【春産】(1)

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(E)Eriko Kawaguchi 2017-03-25
 
※お断り。道入寺の掛け軸公開は毎年お盆の時期に行われてはいますが、実際に見に行きたい方は、事前にお寺に日程を確認した方がいいです。全国公は実際には2016.8.11-12に行われました。また金石海岸の清掃活動は2016.8.28に、インターハイ水泳は8.17-20に行われましたが、いづれも物語の都合上、日程を変更しています。
 

トントンと夜更けにアパートの戸をノックする音で、金麦を飲みながらウトウトとしていた筒石は目を覚ました。
 
「はい?」
と声を掛けると
「あのぉ、夜分恐れ入ります」
と若い女の声がする。
 
「何ですか?」
と言って、筒石は戸を開けた。少し青白い顔をした見た目30歳前後の女が立っている。
 
「ぶしつけで申し訳ないのですが、これで何か飲み物を恵んで頂けないかと思って」
と言って女は十円玉を1枚出した。
 
「へ?」
と言って筒石は女を見る。
 
「十円玉じゃ自販機のジュースも買えないもんなあ。でもいいよ。これでもあげようか?」
 
と言って、筒石は大量に買ってある粉状のスポーツドリンクを水で溶かすと、空いているペットボトルをきれいに洗って、それに詰めてあげた。
 
「えっと、ペットボトルのふた、ふた、・・・」
と言って探したのだが、こんな時に限って全然見当たらない。
 
「あ、栓はしないままの方が助かります」
「そう? じゃ、このままで。あ、でも俺、ちょっと薄めすぎたかも。貧乏なんでふつうの人の倍くらいに薄めて飲む習慣があるんで、いつも通りにやっちゃった」
 
「いえ。私も薄いほうが助かります。でもありがとうございました」
 
と言って、女は十円玉を置いて帰っていった。
 

桃香は欲求不満であった。
 
この春から千里がひじょうに忙しいようで、なかなかアパートに帰ってこない。そして帰って来ても自分とすれ違いになるようで、しばしば食料だけ買ってあったり、料理だけ作られていてメモが残っていたりする。
 
6月下旬はずっとヨーロッパに行っていたようだし、そのあと7月の前半はずっと合宿に入っていて、中旬に数日アパートに戻ってきて久しぶりの愛の確認をした後は、また南米に行っているようである。8月の下旬まで戻らないという話であった。南米は今の時期、オリンピックで混んでいて色々大変なのではと桃香は心配した。
 
桃香は千里がまさかそのオリンピック自体に出場しているなどとは夢にも思っていない。
 
そして・・・・桃香はここしばらく、全く千里以外のガールフレンドもできず、恋愛エネルギーが余りまくっているのである。
 

今年のお盆は11日が山の日で休み、12日が金曜なので、12日に有休を取って11日から14日(日)までを休む人も多かった。それで桃香はその間は会社に出て休んでいる社員のバックアップをし、代わりに15-17日に休みをもらうことにした。11日と13-14日の代休という扱いである。
 
普段はあまり重要性のない仕事ばかりさせられて不満の多い桃香も11-14日はけっこう重要な仕事をさせてもらい、少しだけ気分が良くなった。このあたりは主任の肩書きを持つ片倉さんが積極的にこちらに仕事を回してくれたおかげでもある。彼は元々、桃香の交渉力や押しの強さを評価してくれているのである。
 
「まあうちは女をあまり評価しない会社だけど、僕個人としてはけっこう君を買っているから」
などとも片倉さんは言っていた。
 
ただ片倉さんは8月いっぱいで退職することになっている。友人数人と一緒に科学雑誌を立ち上がるために出版社を設立するらしい。
 
「今の時代にわざわざ紙の雑誌作るの?と言われたけどさ。紙だからこそ売れるものってあると思うんだよ。全てを電子の世界でやろうとするのは、無理がある。寝転がって漫画雑誌は読めるけど、寝転がってスマホで漫画見てたら腕も目も疲れるもん」
と片倉さんは言っていた。
 
「まあ小さなスマホだと画面が狭くて見づらいし、かといって大きなタブレットだと寝転がって見るのには腕が疲れますね」
と桃香は答えた。
 
桃香は片倉さんが辞めてしまうと、ほんとに自分はまともな仕事をさせてもらえなくなるかもという気がしていた。
 

青葉の大学では7月末から8月頭に掛けて前期の期末試験が行われ、その後から9月末まで夏休みに入った。その間は、バイトに精を出す学生もいるが、青葉は毎日自宅から5kmほど離れた高岡市内の公営プールまでジョギングしていき、そこで2時間ほど泳いではジョギングして帰ってくるという日課を送っていた。
 
不本意ながらも!?9月のインカレに出なければならなくなったので、その練習をしているのである。本来なら、大学まで行ってそちらのプールを使えばいいのだが、片道1時間近く掛かり、その時間がもったいないので、近くのプールでたくさん泳いでおこうということなのである。
 
8月14日(日)、青葉は高校時代の友人の美由紀・世梨奈に呼び出されて金沢に出て行った(正確には2人を乗せてアクアで金沢まで走った)。
 
「私忙しいんだけどぉ」
「忙しいから、息抜きも必要だよ」
などと、うまく美由紀に言いくるめられる。
 

それで着いた所は、金沢近郊の金石(かないわ)海岸で、この日、FM局主宰のボランティアの清掃活動があるのである。
 
「石川県の海岸線583kmをきれいにしよう」というテーマで定期的に海岸での清掃活動が行われている。
 
「この近所で捨てられた感じのジュースのからとかタバコの吸い殻とかもあるけど、結構遠方からの漂着物もある感じだね」
 
などと空き缶などを拾いながら言い合う。
 
「なんかその板、ハングルが書いてある」
「朝鮮半島から流れ着いたんだろうなあ」
 
1時間ほど清掃活動をした後「ビーサン飛ばし世界選手権」が行われる。世界選手権とは大げさだが、このあたりは軽音のイベント同様《言った者勝ち》の感覚か。
 
3人1組で参加し、用意されているビーチサンダルを足で飛ばして、そのトータル距離を競うというイベントである。実はこれが3人1組なので、ドライバーも兼ねて青葉が呼び出されたらしい。
 
