【春拳】(2)

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「プロモーション用の写真撮るから、この服着てね」
とその日アクアは呼び出された写真スタジオで言われた。
 
「はい」
と言って、アクアは渡された服を手に取ったのだが「え〜!?」と思う。
 
「あのぉ、これ女の子の服みたいですけど」
 
「うん。サイズは合うはずだから」
「また女の子役するんですかぁ」
「女の子役、好きでしょ?」
「ボク、男の子なんですけどぉ」
 
「いいじゃん、いいじゃん。可愛いアクアちゃんを見たいというファンの要望があるからさ。こういうのって若い内しかできないもん。声変わり前の可愛い姿を記録に残しておこうよ」
 
とプロデューサーは楽しそうにアクアに言った。
 

桃香は欲求不満であった。
 
第1に千里と最近全然会えないのである。
 
どうも千里は昨年の暮れ頃から超多忙モードに入っている雰囲気である。まあソフト会社なんて忙しいんだろうなとは考えている。それに加えて、趣味でしているバスケットの方も合宿や海外遠征まで入っていて忙しそうである。よく趣味と両立しているなと思うが・・・・結果的にほとんどアパートに帰ってこない。
 
1月から2月中旬くらいまでは、まだ週に1〜2回会える感じであった。しかし2月20日から3月2日まではどうも鹿児島から岩手・秋田まで飛び回っていたらしくさすがに本人も疲れたと言っていた。3月3日は一緒にひな祭りをしたものの、5日早朝に出かけた後、また長野山梨から四国奈良と駆け回って戻って来たのは24日。3月最後の一週間は居たものの、4月1-4日は不在。4日の夜遅く戻って来たので四国の祖父が亡くなったので一緒に葬儀に行き、その足で7日は金沢に行って青葉の入学式を見る。その日は一緒に東京に戻ったが、4月8日朝桃香を会社に送り出してくれた後は6月8日に戻って来るまで丸2ヶ月間、桃香は千里に会うことができなかった。
 
桃香が不在の間に何度か戻って来たようで、食料の備蓄が作ってあったり手書きのメモが置いてあったり、テンガまで置いてあったが、さすがの桃香もテンガは自分では使い道が無い。会社の男性同僚に譲ったらなんだか喜んでいた。
 

第2の問題として、ここの所「彼女」がいないのである。
 
年末に半年ほど付き合ったガールフレンドと別れた後、桃香は新しいガールフレンドを見つけられずにいた。
 
学生時代はキャンパスを歩いていて、ピーンと来た女性に接触してみると、大抵向こうもレスビアンで、それで一緒にお茶を飲んだり、映画など見に行ったりして交友(?)をしていた。
 
ほかに、レスビアン系のSNSで親しくなった人と「2人オフ」をして更に親密になるケースもあったし、優子・鈴子・季里子など、過去の恋人と絡んでいた子と仲良くなるようなケースもあった。
 
しかし昨年春に就職した後は、会社の同僚の中にはビアンっぽい子がおらず、そもそも桃香は「OL志向」の彼女たちとは全く話が合わないので、女性同士のコミュニティの中からビアン傾向のある子を調達してきた過去の手法?が使えない。SNSなどでも、あまりフィーリングの合う子に出会えずにいた。
 

そして第3の問題として、仕事が面白くないのである。
 
この会社に入った当初は、男性と誤認!されていたこともあり、結構やりがいを感じる仕事をさせられていたものの、女性であったことが発覚!?してからは責任のある仕事をほとんどさせてもらえなくなった。
 
何度か、たまたま男性の社員が空いてない時に生じた案件を見事に契約に至らせたし、気の弱い男性のヘルプに入って、うまく交渉をまとめたりもしたが、そういうのは、その男性社員の成績としてカウントされ、桃香の給料は低いままであった。
 
一方で桃香は「OL的素養」がほとんど無いので、ボーナスの評価はかえって他の女性社員より低いほどであった。
 
この会社、もしかしたら自分には合ってないのかもと桃香は考え始めていた。
 

千里は5月11日まで東京北区のNTCで合宿した後、12日は都内でBlind Basketballの見学。12日の夜いったん経堂のアパートに戻ったものの、この日桃香は留守であった(放送局との交渉で男性社員2人と一緒に徹夜で打ち合わせ。明け方成約に至った)。
 
青葉からジャネさんのことを聞いていたので、その人にBlinkd Basketballを見せたら、勇気づけられるのではないかと考え、青葉に電話して彼女を東京に連れてきてくれるよう頼む。
 
13日の日中は午前中、あまりに散らかりすぎている部屋の中を片付けてから午後川崎に行き、レッドインパルスの練習に参加した。その練習中に、先日舞耶さんに頼んでいたジャネさん用の義足試作品ができたという連絡が入ったので、ジャネさんにブラインドバスケットを見せてから岐阜に連れて行き、義足を見てもらおうと計画を立てる。青葉からは向こうは4人で来ることになったという連絡が入ったので取り敢えず東京までのチケットを手配して青葉の所に届けてもらった。
 
