【春拳】(3)

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6月16日(木)。千里たちは朝食後すぐに早朝から成田に移動し、チェコに旅立った。
 
NRT 6/16 11:25 - 16:30 (12:05 dif-7h) FRA 22:15 - 23:15 (dif 0) PRG
 
取り敢えずこの日は寝た。
 
翌17日から実質的な合宿が始まる。今回練習相手になってくれたのは地元プラハのプロチームである。チェコはFIBAランキング5位(日本は16位)なのだが、今回のオリンピックにつながる昨年のユーロバスケットでは二次リーグで脱落して世界最終予選の切符も掴めないという「番狂わせ」な結果であった。
 
しかし実力は充分だし、今回練習相手になってくれたチームにも、そのチェコ代表に入っているメンバーがいる。
 
千里は戦っていて、本当に世界のレベルをひしひしと感じて興奮していた。千里と交代でコートに出る亜津子なども相手選手に強烈なチャージをされたりしても、気合いが入りまくりで目が輝いている。
 
やはり自分たちは強い敵に当たるほど燃えるんだなというのを感じていた。
 
初日の夕方には、帝国電子プラハ支店の人たちが宿舎を訪れて激励してくれた。帝国電子は花園亜津子が所属するエレクトロウィッカの親会社である。向こうの支店長さんが、アツコはうちの支店のアイドルですなどと言って亜津子が照れていた。
 

この17日にはフランス・ナントで行われていた女子の世界最終予選、準々決勝の4試合が行われ、スペイン、トルコ、中国、フランスが勝ってオリンピック切符を手にした。負けた4国は18-19日にトーナメントを行い、19日の5位決定戦でベラルーシが韓国を破って、リオ行き最後の切符を掴んだ。
 
そしてこれでオリンピックの予選リーグの対戦相手が確定した。日本と同じグループに入るのはベラルーシ、ブラジル、トルコ、オーストラリア、フランスである。6ヶ国中4位以上に入ることが決勝トーナメント進出の条件である。
 

「結局最初だけだったね」
と千里は19日のお昼に中国遠征中の貴司と電話で話した。
 
中国とチェコの時差は6時間なので、チェコが12時なら中国は18時である。この日中国では14時(チェコ時間8時)からAtlas Challengeの最終戦が行われた。
 
「面目ない。初戦の中国戦で逆転勝ちした時は、これは行けるかなと思ったんだけどねー」
と貴司は残念そうに語る。
 
男子のAtlas Challengeは予選リーグで日本は中国には勝ったものの、ニュージーランドとベラルーシに敗れて、3チームが1勝2敗で並ぶ事態に。しかし得失点差で4位になり、5−8位決定戦に回ることになった。ここでアメリカのアイダホ大学に敗戦、更にベラルーシに2度目の敗戦をくらって結局最下位で終了した。
 
結果的には2戦目以降全敗である。
 
「なんか世界最終予選が不安だなあ。チームのムードはどう?」
「良くない。ショック療法が必要って感じ」
「ショックね〜。全員性転換するとかは?」
「んな馬鹿な!」
 
「でもそのくらい気持ちを切り替えないとやばいよ」
「うん。僕も頑張る」
 

22-24日はプラハ市内のクラロフカ体育館で「プラハ・オープン」という大会が開かれた。参加しているのはチェコ代表、スロバキア代表、日本代表、そしてカナダ代表である。
 
この大会日本は初戦でカナダ、2日目はチェコ代表、3日目はスロバキア代表に3連勝して優勝を飾った。
 
チェコは元々は隣国のスロバキアと一緒に「チェコ・スロバキア」を形成していたので、チェコ戦でもスロバキア戦でも応援が凄まじかった。
 
「こういうのを四面楚歌って言うんですかね?」
と絵津子が言うが
 
「それは物凄い誤解に基づいている」
と、この試合マネージャーとしてベンチに座ってスコアを付けていた彰恵が言う。
 
「四面漢歌なら、今日の状況だよね」
と玲央美。
 
「うん。四面漢歌という感じでチェコの応援の声が凄かったね」
 

四面楚歌というのは、項羽率いる楚軍と劉邦率いる漢軍との最終決戦前夜、楚軍の周囲の敵軍(漢軍)の中から、たくさん楚の民謡が聞こえてきたことを表す。
 
つまり、本来味方であったはずの楚の人がたくさん敵の漢軍に参加しているということで、項羽の基盤が失われていることを表す。
 
この言葉は楚が本来は味方であるということが忘れられて、敵に囲まれ絶体絶命という状況を表すのに誤用されることが多い。
 
実際には四面楚歌というのは、周囲でたくさん漢の歌が歌われていたのよりも、更に厳しい状況なのである。今日の試合で言えば、観客席にたくさん日本人が座っているのに全員がチェコの応援をしていたら、四面楚歌である。
 

23日の日本時刻15:00(チェコ時刻8:00)、男子の世界最終予選に臨む12人のロースターが発表された。女子も22人から12人に絞られたのだが、男子も29人から12人に絞られている。生存確率41%である。
 
千里は心配していなかったのだが、貴司は選ばれていた。貴司は実績から行くと29人の代表候補の中で29番目くらい(そもそも他の28人はプロ選手か大学生)なのだが、これまでの試合には毎回ベンチに座っており(座っているだけでコートインは必ずしもしていない)、監督に気に入られているなと思っていた。実際、貴司は出番は少ないものの試合の重要な転換点に絡むことが多く、《ラッキーボーイ》的存在になっていたのである。
 
記者会見のあとは公開練習などもあり、貴司が解放されたのは19時(チェコ時刻12時)頃である。
 
千里はちょうどこちらもお昼休みだったので貴司に電話した。
 
「ロースター入りおめでとう」
「ありがとう。今回は残る自信無かったから、聞いた時は、やったぁ!と思ったよ」
「一緒にリオに行こうよ」
「うん。頑張る」
「貴司、結構ラッキーボーイ的な存在になってるもんね」
「それは少し自覚してる。でもラッキーボーイは卒業しないといけないとも思っているんだけどね」
「ラッキーボーイを卒業してラッキーガールになるの?」
 
