくる間に1,7コースの選手との差が付いたようである。どうもこの3人の戦いになった様相があった。残り2往復となった所で今度は永井さんが少しペースを上げる。青葉もそれに付いて行く。南野さんは更にペースを上げた。永井さんも対抗して上げる。青葉も更に上げる。
 
青葉は無理せず2人に付いて行っているのだが、南野さんと永井さんは必死でペースを上げようとしているようだ。ところが無理しすぎたのか、残り1往復になった所で南野さんのペースがやや落ちる。永井さんはペースを保ってそのまま泳ぎ続ける。青葉は今が勝負時だと思った。
 
今までキープしていた全体力を投入して、グッとペースを上げた。永井さんはいったんは離されてものの、向こうも必死で追ってくる。向こうが追ってくるのを感じ取って、青葉は更にペースを上げる。
 
そして向こうの壁でターンして最後の50mは全力で泳ぐ。筋力の限界を超えて水を掻き、足も動かす。体格的に向こうが勝っているせいか僅かながら向こうのペースが速い。距離を詰められているのを感じる。青葉は限界の限界を超えて必死に泳いだ。
 
しかし向こうもかなり追いすがってきた。
 

ほぼ同時にゴール板にタッチした。
 
時計を見る。
 
1.KAWAKAMI 8:35.28
2.NAGAI___ 8:35.29
3.MINAMINO 8:37.12
4.HARADA__ 8:42.51
5.MAEDA___ 8:44.69
 
やった!
 
0.01秒差で青葉の優勝であった。永井さんが首を振って青葉に握手を求めてきたので青葉も笑顔で応じた。
 
「来年は負けないから」
「こちらもまた鍛錬してきます」
 
この時点で青葉はもう退部届のことは完璧に忘れている。
 
「ところで川上さん、なんで今年の春の日本選手権は欠場したの?」
と退水しながら永井さんが訊いた。
 
「欠場??」
「だって昨年のインカレで標準記録突破してたのに」
「え〜〜〜!?」
「まさか出場資格があることを知らなかったとか」
「知らなかった!」
「幡山さんは教えてくれなかったの?」
「う・・・」
 
ジャネは・・・人にそんなことを注意するほど親切な人ではない!
 
「じゃ今度は登録忘れないようにね」
「ありがとう!頑張る」
 

男子の1500mが行われている間に女子800mの表彰式が行われるが、青葉は表彰台のいちばん高い所に立って金メダルを掛けてもらい、満面の笑みで観客に手を振った。2位の永井さん、3位の南野さんとも握手する。
 
表彰式が終わってから控え席の方に戻ろうとしていたら
 
「K大の川上さん」
と40代くらいの女性に声を掛けられる。
 
「はい?」
「JADAの者です。ドーピング検査にご協力頂けますか?」
「はいはい」
 
実は青葉はドーピング検査を受けるのは初めてであった。この後、青葉は
「うっそー!?」
と思う体験をすることになる。
 
係の人はまず青葉に150円を渡して、自販機でお茶か水を買って飲んで下さいと言う。それで青葉は烏龍茶を買って飲み干した。
 
「ドーピング検査は初めてですか」
「はい、初めてです」
 
「でしたら少し驚かれるかも知れませんが、よろしくお願いします」
「はい」
 
それで一緒にトイレに行く。
 
「中でおしっこ取ってくればいいんですか?」
「そうなんですが、おしっこを出す所を私が確認させて頂きますので」
「は?」
「昔は各選手に個室の中で取ってもらっていたのですが、それだと他人の尿を隠し持っていて、それをコップに注ぐという人が出てきたので、確かに本人の身体から出るところを検査官が見なければいけないことになったんです」
 
「え〜〜〜!?」
 
それで一緒に大型の個室の中に入り、青葉は結局水着を脱いで裸になり、そこで係官が持っているコップの中におしっこをした。
 
なんつう恥ずかしい!
 
みんなこんなこと、やってるの〜〜〜!?
 
「それではこのコップから目を離さないで下さいね」
「はい?」
「選手が目を離した隙に、薬物をコップに投入する悪徳検査官がいたので、封印するまでの間、選手・検査官の双方がコップから目を離さないようにするというルールになったんです」
 
「大変だ!」
 

それで青葉は残りのおしっこをトイレの中にして水を流した後、水着をまた着て個室の外に出て手を洗うが、言われたとおりコップからずっと目を離さないようにしていた。
 
一緒に事務局に行き、コップをカバンの中に入れて封印する。封印した後はもう検査官も開けることはできない。開ければ封印が破れてしまう。
 
それで所定の書類にサインして解放された。
 
あまり何度もやりたくない!と青葉は思った。
 
そういえばちー姉は、高校1年の時、まだ男の身体だったのに、女子選手と思われて女性の検査官にドーピング検査されたと言っていたけど、どうやって性別を誤魔化したんだ?と思った。こんな裸になっておしっこするのなら、タックしてたって男とバレるぞと思う。
 
やはりちー姉は、中学生時代に性転換済みだったとしか思えない。
 

ドーピング検査を終えて時計を見ると、15:05である。
 
「きゃっ、出番が!」
と声を挙げたら、検査官が
「もしかして次の出番がありましたか?」
と訊く。
 
「15:19からの400m個人メドレーに出るんです」
「それはいけない。一緒に行って、遅れた理由を説明します」
と検査官が言ったので、一緒に走って選手入場口の所に行った。
 
「すみません!遅くなりました。K大の川上です」
と声を挙げる。
「今締め切った所なんですが。2度も場内呼び出ししましたよ」
とスタッフが怒ったような顔で言う。
 
それでJADAの人が、ドーピング検査をしていたことを説明する。
「ああ、そういう事情でしたか。分かりました。それでは参加を認めます」
 
それで青葉は400m個人メドレー決勝に出場することができた。
 
「でもこのメダルどうしよう?」
「私が預かってます!」
と検査官が言ったので預かってもらった。
 

しかし800mを泳いだ後、結果的にはほとんど休む間もなく400m個人メドレーに出ることになった。800mも無茶苦茶体力を使うが、400m個人メドレーもかなりきつい競技である。
 
どこかにエネルギーの予備が欲しい!
 