夕方練習が終わって帰ろうとしていたら、雨宮先生から呼び出されたので、都心に出て行き、またまた桃香と会えなかった。
 
雨宮先生との打合せは徹夜になり、千里は午前中桃香が出かけた後の経堂のアパートに戻ると、仮眠してから茶碗を洗ったり洗濯をした上で、テーブルの上に「桃香におみやげ」というメモ付きでテンガエッグを1個置いて、出かける。
 
この日は昼過ぎから川崎でクロスリーグの試合(対ジョイフルゴールド)をして、夕方からは餅原さんの結婚式披露宴に出た。そのあと出張で東京に出てきていた貴司とお泊まりデートし、15日は朝から予約していた福祉車両を借りて青葉が泊まっているホテルに行く。
 
そしてジャネさんにブラインドバスケットを見せた後で、岐阜に連れて行き義足を見せた。そのまま金沢に送っていく途中でステラジオのふたりと遭遇。ここで青葉やジャネたちとホシ・ナミが交わした、たわいもない話題から、青葉が「解決した」つもりでいた事件に重要な見落としがあったことが判明。青葉は急遽、金沢で事件の鍵を握る人物と深夜の対決をすることになる。千里もそれに付き添っていくことにし、結局午前3時までその人との話し合いは掛かった。
 
その話し合いの最中に、極めて危険なカーナビが東京に残っていることが判明。急遽連絡して回収できたものの、あと2分連絡が遅れていたら死者が出る所であったことが判明。千里もさすがに驚いた。
 

千里は16日は朝から青葉と一緒に移動して、16日朝9時すぎに合宿所に入った。他の多くの合宿者は15日夕方から来ている。しかし千里は今回は最初から夕方には間に合わないことが分かっていたので、15日夕方には《すーちゃん》を身代わりに合宿所に入れておいた。
 
それで《すーちゃん》は合宿所で夕食を食べた後、自主練習に参加したが、千里の眷属たちとこれまでも何度か話をしたことのある佐藤玲央美にはすぐ身代わりがバレてしまった。
 
千里は実際問題として、16日朝東京駅で青葉と別れた後、《すーちゃん》と交代したのだが、千里は試合の最中でしかも自分がボールを持ってスリーポイントラインの前に立っていたのでびっくりした。
 
しかしきれいにスリーを決め、その姿を玲央美が腕を組んで見つめていた。
 

5月22日には代表候補チーム22名はスタッフとともに成田を出発。約12時間半の旅で同日夕方パリ・シャルルドゴール空港に到着した。そのあとTGVに乗って合宿の地、アンジェに到着する。この日は長旅でもあるし時差もあったので、みんな宿舎に入ると、すぐ寝ていた。
 
翌日から練習相手になってくれる地元の大学生チームと練習を重ねる。
 
最初向こうのチームが何か言っている。聞いてみると
「そちら、男子が1人混じってるの?」
と言っている。
 
通訳さんからそれを聞いて
「ん?」
とみんなの視線が集中するのは高梁王子(たかはし・きみこ)である。
 
「彼女はよく性別を誤解されるけど、間違い無く女性ですから」
と高田コーチがフランス語で直接向こうのチームに説明する。
 
「性転換したの?」
「いえ、生まれた時から女です」
 
向こうはどうも半信半疑のようであったが、実際練習試合を始めてみると、向こうはフィジカルが強い強い。その性別疑惑を持たれた王子でさえ吹き飛ばされる。
 
なかなか苦戦したものの、最初の頃負けに負けていた王子が気合いを入れ直して燃えるし、千里や花園亜津子がどんどん遠くからスリーを撃つし、森下誠美や夢原円がリバウンドを取りまくるので、最終的には日本代表が勝利する。
 
「あんたたち強い!」
「さすがアジアチャンピオン」
と向こうは褒めてくれた。
 
フランスのA代表などと練習試合を組んでも、なかなか向こうは本気になってくれないので、この大学生チームとの試合はマジでやってもらえる分、かなり鍛えられるなと千里は思った。
 
「でもタカアシは、ちんちん切って女になった甲斐があったね」
「手術までしたんだから代表ロースターに残れるといいね」
 
などとも向こうの選手は言っていたが、通訳さんはそれを訳さなかった。王子はアメリカ留学は何度もしていて英語はできるもののフランス語は分からないので変なことを言われていることには気付かなかったようである。
 
