【春産】(4)

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8月29日(月)。
 
その日朝、優子が産んだ赤ちゃん・奏音の体重は2606gであった。“2500g以上”という基準をクリアしたので、退院の許可が出る。この日も千葉から信次が(またもや女装で)出てきてくれたが、彼は今日は車できていて、彼のムラーノにセットしたベビーシートに奏音を乗せて退院した。
 
ムラーノは信次が運転席、優子の母が助手席、運転席後ろにベビーシート、助手席後ろに優子という配置である。なおこのベビーシートは信次が千葉のカー用品店で買ってきたタカタ製のもの(シートベルト固定式)で、2年半後には信次と千里の間の娘である由美が使うことになる。由美は奏音の妹である。
 
信次は昨夜21時頃千葉を出て途中休憩しながら走って来て、朝、優子の実家に到着した。既に優子の父は出勤した後である。念のため1時間ほど優子の部屋で仮眠させてもらってから、3人で一緒に病院に出かけ、退院の許可を取った。
 
鈴子の所にも顔を出す。
 
「わあ、そちらは今日退院か。私は今日はまだ退院許可出なかった。明日になりそう」
と鈴子は言っていた。
 
鈴子は優子が女装の信次を紹介すると
「美人さんじゃん。優子が惚れた訳が分かったよ」
などと言っていた。
 
「お股にちょっと余分なものが付いてる女の子だけどね」
「ああ、最近はそういう女の子も多いから問題無いと思うよ」
 
鈴子と優子は結局1時間ほどおしゃべりしていて、その間に信次に買物を頼んだ。女装してきているのをいいことに、ナプキンとかまで頼んでいる。信次は女装外出というものは実は高校時代から時々やっていたものの、さすがにナプキンを買うのは(公式見解としては)初めてで、メモを見ながら買ったものの、かなりドキドキした。
 
信次が戻って来たところで優子は退院する。
 
優子の希望で赤ちゃんを籐製のバスケットに入れる。鈴子のお母さんが優子と奏音だけの写真、お母さんを入れた写真、信次を入れた写真、2人とも入れた写真を撮ってくれた。
 
それで駐車場まで行き、ムラーノのベビーシートに載せ替えて実家まで移動した。実家では優子の部屋に敷いたベビー布団に寝せる。
 
「信次、何時頃までに帰らないといけないんだっけ?」
「今日1日有休もらって出てきたんだよ。明日は出勤しないといけないから、一息付いたら帰ろうかな。でもベビー用品とかで必要なものがあったら、先に買物してくるよ」
 
「東京まで5時間くらい?」
「500kmくらいだから7時間、途中の休憩入れて9時間かな。だから午後3時に出て、夜中0時くらいに着く感じ」
「それだとETCの深夜料金に掛からなくてもったいないよ」
「いや、ちゃんと時間調整して0時過ぎに降りるよ」
 
深夜料金は0-4時の間に高速の走行時間帯が掛かった場合に料金が3割引になる。小杉−大宮間では11900円が8800円にと、3000円も安くなる。
 
「でもそもそも500kmなら4時間くらいで行かない?」
「お前、どういう計算してんだよ?」
と信次は呆れているようだ。
 

「信次さん、もしよかったら、うちのお父さんが帰ってきてから、一緒に退院お祝いしてから、お帰りになりません?」
と優子の母が言った。
 
「そうですね。朝はすれ違いになってしまったから、そうしようかな」
と信次は答える。
 
本当は女装姿でお父さんに会いたくなかったから出勤した後くらいの時間に到着するように時間調整したのである。しかしお母さんから言われたら、やはり会っていかないといけないかと考えた。
 
それで結局お父さんが帰ってくるのを待ち、夜10時頃家を出ることにする。明日の朝はそのまま会社に出る。一応念のため背広上下と男物の靴は車に積んできていた。
 
「じゃ、買物メモ書くね」
と言って優子は大量の買物メモを書いた。
 
「このヱビスビールって、お父さんに?」
「私が飲んじゃダメ?」
「お前、授乳している間はアルコール禁止」
と信次。
「だめかなあ」
と言って優子は母を見るが
「おっぱいあげている期間中にお酒飲むなんてあり得ない」
とお母さんも言っていた。
 

2016年8月30日。
 
青葉たちK大水泳部の一行はインカレ(日本学生選手権)に出場するため、北陸新幹線と高速バスに別れて東京に出た。大半は高速バス(北鉄バス)を利用した。
 
8/29 22:50金沢駅東口→8/30 7:00八王子駅
 
実際には途中で高速道路の速度規制が掛かったため八王子駅に到着したのは8:10くらいになった。
 
一方、足の不自由なジャネは高速バスでの移動は辛いだろうということで新幹線にした。これに4年の寛子と1年の青葉が付き添った。それでこの3人だけ別行動になった。
 
8/30 6:00金沢→8:32東京
 
実際には悪天候のため、東京到着は8:40を過ぎていた。そこから中央線特快に乗って八王子に着いたのは10時前になった。
 
インカレは9月1-4日に東京辰巳の国際水泳場で行われるが、宿は八王子に取っている。また八王子市内のプールを練習用に借りている。その予約時間が10時からだったので、どっちみちジャネたちが到着してから練習は始まった。
 

さて高速バスや新幹線が遅れたのは悪天候のせいである。
 
富山県は28-29日は晴れていたのだが、29日夜から天気が崩れた。東京は29日から雨が降り出し、30日のお昼くらいまで雨が続いた。これは台風10号の影響である。
 
この台風は物凄い迷走台風であった。
 
8月16日、北太平洋のウェーク島付近で熱帯低気圧として発生した後、北西に進行して日本列島に近づいた。ウェーク島というのは、南鳥島とハワイの中間くらいにある環礁で、戦時中に日本が占領していた時期は大鳥島と呼ばれた。太平洋航路を飛ぶ飛行機の重要な中継地点であり、この島にいる人間の大半がその航空関係のスタッフと米軍関係者である。
 
台風の多くは東経125-150度のフィリピン・インドネシア付近で発生するのでこの台風は発生した場所からして異例だった(ウェーク島は166.5度)。日本に接近してきてから、八丈島付近で突然進行方向を西に変え、列島にそって西進、四国沖で21日に台風になった。この台風と同じ頃に出来ていた台風11号は前日の20日に熱帯低気圧から台風になっているので、実は台風番号と台風になったタイミングが逆転している。
 
その後この台風はUターンして東に進行し始めたかと思うと突然南下を始めて大東島付近まで行くが、ここでまたUターンして普通の台風の進路のように北東に向かって進み始め、この29-30日頃、関東方面に近づいてきたのである。
 
