【春産】(3)

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優子は暇をもてあましていた。
 
お産は思ったよりも軽かった。みんなから「無茶苦茶痛いから覚悟しとけよ」と言われていたが、確かに産んだ時はけっこうきつかった気もするものの、出産の傷自体はすぐ治ったし、出産後3日もすると病院内をうろついたりしていたので「あんた元気みたいだからもう退院していいよ」といって放り出されてしまった。
 
それですることが無いのである!
 
赤ちゃんはまだ入院中である。36週での早産だったし体重も2400gだったので保育器に入れられることになった。この病院では37週未満の子、2500g未満の子は保育器に入れる方針で、奏音(かなで)はどちらの基準でも引っかかった。もっとも赤ちゃん本人はいたって元気そうで、しっかりお乳も飲んでいるので、一週間程度様子を見て、8月26日(金)か29日(月)くらいには退院できるでしょうという先生のお話だった。それで優子は毎日病院に出かけてはおっぱいをあげている状態である。直接授乳でもしっかり吸ってくれるが、お乳を吸われているとあらためて自分は母親になったんだなあという不思議な気持ちになった。
 
この子の父親で元彼の信次は出産翌日8月20日の午後にはこちらに来てくれた。福井から急いで戻って来た優子の両親にも挨拶した上で出生届は自分で出してきたいからと言ったのである。
 
信次は女装して来てくれた!
 
信次は優子を妊娠させたのに、今までご両親に挨拶もしていなかったことを詫びておきたいと言ったのだが、そのままだと、優子との結婚を、特に父親から強く求められる危険があると考え、優子の提案で女装してもらったのである。
 
実際、生まれた子供を「ててなし子」にしたくない優子の父は、信次が来たら「絶対結婚を承諾させよう。そして婚姻届の後で出生届を出させよう」と、手ぐすね引いて待っていた。ところが病院にやってきた信次が
 
「失礼します。川島と申します」
 
と言って入って来た姿を見ると、白いフリルたっぷりの上品なイブサンローランのブラウスに、清楚な感じのグレイの膝丈スカート(同じくサンローラン)を穿いている。靴はリボン使いダークレッド・エナメルのクリスチャンルブタンのハイヒールである(今回の女装のために買ったもので後で優子がもらうことにしている。信次は靴のサイズが24なので優子でも履ける)。髪は肩に掛かるセミロングで軽くカールしている。きれいにお化粧していて、声さえ聞かなければ、丸の内のOLか?という感じである。
 
「初めまして。川島と申します。優子さんの赤ちゃんの父親です。これまで全く挨拶などにも来ずに申し訳ありませんでした」
とバリトンボイスで言って、深くお辞儀をする。
 
「あ、えっと・・・・」
と父親は言葉を失っている。
 
「あのぉ、男性でしょうか?」
と母親が遠慮がちに訊いた。
 
「はい。私、男ですけど、男に見えませんか?」
と笑顔で信次は尋ねる。
 
「女の人にしか見えない!」
と母親は言った。
 
実際信次の女装は全く不自然さが無く、優子はこれまで信次が「自分は女装趣味は無い」と言っていたのは絶対嘘だと確信した。
 
「だから言ったでしょ?私はレズの男役で、彼はホモの女役だから、お互い恋愛対象外で愛し合うこともできないし結婚はできないって」
と優子は言う。
 
「でも赤ちゃんができるようなことしたんでしょ?」
と母。
 
父の方は信次の外見を見たショックで何も言えなくなっているようだ。
 
「すみません。あの時、ついノリで優子さんに入れてしまって」
と信次は謝る。
「ふだんは私が信次に入れていたんだよ。だって私が男役で彼は女役だから」
と優子。
 
父親は混乱している。意味が分からないのである。
 
「じゃ最悪、優子、あんたが夫で、信次さんが妻という形での結婚はできないの?」
と母親が訊く。
 
「長期間のそういう関係の維持は無理だと思う。実際私たち、今年の初めに別れたんだよ。もうこのあたりが限界だよねと話し合って」
と優子。
 
「それで別れたのですが、その後、優子さんの妊娠が分かったのですぐ胎児認知しました」
と信次。
 

4人の話し合いは1時間ほど続いたものの、結局父親はふたりを結婚させることは諦めてくれて(母親は最初からある程度優子の考え方を容認してくれていた)、出生届も予定通り信次が出してくることになった(母親も付いていく)。
 
結果的にはふたりの結婚問題でたくさん議論したので、赤ちゃんの名前が奏音と書いて「かなで」と読むという難読名前であることについては、あまり議論が行われず、優子の意志が押し通されることになった。
 
出生届を出すのに市役所まで行く車(優子の母のソリオを信次が運転した)の中で、優子の母が信次に尋ねた。
 
「信次さん、やはり将来は性転換して女性になられるんですか?」
「いえ。私はゲイであってトランスジェンダーではないので、女になる意志は無いんですよ」
 
「でも女性の格好はなさるんですね?」
「すみません。ここだけの話ですが、優子さんのお父さんに結婚しないことを納得させるのに女装してきてと言われて女装してきただけで」
と言って信次は頭を掻いている。
 
「そうだったの! でも取って付けたような女装には見えないのに」
「まあ女装自体は趣味の範囲で」
「へー!」
 
「でもこういう格好で来ちゃったから、この後、子供の顔見にこちらに来る時は毎回女装かなあ・・・」
と信次は女装で来たことを若干後悔している感じだ。
 
「それは女装でも男装でも構いませんよ。ぜひこちらにはたくさん来て、子供と遊んであげてください」
と母親はにこやかに言った。
 

「でもずっとは愛してあげられない相手だったのに、優子さんを妊娠させてしまって本当に申し訳ありません」
と信次はあらためて母に謝ったが、母は言った。
 
「いえ。レスビアンのあの子が妊娠する可能性なんて、そんなことでも無ければ絶対に無かったろうし、私は孫の顔を見られただけで充分嬉しいですよ」
 
「私も女性を愛せないのが分かっていたから、自分に子供ができるなんて実は想定外でした」
と信次まで言っている。
 

「でも養育費を毎月10万円ってほんとに大丈夫ですか?」
と母親は信次に心配そうに訊いた。
 
養育費の額は優子とは事前に月6万円と約束していたのだが、父親が6万では子供を育てて行くのに足りないと言ったので10万円送金することを父親の前で信次が約束したのである。
 