「なんでそうなるの!?ちゃんとした戦力にならないといけないということだよ」
 

最終日のスロバキア戦では、相手の実力を鑑みて、《想定スターター》の武藤・花園・広川・高梁・森下の5人はコートには出ず、残りの7人で戦った。もっとも高梁王子は「出たいです、出たいです」とうるさかったので結局第4ピリオドだけ出してもらった。
 
「雪子だいぶ体力ついたね」
と千里はこの日1人ポイントガードの状態で頑張った雪子に声を掛けた。
 
「やはり去年の秋から1日中バスケしてられるようになったのが大きいです。ジョギングも毎日10km走っていますし」
「偉い、偉い」
 
実際にはさすがに雪子が40分出続けるのは辛いので、千里・玲央美・江美子が交代で司令塔を務めた。今回の代表チームではポイントガードが2人しか選ばれていないので実戦でもこのようなケースはあると考え、そのシミュレーションでもあったようである。
 

この試合のハーフタイムに、千里がひとりトイレに行き、控え室に戻ろうとしていた所に唐突に、西川まどかが出現した。
 
「えーっと、あまり人間らしくない現れ方すると、その内騒ぎになりますよ」
と千里は言う。
 
「まあ、よいではないか。それでだな。2月に助けてやったケイとかいう歌手だが」
「はい」
 
「うちの村に興味を持ったようで、こちらに来ると言っているのだよ」
「へー。まあいい所ですからね」
 
「それでだ。どうせ来るなら、桃を食べたいから持ってくるように伝えておいてくれないか?」
 
「ほんとに桃がお好きなんですね!」
 
「大阪から来るなら秋鹿の山廃純米酒も欲しいが、重いだろうから桃だけで良い」
「分かりました。では伝えておきます」
 
すると、まどかは消えてしまった。
 

「ね、今、千里誰かと話してなかった?」
と後ろから来た百合絵が言う。
 
「ああ、桃好きのおばちゃんが」
と千里が言うと、体温計がどこからか飛んできて千里の頭に当たる。
 
「いったぁ。もう。訂正。桃好きのお姉さんからお土産持って来てと伝言頼まれた」
 
「それ誰?」
「えっとね・・・」
と言って千里は考える。
 
「男子リーグの大阪ナニワスターズ所属の西川環貴選手のお母さんかな」
 
と自分で言ってから内心「へ〜!」と思う。そういえばあの人、百日祭の時に自分は男の娘だけど子供を産んで、その子はバスケット選手をしているなんて言っていたなというのを思い出す。まあ神様にもなれば性別なんて割とどうでもいいのだろう。
 
「何歳?」
「女の年齢を話題にするなって、言ってる」
 
「うーん・・・・」
と言って百合絵は腕を組んだ。
 
ハーフタイムはすぐ過ぎてしまうので、千里が冬子に桃を持っていってあげてと連絡したのは、試合終了後であった。
 

千里たちはプラハ・オープンの後もプラハでの合宿を27日まで続け、28日にまたフランクフルト経由で帰国した。
 
PRG 6/28 6:00 - 7:10 FRA 13:40 - 6/29 8:15 (11:35 dif+7h) NRT
 
到着した29日はオフとなったが、千里を含む有志はそのままNTCに泊まり込んで7月1日まで3日間、練習を続けた。これに参加したのはこの10名である。
 
PG/雪子 SG/亜津子・千里 SF/玲央美・絵津子・彰恵 PF/江美子・百合絵 C/誠美・留実子
 
施設利用料は高田アシスタントコーチが上の方と話を付けて協会から出るようにしてくれた。
 
紅白戦もしたが、ポイントガードが1人しかいないので、彰恵がBチームのポイントガードを務めた。この練習には高田さんも現場に立ち会い、特に甘いプレイが目立つ絵津子・百合絵といった所にかなり厳しいことばも飛んでいた。
 

6月30日の自主練習が終わってから、百合絵が高田ACに相談したいことがあると言った。百合絵は内密の相談なので、高田コーチの個室で会いたいと言ったものの男性のコーチと女子選手が密室で会うのは大いに問題がある。それで看護師としてチームに帯同している四方さんに同席してもらうことにした。彼女は職業がら守秘義務に厳しい。
 
四方さんは「私は彫像か何かだと思ってお話しして。私は一切話には口をはさまないし、聞いた内容は全部忘れるから」と言った。
 
それで百合絵は言った。
「単刀直入に言います。代表には私より前田彰恵の方がふさわしいと思います」
 
「なぜそう思う?」
と高田コーチが尋ねる。
 
「第1に根本的な技量で、私は彼女に全く勝てません。バスケのセンスに差がありますし、フットワークがいいし、瞬間的なひらめきなども彼女は本当に天才的なんです。もしかしたら私の方が体格がいいから、外国人とのシビアな戦いの続くオリンピックに私が選ばれたのかも知れませんが、彼女は身体は小さくても、大きな選手とのぶつかり合いで負けない頑丈さを持っています」
 
高田は黙って聞いている。
 
「第2にポジションのバランスの問題があったかも知れませんが、スモールフォワードとして登録されている、佐藤玲央美、広川妙子主将はどちらもセンターができるほどの体格を持っています。ここでパワーフォワードを2人に減らしても、役割的な流用は可能だと思います」
 
「第3に今回ポイントガードが2人しか登録されていませんが、武藤さんも森田にしても、そんなに大きなガードではありません。本戦中に大型外人選手との衝突などで怪我する事態もあると思うんです。そんな時、前田なら司令塔の代行も務められます。彼女は頭の回転が速いし、現場の状況分析が物凄くうまいんです。彼女をロースターに登録しておくことは、非常時に心強いと思います」
 
