【春水】(4)
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(C)Eriko Kawaguchi 2017-11-25
剣崎矢恵は語る。
「それで父が生前言っていたんですよ。時々桜の夢を見る。それが物凄く怖いって。でも詳しいことは聞いていなかったんです。自分が見るまでは想像もできないものでした。でもうちの家って長らくお花見に行ってなかったんですよね。それも父が見ていた桜の夢のせいだったんだろうな、と後から思いました」
「それでその桜の夢というのは?」
「ひたすら桜の木が並んでいて、どこまで行っても桜なんですが、誰もいないんです。私ひとりだけが歩いていて。でもその内、座り込んでしまって。すると桜の花びらがたくさん落ちてくるんだけど、その中で私の身体が少しずつ溶けていって、最後は骸骨だけになっちゃうんです」
「骸骨になっても自分の意識はありますか?」
「あります。でもこれ、人によっては怖くなって途中で目が覚めるんじゃないかって思いますね」
人は概して危険な夢を見た時は、自分を守るためにその夢を中断させて覚醒させる。しかし稀に夢の中で自分が殺されても、しっかり意識を保つことのできる人がいる。概して霊的な能力の高い人で、幽体離脱などの才能のある人も多い。
青葉はあらためて剣崎矢恵を見たが、確かに結構な霊感を持っていると思った。占い師くらいにはなれそうである。
その時、青葉はハッとした。
「あのぉ、失礼ですが、矢恵さんの性別は?」
彼女はニコリと笑ってから答えた。
「生まれた時は男の子でしたよ」
「だったら性別が変わってしまったんですか?」
「ええ。この桜の夢にはいくつかのバージョンがあるんですが、その中に特にシンボリックな夢がいくつかあったんです」
と言って、矢恵は手帳を取り出す。
「これ何か意味があるかもと思って見た日付を記録していたんです」
「それは凄い」
「最初に桜の夢を見たのは2011年6月3日なんです。この時は記録していなくて、次の夢を8月26日に見た時、これはこないだの夢の続きだと思って記録したんです。この最初の日は金曜日ですが、学校の創立記念日で学校が休みだったので3連休になったのの初日だったことを明確に覚えていたので日付が判明したんですよ」
「なるほど」
「この最初の夢は、桜の花びらが舞っている中で座り込んでいたら、白いドレスを着た女の人が来て『こちらにいらっしゃ』と言うんです。それで連れて行かれて古めかしいお屋敷のような所に入ったら、学生服を脱いでと言われたので、脱いで渡したんですよね」
「お屋敷に入ったんですか?」
「入ったらいけませんでした?」
「それは何とかいえませんね。その後は?」
「学生服を渡した所で目が覚めました」
「なるほど」
「8月26日の夢は今度は靴を脱いでと言われたので青い運動靴を脱いだんです」
「少しずつ脱がされていくんですか?」
「これがその後の夢の内容です」
と言って、矢恵はそのエポック的な夢の内容と見た日のリストを見せてくれた。
2011.06.03 学生服を脱ぐ。
2011.08.26 青い運動靴を脱ぐ。
2011.11.18 靴下を脱ぐ。
2012.02.10 学生ズボンを脱ぐ。
2012.05.04 ワイシャツを脱ぐ。
2012.07.27 アンダーシャツを脱ぐ。
2012.10.19 トランクスを脱ぐ。
「これで完全に裸にされちゃったんですよね」
「3ヶ月くらいおきに見てますね」
「そうなんです。季節毎に来る感じかなと最初の頃は思っていました。少しずつずれて行ったんですが」
「なるほど」
「そしてこの後はいよいよ身体を改造されちゃうんです」
2013.01.11 喉仏を削られる。
「この後、本当に喉仏が無くなっていって、声もトーンが高くなって、声変わり前のハイトーンに戻ってしまったんですよ」
「困りませんでした?」
「何ふざけた声出してる?とか言われましたけど、そういう声しか出ないし」
「ああ」
2013.04.05 睾丸を取られる。
「そこに寝てと言われるんで寝たら、これ邪魔だから取っちゃうねと言われて、取られちゃいました。痛くはなかったです。目が覚めてから触ってみたら本当に無くなっているんでびっくりしたんですよ。でもよくよく確認すると体内に入り込んでいることに気付きました。まあこのくらいはいいかと思ったんですけどね」
2013.06.28 ペニスを切られる。
「夢の中ではまな板のような物の上に置かれて、包丁みたいなのでストンと根本を切り落とされました。痛くは無かったです。実際には、この夢を見た後、どんどん縮んでいって、当時小さい時で5cm、大きくなったら12cmくらいあったのが、3ヶ月後までには完全に皮膚の中に埋もれて、刺激しても5mmくらいしか出てこないようになりました。当然立っておしっこできなくなったので、個室専門になりました」
「それも大変だったでしょう?」
「友だちに馬鹿にされるし、個室が埋まっていると他のフロアまで行って空いてる所探したり、大変でした」
「病院には行かなかったんですか?」
「家族とか先生には言わなかったから」
「ああ」
2013.09.20 割れ目ちゃんができる。
「夢の中ではコテのようなものを押しつけられて強引に割れ目にされてしまいました。これもびっくりしましたね。最初縦に窪み始めて、それがどんどん深くなっていくんですよ。それでおちんちんだったものがその窪みのいちばん上に収まってクリちゃんに変化したんです。尿道はそこから分離して、クリちゃんより少し下の所から出るようになりました」
「完全に女の子の形になってしまったんですね」
「はい」
2013.12.13 ヴァギナが作られる。
「夢の中では初めて男の人が出てきて、その人のおちんちんを身体の中に無理矢理入れられて、その後が穴になったんです。リアルでは、割れ目ちゃんの一番奥の所が窪み始めて、穴ができてどんどん深くなっていきました。指を入れてみて深さを確認していたのですが、最終的には中指全部入れても底に届かなくなりました」
2014.03.07 子宮が埋め込まれる。
「夢の中では赤ちゃん産めるようにしてあげるね、と言われてヴァギナの奥に何か埋め込まれました。リアルでは表面的には特に変化は無かったんですが、お腹の付近の感覚が変わったので、夢の通りのことが起きているんだと思いました」