と青葉は思った。
 
B決勝が終わる。A決勝に出る選手がひとりずつ名前を呼ばれる。青葉は予選4位だったので6コースである。8コースから順に入場するので3番目の入場だ。
 
「第六レーン、川上青葉、K大学」
とアナウンスされ、テレビカメラに至近距離で写されるのに笑顔で大きく手を振って中に入る。さっき800mの時も同様のことをしたのだが、青葉は今回は恥ずかしい思いをしてドーピング検査を受けたばかりでナチュラルハイになっていた。
 
笛の合図でスタート台の上に上がる。軽く手足を振っている選手が多いが、これは準備運動というよりは緊張をほぐす方が大きい。しかし青葉は緊張のしようも無かった。
 
Take your marks!の声でスタート台の上でピタリと静止する。
 
ブザー音が鳴り、青葉は思いっきり飛び込んだ。
 
最初はバタフライである。
 
スピードは出るものの消耗の激しい泳法である。競技会以外で使われることはまず無い。クロールは普通に使うし、平泳ぎは体力を使わずに泳ぐのに良いし、背泳は息をしっかりしながら泳げる。しかしバタフライには、そういう実用性がほとんど無い。不思議な泳法が生き残ったもんだよなあ、などと青葉は考えていた。
 
1往復してきて背泳ぎになる。個人メドレーは最初がバタフライ、最後が自由形で、途中に背泳ぎ・平泳ぎが入る。急−緩−緩−急という流れである。そして緩の時間で結構な差が出る。上を向いているので他の選手との位置関係がよく分からないのだが、音から判断すると青葉はどうも3〜4位付近に付けているような気がした。青葉はここは体力をセーブしてあまり離されないように泳いでいった。
 
平泳ぎになる。ハッキリと自分の前に2人いることを認識する。ペースを上げる。4コースを泳いでいる2位の選手を捉える。ターンで少し離されたものの、その後頑張って泳ぎ、何とか抜き去る。あと1人!
 
青葉と5コースの選手との争いである。最後の1往復になる所でだいたい0.3秒差(約50cm)と思った。全力で泳ぐ。向こうもスパートを掛けたように思えたが、実際にはそんなにペースは上がらなかった。やはり疲れているのだろう。
 
40cm 30cm 20cm。最後のターン。
 
相手はラストスパートを掛けるが、こちらもスパートを掛ける。手が水面に付く時に痛いのは気にしない。足が疲れたよぉと言っているのを頑張れと励ます。とっくに限界を超えているのを無理矢理動かす。
 
10cm 5cm 0cm 抜いた!
 
でも青葉は自分がタッチが下手なのを認識している。相手を0.1秒(約16cm)は上回りたい。抜かれたのを相手も認識したので必死で抜き返そうとしている。こちらも必死で泳ぐ。
 
タッチ。
 

青葉はハアハア息をつきながら時計を見た。
 
1.KAWAKAMI 4:43.67
2.AKAGAWA_ 4:43.69
3.HAYASHI_ 4:47.23
4.MITAYAMA 4:48.19
 
青葉の顔がほころんだ。
 
隣のコース同士なので握手した。
 
「同着かと思った」
と青葉が正直に言った。すると彼女は意外なことを言った。
「私、タッチが下手なんですよ。だから0.3秒くらい早くゴールできるようにと泳いだんですが」
 
あはは。向こうが上手かったら負けてたな。
 
「私もタッチが下手で昨夜も特訓してたんです」
と青葉。
「だったらお互いタッチが早かったら、記録が0.02秒くらい早かったかも」
と言って、お互い笑顔になった。
 
それで再度握手してから退水した。
 

男子の400m個人メドレーが行われている間に、女子の表彰式が行われる。
 
青葉は今日2度目の一番高いところに乗り、笑顔で金メダルを掛けてもらった。再度赤川さんと握手したし、3位の林さんとも握手した。
 
それで退場する。ドーピング検査官の人が待っていて
 
「優勝おめでとうございます」
と言って、さっきのメダルも渡してくれた。
 
「ありがとうございます。色々仕事外のことまでお世話になって」
と青葉は言う。
 
「いえいえ。私たちはスポーツ大会の裏方ですし」
と彼女は言っていた。
 
「ほんとは選手と必要以上に仲良くしちゃいけないんですけどね」
「ああ、そのあたりも大変ですね!」
 

更衣室でいったん水着を脱ぎユニフォームに着換えてから控え席の所に戻った。
 
「おめでとう!」
と言って、みんなからもみくちゃにされた。
 
「でも800mの後、そのまま400m個人メドレーに行ったのね」
「いや、その間にドーピング検査されてた」
「わあ。それ大変そう」
「大変というより恥ずかしかったぁ!」
 
なお、青葉が2つの競技に出たりしている間に、男子1500mでは吉田君は6位、400m個人メドレーのB決勝で蒼生恵が14位、男子の400m個人メドレーで皆橋君は4位だったということだった。
 