高田コーチはじっと百合絵の言葉を聞いていた。
 
そして言った。
 
「選手枠の選考は僕と山野さん、坂口さん、そして川渕会長まで入れて4人で決めた。これがくつがえされることはない。以上」
 
「でも・・・」
と言って百合絵が言いかけるのを高田さんは遮る。
 
「まあ僕も君と前田君の友情は分かっているつもりだ」
 
百合絵と彰恵は岐阜F女子校の同輩である。彰恵が主将で百合絵が副主将でふたりは高校時代、チームメイトとして、そしてお互いライバルとして切磋琢磨してきている。
 
「そして長年のライバルでもあるよね。だからお互いに相手のことを知り尽くしている。それで大野君としては、自分は前田君にはかなわないという気持ちを高校の時からずっと持っていたのではないかと思う」
 
「それはあるかも・・・」
 
「だけど、僕たちの結論としては今回、前田君ではなく大野君を選んだ。まあ、実際は前田君は広川主将との比較、大野君は平田君との比較だったんだけどね。どちらも僅差の判断だったんだよ。ここだけの話」
 
百合絵は意外だという顔をする。まさか広川主将がボーダーラインだったとは思ってもいなかったのだろう。
 
「しかし君は選ばれた。だから選ばれた以上は、前田君を越えなさい。そうすることが、君が前田君との友情を裏切らないことだと、僕は思うよ」
 
と高田コーチは言った。
 
百合絵はしばらく考えていた。
 
そして言った。
 
「分かりました。必死でやって彰恵を超えます」
「うん」
 
百合絵はこの夜、江美子を誘って夜遅くまで練習を続けた。それを高田コーチはコート脇で暖かく見守っていた。
 

そして7月2日からは第五次合宿が始まる。1日の夕方やってきた広川主将が
 
「嘘!? あんたたち、ずっと泊まり込んで練習してたの?」
と驚いていた。
 
「なんで私も誘わないのよ〜?」
「すみませーん」
 
「いや、プラハからの帰り、丸一日飛行機の中にいて身体を動かしてなかったら、なんか変な気分だったんですよね」
 
「そうそう。それで少し練習していいですか?と聞いたら、いいよという話だったから練習してたら、なんかみんな集まってきたし」
 

7月1日(金)。
 
この日青葉はいつものようにアクアで美由紀たちを伏木駅まで送った後、明日香と運転交代して明日香に富山市まで送ってもらった。富山駅近くのホテルでステラジオの2人と会い、青葉はホシのヒーリングをした。
 
「でもヒーリングの時はいつも裸だから毎回、川上さんにおちんちん見られてるなあ」
などとホシが言う。
 
「おちんちん要らないなら取ってあげましょうか?」
「そんなの取れるの?」
「友達の男の娘のおちんちん切ってあげたことありますよ」
「マジ!?」
「じゃ、さっちんおちんちん取って女の子にしてもらいなよ」
とナミが言っていた。
 
青葉はここの所だいたい週1回のペースでホシのヒーリングをしている。6月は水泳の大会が土日に入っていたので、金曜日にヒーリングのスケジュールを入れることが多かった。ホシもヒーリングする度に元気になり、音楽活動に対する意欲を回復させてきている感じではあったものの、この時点ではまだ作品が書けないと言っていた。
 

夜中までヒーリングした後、この日は青葉も富山市内に泊まる。そして翌7月2日、朝1番の新幹線で東京に出た。
 
今回の東京行きは、運転中に足首付近に手が出現するという怪異(?)調査のためである。取り敢えず一週間くらい滞在の予定で、その間、アクアは明日香が使って伏木と金沢の間を往復する。最近はやっと美由紀もあまり騒がなくなってきたし、明日香もかなり運転に自信を持ってきている。
 
朝食を取った後、10時頃冬子と政子のマンションを訪れたら、ちょうどそこに中村晃湖さんが来ていた。
 
「久しぶり〜青葉ちゃん」
「晃湖さん、ご無沙汰しておりまして済みません」
 
「でも青葉今日は随分可愛い服を着てきたね」
と冬子が言う。
「そ、そうですか?」
と青葉は焦る。
「青葉は確かにいつもおばちゃんが着るような服ばかりだったよね」
と政子も言う。
 
「それって、若いとクライアントに不安がられるから、わざと年齢が高く見えるような服を着てたんでしょ?」
と中村晃湖さんが言うが
 
「すみません。地です。こないだからさんざん、40歳に見える、社会人入学の方ですかとか、言われてばかりで」
と青葉。
 
「うーん・・・。地であのファッションは無いよなあ」
と言われた。
 

中村さんは冬子たちのマンションの「あやしい物チェック」に来ていたのだが、結局青葉もこれを手伝うことになる。
 
その処理が終わった後で、中村さんと話していたら、青葉が千里や中村晃湖さんと遠い親戚関係にあるという話を聞き、青葉は驚愕することになる。その話は今年の春頃に中村さんと千里姉が話していて判明したことらしい。
 
   ウメ=榮作
     ┃
 ┏━━━╋━━┓
十四春 サクラ モモ
 ┃   ┃  ┃
武矢  礼蔵 雷造
 ┃   ┃  ┃
千里  晃湖 礼子
        ┃
       青葉
 
政子は霊的な素質も、男の娘が出るのも遺伝ではないかと言っていたが、男の娘は別として霊的な素質は遺伝より小さい頃の環境のほうが大きいですよね、などという話を晃湖さんとはした。
 

それで中村さんが帰って行った後で、青葉はやっと本題に入れた。
 
「こないだの運転中に足首のあたりに手があった話をよくよく聞きたいのですが」
 
「何それ?」
と冬子が訊く。
 
青葉が当日のことを簡単に説明すると「それ、寝ぼけてたのでは?」と冬子が言う。政子もあらためて言われると自信が無さそうだったが、実は似たような事件がいくつか起きているということを青葉が言うと、政子はあの夜のことを詳しく語った。
 