2014.05.30 卵巣が埋め込まれる。
「夢の中では赤ちゃんの実(み)の入った袋を入れるねと言われてヴァギナの所からずっと奥まで何か押し込まれて、先の所で左右に分かれて更に押し込まれた感覚がありました。それでこれは多分卵巣だと思いました。でも物理的には体内に入り込んでしまった睾丸が卵巣に変化したのかも。実際、この後、完全に自分の体質が変わったんですよね。ヒゲが生えなくなったし、筋肉も落ち始めて、脂肪が付くようになって。体育の時に『お前、女みたいな身体付きだな』と言われました。それからこの時期になって、ヴァギナの入口の所に膜ができてしまいました。それから7月下旬には初めての生理がありました。その後、ずっと生理は定期的に来ています。当時は母親に知られないようにこっそりナプキン買って対処していました」
「病院には?」
「この時期まではまだ行ってません」
2014.08.22 バストが作られる。
「夢の中では女の人がお餅を練って、胸の所にぺたん、ぺたん、とくっつけちゃったんです」
「お餅ですか!」
「リアルでは、これむしろ前回埋め込まれた卵巣の作用だと思うんですが、急速に胸が膨らみ始めました。体育の時間にクラスメイトから『お前、胸があるんじゃないか?』と言われて、それで保健室の先生に通報されちゃって、『あんた女の子じゃない!』と言われて、親が呼び出されて病院に行かされて、それで女性化していることがバレちゃったんですよ」
「1年半くらい掛けて女性化していますよね。むしろその間、バレなかったほうが不思議です」
と青葉は言った。
「それで裸にされて観察されると、どう見ても女の子の身体にしか見えないということで、性器も女性の形状だし。MRI取られて、卵巣と子宮があること、前立腺が無いことを確認されて、生理があることも話したので、『ほんとに以前は男の子だったんですか?』と逆に訊かれました」
「ああ」
「それで染色体も調べられるとごく普通のXXだし」
「うーん・・・」
「それで母が、この子の父親も子供を作った頃は間違い無く男性だったのに、女性化してしまっていたことを話して。それでお医者さんも悩んでいました。常識的に考えると、女性化する遺伝子とかがあるのかもとも思うのですが、父がXXだったら、外見的に男性だったとしても精子を作れる訳がないので、そこから私に同じ形質が遺伝するわけ無いんですよ。だから父親がXXだったのなら、私は別の男性のタネで生まれたのではと医者は思ったようです」
「でもそれはご両親が否定していたことですよね」
「はい。英語のジョークに『うちは代々子供のできない家系なんだ』とかいうのがあるそうですが、まあそれに近い話ですね」
「それで結局どうしたんですか?」
「お医者さんは最初話を聞いて、女性半陰陽で本来の女性的な部分が思春期になって発達してきたもの、と考えていたようなのですが、半陰陽的なものが、どこにも見当たらないので、この子は女性であって、男性とみなされていたのは誤りであるという診断書を書きたいと言われまして、私は元々女の子になりたい気持ちがあったから、私はそれでいいと言いました。それで母もその方針を了承してくれて、家庭裁判所にその診断書を出して、結局私の性別は出生届が誤っていたということになって、2015年3月3日付けで、私は戸籍上女性になりました」
「なるほど。学校はどうしたんですか?」
「今まで男子として通っていたのを女子として通うのは大変だろうから転校したらと勧められたのですが、私は友だちと別れたくないと言って、そのまま高校3年の4月から女子生徒として学校に通いました」
「みんな驚いたでしょう?」
「ええ。でも気心知れている友人たちばかりだから、性別の変わった私を受け入れてくれました」
「良かったですね」
「名前も恵矢(けいや)をひっくり返して矢恵(やえ)にしたんですよ」
「なるほどー」
「女子たちからは『一緒に着換えよう』と言われて更衣室に連れていかれて、自分の居場所を認めてもらった思いで嬉しかったです。もっとも、しっかり観察されましたけど」
「あははは」
青葉はそれも自分は中学1年の時、2年の時とやられたなあと昔のことを思い出していた。
「それで私は女子高生として暮らし始めて。でも夢は続いて行くんですよね」
と矢恵は言った。
2014.11.14 髪が長くなる。
「夢の中ではウィッグを被せられたんですが、リアルでは学校で私が女子だということが発覚して以来、学校の先生から髪を伸ばしなさいと言われて伸ばし始めたので、実際このくらいの時期には普通の女子の髪の長さになっていたんですよ。だからこれは夢とリアルがシンクロしていました。ここまでは夢がトリガーになって現実の変化が起きていたのですが」
「追いついてしまったんですね」
「そうなんですよ。それでこの後は、リアルが先行しているんです」
2015.02.06 パンティを穿く。
2015.05.01 ブラジャーを着ける。
2015.07.24 キャミソールを着る。
2015.10.16 パンティストッキングを履く。
2016.01.08 ブラウスを着る。
2016.04.01 スカートを穿く。
2016.06.24 女性用ブレザーを着る。
2016.09.16 パンプスを履く。
2016.12.09 お化粧をする。
「これで完璧に女子の格好になっちゃったんですよね。私が高校在学中であったら、きっと女学生の扮装になっていたんでしょうけど、卒業してしまったから、普通の若い女性の姿になったんだと思います」
と矢恵。
「昨年度は浪人しておられたんですね」
「そうなんですよ。やはり身体の変化が進んで、特に高校3年の一年間は私の身体の内部がどんどん女の子の身体に作り変えられていく感じで、気分が悪くなることも多かったし、勉強があまり手につかなくて、それで国立落としてしまったんです。経済的に私立は難しいので、それで昨年度1年間しっかり勉強しなおしてK大に入りました」
「しっかり勉強してK大に入ったのが偉いです」
「あまり遠い所の大学だと交通費とかも掛かると言われて、K大と富山のT大の選択だったんです。うち津幡なので」
「なるほど。でもそれはなかなか厳しかったですね」