フランス語の分かる千里や玲央美、彰恵などが笑いをこらえていた。
 

この時点でオリンピックの予選リーグでぶつかる相手は、ブラジル・オーストラリアの2ヶ国だけが決まっており、残りの3ヶ国は6月13-19日に行われる世界最終予選で決まることになっている。ヨーロッパ選手権はセルビアが獲得していたのでフランスはその世界最終予選を勝ち上がらなければオリンピックに出られない状態であった。
 
男子は4カ所に別れて世界最終予選(OQT Olympic Qualifying Tournament)をおこなって、各々の優勝者がオリンピック出場というシステムなのだが、女子は12チームがフランスのナントに集まって決めることになっており、5位以上でオリンピックに行ける。そのナントはこのアンジェのすぐ近くである。
 
ナントにはフランスの女子プロバスケットリーグ LFB に所属するプロチームもあり、日本代表チームは25日にはナントまで行って、そのチームと練習試合もさせてもらった。その中にはフランス代表候補に入っているメンバーもいたものの、この日の試合はお互い本戦で当たる可能性もあることから、やや様子見的な試合になってしまった。千里も亜津子もあまり出番が無く、ベンチから試合の様子を見ていて「コートに出ないのはつまんないね」などと言い合った。
 

26日にはそのフランス代表と対戦する。これには千里も亜津子も出場した。1,3ピリオドに亜津子、2,4ピリオドに千里が出る。
 
試合は前半フランスに先行されたものの、後半投入した王子や留実子など、フィジカルに強いメンバーが頑張り、最後は同点から玲央美のスリーが終了間際決まって、3点差で辛勝した。
 
「なんか最後の方は結構マジだったよね」
「うん。最初の頃と最後の方で向こうの表情が違った」
 
27日には更にヨーロッパ・チャンピオン、セルビアと対戦する。これは昨日の勝利の勢いに乗って、千里や亜津子もどんどんスリーを放り込み、湧見絵津子や渡辺淳子が地道に得点を重ね、王子や留実子が相手を蹴散らし、誠美や円もゴールを死守。25点差で快勝した。最後は相手チームの選手たちの顔がこわばっていたし、客席から見ていたフランスチームの面々も厳しい顔をしていた。
 
28日にはそのフランスとセルビアの代表チームの試合を見学してからパリに戻り、空路ベラルーシ(昔の白ロシア)の首都、ミンスクに移動した。
 

「しかしロースター争い、かなり熾烈になっているよね」
 
ミンスクに着いた夜、玲央美が千里の部屋に来てお茶を飲みながら言った。
 
「私や玲央美は最初から確定と言われてたけど、それは考えない方がいいよね」
と千里は搾乳をしながら言う。
 
お乳を取ってそれを京平の所に届けていることは玲央美にはバレてるので、全然気にせず搾乳作業をしている。
 
「私もそう思う。私にしても千里やあっちゃんにしても、分からない。でも多分王子は確定」
 
「あの子の性格がいいよね」
「うん。凄くいいムードメーカーになってる」
 
「そういう意味ではえっちゃん(湧見絵津子)も良い雰囲気作ってる」
「まあ、あの子はお調子者だからね」
 
「自分のチームの練習が休みの日に、よくうちに来て昭子をおちょくってるけど、昭子はいまだにえっちゃんに弱いみたいで」
 
「なんかえっちゃんがお姉さんで昭子が妹って感じだよね」
「うん。年齢は昭子のほうが1つ上なんだけどね」
 
ジョイフルゴールドの湧見昭子と日本代表(サンドベージュ)の湧見絵津子は従姉妹同士(元従兄妹)である。ふたりの父、および絵津子が高校時代下宿していた叔母の3人が兄妹という関係にある。3兄妹の両親(絵津子たちの祖父母)は九州の伊万里に住んでいる。元々は旭川近郊の深川なのだが、祖父が転勤で伊万里に行ってしまったのである。
 
「あの2人、子供を分け合う約束したらしい」
「分け合う?」
「昭子は元男の子で子供が産めないから、絵津子が昭子の分まで産んであげるんだって」
「へー!」
「だから自分が結婚するまでに昭子も結婚しろよと言っているみたい」
「それは頑張らなきゃ」
「昭子がちゃんと男性と結婚したら、その男性のタネで産んでもいいよと言っているらしい」
「すごい!」
 

29日から6月1日まで千里たちは地元のチームに練習相手になってもらって体格の良い相手との試合感覚を磨いていった。
 
6月2-4日には世界最終予選を目前にしているトルコ、ベラルーシ、ニュージーランドの代表チームと試合をおこなった。
 
初日トルコには大敗してしまったものの、翌日のベラルーシとは激しい接戦を繰り広げた。しかし最後は相手シューターの逆転2ポイントシュートが決まって1点差で敗れた。最終日のニュージーランド戦は向こうがBチームだったことから、こちらも千里や亜津子・玲央美などの主力は出場せず、ボーダーラインの選手を中心にオーダーを組んだものの16点差で快勝した。
 