「4位!惜しかったね。あと少しでメダルだったのに」
「はい。来年は頑張ります!」
と1年生の皆橋君は元気に言った。
 

その後、女子100m自由形B決勝に出た希美が11位、200m平泳ぎに出た香奈恵は6位、中原君は4位だった。
 
「中原さんも4位かぁ!」
と吉田君が嘆いていた。吉田君もいつの間にか女子の控え席に来ている。そして女子は中原さんのゴールを見てすぐに出場者の入場口の所に移動した。
 
最後の種目、800mリレー決勝に出場する。
 
リレーのオーダーは提出時間の14:30ギリギリまで議論したのだが、結局青葉がちゃんとタッチできるのに賭けようということになり、香奈恵→杏梨→青葉→希美ということにした。どう考えてもこの方が希美→青葉にするより0.1秒は早いと考えられるからである。
 
リレーの合計時間は各自の所要時間合計と、引き継ぎ時間の合計である。希美→青葉の引き継ぎ時間は0.13くらい、青葉→希美の引き継ぎ時間は0.01くらいである。だったら青葉→希美と引き継いだ方が有利だし、やはり戦略上最速の選手を最後に置きたい。
 
但し青葉のタッチが遅すぎると、引き継ぎ違反で失格になる。
 
やや危険な賭けである。
 
「これで4位以上ならたぶんシード権取れる」
「青葉次第だな」
「引き継ぎ違反になったら、青葉は部員全員に飛鳥IIでのクルーズをプレゼントすること」
 
「え〜〜!?」
 
「それとも性転換する?」
「やだ」
 

名前を呼ばれて入場する。K大は予選の成績6位だったので7コースである。
 
(決勝のコース割当ては 4-5-3-6-2-7-1-8)
 
第1泳者の香奈恵がスタート台に就く。
 
スタート!
 
香奈恵は元々そんなにクロールは得意ではない。ただK大水泳部女子の中で200mクロールのタイムが4位だったのでリレーメンバーに入れられているのである。どうしても他の泳者から遅れる。
 
これは仕方ない。問題はどのくらいの遅れで納めるかである。
 
しかし香奈恵も頑張った。一時は最下位だったものの、最後の50mで追い上げて結局7位で戻って来た。6位との差は1秒くらいある。
 
杏梨が飛び込む。彼女は短距離も割と得意だ。ぐいぐい先行する泳者を捉える。6位の泳者を抜き、5位の泳者を抜く。4位の泳者とほぼ同時にタッチした。
 
青葉が飛び込む。今度は個人メドレーから2時間経って体力を回復している。その回復した体力をこの200mに全部注ぎ込む。
 
まずはほとんど同着だったチームの泳者を引き離す。更に3位の泳者を捉える。ターンの勢いで抜き去り、続いて2位の泳者を捉える。かなり遠い。しかし必死に泳ぐ。2度目のターンで距離を詰め何とか抜き去る。
 
あと1人。感覚的に1位の泳者は3mくらい先と思った。希美ができるだけ楽になるように少しでも1位との距離を詰めなければならない。3度目のターンをした時、相手との差は1m(0.6秒)くらいと思った。
 
全力で泳ぐ。しかし向こうも最後ペースを上げる。
 
タッチ!
 
希美が飛び込む。その泳ぎを見送って退水する。祈るような気持ちで見る。
 
1位の泳者と希美の距離は青葉が見た時点で60cm(0.35秒)くらいと見た。香奈恵と杏梨が必死に声援を送っている。青葉もそれに加わる。希美が少しずつ追いついていく。50cm 40cm ターン 30cm 20cm ターン 10cm 5cm ....
 
最後のターンはほとんど同時だった。
 
向こうも意識してペースを上げる。希美も必死に泳ぐ。両者並んだままこちらに戻って来る。
 
ほぼ同時にタッチ。
 

時計を見る。
 
「え〜〜〜!?」
と青葉たちも声を出したが、会場も騒然とした。
 
1.NT-DAI 8:08.64
1.K-DAI_ 8:08.64
3.TT-DAI 8:12.37
 
「同着か!」
 
すぐに表彰式が行われる。表彰台中央に、身体をくっつけあって両チームの8人が登った。相手チームの選手とも身体が触れあうが、ついでに握手したりする。
 
それで8人とも金メダルを掛けてもらった。
 
青葉はこれで今大会5つ目の金メダルである。
 
なお引き継ぎ時間は香奈恵→杏梨が0.21秒、杏梨→青葉が0.09秒、青葉→希美は0.02秒であった。
 
「青葉も少しは進展してるかな」
「ただ希美ちゃんも、少し遅れて飛び込んだでしょ?」
「はい。引き継ぎ違反は怖いからタッチしたと思ってから一呼吸おいて飛び込みました」
 
「それが安心して飛び込めるようになるまで、青葉はタッチの練習頑張って欲しいな」
 
「よし。青葉は取り敢えず武者修行してもらおう」
と香奈恵が言う。
 
「武者修行?」
「11月の短水路日本選手権に出ておいで。うまい人たちのワザを見てくるだけでも青葉は多分凄く進歩する」
 
「11月に水泳の大会があるんですか? でも日本選手権って、そんな凄い大会に出られるんですか?」
 
「青葉は5月の中部短水路選手権でも、今回のインカレでも参加標準記録を突破している」
「うっそー!?」
 
(短水路選手権(正式には“日本選手権(25m)”)には短水路と長水路での参加標準記録が設定されており、どちらかを突破していれば参加可能)
 