なお今回の出産に伴う費用も、これまでの妊娠中の診察の病院代も全て信次が出している。今回子供が未熟児であったこともあり、当座の費用として信次は現金で優子の母に100万円渡した。出産育児一時金の42万円が出たら、その分はいったん信次に戻すことにしている。
 
「私、一応昨年実績で税込み500万円の収入があったし、その中から120万円はボーナスとかも使えば行けると思うんですよ。私、タバコも吸わないし、お酒は付き合いで飲む程度だし、ネットゲームもギャンブルもしないし、車は中古で買って4年乗っててローンは終わっているし改造とかの趣味も無いし」
 
「でも将来、ご結婚とかなさったら・・・」
 
「ああ、それは私が結婚とかするはずないから大丈夫です。女性には全く興味が無いですから」
「そうでしたね!」
 
そんなことを言っておいて1年半後に結婚することになるとは、信次自身この時は夢にも思っていなかった。
 
なお信次は自分に子供ができたことについて、母の康子には何も言っていない。それも、そんなこと言ったらその相手と結婚しろと言われかねないからである!また母にこの件がバレないようにするため、信次は認知する前にいったん戸籍を分籍しておいたのだが、この後更に転籍して奏音を認知しているという記載が表面的には戸籍を見ても分からないようにしてしまった。
 

優子が退院して3日後、8月26日(金)。
 
この日にもしかしたら赤ちゃんも退院できるかもということではあったのだが、体重がこの日の午前中に測ったら2499gであった。
 
「2500gを基準に考えていたから、月曜日にしましょうか?」
と医師は言った。
「あと1gなら、今ちょっとおっぱい飲ませたらクリアできませんかね?」
「まあ焦ることもないですよ」
 
ということで、赤ちゃんの退院はやはり29日(月)ということになった。
 
それで赤ちゃんとふれあいをして、その後(自宅に帰ってもすることないしと思い)ロビーで育児雑誌など読んでいたら、赤ちゃんが生まれそうになって駆け込んできた女性がいた。
 
「あれ?鈴子?」
「うっそー。優子だ!」
 
それは高校の時の1年後輩の鈴子であった。自分は直接この子と恋愛・・・というよりセックスしたことは無いが(未遂はあるしキスは何度かしている)、桃香が一時期この子と付き合っていたはずだ。
 
「まさか産婦人科で鈴子を見るとは思わなかった」
「それはこっちのセリフだ」
 
昔の知り合いのよしみで結局鈴子に付き添ってあげることにする。
 

「え〜? マジで優子、出産したの?信じられない」
と鈴子は言っている。
 
優子の場合は運び込まれてすぐに分娩室に行き、1時間もしない内に産まれてしまったが、鈴子の場合は少し時間が掛かるようである。
 
「鈴子も妊娠するようなことできたんだ?」
「私はノーマルだよ。まあ桃香に一時期入れあげていたことは認めるけど。レスビアンはあの時だけで、他はふつうに男の子と付き合ってたよ」
 
「バージンは桃香にあげたんだっけ?」
「あの時はあげようと思ったけど、桃香はもらってくれなかった」
「ふーん」
 
桃香は“女たらし”だが、バイの女の子のバージンは本人から懇願されても奪わないポリシーらしい。
 
「だからこの子の父親に私はバージン捧げたよ」
 
「結婚したの?」
「した。去年の夏」
「そうか。おめでとう」
「優子は結婚したの?」
「私が結婚するわけない。ちょっとゲイの男の子と遊んでたらうっかり妊娠しちゃって。先週出産したんだよ」
 
「意味が分からないんですけどー」
 

この日はどうも出産ラッシュだったようで、鈴子の後で4人も産まれそうという人が駆け込んできた。分娩室も3つある分娩室がフル回転で、最初に産んだ人など、産まれて1時間もしない内に病室に移されていた。
 
鈴子はこの日の夕方16時頃、赤ちゃんを出産した。この時も2つの分娩室で同時進行で出産が行われていて、双方でほぼ同時刻に産声があがった。
 
鈴子が産んだ子は女の子ということで、駆けつけてきた夫と話し合いの末、弓絵(ゆみえ)という名前にすることになり、明日にも届け出を出してくることになった。
 
「いやあ、超音波で見ていた範囲では男の子ってことだったんだけどなあ」
などと鈴子は言っていた。
 
「お腹の中におちんちん忘れてきたんだったりしてね」
と優子。
 
「だったらあの子は私に似て、忘れ物の天才になるな」
と鈴子。
 
この病院は母子別室である。
 
「優子さんの所はどちらだったんですか?」
 
と鈴子の母が尋ねる。優子は高校時代に鈴子の家に行ったことがあり、母はふたりの「濡れ場」を目撃しているので、実は優子のことを快く思っていない。そのせいか、少しぎこちない感じもあった。
 
「うちは女の子だったんですよ。私男嫌いだから、男の子だったらおちんちん切って女の子にしちゃおうと思っていたのに」
と優子。
「優子だったら、それマジでやりかねないなあ。最初から女の子で良かったね」
と鈴子は言った。
 
優子は結局20時すぎまで鈴子に付いていたので、そのついでに(?)何度か自分の赤ちゃん・奏音にも授乳しにいって、赤ちゃんとの親睦!?を深めた。鈴子も優子には気易く色々用事を頼めるので、優子がいてくれて助かっていたようだ。それで優子が月曜まではこの病院に来ると聞くと、最後には鈴子の母も「じゃ、それまではお時間の合う範囲で一緒に居てくださると助かります」と笑顔で言っていた。
 

2016年8月27日(土)。
 
青葉は水泳部の1年先輩で南砺(なんと)市出身の布恋さんと一緒に高岡総合プールにやってきた。今日明日の2日間、富山県水泳選手権大会が行われるので、2人はこれに個人資格で参加するのである。
 