日本代表候補選手団は翌日ロシアのシェレメーチエヴォ国際空港経由で帰国した。
 
MSQ 6/5 6:15 - 7:35 SVO(1:20 dif 0) 19:00 - 6/6 10:35 NRT(9:35 dif+6h)
 

千里たちは成田に到着すると、そのまま東京ドームのすぐ近くにあるバスケット協会の本部に入る。
 
飛行機に乗っている間から、かなり不安な顔をしていた選手、そわそわしている選手、あるいはあきらめ顔の選手などもいたが、例によって王子やそれに乗せられた絵津子、絵津子に乗せられた純子・志麻子・絵理などは
 
「まあまあ誰が選ばれても落ちても恨みっこなしで、とりあえず飲みましょう」
などと言って、ジュースで乾杯したりしていたが、あまり騒ぎすぎて広川キャプテンに注意されていた。しかしその広川キャプテンも少し落ち着かない雰囲気だった。
 
千里も今回はマジで誰が落とされてもおかしくないと思った。そのくらい控え組の今回のヨーロッパ遠征での成長が著しかったのである。
 

昼食を取ったあとで集まるように言われる。
 
「ではオリンピック代表に内定した選手を発表します」
と坂口代表が言うが、山野ヘッドコーチも高田アシスタントコーチも厳しい表情である。おそらくはかなりの激論をしたのではと千里は思った。
 
「ポイントガード、武藤博美・エレクトロウィッカ、森田雪子・フォーティーミニッツ」
 
と坂口さんが言い切った所で、もうひとりのポイントガード比嘉さんが顔をテーブルに突っ伏して泣き出す。
 
思わず全員にため息が漏れる。ここに居るのは22名。選ばれるのは12名。約半数が落とされるのである。
 
「シューティングガード、花園亜津子・エレクトロウィッカ、村山千里・レッドインパルス」
 
ここは元々代表候補にこの2人しか招集されていないので順当だったものの、千里も亜津子もふっと息をつき、握手した。千里の右隣に亜津子が座っており、左隣が玲央美である。その玲央美も続けて呼ばれた。
 
「スモールフォワード、佐藤玲央美・ジョイフルコールド、広川妙子・レッドインパルス、湧見絵津子・サンドベージュ」
 
「うっそー!?」
と言って驚いているのが絵津子である。どうも本人は自分は枠外と思い込んでいたようだ。
 
落ちた前田彰恵が「はぁ」とため息を付いている。玲央美が背中をさすっていた。彰恵ほどの選手が落とされるというのが、今回の選考がシビアであったことを表している。
 
「パワーフォワード、鞠原江美子・レッドインパルス、大野百合絵・フラミンゴーズ、高梁王子・ジョイフルゴールド」
 
「おぉ!!」
と王子が凄い声を挙げ、「静かに」と注意される。
 
この代表候補の中で誰が見ても確定だったのが王子なのだが、本人は全然そうは思っていなかったようである。
 
「センター、森下誠美・フォーティーミニッツ、夢原円・サンドベージュ。以上12名が代表内定選手です」
 
落ちた金子良美が泣いている。おそらくPFとCの人数配分でかなり揉めたのではと千里は思った。センターが2人でパワーフォワード3人になったので結果的に金子さんは落とされたのでは?
 
「この他に補欠として3人、本戦までチームに帯同してもらいます。以下の3人は落選して心理的に辛いかも知れませんが、よろしくお願いします」
と坂口さんは言い、名前を読み上げた。
 
「スモールフォワード・前田彰恵、パワーフォワード・平田徳香、センター・鞠古留実子」
 
千里はセンターの補欠が留実子というのに驚いた。確かに留実子は今回の遠征でかなり目立っていた。しかし国際試合の経験などと実績からして金子良美だと思っていたのである。
 
「今回選ばれなかった人たちも、来年のアジア選手権、再来年のワールドカップめざして各自鍛錬をして欲しいと思う。取り敢えずオールジャパンで会いましょう」
と坂口代表は締めくくった。
 
選手にも補欠にも選ばれなかった7名が退出するが、純子・志麻子・絵理の3人は絵津子の所に寄って
 
「リオのお土産はカーニバル饅頭で」
「サンバ最中もいいな」
「もし饅頭とか最中が無かったら、カーニバル煎餅とかでもいい?」
などと言っていた。
 
「あんたたち楽しそうだね」
とさすがに落選して疲れたような顔をしていた日吉紀美鹿が4人に言った。
 

その後、内定選手12名で記者会見に臨む。
 
川渕会長と三屋副会長の挨拶の後、山野ヘッドコーチから12名の代表内定選手の名前が読み上げられ、ひとりひとり抱負を述べた。
 
その後集まった記者から質問が出るが、主として山野HCや広川キャプテンが答えていた。
 

記者会見の後、貴司から電話が掛かってきた。
 
「ロースター入りおめでとう」
「ありがとう。そちらも頑張ってね」
 
貴司は8日から男子の合宿が東京北区のNTCであるので、それに合わせて今日の午後から東京に出てくるらしい。
 
「今夜会えないよね?」
「それが仕事なのよ〜」
 

記者会見をしている間に雨宮先生からメールが入っていた。山森水絵のデビュー・アルバムについて最終的に打ち合わせをしたいということであったので、結局千里はバスケ協会から、∞∞プロに直行する。
 