「いや、青葉がマジで忙しそうだから、車だけ借りて明日香に運転してもらおうかというのも考えたんだけどね」
と世梨奈。
 
「明日香は今週末は東京だもんね」
と青葉。
 
「しかしライブを見にわざわざ東京までって頑張るなあ」
と世梨奈。
 
「まあこないだ私たちはわざわざ苗場まで演奏しに行ったけどね」
と青葉。
 
「それもいいなあ」
と美由紀。
 
「でもお盆の帰省ラッシュと完全に逆方向になったから、余裕で新幹線のチケットが取れたなんて言ってたね」
と世梨奈。
 
「新幹線で往復するのはブルジョアだ」
などと美由紀は言っている。
 
「東京まで新幹線で往復すると今の時期は東京往復割引切符が使えないから25,000円くらいかな。高速バスだと加能越バスで往復15000円くらい。格安ツアーバスで往復6000円くらい」
と美由紀は続ける。
 
「安くても格安バスに乗る気はしない」
と世梨奈。
 
「恐いよね。事故とかよく起きているし」
と青葉。
 
「ついでに加能越バスではなく加越能バスだな」
と世梨奈。
「あ、それいつも順番が分からなくなる」
と美由紀。
 
加越能バスは加越能鉄道のバス部門だが「加賀・越中・能登で営業する鉄道」という意味で名付けられた。当初は鉄道路線を金沢まで建設する予定だったのでそういう名前にしたのだが(城端線・福野駅から現在の北陸自動車道のルート付近沿いに金沢まで繋ぐ予定だったらしい。北陸本線より5-6km南を通るルートである)、実際には建設工事が途中で停まってしまい、金沢まで開業するには至らなかった。なお現在は加越能鉄道の本体・鉄道部門は第三セクターの万葉線株式会社に営業譲渡され、バス部門だけが残っている。
 

さてビーサン飛ばし世界選手権の団体戦は「誰でも参加できるが3人のうち1人は女性を入れること」となっている。
 
受付の所で
「3人のうち1人は女性・・・・えっと3人とも女性ですよね?」
と言われ美由紀が
「中学も高校もセーラー服で通っていたし、女かなあ」
などと言うので、係の人が
「えーっと・・・」
と言って困っている。
 
普通に3人とも女にしか見えないのに、そんな言い方をすると、まるでオカマさんのグループみたいにも聞こえる。
 
それで世梨奈が
「1人は女性ということは、この中の2人までは性転換しても大丈夫だな」
というと、係の人は笑って参加章をくれた。
 
意外に人気だったようで、申し込みの列で青葉たちが72番の参加章をもらい、そのすぐ後で「ここで締め切りです」と言われて、参加できなかった人たちも結構居た。
 
やがてコートが設定されて競技が始まるが、最初は横風だったのが、途中で風向きが変わり、しばしば向かい風になって「マイナス」の記録を出す選手が続出する。
 
青葉たちの前の組は3人ともマイナスで「合計-4.27m」などと言われていた。青葉たちは、世梨奈が8.21m飛ばして「おっ」という声があがったものの、美由紀が-3.17mとこの日の最低記録更新して大きく後退。しかし青葉が水泳で鍛えたキックで《風の息》をうまく読んで15.37m飛ばし、合計は20.41mで決勝に進出することができた。
 
「おぉ、決勝に行けるとは」
「凄い凄い」
 
決勝の頃になると風も止んで無風に近い状態になり、かなり好記録が出る。青葉たちのひとつ前の組は3人とも体格がよく、最初の男性が17m, 次の女性が14m, 最後の男性が19mも飛ばして、合計50mで結局この人たちが優勝した。これは世界記録を更新したらしい。
 
青葉たちは世梨奈が出番を待つまでの間かなり練習していた成果が出たようで12.14m飛ばし、美由紀も今度は前に飛ばして5.31m、そして青葉が予選の時よりも長い17.19mというこの日の女性での最高記録を出して合計34.64mとなり、3位になって賞状をもらった。
 
ついでに青葉は「女性最高記録」、美由紀は予選で出したのが「最低記録」で各々個人表彰された。
 
「嬉しいような嬉しくないような」
などと美由紀は言っていた。
 

大会が終わった後、駐車場の方へ向かう途中、美由紀がキャンディのようなものを出して食べている。
 
「世梨奈たちも食べる?」
「何それ?」
「ドラッグストアにあった。砂糖菓子っぽいけど、そんなに甘くないなあ」
「ブドウ糖?」
「ブドウ味のキャンディかと思ったのにブドウの味がしない」
 
「そりゃブドウ糖はほとんど無味だよ」
「え?ブドウ味じゃないの?」
「ブドウ糖はブドウの中から発見されたからブドウ糖とは言うが、ただの糖であってブドウの味がする訳では無い」
と世梨奈。
「そうなんだ?」
「体内で分解もされずにそのまま吸収されてエネルギー源になるから、てっとり早く糖分を補給するのにいいんだよ。こういう疲れた後で摂るのは割と正解」
 
「へー」
「糖尿病とかで、低血糖を起こしやすい人がブドウ糖を持ち歩いているね」
「ほほお」
 
そんなことを言いつつも、世梨奈も青葉も数個もらって食べる。
 

「確かにほとんど味が無い」
「甘くもないね」
 
「でも分解されずに吸収されるって、普通は分解されるの?」
「普通の砂糖は腸内でブドウ糖と果糖に分解される」
「ほほお」
「実は“甘い”のは果糖なんだよね。ブドウ糖はそんなに甘くない。その2つが結合した形をしている砂糖はその中間」
「なるほどー」
 
