【春拳】(4)

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表彰式の後、解散する。青葉は打ち上げを兼ねた夕食に出てから東京に戻ることにした。打ち上げでは筒石さんが他の男子部員を誘って、鯱拳で負けた方がお酒を空ける、などというのをやっていた。女子にも参加しないかと言っていたものの、全員拒否していた。
 
一応圭織さんが目を光らせていて未成年部員にはさせないようにしていたが、筒石さんと海津さんがひたすら負けて、大量にお酒を飲んで最後はふらふらになっていた。
 
「筒石、酔いつぶれたら置いて帰るぞ」
などと他の4年生部員に言われていた。
 
女子の方はカラオケをリレー方式でやっていたが、青葉はジャネさんが物凄く歌が上手いのに驚いた。
 
「ジャネさん、歌手になれる」
と青葉が言うと
 
「うん。水泳選手にならなかったら歌手になってたかも」
と彼女も言っていた。
 

名古屋駅で、他のみんなは名鉄バスセンターから高速バス(20:10発)に乗り、青葉は新幹線に乗るので別れるが、圭織さん、杏梨・蒼生恵が
 
「バスの時刻にはまだ時間あるから見送ってあげるよ」
と言って、駅の入口まで一緒に来てくれた。
 
「ジャネさん、足首から先の無い人とは思えない凄いスピードですね」
と杏梨が言った。
 
「まだ練習再開して間もないから、全国公までには相当スピードアップしていると思う」
と圭織。
 
「でもジャネさん、歌も凄くうまいですね」
と蒼生恵が言うと、圭織さんは首をひねっている。
 
「どうかしました?」
 
「いや、昔ジャネさんの歌を聴いたことあるけど、あんなにうまくなかった気がするんだよね」
と圭織。
 
「へー。何かで開眼したんでしょうかね」
と蒼生恵は言ったが、青葉はその言葉を少し考えた。
 
青葉がジャネの「正体」に気付くのはもう少し先である。
 

青葉が東海道新幹線を降りて東京駅構内を歩いていたら、たくさん荷物を抱えた奈々美とバッタリ遭遇した。
 
「お久〜」
「お久〜」
と声を掛け合う。
 
奈々美はW大学に進学し、バスケット部に入っている。荷物もどうもユニフォームとかタオルとかの類のようだ。
 
「凄い荷物だね。どこの番線に行くの?」
「山手線4番ホームかな」
「そこまで手伝うよ」
「青葉は?」
「私手ぶらだから、そのあと7番ホームに移動しようかな」
「わ、ありがとう」
 

「どこか大会行ってきたの?」
と青葉は歩きながら訊く。
 
「うん。新潟で日本女子学生選抜って大会があって」
「わあ、大会に出てたんだ」
「出てない、出てない。私はただの荷物持ち。この大会は関東の大学全体から強い人を15人選んでチーム編成するんだよ。だから選抜というんだけど」
「選抜ってチームを選抜するんじゃなくて、選手を選抜するんだ!?」
 
「そうそう。青葉も水泳の大会で東京に出てきたの?」
 
と奈々美が訊く。水着入れを持っているから訊かれたのだろう。
 
「インカレの中部地区予選」
「中部地区?」
「そうそう。メンツ足りないから出てと言われて。私、本当は別件の仕事で東京に出てきてたのに、今日は名古屋まで新幹線で往復」
「大変だね!」
 

「でも私今回荷物持ちと雑用係で行ってきたんだけど、行って良かったぁ。強い人たちのプレイを間近で見られて、控え室でその人たちの会話を聞いているだけでも、物凄く刺激されるんだよ」
と奈々美は言う。
 
「強いチームにいる最大の利点だよね。いわば秘伝伝授だよ」
「なるほどー」
「特にバスケは強い人たちの中で揉まれることで伸びるから。1on1なんて強い人と練習することで強くなる」
「それは思った。ふだんの練習の時でも高校までとはまるで雰囲気が違うから」
 
「奈々美、何かの大会とか出られそう?」
「6月の新人戦には出たよ」
「おお。凄い!」
「私は最初頭数に入ってなかったんだけどねー。新人戦は1-2年生に出場資格があるんだけど、その1-2年生の部員が20人以上いるし。インハイでBEST4とか経験している人がごろごろいるから。でも遅刻した選手が出て、私はたまたま撮影係で行っていたんだけど急遽ベンチ入り」
 
「そういうのは控えがアピールできるビッグチャンスだよね」
「うん。そう思って思いっきりプレイした。そしたらその試合で8点取れて」
「凄い、凄い」
「その内の6点がスリーでさ。だから私はとりあえずシューターとして認識されたっぽい」
「いいと思うよー。背の低い選手の生きる道だもん」
 
「個人的にはスモールフォワードの性格かなあと思っているんだけど、それはもっと信頼を確保しないとさせてもらえないから、とりあえずシュート係で頑張る」
 
「うん。頑張ってね」
「今、8月末からのリーグ戦にも出すよと言われてるんだよ」
「凄い凄い。このまま頑張ってユニバーシアードを目指そう」
「うーん。。。そこまでは。でも頑張る。青葉も水泳頑張ってね」
 
「私は水泳は頑張らない!」
「そうなの!?」
「勉強と霊能者のお仕事と、作曲活動で手一杯だよ」
 
「なるほどー!」
 

青葉が大宮に帰着したのはもう夜11時過ぎである。
 
「遅くなってごめんねー」
と彪志に言ってキスをする。
 
彪志はカップ麺を食べていたようだ。カップ麺のからが2個転がっているのでお昼も晩もカップ麺だったようだ。
 
「大会どうだった?」
と彪志が笑顔で言う。
 
「うん。1位で標準記録も突破」
「凄い凄い。だったら全国大会も行くの?」
 
「行かないといけないみたーい」
と青葉は困ったような顔をして言った。
 

7月2日、千里は日本代表第五次合宿の1日目であった。練習は一応夕方終わるのだが、夕食後少ししたら、また有志だけ集まって練習を続ける。この自主練習にはいつも補欠になっている彰恵と留実子が出ていて、
 