物凄い長寿台風でもある。
 

外は天気が悪いものの、青葉たちは屋内プールを借りているので全く問題無く練習をすることができた。この日は午前10-12時と、午後16-18時の時間帯を借りていたので、午前中の練習をしてからお昼を食べ、3時間ほどの自由時間を経て(数人単位でファミレスやカフェをはしごしていた。ドンキを見に行った子もいた)また練習したのち、八王子市内の旅館に入って休んだ。
 
今回の遠征に参加したのはこういうメンツである。
 
男子 筒石(4) 猿田(4) 諸田(3) 中原(1)
女子 ジャネ(4) 圭織(4) 寛子(4) 香奈恵(3) 杏梨(1) 青葉(1)
 
これに顧問の角光先生、マネージャーとして1年生の蒼生恵が付いてきている。(最初3年の奈々に打診したらライブに行きたいと断られ、2年の布恋に打診したらバイトが忙しいと断られて蒼生恵になった)
 
旅館の部屋割りは男子4人と角光先生が1部屋、女子は4年の3人で1部屋、1−3年の4人(蒼生恵を含む)で1部屋である。
 
旅館にはインカレに参加するグループであることを言っており、宿泊期間中は蛋白質たっぷりの夕食を出してもらうことになっている。料金もそれを想定した料金で契約している。
 
この日は豚しゃぶが出てきて、みんなたくさん食べるので旅館側もどんどん追加してくれた。
 

「でも青葉はだいぶ食事をしっかり取るようになったね」
などと杏梨が言う。
「この1年ちょっとの間に体重が6キロ増えた」
「それでもまだまだ細いもんなあ」
「1年前に私、先輩から体重10kg増やせと言われたんだよ」
「うん。あと5-6kgは増やしていいと思う。そしたら来年のインカレでは金メダルが狙えるよ」
 
青葉は昨年春の時点で48kgだった体重を54kgまで増やしているが、菊枝からは最低でも58kgくらい、千里からは60kgくらい(但し筋肉優先)にした方がいいと言われている。高校の水泳部部長だった魚君からも、もっと脂肪を付けて最低でも54kgにしないと水の中で体温が維持できないと言われていた。
 
青葉は今54kgにはなったものの実際には筋肉の方が多いので現在の脂肪の量では実は体温維持ができない。
 
大船渡湾の横断などやっていた時期は、わざと体内の脂肪がたくさん燃焼するような泳ぎ方をすることで体温を維持していたのだが、それは結果的に先日宮中さんからも指摘された「腕力頼り」の泳ぎ方になってしまっている。体温の維持は身体の脂肪に任せてもっと効率の良い泳ぎ方をすれば確かにスピードが上がるはずという計算は成り立つ。
 
「えーっと、私このインカレで水泳部は辞めさせてもらいたいんですけどー」
「それは許さん」
と杏梨。
 
「えーん・・・・」
「うちは部長か副部長くらいまでは務めないと勝手には辞められないのだよ」
と圭織が言っている。
 
青葉は圭織に退部届を出しているのに、その圭織が握り潰しているのである。
 
「まあ4年生の私たちこそマジでこのインカレで引退するけど、預かっている青葉の退部届は香奈恵にそのまま引き継ぐから」
と圭織。
「退部届が提出済みである以上、重ねての退部届けは受け付けられないからね」
と香奈恵も言っている。
 
「辞めさせてもらえないなんて、なんか恐い部って感じだ」
と蒼生恵が言っている。
 

「あ、台風は岩手県に上陸したんだ」
と食事が終わった後、旅館のロビーにあるテレビを見ていて寛子が言う。
 
「岩手県ですか?」
「青葉ちゃん、岩手県の生まれだったよね?」
「いえ。生まれたのは埼玉県の大宮なんですけど、岩手県の大船渡で育ったんですよ」
 
「あ、その大船渡に上陸したって」
「うっそー!?」
 
それでスマホでもニュース検索してみると、大船渡は市内全域に避難勧告が出たという情報が入っている。岩手県では行方不明者が出ているという情報もあったので詳細な情報を調べていたら、県北の、宮古市の北にある岩泉町で老人ホームが濁流の直撃を受け、行方不明者が出ている模様という情報で、この件は今の時点ではそれ以上の詳細は分からないようだ。
 
大船渡に居る親友の早紀に電話してみたが、早紀にも椿妃にも柚女にも歌里にも、電話はつながらない。あるいは基地局か大きな線がいかれたのかもと青葉は考えた。取り敢えず今は無事を祈るしか無い。
 

8月30日(火)高岡。
 
この日の昼、鈴子が金曜日に生まれた娘・弓絵と一緒に退院した。出生届は土曜日に夫の手で届けられており、出産育児一時金も今朝振り込まれていて、母がお金を下ろしてきてくれたので、それで病院の支払いも済ませることが出来た。
 
昨日優子が退院した時は晴れていたのに、今日はあいにく雨である。荷物を母に持ってもらい、鈴子はクーハンに入れた弓絵だけを抱えて病院の玄関からタクシーのドアまで少し雨に濡れながらの退院になった。
 
自宅に戻ったのが、14時頃であるが、やはり足りないものが色々あることに気付く。それで母が買物に行ってくれた。
 
鈴子は弓絵にお乳を飲ませてからベビーベッドに寝せていたのだが、30分もした時、泣き出した。おっぱいをあげようとしたのだが、どうもおっぱいではないようである。
 
「うーん。あっそうか。おむつかな?」
と言っておむつを交換することにする。
 
実はおむつの交換は初めてである。病院では全部看護婦さんがしてくれていた。
 
吸水性の高い紙おむつなので何も難しいことはない。今付けているのを取り外して新しいのを取り付けてあげるだけである。一応やり方は事前のお母さん教室で習っている。
 
「じゃ、ゆみえちゃん、おむつ替えようね〜」
と言って鈴子は弓絵のつけているおむつを取り外した。そして新しいのを付けようと思って・・・・
 
固まってしまった。
 

鈴子はおむつを取り外してから、新しいのを手に持ったまま、たっぷり3分くらい固まって《そこ》を見ていた。
 
その時電話がある。優子からである。
 
「退院したんだっけ?」
「うん。さっき退院して自宅に戻った所」
「弓絵ちゃんも元気? 弓絵ちゃん体重もあったし、たくさんおっぱい飲むでしょ?」
 
「それなんだけどさ」
「うん?どうしたの?」
 
「最近の女の子って、おちんちん装備した子もいるのかなあ」
「うーん。そういう子は割とけっこう居るよ。まあ信次は女装疑惑もあるけど、あいつはただの女装趣味のゲイであって、トランスジェンダーではないのだけどね。知らない?桃香がもう4年くらい同棲している子が元男の娘だよ。手術済みで今は完全に女の子になっちゃったらしいけどね。1度会ったけど凄い美人さんだった」
 