「最初右足首がかゆい気がしたのよね。それで掻こうと思ってハンドルを左手で持ったまま、右手を下に伸ばしたのよ。そしたら、誰かの手とぶつかったのよね。手のひらを開いていたから、ああ握手したいのかなと思って握ってあげたら、向こうも握り返してきた」
 
「握手会の感覚かな?」
と冬子が言う。
 
「あ、そーかもー。応援ありがとーって感じ」
と政子は笑顔で言っている。
 
たいていの人間はそんな所で手に触ったら仰天して、左藤さんや芳野さんのように運転を誤って事故を起こしかねない。政子の物に動じない性格が事故を防いだんだ、と青葉は思う。
 

青葉は東京都の地図を広げて、あの運転交代したのはどのあたりでしたっけ?と政子とふたりで協議するも、政子が場所など覚えている訳が無い。
 
青葉もかなり悩んだのだが、ここで政子が重要なことを思い出した。
 
「そうだ。あれ、鹿鹿鹿ラーメンの近くだったよ」
「そういえば、なんかラーメン屋さんの看板がありましたね!」
 
「あそこ量が多いから好きなのよね〜」
などと言っている。
 
「あれ写真見ただけでギブアップ。私は店内には入らなかった」
と冬子は言っている。
 
「なんか二郎の全マシでも足りないと言っている人たちがひいきにしているらしいね」
と政子。
 
「それどんな人さ?人間なの?」
などと冬子は言うが、
 
「だって二郎だとお代わりできないじゃん」
と政子は言っている。
 
「私は二郎でも外で待っている。それに二郎をお代わりしたいと考える人間がこの世に存在することを普通は想定できない」
と冬子。
 
「鹿鹿鹿ラーメンはどんぶり自体が二郎より大きいんだよ。二郎みたいに列まではできてないから、ゆっくり滞在してお代わりもできるし」
と政子。
 
「若いお相撲さんの常連さんがいるみたいで、こないだ、お店で関取の駿河湖に会って、サイン交換したよ」
 
「ほほお」
「ラーメン3杯食べる競争したら私が勝った」
「はぁ・・・」
 

鹿鹿鹿ラーメンは都内に3ヶ所あるのだが、青葉自身の運転ルートの記憶から、鹿鹿鹿ラーメンの芝店であることが断定できた。
 
「そうだ。思い出した」
 
と政子が言って1枚の紙を取り出してきた。
 
「青葉、ちょっとこれに曲付けてくんない?」
と言う。
 
『エメラルドの太陽』というタイトルが付けられている。
 
「曲を青葉に頼むから、作詞名義は岡崎天音にしちゃおう」
と言って、名前を書いている。
 
「私でいいんですか?」
「冬に見せたら、こんな壊れた詩はそのまま発表できないから修正しなさいって言って。でもこの詩、太陽がエメラルドだからいいと思うのよね〜」
 
冬子が困ったような顔をして頭を掻いている。
 
「まあ確かにこれ普通の色彩感覚に修正したら、つまらない詩になっちゃいますよ」
 
「そうそう。そういう所が冬は融通が利かないのよ」
「でもこれ誰が歌うんですか?」
 
「アクアだったら歌ってくれないかなあ。それか青葉、歌手デビューしない?」
「さすがに時間的に無理です」
 
「ああ、忙しそうだもんね〜。やはりアクアを説得しよう」
 
「じゃ取り敢えず預かりますね」
と言って青葉はその紙を居間にある複合機でコピーしてかばんに入れた。
 
冬子は「それ発表できないかも知れないからね」と言っていた。
 

青葉は彪志と連絡を取り、十条駅で落ち合うことにして、恵比寿駅から電車で移動した。十条駅について電話すると、すぐに彪志が真新しいフリードスパイクでやってくる。青葉の前で停めるので、すばやく助手席のドアを開けて乗り込む。彪志が車を出す。
 
「お疲れ〜」
と言ってキスをする。
 
「青葉、なんか凄く可愛い服着てきた」
と彪志が言う。
 
「何歳くらいに見える?」
「うん。充分女子大生に見えるよ」
 
えーん。せめてまだ女子高生に見えるくらいは言ってよぉ!
 
「じゃ病院に行こうか」
 
「あのあと、どのくらい運転した?」
「今オドメーターは50kmを越えた所。青葉が遊びで出てきたんなら、一緒に高速に乗って遠出したい気分なんだけどな」
「そうだね。事件が解決して時間があったら」
 
まずは芳野さんの入院している病院に行く。芳野さんは当初、それ話すと寝ぼけていたかクスリでもしていたかと思われるからやめろと上司から言われたらしく、話すのを渋っていたが、青葉が事件の解明のためなので、誰にもこのことは話しませんからと言うと、考え考えながら話してくれた。
 
「あの日は何ヶ所も客先をまわって結構疲れていたんだよね。それで足の筋肉がこわばっているなあと思って、足首を少し揉もうとしたんだよ。後から考えると、それをちゃんと車を脇に停めてからすれば良かったんだよね」
 
「それで右手を下に伸ばした時に誰かの手とぶつかったんだよ。最初は何か物が転がっていたかと思ったんだど、感触が柔らかいんだよ。生暖かくて。それでぞっとしてしまって。その時前の車が突然車線変更したんだ。え?と思って見るとその前に超低速車がいて。ぶつかる!と思ってハンドル切ったら防護壁に激突してしまった」
 
「その手に触った時ですね。相手の手の形はどうでした?手を開いてました?」
 
芳野さんは考えるようにした。そして言った。
 
「手は握られてました。こぶしの形でした」
 

青葉は芳野さんが早く治るように骨折箇所のヒーリングを30分くらいしてから病院を出た。
 
「芳野さんは最初に駆けつけてきた課長の助言で、警察には足下の手のことは言わないことにしたみたい。単に前を走っていた低速車を避けきれなくてと言ったって」
と彪志。
 
「その方が無難という気がする。そんな話、誰も信じないし、覚醒剤か幻覚剤でもしているのではと疑われるだけだもん。私も類似の事例を聞いていなかったら、信じてないよ」
と青葉。
 

