【春拳】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2016-08-12
彪志は2016年3月、千葉市のC大学理学部を卒業。富山が本社の製薬会社D製薬の東京本店(富山は本社・東京は本店)に就職し、4月1日、入社式を迎えた。しかし家は千葉市内のアパートのままであった。
本店の所在地は日本橋なのだが、彪志の勤務場所は赤羽駅に近い場所にあるQAP(Quality Assurance and Pharmaconvigilance)本部という所である。その通勤の便もあって、大宮付近に引っ越す予定であった。
大宮は母のお薦めでもある。それは岩手に帰省するのに楽だ!ということなのだが、結果的には北陸新幹線で青葉の住む富山に行くのにも便利である。ただ、入社して最初の1ヶ月は江戸川区内の研修センターで新入社員研修が行われたので、4月中は千葉のアパートがかえって通勤に便利であった。
それで引越は5月下旬くらいを考えていた。5月に引越しするもうひとつの理由は3〜4月の引越は料金が高いからである!
引越先についても、学生さんの移動時期と一般的な転勤のシーズンが過ぎたあとの「掘り出し物」狙いで、5月の連休から探し始めた。これには手がけている案件のため北陸を離れることのできなかった青葉の「代理」と称して桃香が付き合ってくれた。
大宮・浦和付近を第1候補とした。最初に住宅情報誌を買って相場の雰囲気を掴み、、ミラに乗って情報誌に載っていた物件を実際に見に行く。めぼしい物件が見つかったら写真・地図・図面を青葉にメールし、問題がないか確認してもらう。桃香と彪志は候補として5つピックアップしたのだが、青葉の見立てではその内2件は「ここはやめよう」ということだったが、残りの3件は「地図や間取りでは問題なさそう」ということであった。
「私今週末、そちらに行くことになったんだよ。土曜日の夕方着いて日曜日の朝からは動かないといけないけど、土曜日の夜なら見に行けるけど」
「じゃ、一緒に見に行こう」
青葉はちょうどその日、ジャネさんの件で千里に呼ばれて東京に出てきたのである。金沢を13:56の《かがやき》に乗り東京に16:52着。そのまま駅近くのホテルに入ったのだが、夕方6時頃、彪志と桃香がミラで迎えに来てくれたのでホテルを抜け出して見に行ってきた。
最初に第1候補としていた所に行く。青葉は現地で車から降りて風水羅盤なども見てチェックしていたが
「うん。ここ問題無いと思うよ」
という。
ここを管理している不動産屋さんは20時までの営業なので連絡してみたら、営業マンさんが来てくれた。それで3人は中も見せてもらう。青葉は家の中でも羅盤を見ながら動き回り、また窓から外を見たりもしていたが
「問題無いと思う」
と言った。
それで即契約することにし、事務所に一緒に行って手続きを済ませた。保証人は桃香がなってあげた。
「失礼ですが、借り主さんとはどういうご関係で?」
「婚約者の姉です」
「ああ、婚約者さんがおられるのですね」
「ええ、まあ」
という会話に青葉は何か微妙な違和感を感じる。
「ではご結婚後の新居ですか?」
「いえ、結婚はだいぶ先になると思います」
「なるほどですね」
などと言いながら、対応してくれた副支店長さんが書類を作り、青葉が敷金・礼金・5月の家賃(日割り)と6月の家賃で合計約23万円を現金で払った。
「そちらも婚約者さんのお姉さんですか?」
と副支店長さんが言ったのに、桃香は思わず吹き出した。青葉は憮然とした表情であった。
「車はいつ買うの?」
と不動産屋さんを出たあと一緒に入ったファミレスで青葉は訊いた。
「どうしようかと少し悩んでるんだよねぇ」
と彪志は言う。
「ああ、彪志君も車買うんだ?」
と桃香。
「仕事上、自分の車があったほうがいいらしいんだよね」
と青葉。
「そうそう。うちの部門の仕事の半分はクレーム対応なんだけど、病院って24時間動いているから夜中にクレームが発生することも結構ある。というか夜中は病院側もよく分かってない人が調剤の所にいたりして、それでトラブルが起きやすいみたい」
「よく分かってない人がいるのは怖い気がする」
と桃香。
「僕もそう思います。でもそれでやはりそういう夜中に駆けつける時に自分の車があった方が機動力があるんですよ。取り敢えず夜中とかに急に客先に行く必要になった場合はタクシー使えと言われてるんですけど、夜中ってなかなかタクシーが捕まらなかったりするでしょう?こちらは薬剤師の資格持っているスタッフに連絡して、その人を拾ってから行かないといけないし、タクシーが迷子になる事態もあるんですけど、というか割とそういう事態が発生していて。でも自分の車なら薬剤師さんの自宅を全部カーナビに入れておけば安心だし」
「なるほどねー」
「ですから夏のボーナスが出たら、それ頭金に使って買おうかと思っているんですよ」
「車種は?」
「都内だけの移動なら、N-BOXでもいいかなと思ったんですけどね。軽は細い道に入っていきやすいし。でも盛岡に帰省したり、高岡に帰省したりするのを考えると、1500ccくらいのでないと辛いよなと思って」
「お父さんは盛岡から移動することはないの?」