布恋さんは現在は夏休み中なので南砺市の実家に居るが、学期中は金沢市内のアパートに住んでいる。しかし住民票は南砺市の実家に置いたままで、富山県民であり、この大会に参加資格がある。
 
「でも布恋先輩、私、先輩を差し置いて、インカレ中部予選とか、全国公とか出て済みません」
と青葉は取り敢えず言っておく。
 
「ああ。そんなの何も気にする必要無い。スポーツは単純明快。年齢も地位も関係無く強い者が上に行く世界だもん。青葉ちゃんは私より遙かに速いから、当然青葉ちゃんが出るべき」
と布恋は明快である。
 
「はい」
「それに私はダイエット兼ねて運動しているようなものだから、まじめに頑張っている青葉ちゃんの方をそもそも優先したい」
「すみません。あまり練習してません。それに本当は私、5月に退部届け出したのに、圭織先輩が握りつぶしているみたいで」
「あはは。そりゃ全国大会で通用する戦力は簡単に手放したくない」
と言って彼女は笑っていた。
 

高岡総合プールは25m,8コースの屋内温水プールと、50m,9コースの屋外プールを持っており、今日の大会は50m屋外プールで行われる。
 
この日、布恋は200m平泳ぎ・200m背泳と100mバタフライに、青葉は200m個人メドレーと800m自由形に出場する。布恋も本当は200m個人メドレーに出たかったらしいが、種目が200mの自由形・平泳ぎ、個人メドレー、背泳と4つ続くので、個人メドレーに出てしまうと、その前後の平泳ぎと背泳に出るのは体力的に厳しい。ということで個人メドレーは諦めて平泳ぎと背泳に出ることにしたらしい。100mバタフライに出るのは「参加者が少なそうだから」ということである。
 
実際200m自由形は男女とも多数の参加者がいて予選が女子で5組、男子で7組行われていた。大会は9時から始まったのだが、9時50分頃になって、やっと布恋の出る200m平泳ぎになる。これは参加者が少なく女子の予選は2組だけだった。布恋はここで脱落した。
 
「惜しかったですね。あと2人だったのに」
「いや、予選敗退で予定通り。決勝まで行く体力無いし」
「えーっと」
 
その後、青葉の出る200m個人メドレーである。これは参加者が物凄く多く予選が11組もあった。青葉は1組で泳いでトップでゴールして順調にA決勝に進出した。
 
なお、この大会では人数の多い種目ではA決勝・B決勝をおこなう。予選で9位までの成績だった人がA決勝(1〜9位決定戦)に出て、10-18位の人がB決勝(10-18位決定戦)に出る。B決勝はあくまで10-18位の順位を決めるものなので、ここでA決勝の参加者より良いタイムを出してトップになったとしても順位は10位にしかならない。
 

布恋の次の出番まで少し時間があるので、その間に軽く昼食を取っておく。消化の良いものを取ってカロリー補給という感じにする。
 
「そういえば南砺市からは通学は困難なんですか?」
「10号線・塩硝街道を突っ切れば行けるけど、あの道は毎日は通りたくない。と言って国道8号まで迂回すると結構時間が掛かるし」
 
10号線というのは、石川県道10号線と富山県道10号線がひとつながりになったもので、県境を越える県道には、昨年七尾に行くのに使った県道18号線など、石川県側と富山県側で同じ番号になっているものが多い。塩硝街道は南砺市と金沢市を結ぶ古い道で、富山県道54号と、富山県道・石川県道10号から成っている。
 
「けっこう険しい道でしたっけ?」
「まあ上品ではないね。54号線よりはマシ」
「そちらはもっと凄いんですか?」
 
「その10号線と54号線で塩硝街道(えんしょうかいどう)なんだよね。54号は数年前に崖崩れが起きた所がまだ復旧してなくて現在通行不能」
「あらら、そうだったんですか」
 
「塩硝(えんしょう)って知ってる?」
「火薬の原料か何かでしたっけ?」
「そうそう。黒色火薬の原料。これを加賀藩は江戸時代に五箇山(ごかやま)の山奥で密かに製造していたんだよ。これって動物のおしっこを葉っぱとか土を重ねたものの上に掛けて3年くらい寝かせると出来るんだよね」
「そういう製造方法なんですか!」
「尿には窒素が含まれているから、バイオテクノロジーだよね。結構画期的な量産技術だったらしいよ。むろん当時はそうやって生産できること自体が秘中の秘。それで出来た塩硝を秘密裏に金沢に運び込むための道が塩硝街道」
 
「つまりそもそもがとんでもない山の中を突っ切っているんですね」
「うん。江戸にばれないようにしないといけないから」
「バレていた気もしますけど」
「するする」
 

12時すぎから、布恋の出る200m背泳が行われた。参加者は18名しかいなかったが、布恋はまた予選落ちであった。本人は
「予定通り、予定通り」
と言っている。
 
12時半頃から青葉の出る800m自由形がある。この種目はタイム決勝である。さすがにこの距離で予選をして決勝をしてというのは辛い。もっとも実際にはこの種目の参加者が9人しか居なかったので、結局1発決勝と同じことになった。青葉はトップでゴールした。
 
男子の1500m自由形(同じくタイム決勝)が行われている間にプールサイドで800m女子の表彰式が行われ、青葉は1位の賞状をもらった。2位に入ったのが宮内さんといって青葉と同世代っぽい人、3位はまだ中学生くらいの子で竹下さんという子であった。宮内さんがその竹下さんに声を掛けていた。
 
「リルちゃん、今年はもうドルフィン賞取れなくて残念ね」
「あ、はい。でも2回もらったから。今年は宮内さんに勝って優勝します」
「おお頑張れ、頑張れ」
と宮内さんも笑顔だが、ああ、なんか好きな性格の子かも、と青葉は思った。
 
ドルフィン賞というのは明日行われる400m自由形で最も良い成績をおさめた小学生に贈られる賞である。つまりこの子は中学1年ということなのだろう。
 

男子の1500m自由形(タイム決勝だが参加者17名で競技は2組に分けて行われた)を経て、午後2時近くになって布恋の出る100mバタフライである。布恋は参加者少ないだろうなどと言っていたのだが、実際には35人もいて予選が4組行われた。布恋はB決勝に進出した。
 