「補欠に負ける奴は入れ替えるからな」
と同席してくれる高田コーチがロースター枠内の選手に声を掛けていた。百合絵や江美子も、王子や誠美も、彰恵や留実子に負けないように必死であった。 
その自主練習の最中の21時頃、少し休憩した千里は携帯にメールが着信しているのに気付く。見ると毛利五郎さんからだ。電話してみる。
 
「どうかしました?」
「あ、よかった。醍醐君。困っちゃってさ」
 
と言って、毛利さんが状況を説明する。山森水絵のデビューアルバムを今夜工場に持ち込んでプレス始める予定だったのに、寸前でタイアップしている企業から修正依頼が入ったということであった。
 
「この曲の2番で彼氏に会えない寂しさから、ドラッグスターに乗って、全速力でバイパス走って白バイに見つかっても逃げ切って、なんて下りがあるじゃん」
 
「ああ、はい、あったかな」
と千里もよくは覚えてない。
 
「このドラッグスターって、俺も知らなかったんだけど、ヤマハのバイクの名前なんだって?」
 
「さあ、私もバイクの名前はよく分からないです」
 
「ところがタイアップしているのがホンダでさ」
「ありゃりゃ」
「実はタイアップの商談まとめてくれた営業の人も車種の名前とか分かってなくてバイクで走るシーンがあるからバイク屋さんにいいんじゃないかと話をまとめたみたいで。それでホンダの営業さんも1番の歌詞だけ見てて2番まで見ていなかったらしくて」
 
「だったら、それ適当なホンダのバイクの名前に変更していいですよ。葵照子もその程度文句言いませんから」
 
「いや、それがそもそも全速力で走るってスピード違反でしょ?警察から逃げるというのもバイクメーカーがタイアップする曲で、まじいよと」
 
「ああ・・・」
「これ全面的にこの部分を書き換えざるを得ないと思うんだ。それで醍醐君も捕まらないし、葵(照子)君に何とか連絡を取ろうとしたんだけど、電源落としているみたいで」
 
「それは病院内で勤務に入っているんだと思います。夜間の時間帯ならおそらく救急の当番です」
 
葵照子こと琴尾蓮菜は研修医なので、救急の当番も多い。
 
「だったら、醍醐君、こちらに来て歌詞を修正してもらえないかな?それと実はこの曲、編曲が凝っててさ、歌詞の内容に合わせていろんな効果音とかも流しているし、ギターの伴奏パターンとかキーボードの音色とかも調整しているんで、歌詞を大規模に直すとその辺りまで変えることになる。そのあたりの編曲はトナカイ(北原春鹿)ちゃんがしていたんだけど、これを男の俺が調整したら1番とのフィーリングが合わなくなると思うんだ。できたら女の子の感覚で調整したい。ところがトナカイちゃんは今週コンクールに出るとかでポルトガルだかフィンランドだかに行っててさ」
 
ポルトガルとフィンランドでは随分方角が違うぞと思いながらも、千里は困った。自分もまだ練習の途中である。
 
「取り敢えず毛利さん、性転換します?」
「俺は性転換しても女湯で悲鳴あげられそうだよ!」
 
確かに確かに。
 
「でも私もまだ練習中なんですよ。困ったな。誰か代わりに作業が出来そうな人を探してみます」
 

それで千里は最初ゴールデンシックスの花野子に電話してみたのだが、マネージャーさんが電話に出て、今ライブの最中ということだった。それでは無理なので、多忙なのが分かっているので申し訳ないとは思ったが冬子に電話してみた。幸いにも対応してくれるということだったので、その旨毛利さんに連絡してやっと練習に戻った。
 
「サン、電話が長いぞ」
「すみませーん」
「サンは罰金で今夜は一升瓶の一気飲みだな」
「一升瓶入りの水でよければ」
 

7月4日(月)。
 
青葉は「あなた、いってらっしゃーい」と言って彪志をキスで送り出した後、通勤時間帯が過ぎてから電車で都心に出て、事故の起きた2ヶ所、そして政子が怪異に遭遇した場所を歩いてみて回った。車で行きたかったのだが、交通量が多いので昼間はとても車を停められないのである。
 
この3ヶ所は全て港区内である。
 
青葉が見た範囲では特に怪しい感じの場所は無い。
 
「私もしかしたら、船に刻んで剣を求めるようなことしてるのかなあ」
と独り言を言う。
 
この時点ではどこに原因があるのかは全く分からない。怪異の雰囲気は土地っぽいのだが、車に原因がある場合、本人に原因がある場合、あるいは今の段階では未知の何かが絡んでいる場合なども考えられる。
 
「それとも夜中に来ないとダメなのだろうか」
 
土地の雰囲気は昼と夜で空間がまるで別のものに変質してしまうことも多い。 

4日の午後はいったん彪志のアパートに戻り、ネットでこの手の怪異の噂が無いかを調べてみた。すると、似たような感じのできごとが数件あることが分かる。やはり交通事故に結びついた例もあるが、何とか無事に脇に寄せて停めたりして事故を回避した人もあるようである。さすがに政子のように全然平気だった人というのは見あたらない。
 
「でもこれどこで起きたものかが分からないよなあ」
と独り言を言う。
 
本人にメッセージ送っても、話を聞かせてくれるかどうか分からないし、嘘や勝手な想像で補ったことを言われてミスリードされるともっと困る。 
心霊関係では、悪意のある嘘つきさんが結構いる(心霊現象を信じておらず馬鹿にしている人に多い)以外に、思い込みが激しすぎて自分が実際に遭った出来事と違う形で話す人もかなり多い。元々心霊的な素質のある人には精神的に不安定で、事実と想像の区別が曖昧な人も多いのである。
 
「やはり実地にあの界隈を夜中走ってみるしかないかな」
 

青葉はその後部屋の中に積まれている段ボールを探索して鍋や包丁などの調理器具の入っている箱を見つけ出した。これで何とか料理が作れる状態になったので、フリードスパイクを出して近所のスーパーやホームセンターなどを回り、食料品や、追加したい調理器具などを買って帰った。車で行ったので、お米、ミネラルウォーター、トイレットペーパー、キッチンペーパー、洗濯用洗剤、自分用に生理用ナプキンなどかさばるものも買う。汚物入れも買ってトイレに置いた。ナプキンもトイレの棚にわざと目立つように置く。
 