「あ、それは知らなかったかも」
 
「でも、それがどうかした?」
 
「私、目がおかしくなったのかなあ。弓絵におちんちんが付いているように見えるんだけど」
 
「何〜〜〜!?」
 

8月30日、9月9日からテヘランで行われる「2016 FIBA ASIAチャレンジ」に出場するバスケット男子日本代表12名が発表された。貴司もここに選出されていた。貴司は国際大会での数字的な実績は無いものの、昨年10月中国で行われたアジア選手権の準々決勝カタール戦で試合をひっくり返す重要な得点を入れて、大いに注目された。その時のプレイがあまりに印象的だったので、写真集まで制作されている。
 
貴司たち日本代表は9月1日から東京北区のNTCで合宿に入り、6日にイランに渡る予定である。
 
千里は発表があった後、すぐに貴司におめでとうメールを送っておいた。ところがこの日、貴司は自分のスマホを自宅に忘れて行っていた。それでこの着信に気付いたのは阿倍子である。
 
普通ならメールが着信しても放置しておくのだが、鳴った着メロが『365日の紙飛行機』であるのに反応した。阿倍子はその着メロは千里からのメールであることに気付いている。
 
嫉妬の炎が頭の中で燃え上がるのを感じる。貴司はスマホをPINコード数字4桁でロックしているが、そのロック番号は京平の誕生日0628である。それで阿部子はロックを解除し、メールを開いてみた。
 
《日本代表選出おめ。合宿は1日から?だったら31日に来るのかな?今回は私は大会で東京を離れていて手合わせできない。残念。ローズ+リリーのケイが貴司に頼みたいことがあるらしい。悪いけど合宿所に入る前に恵比寿のマンションに寄ってくれない?電話番号は***-****-****。じゃ、テヘランでの活躍を期待してる》
 
阿倍子は当惑した。
 
千里さんから貴司へのメールなら、もっと色っぽい内容の物を想像した。しかしこれは何だ?ほとんど社内連絡メールである。顔文字とか文字絵とかも使われていない。用件を羅列しただけだ。とても恋人に送ったメールには見えない。友だちに送るメールだって、もう少しレトリックを使いそうなものである。
 
阿倍子は悩んだ末、そのメールを閉じて未読に戻した上で削除したりはせず、電源ボタンを押してスリープさせた。
 

31日朝。青葉は早紀と電話がつながり、向こうの被害状況がかなり分かる。今回の台風の被害は岩泉町とその隣の宮古市に集中しているようだ。
 
早紀の話では、大船渡では全市民に避難勧告は出たものの、海抜の低い所に住んでいる人たち以外は、だいたい避難もせずに自宅にいたらしい。ただ、携帯は全滅して夜中過ぎまで復旧しなかったらしいし、一時はNTTの固定電話もつながらなくなったものの、そちらは携帯より先に復旧したと言っていた。
 
「あとは港湾設備がやられて復旧に数日かかるみたい。それとやはり海岸近くの家では、床下浸水とかの被害が出たみたいだよ」
 
「情報ありがとう。でも早紀たちが無事で良かった」
「お見舞いは歓迎」
「じゃ、交通状況とかが改善してから、お菓子か何かでも送るね。それともお酒とかがいい?」
「椿妃は結構飲むけど、他の子はだいたい法律を遵守している」
「ふむふむ」
 

この日も青葉たちは午前中と午後に2時間ずつ練習をした。
 
午前中の練習が終わってお昼を食べていた時、佐竹慶子から連絡があった。
 
「いや、参りました。私、盛岡に行っててよかったみたい」
「浸水してました?」
「床上浸水です。私、ぼんやりしてるから身体まで水浸しになるまで気付かなかったかも。お布団とか、座布団とかが全滅。台所の床に直接置いていた野菜とかもアウト。布団は敷きっぱなしにしていた私が悪いけど。資料室の書籍の類いやサーバーはラックに載っているので全部無事です。祭壇も下の方だけ掃除すれば問題無いです」
 
「サーバーは生きているなというのは、こちらからも確認してました」
「例の封印も無事です。封印埋めている場所には嘘みたいに土砂がたまってないんですよ。そこ以外は掃除が大変そうなのに」
 
「わあ、お疲れ様です」
 
「それで思ったんだけど、サーバーも書籍類も平田さんちに移動したらどうだろう?ここやはり低地で危ないし」
と慶子は言う。
 
ここの資料室に置いている書籍類は震災の時に全失したのだが、その後再入手可能なものは買い直したり、再入手不能なものは、同じ本を持っている知人のものをコピーさせてもらったり、スキャンデータから再印刷して製本したものもある。スキャンデータもサーバーごとやられたが偶然にも震災の直前に菊枝がデータのコピーを取っていたので、彼女のデータから復旧したのである。手書き本などもだいたいスキャンデータからの復旧になった。竹内文書の底本?かもと竹田さんが言っていた、複数の筆跡による手書き草稿のコピー本とか、出口なおの“お筆先”を簡易印刷した本で、戦前の国家弾圧により大本教の本部でも失われた貴重な本などもスキャンデータとして残っていた。
 
これらの本がここにあるのは、この佐竹家に《祭壇》があるからで、祭壇がここにあるのはこの土地に《封印》があるからで、この封印を他の場所に移動することは(少なくとも青葉には)不可能である。
 
書籍類を移動させる場合、その移動先にも何らかの霊的な《仕掛け》を作る必要がある。この件は瞬嶽師匠亡き今、瞬高さんあたりに相談しないと難しいなと青葉は思った。
 
「あそこ光ファイバー引けますかね?」
と青葉は訊いた。
「言えば引いてくれると思う。一応サービス地域のはずだし」
と慶子。
 
平田家は大船渡市と住田町の間の山の中にある。いちばん近い「お隣」まで300-400mほどある孤立した家である。標高は200mを越えており、少々巨大な津波が来てもここまで被害が及ぶことは無いだろう(*1)。
 
「じゃ、ちょっとその方向で進めてもらえます? 物理的な移転の費用は全部出しますし、霊的な処理に関しても研究してみます。それと、今回のそちらの床上浸水の被害についても復旧に掛かる費用は私が出しますよ」
 
「すみません。それしてもらうと助かります。お金無いのにどうしようと思った。取り敢えず畳が使えないから今夜は押し入れの上の段に寝ます」
「お疲れ様です! 復旧に時間がかかりそうだったら平田家で寝て下さい」
「あ、そうさせてもらうかも」
 