「ブドウ糖は更に分解されたりしないの?」
と美由紀が訊く。
 
「されない。それ以上分解されない糖類を単糖というんだよ。ブドウ糖グルコースとか果糖フルクトースとか、脳糖ガラクトースとかが単糖」
 
「のうとう?」
「脳神経とかを作る素材になる。おっぱいの主成分の乳糖はブドウ糖と脳糖から出来ている」
と言って、青葉はメモ用紙に
 
蔗糖=ブドウ糖+果糖
乳糖=ブドウ糖+脳糖
麦芽糖=ブドウ糖+ブドウ糖
 
と書いて2人に見せた。
 
「つまり、おっぱいって身体を作るのに必要な脳糖と、エネルギー源のブドウ糖とで出来てるんだ?」
「そういうこと」
「合理的だね〜」
 
「蔗糖(しょとう)というのがふつうの砂糖?」
「そうそう。砂糖は多数の糖類のミックスだけど、蔗糖が主成分」
 
「麦芽糖って、森永ミロとかに入っているやつ?」
「ミロはネスレ!」
「あれ〜〜?」
 
「水飴も麦芽糖だよ。砂糖は江戸時代の中期頃までは貴重な舶来品で高価だったから、庶民は麦芽糖でできた水飴で甘みを得ていたんだよ」
 

「あ、水飴で思い出した!ちょっと寄り道しない?」
と世梨奈が言い出し、青葉たちは車を置いたまま、金石海岸から少し歩いた所にある1軒のお寺にやってきた。
 
「なんか人が多い!」
「ちょうど今、ここで幽霊の絵を公開しているんだよ」
「幽霊?」
「円山応挙が書いたという幽霊の絵」
「円山応挙?」
「それは見たい」
 
それで青葉たちは出来ている人の列に並んでお寺の中に入り、公開されている幽霊の掛け軸の前で手を合わせてきた。
 

昔、このお寺の近くに飴屋さんがあった。ある晩、もう店を閉めたのにトントンと戸を叩く音がある。主人が出ていくと白い服を着た女がいて
 
「夜分たいへん申し訳無いのですが、飴を少々売って頂けないでしょうか?」
と言って一文銭を出す。
 
「いいですよ」
と言って主人は一文分の飴を売ってあげた。
 
それから女の訪問は毎晩続き6日に及んだ。主人は毎晩その女に飴を売ってあげていたのだが、7日目、女は言った。
 
「お金が無くなってしまいましたが、少しでもいいので飴を恵んでもらえないでしょうか?」
 
「うん、いいけど」
と言って主人はいつも通りの飴を分けてあげたものの、不審に思い、女が帰るのを密かに付けて行った。すると、女はこの寺の墓地の中に入り、ある墓の前ですっと消えた。
 
主人は腰を抜かしたものの、ここに何かあると直感。お寺の人に言ったところお寺の人も何かを感じて、その墓を掘り返してみた。
 
すると、そこには一週間前に亡くなった女のそばに、産まれてまだ数日の赤ん坊がいて飴を舐めていた。
 
おそらく死んだ後でこの子を出産したものの、自分は死んでいてお乳が出ないので、三途の川の渡し賃に一緒に葬った六文銭を使って飴を買いに来て、それを赤ん坊に舐めさせていたのだろうと人は言った。
 
この生還した赤ん坊は後にこの寺の7代目の住職となり道玄と名乗った。その道玄が亡き母を偲び、たまたま旅の途中で金沢に立ち寄った画家の円山応挙に母の姿を描いてもらったものが、この掛け軸である。
 

「幽霊の絵といっても、あまり恐くなかったね〜」
「むしろきれいだった」
「やはり依頼主のお母さんの絵だもん。きれいに描いてあげたんだと思うよ」
「あの絵、八方睨みの技法が使われていたね」
「うん。どの方角から見てもこちらを見ているように見える」
「円山応挙か誰かは知らないけど、かなり技術の高い絵師が描いたものだよ」
 
と3人は駐車場に戻りながら言った。
 
「でもその当時の飴って、やはり水飴だよね〜」
と世梨奈。
 
「うん。飴は昔は液体で売られていた。固形になったのは後の時代で、円山応挙の時代なら、液体の“水飴”(みずあめ)と固体の“固飴”(かたあめ)が併売されていたと思う。でも赤ちゃんに舐めさせたのは水飴だろうね」
と青葉は言う。
 
「昔は水飴って、おやつというより、調味料という扱いだったみたいね」
と世梨奈。
 
「そうそう。甘みを付加する調味料」
 
「それが麦芽糖でできてるの?」
と美由紀が訊く。
 
「うん。水飴は初期の頃は、発芽玄米から作っていた。ところが発芽玄米ってあまり糖化酵素を含んでいないんだよ。だからその頃の水飴は量産できないから、かなり高価なものだったみたい。その内、大麦の発芽したものがたくさん糖化酵素を含んでいることが分かって、発芽した大麦、いわゆるモルトを加えるようになった。これで量産できるようになって安価になり、庶民でも食べられるようになったんだよ。それがたぶん室町時代の後期頃だと思う」
と青葉は解説する。
 
「モルトってビールに入ってるやつ?」
 
「そうそう。まずはモルト(発芽大麦)に含まれる糖化酵素によって、大麦の澱粉質が麦芽糖、更にはブドウ糖にまで分解される。このブドウ糖を酵母が食べてアルコールと二酸化炭素を排出する。それでビールができる。だから、本来ビールってのはモルトと水だけで出来るものなんだよ。これに香り付けと保存料を兼ねてホップを加えるところまではビールの製法として認められる。コーンスターチとか他の香料を加えるのは邪道」
 
と青葉は解説するが、実はこれは彪志からの受け売りである。
 
「ほほお」
「ビール飲みたくなった。あとでビアガーデンとか行かない?」
「未成年飲酒はよくない」
「硬いこと言わない」
 

リオデジャネイロ五輪に参加しているバスケット女子日本代表は8月6日から13日まで予選リーグをおこない3勝2敗となった。
 
予選リーグの最後の試合はブラジル時間で8月13日17:45-19:35、日本時間で14日の朝5:45-7:35に行われた。
 
この結果、日本が入っているグループAでは、オーストラリアが5戦全勝で1位通過、フランス・トルコ・日本が3勝2敗で2〜4位通過で、いづれも決勝トーナメントに進出したのだが、ここで問題になったのが順位であった。
 