こういうのを置くのは、彪志がまさか女の子を連れ込んだりするとは思わないものの、万一の場合の牽制の目的もある。
 
「彪志ちゃーん。悪戯でナプキン1〜2個使ってみてもいいからね〜」
などと彪志の会社の方に向かって言ってみる。
 
それでナプキンはわざと封を切って2個ほど取り出しておく。こうしておけば「1個くらい使ってもバレないだろう」という誘惑が起きやすい。
 
買ってきたお肉などは大半をそのまま冷凍室に放り込む。ただし量の多いパックはいったん開けて、半分ずつ解凍できるように途中に仕切りを作ってから冷凍するようにした。そして彪志の帰りを待ちながらカレーを作り始めた。 

17時半頃、桃香に電話を掛けた。
 
「あ、東京に出てきてたんだ?」
「うん。そちらに顔出してなくてごめん」
「もしかして彪志君ちに泊まってるの?」
「まあね。それでお願いがあるんだけど」
「うん?」
 
「桃姉のミラを借りられないかと思って。たぶん今週いっぱいくらい」
「それは全然かまわないけど、彪志君のフリードスパイクはまだ納品されてないんだっけ?」
「納品はされたけどさ、ちょっと事件の調査で使うんで、壁とか街路樹とかにぶつける可能性があると思って」
「ほほお」
 
「運転中に発生する怪異を調べているんだよ。それで実地に運転してみたいんだけど、その怪異にうまく対処できずに事故起こす可能性もあると思って。新車をぶつけたくないから、桃姉のミラにさせてもらえないかと」
 
「つまりミラならぶつけてもいいのではと?」
 
「うん、実はそうなんだ。万一完璧に壊しちゃったら、代わりの車を買うお金私が出すからさあ」
 
青葉がハッキリ言うので桃香は少し呆れているようである。
 
「まああのミラもこれまで随分ぶつけてるからなあ。青葉が死なない程度なら多少ぶつけてもいいよ」
と桃香は言った。
 
青葉はミラを使わせてもらう間、フリードをそちらの駐車場に置かせてくれといい、それも了承をもらった。
 

8時頃、彪志が帰ってくる。
 
「お帰りなさい、あなた」
と言ってキスで迎える。
 
「なんかいい匂いがする」
と彪志。
 
「御飯にする?お風呂にする?それとも、あ・た・し?」
と青葉は尋ねる(*1).
 
「えっと・・・お風呂のあとで御飯にしようかな」
「あ・た・し、は?」
 
「えっと、寝る前に」
 

(*1)大量に模倣されて出回っているこのフレーズの元ネタは志村けんと研ナオコの夫婦コントと言われる。但し研ナオコは「御飯にする?お風呂にする?それとも寝る?」と言っている。「寝る?」という所はトーンを下げて強調して言っている。 

それで彪志がお風呂に入っている間にカレーを温め直す。あがってきた所でまずは冷えたビールを出す。
 
「お、凄い。キリン一番搾りだ」
「こないだ高知に行った時、キリンラガービールが気に入っていたみたいだったから、それ買ってこようと思ったんだけど、ちょうど品切れしちゃったらしいのよね。それで同じキリンで別のを買ってきたんだけど」
 
「いや。キリンラガービールより一番搾りの方がうまい」
「ほんと?だったら良かった」
「ちなみに一番上手いのはヱビスビール」
「じゃ今度買っておこうかな」
 
「そもそも国産の本物ビールはある程度売れているものの中では、ヱビスビール、プレミアム・モルツ、一番搾りくらいなんだよ」
 
「ビールに本物と偽物がある訳?」
「本来ビールというのは、水と麦芽とホップのみで作るもの。麦芽はカタカナで言えばモルトね。ドイツではビール純粋令という法律があって、そう定義されていたんだよ。後に製造工程の問題で酵母も使っていいことになった」
 
「へー」
 
「ただしドイツがEUに加入する時に非関税障壁だと言われて、現在外国産のビールに関しては、それ以外の材料を加えてもいいことになっている」
「なるほど」
 
「日本のある程度売れているビールの中でそのモルトとホップと水と酵母だけで作られているのが、ヱビスビールとプレミアム・モルツだけだったんだよね。それに最近一番搾りもそういう製法に変更されて本物ビールの仲間入りをした」
 
「じゃ、その3つの中から選ぶといいのね?」
「中でもやはりヱビスビールが最高にうまい。少し高いけど」
「なるほどー!」
 

「でも現実問題としては、ビールは高いから普段は第四のビールでいいよ」
「何それ?」
 
「ビールが高いから、似たような味の安いお酒を作った。これが発泡酒というやつで、ビールが350mlの1缶200円くらいする所を発泡酒なら150円くらい」
 
「へー」
 
「でも更に安いのも作った。これが第三のビールというので、これだと120円くらい」
「わあ」
 
「でもその第三のビールとは全く別の発想でやはり安いのを作った。これが第四のビールでやはり120円くらい」
 
「結構値段違うね」
 
「この値段の差は実は税金の差なんだよ。ビールと発泡酒では税金が50円くらい違う。それが製品の価格差になっている」
 
「そういうことなのか」
「政府は税率を一本化したいと言っている。酒造メーカーは猛反発している。そんなことされたら、誰も発泡酒や第三のビールとか買う人はいなくなる」
 
「だよねー」
 
「せっかく多大なお金を掛けて安く買えるお酒を開発したのに、その努力が無駄になるし、庶民も気軽に飲めるお酒が無くなる」
 
「それはよくないよ」
 
「でも取り敢えず今の段階では、この種のお酒では第三のビールと第四のビールが一番安い。でも第三のビールと第四のビールはほぼ価格が同じだけど、第四のビールの方を美味しく感じる人が多いんで、そちらばかり売れて第三のビールは沈没気味。製造中止する所が相次いでいて、今残っているのはキリンののどごし生くらい」
 