「真穂さんのアパートの件はどうなりました?」
「私が、こんな急に出てと言われても困ると主張したら、やはり24の娘とでは対応が違ったみたいで、出るのは年内まででいいことになりました。それと敷金は全額返す上に、家賃4ヶ月分の立ち退き料を払ってくれることになりました。そのお金は来月もらえるので、そのお金で新しいアパート探して敷金と引越の費用に充てようと話しています」
 
「それだけもらえたら、こちらも赤は出ないでしょうね」
「なんか大家さんのお父さんが亡くなって、相続税が払えないらしいんですよ。それでこのアパートを更地にして売却して税金払おうということらしくて」
 
「ああ、資産があると大変ですね」
 

(*1)東北地方太平洋沖地震の津波の高さの最高記録は女川湾沖にある笠貝島の43.3mである。ここは震源から115kmほどで、間には何も遮るものが無い。なお2万人の死者を出した明治三陸沖地震は確認できた範囲で最高38.2mであった。
 
海外では、1958年にアラスカのリツヤ湾で起きた地震に伴う山体崩壊による超巨大津波が525mという信じがたい数値を残している。フィヨルドの片側斜面が幅1km高さ数百メートルにわたって崩壊して、幅がわずか1.35kmしかないフィヨルド湾に大量の土砂が落ち込んだ結果、対岸の斜面に巨大な水しぶきが掛かったものであり、ふつうの地震の津波とは性質が異なる。
 
しかしこんな津波が来たら東京なら高尾山(599m)の山の上にでも逃げなければどうにもならない。スカイツリーは634mだが、あそこに登って助かるかは微妙である。
 

31日の昼前。貴司は合宿の荷物を持って、新横浜駅で下車した。合宿所に行くには東京駅で新幹線を降り、上野東京ラインに乗って赤羽駅まで行くのが効率が良い。しかし貴司は改札を出ると駅構内のエレベータで10階にあがる。そしてホテル・アソシアのフロントで
 
「予約していた大阪の細川です。連れが先に来ていると思うのですが」
 
と言った。
 
「はい。お連れ様は既に到着なさっています。2034号室にお越し下さい」
 
それでエレベータで20階まで上がる。2034号室の前まで行って千里の携帯を鳴らす。
 
「はーい。お疲れ様〜」
と言ってドアが開くと千里が抱きついてきた。
 
「ちょっとちょっと」
と言って、取り敢えず荷物を中に入れる。そしてドアが閉まったのを確認して貴司も千里を抱きしめた。
 

取り敢えず貴司の「男性機能の確認」をした上で、コーラで乾杯する。買っておいた松花堂弁当も開けて食べる。
 
「まだ暖かいね」
「うん。買ったお店でチンしてもらったから」
「なるほどー」
 
「最初にこれ渡しておくね。ケイちゃんから頼まれたもの。これテヘランに行ったら投函して欲しいんだけど。郵便料金が分からないけど、ホテルのフロントとかで切手を買って、貼って出してくれない?」
 
「これイラン国内で売ってる絵葉書?」
「そうそう。それはうまく入手できたけど、イランの消印が欲しいのよね」
 
「なるほど。で、切手を買って貼らないといけないのね?」
「うん。料金分の現金渡して出しといてと言うと、現金だけ取られる危険がある」
 
「海外ではそのくらいは用心した方がいいよね」
「まあ、めったにそういう悪質な従業員は居ないとは思うけどね。料金は多分1ドルくらいじゃないかと思うんだけど、念のため20ドル渡しておくね。足りなかったら後日精算で」
 
と言って千里は葉書2枚とアメリカドルの1ドル札20枚を渡す。宛先は英語で日本の新宿の住所が書かれている。
 
「これ2枚とも同じ内容みたいだけど」
「郵便物が行方不明になった場合に供えてなんだよ。だから別の場所から出してもらうのが安心」
「分かった。だったらひとつは空港から、ひとつはホテルから出すよ」
「ああ、それがいいかも知れない」
 

「まあ、あのメールはわざわざ会えないと書いておいて、実際には千里が出るような大会は無い。千里がオーナーを務める40 minutesが出るクラブ選抜も3日からだから、千里が1日に東京に居ないわけがない」
と貴司は言った。
 
「そこからこのホテルに辿り着くのはやはり愛の力だね」
と千里。
「まあ東京近辺でデートする時は、特に事情が無い限りここで会ってるからね。それにわざわざ31日に来るのかなと書いてあるということは31日に会おうという意味だろうし」
と貴司。
 
「この後合宿所だから、さすがにお酒は飲めないよね」
「お酒は別にいいよ。千里と愛が確認できたから問題無い」
「そうだね。貴司が男の子であることは確認できたね」
 
「ちなみにセックスはできないよね?」
「テヘランで優勝してきたらセックスさせてあげるよ」
「そう来たか」
「まあ、頑張ってね」
「うん。頑張る」
 
と言ってふたりはキスした。
 
(この時点で、千里が南米に行っている間に貴司が浮気していたことはまだ千里にも阿倍子にもバレていない)
 

例によって、ひとつ下の階の部屋1934号室を一緒に借りていて床に響かせても気兼ねが無いので、ボールを出して1時間ほど部屋の中で1on1をやった。
 
「ダメだ。千里、物凄く強くなっている。全然勝てない」
「貴司は鍛錬がなってないね」
「千里に男子代表になって欲しいくらいだ」
「それだけは嫌。でも私より佐藤玲央美や花園亜津子の方が強いよ。私は去年のアジア選手権でやっと正式の日本代表になったけど、あっちゃんはもう6年前から日本代表をしている」
 
「確かに久々のフル代表だったね。でもオリンピックは本当に惜しかった」
「まあまた次のワールドカップで頑張るよ」
 
その後2人は交替でシャワーを浴びてから、各々新しい下着を着けてその状態でベッドに入り、並んで寝た。この状態ではお互いの身体にはタッチしない約束である。運動をした後なので、ふたりとも2時間ほど寝た。
 
17時頃。千里は自分で目を覚ました。貴司の寝顔を見ると幸せな気分になる。
 
「今日は京平にお父ちゃんと仲良くしたよと報告しなきゃなあ」
と独り言を言ってから、そっと貴司の唇にキスし、更にあそこを強く刺激して起こした。
 
「そろそろ行かなきゃ」
「ありがとう。。。。ねぇ」
「何?」
「こちらは最後までしてくれないの?」
「イランから戻って来たら続きをしてあげるから頑張って」
「うん。頑張る」
 