「ええ、大変でした。そしてその後の夢がこれです」
2017.03.03 肌襦袢を着る。
2017.05.26 長襦袢を着る。
「もしかして成人式の振袖を着せられようとしてます?」
「そんな気がしたんです。それで5月の夢を見た後、母に相談したんです。私、バイトして頑張ってお金返すから、成人式に振袖着たいって」
「お母さんはどう言いました?」
「妹が死んでしまって、振袖はうちには縁が無いなあと思っていたけど、そうだよね。あんたが振袖を着ればいいよね、と言ってくれて、それで一緒に見に行ったんですよ、あの日。そしたら川上さんと遭遇して」
それは後で確認すると6月3日のことであった。桜の夢を見始めてからちょうど6年目ということにもなる。
「結局あそこで買ったんですか?」
「40万円の振袖を2年ローンで買いました」
「それは良かった」
と青葉は笑顔で言った。
「全国チェーンのお店も見たんですけど、母が気に入らないと言って」
「なるほど」
「それでやはり昔ながらの作り方している所で買おうよというので、あそこに行ったんです。母が10万出してくれて、残り30万は私がバイト代で返します」
「頑張ってください」
「そしてつい先日見たのがこれです」
2017.08.18 振袖を着る。
「夢の中ではこないだ買った振袖を着たんですよ。でも帯がまだだから次回かな、と」
「結構リアルと連動してますね」
「そうなんです。今のままだとこれ11月10日に帯を締められて、2月2日に足袋を履かされそうな気がします。でも、ずっとこの夢と付き合っていていいものかと思ったんですよ」
青葉は矢恵が見せてくれたリストを許可を取って写真撮影した。あとで日付が判読できないことがないように幾つかに分けてズームして撮影しておく。そしていくつかの日付を“計算”してみた。
「これ正確に84日おきですね」
「はい。実は私も計算してみて確認しました。全て84日サイクルで来ています。それで84日というのは28日×3 で生理周期の3倍なんですよ」
「・・・生理があるんですよね?」
「この夢を見ている日はですね。生理周期の排卵日に当たるんですよ。だから排卵日の3回に1度、この夢を見ている計算になるんです」
「うーん・・・」
青葉はあらためてリストを眺めてみた。
そして何となく、この最初の夢を見た日の84日前はいつだろう?と思った。それで2011.06.03の84日前を計算してみた
青葉は激しいショックを覚えた。
それは青葉にとっては忘れようもない日。2011.03.11 であった。
「どうなさいました?」
青葉が激しく動揺しているのを見て、矢恵が驚いて尋ねた。
「失礼しました。最初の夢の84日前の2011年3月11日というのが、個人的に辛い思い出のある日で」
「もしかして東日本大震災の被災者さん?」
「ええ」
「どなたか近い方が亡くなられました?」
青葉は無理に笑顔を作って言った。
「姉と両親と祖父母、一気に5人失いました」
「嘘!」
と言って矢恵は息を呑んだ。
そして10秒くらいして
「それは大変でしたね」
「いえ、すみません。私事を持ち込んで」
「とんでもない。あれは未曾有のできごとでした」
矢恵はそう言ってからしばらく考えていた。
「震災の84日後に夢が始まったのは偶然ではないかも知れません」
「というと?」
「むしろそれが原因のような気がしてきました」
「何か心当たりがあるんですか?」
「うちの一家は震災の日に、ちょうど親戚の集まりで仙台に行っていたんですよ」
と矢恵が言うので、青葉は緊張する。
「地震が起きた時間は、みんなでお墓に居たんですが、地震で結構墓石が倒れてですね」
「あれは凄かったですね。うちの界隈もお墓は全滅に近かったです」
と青葉も言う。
「その時、うちの先祖のお墓で、いちばん古い墓石で慶長五年という銘のある墓石が私に倒れて来て」
「怪我しませんでした?」
「反射的に避けて、手で身体をかばったので突き指した程度です。でもその時、お墓の中から何か出てきて、自分の身体の中に入ったような感覚があったんですよ」
青葉はじっと聞いていた。
「ひょっとしたら私、あの時何かに取り憑かれたってことないでしょうか?」
青葉は彼女を霊視してみた。
「ちょっと見た感じでは何かに取り憑かれているようには見えません。ただここはやや騒がしいので、静かな所で一度深く見てみた方がいいかも知れません」
「ぜひお願いします」
「そのお墓はどうなっているんですか?」
「あの時、墓石は結局全部倒れてしまったので、後日親戚でお金を出し合って修復することにして、結局1年くらい掛かったんですけどね」
「あちこち被害が大きかったですからね」
「あの日は津波が収まるまで待ってから下に降りました。山の上にある墓地だったので、そこに居る方が安全だろうと話したんですよ」
「それは良い判断でしたね」
「ええ。下に降りていたらやばかったと思います。おかげでうちの親戚はほぼ全員無事でした。ひとりだけ、寝たきりでその集まりにでてきていなかった年寄りが津波で亡くなりました」
「そうでしたか」
「娘さんは天寿に近かったと思うと後から言っておられました」
「そう思った方がいいと思います」
青葉は確認した。
「仙台の方に親戚筋があるのは、お父さんの家系ですか?お母さんの家系ですか?」
「父の家系です」
と矢恵は答えた。
「母の方は代々北陸なのですが、父の父が仙台の出身で、東京で仕事をしていて、富山出身の父の母と結婚したんです。父は富山で育って津幡出身の母と結婚しました」
「それでお母さんの実家に同居なさったのかな」
「そうです。今住んでいる家は母の父が建てたんですよ。私の両親は苗字は父の苗字を継承していますが、実質入り婿のようなものですね。母の両親はどちらも北陸の人です。母の父は羽咋出身で、母の母は津幡生まれなんです」
「だったら、お祖父さんも他の土地から津幡に来て、お祖母さんと結婚なさったんですね」
「そうなんです。母の母の母も津幡で、母の母の父は五箇山(富山県)と聞きました」
「女系の強い家系なんですね」
「そうなんですよ。実は私の父の家系も女系が強いみたいで、そもそも男性は若死にしている人が多くて。だから2011年の法事の時も高齢者の男性が全然いませんでした。男性はみんな50歳以下という感じでした」
「ああ・・・」