「このまま2020年の東京五輪を目指そう」
「それはさすがに無理です」
「金メダルを取っておいて何を言っている?」
 
あははは。そういえば私、退部届出しているんだけどな。
 

なお、女子の表彰式が行われていた間に実施されていた男子の800mリレーB決勝では、K大男子チームは10位に入った。
 
これでK大が参加した競技は全て終了した。大会はその後、男子800mリレーのA決勝が行われて幕を閉じる。
 
閉会式が開かれ、総合成績が発表された。
 
K大女子は総合得点で210点の6位となり、来年のシード権を獲得した。
 
「やったぁ!」
「すごーい!」
「インカレのシード権なんて夢のようだ」
「しかし私はこの大会で引退するし、来年1年生の部員を勧誘しないと、リレーのオーダーも組めないぞ」
と部長の香奈恵が言う。
 

「そういえば次期部長は誰がやるんだっけ?」
とマネージャーとして参加している3年の布恋が言う。
 
「そりゃ布恋に決まっている」
「え〜〜〜〜!?」
 
「幽霊部員の幸花よりはマシだと思うし」
などと香奈恵は言っている。
 
「そういえば、こないだは幽霊の取材やってたようだが」
「あの子、そもそも大学にあまり出てきてないような」
「ちゃんと卒業できるのかね」
 
「来年のインカレは部長がマネージャー参加になったりして」
と布恋が言っている。
 
「まあそういうのもありでは」
「男子はそれがしばらく伝統になっていたんだけどね」
「そういえばそうだった」
「去年と今年が少し特異だっただけで」
「確かに」
「だから男子は多分佐原だ」
「あぁ・・・」
 
佐原さんは練習にはよく出てきているものの、大会参加のメンバーに選ばれたことがない。ある意味、布恋と似たポジションである。
 
「代表者会議には布恋が出て行って、選手しか参加できないミーティングには誰か部長代行が出て行けばいいんだよ」
と香奈恵は言っている。
 
「選手を務められる部長代行か」
 
「それは青葉でいいな」
と杏梨。
 
「ちょっと待って。私、退部届を出してるんだけど」
「それは部長の布恋が握り潰すということで」
「うーん。。。。」
 

「ところで布恋の弟さんもK大だったよね?」
と香奈恵は言った。
 
「うん。今年入学した」
と布恋が答える。
 
「その子、水泳はできないの?」
「私よりは速いよ」
「その子、女装男子だったよね?」
「女装好きみたいだけど、今は猫かぶって男子生徒のふりをしている」
「性転換させて女子水泳部に入れちゃわない?」
 
「さすがに性転換手術代が無い」
「それは残念だ」
 
吉田君が何だか嫌そうな顔をしているが、奥村君は少しドキドキしているように、青葉には見えた。
 

青葉はふと思いついた。
 
「布恋さん、裕夢君の彼女はどこに入ったんですか?」
「同じK大」
「おっ」
 
「実は2人は同じアパートに住んでるんだよ」
「すごーい!」
「何て羨ましい、いやけしからん」
「避妊だけはしっかりしろよと言っている」
 
「でも彼氏が女装趣味でもいいんだっけ?」
「洋服が共用できて便利とか言ってたし、一緒にお化粧の練習してるらしい」
「楽しそうだ」
「青葉もお化粧教えてもらうといい」
「うっ」
 
「その子、水泳は?」
「聞いてない。今度聞いてみようかな」
「よし。その彼女を水泳部に入れて、ついでに弟さんも男子水泳部に入れて。むろん本人が希望するなら女子水泳部でもよい」
 
などと香奈恵は勝手な皮算用をしていた。
 

閉会式が終わったのは18:40である。その後、事務関係の手続きなどをして19:00頃に会場を出た。
 
打ち上げをしたい所だが、最終サンダーバードまであまり時間が無い。それで青葉以外は次の連絡で金沢に帰還した。
 
門真南19:10-19:21京橋19:27-19:34大阪20:54-23:29金沢
 
大阪駅で食糧を調達して、サンダーバードの車内で「静かに」祝勝会をしたものの、後日また集まってやろうということになった。
 
青葉は別行動となり、次の連絡で東京に移動した。
 
門真南19:10-19:21京橋19:27-19:34大阪19:38-19:42新大阪20:03-22:33東京
 

新幹線に乗ってすぐ、千里から電話が入った。取り敢えずオフフックしてからデッキに出て通話する。
 
「金メダル5つも取ったね。おめでとう」
といきなり言われる。
 
「わっ、ありがとう。情報が早い!」
「私も東京オリンピックには出るつもりだけど、青葉もそれを目指そう」
「それはさすがに無理だよ」
「でもナショナルチームに招集されたりして」
「でも夏も終わりだから、ナショナルチームも今年はもう終わりでしょ?」
「ところが、今までそれだったのが良くないと言って、冬季も活動を続けることになったんだよ、今年から」
「へー!」
「まあジャネさんは召集されてるみたいだけどね」
「されるだろうね!」
 

「それでさ、青葉気をつけなよ」
「え!?」
 
「去年の7月にアクアの『エメラルドの太陽』を発表した時は、アクアがステージ上で倒れたよね」
「あ、うん」
「12月のCD発売記者会見では銃を持った男が乱入してコスモスが人質に取られた」
「うん」
「3月にCDを発表した直後には何も無かったけど、その後、鱒渕マネージャーが入院する事態になった」
「・・・・」
「7月の『ビキニ娘』の発表前日に私は死んじゃったし」
「えっと・・・」
 
「これどんどん内容がエスカレートしてると思わない?」
「そういえば・・・」
 
「次は青葉の番だよ」
と千里は言った。
 
青葉はギクッとした。確かに・・・アクアの周囲で随分トラブルが起きている。3月の時は何も無かったと思ったが、確かにマネージャーのダウンは時期的に重なっているかも知れない。いや、ちー姉が落雷にあったのもその時期じゃん。
 