「なるほどー」
 
「缶を見ると、発泡酒は発泡酒と書かれている。第三のビールは《その他の醸造酒》、第四のビールは《リキュール発泡性》と書かれている」
 
「うむむ。私、そもそも区別が付いてなかったかも」
 
「第四のビールは安い輸入ものもあるけど、やはり国産の金麦とかクリアアサヒとかが美味しい。シリーズがあるけど金麦は青い缶、クリアアサヒはプライムリッチが良い」
 
「それメモしとく!」
 
と言って青葉は彪志のお気に入りのブランド名をメモしておいた。
 
「くれぐれも糖質オフとか書いてあるのは買わないように。凄く不味いから」
「了解〜」
 

「でも青葉は飲まないの?」
とビールを数口飲んでから彪志が訊く。
 
「私、未成年だし」
「そう硬いこと言わないで」
「それにこれから運転しないといけないし」
 
「嘘?どこに行くの?」
 
それで青葉が、実際に事件の起きた付近を車で運転してみて、怪異に遭遇しないか試してみたいのだというと
 
「それ危険じゃない?」
と彪志は心配する。
 
「私ならちゃんと対処できるんじゃないかと思うんだよね〜」
「じゃ、フリードスパイクで出かける?」
 
「いや、フリードスパイクだと万一事故った時、新車なのに申し訳無いから、桃姉のミラを借りることにした」
 
「ミラならいいの?」
「ミラはとっくに耐用限度越えてるから。あの車、走行距離がもう30万km越えてるから、壊してもごめんで済むし」
 
「ごめんで済むの〜?」
「済ませる」
 
青葉はひとりで出かけるつもりだったのだが、彪志がひとりでは心配だから付いていくという。
 
それで御飯が終わった後、少し「仮眠」してから一緒に出ることにした。 

それでふたりは10時頃、軽くシャワーを浴びてから、駐車場に行き、まずはフリードスパイクを出した。青葉の運転で世田谷区まで行く(今日は彪志はビールを飲んでいるので運転ができない)。
 
経堂の桃香のアパートまで行き、ミラのスペアキーを借りる。
 
「あ、桃姉、これお土産」
と言って、ゆかり煎餅を渡す。
 
「おお、これ結構好き。でもなんで名古屋なの?」
「昨日インカレ中部大会で名古屋まで行ってきたんだよ」
「相変わらず忙しいなあ」
「じゃ借りるね〜」
「うん。でも気を付けて」
 
それで駐車場までフリードスパイクで行って、預かったキーでミラを出し、代わりにフリードスパイクを駐める。そしてミラに乗って港区まで行った。高速に乗る予定は無いものの、念のためETCカードは刺さっている千里のETCカードを抜いて青葉のを入れておいた。
 
「あ、しまった。フリードスパイクのキーを桃香さんに渡すの忘れた」
と彪志が言う。
 
「平日は車は使わないはずだから大丈夫だよ。それに新車を桃姉に運転させるのは怖い。ごめーんボンネット壊したとか言われかねない。このミラも年に2度は工場に入れてるみたいだし」
 
「うーん・・・」
 

あらかじめ計画していたルートに沿って大通りから裏通りまでかなり走る。 
「この車、小さいから狭い道に入るのにもストレスが無いね」
「まあそれが軽のいい所だよね。田舎に行くと、軽でしか通れないような道もあるし」
「あれ、昔の車幅の規格に合わせて道が作られているんだよ」
「そうみたいね。県道クラスでも5ナンバーなら何とか通れても3ナンバーは無理って所が結構ある」
「道幅だけじゃなくてあまりにも急なカーブで、3ナンバーでは曲がることが不可能な箇所もあるんだよ」
「いわゆる酷道・険道だよね」
 

この日は休憩をはさんで11時半頃から午前2時半頃まで3時間、港区内を走り回ったものの、怪異には遭遇しなかった。なお運転はずっと青葉がしていた。彪志も酔いは醒めているのだが、彪志では何かあった時に、対処できない可能性があるからである。
 
「しかし青葉だと強すぎて向こうも出てこないのかも知れないよ。明日の夜は俺が運転しようか」
「うーん。そういう考え方もあるかもね。だったら触られても一切動じずに脇に寄せて停めて」
 
「頑張る」
 
それでその日は3時半頃さいたま市内のアパートに戻って寝た。彪志には明日会社があるし、助手席で寝ておいてと言って帰り道はずっと眠ってもらっていた。翌朝はわかめの味噌汁と、焼き鮭の朝御飯を作って一緒に食べ、
 
「あなたいってらっしゃい」
などと言って、キスして彪志を会社に送り出した。
 

7月5日(火)。
 
彪志を会社に送り出した後、青葉は瞬法さんを訪ねた。
 
「こないだのは済まん。俺も見事に騙された」
 
と言って瞬法さんは先日の「悪魔の曲」の楽譜とSDカードのお焚き上げが失敗した件を謝っていた。
 
「その後は気を付けてもらっているのですが、復活しないようです。あれは結局姿を保ったまま、封印してしまわないといけなかったんですね」
と青葉。
 
「おそらくあれはこの世界への噴出口なんだよ。金太郎飴の先端だけがこの世界に露出しているようなもの。その先端だけ破壊してもその奥にあるものが押し出されてくるだけ」
 
「おそらくこの世は様々な異世界とあちこちでつながっているんでしょうね」
「まあ、そういうのをお互い結構見てきてるよな」
 

青葉は運転手の足下に出てくる手について瞬法さんに相談してみた。
 
「それは妖怪アジモドだな」
 
「そんな妖怪がいるんですか!?」
 
「若い頃、瞬角が遭遇したことがあると言っていた」
「瞬角さんって運転なさってたんですか?」
「スピード狂だったよ」
「わっ」
 
「あいつの車にだけは乗りたくないとみんな言ってた」
「あはは」
 
瞬角はもう5年ほど前に亡くなっている。しかし瞬角さんの若い頃っていつ頃の話だろうか。戦時中?戦後間もない頃??
 