山森水絵は『鴨乃清見の歌を歌う歌手』オーディションの優勝者であるが、実力派であるというイメージ作りのため、アルバムでデビューという方針になり、10曲入りのアルバム『スポーツ・フェスティバル』でデビュー予定である。
 
既に録音も半分ほど済んでいる。この件は千里がオリンピック代表活動で時間が取れないため、雨宮先生、毛利五郎、北原春鹿といったメンツで進めてもらっていた。毛利さんはオーディション番組で結成されたユニット・ドライのお世話もしており大忙しである。
 
「もう2ヶ月くらい自宅に戻ってないよ、俺」
と毛利さんが言うので
「私も2ヶ月自宅に戻ってないですね」
と千里も応じる。
 
「あんたたち住所不定か?」
と春鹿さんがからかっていた。
 

「そういえば、この『十・二六』って曲は、マラソンのこと歌っているみたいだけど、なんで10.26なの?10月26日生まれのマラソン選手とかいたっけ?と思って調べてみたんだけど、エチオピアのハブタムという女子選手がひっかかったくらいだった」
 
と春鹿さんが訊く。
 
「距離なんですよ」
と千里は答える。
 
「距離?」
「42.195kmを尺貫法に直したら十里二十六町四十七間一尺五寸なんです」
と千里は携帯からメモを呼び出して答える。
 
「へー!それは知らなかった」
と毛利さんまで言うので、
 
「あんた知らずに制作してたの?」
と雨宮先生から言われていた。
 
「でもこの歌詞の内容が物凄いね。たとえ足が折れても命が無くなっても必ずゴールまで辿り着くって。悲壮な覚悟で走ってるね」
 
「そういう選手を知っているからですよ」
と千里は笑顔で答えた。
 
「その人は一度死んだけど生まれ変わり、更に足も失ったのに競技を続けているんですよ」
「へー!」
「今回はオリンピックの最終選考に間に合わなくて出場を逃しましたけど、パラリンピックに出ますよ」
 
「足を失ったってマジ!?」
 

結局千里はこの制作の打ち合わせを6月7日の昼過ぎまでした上で、冬子が少し話したいことがあると言っていたので、冬子のマンションに寄り、ここでまた徹夜するはめになり、6月8日の昼頃、やっと経堂のアパートに帰ることができた。
 

その6月8日の夜、桃香は夕方繁華街でナンパに成功した女の子と楽しくおしゃべりをし、ホテルに行かない?と誘う。桃香にとっては半年ぶりの浮気である。向こうも嫌がってはいないものの、どうも女の子とHなことするのは初体験のようで、少し怖がっている感じだ。
 
「処女は傷つけないからさ」
と桃香が言うと、
「それならいいかなあ」
などと言っている。
 
しかし、ついにこの日は口説き落とすことができず
「だったら、うちのアパートに来て、お茶でも飲んでから帰らない?終電にはちゃんと乗せるから」
と言って、とうとう自宅まで同伴することができた。
 
アパートまで来るが灯りがついていないので、千里はまだ帰ってないようだと踏む。千里からは6日に帰国したというメールは入っていたものの、どうも国内でいろいろ用事を片付けているようで、まだ顔を見ていない。
 
それで、まあ入って入ってと言って連れ込み、キッチンに置いているテーブルの椅子を勧めて、お茶を入れる。
 
「あれっ。これ何語?」
と彼女が言うのを見てギクッとする。
 
何だかキリル文字がたくさん書かれた、クッキーか何かのような感じの箱がテーブルに置かれている。
 
まさか千里いったん帰宅したのか?
 