「ええ。今度は店長なので。たぶん定年までです。ただ、店舗の統廃合とかがあった場合は分からないですけど」
彪志の父・宗司は昨年末に一ノ関の販売店から、盛岡の販売店に転任になり、前の販売店では副店長だったのが、今度は店長になっている。一ノ関には結局5年弱居たことになる。お父さんは1957年12月生れで現在58歳。お父さんの会社では店長は63歳定年(67歳まで平社員として再雇用可だが、多くはそのまま勇退する)なので、定年まであと4年半ある。
「定年になった後は?」
「これまで青森県岩手県内を随分移動しているから、親父はどこに住んでもいいみたいだけど、お袋は盛岡の生まれだから、このまま盛岡に住み続けたいみたいです」
「なるほどねー」
「結構中学や高校時代の友達が住んでいて、よく会ってお茶してるみたいだよ」
「ああ、そういうのもいいよね」
彪志の母・文月は1964年7月生れの51歳で一ノ関ではスーパーに務めていたものの、盛岡に来てからは今の所特に仕事はしていないようである。実際問題としてこの年齢で仕事を見つけるのはひじょうに大変だ。職安などに出ている求人も大半が50歳未満である。
「でも彪志、そういうので自家用車があったほうがいい状況なら、取り敢えず車買う費用は私が出しておこうか?」
と青葉が言う。
「ああ、今月初めに臨時収入があったんだと言ってたね」
と桃香。
「うん。それでちー姉に200万返したけど、まだ少し残っているんだよね」
と青葉。
5月頭に千里に返したのは2100万なのだが、こんな高額のやりとりしたことは母や桃香に話すと驚愕されるので、言わないことにしている。朋子と桃香に言っているのは、青葉の通学用に買ったアクアの購入代金だけである。
「そうだなあ。借りちゃおうかな。今日家賃の分を借りたついでに」
と彪志も言う。
「じゃ今度私が来た時に一緒に見に行こうか」
「それって引越の日だったりして」
引越は5月28-29日(土)に行うことにした。
当日はちょうど霊的な仕事の片付いた青葉も高岡から出てきたし、桃香も手伝ってくれることになった。
「大型が運転できる千里は今フランスなんだよ」
と桃香が言っている。
「青葉は大型取ってないんだっけ?」
「準中型が創設されるまでは取れない」
「よく分からんな」
「桃香お姉さん、運送は運送屋さん頼んでますから大丈夫ですよ」
「もったいなーい」
「でも3万円ですから」
「結構安いね」
「ただし梱包は自分たちでして、小物は全部自分たちで運ぶという方式で」
「それで私たちが前日に来た訳か!」
そういう訳で、彪志・青葉・桃香の3人で手分けして、運送屋さんからもらった段ボール箱に詰めていく。ある程度詰めたら、冬子から借りてきたエルグランドに乗せて行く。そしてある程度詰まったら、新居に運ぶ。
「青葉が運んでいくといい。私と彪志君で梱包作業を続ける」
「うん。じゃ、そちらはよろしく」
ということで青葉ひとりでエルグランドを運転していき、さいたま市内の新居に運ぶ。新居では誰も見ていないのをいいことに、海坊主に荷降ろしを頼んだ。今日の時点ではとりあえず段ボールを置いておくだけである。棚やラックなどが来ないと、この梱包は開けられない。
それでまた千葉市に戻るが、その間に荷物ができているので、それを積み込み、またさいたま市まで走る。向こうで荷物を降ろして千葉市に戻る。結局段ボール類は3回で運び終えることができた。3回目は3人でエルグランドに乗っていき向こうで一緒に荷降ろしをした。
「お疲れ様〜」
「ありがとうございました」
「彪志のおごりで焼肉でも食べよう」
「了解了解」
それでさいたま市内の焼肉店に行った。今日はこのあと、桃香はエルグランドを冬子のマンションに返却して経堂のアパートに戻り、青葉と彪志は新居に泊まる予定である。もう布団も今日のうちに運んでしまっている。
焼肉屋さんで「さすがに疲れたね〜」と言いながらお肉をつついていたら、近くに座った男性3人のグループが
「お、鈴江君じゃん」
と声を掛けてくる。
「土師さん、こんにちは。お疲れ様です」
と彪志も挨拶する。
「あ、こちらは私のフィアンセの青葉とお姉さんの桃香さんです」
「すげー!婚約者がいるんだ!」
と土師さん。
「フィアンセというより既に結婚しているようなもんだよな」
と桃香が言うと、彪志も青葉も赤くなる。
「あ、こちらは会社の先輩の土師さん、芳野さん、宮沢さん」
と彪志は男性3人を青葉たちに紹介した。
3人は大宮の友人宅の新築祝いに行った後、ここに流れて来たらしい。
「先輩方もご一緒しませんか?」
と桃香が言うので、結局6人でグリルを囲むことになる。
「そちらお酒飲まないの?」
と土師さん。そちらの男性3人は生ビールの中ジョッキをオーダーしている。
「このあと運転しないといけないので。本当は飲みたいのだが」
と桃香。
「彪志は飲んでもいいんじゃない?」
と青葉。
「そうだなあ。じゃ、僕は注文しちゃおうかな」
と言って彪志も中ジョッキを頼んだ。
「ちなみにお姉さんは独身?」
「既婚でーす」
「それは残念!」
「あれ?お姉さんだよね?お兄さんじゃないよね?」
「ああ、性転換したの?とよく聞かれるんですけどね〜。残念ながら性転換手術なるものは受けたことないです」