「予選落ちするつもりだったのに予定外だ〜」
などと言っている。
 
その後4時頃から200m個人メドレーのB決勝・A決勝が行われたが、このA決勝にさきほど800m自由形で2位に入った宮内さんが出ていた。青葉は会釈を交わしておいた。
 
青葉と宮内さんは隣のコースになった。それで相手の泳ぎがダイレクトに分かる。この人、凄く上手い!と思いながら青葉は泳ぐ。結果はわずか0.01秒の差で宮内さんが1位、青葉が2位であった。ふたりのタイムを見て会場がどよめいていた。
 
「負けたと思った。勝ったのか信じられない」
などと宮内さんは隣のコースでまだ水に浸かったまま言った。ふたりは取り敢えず握手した。
 
「宮内さん、凄い上手いです!」
と青葉。
「川上さんは無茶苦茶な泳ぎ方なのに筋力で何とかしてる」
と宮内さん。
 
「それは指摘されたことあります」
 
たぶん最後0.01秒向こうが速かったのも、彼女の方がゴール板へのタッチが上手かったからだろうなと青葉は思っていた。
 
「水泳始めて間もないの?」
と水から上がって表彰台の方へ歩いて行きながら彼女が訊く。
 
「そもそも始めてないというか。高校3年の時に頭数が足りないから出てと言われてインハイに行って、今年も何か強引に大学の水泳部に入れられちゃって、退部届け出してるのに受け取ってもらえないんです」
 
宮内さんは呆れているようだ。
 
「そんな初心者でここまで泳げるのは凄いよ。来年の夏までに私もっと鍛えるから、川上さんも泳ぎ方をきちんと覚えてよ」
 
「そうですね。少し頑張ろうかな」
 
「明日の400mと400mメドレーにも出る?」
と彼女は青葉に訊いてきた。
「出ます」
「じゃ、それでもまた勝負」
「はい」
 
それで握手した。
 
彼女は昨年高校を出て現在は専門学校生。富山のスイミングクラブに所属しているということだった。つまり青葉とは同い年だ。
 

少ししてから100mバタフライのB決勝が行われる。布恋は9人中6着で15位の賞状をもらった。
 
この日の参加種目はここまでなので帰ることにする。
 
「賞状もらえてよかったですね」
「小学生の時に市の水泳大会で200m自由形3位の賞状もらって以来の賞状だ」
「3位は凄いですよ」
「参加者が3人だったし」
「あら」
「小学生女子だと200m泳げる子が少なかったしね」
「確かに体力要りますよね。でも布恋さん、バタフライ結構速いですよ」
「そうかなあ。青葉ちゃんこそ、うちのメドレーリレーじゃバタフライ泳いでるけど得意なん?」
「全然。消去法で押しつけられているというか」
「なるほどー」
 
「メドレーメンバー候補5人のクロール、平泳ぎ、背泳、バタフライの50m,100mのタイムをパソコンに入れて200m,400mメドレーで各々P(5,4)=120通りの組合せを全パターン計算してみたら、200mメドレーでは背泳が圭織さん、平泳ぎが香奈恵さん、バタフライが私で、自由形がジャネさんという組合せ、400mメドレーでは香奈恵さんの代わりに杏梨が入る組合せが最速という計算結果が出たらしいです」
 
「おお、数学で決めたのか!」
 

「ところで青葉ちゃん、本当は男の子だという噂も聞いたのだけど」
と布恋が小声で訊く。
 
青葉は苦笑した。
「戸籍上はまだ男の子ですけど、もう性転換手術を終えてから4年経ちましたよ。でも20歳になるまで戸籍の性別は変更できないんですよ」
 
「20歳になったら直せるのか。4年前といったら高校1年くらい?」
「中学3年生の夏休みです」
 
「そんなに若い内に手術したんだ。タイかどこか?」
「国内です」
「国内でもできるんだ?」
「国内では通常20歳以上。特に事情がある場合でも18歳以上なんですけど、私は特例中の特例中の特例だったそうです」
「へー!」
「昨年インターハイに出る直前になんか物凄い精密検査されましたよ」
「なるほどー」
「形だけ女にして、睾丸をどこかに密かに温存していたら男性的に筋肉が発達しますからね」
「まあ青葉ちゃんは男の子の体型には見えないなあ。じゃ、睾丸は無いんだ?」
「もう無くなってから5年経つかな。そもそも小学4年生の時に機能停止させちゃったんですよ」
「すごーい」
 
「一応IOCの基準では去勢した後2年経っていれば女子の試合に出られるんですよ」
「2年かぁ」
「それだけ時間が経てば、男性時代に付けた筋肉も落ちるだろうということで」
 
「ああ。スポーツ辞めてから2年経てばもう筋肉とか落ちてけっこう普通の人になっちゃうしね」
「だと思います」
 
「私の姉も小学生の内に去勢して高校1年で性転換したんですが、国際大会に出る前に半日くらい掛けた徹底的な検査されたらしいです。頭のてっぺんから足の先まで全身くまなくMRIでスキャンされたと言ってました。私は国内の大会にしか出てないから、そこまで厳しくは無かったですけど」
 
「お姉さんも性転換したの!?」
「そうなんですよ。だから兄弟から姉妹になっちゃったんです」
「凄い画期的だね。あれ、お姉さんも水泳の選手?」
「姉はバスケット選手なんですよ」
「へー!それは凄い。でもバスケットなら、元男性は筋肉が落ちても背丈で有利にならない?」
「姉の場合は身長168cmだからバスケット選手としては背が低い方なんですよ」
「168cmで低いのか!」
 
「プロの女子バスケット選手は180cm代がザラですから」
「凄い世界だ・・・それって女子なんだよね?」
「女子ですよ。でも外国との試合だと向こうは190cm代とかだし」
「ひぇー!女子で190!」
「うちの姉はスリーポイント・シューターなんですよ」
「おお。あれ格好いいね」
「姉の体格では中に進入してのシュートは無理だと言ってました」
「バスケの世界もなんか凄まじいな」
 