「龍虎が小学1年生で大手術受けた時にさ」
と千里は言う。
 
「うん」
「前夜に身代わり人形をあげたんだよ」
「へー!」
「手術の後、その人形は無くなっていた」
「・・・」
 
青葉はふと思い出した。
「もしかして修学旅行の時にもらったやつ?」
「そうそう。あの時渡したのもそれ」
「ごめーん。あれは人にあげてしまって」
 
「うん。それはそうなるだろうと思ったし。それでまたその人形を同じ所で買って、さっき彪志君のアパートの郵便受けに放り込んできたから、それ身につけてて」
と千里。
 
「ありがとう!そうする。これ呪いか何か?」
「私今霊感とか全然無くなっているから、それ分からない。でも気をつけて」
「分かった」
 
電話を切ってから、これだけのことを予言しておいて「霊感が無くなっているから」も無いよ、と青葉は思った。
 

その後は新幹線の座席でひたすら熟睡した。
 
東京駅では彪志と落ち合い、一緒に新幹線自由席で大宮に移動した。それでコンビニで晩御飯を買い、アパートに戻った。着いたのはもう0時前である。青葉は郵便受けに入っていた紙袋から身代わり人形を取り出す。
 
わぁ、これ強そう!と思う。それでいつも使っているコーチのトートバッグに入れた。
 
翌9月4日(月)の朝は朝御飯を彪志と一緒に食べ
 
「あなたいってらっしゃい」
と言ってキスで彪志を送り出した後、都心に出て§§ミュージックの事務所に行く。
 

午前中なので、まだ秋風コスモス社長は出てきていないが、川崎ゆりこ副社長が出てきている。
 
「済みません。昨夜社長は遅くまで作業していたので、今日は頼むと言われまして」
とゆりこは言っている。
 
「いや、コスモスさん、凄いハードスケジュールでしょ?」
「そうなんですよねー。とにかくアクア関係の打合せも多くて」
「そうでしょうね」
 
「一応、たいていは私が朝9時から夕方5時まで、社長が午後4時から夜中12時まで事務所に居るようにしているんですよ。この業界は夜型の人が多いから、その方が社長が対応できること多いし」
 
「なるほどー。大変ですね。4時から5時までの1時間が引き継ぎタイムですか」
「ええ。だいたい私と社長と、桜野みちるちゃんの3人でお茶飲みながら世間話。日野ソナタさんからは『おばあちゃん会議だね』と言われてますが」
 
「えっと・・・」
 
コスモス26歳、ゆりこ25歳、みちる23歳だが、日野ソナタ(霧島鮎子)は33歳である。
 
「みちるちゃんは§§プロの常務なんですよ。コスモスが§§ミュージックの社長、私が副社長で。本当は§§プロ副社長のソナタさんがこの会議には出るべきだと思うんですけどね〜。ほとんど事務所に出てこないから」
 
「なるほどー」
 
「まあ私たちがおばあちゃんならソナタさんは化石だね、などと陰口たたいてますけど」
 
「あははは」
 

ここまで出来ているアクアの音源を聞かせてもらう。
 
「これ歌はいつ録音したんですか?」
 
青葉が『真夜中のレッスン』を書きあげてCubase上でスコアを作成し送信したのは8月10日であるが、当然8月いっぱいはアクアは映画の撮影で全く休む暇は無かったはずである。お盆の最中も撮影は続けられている。
 
「エレメントガードと5人のスタジオミュージシャンによる伴奏は8月20日くらいまでには出来ていたので、一応その伴奏音源とスコアはアクアに送っておいたんですよ。そしたら、撮影の合間にちゃんと練習していたみたいで」
 
「凄い」
 
「8月31日で一応撮影が終わって、9月1日は始業式で学校に出て、午後3時半で学校が終わってそのままスタジオに入って、その日は夜10時まで練習。2日は監督からちょっとだけ撮り直したいところがあると言われて出て行って、結局昨日の朝から夜まで掛けて吹き込んでこの出来なんですが、大宮先生はどう思われますか?」
と川崎ゆりこは訊いた。
 
青葉は少し考えてから言葉を選ぶように言った。
 
「私はこの歌はもう直す必要無いと思います」
と青葉は言う。
 
「やはりそうですか。実はヤコさんと和泉さんも、あと直すとしたら好みの部分で、技術的には充分良い出来だとおっしゃったんですよ」
 
とゆりこが言う。このプロジェクトは一応青葉がプロデューサーなので、先にこちらの意見を聞いたなと思った。
 
「それに同意見ですね」
と青葉も答える。
 
「だったら今日夕方のアクアの作業はキャンセルで、データはこのままマスタリングに回していいですか?」
 
「ええ、お願いします」
 
それでゆりこはアクアのマネージャーと、スタジオの技術者に電話をしていたようである。
 

「でも映画の撮影は毎日朝から晩までだったんでしょう?よく練習する時間がありましたね」
「撮影が終わってから自宅あるいはホテルで練習していたそうです」
「頑張るなあ」
 
「映画撮影中も凄いバイタリティーだったみたいで。もうアクアは3人くらいいるのでは?とか、実はアクアは7人居て曜日毎に別のアクアが出てきているのでは?とか言われてましたよ」
 
「ああ、苗場でもそんなこと言ってましたね。そうだ、この曲の発売予定は?」
 
「映画が12月1日金曜日公開なので、約2ヶ月先行して10月4日水曜日の発売ということで考えているのですが」
 
「はい、それでいいと思います。10月4日でしたら私も出席できると思います」
「ではよろしくお願いします。平日ですので例によって夕方からの記者会見ですので」
「分かりました」
 