とドキドキする。
 
「あ、えっと友達の海外旅行のお土産で」
「へー。これってロシア語か何か?」
 
「あ、えっとベラルーシかな」
「どこだっけ?」
「えっと、確かポーランドの隣」
「ポーランドってスペインのそば?」
「それはポルトガル」
「あっそうか!」
 
「ポーランドはキュリー夫人とかショパンとかの出身国だよ」
「あ、なんかノーベル賞2回取った人だっけ」
「そうそう」
 

そんなことを言っていた時のことであった。
 
「あれぇ、桃香帰ってた? ごめーん。ひたすら寝てた」
と言って、千里が起きてきた。
 
が千里はまっ裸である。
 
「誰?」
と千里。
「誰?」
と桃香が連れ込んだ女の子。
 
「こんな格好で済みません。桃香の妻です」
と千里が笑顔で言う。
 
女の子は「えーっと・・・」と一瞬考えたものの
 
「私、帰りますね」
と曖昧な笑顔で言うと、そそくさと靴を履くと帰ってしまった。
 
「あぁぁ」
と桃香が声を漏らす。
 
「私、デートの邪魔したかな?」
と千里が訊くが
 
「あ、いや、お帰り、千里」
と言って桃香は千里にキスする。
 
「うん。桃香もお帰り」
と言って千里も桃香にキスをした。
 

千里はこのあと14日まで約1週間、日中は(主としてレッドインパルスの練習に出るため)外出するものの、夜は桃香と一緒にすごすという日々を送った。
 
その間に11日にはクロスリーグの第3戦を千葉市内の体育館で行った。ここは千里が大学に入って間もない頃、いったん「やめよう」と思ったバスケットが忘れられず、ひとりで練習を始めた体育館である。そこでローキューツの浩子たちと出会ったことが、今の自分につながっている。あの時期は実は性転換手術を受けてしばらく身体を休めていた後の、リハビリの時期でもあった。
 
今回の相手はそのローキューツである。当時のローキューツのメンバーで残っているのはキャプテンの愛沢国香くらいである。その他、歌子薫がアシスタントコーチとしてベンチに座っている。彼女の場合はむしろマネージャー的な役割のようであった。
 
この試合はレッドインパルスとしても1軍半の子を鍛えようというので、千里や広川主将などはベンチに座ってはいるもののコートには出ず、もっぱら声援を掛けるのに徹していた。
 
「千里さん出ないの〜?」
とローキューツの副主将・原口揚羽が声を掛けてきたものの
 
「そちらが20点リードしたら出るよ」
と千里は答える。
 
「じゃ引きずり出します」
と揚羽。
 
それでかなり頑張っていたようだが、結局30点差でレッドインパルスが勝った。
 
「やはりプロのトップチームは違う」
「40 minutesやJoyful Goldには善戦したのに」
 
と彼女らは試合後言っていた。
 

6月12日(日)は千里と桃香の2人で久しぶりの「デート」をした。アテンザに乗って中央道を走り富士急ハイランドに行き、1日遊んだ。千里は西武遊園地を提案したのだが、ジェットコースター大好きの桃香が富士急ハイランドに行こうと主張し、千里もしばらく桃香を放置していたのでサービスしておこうかと思ったのである。
 
おかげで、千里も付き合ってジェットコースターに乗るハメになる。桃香は童心に返って大はしゃぎしていたが千里は
 
「待って、今、地球の重力の方向を確認してるから」
と言って座り込んだりしていた。
 
「玉のある人は、玉がジャイロスコープ化して苦しいらしいけど、玉なんか無いんだから、しっかりしろよ」
 
などと桃香は言っている。
 
「ジャイロスコープになったら苦しいだろうね」
「ジェットコースターの回転が玉の回転に変換されるんだよ。ニュートンの運動量保存の法則だよ」
 
「それおかしい。運動量保存の法則の発見者はデカルトだし、ジャイロスコープは運動量保存の法則ではなくて、角運動量保存の法則で動作している」
 
「運動量と角運動量って違うんだっけ?」
「大雑把にいえば、運動量の特殊なもの。運動量保存の法則から数理的に角運動量保存の法則を導くことができる」
 
「うーん。そのあたりがよく分かってない」
「理学修士の言葉とは思えん」
 
桃香はこういう理論的な話をほとんど理解していないのである。その代わり千里は理屈は分かっていても現実の様々な機械や道具を使いこなせないという困った問題がある。
 
「じゃ角運動量保存の法則を発見したのは誰?」
「その内容自体は古くから知られていたんだよ。ケプラーの第2法則って、要するに角運動量保存の法則だもん」
 
「じゃケプラーが発見者?」
「面積速度保存の法則という形ではね。角運動量を正確に定義したのはウィリアム・ランキンだよ」
 
「誰だっけ?」
「ランキン温度の提唱者」
「ランキン温度って?」
「絶対零度を0にして、1度の間隔はファーレンハイト温度の1度にしたもの」
「使ったことない」
 
「日本じゃそもそも普通の温度をファーレンハイトじゃなくてセルシウスで測るから全然なじみが無いよね」
 
こういう与太話をしている内に、千里も何とか重力の方向を再確認する。
 

「よし、ではランキン君に敬意を表して、ええじゃないかに行くぞ」
「え〜〜〜!? あれは絶対いや。桃香1人で行ってきて」
「ふたりでデートしてるんだから、千里も乗ろう」
「やだやだやだ。あれに乗るくらいならもう一回性転換手術受けた方がマシ」
「もう一回性転換手術受けたら、男になってしまうではないか」
「私は何回性転換手術受けても女になる」
「それでは転換になってない。しかし食わず嫌いは良くない。あれ過去5回乗ったけど、物凄く楽しいぞ」
 