「でもあいつ勘がいいから取り締まりやってる所は事前に察知して安全運転に切り替えるんだよ。だからSDカードのゴールド持ってたよ」
「なるほどー」
 
「その瞬角が、どこかの高速を200km/h近い速度で走っている時に、いきなり足首をつかまれたと言ってた」
「きゃー」
「心の中で九字を切ってぶつけたら退散したらしい」
 
「ふつうの人にはできない対処ですね。瞬角さんの九字は効きそうだし。でもそれって東京じゃないですよね?」
 
首都高とかで200km/h出したらさすがにつかまるのではと青葉は思ったのだが、青葉はルーレット族とか環状族という言葉を知らない。
 
「どこだろうな。場所までは聞いてない」
 
ということは、今回芝付近で3件出現したのは、単なる偶然にすぎないと考えるべきか。しかし、それでは対処のしようも無いのだろうか。
 
「200km/hというのは別世界らしいぞ。人間の神経が異様に研ぎ澄まされて、前方に車が居ても超反応で避けて走れるらしい」
「レーサーもそういう精神状態でサーキットを走るんでしょうね」
「そうかも知れない」
 
「でもそんな妖怪なら、封じ込んだり、出現しないようにするってのは無理ですかね?」
 
「瞬角はそのあとで古い文献を調べたらしい。それでその怪異は妖怪アジモドとして、室町時代の文献に記されていることが分かったらしい」
 
「そんな古くに!?」
「昔は馬で駆けている最中とかに出現していたんだよ」
「馬ですか!」
 

「でも足下に現れるのならアシモトという気がするんですけど、アジモドと濁るのは?」
「命名した人が東北出身か何かだったのでは」
「うーん・・・」
 
「なんか出現する条件とか、対処法とかも書いてあったらしい。その時は聞いたんだけど、すまん、忘れてしまった」
 
「どういう文献かは分かりませんよね?」
「分からん。あそこの寺の文献を全部読めば、どこかには書いてあるんだろうけど」
「それ、一生掛けても無理な気がします」
 
瞬角さんが住職をしていた寺は平安時代に創建されたもので、そこの書庫には1000年にわたって蓄積された膨大な文献が所蔵されている。その書庫自体が広いお屋敷程度のサイズある。
 
「ちょっと瞬行にも聞いてみよう」
 
と言って瞬法さんは、瞬角の弟子でそのお寺の住職を継いだ瞬行さんに電話してくれた。
 
しかし瞬行さんとか瞬環さんとか、長谷川一門も瞬嶽の孫弟子の世代になっていくのかなあと青葉は考えた。
 
「ああ、その話、私も聞いたことあります」
と瞬行さんは言った。
 
「出現条件とか、対処法とか覚えてない?」
「うーん・・・・どうだったかなあ・・・」
と彼も不確かなようである。
 
「何か記録を取ってないか調べてみます」
と言って、いったん電話を切って調べてくれた。
 

瞬行さんからの返事は1時間後にあった。
 
「10年ほど前のノートに記録していたのを見つけました。対処法までは書いてないんですけどね。眠くなったりして意識が朦朧となりかけた時に出現すると書いてあります」
 
「なるほど!」
 
「ですから、いちばんの対策は居眠り運転をしないことですよ。そんなことを言われたのを思い出しました」
 
「ありがとう」
 
確かに青葉が関わった3件は全て、そういう眠ってしまいかねない状況であった。 
「それと師匠が言ってたのを思い出したのですが」
「うん」
「自分は九字で退散させたけど、それは一時しのぎにしかならない。きちんと対処すればその付近ではその後12年くらい出なくなるんだそうです」
 
「ほほお!」
 
「でもその対処法が何だったか覚えてないんですよ。なんか単純なことだった気がするんですけどね」
 
「単純なことか・・・・」
 
もし思い出したら連絡してと言って瞬法さんは瞬行さんとの電話を終えた。 

瞬法さんは、一方で、長谷川一門の主だった人に電話を掛けて妖怪アジモドのことを知らないか尋ねてくれた。先日のお焚き上げ失敗の件のお詫びというのもあって尽力してくれた感じでもある。
 
すると瞬大さんも聞いたことがあると言った。
 
「あれはね。瞬角が自分が遭遇したあと独自にかなり調べたみたいでさ。あいつの調査記録があると思うけど」
 
「それ記録があったとしても、あいつのノート自体が膨大だし、あいつの字は誰も読めんし」
 
瞬角さんは元々が悪筆な上に独自の崩し文字を多用していた。例えば「題」という文字は「大」の字の右はらいを長く伸ばし、その上に縦棒を書いている。シンニョウは単にLみたいな形、サンズイは細い乙みたいな形。中国の簡体字を使用したりもしているが、正確な「仕様」は誰も習ってないらしく、あのノートを読むには暗号解読の技術が必要かも知れないといつか瞬醒さんが言っていた。 
「俺が覚えているのでは、その付近で大きな事故が起きると、起動するらしいんだよ」
「へー!」
 
「その事故には傾向があって。大きな事故なのに死者が出なかったケースだというんだ」
「ほほぉ」
「事故が起きて死者が出るかと思ったのに出なかったんで、あちらの御方が不満に感じて事故を起こすんだな」
 
「じゃ死者を欲しがっている訳?」
「瞬角も最初はそう思ったらしい。しかしどうも小鬼の類が悪戯しているだけのようだと。だから瞬角が調べた範囲ではそのあと死亡事故が起きないまま納まっているケースのほうが多いようだと」
 
「なるほど。でもその納め方があるんだな?」
 
「それなんだけど、瞬角のやつ笑ってたよ」
「笑う?」
 
「あまりにもアホらしくてお話にならないと言ってたけど、アホらしいというので、俺は内容を聞きそびれた」
 

青葉は帰宅してから東京都区内の最近の交通事故のニュースを検索してみた。死者が出ていなくても大規模な事故ならきっと報道されているはずだ。 
「これか・・・・」
 
青葉が見つけたのは2月に起きた事故で、芝の**寺の裏手付近で、車が8台も絡む追突事故が起きている。しかし幸いにも軽傷者が1人出ただけで、死者は出ていないのである。
 
「政子さんの車を停めた鹿鹿鹿ラーメンって、まさに**寺の裏手じゃん」
と青葉は独り言をいう。
 
左藤さんの事故が3月、政子とのドライブが5月、芳野さんの事故が6月。芝の「死者の出ない」多重衝突事故の後で、その付近で怪異が発生しているんだ。だから自分がしなければならないのは、敢えて寝不足状態になってその妖怪アジモドに逢い、正しい対処をして封印することである。
 