ゆりこからは、千里姉の回復状況についても尋ねられた。青葉は取り敢えずバスケットの力は既に事故前と変わらないくらい回復したようだし、他の能力も信じられない速度で回復しつつあるようだと言っておいた。ゆりこも
 
「それはよかったです」
と言っていた。
 
「あんな回復するなんて奇跡としか思えないのですが」
と青葉は言う。
 
§§ミュージックでも千里とあらためて接触して話を聞いたらしいが、本人は、どうしても作曲能力の方が戻って来ず、なーんにも良いものが思いつかないということで、当面アクアのCDのカップリング曲には、琴沢さんの作品を使ってくれないかという要請があり、千里がコスモス社長とも2人だけで直接話し合って了承を得たらしい。
 
ただコスモスは営業政策上、醍醐春海の名前を残したいということだったので、琴沢さんの書いた曲を最終的に千里が編曲して納品するという体制にすることになったということであった。
 
「確かに編曲作業は、作曲作業に比べると、創作能力をあまり使わなくてもいいですからね」
「醍醐先生は、作曲は0から1を作る作業、編曲は1を3にする作業と言っておられたそうです」
「ああ、確かにそういう感じなんですよ」
「だから掛かる時間は編曲の方が長いけど、使用する脳味噌のパワーは作曲の方が遙かに大きいとも」
 
「まあそのあたりは作曲家のタイプによっても違うんですけどね。醍醐の曲にはそういうクリエイティブな曲と、もうひとつは工業製品のように生み出される曲があって」
と青葉は言う。
 
「醍醐先生、年間凄い数の作品を書いておられますもんね」
「ええ。自分の9割の作品は『量産品』なんだよと姉は言ってました」
「それでないと身が持たないでしょうね」
「だからケイさんを心配しているんですよ。姉は明確にその2種を分けているけど、ケイさんは全ての作品を丁寧に手作りしようとしている。それではいつか破綻すると言って」
 
「あぁ」
 

鱒渕さんの病状についても話したが、こちらも8月以降急速に回復していて、今の状況なら10月くらいに退院できるかもということだった。
 
「やはり色々薬を試していて、たまたま物凄く効いた薬があったんでしょうかね」
「そのあたりはお医者さんも心当たりが無いというので首をひねっていたらしいです。ひょっとしたら何か精神的なものがあったのかもということでした。こちらもほんと奇跡のようです」
 
「退院なさったら、今度は別の人を担当してもらうんですか?」
「山村マネージャーとも話したのですが、鱒渕さんも今更アクアから離れられないだろうから、山村さんと鱒渕さんのダブルヘッド体制にしようかと話しているんですよ。山村さんはこの業界の経験が長いので、鱒渕さんも色々学べる部分もあるだろうし」
 
「ああ、それはいいかも知れないです。アクアの仕事の量が凄まじいから4人くらいマネージャー付けても多いことはないですよ」
 
「私もそんな気がします。まあでも退院しても半年くらいは休養させて、来年の春か夏くらいから業務復帰という線で」
 
「それがいいですよ。復帰したら激務だもん」
 

本来は今日はアクアの音源制作に立ち会う予定だったのだが、アクアが頑張ったのでもう終わってしまったということで、ゆりこは謝っていたが、楽になるのは悪くない。一応、§§ミュージックからは、高岡から東京までのグリーン席での往復料金相当の交通費とホテル2泊相当の宿泊費をもらっている。
 
それで新宿で川崎ゆりこ・緑川志穂(アクアのサブマネージャー)と会食してから分かれた。
 
青葉は高岡には夕方の新幹線で戻ればいいなと思い、新宿からそのまま小田急に乗り、経堂まで行った。どうせ桃姉はあまりまともなもの買ってないだろうしと思い、小田急OXで買物をしてからアパートに寄る。
 
すると桃香はまだお昼を食べていなかったということで、取り敢えず青葉が買ってきた鯛焼きを食べていた。
 
「お乳はちゃんと出る?」
「出てる出てる。千里からたくさん水分を取れといわれてかなりお茶も飲んでいるし」
「まあ早月ちゃんの分まで2人分の水分取らないといけないからね」
 
「どうもそのようだ。しかし夜泣きが辛い」
「ああ、今の時期は大変だろうね」
「きつい時は、千里を呼び出して散歩とかに連れて行ってもらっている」
「ちー姉も大変だ」
「まあ千里もお乳は出るみたいだから、全部千里に任せて寝ている時もある」
「なるほど」
 
桃香は千里がお乳が出るのは青葉が操作してあげたせいとおもっているようだが実際には京平君にずっとお乳をあげていたからだろうなと青葉は考える。
 
「千里もやはり7月はほんとに茫然自失みたいな状況が多かったけど、8月に入ってからは、少し落ち着いて来始めたようだ。それに早月の世話をしていると自分もしっかりしなきゃと言っている」
と桃香。
 
「うん。誰かのお世話をすることで自分を取り戻せるんだよ」
 
と青葉は言う。ちー姉の急速な回復は早月ちゃんのお陰かも知れないなと青葉は考えたのだが、今の桃香の言葉の中にとんでもない内容が含まれていたことに青葉はこの時は気付かなかった。
 

夕方前に桃香のアパートを出た。それで今回は千里とは、すれ違いになってしまった。まあ電話ではたくさん話しているからいいよねと青葉は思ったのだが、この日、千里が来るまでアパートにいたら、青葉は昨夜新幹線の中で電話で話した千里とは全く違った様子の千里を見ることになって、頭の中がパニックになっていたであろう。
 