フランスは344得点343失点で得失点差1、トルコは 324得点325失点で得失点差−1に対して日本は386得点378失点で得失点差8なので、この数字を見るとまるで日本が2位になりそうである。
 
ところが現在バスケットの国際ルールではこういう場合「勝点が同じになった当該チームの対戦成績のみで勝点を見、それが同点なら得失点差を見る」という難しいルールになっている(以前は得失点率だったが2014年の改訂で得失点差になった)。
 
すると、下記の試合結果から
FRA 55-39 TUR FRA 71-79 JPN
TUR 39-55 FRA TUR 76-62 JPN
JPN 79-71 FRA JPN 62-76 TUR
 
___ For Agn +/-
FRA 126 118 +8
TUR 115 117 -2
JPN 141 147 -6
 
となって、日本は4位通過になってしまった。するとグループBの1位であるアメリカと準々決勝を戦わなければならなくなってしまったのである。
 
「なんか厳しいことになっちゃったね」
と青葉は国際電話で千里と話していった。
 
「なんであの点数で4位になるのか、説明してもらったけど私には分からなかった。なんか凄く不愉快」
と千里は言っていた。
 
「私も点数をExcelに入れて、あれこれいじってみて、かなり考えてやっと分かった」
と青葉。
 
「でもまあ頑張るしかないよ。少々のことではアメリカ代表と本気の戦いなんてできないから、もう勝敗考えずに思いっきり闘ってくる」
と千里。
 
「うん。無心で頑張れば、ひょっとしたら勝てる可能性もあるよね」
と青葉。
 
「そうそう。でも結局トルコに取りこぼしてしまったのが全てなんだろなあ」
と千里は本当に悔しそうだった。
 

15日の午後3時頃、桃香は高岡に帰省してきた。
 
「千里が南米に行く直前に旅行代理店に頼んでチケットを取ってくれていたんだよ。おかげで座って帰ってくることができた」
と桃香は言っている。
 
まあちー姉は自分でネットを操作して予約したりすることはできないだろうなと青葉は思った。ちー姉が操作したら、行き先が高岡じゃなくて、高山とか高浜とかになっていたりしかねない!
 
千里は朝の弱い桃香に配慮して11:24東京発の《はくたか》を取っていたので、桃香の帰りはこの時刻になったようである。
 
それでその時刻から、朋子のヴィッツに、桃香と青葉が乗り、途中朋子の母の敬子の所にも寄って一緒にお墓参りに行った。
 
「仕事は忙しい?」
と朋子が訊く。
「暇で困っている」
「あらあら。でもお給料は良いんでしょ?」
「うん。まあ、女の給料としては割といい方のようだ」
「だったら頑張らなきゃ」
「頑張らせてくれたらいいんだけどねぇ。もういっそ性転換したいよ」
と言う桃香の表情に、青葉は《破綻》が近いなというのを感じた。
 

お盆明けすぐに、京都で“全国公”こと全国国公立大学選手権水泳競技大会が行われた。
 
17日、青葉は朝4時前に家を出てアクアを運転し金沢駅まで行くと、時計台駐車場に車を駐め、朝5時に金沢駅で遠征メンバーと落ち合った。なお、桃香はこの日東京に戻るということだったが、こんな朝早い時刻に桃香が起きられるわけがないので、先に出た。桃香は結局お昼前に帰ったらしい。
 
さてこの朝金沢駅に集まった遠征メンバーは、女子ではリレーメンバーの圭織・香奈恵・ジャネおよび補欠兼マネージャーの杏梨。男子では筒石さんと諸田さんの2人である。
 
5:35発のサンダーバード2号に乗り、7:51に京都駅に到着する。地下鉄と阪急を乗り継いで20分ほどで西京極駅に到着。会場の京都アクアリーナは駅から徒歩5分である。開会式は8:50から行われた。なお、顧問の角光先生は代表者会議のため前日に京都入りしている。
 

開会式の後、最初に女子400mメドレーリレーの予選があった。背泳=圭織/平泳ぎ=香奈恵/バタフライ=青葉/自由形=ジャネと泳いで予選を通過した。男子のメドレーリレーの予選を経て、すぐに女子400m個人メドレーの予選があって圭織が参加したものの、残念ながら予選落ちした。
 
「あまり休む暇無かったですもんね〜」
「うん。ちょっと辛かった。少し寝てるからよろしく〜」
 
お昼過ぎに男子200m背泳ぎの予選があり、諸田さんが参加したが予選落ちであった。
 

その日のお昼御飯の時間、青葉は千里に電話を掛けた。
 
「ちー姉、お疲れ様」
「悔しい!でも快感だった!」
 
と千里は電話口で言った。
 
アメリカとの準々決勝は16日の18:45-20:20、日本時刻でこの日の6:45-8:20に行われ、日本は110-64の大差で敗退。今大会はBEST8に終わった。
 
「この点差聞いただけで、アメリカは本気だったんだなと思ったよ」
と青葉は言う。
 
「うん。本気だった。実力差のある相手なら適当にお茶を濁して準決勝以降に戦力を温存したと思う。でも、そんなことしたら食われると思って全力で叩き潰しに来たんだと思う。私もあっちゃんもレオも完敗だった。出直しだよ」
 
「日本は最後ゾーンディフェンスまで使ったみたいね」
 
「うん。でもほとんど無意味だった。強引にゾーンを破られた。でもおかげで私たちはアメリカのしっぽを望遠鏡のスコープの中にやっと捉えた感じだよ。4年後に向けて再出発。私ももっともっと鍛えるよ」
 
と千里は言った。
 
青葉はその日の夜になってネットで試合の様子の録画を見た。試合が終わった時、ほとんどの選手が泣いていた中、千里、花園亜津子、佐藤玲央美の3人だけが泣かずに厳しい顔でコートを見つめているのを見て、青葉は明日は自分も頑張らねばと思った。
 