その日はいったん帰宅し、翌日また出てくる。今日は布恋はお昼頃の200mバタフライのみなのでお昼前に出てくると言っていた。青葉は朝1番の400m個人メドレーと10時半すぎくらいの400m自由形である。
 
行ってすぐに400m個人メドレーがある。女子の参加者は15名。予選は2組で青葉は1組、宮中さんは2組であった。最初に1組で青葉が泳ぐ。トップでゴールする。水からあがった青葉をじっと宮中さんが見ていた。その後宮中さんの入った2組が泳ぐ。宮中さんがトップで、タイムは青葉より5秒速かった。そのタイムを見て宮中さんが笑顔になる。青葉は拍手で彼女を迎えた。
 
体力を回復させるため更衣室の隅で少し仮眠した。そのあと少し準備運動して10:40頃、400m自由形の予選に出る。参加者は26名。宮内さんが1組、竹下さんが2組、青葉は3組である。むろん3人とも決勝に進出するが、タイムでは1位宮内、2位青葉で、竹下さんは5位であった。
 
お昼に持って来たおにぎりを食べ、またしばらく身体を休めておく。12:25頃に女子200mバタフライの予選があり、ギリギリで走り込んで来た布恋が参加する。参加者は11名で、予選は2組おこなわれた。布恋は決勝に進出した。
 
「決勝進出おめでとうございます」
と青葉は言ったが
「A決勝なんて予定外だぁ」
と布恋は言っている。
 

布恋はお昼も食べ損ねたと言って、おにぎりを食べていた。彼女がなかなか起きないのでお母さんが作ってくれていたらしい。
 
「こういう時は親のありがたみを感じる」
などと言っている。
 
「そうですね。御飯があるっていいことですね」
と言って青葉は微笑んだ。
 
14:15頃に400m個人メドレーの決勝が行われた。今回は青葉がトップで宮内さんは2位。時間差は3秒あった。青葉は宮内さんとコースが離れていたのでゴールしてから自分がトップだったことに気付き「わぁ」と思った。表彰式では「次は負けないからね」と宮内さんが悔しそうに言っていた。
 
400m自由形の決勝は15時頃から行われた。さっき400m泳いでからまだ1時間経っていない。青葉は10分くらい仮眠したのだが、それでも完全には体力は回復していない。しかしそれは宮内さんも同様である。このレースには中学生の竹下さんも参加する。
 
青葉はその竹下さんと隣のコースだった。スタートからいきなり物凄い速度で竹下さんが飛び出す。わっと思って必死でそれに付いていく。彼女はフォームも美しいし、身体の動きも速い。そして恐らくまだ身体の女性的発達が未熟で水の抵抗が少ないのもあるのではと青葉はチラッと思った。
 
頑張って付いていってはいるのだが、彼女には次第に離されていく。もうダメだぁと思った時、突然彼女のペースが落ちた。へ?と思いながらも青葉は必死で泳ぐ。彼女を抜き去る。そしてそのままプールを1往復してゴール。
 
青葉は1位だった。しかも2位の宮内さんに10秒も差を付けていた。
 
うっそー!?
 
半信半疑で表彰台の所に行くが
「大会新が出ました」
と言われた。
 
「えー!?」
 
「川上さん、リルちゃんの隣で泳いだからかもね」
と言って、完敗の表情の宮内さんが言う。
 
「あの子は前半飛ばすけど、最後までペースがもたないのよ」
「なるほどー」
 
その竹下リルは4位であった。
 
「でもそれ体力が付いてきたら恐いですね」
「うん。あの子は高校生になったらインハイで全国上位に行くだろうね」
 
青葉はそれで1位の賞状と楯までもらった。400m自由形と100m自由型の優勝者には楯まであるらしい。
 

15時半頃、200mバタフライの決勝が行われた。布恋は3位であった。本人はまた「うっそー!?」と騒いでいた。どうも上位の選手は青葉が出た400m自由形の直前に行われた50mバタフライにも出ている選手が多く、その疲れが出て、あまり成績があがらなかったのもあったようである。
 
「こんな賞状持ち帰ったら、母ちゃんから捏造ではと疑われそうだ」
などと布恋は言っている。
 
「こんなの捏造はしないでしょう」
と言って青葉は笑った。
 

これで青葉も布恋も出番が終わったので大会はまだ100m背泳・100m自由形のB決勝・A決勝が続くものの、もう帰ることにする。
 
昨日は布恋は城端線で高岡まで出てきていたのだが、今日は遅刻しそうになったのもあり、車で来ていた。車は赤いナディアである。
 
「この車種は初めて見ました。最近出た車ですか?」
「いや。古い車だよ。2003年型だから」
「へー」
「アイシスの一世代前の車だね」
「わぁ!アイシスは乗ったことありますよ」
 