左藤さんについては直接面識が無いので、先輩の土師さんに来てもらい、一緒に会いに行くことにする。土師さんとは18時に待ち合わせることにした。
 
時間があるので、彪志がどこか行く?と言ったものの青葉は「少し寝せて」と言い、病院の駐車場に駐めたフリードスパイクの後部座席で少し仮眠させてもらった。
 
「私が眠っている間に悪戯しててもいいよ」
「いや、そこまで飢えてないから」
「私に触りながら自分でしててもいいし」
「こんな人がのぞくかも知れない所でできないよ」
「今夜まで我慢できる?」
「あのねぇ・・・」
 
青葉がしばらく眠ってから起きるとそばに保冷バッグに入れたウーロン茶が置いてあったのでそれを飲み、病院のトイレを借りてから彪志に連絡する。近くのケンタッキーで落ち合うことにする。
 
「ごめんねー。どこか行ってた?」
「近所の本屋に行ってた。疲れ少しは取れた?」
「うん。ごめんね。昨夜はホテルで寝たし、今朝も新幹線の中で熟睡してたんだけどね。何か眠たくなっちゃって」
「青葉仕事のしすぎだもん。先月は随分大会にも出たんだろ?」
 
「そうなんだよねー。6月の1週目には中短、中部学生短水路選手権かな?に出るのに名古屋というか正確には日進市まで往復して、 次の週は大大、県内の大学の水泳大会があって、先週は北五といって北陸三県の国立大学の大会があって。これは今年うちが主幹だったから、他の大学から来ている人たちのお世話とか記録とかで大変だった」
 
「北五って、北陸に国立大学が5つもあったっけ?」
「昔は5つあったから北五って言ってたのよね〜。減っちゃったけど、略称はそのまま残っている」
「なるほどー」
 
「今日・明日はインカレ予選だけど、出ません!と宣言して東京に出てきた」
「いいの!?」
「付き合っていたら、夏が終わるまでどこにも行けない」
「あはは」
 
「そうだ。荷物は少し片付いた?」
「道は遠い気がする」
 
「ああ」
 

食事の後は病院に戻りフリードスパイクを出して、土師さんとの待ち合わせ場所、本蓮沼駅に向かった。
 
途中、ナショナル・トレーニング・センターのそばを通る。今、千里姉はここで激しい練習をしてるんだろうな、と思った。
 
本蓮沼駅は地下鉄駅で、車を駐められる場所もない。それでその付近を走って土師さんを見つけられたらピックアップする方式で行く。1回目のアプローチでは発見できなかったものの、近くを回ってきて2回目のアプローチで発見。無事、拾うことができた。
 
「ごめん、ごめん。ちょっと遅れた」
「いえ。こちらこそお休みの所、呼び出して申し訳ありません」
 
「左藤が事故起こした時のこと調べるんだって?」
「芳野さんの事故とパターンが似てますでしょう?」
 
「うん。あんな話が広まったら、うちの部署はこっそりクスリを横流ししてたりしないか?と言われそうで、課長が一切その話は言うなと指示を出したんだよ。うちの事務所にはアンフェタミンとかコカインとかも置いてあるからさ。麻薬類は課長と薬剤長さんだけが持っている鍵の掛かる棚に入っていて数も厳重に管理されているけど、その気になればちょろまかすのも不可能じゃないもん」
 
「取り敢えず、私の名刺差し上げておきます」
と言って、青葉が
《心霊相談師・川上瞬葉》
の名刺を渡すと
 
「なんか、かっこえぇぇ!」
と土師さんは言っていた。
 
「俺の田舎の親戚にも、神さんとかしてるばあちゃんがいるんだよ。似たような系統かな」
 
「土師さんはもしかして九州かどこかですか?」
「そうそう。良くわかるね」
 
「九州のほうで『神さん』って言うからと思って。東北では拝み屋さんと言うのですが、だいたい似たような仕事ですね。土師さんは九州のどちらですか?」
 
「大分のヒジって所。漢字知ってる?」
 
「日が出ると書いて日出(ひじ)ですよね」
「おお、すげー。俺、出身地も苗字も読んでもらえない」
「実はサンリオ・ハーモニーランドの最寄り駅なので、女子には読める人がけっこう居るんです」
「ああ、そんなもんがあった!俺も小学生の頃、姉貴たちに付き合わされて一度行ったよ」
 
「土師さん、ご兄弟はお姉さんが何人かおられるんですか?」
「うん。姉貴4人に男は俺1人」
「わっ」
「次は男だろう、次は男だろうと思って作っている内に5人になっちまったということみたいだけど、親父は長距離トラックの運ちゃんでさ、なかなか自宅に戻ってこないからふだんは女ばかりの中に俺ひとりで、随分母ちゃんや姉貴たちのおもちゃにされてた」
「なるほどー」
 
「女装はふつうだったし。だから俺の小さい頃の写真、全部スカート穿いてんだよ。小学5−6年生頃までしばしば女装させられてた。むしろ小さい頃は自分も女の子だと思い込んでいたような気もする。その内チンコも取れて無くなるのかなあとか思ってた記憶あるよ。蛙のしっぽが成長したら無くなるみたいに」
 
「あああ」
 
「でも私の知り合いで大分市内に住んでいる土師さんもいますよ」
「ありゃ。だったら親戚かも」
「土師よしみさんというんですけど。お父さんは土師・・・有高さんだったかな」
「うーん。知らないな。どこかでつながっているのかも知れないけど」
 
「土師(はじ)は古く伝統ある名前ですよ。垂仁天皇の代に相撲取りの起源としても知られる野見宿禰(のみのすくね)が殉死の風習をやめて代わりに埴輪(はにわ)を作って一緒に埋めることを提案したのですが、その時、天皇から土師職(はじのつかさ)に任じられ、その子孫は仁徳天皇から土師連(はじのむらじ)の姓を与えられました。《はじ》という読みは《はにし》の音便と言われますね」
 