ところでこの日、青葉たちは京都市内の安ホテルに一緒に泊まったのだが、女子メンバーの中で3年生の香奈恵は親戚の家に泊めてもらうと言っていた。
 
「親戚の家だと安く済んでいい」
という声もあがるが
 
「その代わりお土産も必要だし、結構気を遣うし」
などと彼女は言っている。
 
「お土産何持って来たの?」
「これ。金沢の伝統的なお菓子のひとつ。ここの伯母ちゃんがこれ好きなのよ」
と言って見せるのは、俵屋の《じろあめ》である。
 
「それ、子育て幽霊の飴だよね?」
と圭織が言う。
 
青葉はびっくりした。つい先日、美由紀たちとその話をしたばかりである。
 
「金沢の光覚寺というお寺の近くに飴屋さんがあって、そこは『あめや坂』と呼ばれていたんだって。そこに夜な夜な飴を買いに来る女の人がいたんで、店主が不審に思って後を付けてみると、そこのお寺の墓地で姿が消えたらしい。それでお寺の人に言って最近亡くなった女性の墓を掘り返してみたら、死んだ女の人のそばに飴を舐めている生きた赤子がいたという。そこの飴屋さんが、小橋の俵屋さんの暖簾分けのお店だったらしいよ」
 
と圭織は説明した。
 
青葉は「あれ?お寺の名前が違う」と思ったのだが、香奈恵が言う。
 
「そうそう。金沢では有名な伝説だよね。でもこの飴買い幽霊の舞台になったお寺って、実は金沢市内に5つある」
 
「5つもあるんですか?」
 
「うん。それぞれに伝わる話も微妙に違うみたい。そもそも俵屋さんの話はまた違っていて、お乳が出ずに産まれた赤子を餓死させてしまって悲しみに沈んでいた母親を見て、お乳代わりに与えられるようなものが作れないかといって、初代は水飴を考案したんだというんだよね。その話と元々あった飴買い幽霊の話がどこかで混線して、飴買い幽霊の飴は俵屋の飴って話になっちゃったのかもね」
 
などとも圭織は言っている。
 
「そうなんだよね。そもそも俵屋の創業は天保元年で、飴買い幽霊の話はもっと古い話だと思う」
と香奈恵も言っている。
 
天保元年というと1830年だが、円山応挙は1733-1795年の人である。つまり道入寺の話で絵を描いたのが本当に円山応挙であれば、それは俵屋の創業より前の話ということになる。
 
「だけど実際問題として、赤ちゃんに水飴をあげてもいいんですかね?」
と杏梨が疑問を呈する。
 
「昔はお乳が出なかったら、米のとぎ汁を飲ませろなんて話もあったけど、米のとぎ汁よりは水飴のほうがずっとマシ」
と青葉は言う。
 
「米のとぎ汁ってつまり澱粉だけど、赤ちゃんの胃腸はまだ澱粉を充分に分解する力が無い。でも水飴は発芽大麦に含まれる酵素の力で、澱粉質が麦芽糖や更にブドウ糖にまで分解されているんだよ。ブドウ糖はそのまま吸収できるし麦芽糖程度なら、何とか赤ちゃんの腸でも分解できる」
と青葉は説明する。
 
「なるほどー。だったら、水飴ってマジで赤ちゃんの生命をつなぐことのできる食品なんだ!」
 
「まあ現代では粉ミルクがあるから、それを使う方がいいけどね。昔でも、もらい乳ができるなら、その方が良かったと思う」
と青葉。
 
「確かに」
 
「いや、粉ミルクが発明されるまでは、お乳の出ない女性がどうやってその赤ちゃんを生きながらえさせるかというのは、極めて深刻な問題だったと思うよ」
と圭織は言った。
 

さて17日、桃香は結局お昼近くまで寝てからタクシーで新高岡駅に行き、新幹線に乗車した。母はもちろん会社に行っているし、青葉は水泳の大会に出るのに京都に行くということで、早朝に家を出たらしい(熟睡していたので分からない)。
 
そして東京行き新幹線に乗ったものの、長野でいったん途中下車して、市内の産婦人科に行った。
 
実は桃香は千里にも(同意してくれなさそうなので)言っていなかったが、今年人工授精をして子供を作りたいと思っていたのである。ここの産婦人科には、大学生時代に千里を連れて行き、精子を採取して冷凍保存してもらっていた。
 
ただ、正直、その後、千里の“実態”が分かってくるにつれ、本当にあの時採取したのは千里の精子なのかということに、桃香はかなり疑問を感じ始めていた。千里があの当時、男性器を持っていたとは信じがたいのである。
 

そう考えるようになった根拠は2つある。
 
ひとつは最近千里が高校時代から「女子バスケットボール選手」だったことを知ったことである。確認してみた所、元男子だった選手が女子選手として認められるには、
 
(1)第2次性徴が発現する前に去勢し、女性ホルモンの投与を受けていたか
(2)去勢して2年以上にわたって女性ホルモンの投与を受けているか
 
というのが必要で、むろん性転換手術も終わっていることというのが条件のようである。千里は高校1年の秋までは男子選手だったが、その後の新人戦からは女子選手として出場したと言っていた。それは2006年のおそらく12月頃であろう。ということは、千里は中学2年生だった2004年の10月か11月頃に去勢して、恐らく高校1年だった2006年の夏休みに性転換手術を受けたのではないかと想像した。
 
実際、2012年7月に桃香自身が付き添って千里がタイに渡り性転換手術を受けた時にもらった病院の書類が2006年7月の日付になっていた。また、あの時、お土産屋さんで青葉へのお土産にブルークォーツとレッドスピネルのイヤリングを買ったレシートまで2006年7月の日付になっていた。つまり、あのタイ旅行は、なぜか分からないが、6年の時間を越えて過去のタイに行ったのではないかという気がするのである。
 
桃香は合理主義者だが、科学的な推測と矛盾する話があったら、それをそのまま受け入れるだけの柔軟性も持っている。実はあのタイ旅行中、千里が妙に若返ったような気がしていたのだが、それが実は高校生時代の千里だったと考えると結構納得がいく。
 