以前レンタカーで借りて彪志といっしょに東京から長野までドライブしたことがある。
 
「布恋さんの車ですか?」
「ううん。お父ちゃんのを借りてきた」
「へー」
 

布恋の運転でイオンモール高岡に行く。一緒にフードコートに入ってリンガーハットでちゃんぽんとチャーハンのセットを買ってくる。
 
「ふだんはお上品にミスドとかマクドだけど、身体動かした後は、このくらい入るよね〜」
と布恋は言っている。
 
「ええ。これに牛丼食べてもいいくらい」
と青葉が言うと
「あ、私もそのくらい入ると思った」
と布恋が言うので、結局、すき家の牛丼も買ってくる。
 
「牛丼買うならチャーハンは要らなかったかな」
「入っちゃいますよ」
「だよねー」
 

「そういえば去年うちの水泳部の部長が連続怪死した事件は青葉ちゃんが解決したんだって?」
 
「あれは事件というのとは少し違うんですけどね。あの中には偶然時期が重なった無関係の事故もあったし」
「ああ、そうなんだ!」
 
「とりあえずこの名刺も渡しておきますね」
と言って青葉は《心霊相談師・川上瞬葉》の名刺も渡しておく。
 
「おお、なんか凄い。いわゆる霊能者ってやつ?」
「まあそんなものですね」
「寺尾玲子みたいな?」
「あんな、凄くないですー」
 
「でもやはり数珠とか使うの?」
「数珠は持ってますよ」
と言って青葉はバッグから愛用のローズクォーツの数珠を取り出してみせる。
 
「凄い大きな数珠だね!」
「触ってもいいですよ」
 
「へー。なんか凄く優しい感じの数珠。色も可愛いし」
「姉妹3人で色違いの水晶の数珠を頂いたんですよ」
「あれ?3人姉妹なんだ?」
 
「ええ。いちばん上の姉はグリーン・アメジスト、2番目の姉は藤雲石といってラベンダー色の水晶、そして私のがピンク色のローズクォーツなんですよ」
 
「あ、そうか。アメジストって紫水晶だ」
「ええ。でもグリーンのもグリーン・アメジストって言うんですよね」
「へー」
 
「性転換したってのは、どっちのお姉さん?」
「2番目の姉なんですよ」
「いちばん上のお姉さんは元から女?」
「ええ。天然女性です」
 
「おお。生まれながらの女は天然女性と言うのか!」
「男に生まれたけど女に育っちゃった人は養殖女性と言いますね」
「ほほお」
「人工的に女になったというので人工女性という言い方もあります」
「それたぶん微妙に意味合いが違うよね?」
 
「そうですね。人工女性という場合、やはりホルモンとか手術とかで改造しているというニュアンスがあるし、養殖女性という場合、周囲がけっこう唆しているニュアンスがあるんです」
 
「個人的な見解だけど、そういう子たちって、けっこう親との共犯っぽい人もいるよね」
と布恋は言う。
 
「居ます居ます。はなっから親が女の子の服を与えて、けっこうその気にさせているケースって割と多いんですよ」
「青葉ちゃんの場合は?」
 
「幼稚園には女児の制服で通ってましたよ」
「ああ。共犯っぽい」
 

「しかし最初は女1人男2人の姉弟だったはずが、女3人の姉妹になっちゃったわけか。親としてはいちばん上のお姉さんに孫を期待するしかないのね」
 
「そうですね。私が産めたらいいのですが」
と言いつつ、青葉は結局京平君って、ちー姉の子供だから、お母ちゃんにとってはもしかしたら初孫?と考えていた。
 
「でも困ったことにいちばん上の姉はレスビアンで男性には興味無いんですよ」
「それは困ったね」
 
「だから子供3人居ても孫は期待薄かも」
「人工授精とかで子供作っちゃう手は?」
「可能性はありますね」
 
と言いつつ、青葉は5年前、青葉は桃香・千里と知り合って間もない頃、ふたりに協力して千里の「睾丸を活性化」させて、精子の採取をしたことを思い起こしていた。桃姉はその時のちー姉の精子を使えば妊娠することは可能だ。
 
ただ問題は2つあると青葉は思った。
 
今更ちー姉が自分が父親になることに同意するとは思えないことである。ちー姉は自分が男性の機能を使用することに強い抵抗感を持っていたはずだ。実際にあの時精子採取した際も、ちー姉はかなり嫌がっていた感じもあったが、押しの強い桃姉の勢いに負けて精子の採取をしている。だから採取には応じたものの桃姉があれを使いたいと言っても嫌だと言う気がする。ちー姉の同意書を病院に提出しなければ、人工受精はしてもらえないはずだ。
 
そしてもうひとつ。こちらが重要なのだが、あの時冷凍したのはいったい誰の精子なのかという問題である。どう考えてもちー姉はあの時点でとっくに性転換済みであったはずだ。ということは睾丸なんてそもそも存在していない筈なので射精もできなければ精子も作れなかったはずだ。しかし精液は確かに冷凍された。冷凍する前に顕微鏡で活性度を確認したりしている。ではその精液はどこから持って来たものか。誰のものなのか。桃姉もその問題には気付いている筈だからちー姉以外の人の精子では桃姉は妊娠したくないだろう。
 

「だけど3人お揃いの数珠って、3人とももしかして霊能者なの?」
と布恋が訊く。
 
「うーん・・・・」
と言って青葉は悩んだ。
 
「いちばん上の姉は、むしろ唯物論者なんですよ」
「へー!」
「だから宗教とか占いとかも嫌いですね。むしろ科学信者という感じ」
「そういう人も今時逆に珍しいね」
「ですから、実は私が持っているのと同じような数珠はあるのだけど、普段はダイソーで買った100円の数珠で法事とかに出てますよ」
 
「あ。それも面白い」
「そんな大きな数珠は分からんと言って」
「いや。こういう大きな数珠は実際、素人には扱えない気がするよ」
と布恋は言う。
 
「いちばん分からないのが2番目の姉で」
と青葉は困惑するように言った。
 
「本人は自分には霊感とか無いと言うんですよね」
「ふむふむ」
「そして普通の霊能者が見ても、というか私が見ても、姉はごく普通の人にしか見えないんです。まあ少し勘が鋭いかなという感じの人」
「そうじゃない訳?」
 
「最近思い始めたのは、姉はとんでもないパワーの持ち主で、その凄まじいパワー故に、自分にパワーがまるで無いかのように装うことができるのではないかと」
 
「能ある鷹は爪を隠すって奴か」
 
「かも知れないし、本当にただの人なのかも知れないし。私にはまだ姉が分からないんですよ」
と青葉。
 
「でもそういうお姉さんがいるって青葉ちゃんにはとてもいいことだと思う。同じように男の子から女の子に変わった人で、そういうパワーを秘めている人ならね」
 
「そんな気もしています」
 

ちゃんぽん、チャーハン、牛丼を食べた後は、布恋は青葉を自宅まで送って行くよと言ったのだが、ここからならひとりで帰れますよと青葉が言うと、だったら、うちのバイト先まで行く?と言った。
 
高岡の旧市街地に夏休み中のバイト先があるということだったので、そこまで行くことにする。
 
高岡市は高岡駅の付近に旧中心部があり、イオンモールは市の南部の元はほとんど何も無かった区域に作られている。しかし昨年イオンモールのすぐそばに新幹線の新高岡駅ができたので、今後こちらが市の中心になっていく可能性もある。
 