女系の強い家族と女系の強い家族とが結婚した。矢恵の所には強い女系の遺伝子が集まっていることになる。
この日は時間が限られていたので、このくらいまで話を聞いた所で切り上げることにした。青葉は、一度ご実家、そして仙台のそのお墓の所にも行ってみたいと言った。
矢恵は少し考えてから言った。
「川上さん、実際問題としていつお時間取れますか?」
「9月いっぱいは夏休み中でまだ動きやすいのですが、あいにく土日が全部ふさがっているんですよ。来週も東京に出てくるし」
「その東京に出てくる時、土曜か日曜か、どちらかお時間は取れませんよね?」
「えっと、金曜日の午後なら」
「でしたら、金曜日の午後に私と一緒に仙台に行って頂けませんか?私の出席するセミナーは金曜日のお昼で終わるんですよ」
「はい、しかし・・・」
「今週は空いている日はありますか?」
「6日水曜日は空いていますが」
「でしたらですね。これって多分、うちの自宅を見た後で、お墓を見た方がいいですよね?」
「実はそうなんです」
「でしたら、母に電話しますので、水曜日に自宅を見て頂けないでしょうか?」
「話が通るのであればそれでもいいです」
「通しておきます」
「分かりました」
「住所をお渡ししたら辿り着けますかね?あるいは緯度経度の方がいいですか?」
「分かるようでしたら両方」
「じゃメモ書いておきますね」
そのメモをもらってこの日(9月4日)は別れた。
この日は最終の《かがやき》で帰ったので、各停の新幹線《つるぎ》に乗り継いで23:42に新高岡まで戻った。母が迎えに来てくれたのだが、その車を見て
「わっ。来たんだ?」
と青葉は声をあげた。
「夕方納車してくれたんだよ」
と言って、朋子は NISSAN March NISMO S の運転席に就いた。
「先に運転してごめんね」
「ううん。お母ちゃんに運転してもらった方が安心。ゴールドドライバーだし」
「通勤と買物、駅や空港との往復以外にはほとんど運転してないだけだけどね」
青葉は昨年春、大学への通学用に派手なピンクのアクアを買ったのだが、この車は目立って良いし、何でも地味なものを選びがちな青葉の心を振るい立たせる効果もあるのだが、さすがに霊関係のお仕事で使う場合には、ちょっとまずい場合も多く、その度に朋子のヴィッツを借りたり、千里姉の車に同乗させてもらったりしていた。
それでちょっと後悔しているみたいなことを先月千里姉の前で言った時、千里姉は「青葉、お金は余っているんだから、もう1台買えばいいじゃん」と言ったのである。それで朋子とも話したら「お金があるのなら、いいんじゃないの?」と朋子も言ったので、もう1台、霊関係のお仕事用に買うことにしたのである。
それが今日の夕方納品されてきて、早速朋子が青葉を新高岡駅まで迎えに来るのに使ったのであった。
青葉が朋子と話し合って決めた条件は4つ。
・国産の小型乗用車(5ナンバー)の新車(または新古車)。3ナンバーだと細い道に入っていく時に苦労する。また軽自動車はパワーが足りない。富山・能登・加賀は細くて傾斜の急な道が多い。新車というのは朋子が譲らなかった。
・5人乗りで荷室に座席側から直接アクセスできる車(つまりハッチバックやステーションワゴンなど)。トランクが別れている車は豪雨の時荷物が取り出せない。4人乗り・2人乗りは実用性が落ちる。
・色は白とかグレイとかの系統。
・3MT車(運転者がクラッチを操作する車)。ATやCVT,2MT(クラッチペダルの無いMT. DCT,DSGなど)の方が楽だが、アクアがCVTなのでMTの操作を忘れないようにするためこちらはMTにすることにした。また、多分MTの方が霊に介入されにくい。
その条件で、青葉は
・ホンダ Fit RS
・日産 March NISMO S
・スズキ・スイフトスポーツ
・マツダ・デミオ 15XD(diesel)
の4つをリストアップした。それで先月時間の合間を縫って実際にこの4つを試乗させてもらった。その結果、青葉としてはNISMO Sとスイフトスポーツが好みだと思った。しかしスイフトスポーツというと矢鳴さんが乗っているなと思ったので、NISMO Sにすることにした。
それで日産のお店でNISMO Sのブリリアントシルバーを選び、この車にはLSDを付けたいなと思ったので訊いてみたら、お店で取り付けますよということだったのでお願いした。
それが今日納品されてきたのである。
NISSAN March NISMO S (5MT) FF DBA-K13改 1498cc Brilliant Silver
である。マーチにしてはかなりパワフルな車である。LSDを付けたのでカーブも怖くない。
「でもお母ちゃん、MTも大丈夫だったのね?」
と青葉は助手席で言う。
「MTの運転の仕方ってサイトを見て復習した」
「なるほどー」
「家の周りを2回廻って、発進停止したら思い出したよ。昔はATなんて無かったし」
「昔やっていれば思い出すよね〜」
翌9月5日(火)の夕方に、矢恵から電話があり、母に話を通したのでと言って、自宅の電話番号もメールしてきてくれた。それで青葉はご自宅に電話してみた。
「ありがとうございます。実は以前何度か霊能者さんに相談したこともあったのですが、どうも見当外れのことばかり言われて。でも川上さんと話していたらすごく信頼できる気がしたとあの子が言うものですから」
とお母さんは言っていた。
それで青葉は9月6日(水)の朝から、津幡の剣崎矢恵の家に出かけた。
約束の時刻は10時であるが、青葉が津幡に着いたのは9時前である。まずは目的地の周囲を車で巡った後、近くの駐車場に車を駐めてその界隈を歩いてみた。気になった所は風水羅盤で確認したり、スマホに表示されるGoogle Mapを見て方位や位置を確認する。
今回の事件は2014年初夏に取り扱った源平時代のお屋敷に呼ばれて娘になってくれと言われた男子高校生が屋敷に行く度に注射を打たれて女性化していった事件と似ていると青葉は思っていた。
あの子からは後でお手紙をもらったが、今は普通の女子大生になっており、法的な性別も女性に変更してしまったらしい。それどころか彼氏と同棲生活していて大学を出たら「子供を産んで結婚するつもり」という話だった。産んでから結婚するという順序は気にしないことにする!