「なんか微妙な表現だ」
「酔いつぶしてアパートに連れ込んで男か女か確認してみたい」
などとセクハラ発言しているが、桃香は全く気にしない。
「万一男だったとしても、裸にした以上はきっちりやってくださいよ」
などと言ってから
「お酒は大好きなんで、飲みたくてたまらないのだけど、飲酒運転する訳にはいかないし」
などと桃香はほんとに名残惜しそうである。
「桃姉、エルグランドは私が返しに行こうか?」
「そうか?」
「あそこ行くと、捕まってすぐには帰られない気はするけど、桃姉はまっすぐアパートに帰るといいよ」
「じゃ、私も頼んじゃおう」
と言って結局桃香も中ジョッキを頼む。
「お姉さん、お酒けっこう行けるの?」
「わりと強いですよ」
「お姉さんの一気飲みが見たいなあ」
「よし。行っちゃおう」
と言って桃香は中ジョッキをまるで水でも飲むかのように一気に空けてしまった。
「おお、すごい!」
と彪志の先輩3人が拍手をする。
「今夜はどんどん行きましょう」
「よし、行こう行こう。おい、宮沢、おまえも一気行け」
「え〜〜〜!?」
そういう訳で、この後は、桃香と先輩3人の《飲み比べ》の様相となる。
「よーし、狐拳行くぞ」
と土師さんが言う。
「何ですか?それ」
「知らんのか?」
と言って土師さんは説明する。
「狐はこう」
と言って土師さんは両手を頭の上に開いて立てる。
「猟師はこう」
と言って猟銃を握って相手を狙うような手をする。
「庄屋はこう」
と言って両手を膝の上に置く。
「それで、狐は猟師に撃たれて負け、猟師は庄屋に叱られて負け、庄屋は狐に化かされて負け」
「どこかで聞いたことある」
「んじゃ、芳野とそちらのお姉さん行ってみよう」
「え?俺?」
と芳野さん。
「済みません。私はドライバーなので」
と青葉。
「じゃ俺が代わりに行きます」
と彪志。
「よしよし。ふたり並んで」
と言われて席を替わり芳野さんと彪志が隣り合う席に座る。
「それでこれを置く」
と言って、土師さんは日本酒をタンブラーに半分くらいまで注いだ。
「負けたらこれを飲み干す」
「え〜〜〜!?」
それで芳野さんと彪志でやると、芳野さんは狐、彪志は猟師で彪志の勝ちであった。
「さあ、芳野一気に飲もうか」
「ひぇ〜」
この狐拳がかなり効いて、青葉を除く5人は全員かなりお酒に酔った状態で焼肉屋さんを出た。
しかしそれで解放してはもらえず、土師さんが「俺がおごるから」と言って土師さんの馴染みらしいスナックに連れて行かれる。
ドライバーの青葉だけオレンジジュースで、他の5人は水割りである。桃香はその水割りを美味しそうに飲んでいるが、彪志はさっきの狐拳でかなり日本酒を飲んでいるのでもう入らない雰囲気だ。
「ああ、引っ越ししたんだ」
「ええ。今までの所が学生時代に借りていた千葉市内の1Kで、会社まで遠いし狭かったので、今回は大宮で2DKです。通勤にも便利になるし」
「そこがふたりの新居?」
「えっと、まあ、そんなことになるかも」
「結婚式はいつ?」
「まだこの子が大学生なので、卒業してからになるかな」
「ああ、まだ先なんだ?」
「大学・・・・4年生?」
「すみません。1年生です」
「ああ、修士の1年?」
「いえ、学部の1年です」
「嘘!?」
会話を聞いて、桃香が吹き出している。もう!
「大学1年なら免許は最近取ったの?」
と少しマジメそうな感じの芳野さんが訊く。芳野さんもかなり酔っているようだが、それでも水割りをお代わりして飲んでいる。
「はい。高校3年の夏休みに取りました」
「ああ、そのタイミングがいいよね」
「友人で大学に入ってからゴールデンウィークにぶつけて合宿に行って取った子もいるんですよ」
「なるほどなるほど」
「あれ、いつ取るかって結構問題だもんね」
「仕事してるとなかなか取りに行けない。でも俺たちの仕事は車運転できないとまずいし」
「特に仕事に車を使わない部署に勤めている人は、男でも免許持ってない人最近けっこういるね」
「うん。うちの課長くらいの世代だと男は20歳くらいまでには運転免許取るのが必須だったらしいけど、少し時代が変わってきているみたいだよな」
と土師さんは言う。
「うちの会長くらいの世代だと、今度は運転免許持っている人が稀だったらしい」
「車がお金持ちの贅沢品だった時代だよな」
「3Cと言ったらしい。Car, Cooler, Color TV」
「庶民は自転車、扇風機、モノクロTVだよな」
「いや、モノクロテレビがあるのが中の上くらいの人たちで、中の下より下はまだラジオしかない世代だよ。近所の子供たちがテレビのある家に集まってみんなで『おかあさんといっしょ』見てたとか言ってたよ」
「会長の時代はそんな時代かぁ」
「ネコジャラ市の12人とかの時代?」
「11人!」
「そうだったっけ!?」
「会長はその前の前くらいのチロリン村とくるみの木とかの時代らしい」
(注.ネコジャラ市の前が「空中都市008」、その前が「ひょっこりひょうたん島」、チロリン村はその前なので、前の前の前である。ただ空中都市008は1年で打ち切られたので印象が薄い)
「だけどトラック野郎なんて映画やってた頃は、運転免許持っている人は割引なんてしていたらしいね」
「つまり免許持っている人に割引きができるほど、免許所有者が少なかったということか」