(新幹線駅は最初高岡駅に併設される予定だったが、騒音を嫌がる住民の強い反対運動で郊外の現在地に新幹線駅が作られた経緯があるので、イオンは新幹線駅の設置を見越してここにショッピングモールを作った訳ではない)
 
そして青葉が住む伏木地区は、高岡市の最も北側の近辺に位置している。つまりイオンモールから帰るより、旧市街地から帰る方が青葉には楽なのである。
 
さて、布恋がバイトしているのはレンタルDVD屋さんである。夕方から深夜までなので仕事が終わって帰るのには車が必要である。それで、どっちみち今日は大会が終わった後、あらためて車でここまで出てくるつもりだったらしい。
 
お店でスタッフ用に借りている駐車場の枠に駐め、5分ほど歩いてお店までいく。
 
「ついでにここのカード作らない?登録料200円かかるけど」
「あ、じゃ作ります」
 
ということで青葉は、このお店の会員カードの申込書に住所氏名携帯番号とアドレスを記入した。
 
「そういう時、やはり性別は女に○を付けるのね」
「私、性別男の方に○付けたことは無いです」
「なるほどー」
 
それでカードを発行してもらう。
 
「裏に署名しておいてね〜」
「はい」
 

それでせっかくカード作ったしと思って何か借りていこうかなと思って青葉は店内のDVDを見て回る。実際には店内に並んでいるのはケースのみで、ディスクそのものはお店のバックヤードに保管されている。万引き防止のためである。
 
見ていると、色々なジャンルのDVDが混在して置かれているので、最初五十音順かと思った。
 
が、違うようである。ABC順?と考えるも、それでも違う。青葉は困惑してカウンターの所にいる布恋に尋ねた。
 
「すみません。これどういう順序でタイトルが並んでいるんですか?」
 
「ああ。分からないよね。これ分かる人まずいないから」
「はあ」
「この店はオーナーの趣味で《とりな》順に並べてあるのよ」
「とりな!?」
 
「こういうのがあるのよ」
と言って、布恋は1枚の紙を青葉に渡す。どうもしょっちゅう尋ねられるので用意しているようだ。そこにはこのようなものが書かれていた。
 

鳥啼く声す夢覚せ。見よ明け渡る東(ひんがし)を。
空色栄えて沖つ辺に、帆船群れ居ぬ靄の中(うち)。
 
とりなくこゑす、ゆめさませ。みよあけわたる、ひんがしを。
そらいろはえて、おきつへに。ほふねむれゐぬ、もやのうち。

「もしかして、これ仮名文字を全部1回ずつ使った歌ですか?」
「そうそう。この手のものを『新いろは歌』と言うんだよ。その中でもこの《とりな歌》がいちばん有名らしい。実際、とりな順はあちこちで使われているんだって」
 
「すごーい」
と青葉は言ったものの
 
「でも探せません!」
と言う。
 
「うん。その時は検索機能を使って。その会員カードにQRコードが入ってるでしょ」
「あ、はい」
「携帯でもスマホでもいいから、そのQRコードでうちの店のサイトにアクセスしたら、そこで検索ボタンがあるから、そこに何か見たいタイトルがあったら入力したら、それがどこの棚にあるか、借りれるかどうか、借りた場合の料金まで表示されるから」
 
「そちら使わせてもらいます!」
 
と言って、結局青葉はまだ映画館で見ていなかったベイマックスを借りることにし、スマホで検索して棚を確認。そのケースの背表紙に貼り付けられたポケットに入っている札を持ってカウンターに言った。
 
「ありがとうございます。6日7日で300円です」
ということで300円払ってそのDVDを借り出した。
 
「まあうちの作品の並べ方は特殊だけど、要するに、何か目的があって借りに来たお客さんは自分でスマホで検索するか、あるいはお店の人に言ってもらえば探せるけど、特に目的はなくて、タイトルを何となく眺めて良さそうなのがあったら借りるという人なら、どう並んでいてもあまり関係無いんじゃないかともオーナーは言うのよね」
 
「それは確かにそうかも」
 
「大事なことは、同じ作品が複数の場所にばらけて置かれることがないこと。置かれるべき場所がきちんと定められるルールがあることだというのよね。それは割と納得していたりする」
 
「確かにそれさえ定まっていればいいのかも知れないですね」
 

青葉は結局JR氷見線で自宅まで戻った。遅くなってしまったので、晩ご飯は朋子が作ってくれていた。
 
「ごはん、ありがとう。これもらった賞状と楯」
と言って母に見せると
「おお、すごい。こういうの飾る棚とか買おうか?」
などと言っている。
 
「恥ずかしすぎるからやめてー」
と青葉は言いつつ、大量に賞状やメダルをもらっているちー姉はその手の物はどうしているのだろうと思う。以前ちー姉の部屋に勝手に進入した時、一部の賞状やメダル、記念品が段ボール箱に入れられていたのを見たが、たぶんちー姉がもらったその類いのものは段ボール1個ではとても納まらないだろう。
 
そんなことを考えていたら、その千里から電話がある。
 
「はねた人が捕まったみたいね」
「うん。ちー姉のいったとおり、長野県**市の修理工場で修理した車が私が水見の術で見たナンバーと一致して、所有者に事情を聞いたら確かに金沢で女性と接触したと言ったので、取り敢えず逮捕されちゃったみたい」
 
「まあ状況が状況だし、在宅起訴になるだろうけどね」
と千里は言う。
 
「こういうケースではあまり重い罪には問わないで欲しい気がするよ」
「本人が大丈夫と言って歩いて帰ったのなら、重大事故と思わないだろうしね。でも車の修理が必要なほどダメージがあったのなら、人間の側も相当の衝撃があったのではと考えるべき。そこは落ち度だよ」
「事故が起きた時すぐ病院に運んでいたら助かってたのだろうか」
「どうだろうね。そのあたりが裁判では争点になるかもね」
 