あの事件では高速道路の工事で屋敷の外塀が壊れてしまい、そこから気が漏れ出してあの家に影響を及ぼしていた。
今回の事件では、今、青葉が見た範囲では、幾つかあやしげなものはあるものの、明確にこれが原因と断定できそうな物は見つからなかった。
駐車場から車を出し、剣崎さんのご自宅を訪問する。
お車はこちらにと言われた。近所のマッサージ店の駐車場らしいが、話を付けて今日は駐めていいことにしてくれたという。
この日は弟の香文(よしふみ・中学3年)さんは学校に行っており、お祖父さんはお仕事で会社、お祖母さんは華道教室に行っているということで、お母さんの美花さん1人だった。
「もしかして、お母さんは、お仕事お休みになったんですか?申し訳ありません」
「いえ。あの子の命に関わる大事ですから。こちらこそご足労頂いて住みません」
青葉は昨日電話で話した時もそうだったが、矢恵さんのことを「娘」と呼ばずに曖昧な表現をしているなと思った。たぶん女の子になってしまったことを完全には受け入れていないのだろう。
美花さんからはむしろ夫(矢恵の父)勝敏さんの異変について聞くことになった。やはりデリケートな問題でもあり、必ずしも全てを子供には話していなかったようであった。
「夫の異変に気付いたのは香文が産まれて1年くらい経った頃なんです」
つまり14年ほど前ということになる。6年前に亡くなったのであれば8年間女性化に苦しんだことになるだろうか。
「出産の後しばらくは夜の生活を控えていて、1歳の誕生日を過ぎたあたりで、解禁したのですが、妙に立ちにくかったんです。最初は久しぶりだからかもとか、疲れているのかもと言っていたのですが、どうも本格的に立ちにくいということになってきたようで。それで話を聞いてみると、香文を妊娠した頃から実は自分でしていて、なかなか立たないことがよくあったと言っていました」
つまり実際には16年前から始まり10年間苦しんだことになるのだろうか。
「でもその頃はまだ頑張ればちゃんとできていたんですよ。やはり本格的に立ちにくくなってきたのは、香文が産まれた後のようですね」
青葉は矢恵の話を聞いた後で考えていたことを尋ねてみた。
「妊娠なさったのは出産の10ヶ月前だから今から16年前くらいですよね。その更に1〜2年前に、ご主人の親族の方で、どなたか亡くなっておられませんか?」
「17年前ですか・・・」
お母さんはしばらく考えていたが、
「ちょっと失礼します」
と言い、どこかに電話をしていた。
「芳子さん、こんにちは。金沢の美花です。はい、ご無沙汰しておりまして。ええ、はい。今度の1月が成人式で。そうなんですよ。振袖着たいと言うから、2年ローンで買っちゃった。元々女の子になりたかったみたいだから、最近そういうの多いし、まあいいかなと思って」
「それでですね、ナナさんが亡くなったの、あれいつでしたっけ?」
「ああ、やはりそうか。ごめんなさいねー。何にもできてなくて。ええ、ありがとうございます。じゃ、また」
「失礼しました。夫のお祖母ちゃんが亡くなったのが2000年でした。香文を妊娠する前年になりますね」
と電話を切ってからお母さんは言った。そして訊く。
「やはりこれは遺伝的なものなのでしょうか?」
「もしかして、ご主人の家系にも性別が変わった人がありました?」
「実はその亡くなったお祖母ちゃんが生まれたときは男だったらしいんです」
「なるほど」
と青葉は顔色一つ変えずに言った。
これは想定していた展開のひとつである。
「夫が女性化して行っていた時期、その話が出たんです。ちょっと待って下さい」
と言って美花さんは、押し入れの中からブリキ缶を取り出すと、それを開けて手帳のようなものをひとつ取り出した。
「それは?」
「夫が使っていた手帳なのですが、自分の身体の異変や、例の桜の夢を見た日付なども記録してあるんです。この年間スケジュールの欄にSというマークが入った日がその夢を見た日だそうです」
「良かったらその手帳を後でお借りできませんか?内容はもちろん口外しません」
「はい!お役に立つならどうぞ」
「手帳はいつ頃の分から残っているのですか?」
「夫は物を捨てない人だったので、かなり残っています。この箱の中に入っているのですが、この箱ごとお貸ししましょうか?」
「はい、お願いします。大事に扱いますので」
それで手帳は箱ごと借りることにした。
美花さんは手帳を開いて何か探していたが、やがて見つけたようである。
「ここに書いてあります」
と言ってお母さんは手帳を見せる。これはどうも手帳の余白を使って、その内容を美花さんに伝えるために勝敏さんが書いたもののようである。
『ナナさんは1918年の生まれで、生まれた時は大正七年の生まれだからというので大七(だいしち)と名付けられた。20歳で徴兵検査を受けて甲種合格したというから体格はかなり良かったものと思われる。M検も受けたと言っていた』
M検というのは、男子の性器検査である。徴兵検査では完全に裸になって性器を目視と触診でチェックされていたし、同様の検査が高校や大学の入学志願者にも実施されていた。実はこれは戦後も1960年代まで一部の大学に残っていたし、1970年代でも自衛隊では志願者の股間に衣服の上から触っていた。
『シナ事変で中国戦線に投入されたものの、1年半ほどで除隊になって帰国してきた。その除隊理由が女だからというものであった』
『本人が言うには、中国で山越えに敵陣を突く部隊に投入され、山道を通っていた時、足を滑らせて池に落ちてしまった。自力で這い上がり、突撃作戦に参加して生き延びたものの、その後から急に体調が悪くなり、後方に転送されて病院に入院した。そこで半年過ごしたが、その間に陰茎が縮んでいき、睾丸は体内に入って出てこなくなり、胸が膨らんできた。それで医師が「この人は女性なので兵役を継続させるには不適格である」と診断し、除隊扱いになって帰国することになる。大七が所属していた部隊はその翌月中国側の反撃で壊滅したので、この体調変化が起きていなかったら自分は戦死していたと思うと言っていた』
『帰国後あらためて医師の診察を受けると、完全な女性であるということになり、戸籍を訂正し、名前も大七からナナに改めた。身長も徴兵検査された頃は六尺あったのが、この時期は五尺三寸くらいまで縮んでしまった。今なら性別の変わった女なんて結婚相手がなかなか居ないだろうけど、当時は日米開戦して日本全体が好戦的になっており、その風潮で元軍人の女性などというのも人気で、何人も求婚する男がいた。それで結局、呉服商をしていた剣崎吉兵衛の後添えになった。剣崎吉兵衛には前の奥さんとの間に女の子が2人いたものの男の子がおらず、跡継ぎが欲しかった。昭和18年、待望の男の子・五十六が誕生。むろん連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将にちなんだ名前である』