「へー!そんなに伝統あるんだ!」
 
どうも土師さんは青葉のことが結構気に入った様子であった。
 

そんな話をしている内に病院に到達する。駐車場に車を駐め、上の病室に上がっていく。
 
「おお、生きてるか?」
と土師さんが声を掛ける。
 
「暇でしょうがない」
と左藤さん。
 
彼は足と肩を骨折したものの、他は異常無いので、暇をもてあましているようである。ベッド脇に漫画が大量に積まれている。肩の方だけでも治れば仕事に復帰できるのだけどと言っていた。
 
土師さんは、芳野さんが先日事故を起こし、その時芳野さんが言った話が左藤さんの言った話と似ているので、これはひょっとして何かの怪異ではないかという噂も出ており、それで彪志のフィアンセである青葉が、その方面の専門家なので、内々に調査しているのだということを説明してくれた。
 
「同じような事故が起きたのか」
「実はこの会社と無関係の人で、私の知人の女性がやはり似たような現象に遭遇したんです。彼女は平気でその出てきた手と握手して、事故も起こさなかったのですが」
と青葉は説明する。
 
「すげー。やはり女は肝が据わってるのかね」
と左藤さん。
 
それで左藤さんは当時のことを話してくれる。
 
「運転している内に右足がかゆくなってさ。虫とかに刺された訳ではないと思う。なんか血行とかの関係でかゆくなることはあるじゃん」
 
「ええ」
「それで掻こうと思って。右手を下に伸ばして掻こうとしたら、誰かの手とぶつかった訳よ」
「なるほど」
 
「それでびっくりして、焦っちゃって。焦ってる内に向こうがこちらの手を握りしめてきて。ぎゃーっと悲鳴あげて、そのあと気付いたら車は街路樹にぶつかってたんだ」
 
青葉は考えた。
「その最初に手がぶつかった時ですね。相手はどんな形に手をしていました?手は握ってましたか?開いてましたか?」
 
左藤さんは腕を組んで考えていた。そして言った。
 
「手は握っていたと思う」
 

青葉は左藤さんの怪我が早く治るようにヒーリングをしてから病院を出た。この日はその後、近所のカフェで1時間ほど土師さんと彪志とで話した後、別れた。帰りは青葉がフリードスパイクを運転して大宮のアパートまで行った。100mほど離れた所にある駐車場に駐め、歩いてアパートに入る。
 
「何これ?」
と青葉は言った。
 
「ごめーん。俺も片付けようとは思ったんだけど」
 
部屋は5月末に引っ越して段ボール箱を大量に運び込んだ時のままという感じである」
 
「どこに寝てんの?」
「そちらの部屋のそこに何とかスペースを作った」
 
「まあいいか。シャワー使える?」
「あ、うん。使って。バスタオルは何とか発掘したから」
 
それで交代でシャワーを使ったあと、ふたりは久しぶりに一緒に寝ることができた。2月末に盛岡の彪志の実家で一緒に寝て以来、4ヶ月ぶりの愛の交換になった。
 
「高知に行った時、エスティマの中でしても良かったんだけどね」
「さすがに人のいるそばでする勇気は無かった」
「でも紗希さんたちはしてたね」
と青葉。
「あれ、紗希さんが満彦君に入れてたよね?」
と彪志は確認する。
 
「うん。直視はできないから、音だけだけど、間違いなく紗希さんが腰を動かしていて、満彦さんはあえぎ声みたいなの出してたし、もう少し優しくとか、壊れるぅとか言ってたし」
「紗希さんは壊れたら一生面倒見てやるからとか言って容赦無い感じだった。最後は紗希さんが逝って終わった感じだった」
 
「冗談で言ってたけど、紗希さんって本当に男の娘なんじゃないよね?と私悩んだ」
「俺も判断つかなかった。男の娘だとしたら完璧なパス度だよね」
「でも男の娘なら僕とか言わずに私と言うと思うから、たぶん女の子なんだよ」
「実はFTMで既にちんちん装備済みとかは?」
「そこまで疑うともう私も分からない」
 
「あれって、女性器はそのままにして男性器だけ作れるの?」
 
「原理的にはできる。MTFの手術ではおちんちんをヴァギナの材料に使うから確実におちんちんは無くなるんだけど、FTMの手術では女性器のどこかを材料に使って男性器を作るわけではないから、女性器を完全に温存したまま男性器を形成することは可能。男性ホルモンを取らなければ妊娠能力も維持できる。尿道だけ延長して、おしっこはちんちんの先からすることになるけど」
 
「それやると両性体になるよね」
「うん。男としても女としてもセックス可能になる。そういうのを希望する人がいるかどうかは別として。但し女性器が残っている以上、戸籍の性別を男に変更することはできない」
 
「それで妊娠すると、男の身体で出産するわけ?」
「そういう人は現実に存在するかも知れないよ。医師も助産師もそういう場面を見たとしても、守秘義務で誰にも言わないし」
 

7月3日(日)は朝5時に起きて(調理器具がまだ荷物から出てきてないので)コンビニでお弁当を買ってきて朝御飯にした。
 
「ねえ、もしかして今までコンビニとか外食とかばかり?」
「ほも弁もローテーションしてる」
「ああ」
 
それで今日は事故の起きた現場を検証しようなどと言っていたのだが、朝御飯を食べた後、なりゆきで少しいちゃいちゃしていた時に電話が入る。
 
水泳部の圭織さんである。
 
「青葉〜。悪いけど、名古屋まで来て」
「私、出ないと言ったのに」
「寛子が肉離れ起こしちゃったんだよぉ」
「あらぁ・・・」
 
「だから今日の400mリレーと800mリレーにだけでいいから出て」
「間に合います?」
「400mリレーは10:00くらいからになると思う。水着は用意しておくからさ」
「10時ですか?間に合うかな・・・・」
 