その日の夜、青葉は今夜は1人で行ってきたいと彪志に言った。
 
「これって、眠り掛けた時に出現するらしいんだよ。だから今日は私、昼間仮眠を取らなかった。その状態で運転するから、マジで事故起こす可能性もあると思う。それに彪志を巻き込みたくないから、今日は留守番しててくれる?」
 
しかし彪志は言った。
 
「そういうことなら、よけい俺がついていく。青葉が運転を誤りそうだったら横から俺がハンドル操作だけでもする。俺と青葉は『死なばもろとも』だぞ」
 
「分かった。だったら危ないと思ったらお願い」
 

それでその日はまず彪志がミラの運転席に座って都心まで行くが、青葉は眠たいのをひたすら我慢して仮眠を取らないようにした。クールミントガムを噛んだりスタバのタンブラーに入れてきたブラックコーヒーを飲んだりして、ぎりぎり覚醒状態を保つ。そのあと青葉が運転席に座り、昨日と同じ港区内絨毯爆撃コースを回った。
 
しかし2時間ほど走ったものの怪異は出ない。その内青葉が何度か瞬眠を起こしたので
 
「青葉、これはもう危険だ。妖怪に逢わなくても事故る」
と彪志が言い、引き上げることにした。
 
帰りも彪志が運転したが、青葉は助手席ですやすやと眠っていた。
 

7月6日(水)。
 
彪志を送り出した後、少し仮眠していたら政子から電話がある。こんな時刻に政子が電話してくるなんて、天変地異の前触れではなどと思ったりしたものの取り敢えず取ってみる。
 
「おはようございます、政子さん」
「おっはよー。青葉。アクアを女の子に改造する件なんだけど」
と言って、いきなり《秘密の計画》を話し始める。
 
「それ誰も協力しないと思います。それ犯罪だもん」
「そっかー。残念」
 
と言ってから思い出したように。
 
「そうだ。用事忘れていた。例の足下(あしもと)くちゅくちゅのことなんだけど」
 
政子さんは《足下くちゅくちゅ》と命名したのか!
 
可愛いじゃん。
 
「昨夜、山村星歌ちゃんと電話で話していたらさ、星歌ちゃんも、くちゅくちゅに逢ったことあるんだって」
 
「ほんとですか!?」
 
「以前、マキちゃんと深夜ドライブデートしてた時に遭遇したんだって」
 
山村星歌の夫は本騨真樹で真樹は「まさき」と読むのだが、最近何度もバラエティ番組で女装させられて「まきちゃん」と呼ばれたりしている。
 
「場所は分かりますか?」
「うん。アキタのオジカ半島の県道を走っていた時に逢ったらしいよ」
 
「ちょっと待って下さい、秋田なら男鹿(おが)半島ですし、牡鹿(おじか)半島なら宮城ですけど」
 
「あれ?なんか似た名前があるんだ?」
 
青葉はこういうのを政子に質問しても無駄だったなと後悔した。
 
「ネブタか何か見に行ったと言ってたよ」
「ねぶたは青森ですけど?]
 
「あれ〜?昨夜聞いたばかりなのに分からなくなった。詳しいことは星歌ちゃんに直接訊いてみて。電話番号教えるね」
 
「はい」
 

それで青葉は政子から電話番号を聞き、電話してみた。
 
「はい」
とだけ女性の声で返答がある。
 
「おはようございます。私、作曲家の大宮万葉と申します」
「ああ、川上青葉さんですね。マリちゃんから話は聞いてますよ」
 
「ありがとうございます」
「凄腕の霊能者さんなんだそうですね」
「そこまで凄ければいいのですが。それで運転中に足下に手が出てくるお化けに遭遇したことがあるとお聞きしたのですが」
 
「うん。その話でマリちゃんと結構盛り上がって。マリちゃん、そのお化けと腕相撲して勝ったんだって?」
 
なんか話が変化してるぞ〜!?と思う。あの時、現場では握手したと言っていたのに。
 
「それでちょっと今東京都内で何度か似た現象が起きているので重大事故とかになる前に何とか封じたいと思っていまして。少しその時のことをお聞かせいただければと思いまして」
 
「うん。あれは2年前の冬なんだけど、私が秋田でライブあって、Wooden Fourは盛岡であって、向こうのライブが終わった後、新幹線で秋田に来てくれて、それでうちのマネージャーさんがあらかじめ借りておいてくれたレンタカーで深夜デートしたのよ」
 
「なるほど」
 
やはり秋田の男鹿半島のほうであったか。秋田市内から男鹿半島まではたぶん1時間半くらいである。深夜のデートには悪くない距離だ。
 
あれ!?
 
「2年前ですか?」
「うん」
「じゃ免許取ってすぐくらいですかね?」
 
山村星歌は公称では1996年5月1日生れである。2年前の冬というのを青葉は2014年の1-2月頃と解釈したのだが、それならまだ17歳のはずだ。だったら2014年の11-12月頃だったのだろうかと考えた。
 
「ああ。私は免許は持ってないのよ。だから運転したのは真樹で」
「ああ、なるほど」
 
「彼、車が好きで、自分でもベンツのSLS AMGに乗っているのよね」
「凄いですね」
 
と言いつつ、青葉は実はよく分かっていない。しかし何だか高そうな車だなと思った(SLS AMGは新車で2500万円以上する)。
 
「でしたらお化けに出会ったのは?」
「出会ったのは私、運転してたのは真樹」
 
あれって運転している人でなくても出るのか!?
 