貴司は(自分で無意識に掛けてしまった暗示と、婚約破棄に怒った千里の呪い!とで)ひとりでは射精できないのである。
 
「それともこれ切り取って、貴司が行った後最後まで辿り着かせようか?」
と言って左手の人差指と中指で、それの根本をハサミで切るような動作をする。
 
「切り取られたら僕が気持ち良くなれないからいい!」
「でもどっちみちひとりでは逝けないんでしょ?」
「付いてないと、おしっこする時困るから」
「ああ、それは不便かもね」
 
「あ、そうだ。お守り代わりに千里のパンティ1枚くれない?」
「私のパンティくらい持っているくせに」
「持ってないよ!そんなの持ってたら阿倍子に見つかる」
「じゃ、これあげるね」
と言ってウィングのパンティを2枚あげた。
 
「それ貴司が穿くの?」
「試合中に自分のパンツの内側に穿く」
「ちんちん無い方が穿きやすいよ」
「いや何とかする」
 

それで身支度をして千里にキスしてから、貴司は部屋を出て行った。千里は貴司から少し遅れて出ていき、キュービックプラザ10階のもつ鍋屋さんで夕食を取った。お店を出た所で大阪に居る《いんちゃん》から、
 
「阿倍子さん、お買物に出たよ」
という連絡が入ったので、《きーちゃん》に頼んで大阪に移動し、少し京平と遊んだ。
 
玉川《きーちゃん》←→《いんちゃん》大阪
新横浜・千里←→《きーちゃん》大阪
新横浜《きーちゃん》←→《いんちゃん》玉川
 
京平は今日は1度しかパンツ型のおむつを濡らさなかった。ちゃんとトイレに行けたと報告してくれた。ここの所かなりちゃんとトイレができるようになってきている。
 
「おかあちゃん、これパパに」
 
と言って見せるのは、お絵かき帳に描いた、貴司がシュートを撃つ場面の絵のようである。1歳にしてはなかなかの画力だ。遺伝かなぁ〜。などと思ったりする。千里はかなりの画力を持っていて、中学の頃は籍だけ美術部にも置いていて展覧会に出品していたし、貴司もわりと絵はうまい。
 
京平はどうもこれを描いたものの貴司に渡しそびれたらしい。
 
「じゃパパに渡しておくよ」
「ありがとう」
 

ところで阿倍子は買物に行った途中で体調が悪くなってしまったようである。《びゃくちゃん》によると、セルシーで介抱されているというので放置する訳にもいかないし、千里が行ってあげることにした。新横浜で待機している《いんちゃん》には合宿所に移動してくれるよう頼む。
 
京平に留守番しておくように言い、出かける。月極駐車場に駐めているアテンザを出すとセルシーの駐車場に入れる。そしてあたかも偶然のような顔をして、阿倍子が休んでいた1階案内所のそばを通りかかる。
 
「あれ?阿倍子さん?」
「千里さん!?」
 
お店の人が「お友達ですか?」と訊くと、阿倍子も千里も「いいえ」と言ったので、お店の人は困惑している。
 
「夫の不倫相手です」
「不倫はしてないんだけどなあ。私は彼女の夫のただの友人ですよ」
と言いつつもさっきまで密会していたので若干の罪悪感はある。
 
「えーっと・・・」
とお店の人は本当に困っている。
 
「まあでも助け合うくらいはできるよね。どうしたの?」
「買物に出たら、具合が悪くなっちゃって」
「風邪か何か?」
と言って千里は阿倍子の額に手を当てる。
 
「熱は無いね。とりあえずマンションまで送っていくよ。車で来てるから」
「ありがとう」
 
それでお店の人は戸惑いながらも、阿倍子を千里に任せたので千里はお店の車椅子を借りて阿倍子を自分の車の所まで運んだ。阿倍子の買物が入ったショッピングバッグはお店の人が持ってくれた。
 
「ありがとうございました。ご迷惑お掛けしました」
とお店の人に声を掛けて車を出した。
 

「千里さん、こちらには大会か何か?」
「うん。手続き関係があって、今朝東京を出て大阪に来たんだよ。でもこの後今度は新幹線を乗り継いで秋田に行かなきゃ」
 
「忙しいね!」
 
阿倍子は考えていた。今朝東京を出て大阪に来たのなら、貴司とはすれ違いになったのだろう。そしてこれから秋田に行くというのであれば、やはり合宿所で缶詰になっている貴司とは会う機会は無いだろう。
 
千里は車をマンションの地下駐車場の入口でいったん駐め、阿倍子から鍵を借りて入口を開けた(別に借りなくても鍵は自分で持っているのだが、さすがに阿倍子の前でその鍵を出す訳にはいかない)。そして車を中に入れ、ゲスト枠の所に駐める。
 
「阿倍子さん立てる?」
 
阿倍子は立って歩こうとしたものの、そのまま座り込んでしまう。
 
「いっそ病院につれていこうか?」
「いや。寝てれば治ると思う」
「じゃ、私が抱っこしていくよ」
「えー!?」
「大丈夫。落としたりはしないから」
 
それで千里は阿倍子を両手で抱え上げると、そのままエレベータに乗り33階にあがる。玄関の前でいったん下ろし、阿倍子の鍵で3331号室の玄関を開ける。
 
「京平ただいま」
「おかえり、ママ、こんにちは、ちさとおばちゃん」
 
「ママが体調悪いのよ。ベッドに案内して」
「うん」
 
それで京平の案内で寝室に阿倍子を連れて行き、ベッドに寝かせる。千里はこのマンションには実は毎日来ているものの、この寝室は阿倍子さんの領域と考えて、ここには入らないようにしている。ここに入ったのは昨年の秋にやはり阿倍子の看病をした時以来だ。
 
ベッドに枕がひとつしか無いのを見る。やはり最近は貴司と本当に同衾していないようだ。貴司は京平の誕生以降、阿倍子と一緒に寝ていないと言っていた。最近千里が貴司とのセックスに許容的なのもその背景がある。
 
千里は阿倍子を寝せると、また車まで往復して買物袋を持って来た。
 
「何かスープでも作るから、寝てて」
「ごめーん」
 
「ちさとおばちゃん、カレーたべたい」
「分かった。分かった。京平にはカレー作ってあげるよ」
 
《びゃくちゃん》に頼んで“カレーの王子様”を買ってきてもらう。それで阿倍子さんに食べさせる野菜スープと、京平に食べさせるカレーを同時進行で作り始めた。並行してお米も研いで炊飯器のスイッチを入れる。
 