彪志がパソコンで大急ぎで連絡を調べてくれた。9:30に最寄り駅の笠寺に着く連絡があることが分かる。
 
「笠寺に9:30が最速みたいです」
「じゃそこから1分で来れるね」
「そんなに近いんですか!? 分かりました!駆けつけます」
 
「じゃエントリー表に書いておくから。遅れたら性転換してもらうからね」
「なんでそういう話になるんです!?」
「ちんちんは筒石から取り上げてくっつけてあげるから」
「いりません!」
 
それで青葉は大宮駅まで彪志に送ってもらい、6:38の東北新幹線!《なすの252号》に飛び乗る。東京駅に7:04に到着。東海道新幹線の乗り場まで全力疾走して7:10の《のぞみ9号》に乗り継ぐ。この時点で実は彪志が調べてくれたのの1つ前の便に間に合ってしまったようだ。
 
これが8:49に名古屋に到着。在来線の東京方面の乗り場まで移動して9:02の豊橋行きに乗る。これが9:13に笠寺駅に着く。ここからインカレ予選が行われている日本ガイシアリーナまでは約500mの距離がある。青葉はこれを2分ほどで走りきった。
 
しかし青葉は「これ1分じゃ無理だよ!」と内心文句を言った。
 
会場の入口の所で杏梨が水着を持って待っていたので、一緒に更衣室に行き、その水着に着替えた。
 
「良かった。ピッタリだね」
「少しきつい気がする。それと表面の加工が何か・・・」
「最新の水着だからね。良い水着は概して締め付けが強いんだよ」
「太ったら着られなくなるね」
「太ったらその分、水の抵抗が大きくなるよ。ちなみにその水着はジャネさんからのプレゼント」
「わぉ」
「この会場内のショップで売ってたもので15000円くらいだった。普通の上級水着だから、トップスイマー用と違って繰り返し着られるし」
 
「トップスイマー用って、異様に値段高いのに耐久性が無いよね」
「スピード優先で耐久性は度外視してるからね。はい、スイムキャップとゴーグル」
「サンキュ、サンキュ」
 
「でもかなり汗かいてたみたいね」
「乗り換えで走ったし、笠寺駅から走ってきたし」
「ウォーミングアップ代わりだね」
「うん。でも実は帰りの着替えがない」
「ああ。あとで私が適当な服を買ってきてあげるよ。服のサイズ教えて」
「助かる」
と言って青葉は自分の服のサイズをメモして杏梨に渡す。ついでにお金も1万円札を念のため2枚渡す。
 
「じゃ預かるね。でも今日青葉が着てきた服だとまあ21-22歳程度には見えるね」
 
まだそのくらいか!
 
「うーん。デート中だったから最高に可愛い服を着てきたつもりだったのに」
 

大会の進行は少し早めになっていて、青葉が出場する400mリレーは9:50くらいになりそうということであった。シャワーを浴びた上で屈伸運動やストレッチなどをする。控え室に行くと圭織さんやジャネさんたちが手を振っている。
 
「青葉ちゃん、やったよ。私800mの標準記録突破した」
とジャネさん。
「おめでとうございます!これでインカレに行けますね」
「うん。それとパラリンピックにも行くことになる」
 
「そちらはどういう選考方式になってるんですか?」
「実は日本の選手枠は既に3月の時点で決まっていたらしい」
「あら」
「ところがそれと別に国際招待枠があるんだよ。1年間意識不明で眠っていて意識回復して競技に復帰したというのに、招待委員会が注目してくれたみたいで」
「へー」
 
「それでインカレに出場できたら、パラリンピックにも招待すると言われていた」
「凄い。あれ?でも日程は大丈夫ですか?」
「インカレは9月1-4日、そのあとブラジルに飛んで、9月8-17日がパラリンピック」
「忙しいですね!」
 

やがて400mリレーが始まる。
 
泳ぐ順序は、圭織−香奈恵−ジャネ−青葉である。
 
「私がアンカーなんですかぁ!」
と言って青葉はびっくりする。
 
「私、短い距離ではどうしてもタイム出せないんだよ」
とジャネが言っている。
 
「だから青葉よろしくね」
と圭織。
 
「分かりました。頑張ります」
 
「昨日のメドレーリレーでは標準記録突破できなかったからさあ。リレーではインカレに行きたいよ。頑張ろう」
 
400mリレーはプール往復の100mずつを4人で泳ぐ。
 
第一泳者の圭織がスタート台に立つ。ブザーが鳴ってスタートする。次の泳者の香奈恵がスタート台でスタンバイする。圭織は6人中3位で戻って来た。壁タッチで香奈恵が飛び込む。
 
そして第3泳者のジャネがスタート台に立ち、義足を外した所で観客席にざわめきが起きるのを青葉は見た。義足は圭織が受け取って持っておく。
 
香奈恵は最初は調子良かったものの、折り返した後の後半ペースが落ちて5位まで落ちてしまう。しかしジャネはそこから挽回する。力強い泳ぎでみるみるうちに前方の泳者を抜いていく。青葉の所に来た時、ジャネは2位とほとんど差のない3位で壁にタッチした。青葉が飛び込む。
 
必死で泳ぐ。全然練習していないので必ずしも身体が思うように動かないのだが、体力だけは来る時の新幹線でも寝てきて回復しているし、昨夜彪志と久しぶりに愛の確認をした充足感が青葉の心を励ましていた。
 
壁にタッチ。
 
見るとトップでゴールしていた。2位との時間差は0.01秒であったが。
 

「ジャネさんも青葉も凄い」
と香奈恵が言う。
 
「でもこの競技タイム決勝だからね〜」
「だけどこれ標準記録突破したよ」
と圭織。
 
「ということはインカレに行けるんですか?」
「うん。400mリレーと800mリレーに行ける」
「800mもですか!?」
「女子の800mリレーは400mリレーの標準記録を突破したチームが行けるという不思議なシステムなんだよ。だから800mリレーには標準記録が無い」
「不思議ですね!」
 