その時、青葉はなぜ千里にそんな話をする気になったのか分からない。
 
「そういえばちー姉は《とりな》って知ってる?」
「とりな順でしょ? 有名じゃん。鳥啼く声す夢覚せ。見よ明け渡る東を。空色栄えて沖つ辺に、帆船群れ居ぬ靄の中」
 
と千里は、とりな歌を暗誦した。
 
「すごーい。よく覚えてるね」
「こういうのをパングラム(pangram)と言うんだよ。日本語は結構パングラムが作りやすい。こういう名作は少ないけど、ネットでちょっと《新いろは歌》とかで検索すると、たくさん作品を発表している人がいるよ」
 
「へー」
「基本的に《いろは》や《とりな》みたいに、ワ行のゐゑを使って48文字で構成したものと、それは使わず現代かな遣いの46文字で構成したものがある」
 
「なるほどー」
 
「48文字の名作はね・・・・どこかにストックしてたな。ちょっと待って」
と言って、千里はほんの10秒ほどで、とりな歌を含む《新いろは歌》を4つもメールしてくれた。千里はわりとこういう情報を高速で取り出す。機械音痴ではあるが部屋の掃除などは良く出来ているし、情報の整理もうまいのかなと青葉はチラリと思った。
 

千里がメールしてきたのはこういう歌である。
 
★とりな歌 坂本百次郎作。明治36年に黒岩涙香主筆「萬朝報」で募集・発表。
 
鳥啼く声す夢覚せ。見よ明け渡る東(ひんがし)を、空色栄えて沖つ辺に、帆船群れ居ぬ靄の中(うち)。
 
とりなくこゑす、ゆめさませ。みよあけわたる、ひんがしを、そらいろはえて、おきつへに。ほふねむれゐぬ、もやのうち。
 
★おえど歌 西浦紫峰作。昭和27年に週刊朝日で発表。
 
お江戸街唄風そよろ、青柳煙りほんに澄む、三味の音締めへ燕も、恋故濡れてゐるわいな。
 
おえとまちうた、かせそよろ、あおやきけふり、ほんにすむ、さみのねしめへ、つはくらも、こひゆゑぬれて、ゐるわいな
 
★乙女歌(作者不詳)昭和49年文芸春秋デラックスに掲載。
 
乙女花摘む野辺見えて、我待ち居たる夕風よ、鴬来けん大空に、音色も優し声ありぬ。
 
をとめはなつむ、のへみえて、われまちゐたる、ゆふかせよ、うくひすきけん、おほそらに、ねいろもやさし、こゑありぬ
 
★ふるさと歌 久保道夫作。昭和51年に週刊読売で発表。
 
雪の故郷お嫁入り、田舎畦道馬つれて、藁屋根を抜け田圃越え、葉末に白く陽も添へむ。
 
ゆきのふるさと、およめいり、ゐなかあせみち、うまつれて、わらやねをぬけ、たんほこえ、はすゑにしろく、ひもそへむ。
 

「48文字で作る場合、歴史的仮名遣いに強くないと難しい。だから新作を作るなら46文字パターンが楽だと思う。ただ48文字の場合は 48 = 12 x 4 だから、七五調あるいは五七調できれいにまとめられるけど、46だと七五七五七五五五にしたり、七五七五七七七で字余りにしたりで、どうもきれいじゃない問題もあるよね」
 
「確かに」
 
「こないだ実は東京で数人集まった時、その話が出たんだよ」
「そうだったんだ!」
「その場で30分くらいで各自作ったんだよ。これ和実の作品」
 
と言ってメールしてくる。
 
梅雨明け触れぬ眠り姫、テスト勉強分からない。
模試に山張る、奥の細道、答えをさせろ。
 
つゆあけふれぬ、ねむりひめ、てすとへんきよう、わからない。
もしにやまはる、おくのほそみち、こたえをさせろ。
 
「苦しい〜」
「改訂の余地があるね。これは小夜子の作品」
 
女の子スカートひらり揺れ舞いて、洋服を見つめる私、添えろ気持ちへ、歩速さに消せぬ胸。
 
おんなのこ、すかあとひらり、ゆれまいて、ようふくを、みつめるわたし。そえろきもちへ、ほはやさにけせぬむね。
 
「頑張ってるけど微妙」
「あとひとひねり必要だよね。こちらは政子の作品」
と言って更にメールしてくる。
 
秘密百合部屋、性を女の子に変えろ。
朝胸膨らして玉抜き消す。夜は割れ目持ち、棒取るぞ。
 
ひみつゆりへや、せいをおんなのこにかえろ。
あさ、むねふくらして、たまぬきけす。よは、われめもち、ほうとるそ。
 
「ひどい」
「これに曲付けてアクアに渡そうと言って、冬に拒否されてた」
「あはは。さすがにこれは私の所に持ち込まれても拒否する。ちー姉はどんなの書いたの?」
 
「30分で書いたから推敲が全然できてないんだけどね〜」
と言って一応メールしてくれた。
 
春雨降りぬ。夕暮れに霞む細道、足迷わん。
思い刹那聞こえたら、寝部屋の戸を広げて。
 
はるさめふりぬ、ゆうくれに、かすむほそみち、あしまよわん、おもいせつな、きこえたら、ねへやのとを、ひろけて。
 
「きれいじゃん」
「まだ完成度としては60%だと思う」
 
「これ最後の『寝部屋の戸を広げて』を『部屋の戸を広げてね』にしたら六四じゃなくて五五になるのに」
「そうすると文語調で来ていたのに最後だけ口語調になるからNG」
「難しいね!」
「うん。これ46文字をとりあえず並べて文章にするのはわりと簡単だけど、きれいなのを作るのは難しいよ」
 

「あ、そうそう。佐竹真穂ちゃんがさ」
「うん?」
「なんかアパートの大家さんと揉めてるみたいだから、お母さんの慶子さんにちょっと盛岡まで行ってもらったほうがいいと思う」
「ふーん。。。じゃ伝えておく」
 
青葉はなぜ千里がそんな話を持ち出したのかは分からなかったが、大船渡にいる慶子に連絡してみた。すると慶子が真穂に連絡した所、アパートを崩して駐車場にしたいから9月いっぱいで出てくれないかと言われて悩んでいたことが分かった。それで慶子が大家さんと話してみるよと言い、結局翌29日、盛岡に出て行くことになったらしい。
 
 
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【春産】(3)