そして、もうひとつ、千里が出会った頃から女の身体だったのではと疑う根拠は当時の千里とのセックスの感覚である。
 
桃香と千里は成人式の翌日、1度だけ千里のおちんちんを桃香が受け入れる形でのセックスをしたものの、当時千里のおちんちんがあまりにも柔らかすぎて入れるのに物凄く苦労した。最後は強引に指で押し込んだが多分先っぽが少し入った程度であった。
 
その後ふたりは(桃香的見解で)同棲するようになったのだが、それで千里にセックスしようと言っても、千里がしないというので、結局桃香が千里に入れる形でセックスするようになった(実はほとんどレイプに近かった)。その時の感覚が、後でよくよく考えてみると、普通の女の子に入れるのと同じ感覚だったのである。
 
桃香は女の子とセックスする時、ふつうはヴァギナに入れる。しかし相手がバイだったりして、将来男性との結婚を考えるようになった場合に備えて女の子とのセックスでは処女を傷つけたくないと考えているような場合は、後ろに入れる場合もある。当時桃香は千里にはヴァギナが無いから当然後ろに入れていたつもりだった。
 
しかし後ろに入れるには相手に膝を曲げさせたりして、身体を結構曲げさせる必要がある。また後ろはヴァギナほどの湿潤性が無いので、ゆっくりと入れてあげないと相手は痛がる。ところが桃香は千里とふつうに正常位で結合していたし、かなりスムーズに入っていた。ということは、やはり当時桃香は千里の“ヴァギナ”に入れていたのではという気がしてきた。だとすると、当時既に千里にはヴァギナがあったということになる
 
それでやはり千里は自分と出会った時、既に女の身体になっていて、おちんちんは精巧なフェイクを装着(おそらく身体に直接接着)していたのではと考えるようになったのである。
 
千里は当時「タック」している状態を何度か自分に見せてくれたが、あれも多分フェイクのおちんちんを装着した上で、それを更にタックするという面倒なことをして見せて、自分におちんちんが無いように見えても、本当はあると思い込ませていたのだろう。恐らく普段はフェイクのおちんちんも付けていない、素の女性器だけの状態で自分と愛し合っていたのではと桃香は想像している。
 

ところがその点について千里に訊いてみたところ、千里は「当時のおちんちんが本物かどうかはさておいて、方法は説明困難だけど、あそこの病院で冷凍保存されているのは間違い無く私の精子」と桃香に明言したので、だったら使わせてもらおうと考えた。
 
ひょっとしたら千里は中学時代に去勢手術を受ける前に実は精液を冷凍していて、それをあの病院に持ち込んだのでは?というのも可能性のひとつとして桃香は考えている。
 
病院には1ヶ月ほど前に連絡して用意してもらっている。桃香自身の生理周期から、この時期に排卵することが予測されたので、この日の人工授精ということになった。
 

「ああ。間違い無く今日明日にも排卵しますね」
と診察してくれた医師は言った。
 
「排卵する少し前に精液を入れないといけないですよね?」
「そうです。精子は子宮や卵管の中で数日生きていますので、そこに卵子が到着すると受精します。排卵してしまった後で精子を入れても間に合わない場合があります」
 
それで桃香はその場で自分が書いた同意書と、千里の名前で予め書かれた同意書(実は桃香が千里の筆跡を真似て書いた偽造)を提出して、子宮内に解凍した精液を投入してもらった。
 
そのまま5分ほど休んでからもういいですよとは言われたものの、すぐ動いたら入れた精液が漏れそうで不安だったので少し休みたいと言うと、回復室に案内され、そこで30分ほど休ませてもらった。
 
妊娠が成功したかどうかは、東京都内の提携している病院で確認してもらえることになった。
 
この日、桃香は結局長野市内の漫画喫茶!に入り、そこで東京行き最終の少し前の時間まで横になったまま休んでから、新幹線に乗った(桃香はケチなのでこういう時にホテルを取って休んだりはしない)。
 
駅近くの神社でおみくじを引いたら「お産:吉。安し」と書かれていたので、うまく行ったかな?と思いながら新幹線の座席で寝ていった。
 

京都アクアリーナ。
 
18日。大会2日目、また最初に女子400mメドレーリレー決勝が行われたが、青葉たちは5位の成績であった。
 
「メダルに届かなかったね」
「まあ賞状はもらえるからいいか」
 
少しおいて女子400m自由形の予選がある。ジャネさんと青葉が参加し、青葉は予選落ちしたものの、ジャネさんは予選トップの成績で通過した。
 
「なんかジャネさん、足の先が無いのは、もうハンディじゃなくなっている感じだね」
と青葉は杏梨と言い合っていた。
 
続いて行われた男子400m自由形の予選では筒石さんが予選3位の成績で決勝に進出した。
 
お昼すぎに、女子400mリレー予選が行われる。これに圭織/香奈恵/ジャネ/青葉というメンツで出て、無事予選を通過する。少し置いて15時すぎに女子400m自由形決勝と、男子400m自由形の決勝が続けてあり、ジャネさんは2位、筒石さんは3位に入って銀メダルと銅メダルを獲得した。
 
「やりましたね!」
とみんな祝福するものの本人たちは2人とも
 
「優勝を狙っていたんだけどなあ」
と言って悔しそうであった。
 

最後から2番目、16時40分頃に女子400mリレーの決勝が行われた。この後は男子の800mリレーが行われて大会は閉じられる。この種目はクライマックスである。
 
圭織が飛び込んで力強く泳ぐ。圭織はこの時無茶苦茶気合いが入っていた。しかし他のコースを泳いでいる選手たちも全国から集まってきた精鋭揃いである。結局圭織は4位で戻って来た。香奈恵がその後を泳ぐ。香奈恵は元々50mの選手なので100mはあまり得意ではない。しかしこの日はとにかく途中でバテてもいいから、全力で泳ごうと思っていたと言う。一時的に3位に浮上し、更に2位の選手にまで迫るものの、やはり復路でペースが落ちていく。最終的に6位まで順位を落とす。
 