「実際、あとで言ったんですよ。運転している真樹の方に出なくて良かったって。運転中にいきなり足首掴まれたら、運転ミスるよって。特に雪道は怖いもん」
 
「危ないですよね。でも事故が起きなくて良かったです。どういう状況だったんですか?」
 
「あれは男鹿半島の先の何と言ったかな。なまはげ発祥の地とか言ってたんだけど。大っきな、なまはげの像があって」
 
「門前でしょうか?」
「あ、そんな感じ。そこのなまはげ像の所で記念写真撮って。夜中だから写るかなあとか私は言ったんだけど、彼、写真もうまいみたいで『任せて任せて』と言って、なんかキャノンの大きなカメラ使って、三脚立てて、私だけの写真とセルフタイマーでふたり並んだ写真を撮ったのよね。フラッシュも使わなかったのに、すごくきれいに撮れてた」
 
「それ、かなりの腕ですね」
 
フラッシュを使わない選択ができるのが腕のいい所だと青葉は思った。桃香姉も似たようなシチュエーションで富士フイルムのコンデジを使ってノーフラッシュできれいな写真を撮ってみせたことがある。千里姉なら・・・・・と考えてから「ああ、ちー姉はそもそも問題外だった」と思い直す。
 
「それで自販機でコーヒーとか買って一緒に飲んでから帰ることにして、もう市街地まであと少しと思った時だったのよね。なんか足がかゆいような気がして。でも足を掻くのは厳禁だから、ちょっと叩こうかなと思って下に足を伸ばした時に、誰か人の手とぶつかっちゃって」
 
「星歌さんは右利きですか?」
「うん。だから伸ばしたのも右手」
「その時、相手の手はどんな形でした。手を開いてましたか?握ってましたか?」
 
「うーっんと・・・・」
と言って星歌は少し考えていたが言った。
 
「手は開いていたよ。その手が私のかゆい所を2〜3度叩いてくれたんだ。あ、助かる〜と思った記憶があって」
「ありがとうございます! それでそのあとどうなさいました?」
 
「もう私びっくりしちゃって。きゃーって悲鳴あげたから、真樹もびっくりして、車をすぐ脇に停めてくれて、どうしたの?と言って」
 
「それで怪異は消えましたか?」
「うん。気付いた時は何も無かった。真樹は寝ぼけたんじゃないかと言って。それで少し休もうよということにして、そこからちょっと走った所にあったコンビニでおやつとか買ってから30分くらい仮眠したんですよ」
 
やはり突然出現した手と握手できるのは政子さんくらいだなと青葉は思った。 
「もし分かったら教えて頂きたいのですが、その怪異が起きた日はわかりますか?」
 
「待ってね」
と言って星歌は確認してくれているようだ。
 
「2014年2月2日日曜日の夜だよ」
 
「ありがとうございます!」
 

しかしこれで手の形は2種類あることが分かった。
 
左藤さんと芳野さんは手は握られていたと言った。政子さんと星歌ちゃんは手は開いていたと言った。
 
男女で違うんだったりして!?
 
しかし星歌のおかげで、怪異は別に運転している人でなくても起きることが分かったので、今夜は彪志に運転してもらって自分は助手席でまどろむような状態にすればいいなと青葉は考えた。
 

この日、7月6日、千里たちは昨日行われたセネガル代表との壮行試合で、疲れがたまっている選手が目立っていたことから、午後の練習は休みということになった。亜津子や妙子キャプテン、留実子や絵津子など何人かは温泉に行ってくると言っていた。
 
「プリン(高梁王子)も行かない?」
とキャプテンが誘う。
 
「私、温泉に行くと高確率で悲鳴あげられるから」
「だいじょうぶ。私たちが弁明してあげるよ」
「うん。この人、男だったけど、手術して女になったからこちらに入れさせてくださいと言ってあげるから」
 
「それ信じられてしまいそうです」
 

残った千里や玲央美、彰恵や江美子などは自主的に練習をしていたものの、15時半頃、高田コーチが
 
「練習熱心なのはいいが、休む時は休んだ方がいい」
と言ったので、今日はそこで練習を打ち切ることにした。
 
それで練習を終えて部屋に戻った時に毛利さんから電話が掛かってくる。 
「すごーい。一発でつながった」
「どうかしました?」
「実は山森水絵の件でまた問題が起きて」
「あれ、プレスに回したんですよね?」
「今日のお昼すぎに回す予定だったんだけど」
「今度は何ですか?」
 
「1曲追加して欲しいという話で」
「はぁ!?」
 
「山森水絵の歌を偶然聴いたという大山書店の大山武雄社長さんから接触があってね。今制作準備中のアクア主演の映画のテーマ曲を歌ってくれないかと」
 
へー!アクアで映画を撮るのか!と千里は驚いた。
 
「えっと・・・・それならその映画のテーマ曲は別途シングルにするんですよね?」
「それが事務所の方針としては、山森水絵はシングルは出さない主義。アルバムしかリリースしない」
 
「どうするんです?」
「∞∞プロの鈴木社長と大山社長とで直接会談して、その曲をこのデビューアルバムに入れることにした。それ以外に映画のサントラにも別テイクで入れる」
 
「えっと・・・曲は?」
「それを今から作ろうと」
「あのぉ、プレスは?」
「明日の夕方20時までに工場に運び込む。それ以前に封入する小冊子は今夜から印刷を始める。発売日は動かせないから、もうこれがホントに最後のギリギリのスケジュールなんだよ」
 
「どうするんです!?」
「だから、今から醍醐君に曲を作って欲しい」
「何月何日までに?」
と千里はわざと尋ねる。しかしスルーされる。
 
「今夜から伴奏部分の録音を始める。そして山森水絵本人は明日の朝スタジオに呼んで、それから歌唱練習させて、夕方までに録音完了。だから、今日の20時か最悪21時くらいまでに曲を書き上げて欲しい。編曲はもうやむを得ないから、僕が伴奏者の人たちと一緒に演奏しながら練り上げる」
 
確かにこの時間ではDAW上で編曲のスコアを作っている余裕は無い。
 

千里は取り敢えず作詞担当の蓮菜に連絡を取った。すると蓮菜は今日は18時で上がるので、18時半くらいからなら作業ができるということであった。 
ということは・・・この曲は曲を先に書いておいて、後から歌詞を乗せてもらうしかない。千里は再度毛利さんに連絡を取った。
 