カレーとスープを作っている2つのルクルーゼ、そして炊飯器も全部自分が買ってここに持ち込んだものだ。ちょっと快感である。
 

約40分ほどで、カレーとスープができあがり、御飯も炊きあがったので、台所のテーブルで京平にはカレーを食べさせ、寝室で寝ている阿倍子には野菜スープを持っていった。
 
「ごめんねー」
「ううん。私は阿倍子さんとはライバルだけど、ライバルだからこそ頼みやすいこともあるだろうし、必要な時は頼ってね」
 
くっそー。なしくずし的に“ライバル”という立場を主張されているなと阿倍子は思うものの、今日は体調が悪くて対抗する気力もない。取り敢えず今日は彼女に頼るしかない。
 
「うん。ありがとう。私、友だち居ないからこういう時困るのよね」
「とりあえず今夜は寝てるといいよ。私は最終の新幹線で帰るから。秋田には朝1番の新幹線で移動するよ」
 
それで結局千里は20時半頃まで阿倍子に付き添ってあげた。京平は隣の和室に布団を敷いてあげて(トイレに行かせてから)8時に寝せた。
 
「おかあちゃん、おやすみ」
と小さな声で京平が言うので、
「おやすみ」
と言ってキスしてあげた。
 
部屋を出る時、京平の《守り神》さんに会釈したら、見られているとは思っていなかったふうの向こうがギクッとした顔をしていた。
 

千里は20時半すぎに貴司のマンションを出ると、アテンザを運転していつもの月極駐車場に移動し、そのあと東京北区の合宿所に転送してもらった。
 
玉川《きーちゃん》←→《いんちゃん》合宿所
大阪・千里←→《きーちゃん》合宿所
大阪《きーちゃん》←→《いんちゃん》玉川
 
《いんちゃん》にはまた京平に付いていてもらい、阿倍子さんにももし何かあったら連絡をくれるよう頼む。
 
合宿所の受付は閉まっていたがトントンとノックすると、顔見知りのスタッフさんが出てきてくれた。残業していたようである。
 
「あら村山さん。女子代表の予定入ってましたっけ?」
と言って慌ててスケジュール表を確認しているようだ。
 
「いえ。ちょっと頼まれもので。これ男子代表の細川さんの息子さんから言付かったんですよ。私が東京に戻ると言ったらパパに届けてなんて言われるもので」
と言って、京平が絵を描いた画用紙を見せる。
 
「あら、可愛い!分かりました。細川選手に渡しておきますね」
「はい。よろしくお願いします」
 
と言って千里はそのまま合宿所を出ると、《りくちゃん》に頼んで新横浜のホテルまで運んでもらった。そして柔らかいベッドで朝までぐっすりと寝た。今日は何だか2日分くらい動き回った気がした。
 

9月1-4日に行われるインカレ(日本学生選手権)水泳の会場は江東区の辰巳国際水泳場である。八王子からは中央線特快で四谷まで出た後、地下鉄の南北線/有楽町線で辰巳駅まで行く。
 
9月1日は公式練習日で、メインプールが開放され、各校の選手が多数入って練習をした。青葉たちはたぶん午前中の方が空いているだろうということで公式練習が始まる11時前に着くように出かけた。
 
それでもけっこうな人数が居る。マネージャー役の蒼生恵が全員にADカードを配る。ADカードは本当は最初から全員に渡しておくべきなのだが、過去に紛失!した人があり(むろん出場できないというより会場自体に入れない上に棄権料3000円を払うハメになった)、入場前に配布して、会場を出たら回収して一括管理しておくようにしているのである。
 
この日の練習では、背泳に出場する諸田さんと寛子、メドレーリレーの第1泳者である圭織、それに「あんた来年使うかも知れないし」と言われて来年のメドレーリレー第1泳者候補の杏梨の4人がサブプールの練習コースに設置されたバックストロークレッジの感覚を確認した。
 
バックストロークレッジ(backstroke ledge)はタッチ板の所に取り付けたスタート補助装置で、2014年のワールドカップで採用された後、様々な大会で使われるようになってきている。これを使うことにより、他の泳法でバネのあるスターティングブロックからの飛び込みで勢いを付けるのと類似の効果を得ることができる。またタッチ板よりも滑りにくいので、スタートする時に足が滑った!という事故が少なくなることが期待される。
 
スターティング・ブロックが水面に対して10度の角度を持つのと同様、バックストロークレッジも壁面に対して10度の角度を持っている。このレッジは折返しの邪魔にならないよう、選手がスタートした直後に各コースの折返監察員が水中から引き揚げる。
 
しかし、バックストロークレッジはあくまで“補助装置”であるので、足が全部ここに乗っていてはいけない。必ず足の先はバックストロークレッジではなく、タッチ板に接触させておく必要がある。接触していない状態でスタートしたら“距離不足”とみなされる。
 

公式練習に1時間ほど参加した後は気分転換にと新宿に出て、ピザ食べ放題の店に行ったが、身体を動かした後なので、みんなよく食べていた。
 
食事が終わった後は、八王子に引き返してまた午後から市内のプールで練習をした。夕食は焼肉であった。
 

9月1日(木)。桃香は会社帰りに予め電話して「それ」があることを確認しておいたドラッグストアに寄り、身分証明書として運転免許証を提示した上で、チェックワン・ファストというアラクス社(ノーシンを作っている会社)製の妊娠検査薬を買って帰った。
 
自宅アパートのトイレでドキドキしながら、おしっこを掛けてみる。
 
トイレの窓の所に水平に起き、しばらく待つ。
 
「やった!」
 
と思わず声を出した。
 
判定窓の所にうっすらとではあるが、陽性をあらわす縦のラインが表示された。
 
桃香が人工授精をしたのは8月17日(水)で、前回の生理が8月4日なので、次の生理予定日は9月1日今日であった。
 
普通の妊娠検査薬はだいたい生理予定日の1週間後からしか判定できないのだが、このチェックワンファストは「早期妊娠検査薬」と言って、生理予定日の前後から判定が可能である。
 
ただし普通の妊娠検査薬より少し高いし「医薬品」に指定されているため、薬剤師が常駐している店でしか買えない。
 
課長に電話する。
「すみません。帰ってみたら少し熱があるので明日有休を取らせてください」
 
それで明日有休を取って産婦人科に行ってみることにしたのである。
 

「おお。そちらも妊娠したか」
と電話の向こうの優子は楽しそうに言った。
 
「そろそろ父親に打ち明けなければならぬ」
と桃香は言っている。
 
「中絶しろと言われたらどうする?」
「さすがにそれは言われないと思う」
「信頼しているんだ」
「怒るのは確実」
「まあ、頑張ってカムアウトするんだな」
「元男の娘だから、自分が男性機能を使ったこと自体をかなり後悔している雰囲気もあったし」
 