義足を圭織に預けたジャネが飛び込んで前の泳者を追い上げていく。往路で1人抜き、復路で1人抜いて4位に浮上する。そしてタッチ間際に3位の泳者をわずかに抜いた気がした。
 
青葉が飛び込む。全力で泳ぐ。昨夜千里と電話で話し、そのあと試合のビデオを見て感じたことが頭の中にリプレイされる。大量にリードされていても、千里も花園さんも佐藤さんも、諦めずにどんどんスリーを撃っていた。たまらず向こうの選手が停めに来てチャージングしても、それでも放り込んでバスケットカウント・ワンスローで一気に4点取ったりするので、向こうは対策に苦慮していた。だからこそ向こうは最後まで手を緩めず、全力で闘ったのだろう。今自分は全国大会の決勝戦で泳いでいる。ここで全力出さなかったら絶対後で悔やむ。ここでほんの少しの水の掻き方、ほんのわずかのキックの加減が、勝負を左右する。青葉はこれはまさに自分との戦いだと思った。
 
ゴールにタッチする。
 
顔を上げて電光掲示板を見る。
 
3:59:06 という数字が表示されているのだが・・・・隣のコースで泳いだチームにも同じ数字が出ている。一応向こうの方が上位に表示されている。青葉たちのチームの名前は4番目に表示されている。
 
これは・・・同じタイムだけど4位!??
 

「お疲れ〜! 頑張ったね」
と圭織が寄ってきてまだ水中にいる青葉と笑顔で握手した。
 
「これ4位ですか?」
「ううん。同着3位だよ。2つ並べては表示できないから、向こうが便宜上、上に表示されただけ」
 
「ってことは、メダルは?」
「もらえる」
「やった!!」
 
それで次の種目、男子の800mリレーが行われている間に、女子400mの表彰がおこなわれ、青葉たち4人は銅メダルを掛けてもらった。賞状はジャネさんが代表してもらった。
 
「ジャネさん、パラリンピックに向けて景気づけになりましたね」
「その前にインカレで金メダル取るよ。私、性転換して男子の方に出てもメダル取っちゃる、という気分だよ」
 
とジャネは力強い表情で言っていた。
 
彼女は今回、個人で出た400mで銀メダル、そしてリレーで銅メダルでメダル2個獲得である。この人、もう少し早く意識を回復していたら、オリンピック本戦にも手が届いていたかもと青葉は思った。
 

帰りの電車に時間的余裕があまり無いので、閉会式が終わったらすぐに阪急/地下鉄と乗り継いで京都駅に行き、サンダーバードに飛び乗る。駅構内で食料やジュースを調達して、車内で乾杯した。女子メンバーと顧問の先生はサイダーやコーラであるが、筒石さんと諸田さんはビールを飲んでいる。
 
「いや、普段は金麦とかクリアアサヒとかだけど、こういう時はビール行かなきゃ」
などと筒石さんは言っている。
 
「何か違うんだっけ?」
とアルコールに詳しくない香奈恵さんが訊く。
 
「今飲んでいる一番搾りはビール、金麦とかクリアアサヒは第四のビール」
と筒石さんは説明するが、香奈恵さんは
 
「第四?」
と言って、よく分からないふう。
 
「要するにビールに似た味のアルコール飲料だよ」
と圭織さんが補足したが
 
「いや。ビールとは全然味が違う」
と筒石さん。
「まあ、単に泡の立つアルコール飲料というだけのことだな」
と諸田さん。
 
「へー」
 
「金麦は金麦で充分美味しいんだけどね」
「一番搾りとかのビールと比べたら、比較にならない」
「でも安いんですね?」
「そうそう。ビールの半分くらいの値段で買える」
「なるほどー」
 

結構飲んだり食べたりしていて、もうすぐ福井という頃になった時、唐突に筒石さんが言った。
 
「そういえば、俺昨晩は不在だったけど、彼女は大丈夫だったかなあ」
 
「筒石さん、恋人ができたんですか?」
「あ、いや、ここの所、毎晩俺んちに来る女が居てさ」
 
青葉たちは顔を見合わせる。
 
「筒石さんのアパートでデートしてるんですか?」
「いや、そういうんじゃないよ。夜になると俺んちに来て、飲み物をくれというから、スポーツドリンクを水で溶いたのをあげていたんだよ。ペットボトルの空きに入れて渡していた」
 
「何ですか?それ」
 
「女は最初は代わりに俺に十円玉をくれた」
「十円!?」
 
それはいくらなんでも時代錯誤な代金である。
 
「それが何日か続いたんだけど、一昨日の晩は、なんでも金が無くなったと言ってた。でも、いいよいいよと言って、いつも通りのレシピでスポーツドリンク作って渡してあげた。それで俺、昨晩は居なかったから、どうしたんだろう?と思ってさ」
 
などと筒石さんは言っている。
 
青葉は背中がぞくぞくとするのを感じた。青葉は杏梨、圭織、ジャネと顔を見合わせた。4人とも多分同じものを想像した。
 
「ちょっと今晩、筒石さんのアパートに行っていいですか?」
「ああ、いいけど。俺んちで打ち上げする?」
「いえ、打ち上げは明日あらためてどこかで。でもその女性が気になるので」
と青葉は言う。
 
「私、付いてようか? 若い女の子を1人で筒石君ちに夜中にはやれない」
と圭織さん。
「その手の話なら、むしろ私に任せて。私、その手のものの専門家だから」
とジャネさんが言った。
 
専門家ね〜。“幽霊の専門家”というより“幽霊本人”のような気がするが。
 
「圭織先輩はおうちに帰った方がいいですよ。遅くなったら家族が心配すると思うもん。私も付いて行きますよ」
と杏梨が言った。杏梨は金沢市内にアパートを借りて独り暮らしである。
 
それで結局、青葉、ジャネ、杏梨の3人で金沢に着いたら筒石さんの家に行ってみることにした。圭織も何かあったら急行するからと言ってくれた。
 

サンダーバードが金沢に着いたのは21:22である。時計台駐車場に駐めていた青葉のアクアに乗って、筒石さんのアパートに移動した。アパートに着く少し前、コンビニの所にさしかかった時、ジャネさんが
 