「食わず嫌いじゃないよぉ。大学1年の時に乗せられて死ぬ目に遭った」
「なんだ。乗ってるのなら平気じゃん。さあ、行くぞ」
 
「え〜〜〜〜〜!!?」
 
それで結局千里は桃香に強引に引っ張って行かれて、6年ぶりにええじゃないかに乗るハメになった。
 
千里が「いやだ、いやだ」と言っているので、係員さんが「やめますか?」と訊く。しかし桃香が隣で「ああ、大丈夫です。しっかり締めといてください」と言って、千里は器具で身体の上半身を固定された。
 
このコースター?の怖いところは下半身がぶらぶらしていることなのである。
 
スタートでいきなり上下逆になり、少し進むと仰向け状態で巻き上げられる。再度上下逆になって落下。その瞬間、千里はふわっと意識が無くなった。
 

「千里、千里」
と桃香の呼ぶ声で意識を取り戻す。
 
既に上半身の拘束具は外されている。
 
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。怖かったよぉ」
「気を失っていたのなら怖いも何も無かったのでは」
 
千里が大丈夫そうなので、係の人は他の人の所に行く。
 
「漏らしてない?」
「大丈夫みたい」
「立てる?」
「うん。何とか。でも30分くらい休ませて」
 
「じゃベンチにでも座っているといいよ」
「そうする!」
 
結局千里が放心状態で座り込んでいる間に、桃香はもう一度ええじゃないかに並んで乗ってきたようである。
 

千里がまだ放心状態で座っていた時、右足首に何かが触る感触がある。
 
『何したいの?』
と千里は問いかけた。
 
『じゃんけんしようよ』
と何かが言ってくる。
 
『いいよ。じゃんけん』
と言って千里はチョキを出す。
 
『僕はパーだ。負けたぁ。じゃ消えるね』
と言って、何者かは消えた。
 

この日は結局閉園時刻の18時まで遊び、そのあと《ほうとう不動》でほうとうと麦飯を食べてから東京に帰還した。
 
ところで千里は6月9日から14日まで(富士急に行った12日を除く)毎日川崎の舞通工場内にある体育館に出かけては朝から夕方まで練習をしていたのだが、実はこれは千里がこのチームに正式加入してから、初めてのまともな練習日程となった。
 
4月1日に入ったものの、そのあと日本代表の合宿、クロスリーグ、その他高知に行ったりもあったので、ほとんど川崎に顔を出していなかったのである。それは同じく日本代表に選ばれている広川主将や江美子も同様である。先月何度か顔を出しているものも短時間である。
 
9日の朝、千里が練習場に出て行き、ウォーミングアップをしてシュート練習を始めた時、旭川N高校の後輩でもあった黒木不二子、そして札幌P高校出身の久保田希望が出てくる。
 
「あ、シュート練習ですか? 私球拾いしますよ」
と希望が言う。
 
「いや、そんなのいいから自分の練習して」
と千里は言うものの
 
「日本代表シューターのシュートをこの目で見たいし」
と希望は言う。
 
希望は千里より3つ下の学年なので、高校時代は対戦したことが無いのである。
 

それで希望がゴール下に立ってくれて、千里がシュートする。不二子はウォーミングアップで体育館の中を走っている。
 
千里がシュートする。きれいに決まる。ボールがゴール下に落ちてくるので、それを取って希望が返してくれる。
 
またシュートする。また入る。希望が返す。
 
これを10回繰り返して
「全然外れませんね!」
と希望が驚いたように言う。
 
「じゃ外れるようなことしましょう」
と不二子が言って寄ってきた。
 
「私がディフェンスします」
「OK。よろしく〜。後で役割交代しよう」
 
それで不二子が千里の前に立ってディフェンスしている状態で千里がシュートする。それでも1回目・2回目は入ったが、3回目は外れた。少し上すぎて、バックボードで跳ね返る。ボールはちょうど千里の所まで戻ってくるので、それを持ってシュートする。
 
7回目、不二子が指を当てて軌道を変え、ボールは大きく左に外れてバックボードにも当たらず、壁まで飛んでいった。壁に当たって跳ね返り、千里の足下まで戻って来る。それでまた千里がシュートする。
 
10回目、不二子の強烈なチェックで千里の手元が狂い、ボールはゴールより右側の方に飛んでいき、後ろの壁に当たった後、今度は横の壁に当たり、千里の足下まで転がってくる。
 