続いて400mリレーの2組目が行われる。こちらの1位は1組目の2位にも1秒及ばず3位となった。それでこの種目は青葉たちK大学の優勝となった。
 
「すごーい!優勝しちゃったよ」
「インカレ本戦でも優勝しようよ」
とジャネは言っていた。
 
「青葉当然出るよね?」
「仕方無いですね。行きがかり上。でもそのインカレで引退させて下さい」
「了解了解。今年はそれで引退してまた来年加入ね」
「そんなぁ!」
 

杏梨が着替えの下着と服を買ってきてくれたので、青葉はいったんその服に着替えてきた。
 
11時半頃、今回の大会にはマネージャーとして帯同している紗優美がお弁当とお茶を運び込んできた。
 
「みんな自分の出る種目の時間見て食事してくださいね〜」
と言っている。
 
「おっ、鯱(しゃちほこ)マークのお弁当だ」
と部長の筒石さんが言っている。
 
「こないだ短水路大会で来た時に、地元の大学の人から教えてもらったんですよ」
と香奈恵が言う。
 
「安くて量が多くて、それで美味しいから名古屋では人気らしいです」
 
「確かにこれ量が多いね」
と蒼生恵。
 
「あ、残しそうな人は口を付ける前に誰かに少し分けてあげるといいと思うよ」
と圭織。
 
「くれるのはみんな歓迎」
と筒石さん。
 

「そうだ。鯱なら、鯱拳(しゃちけん)をしようぜ」
と筒石さんが言い出す。
 
「何ですか?それ」
 
「鯱(しゃち)は、こう」
と言って、両手を軽く丸めた状態で上下に重ねて、鯱の口の形にする。
 
鯱というのはその字のごとく、虎の牙を持つ魚である。
 
「鯛(たい)は、こう」
と言って両手の甲を合わせて横向きにする。魚の尾びれの形らしい。
 
「人はこう」
と言って、両手の人差し指を立ててくっつける。
 
「それで鯱は鯛に勝ち、鯛は人に勝ち、人は鯱に勝つ」
「へー!」
 
「鯱は鯛を食べるし、鯛は人からスルリと逃げて、人は鯱を銛で仕留める」
 
「銛を使えば鯛でも仕留められそうな気がする」
「いいじゃん、そういうお約束なんだから」
「勝ったら何かもらえるんですか?」
「ここにいるメンツでやって最終的に負けた奴が、全員分のジュース買ってくる」
「あのぉ、それお金は?」
「むろん買い出し・手出し」
 
「自腹ですか!?」
 
筒石さんが勝手に対戦表を作ってしまう。青葉は最初杏梨とやって負け、続いて蒼生恵とやって負け、最後にジャネとやって負けて女子最下位になる。
 
「青葉、けっこうジャンケン弱いね」
などと蒼生恵から言われる。
 
男子の最下位になったのは3年生の海津さんだ。
 
「じゃ、せーの」
とお互いにポーズを取る。青葉は鯱、海津さんは人であった。
 
「青葉の負け〜」
「じゃ青葉20人分のジュースよろしく〜」
 
「誰か持つの手伝って」
「じゃ私が行くよ」
と杏梨が付き合ってくれた。
 

会場の売店に行って缶ジュースを適当に取り混ぜて20本買い、杏梨と手分けして持った。
 
「でもさ、青葉、高校の時、けっこうジャンケンでは勝ってなかった?」
と杏梨が言う。
 
「それ内緒で」
「あーー!!わざと負けたのか!」
「私遅れてきたからさ。このくらいしてもいいかなと思って」
 
「わざと負ける方法があるんだ?」
「勝とうと思えば勝てるよ。杏梨、じゃんけんしてみようか?」
「うん」
 
それで青葉は杏梨と5回ジャンケンしたものの、5回とも青葉が勝った。
 
「強ぇ〜!」
 
「これが通じない相手は今まで会った人の中では2人だけ」
「へー!青葉より上手(うわて)もいるんだ」
「うん。上手だと思う」
 

800mリレーはその日の最後の方にあった。女子の800mリレーの後、男子の800mリレーをやって終了である。男子の800mリレーは3組もやってタイム決勝だが女子の800リレーは参加校が少ないので1組のみ。10チームで争った。
 
K大は今度は圭織−杏梨−ジャネ−青葉というオーダーで臨む。
 
香奈恵は元々短距離型なので、50mでは必ずしも上に行けないものの長距離に強い杏梨が代わりに入った。
 
1人200mずつ、2往復ずつ泳ぐ。最初の泳者の圭織がスタート台に立った。
 
圭織は最初はトップ争いをしていたものの、100mを過ぎてから少しペースを落とす。結局10組中4位で引き継ぐ。杏梨は逆に前半をわりとセーブ気味に泳ぎ後半ペースを上げた。それで一時は5位まで落ちていたものの、最終的には3位でつないだ。義足を圭織に預けてスタート台に立ったジャネが勢いよく飛び込み、力強い泳ぎでぐいぐい先行する泳者を追いかけて行く。最初の往復で2位の子と並び、折り返しで抜いて更に1位の子に迫っていく。ジャネは最後1位の子とほぼ同時に壁にタッチした。
 
青葉が飛び込む。
 
最初は水中をバタ足だけで進み、違反にならないギリギリ(15m以内)で浮上してその後、全力で泳ぐ。
 
青葉にしてもジャネにしても長距離型だ。50mに出るような人たちのスピードにはかなわないものの、長く泳いでもスピードが落ちない。青葉は後半勝負だと思っていた。
 
1往復してきてから残り100m。青葉は次第に速度を上げていく。そして向こうの壁にタッチしてからラストスパート! 全力で手足を動かす。水を後方に押し出した手を水上で全速力でリカバリーする。その手が水面にぶつかる時に手が痛い。しかしめげずにまた水を掻いていく。
 
ゴール。
 

青葉は時計を見た。
 
1着!!
 
やった!!
 
青葉は手を伸ばして、プールの上にいる圭織・杏梨・ジャネと笑顔で握手した。
 
 
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【春拳】(3)