「ということは今の40-50代の層がいちばん免許所有率高いのかな」
「ああ、そうなるかも」
「でも運転することが多いと事故にも気を付けないとな」
「左藤は結局半年くらい入院することになるらしい」
「いや、それだけで済んで良かったよ」
などと彼らが言っているので、青葉は
「どういう事故、起こされたんですか?」
と訊く。
「夜中に市民病院から呼び出しがあって行ってきて、帰りに事故起こしたんだよ。警察は居眠り運転じゃないかと疑ったみたいだけど、本人は寝てなかったと主張している」
「いや、あいつの言ってることがおかしい。あまり変なこというもんでクスリやってんじゃないかと薬物検査まで受けさせられたみたいだね」
「変なこと?」
「それがさあ。運転していて、右足がかゆくなったんで、ちょっとかこうとしたらしいんだよ」
「はい」
「それで右手を下に伸ばしたらさ」
「ええ」
「誰かの手に触れて、その手が握手してきたというんだ」
「嘘!?」
と桃香が驚いているが、青葉は無言である。
「それで驚いてハンドル操作誤って街路樹に激突したというんだけどね」
青葉は腕を組んでじっと考えていた。
その日先輩たちから解放されたのはもう夜中12時近くである。
「ごめーん。遅くなっちゃって」
と彪志が謝る。
「まあ私は美味しくお酒が飲めたから満足だけど」
と桃香。
「じゃ、桃姉を送ってから車返しに行くね」
と青葉。
「車を返したら、青葉がアパートに戻れないのでは?」
「タクシーででも戻るよ」
「それはもったいない。明日の朝返しに行けば?」
「いや、それがエルグランドは明日の朝から別の人が使うことになっているんだよ」
「だったら、彪志君と一緒に都内のホテルにでも泊まればいい」
「あ、それでもいいかな」
それで取り敢えず桃香を経堂まで送り、結局1時頃に恵比寿の冬子のマンションに辿り着く。マンションに戻る直前にGSで満タンにしておいた。メールしてみると、政子が1人らしい。その政子が駐車場の出入り口を開けてくれた。
エルグランドを所定の位置に駐めると、隣に駐まっている政子のリーフは窓が開けっ放しである。青葉が電話をして注意すると、政子は慌てて降りてきた。
「危ない。危ない」
と言って窓を閉める。
「物が無くなっていたりはしませんか?」
「うーんと。ETCカードは入っているし、孫の手はあるし、非常食のカロリーメイトもポテチもコーヒー缶もあるし」
「そこの後部座席に置いてあるパーティーバーレルは?」
「あ!大事なの忘れてた!」
政子が食べ物を忘れるというのも珍しい話である。
青葉はその場で政子に鍵を渡し
「それじゃ、政子さん、エルグランド、ありがとうございました。ガソリンは満タンにしておきましたので」
と言った。
「サンキュ、サンキュ」
「じゃ、失礼します」
「せっかくだから、チキン2〜3本食べていかない?」
「そうですね。じゃ、1本くらい」
ということになり、一緒に上にあがった。
「でも今日はどこに泊まるの?」
「大宮の方にふとんを持って行っているので、そこに泊まるつもりです」
「こんな時間に電車あったっけ?」
「さすがに無いので、タクシーで行こうかと」
「それはもったいない! うちに泊まっていくといいよ」
と政子は言う。
青葉は彪志と顔を見合わせたが
「じゃ、泊めてもらおうかな」
「うん。そうしようか」
ということで泊めてもらうことにした。
上にあがっていくと、今日は政子の監視役として★★レコードの奥村さんが来ている。彼女は「マリ監視チーム」には入っていないはずだが、誰かが都合つかずに代わりに来たのだろう。さっきのマリの言葉からすると、ケンタッキーにはひとりで行ったようだ。監視チームの人なら付いていくのだが、多分「このくらい大丈夫。ひとりで行ってくるよ」とか政子に言われてマンションに残ったのだろう。
しかし駅前までケンタッキーを買いに行ったはずが、そのまま札幌まで行っていたりしかねないのがマリちゃんの困った所である。
政子はパーティーバーレルを開け、
「皆さんどうぞどうぞ」
と言うので、青葉も彪志も奥村さんも1本ずつもらう。
「奥村さん、マリさんに振り回されてません?」
と青葉が言うと
「夕方、外食に出た時、銀座の町で一瞬見失って焦りました」
と言っている。
「お疲れになったでしょ? この後私たちが寝るまで一緒してますから、もう寝ててください」
と青葉が言うと
「じゃ、そうさせてもらおうかな」
と言ってチキンを1本食べ終わった所で、奥の6畳の寝室に行って寝たようである。ちなみに奥村さんがチキンを食べ終わった時、政子は既に3本目に入っている。
結局チキンは青葉と奥村さんが1本、彪志が2本食べたのだが、政子が残り6本をきれいに食べ終えてから更に
「お腹空いた」
などと言うので、青葉が冷蔵庫の中のストックを使って焼きビーフンを作ると「美味しい美味しい」と言ってたくさん食べていた。彪志は眠そうにしていたので「先に寝てて」と言って奥の7畳半の寝室に案内する。
その後、青葉はマリと1時間くらいおしゃべりしていた。
もう2時を回った頃、政子が
「少し眠くなってきたかな」
と言う。
「じゃ、そろそろ寝ますか?」
と青葉は訊く。
正直いいかげん寝たい!