『間もなく戦争も終わり、その後の新円切換やインフレで剣崎吉兵衛は全ての資産を失う。その後は畑を耕す一方で細々と布団の訪問販売で生活の糧を稼いでいた。子供は前妻との間の女の子2人、ナナが産んだ男の子3人の5人でナナも冬の間は東京に出稼ぎに出て、家計を支えていた』
『五十六は高校を出るとすぐに東京の企業に就職し、その給料で2人の姉を嫁に行かせた。当時は朝鮮戦争の時期で、戦争特需が起きており、給料の良い仕事があった。更にその後、神武景気も来て給料がどんどん良くなった。それで自分の弟2人を大学に行かせ、結婚もさせた』
『一方で自分のことがおろそかになっていた。ナナに言われて五十六は1973年、30歳にして、東京で麻理と結婚する。そしてすぐに麻理は赤ちゃんを妊娠したものの、五十六はその子供の顔を見ることなく、仕事中の事故で死亡した』
『麻理は石川県の実家に帰って子供を産んだ。それが自分(勝敏)である。勝敏という名前は、五十六がバレーボール好きで、猫田勝敏のファンだったことから生前、男の子が生まれたら勝敏、女の子だったら貴子(白井貴子にちなむ)にしようと言っていたので、それに基づいて名付けられた』
「その麻理さんは今は?」
「3年前に亡くなりました。だから矢恵の性別が変わってしまったことを知らないまま逝きました」
「そうですか」
「五十六さんの弟さん2人も既に亡くなっているんですよ。お姉さん2人は存命なのですが、最近はボケ始めているらしくて」
つまり昔のことを話せる人があまり残っていないようだ。
「剣崎家は男性が短命な家系みたいで、吉兵衛さんも49歳で亡くなったそうですし、仙台に行くと60歳以上は女ばかりなんです」
と美花さんは言った。
「らんま1/2(にぶんのいち)という漫画があったのご存知ですか?」
と美花は言う。
「はい」
と青葉は答える。昔の漫画ではあるものの、こういう性別が絡む漫画なら、青葉も知っている。『ボクの初体験』も『ストップ!!ひばりくん!』も『艶姿純情BOY』も読んでいる。
「らんま1/2の主人公が、泉に落ちたら、性別が変わる体質になってしまったということで。あの漫画が出た時、ナナさんが『これ私のことみたい』と言っていたそうです」
「ああ」
「らんまの場合は、水をかぶると女になり、お湯をかぶると男になるという体質だったようですが、ナナさんの場合は女になりっぱなしですね」
と美花さんは微笑みながら言った。
「ご主人が見ていた桜の夢というものですが、内容については聞いたことがありますか?」
「初期の頃、何度か話してくれたことがあります」
「どういうものでしたか?」
「満開の桜の下で、たくさんの人と宴会しているのだそうです。賑やかな宴会なので楽しいはずが、妙に寂しい感じがするのだと言っていました。そして、ふと気付くと少しずつ人数が少なくなっていくんです。それで最後2人になり、もうひとり残った人が自分を見て笑うのが、その笑顔が物凄く怖いと。大抵そこで目が覚めると言われました」
同じ桜の夢でもけっこう矢恵が見ているのとは内容が違う。やはり桜のモチーフがあり、そこから先、どういうビジュアルにするかは各々の解釈が入ってしまうのだろう。
「それで普通はそこで終わるのが、時々その残った人にお茶を勧められることがあるのだそうです。飲みたくないけど、飲まないといけない気がして飲んでしまうのだそうですが、その味がその日によって色々だと言っていました」
「なるほど」
青葉はここまでの話を簡単に年表にまとめてみた。不確かな部分を美花さんに確認しながら数字を埋めていく。
1918 曾祖母の大七(ナナ)誕生
1938 大七、徴兵検査甲種合格
1939 召集されて中国戦線に
1941 「女性なので」除隊して帰国。
1942 剣崎吉兵衛と結婚
1943 祖父・五十六生まれる
1974 五十六が麻理と結婚。五十六死亡。麻理は実家に戻って勝敏を産む。
1996 勝敏と美花が結婚
1997 恵矢(矢恵)誕生
2000 ナナ死去
2000 幸子誕生
2001 この頃から勝敏が桜の夢を見始める
2002 香文誕生
2003 勝敏が異変に気付く
2005 矢恵小学2年。幸子海で死亡。勝敏はこの頃から女性化進行。睾丸摘出。
2007 勝敏、胸が膨らみ始める。
2008 勝敏、陰茎消失
2009 勝敏、声変わり
2010 勝敏死去
2011 恵矢が桜の夢を見始める
2013 恵矢の男性器消失・女性器が出来はじめる
2014 恵矢、完全に女性化。
2015 戸籍を女性に変更し、名前も矢恵と改める。
青葉は尋ねた。
「勝敏さんのケース、そして矢恵さんのケースで身長には変化はありましたか?」
「どちらも縮みました。夫は身長174cmくらいだったのが、亡くなる直前頃は171cmくらいになっていました。矢恵の場合は、中学1年の時は172cmだったのが、高校に入った頃から縮み始めて、その当時も身長が縮むというのは何かの病気かも知れないから精密検査を受けた方がいいというお手紙を学校からもらっていたらしいのを、あの子全部握りつぶしていたみたいで」
「ああ」
「結局性別変更した頃は164cmくらいでした。その後、162cmくらいまで縮んで、後はその身長のまま安定しているみたいですね」
お父さんの場合は3cm程度で、身体の変化も矢恵の場合より穏やかだったようなのは年齢のせいだろうか。矢恵の場合は10cm縮んでいるが、ナナさんの場合は六尺が180cm, 五尺三寸は160cmだから、20cmも縮んだことになる。
青葉は言った。
「遺伝ということはないと思います。確かにAES アロマターゼ過剰症という病気はあって、生まれた時男の子だったのが、思春期くらいに女性ホルモン過多になって乳房が発達して、男性器が退化するものはあります」
「そういう病気があるんですか!」
「しかしそういう人は普通不妊です。子供が産めるということはあり得ないし、身長まで低くなったというのは、医学的には考えられないですね」
と言う。
「それにAESの場合は、起きるのがだいたい思春期の二次性徴が出る頃です。ナナさんのケース、矢恵さんのケースはありえますが、勝敏さんのように30代になってから起きるというのもあり得ないです」
「やはりそうですよね。あの年齢であれだけ変化するというが不思議だと当時お医者さんも言っていたんですよ」
「そして、年表を見ても分かるように、ナナさんが亡くなって1年ほどしてから勝敏さんの変化が起きています。勝敏さんが亡くなって1年ほどしてから矢恵さんの変化が起きています」