「作詞担当の葵照子が19時くらいまで時間が取れないんです。曲先で書きますけど、どういう映画なんですか?」
 
「時をかける少女がベースなんだよね」
「アクアが時をかける少女役ですか?」
 
「そういう訳にもいかないから、男の子に改変して芳山和子ではなく芳山和夫で」
「本人の身体を改変すればいいのに」
 
「まあそういう意見も多いけどね。題名は『時のどこかで』という名前で」
 
「それ、クリストファー・リーヴとジェーン・シーモアの『ある日どこかで(Somewhere in Time *1)』と混じってません?」
 

(*1)クリストファー・リーヴといえば『スーパーマン』(1978)がハマリ役、ジェーン・シーモアは『死ぬのは奴らだ』(1973)のボンドガール(美人占い師)としても有名でその2大スターを起用した映画。クリストファー・リーヴが時を遡ってジェーン・シーモアと出会い、恋をするものの、元の時間に戻ってしまってふたりは引き裂かれてしまう。ふたりをつなぐ小道具である懐中時計はいわゆる『タイムループ』になっていて出所不明。
 
1980年の映画で、タイムトラベルの方法は『時をかける少女』(1967)と似ているが薬品の類は使用しない。また1度しか飛ぶことはできなかった。 

「俺も思った。実は別の放送局でも『時をかける少女』のドラマが企画中だったらしくて、そちらとタイトルの競合を避ける意味もあるそうだ」
 
「でも内容的には競作になっちゃいますね」
「うん。そうなる。それでアクアの方の企画は最初10月から月曜夕方17時から30分の枠で連続ドラマとして制作する予定だったんだよ」
 
「ああ、昨年の『狙われた学園』の枠なんですね」
「そうそう。ところがドラマ色の強かった昨年の『狙われた学園』に比べて『時をかける少女』ってあまり事件らしい事件が起きないじゃん」
 
「そうでしたっけ?」
「原作の後半3分の1はケンソゴルの独白なんだよ」
「シュールな構成ですね」
 
「それで原作だけではとても半年2クールもたせられないということになって。結局、原作部分は映画でやって、連続ドラマは完全オリジナル脚本で制作することになった。アクアの芳山和夫が、毎回どこかの時間にタイムトラベルしてそこで様々な事件に巻き込まれる」
 
「タイムパラドックスの解消が大変そう」
「メインライターが花崎弥生さんだから大丈夫と思う」
「『僕は北条政子』のライターさんですか!」
 
「そうそう。あれもタイムトラベルもの」
 
『僕は北条政子』は10年ほど前の映画だが、中学生の男の子がタイムスリップして少年時代の源頼朝に会い、その奥さんになってしまうという物語である。主人公はしばしば現代に戻って歴史書で確認しながら、巧みに歴史を生き抜き鎌倉幕府を作り上げる。
 
「僕男ですー」
「俺は細かいことは気にしない」
 
というセリフは当時随分ネットなどで模倣された。
 
なお、主演は谷崎潤子で当時は現役女子中学生だった。最初だけ学生服姿だがタイムスリップ後はずっと当時の女性の服装になっている。しかし女性の服装をしていても立ち小便するシーン、更に頼朝と連れションして「見比べる」場面まであり、当時の潤子ファンが悲鳴をあげた。興行成績は悪かったものの話題性から毎年のようにテレビのロードショーで放映されており、若い世代にも知名度が高い。結果的には花崎弥生の出世作になった。花崎はその後、異世界を舞台にしたアニメや特撮系の脚本を多く書いている。
 
「確かに広い意味でタイムスリップものですね」
「10年前にアクアがいたらぜひ北条政子役をさせたかったと花崎さんは言ってた」
「あはは。でもアクアは立っておしっこしないと思いますよ。それで映画の公開はいつです?」
 
「8月12日金曜日公開」
「撮影はいつするんです?」
 
「本来は『ときめき病院物語II』の撮影が7月いっぱいでクランクアップして8月からドラマの『時のどこかで』を撮影する予定だった。しかし映画を作るなら、意地でも夏休み中に公開したい。実はこの映画の件は今週の金曜日に発表される」
 
「かなり厳しいスケジュールの進行ですね」
「だから『ときめき病院物語II』の撮影は7月7日でいったん中断する」
「無茶な!」
「本当はそれまでに完了させられないかと打診したけど脚本が間に合わないと言われたらしい」
「そりゃ無理ですよ。テレビの脚本がどれだけきついスケジュールで書かれていると思っているんです?」
 
「だから『ときめき病院物語II』は最後の1ヶ月分を8月になってから撮影することになった。元々役者さんたちは8月いっぱいまで拘束する契約だったんだよ」
 
「なるほど。でも端役の人たちはパニックだと思う」
 
脇役の人たちの多くはギャラが安いのであちこち仕事を掛け持ちしている。どれかの撮影スケジュールが変わると、調整が大変になる。
 
「まあね。それで『時のどこかで』は7月9日土曜日にクランクイン。7月中に撮影を終えるけど、実際には中高生の役者さんたちが夏休みに入る7月21日以降が勝負だと思う」
 
「かなり厳しいですね!」
「それでテーマ曲も金曜日からCMでPVと一緒に流さないといけない」
「ほんっとに無茶な進行だ」
 
「まあ色々な思惑で色々な人たちが動いてるからさ、俺たちしがない作曲屋はせいぜい歯車になって頑張って回転してやろうよ」
と毛利さんは言う。
 
「分かりました。でも『時をかける少女』って実際問題としてどんなお話でしたっけ?」
と千里は訊く。
 
「原作を読んでもらうのがいちばんいいんだけど、その時間もないから、だいたいのこと説明するね」
と言って毛利さんは原作のあらすじを説明してくれた。
 

「ラベンダーが絡んでいるのは覚えてました」
「ドラマの方のテーマ曲は主題歌を平原夢夏さんが書いて高崎ひろかが歌い、エンディングテーマはマリ&ケイが書いて、アクアが歌う」
「なるほど」
「それで映画は主題歌を鴨乃清見が書いて山森水絵が歌い、エンディングテーマはまだ未定だけど、近いうちに決める予定」
 
「まあ近い内に決めないと、どうにもなりませんね」
「一応そちらもアクアに歌わせようという話になっている」
 
「じゃアクアの方はCDを2枚連続でリリースすることになります?」
「たぶんそうなると思う」
 
 
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