「そうだ。男の娘といえばさ」
と言って、優子は鈴子の件を話した。
 
「それは仰天したろうなあ」
「ちんちんって生えてくるもんだっけ?とか言ってるからさ。それは赤ちゃん取り違えて、別の子を連れて来た可能性あるからすぐ病院に連絡しろと言って。それで連絡させたら、病院では他のお母さんから、男の子のはずだったのに、おちんちんが無くなっている!と連絡があったばかりということで」
 
「それはショックだったろうな」
「赤ちゃんが性転換して女の子になっちゃったよぉ、と言って奥さんが放心状態になっていたのを、赤ちゃんの顔を見に来たお姉さんが発見して。それでそちらもこれは取り違えが起きたのではと病院に連絡したらしい」
 
「じゃ、その子と鈴子の子が取り違えられていた訳?」
 
「それがどうもそうではないみたいで。確かにその2人はほぼ同時に生まれたらしい。でもこの病院では、赤ちゃんの取り違えが起きないように生まれてすぐ足の裏にマジックで名前を書くようにしているんだよね。それを双方確認してもらったら、鈴子の所は消えかかってはいたけど、ちゃんと《光島》という名前が書いてあったと。向こうもちゃんと自分たちの苗字・青木というのが書いてあったらしい。それで双方とりあえず病院に来てくださいというので、行ってみた」
 
「それで精密検査?」
 
「そうそう。まず血液型をチェックした。鈴子の所は夫婦ともAB型で弓絵ちゃんと思っていた男の子の血液型はA型、青木さんところは夫婦ともO型で真純君と思っていた女の子の血液型もO型」
 
「その組合せなら取り違えはあり得ないね」
 
「それで念のためということで、当日生まれた5人の両親と赤ちゃんとに来てもらって全員のDNA鑑定をすることになった」
 
「その結果は?」
 
「真純君と思っていた女の子の所は、実は名付けで両親と双方の祖父母とで揉めて、やっと真純と名前が決まって出生届を出しに行こうとしていた所で性別が違うことが発覚したらしい。ゆっくりやっていると出生届の期限の14日が迫ってくるし、そもそもまた親戚間で揉めかねないと言ってるらしい。鈴子はこの子が本当に自分の産んだ子なのか半信半疑になって、お世話する自信が無いと言ったので、取り敢えず病院が預かっている。そんな状況なので、超特急で検査してもらっているらしい。結果が出るのは明日」
 
「取り違えが発生していなかったら、性別の勘違い?」
「それしか考えられないよね」
「都合良く2組で逆に勘違いした?」
「出産に立ち会った医師たちもその時は3時間の間に5人の赤ちゃんが生まれてパニックだったので、この性別で間違い無いかと言われると自信が無いというんだよね。あるいはどこかで書類が入れ替わってしまったのか」
 
「じゃ、どうなったか結果だけ教えて」
「OKOK」
 

9月2日(金)。
 
インカレは競技初日を迎える。この日、K大学チームが参加するのは
女子400m自由形、男子400m自由形、女子200m背泳、男子200m背泳、女子100m平泳、男子100m平泳ぎの6種目、および男女の400mリレーである。
 
インカレの日程は毎日午前中からお昼くらいに掛けて予選が行われ、夕方から決勝が行われることになっており、その間数時間の休憩時間がある。
 
この日の予選では、まず女子400m自由形にジャネと杏梨が出て、ジャネは3位、杏梨は16位で各々A決勝・B決勝に進出した。
 
なお今大会ではジャネが出場する全ての種目で、蒼生恵が介添え役として付き添い、義足を預かったり、競技後には足の先を拭いて導電性の保護シートをつけてから義足を填める手伝いをすることが特例として認められている。ジャネが普通に歩いてプールのそばまで来て、スタート台に乗った後、足先を外して蒼生恵に預けると、観客からどよめきや、一部悲鳴まであがっていた。(義足ということを知らないとちょっとしたホラーである)
 
男子400m自由形は筒石と猿田が出て筒石のみ決勝進出した。女子100m平泳ぎには香奈恵が出てB決勝に進出。男子100m平泳ぎには1年生の中原が出てB決勝に進出した。男子200m背泳は諸田が出て予選落ちであった。
 
女子200m背泳に参加した寛子は16位でギリギリB決勝に進むことができた。予選の途中経過を見ていて「18位かなぁ」と言っていたのだが、失格者が2人出て、16位に繰り上がったようである。
 
今大会ではまだバックストロークレッジに慣れてない選手も多く、スタートが違反になった(多くがタッチ板に指が触れていなかった)選手、違反にはならなかったものの、気にしすぎてスタートが遅れた選手もあったようである。
 
「昨日たくさん練習していてよかったね〜」
「うん。あれ慣れるまでは大変。慣れたらスタートが楽になるとは思うけど」
 
また折り返しの時の泳法違反を取られた選手も随分出たようであった。どうも今大会の折返観察員は厳しめのようである。
 
予選の最後は400mリレーであった。
 
先に女子の予選(5組)が行われ、圭織/香奈恵/青葉/ジャネというメンバーで泳いで7位に入り、決勝に進出した。その後、男子の予選(5組)が行われたがこちらは予選落ちした。
 

休憩時間中はほんとに全員休んだ。午後のB決勝・A決勝に出る人は、休憩時間中のプールで練習する権利があるのだが、今更練習するより身体を休めた方がいいと筒石さんが言い、圭織さんも賛成して休むことにした。会場を出て少し離れた所にある吉野家に入り、たくさん牛丼を食べた後(筒石は4杯食べた)、会場に戻ってサブプールの指定された場所に行き休んだ。100m平泳ぎと400mリレーを30分間隔で泳がなければならない香奈恵は横になって寝ていた。
 
16:00から競技が再開される。
 
女子400m自由形では杏梨が12位になったが、ジャネは優勝して金メダルを獲得した。片足の先が無いスイマーが金メダルを取ったというので会場が多いに沸き、表彰式後のインタビューでもかなり長時間取材されていた。写真もたくさん撮られていた。
 
男子400m自由形で、筒石さんは5位でメダルを逃した。繰り上がりで女子200m背泳に出た寛子はB決勝の2位で、つまり10位になった。女子100m平泳ぎに出た香奈恵は14位、男子100m平泳ぎに出た中原は11位であった。
 