「よし、ドライブしてこよう」
「眠いのにドライブは危険ですよ!」
「大丈夫だよ。夜風に当たったほうが眠気も覚めるから」
いや、眠気を覚まさなくても、もう寝ればいいのにと思う。が、仕方無いので付き合うことにする。
「どこまで行くんですか?」
「そうだなあ。レインボーブリッジにでも行こうかな」
それなら10kmくらいである。その程度なら大丈夫かなということで行くことにする。下の駐車場に降りてリーフの運転席に政子、助手席に青葉が乗って出発する。眠気防止のため、窓は運転席も助手席も開けるが、この時期は夜風がけっこう冷たい。
政子が「どうやってアクアを説得して女の子に改造するか」という作戦をあれこれ話すのを苦笑しながら聞いている。どうも政子にとっては「楽しいおもちゃ」という感じだ。
それで結構走っていた時のことだった。
「あれ?」
と政子が声を挙げる。
「どうかしました?」
「いや、窓開けてたら虫が入ってきたみたいでさ」
「はい」
「何か刺されたような気がしたから、足首を掻いたんだけどね」
「ええ」
「右手を足首の所まで伸ばしたら、誰かの手とぶつかっちゃって」
「はあ!?」
「握手を求めているみたいだったから、握手してあげたけど、誰だろ?」
「政子さん、車を脇に寄せて停めてください!」
「へ。何で?」
と言いながらも政子は素直に車を路側帯に寄せて停める。
「政子さん、それ寝ぼけてますよ。私が運転交代します!」
「え〜?起きてるけどなあ。今日はまだ宇宙人に会ってないし」
などとと政子は言いながらも運転交代し、青葉が運転席に乗って政子が助手席に乗る。この車には若葉マークが常備してあるので、それを前後に貼ってスタートする。
「ケイから宇宙人に会ったら、運転は他の人に替われと言われてるのよね」
などと政子は言っている。
「それがいいですね」
と青葉は笑いをこらえて答える。
それで青葉の運転で湾岸に出て、南下、レインボーブリッジを渡った。
「きれいだね」
「やはりここは夜景で見るのがいいですね」
既に天文薄明は始まっているのだが、それでも充分きれいな景色である。橋を渡った後は、お台場のコンビニに駐め、ここでおやつとコーヒーを買って少し休憩した。ここで休憩している内にもう夜明けとなる。
「すっかり明るくなっちゃったね。帰って寝ようか」
などと政子が言うので、戻ることにする。
帰りはずっと青葉が運転し、レインボーブリッジを戻って恵比寿のマンションに帰還した。帰って来たのはもう4時半である。ちょうどマンションに着いたころ、日の出となった。
その後、青葉は奥の寝室の彪志のそばで寝たが、政子は居間でそのまま寝たようである。
朝7時に川崎ゆりこがやってくる。呼び鈴が鳴ったものの政子は起きないようなので青葉が起きてきてエントランスをアンロックする。上に上がってきた所で玄関を開ける。
「わぁ!おはようございまーす、大宮万葉先生」
「おはようございます、川崎ゆりこさん。でも『先生』は勘弁して下さい」
川崎ゆりこは青葉より5つも年上である。
「今日ケイ先生のエルグランドを貸してもらうことになっていたんですけど」
「ケイさん出てるし、マリさん寝てるけど、話していたんならいいと思いますよー。鍵はこちらですね」
と言って、政子がテーブルの上に放置しているエルグランドの鍵を渡す。
「昨日は私が借りていたんですよねー」
「わあ、そうだったんですか。そういえばケイ先生はエルグランドを自分で1度くらい運転したんでしょうか?」
「あ。どうなんでしょう? なんかもう諦めている雰囲気ではあったけど」
ケイは昨年1月にエルグランドを買ったものの、おりしもケイとマリの呪殺未遂事件が発覚し、あやうくそれで交通事故を起こす所であったというので、★★レコードはマリ&ケイほか、数組の作曲家に専用ドライバーをつけた。
それで、これまでケイが運転していたようなケースの多くの場合に、ドライバーの佐良しのぶさんが運転するようになった。またエルグランドは大きいので、都内程度の移動には同時に買ったリーフを使うことが多い。
そういうのもあって、ケイはエルグランドを買って以来、自分で運転する機会が全く無いらしいのである(リーフの方は運転している)。その間にエルグランドを運転したのは、★★レコードのドライバーの佐良さん・矢鳴さん・染宮さん、∴∴ミュージックの北嶋花恋、ローキューツの原口揚羽、40 minutesの河合麻依子、トラベリングベルズの相沢海香、それと友人の千里・和実・琴絵・麻央などと、この川崎ゆりこ、といった所である。実はマリでさえこのエルグランドを運転しているのにケイは運転していない。
ゆりこは自身が監督兼主将を務める少女ソフトボールチームの試合で道具と一部のメンバーを運ぶのに借りたいということだった。これまで何度もこのチームで使うのにこの車を借りだしている。
「ソフトボールのメンバーってどういう人たちなんですか?」
「いや、テレビ番組に出てて、ソフトボールチーム作っちゃおうかあなって何気なく発言したら、凄い問い合わせ来たから、正式に応募要項を発表してメンバーを公募したんですよ。そしたら応募者が300人くらい来ちゃって。それで入部テストやって25名選抜したんですよ」
「凄い競争率ですね!どんなテストしたんですか?」
「80m走、バッティング、遠投」
「本格的ですね!」
「それと面接。選手としての能力が高くても、和を乱す人は困るから」
「ああ」
「でもタレントへの道かと誤解してきてた子が多くて」
「でしょうね〜」
「遠投どころか、投げたボールが5-6mしか飛ばない子の多いこと多いこと」