新宿に出てから東京駅に移動しようとしていたら、ふと見たような顔の人と目が合う。
 
「金沢ドイルさん?」
「剣崎さん?」
 
それは先日、変な夢を見ると言って相談をしてきた剣崎矢恵さんだった。
 
「ご旅行ですか?」
と剣崎さん。
「仕事で出てきて今から帰る所だったんですよ。そちらは」
と青葉。
「私は東京で受けたいセミナーがあって、それでこちらに出てきた所で」
と剣崎さん。
 
「お時間は?」
とどちらかともなく訊く。
 
「私は21:04の金沢行きに乗ればいいです」
と青葉。
「私は今日は都内で1拍して、明日用事をすませる予定で」
と剣崎さん。
 
「だったら2時間くらい、どこかで話しましょうか?」
「ええ」
 

結局、東京駅から山手線に1駅乗って有楽町で降り、銀座のエヴォンに入った。ここは常に音楽が流れているので会話が他に漏れないからと思ったのだが、実際に行ってみると、チーフのリリー(如月乃愛)さんが
 
「青葉ちゃん、お久しぶり〜。もし打合せに使うなら2階の個室開けるよ」
と言うので、遠慮なく個室を借りることにした。
 
「ここはウェイトレスさんの制服が凄い可愛いですね」
と剣崎さんが言う。
 
「ここはメイドカフェなんですよ」
「え〜〜?」
「でも『お帰りなさいませ』とか『いってらっしゃいませ』という挨拶は廃止してしまったから、まるで普通の喫茶店ですよね。お値段もこのメニュー見るように良心的だし」
 
「すごーい。また東京に来た時は寄らせてもらおう」
 
「今、神田・新宿・銀座と3店舗あって、来年は横浜店も作る予定なんですけどね」
「へー」
「同じオーナーが作った同じエヴォンというお店でも、この3つは微妙にシステムが違うんですよ。ご覧の通り、この銀座店は事実上ライブ喫茶」
「わあ」
「実はここがいちばんお値段が高い」
「高くてこの値段ですか!」
 
「神田店がいちばんオーソドックスなメイド喫茶。新宿店はタリーズなんかに近い感じで、エスプレッソの専門店になってますね。オムレツよりコーヒーで稼いでいる。フードが充実しているから食べ物もサンドイッチとかハンバーガーをオーダーするお客さんが多いんですよ」
 
「色々面白い」
 
それで若いメイドさんが、オムレツとカフェラテを持って来てくれた。
 
「可愛い!」
と剣崎さんがラテアートの猫の絵に嬉しそうな声をあげる。剣崎さんの前に置いたのが猫で、青葉の前に置いたのはパンダである。
 
「お嬢様、オムレツの上に描く模様や文字にご希望はございますか?」
「そうね。。。もし描けたら桜の模様を」
と彼女が言うので、青葉はびっくりする。するとメイドさんは
「かしこまりました」
と言うと、オムレツの上にきれいに桜の花びらの絵を描いた。
 
「お嬢様は?」
と青葉にも訊くので、
「じゃ、私はバラで」
「かしこまりました」
 
こちらもきれいなバラの花を描く。
 

「さすがマキコちゃん、上手いね」
「ありがとうございます」
 
「こちらには研修かヘルプ?」
「そうなんですよ。今クレールの方が落ち着いているから、また交代でこちらに研修に行ってこようということで、ヒトミと2人でこちらに来ています。前回は神田店だけだったから、今回は銀座店と新宿店を2週間ずつ」
 
「なるほどねー」
「そうだ。こないだ、千里さんの偽物さん、見ちゃいましたよ」
「偽物?」
 
「千里さん本人が言っていたんですよ。千里さんの本物と偽物の見分け方って」
「へー!」
 
「本物はまだ授乳しているからおっぱいの香りがする。偽物はしない」
「あ、そういえばそうだった」
 
「本物はガラケーを使っている。偽物はスマホを使う」
「あ、それは・・・」
 
と青葉は千里姉が4月の落雷事故でガラケーを焼損してしまい、iPhoneに変えたことを教えてあげようと思った。ところがマキコは青葉がそれを言う前にこう言った。
 
「私がこちらに来た日に千里さんが来て、その人はお乳の臭いがしなくて、アクオスを使っていたんですよ」
「へー」
 
と反応しながら青葉は思う。アクオスということは、それはきっと千里の眷属が千里に擬態していたのではないかと。
 
「でも昨日また千里さんが来て、その人は確かにお乳の臭いがしてガラケーを持っていたんですよね。それで先週来た人の話をしたら『そうそう。私の偽物には、確認できただけでも、アクオス持ってる子とアイフォン持ってる子とアローズ持ってる子がいるんだよ』と言って笑っておられました」
 
へ? ガラケー持った千里姉??アイフォン持った偽物???
 
マキコは長時間話していたら叱られるからなどと言って
「ごゆっくり」
と言って出て行ったが、青葉は考え込んでしまった。
 
 

「すみません。知り合いのメイドさんだったのでつい話し込んでしまいました。それでお話をお伺いできますか」
と青葉は気を取り直して言った。
 
「はい。それで夢の内容なのですが」
と言って、剣崎さんは桜の模様が描かれたオムレツを食べながら話し始めた。
 
矢恵さん自身がその夢を見始めたのは5年くらい前、まだ中学生の時だったという。しかし亡くなったお父さんはもっと以前から見ていたので、もしかしたら12-13年前からかも知れないということだった。
 