「あ、私をそこで降ろして。おやつ買ってから行くから」
と言う。
 
「幡山先輩、俺のアパート分かります?」
「うん。分かる分かる」
 
それでジャネはそこで降りた。筒石さんも彼女が「水渓マソ」として、彼と一時的に付き合い、筒石さんのアパートでセックスまでしていたなどとは思いもよらないだろう。
 
それで残りの3人で筒石のアパートの所まで行く。アパートの近くの路上に駐める。この付近は夜間は駐車監視員は巡回してこないのは、4月に筒石さんをずっと《笹竹》に尾行させていた時に確認済みである。念のためその《笹竹》を車の中に残しておいた。
 
階段を登ってすぐの所にある201号室の鍵を筒石さんが開け、みんなで中に入る。杏梨が顔をしかめる。
 
「これ、ひっどーい」
 
4月に“マソ”が筒石さんと付き合っていた時は、彼女がきれいにここを掃除していたのだが、あれから3ヶ月半経つと、もう《元の木阿弥》である。
 
「あ、ゴミとかは見ないようにして」
「運動会しているゴキブリは?」
「気にしない、気にしない」
 
「杏梨帰る?」
と青葉が訊くが
「ううん。居る」
と彼女は答える。
 

それで青葉が台所のシンクにうずたかく積み上げられている食器を最低限洗ってお茶くらいは飲めるようにする。やかんは沸騰させたのをいったん捨ててから、再度水を入れて湧かした。そんなことをしている内にマソさん、もとい、ジャネさんが、エコバック2つに入れた食料・飲料を買ったのを持ってアパートにやってきた。
 
「コンちゃん、これひどーい。少し自分でも掃除しなよ」
とジャネさんは言ったが、筒石さんは
 
「え?幡山先輩、なんで俺の愛称を知っているんですか?」
などと言っている。
 
「ジャネさん、それいくらしました?私が半分出しますよ」
「そうだね。青葉ちゃんお金持ちっぽいから半分こしようか」
と言ってレシートを見せてくれたので、青葉は彼女に千円札を2枚渡した。
 
ジャネさんが買ってきた《ごきぶりホイホイ》を5個、部屋のあちこちに仕掛けた上で、おやつを食べながらあまり騒がないようにして待つ。青葉と杏梨は紅茶を飲んでいるが、筒石さんとジャネさんはジャネさんがコンビニで買ってきたブロイベルグの缶ビールを飲んでいる。
 
「うちの姉がブロイベルグ好きだと言ってました。ちゃんと正しい製法で作られているのに安くて素敵だって」
と青葉が言う。
 
ジャネがピクッとした。
 
「ねえ、青葉ちゃん、あの人何者?」
とジャネが訊く。
 
「へ?」
 
「あの人、物凄く恐い。全てを見透かされている気がした。たぶんあの人を怒らせたら、私たぶん一瞬にして消滅させられる」
 
「うちの姉はそんなことしませんよ」
「でも必要な時は、躊躇せずに相手を倒すでしょ?」
 
そういえばそういう話を千里としたなと青葉は思った。
 

アパートに着いてから2時間ほど経ち、0時の時報を聞いた時、筒石が
 
「はい」
と返事するのを杏梨は聞いた。
 
「ん?」
と思う。筒石さん何に返事したのだろう?と思ったのだが、青葉とジャネさんが緊張した顔をしているのを見て、杏梨は何も尋ねなかった。
 
筒石が立ち上がる。そしてドアを開けて誰かと話している感じなのだが、杏梨には筒石の声だけが聞こえる。ドアの外側にも誰も居ないように見える。まるで筒石が独り芝居でもしているかのようだ。
 
やがて筒石は台所で粉のスポーツドリンクを水で溶かし始めた。そしてさっき青葉が台所を片付けて洗って水切り籠に入れていたペットボトルにそれを詰める。そして誰かに渡しているようである。
 
すっくと青葉とジャネが立ち上がった。ふたりは、ほとんど気配を感じさせない歩き方で、玄関の所に行くと、筒石が閉めようとした戸をそっと手を当てて停めると、靴も履かずに外に出た。
 
杏梨もそっと歩いてそちらに行く。
 
青葉とジャネはアパートの玄関前の通路をじっと見ている。杏梨もそっとそちらを見た。
 
「204号室に入ったね」
とジャネ。
「うん。あそこに何かありますね」
と青葉。
 
「筒石さん、ここの管理人さんは?」
「え?ここは不動産会社が管理しているけど」
「そこの非常呼び出し先を教えてください」
「えっと・・・どこだろ?」
 

結局青葉がスマホで検索して緊急連絡先を調べて電話した。
 
「人の命に関わるんです。部屋を開けて欲しいのですが」
「あなたは?」
「同じ階の201号室の住人の友人です。204号室から弱々しい赤ちゃんの声が聞こえるんです」
「分かりました!警備員を向かわせます」
 
それで20分ほどで警備会社の人が来た。そして青葉たち4人が立ち会う中、警備員さんが204号室の戸を開ける。
 
「うっ・・・・」
と杏梨が声をあげた。
 
強烈な腐敗臭がするのである。
 
夏だしなあと青葉は思った。
 
警備員さんもこの臭いに顔がこわばった。
 
「女性は見ない方がいいです」
と言うので、警備員さんと筒石さんの2人だけで中に入った。
 
「赤ちゃんが生きてる!」
という声がある。
 
「119番します」
と警備員さんが言っているが
 
「待ってください。私の車で運んだ方が早いです」
と青葉は中に向かって言った。
 
「あ、いや。自分の車で運びましょう」
と警備員さんが答えた。警備員さんも動転していたのだろう。
 
警備員さんが産まれてそう日数の経てない赤ん坊をタオルで抱いて出てきた。へその緒は付いたままである。けっこうな臭いがする。血のようなものも付いている。たぶん出産の血と、便とで汚れていたのを軽く拭いてからタオルに包んだのだろう。筒石さんもかなり緊張した顔をしている。
 
 
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【春産】(1)