「あはは。塁間距離(18.29m)は投げられないと、話になりませんからね」
「そうなんですよ」
「ゆりこさんはソフトボールの経験は?」
「小学校の5−6年生の時にソフトボール部だったんです」
「へー!」
「でも私、ウィンドミルができないんですよねぇ。私がウィンドミルするとボールはどこに飛んでいくか自分でも分からない」
「ああいうのできるのは一種の才能ですよ」
「そうだ。メンバーには男の娘も1人入っているんですよ」
「へー。それ試合に出られるんですか?」
「協会に相談したら、IOC基準に合致していれば試合に出てもいいと回答があって」
「なるほど」
「以前は去勢してから2年間女性ホルモンを摂取していることというのが基準で、彼女は去勢もしてないんですよね。それで練習試合とか男女混合の大会には出すけど、男女別の公式戦ではマネージャーとしてベンチに座らせているんです」
「ああ」
「でもIOCの基準が変わったんですよ」
「変わりましたね〜」
IOCはリオデジャネイロ五輪に先行する2015年11月に性転換者の扱いに関する新たな見解を出した。
■女子から男子からの性転換者は、自分は男子であり、男子の試合に出たいと宣言するだけで男子として扱われる。
■男子から女子への性転換者の場合、下記の条件で出場を認める。
・自分は女子であり、今後最低4年間は性別を変更しないということを宣言すること。
・過去12ヶ月にわたって血清中の総テストステロンの量が10 nmol/L未満であること。また競技期間中もそのレベルであること(ケースバイケースで12ヶ月より長い期間を要求する場合もある)
※性転換手術の有無は問わない。
女性として認める基準に性転換手術を受けていることを要求してはならないというのがジョグジャカルタ原則にうたわれている。
※女性の総テストステロン正常値は 0.2-3.0 nmol/L 程度である。一方男性の場合は 7-26 nmol/L 程度である。つまりこの基準は、かなり緩いと思われる。しかしこのくらい緩くしないと、たぶん普通の女子選手でひっかかってしまう人が出てくる!
(女子選手の高アンドロゲン症については、現在インドの女子陸上選手デュティ・チャンドのケースが係争中である。スポーツ仲裁裁判所は参加を認めるべきという裁定を出したが、IOCおよび国際陸連は、他の女子選手に不公平になるとして反発している。彼女はリオ五輪には女子選手として出場を認められたものの、彼女の取り扱いは今後揺れる可能性がある)
「その子、まだ高校生なんですよねー。それで親からは去勢するにしても高校を出てからと言われているらしくて。でも女性ホルモンは黙認状態で採っているんです」
「じゃもう後戻りできないんですね」
「うん。本人としては何も迷ってないみたい。それで男性ホルモンの濃度検査を毎月受けさせているんです」
「ああ、それはいいことです」
「ここまでの検査は全部基準未満、というより女性の正常値の範囲。本人としてはどっちみち取り敢えず高校出たら去勢するつもりではいるものの、新しい基準だと来年春から女子選手として参加できることになるかも」
「そうなるといいですね〜」
「新しい基準では手術してなくても認めるということではあっても本人としてはタマタマが付いたまま女子の試合に出るのは罪悪感を感じると言ってて」
そういえば、そんなことをちー姉も言ってたよなあと青葉は思った。だからちー姉は間違いなく、女子選手としてインターハイに出る前に最低でも去勢はしていたはずだ。
「その気持ちは分かります」
「まあまだ付いていても女湯には入っていますけどね。拉致しているというか」
「あははは」
川崎ゆりこは30分くらいおしゃべりしてから、エルグランドの鍵を持って出ていった。
朝9時に政子の監視役の交代要員で仁恵さんが来て、奥村さんに「お疲れさまでした」と言い、交代する。
朝御飯は、青葉・彪志・奥村さん、仁恵さんの4人で食べた。政子は昼過ぎまで寝ているのがふつうのサイクルである。
「まあ、政子は絶対会社勤めなんかできないし、主婦も無理だよなあ」
などと仁恵さんは言っていた。
茶碗の片付けとかはやっておくからと仁恵さんが言うので、9時半頃、彪志と一緒に恵比寿のマンションを出た。
電車で移動して、10時半に大宮駅で、ミラを運転してきた桃香と待ち合わせ、無事合流する。そこからミラを《青葉が》運転してホンダ車を扱っているお店に入った。
今日は午前中に彪志の車も選ぼうということにしていたのである。
「こんにちは。盛岡**店の鈴江宗司の紹介で来たのですが、店長さん、いらっしゃいますか?」
と言って彪志が父の名刺を見せる。それで店長さんが出てきてくれた。
「どうもどうも。お父さんから連絡を受けてます。ようこそいらっしゃいました」
と店長さんは笑顔で挨拶して取り敢えず店内のテーブルに案内してくれた。女性事務員さんがコーヒーとケーキを持って来てくれた。店長さんが
《大宮##店店長・山本深水》
という名刺を渡してくれる。彪志も自分の会社の名刺を渡した。
「彪志(たけし)さんかあ。格好いい名前ですね。うちも男の子が欲しかったなあ」
「そちらは女の子ですか?」
「そうなんですよ。3人女ばかりでつまらない。おまえら誰か性転換する気はないか?と言ったら『おとうちゃんがちんちん譲ってくれるなら考えてもいい』と言われましたが」
「あははは」
「でも店長さんも凄い名前ですね。画家の伊東深水(いとう・しんすい)からとったんですか?」
と青葉は訊く。