「やはり呪いですか?」
「現時点ではその線が濃厚です。そのナナさんが落ちた泉というのが気になりますね」
ともかくもその日は、その手帳の箱を預かって帰ることにした。
青葉は自宅に戻ると、手帳を年順に並べた。手帳は結婚した1996年のものから亡くなった2010年のものまで15年分あった。結婚前のものは美花さんに見られるとやばいものがあって処分したのかもとも思った。
最初の付近はずっと仕事の予定が書かれているだけである。1996年のものにはMKという記号が入り出す。少し考えて「美花」の意味でデートの日付だろうと判断した。結納、結婚式の予定が書き込まれている。妊娠が分かり、予定日という文字がピンクで書いてある。そして恵矢が生まれ、その後七五三の記録が残っている。どうも恵矢の七五三は数えの三歳・五歳・七歳でしているようだ。七五三は、女の子は三歳と七歳、男の子は五歳という所が多いのだが、確かに男女とも3回やる所もある。
幸子、香文が生まれてからの様々な日程も記載されている。
この手帳は処分しきれないだろうなと青葉は思った。この一家の歴史がここには刻まれている。
桜の夢を表す「S」のマークが最初に現れたのはやはり2001年である。青葉はSマークの付いている日付を計算してみたところ、56日周期になっていることに気付く。ただし完全に56日周期ではなく、112日の所もある。これは本当にそれだけ空いたのかあるいは記載漏れか、今となっては分からない。
年間予定表でSのマークの入っている日のデイリーを見てみると、そこに何か文字が書き込まれている所があるのに気付く。しばらく眺めていて、それがドイツ語であることに青葉は気付いた。
これは多分・・・家族などに見られても読まれないようにドイツ語で書いたのではないかという気がした。
最初に書かれていたのはこういうことである。
《tschudschotoみたいな味のお茶を飲まされた》
tschudschotoについて青葉はしばらく悩んだのだが、チュージョートー、つまり中将湯のことかと思い至る。
その後TDTという単語がしばしば現れるが、これもtschu dscho toの頭文字と判断する。
つまり矢恵は外科手術される夢を見ていたが、勝敏は投薬される夢を見ていたようである。このあたりもあるいは同じイメージを本人がどう解釈するかなのかも知れない気もした。
《今日の薬を飲むと睾丸が無くなると言われた》
というメモがある。そしてそのしばらく後に「手術」という記載がある。2005年の手帳である。つまり夢で予告された後、実際には睾丸に腫瘍が出来ていると言われて摘出手術を受けたということになるのだろう。睾丸の腫瘍は大変危険なので、発見されたらすみやかに除去する必要がある。
《今日の薬を飲むとおっぱいができると言われた》
《今日の薬を飲むとちんちんは無くなると言われた》
《今日の薬を飲むと女の声になると言われた》
などといったメッセージがある。
青葉はドキッとした。
《今日の薬を飲むとOLになると言われた》
日付から判断して、これは社長から、いっそ女性社員にならないかと言われた時期ではないかと思った。
そして最後のメッセージは青葉を震撼させた。
《今日の薬を飲むと何も苦労しなくていい世界に行けると言われた》
このメッセージを書き込んで1週間後に勝敏は事故死しているのである。
矢恵さんが危ない。
青葉はそう思った。このままにしておくと、いつか死を予告されるかも知れない。
矢恵が青葉に相談した基本は
「ずっとこの夢と付き合っていていいものか」
ということだった。
彼女は元々女の子になりたかったので、これまでの変化を快く受け入れている。しかし本当にこのままでいいのか。
それは危険だというのが、お父さんの見た夢で確かである。
しかし・・・・最初に呪い?に掛かったナナさんは完全女性化して子供を3人産んだものの、82歳まで生きている。彼女は死の予告をされなかったということか。あるいはそれを乗り越えることができたのだろうか。
青葉は長谷川一門の博識そうな人、数人に中国の恐らく北京近くの山の中にある或いはあった《そこに落ちたら女になってしまう池あるいは泉》というのを知らないかとメールしてみた。しかし反応は芳しくなかった。瞬法さんなどは
「瞬葉君、昔『らんま1/2』という漫画があったの知らないよね?」
などとメールしてきた。確かに青葉がこの情報をネットで検索しようとすると、らんま1/2とか、娘溺泉、呪泉郷、といったものばかりヒットして、それらしきものに迫ることが困難なのである。
青葉はふと思いついて、天津子に電話してみた。
「あんた漫画読まないでしょ?」
などと彼女にまで言われる。しかし自分が今抱えている案件で、1940年頃に、中国で山の中の泉に落ちたら体質が女性化してしまった人が関わっていることを説明すると、知り合いに当たってみると言ってくれた。
すると9月8日の早朝、なんと羽衣さんから直接青葉に電話が掛かってきた。羽衣は最初に
「君のお姉さんに大怪我をさせてしまって、本当に申し訳無い」
と謝った。
「いえ、姉も当日はかなり酷い状態だったのが少しずつ回復してきているようですので」
と青葉は答えた。
「それでその、中に落ちたら女になってしまう泉だけどね。確かにあったんだよ、北京の近くの**山という所に」
「本当ですか!」
「その泉が湧き出したのは、確か1937年だった。盧溝橋事件のすぐ後だよ。そこに中国軍が要塞を築こうとしてね。発破を掛けていたら湧きだしてきた。その水を飲んだ男はみんなチンポが立たなくなった」
「わっ」
「それでファンクァンチェン、宦官の泉と呼ばれた」
「なるほど」
「実際にそこに落ちた者もあって、胸が膨らんだりしたとは聞いているが、どこまで女性化したのかは私も分からない」
「その泉は今もあるんですか?」
「無くなった。第二次世界大戦中のゲリラと日本軍との戦闘でそこより上の方の山でかなりドンパチやってね。その影響か枯れてしまったんだよ。それが1942年頃だったと思う」
「だったら5年ほどだけ存在したんですか?」
「うん。そのくらい。この泉で女性化した人はおそらく数十人くらいだと思うけど、年齢的に考えてもう生きている人はほとんど居ないだろうね」
「貴重な情報ありがとうございました。ちなみに男性化する泉みたいなのは無かったんですか?」
「そちらは聞いたことない」
電話を切ってから青葉は考えた。もしその泉がまだ存在するなら、矢恵さんをそこに連れていくことで、呪いを「納めてくる」ことも可能だと思った。しかしもう無くなってしまっているのなら、その手も使えない。