「失礼ですが、お父さんが亡くなられたのは?」
「6年前なんです」
 
青葉は厳しい顔になった。
 
「ということは、お父さんが亡くなった後で、その夢は始まったことになりますか?」
 
「実はそうなんですよ。父が亡くなったのは2010年なのですが、この夢はその翌年の2011年から始まったんです」
と矢恵は言った。
 
「お父さんの死因を訊いていいですか?」
「一応交通事故として処理されました」
「事故ですか・・・」
 
「北陸自動車道を走行中に、カーブで壁面に激突して亡くなったんです。幸いにも、他の車は巻き込んだりせずに、単独事故で」
「せめてもの、ですね」
 
「一応警察や保険屋さんのレベルでは居眠り運転として処理されました。保険金も出たし、勤めていた会社からは退職金に加えて慰労金まで頂きました。おかげで私は高校・大学と進学できたのですが」
 
「それは不幸中の幸いでしたね」
 
「でも私も母もあれは自殺だと思っています」
 
青葉はこの言葉には反応しなかった。反応できないと思った。
 

「自殺したくなる要因に心当たりがあったんですか?」
 
「実はですね。父は身体が女性化していたんです」
「それは・・・」
 
「母の記憶とも合わせて考えてみると、私が小学校の2年の頃からだったのではないかと思います。最初おちんちんが立たなくなっちゃったらしいんですよ」
「ああ」
 
「まだ30代半ばだったから、結構なショックでEDの治療とかにも通っていたものの全然回復が見られなくて、バイアグラも効かなかったらしいです」
 
「うーん・・・」
 
「でもそのEDの治療に通っている時に、お医者さんから睾丸の異変を指摘されて。それで結局睾丸に腫瘍ができていることが分かって、摘出したんです」
 
「あらぁ」
 
「多分腫瘍ができていたからEDになったのではと言われて、それで睾丸を取ってしまうと、もうどうにもならないので、男性能力の方は諦めたようです」
 
「まだ30代でそれは辛いでしょうね」
「父もかなり落ち込んでいたらしいですよ。母は別にセックスできなくても愛さえあれば大丈夫と言って、それで父も気を取り直して仕事に頑張るようになったようです」
 
「いいお母さんですね」
 
「ところがその内、今度は胸が膨らみ始めて」
「うーん・・・」
 
「肝機能障害ではないかということで、調べてみてもらったものの、肝臓には特に異常は無いということで。でも血液中の女性ホルモンが増加していたらしいです。男性ホルモンを投与してもらっていたのですが、胸はどんどん膨らんでいって、父もとうとう諦めてしまったみたいで」
 
「うーん・・・」
「手術して乳房を除去する手もあるとは言われたものの、病変とかでなければわざわざ身体にメスを入れるのもということで、結局放置することにしたようです。でもおちんちんの方は、睾丸も取ってしまったし、女性ホルモンの濃度が高いので、どんどん縮んでいって、とうとう立っておしっこできなくなってしまったようです」
 
「ああ、男性には辛いなあ」
 
「母によると最終的には皮膚に埋もれてしまって、突起が無い状態になってしまったようです。おっぱいもあるし『俺、女湯に入れるかも』と開き直って言っていたらしいですが」
 
「開き直れるのは強いです」
「そんな気もします」
 

「亡くなる1年くらい前からは声のトーンが高くなってしまって」
「声変わりですか?」
「そうなんです。喉仏も目立たなくなって、完全に女の人のような声になってしまいました。仕事してても、女性と思われることが多くて『女じゃ話にならん。上司を出せ』とか言われて困っていたそうです」
 
「社会生活に支障が出てますね」
 
「ずっと掛かっていた病院に母が不信感を持って別の病院に連れて行って、セカンドオピニオンを求めたんですよ。それで全身徹底的に検査されたら、そもそも染色体がXXだと言われて」
 
「じゃ半陰陽だったんですか?」
「でもそれなら子供作れる訳無いし、その医者の診断も信用できないと母は言っていました」
 
染色体がXXの男性は稀にいるが、普通は不妊だと言われる。
 
「失礼ですが、DNA鑑定とかは」
「父も母も鑑定する必要は無い。お前たちは自分たちの子供だからと言っていました」
 
「あ、弟さんか妹さんおられます?」
「はい。弟が居ます。今、中学3年なんですが」
「間が少し空いたんですね」
「途中、生きていれば高2だった妹がいたんですが、幼稚園の時に海で溺れて亡くなったんですよ」
「あらあ、それはお気の毒に」
 
青葉は頭の中で計算していた。矢恵さんの夢が5年くらい前から始まり、それがお父さんが亡くなった翌年である。お父さんの異変は矢恵さんが小学2年の時に始まったという。ということは、弟さんができて間もない頃から、お父さんの女性化は始まった計算になる。
 

「父が亡くなった後で、社長さんが母に謝っていたんですよ。父の女性化があまりにも凄くて、もう当時は女性が男装しているようにしか見えなかったので、いっそのこと、どこかの支店に女性社員として転勤しないか、と打診していたらしいんです。役職は部長にするからって。それで父は少し考えさせてくれと言ったらしいです。父の死はその社長の打診があってから1ヶ月後だったんですよ」
 
「精神的に追い詰められてしまったんですね」
と青葉は静かに言った。
 
「私も母も、社長さんは悪くないと言いました。性の問題って本当にデリケートだから、社長さんは多分、父に配慮してくれたんだと思うんです。でも父はそれで逆に自分の精神的な行き先を見失ってしまった。母にでも私にでも相談してくれたら良かったんですけどね」
と矢恵はしんみりと言う。
 
「普通の人にはそのあたりの微妙な所はなかなか分かりませんよ」
と青葉は静かに言った。
 
しかしそれで退職金だけではなく慰労金とかまで加算してくれたのかも知れない。
 
 
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【春水】(3)