「そうです、そうです。親父がファンだったらしいんですよ。うちの自宅には深水の真筆だという絵がありましたよ」
「それは凄い」
「まあ親父が真筆だと言っていただけだから本当かどうかは分かりませんけどね」
「どうなんでしょうね」
「でもこの名前、伊東深水を知らない人は、『ふかみ』さんですかとかどうかすると『みみ』さんですかとか言われて、たまに女の子だと思っちゃう人もいるみたいで」
「まあ確かに水という字は最近けっこう女の子の名前の止め字に使いますし、『みみ』と読めないこともないですけどね」
と彪志。
「女性幹部親睦会の招待状が来たこともありますよ」
「それはぜひ出席しておきたかったですね」
と桃香。
「いやあ、マジで女装して出席してこようかとも思ったけど、女房がそんなことしたら離婚すると言うんで諦めました。娘たちは『お父さん女装するなら応援するよ。スカート貸してあげるよ』とか言ってたんですけどね」
「あははは」
店長さんはかなりの体格である。ふつうの「娘さん」のスカートが入るとは思えない。
「そうだ。父とは大学時代に同じ部活だったとか?」
「そうなんですよ。落語研究会だったんです」
と笑顔で言ってから、店長さんは
「お父さんの悪事を色々教えましょうか?」
などと小さい声で言っている。
「車種はどういうのにするか、見当とかは付けておられますか?」
と店長さんは訊く。
「一応フリードスパイクにしようかと」
「フリードではなくてスパイクの方?」
「ええ。車中泊とかも結構しそうなので、フルフラット化できるのが魅力だなと思って」
「ああ、そこまでスペックを見ておられるのなら、あまり問題無いですね」
それで席を立って実際の車の置いてある所に連れて行ってもらう。
「今ここに展示しているのはフリードスパイク・ハイブリッドなんですよ」
「ハイブリッドじゃない方がいいかなと思っているのですが」
「それは何か理由があります?」
「ハイブリッドはCVTになってしまうので。Gの方だとATが選べるから。だから4WDで。わりと遠出で使うことが多いので坂道やワインディングロードでこちらの意図通りに制御できる車が欲しいんですよ」
「なるほど、なるほど。GのFFはCVT, 4WDはATなんですよね」
「ええ、そのあたりまでは事前に調べておいたんです」
「ではちょっとハイブリッドでCVTでご希望のとは少し感覚は違うとは思いますが、試乗してみられます?」
「はい」
それでスタッフの人に同乗してもらい、展示車に乗って1kmほど離れたスーパーまで彪志が運転していく。青葉が助手席、後部座席に桃香とスタッフさんが乗る。スーパーの駐車場で運転交代して青葉が運転してお店に戻った。
「いかがでしたか?」
「いい感じです。好きです」
座席を倒してフルフラット化するのも実際にやってみる。
「これだけの空間が使えるのは嬉しいなあ」
と彪志。
「これならゆっくり寝られるよね」
と青葉。
「これいいなお。恋人を連れ込みたい」
などと桃香まで言っている。
それで店内の席に戻り、詳細を打ち合わせる。
「Gの4WD-ATを選択する場合、グレードが4種類あるのですが」
フリードスパイクの中核になっているのはGジャストセレクションである。ここから種々の装備を省いた廉価版がG、走り重視の装備を追加したエアロ、あるいはクルコンなどを追加したプレミアムエディションがある。
「現時点ではジャストセレクションを選ぶ意味はないですよね?」
「はい、そうです。プレミアムエディシヨンと価格が同じですから」
「じゃ3種類の中で考えて、値段がどのくらいになるかかな」
「じゃちょっと見積もりをしてみましょう」
と言って、店長さんがノートパソコンを取り出し、見積もりを作ってみる。
「遠距離走られることが多いのでしたら、取り敢えずGエアロで行ってみません?」
「そうですね。高そうだったらそれを変更するということで」
本体価格はGが195万円、プレミアムが218万、エアロが235万である。
そこから青葉たちは車体の色を選択し、様々なオプションを選択していった。
「見積価格は2,888,574円になりますね。頭金22万1850円でボーナス併用36ヶ月払いの場合、毎月44,800円、ボーナス月20万円という計算になります」
と店長さん。
「そこでここからが本題ですが、店長さん」
と桃香が身を乗り出して言う。
「どのくらい値引きできます?」
桃香の目を見て、店長さんはどうもこいつは手強いぞと感じ取ったようである。
「そうですね、お父さんとお友達だし10万円くらいなら値引いてもいいですよ」
と店長さん。
「そこを知り合いのよしみでジャスト200万まで値引きしましょう」
と桃香。
店長さんはある程度こちらが大きな金額を言ってくるのではと覚悟はしていた雰囲気だが、これは予想外の数字だったようで
「え〜〜〜!?それはさすがに無茶ですよ。車の本体価格自体で赤ですよぉ!」
と言う。
「じゃ利益が出るギリギリくらいで210万円で」
「それも無茶すぎます!! フリードスパイクは元々利幅が小さいんですよ。フィットとかなら結構お引きできるんですが、フリードスパイクは普通5万くらいまでしか引けないんですよ」
「ねね、フリードの方がさ、そろそろ新型が出るって噂があるじゃん。フリードが新型出るのなら、フリードスパイクもきっと新型が出るよね?だったら、今のは旧型になる訳だから、大きく引けない?」
などと桃香は少し小さい声で言う。
「フリードは確かに新型が出る予定はありますが、まだ時期未定です。フリードスパイクに関しては、新型が出るかどうかについては、社内でも情報が無いんですよ」