さて、どうしたものか。
9月9日(土)は東京でアクアの映画のラッシュを見せてもらう予定だったのだが、「ごめんなさい10日にして」という連絡があったので、結局9日は空くことになった。青葉は金曜日の朝から新幹線で東京に出て行き、お昼に東京駅で矢恵さんと落ち合う。そして仙台まで一緒に移動した。
最初にタクシーでお墓に行った。まずはお参りする。
「こちらがあの時、私に倒れかかってきた墓石なんですよ」
と矢恵さんが言う。
「墓石の上に阿弥陀(あみだ)様が乗っているんですね」
と青葉が言うと
「よく阿弥陀様と分かりますね。みんな観音(かんのん)様と思うんですよ」
と矢恵が言っている。
「まあ専門家なので」
と青葉は微笑んで言う。
「あの時、誰かに『危ない』と言われた気がしたんです。それで反射的に飛びのいて、目の前に倒れ込んできたから驚きました」
「ご先祖様が警告してくれたのかもしれませんね」
「その声が実際にその墓石の方から聞こえたので、阿弥陀様が助けてくれたのかなとも思ったんですけどね」
「ああ、そういうこともよくあるんですよ」
青葉はその一番古い墓石の前で目を瞑り合掌した。
あ・・・そうだったのか。
青葉の中で色々なものが整理されてしまった。
青葉はその場で15分くらい合掌していたようである。
「凄く色々なことが分かりました」
と青葉は言った。
「ひとつ。2011年3月11日に、お墓の中から出てきて矢恵さんの身体の中に入ったものですが」
「はい」
「ナナさんの霊ですね。今、矢恵さんの守護に入っていますよ」
「そうだったんですか!」
「自分が掛かった呪いが、孫の勝敏さん、そして矢恵さんにまで及んでしまって申し訳無いと言っています。少しヒントをもらったんですが、親戚の方にお話を聞けますかね?」
「はい。今本家に住んでいる、芳子さんにお話が聞けると思います」
それでタクシーで仙台市郊外にある、剣崎家に行った。ここは吉兵衛が全ての資産を失った後、同情した友人が貸してくれた家で、五十六が東京に行ったままなので、五十六の姉の貞子・淑子、弟の平和と憲法(みちのり)が住んでいて、後に憲法さんが独立したので、平和一家の住処となり、最終的には平和が持ち主から買い取った。平和が亡くなったので、現在は奥さんの芳子(1951生)の所有になっている。
ここは東北地方太平洋沖地震自体では戦後建てた離れが崩れたりする被害はあったものの大正年間に建てられた本宅は無事。そして高台にあるため津波の被害も免れている。
現在ここに住んでいるのは、芳子さん、長女(1971生)とその夫(1965生)、2人の娘である。平和と芳子の次女・三女は各々結婚して別の所に住んでいる。2000年に亡くなるまではナナさんもここに住んでいた。
この日は芳子さんと長女の2人だけがいて、他は仕事に出ているということであった。
「あら、すっかり可愛い女の子になっちゃって」
と芳子さんも長女も、矢恵を見て笑顔で言った。
「お恥ずかしいです。でも女になってしまったのは仕方ないから開き直って生きています」
と矢恵は言って、東京で買ってきたお土産を渡した。
矢恵さんがお仏壇にお参りしたのに合わせて青葉も一緒にお参りさせてもらった。それで青葉はここでまた大きなヒントをもらうことができた。
矢恵は自分の体質変化は、医学的にはあり得ないと医者も悩んだと言った。父・勝敏も似たような変化が起きたが、自分の場合むしろ話に聞いたナナさんの変化に似ている気がするという前提を語った上で、これは遺伝ではなく呪いの類いだと思っていると話す。遺伝なら、父の女性化は思春期の頃に起きていてよかったはずだと説明した。
「確かにそうよね。じゃナナさんの呪いが、亡くなった後、勝敏さんに行って、勝敏さんも亡くなった後、矢恵ちゃんに行っちゃったのかしら」
「こちらの川上瞬葉さんとも話していて、そういう結論に達したんですよ」
今日の青葉はビジネススーツを着ている。法衣でもいいのだが、宗教関係者と思われると警戒されがちである。
「こちらは霊能者さん?」
「はい、川上瞬葉と申します」
と言って、青葉は《心霊相談師・川上瞬葉》の名刺を出した。《金沢ドイル》はあくまでテレビ用の名前である。
「実は私の曾祖母が昔、大船渡で、拝み屋さんのようなことをしていて、私は小さい頃、その助手をしていたんですよ。それでいまだにそのツテであれこれ祈祷を頼まれたりするもので」
と青葉は言った。
「あら、私、大船渡の近くの気仙沼なんですよ」
と芳子さん。
「あら、そうでしたか!」
「あなた何か、言葉のイントネーションが気仙系のような気がした」
「大船渡を出てから6年経つんですが、これが抜けないんです」
「いったん身についた言葉はなかなか変わらないよね〜」
と言ってから、芳子さんは言う。
「その曾祖母さんの名前は何ていうのかしら?もしかしたら知ってるかも」
「えっと・・・八島賀壽子というのですが」
「あなた、八島さんの曾孫さん!?」
「はい」
「八島さんといえば《岩手のおしらさま》じゃん!」
「いや、その名前を私も久しぶりに聞きました」
芳子さんが曾祖母の名前を知っていたことで、その先の話が随分スムーズになってしまった。芳子さんは青葉を全面的に信用してくれた。
芳子さんは自分の知っている範囲でナナさんに関することをたくさん話してくれた。
ナナさんは男性時代は結構逞しい身体付きで、スキー大会で優勝したりしたこともあったらしいし、相撲も強かったらしい。しかし女性化した後は、普通の女性の背丈まで縮んでしまい、筋肉も落ちて20kgくらい持ち上げるのが限界などと言っていたという。ただ筋力は落ちても体力はかなりあったという。
戦後は家計を支えるため、東京や愛知などで工場に勤めてハードな仕事をしていたものの、体力があるので何とかなっていたという。
男性時代は剣道なども段位を持っていたらしいが、女性化した後は剣道も含めてあまりスポーツはしなくなり、手芸を随分して子供や孫たちにセーターを編んでくれていたが、それが商品として売ってもいいくらい上手かったという。
「今着ているこのサマーセーターもナナさんが編んでくれたものなんですよ」
「ほんとに上手かったんですね」
「他に、お人形も随分集めていましたよ。亡くなった後、その大半は親族の女性たちで分けたんですけどね」
「ナナさんのご兄弟はおられましたか?」
「お兄さんが4人、お姉さんが4人の9人兄弟の末っ子だったそうです。もっとも、お兄さん2人とお姉さん1人が小さい頃に亡くなっていたので実質6人だったそうですが」
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【春水】(4)