そして18:47。今日最後の種目400mリレーの決勝が始まる。競技は
 
女子B決勝→女子A決勝→男子B決勝→男子A決勝
 
の順である。青葉たちは予定時刻通り18:54に名前を呼ばれてプールの端に並んだ。普通は4人なのだが、ジャネの介添えで蒼生恵も水着ではなくユニフォーム姿で並んでいる。ジャネは最終泳者なので、蒼生恵の出番も最後の引き継ぎの時である。
 
レースは第1泳者の圭織が張り切って飛ばして3位で戻って来て、香奈恵もかなり頑張って5位までしか順位を落とさず、その後青葉がかなりフォームを意識してスピード優先で泳いで3位まで順位を上げ、ジャネがその順位をキープしてゴールした。2位の選手をかなり追い上げたのだが0.2秒及ばなかった。距離で言うと35cmくらいである。
 
そういう訳でこの種目、青葉たちは銅メダルを取った。
 
「ちょっと惜しかったね」
 
「ごめーん。私があと少し頑張っていれば」
と香奈恵。
 
「いや、それはみんなお互い様」
「勝負は時の運」
 
そんなことを言っていた時、蒼生恵が何か考えているようにしていたので、青葉は何だろう?と思った。
 

9月2日の午後。明日からの全日本クラブバスケットボール選抜大会に出場するため、東京40minutesのメンバー、江戸娘のメンバー、千葉ローキューツのメンバーが新幹線(と奥羽本線)で秋田県横手市に移動した。3チーム共同で練習用に予約しておいた体育館で2時間ほど練習した。
 
千里はこの大会とは直接関係ないのだが、40 minutesのオーナーとして取り敢えずこの日は同行した。合同練習でもみんなに声を掛け、何人かと1on1などもした。この日千里はチーム名の入ってないバスケットウェアを着ていた。
 

桃香はこの日会社をサボって、長野市で人工授精をした水浦産婦人科と提携している都内の大間産婦人科にやってきた。早期妊娠判定薬の結果も見せた上で検査・診断を受ける。採尿して、体重と血圧も測られた。
 
「確かに妊娠しているようですね。内診していいですか」
「はい。お願いします。経膣プローブ(超音波撮影用の器具)も入れられます?」
「今それを入れていいですか?と訊こうとしたところです」
「それもお願いします。よかったらその動画をこれに」
と言って桃香はUSBメモリを渡そうとするが
 
「済みません。コンピュータウィルス感染防止のため当院ではUSBメモリやSDカード・メモリースティック等へのコピーはお断りしているんですよ。必要であれば200円でCDに焼いてお渡ししますが」
「分かりました。それでお願いします」
 
それで内診台に乗って診察を受ける。
 
「ちゃんと子宮内に着床してますよ」
と言って、動画もモニターで見せてくれる。
 
「おお、これが赤ちゃんかぁ」
「まだ大豆程度の大きさですね。これから十月十日のお付き合いになりますから、大事にしてやってね」
 

内診が終わった後、また椅子に座って先生とお話しする。
 
「人工授精したのが8月17日で前回の生理が8月4日ですか」
と医師は桃香の書いた問診票を見ながら言う。
「はい。ですから、出産予定日は5月11日になりますよね?」
と桃香。
医師はパソコンにデータを打ち込んでから答えた。
「はい。5月11日ですね」
 
「ついでに戌の日は、11月24日、12月6日、12月18日で」
「よくおわかりで。今つわりはありますか?」
「まだそんな感じのは無いです」
「4〜5週目から始まる人が多いのでそのつもりでいてください。遅い人は6〜7週目からという人もありますが」
 
「分かりました。区役所に母子手帳もらいにいけばいいですかね?」
「それは心拍が確認されてからにしましょうか。今の段階ではまだそれが確認できないので。来週くらいには多分確認できますよ」
「そうですね。焦ることもないかな」
 
「出産はどこでなさいます?」
「実家に帰って出産すると楽ではあるのですが、そのまま向こうに留め置かれて東京に戻ってこれなくなりそうだから、こちらで産みます」
「未婚なんですね。この精子を提供なさった男性との結婚の予定は?」
と医師は問診票を見ながら訊く。
 
「いや、結婚できないんですよ。その子は性転換して今は女性になっているので」
「ああ、なるほどですね」
と医師が平然と言ったので、桃香はこの先生好きかもと思った。
 
「でも人工授精に同意してくれたということは、その人との関係は良好なんですね」
「はい。事実上レスビアンの夫婦として一緒に暮らしているので」
「だったら出産の時は、彼女がサポートしてくれますか?」
「と思います」
「でしたら、次回はその彼女と一緒に来院してもらえます?」
 
この言葉に桃香は焦る。やっべー。でもどっちみち言わねばならないことだ。
 
「あ、そうですね。そうします。えっと、ここは土日はお休みでしたっけ?」
「土曜日の午前中なら診察やってますよ」
「じゃ彼女のスケジュールを確認してから、予約入れますね」
「はい。じゃお待ちしてますね」
 

真琴はここ数日、妙に吐き気がするので、風邪でも引いたかと思った。色々とスケジュールも立て込んでいるし、こじらせてはまずいと考え、この日は制作会議を休ませてもらおうと考え、サブリーダーのハナに電話する。
 
「ごめーん。体調良くないから、今日休んで病院に行って来たいのよ。それで申し訳無いけど、レコード会社との今日の打合せ、代わってくれない?」
 
「そういや、こないだから調子悪いみたいだったね。飲み過ぎ?」
「今年に入ってからはまだお酒飲んでないよ」
「禁酒してんだっけ?」
「別にそういう意識もないんだけど、結果的にはそんな感じになってるかも」
「じゃこちらは適当にやっておくよ。でもマコは忙しすぎるからたまには少し休んだ方がいいかもね」
「ごめんねー」
 
それで真琴は朝から病院にやってきた。医師の診断を受けたのだが、医師が首をひねっている。
 
「あなた、ちょっと尿検査をしたいので、トイレでおしっこ取ってきてもらえますか?」
「はい」
 
それで看護婦さんからコップを受け取ると、トイレ(真琴は基本的に女子トイレに入ることが多い)でおしっこを取り、受付に出した。
 
10分ほどしてから名前を呼ばれて再度診察室に入る。
 
そして医師は言った。
 
「あなた妊娠してますね」
「え〜〜〜〜!?」
 
「これはつわりですよ。妊娠には気付いておられませんでした?」
「ええ。まさか私が妊娠なんて・・・」
「前回の生理はいつありましたか?」
「生理ですか・・・・。私、これまで生理なんて来たことないんですけど」
「は!?」
「だって私、男だし」
「ちょっと。あんた冗談はやめてよ」
と医師は怒ったように言った。
 
 
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【春産】(4)