と店長さんも困ったような顔で言う。
そして、ここからふたりの激しい鍔迫り合いが続いた。店長もかなり頑張ったのだが桃香の押しに気合い負けしてしまった感じである。
「じゃ保険もうちで契約して頂くということで35万値引きで。これ以上は無理です」
と店長さん。
「そこをあと1声。38万8574円引いて250万円ジャストで」
「勘弁してください」
と本当に店長さんは参ったぁという顔をしている。
桃香もこのあたりで限界かなと思っていた雰囲気であったが、ここで青葉が発言する。
「今すぐ現金で払いますから250万円ジャストになりませんか?」
「今すぐ現金でですか?」
「保険料も一緒に年一括で払いますよ。近くのATMまで行ってすぐ降ろしてきてお支払いします」
「青葉、そんなに現金持ってるの?」
「偶然今口座にあるんだよねぇ」
「使っちゃって平気?」
「大丈夫。夏のボーナスで返してもらうから」
当の彪志は不安そうな顔をしている。実際問題としてどのくらいボーナスをもらえるのかが全く見当が付かない。
しかし桃香は調子がいい。
「よし、では店長さん、それで250万円ジャストで行きましょう」
店長さんはもう降参という顔である。
「分かりました。250万円でお売りします。でもこんなに値引いたというの、誰にも言わないで下さいよ。ネットにも書かないで下さい」
「おお、すばらしい。もちろん黙ってますよ」
と言って、桃香は笑顔で店長さんと握手した。
「でもお姉さん、うちのセールスになりません?」
「失業したら考えようかな」
それで青葉はスタッフさんの車に乗せてもらい、近くの###銀行支店まで行って車の代金250万円、保険料1年分60万円、それに少し予備費を見て念のため350万円降ろして戻って来た。
現金で310万円渡す。
店長さんが慎重にお札を数え、副店長さんにも数えてもらって確認する。
「確かに頂きました」
と店長さんも笑顔である。すぐに領収証を書いてくれる。
それで色々アメニティ・グッズなどももらってお店を出た。
「でも青葉ごめん。ボーナスでどの程度返せるか分からない」
と彪志は言うが
「まあお互い生きている内に精算できればいいと思うよー。私の方は大丈夫だから、あまり無理しないでね」
と青葉は言っておいた。
青葉が運転するミラでそこから千葉のアパートまで行く。これがここに行く最後になるかなと思うと感慨深い。途中ほっともっとに寄ってお弁当を買ったので、アパートに着いてから食べながら、待機する。
移動し忘れたものがないか確認して行く。冷蔵庫の中身は運送屋さんが来てから出すので、箱だけ準備しておく。
12時半頃、そろそろだろうということで冷蔵庫の電源を抜き、中身を段ボールに詰めて冷却剤を上に置く。なお冷凍食品・冷凍ストックの類は昨日までに使い切っているし、お酒の類も移動済みなので、今日運ぶのは、マーガリンやジャムを含む調味料の類や梅干し、使い掛けの小麦粉などの類である。
運送屋さんは13時ジャストに来た。
エアコンを取り外し、タンス・冷蔵庫・洗濯機など大型の荷物を手際よく2tトラックに積んでいく。冷蔵庫は最後にしてもらって冷凍室の霜の融けたのを青葉と桃香で協力して処置した上で乗せてもらった。
荷物を全て搬出した後で、キッチンのシンク下とか棚、また部屋の天袋などに忘れ物がないかを確認する。それでOKということで、トラックには出発してもらう。桃香と彪志も最後まで置いていたティッシュやゴミ箱などを積んでミラで移動。青葉だけが残り、15時頃来てくれることになっている不動産屋さんを待つ。ここで青葉が残ったのは彪志には現地に行っておいてもらいたかったからである。
不動産屋さんは15時を少し過ぎてから来た。
鍵オリジナル3本を返却する。不動産屋さんが室内を点検する。
「障子紙や襖紙、畳表などはこちらで交換しますが、それ以外特に傷んでいる所は無いようですね」
ということで、その分の費用を引いて敷金は6万円入れていた内の5万円返還しますということであった。書類を書き、振込先口座も書く。
青葉が「鈴江彪志」と署名し、鈴江の印鑑も押すので、不動産屋さんから聞かれた。
「お姉さんですか?」
う・・・妹さんですかとは聞かれないのか!?
「いえ、本人です」
と青葉は少し悪戯心を出して答える。
「え?でもあなた女性ですよね?」
「性転換したので」
「あ、そうでしたか。失礼しました」
それでまた機会がありましたらよろしくなどと言って青葉は彪志が4年間すごしたアパートを出た。
そして出ると同時に4年間掛けておいたこのアパートの結界を解除した。
まるで水門を開けた途端、下流に水が落ちていくかのように、雑多なものがアパートに寄ってくるのを感じた。しかし、元々そんなに悪くはない場所だったから、桃姉たちの前のアパートみたいに酷いことにはならないんじゃないかなあ、と青葉は思って、駅の方に歩いて行った。
電車を乗り継いで大宮駅まで行き、バスで最寄りバス停まで10分ほど走り、バス停から(青葉の足で)徒歩3分ほどで新しいアパートに到達する。青葉が行った時は、彪志も桃香も座り込んでいた。
「お疲れ様〜」
「片付けようとしたんだけど、早々にめげた」
「まあ急がないし、ゆっくりと片付けていけばいいよ」
それでその日は桃香の希望で回転寿司に行き、引越祝いとした。青葉はその日の最終《かがやき》で高岡に帰還した。
しかし・・・・4月頭に会った時も今回も結局セックスできなかった!!
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【春拳】(1)