こんな感じのことを30回くらい繰り返した所で
 
「あれ?」
と希望が言った。
 
「どうしたの?」
と不二子が訊く。
 
「私さ、ゴールに入ったボールしか返球してないなと思って」
「ん?」
 
「いや、ほとんどのボールがゴールに入っちゃうんだけど、バックボードとか壁に当たったのは、そのまま千里さんの所に戻っていくような気がして」
と希望。
 
「ああ!」
と思い出したように不二子が声をあげる。
 
千里はキョトンとしている。
「だって壁に当たったボールは作用反作用の法則で投げた側に戻ってくるんじゃないの?」
と千里。
 
「いや、それはおかしいです。壁で反射した場合、運動量は保存されますけど角度的には反対方向に行きますよ」
と希望。
 
「千里さんのシュートって壁に当たっても、そこから横の壁に当たったりして結局千里さんの所に戻るんだよね」
と不二子がニヤニヤしながら言う。
 
「なんで!?」
 
「単純に後ろの壁に当たった場合でもスピンが掛かってて、結局元の場所に戻るんだ」
 
「嘘!?」
 
「千里さんのシュートは高校の時からそうだったよ。旭川N高校七不思議のひとつだった」
 
「だってそれみんなそうならない?」
と千里は言うが
 
「そんなおかしなボールの軌跡になるのは、千里さんだけです」
と不二子は言い切る。
 
希望は悩むようにしていた。
 

6月15日。この日は夕方から合宿所に入ることになる。
 
それでその日の朝、千里は桃香に
「またしばらく合宿行ってくるけど、浮気したらダメだよ」
と言う。
 
桃香も
「この一週間、千里とたっぷりしたから、しばらくは我慢できると思う」
と答えた。
 
「テンガいるなら買っておくけど」
「いや、さすがの私でもテンガは使えん」
「桃香、ちんちんあるかと思ってた」
「あってもいいけど、残念ながら現時点では装備してない」
 
「テンガの女の子版もあればいいのにね」
「女子はあそこに異物を入れるのに抵抗感があると思うぞ。処女だと使えないし」
「まあテンガに処女は捧げたくないよね。あれ?桃香って処女は誰に捧げたんだっけ?」
「いや、その話は勘弁して。千里は貴司君に処女をあげたんだっけ?」
 
「そうだけど」
「後ろも前も?」
「私、貴司に後ろは許したことないよ」
「じゃ貴司君にちんちんいじってもらったりしたことないの?」
「貴司にそんなもの見せたことないし」
 
「やはり千里ってその頃既に女の子だったんだよね?」
「私がちんちんを触らせたのは、物心ついて以降では、桃香と性転換手術をしてくれたお医者さんだけだよ」
 
「私が触ってたのは作り物だよね?」
「まさか。本物に決まってる。だいたい桃香が精子を出してくれたじゃん。射精なんてしたくなかったけど。桃香と精子・卵子を交換する約束したし」
 
桃香が子供を欲しくなった時に千里の精子を使う代わりに、千里が子供を欲しくなったら、桃香の卵子を使うという約束なのである。
 
「じゃあの精子は本当に千里の精子?」
「私の身体から出したでしょ?」
「なんかそのあたりがどうも自信が無くて。でも本当に千里の精子なんだったら、あの精子使おうかなあ」
 
「誰か女の子を妊娠させるの?」
「いや自分で妊娠しちゃおうかなと」
「仕事は?」
「出産の前後だけ休む」
「休ませてもらえるの?まだ2年目でほとんど新人なのに」
「何とかなるだろう」
「まあ桃香が私の精子で妊娠したら認知するよ。他の女の子を妊娠させるのに使った場合は認知は勘弁して。責任持てないから」
 
「千里女なのに認知できるの?」
「うーん・・・どうなんだろう?」
「私も他の女の子を妊娠させたら、私が認知しないといけないのだろうか」
「桃香、既に隠し子が3〜4人居そう」
「千里、隠し子居る?」
「2人いるよ」
「誰が産んだの?」
「産んだのは私に決まってる」
 
「やはり千里の言葉は分からん」
 

「でもこないだはフランスとベラルーシと言ってたけど、今度はどこ行くの?」
と桃香は話題を変えて訊く。
 
「今回はチェコに行ってくる。プラハ・オープンという大会があるのよね」
「ふーん。聞いたことないけど、こんなに休んで大丈夫なの?」
 
「何度も退職願い出してるんだけど、受け取ってくれないんだよね〜」
「うーん。給料は?」
「有休はとっくに使い切ってるから給料無し。でも社会保険料は払わないといけないからマイナス」
 
「じゃ今、お金無いのでは?」
「4月11日から25日までは有休で処理してもらったから、4月分はまともに給料が出たんだよね。それで5月頭に青葉に2月に貸しておいた200万円が戻って来たから、8月までそれで暮らせる。休むのは8月22日までだし」
 
「青葉もうまいタイミングでお金返してくれたね」
「うん、助かった」
 
それでキスして別れた。
 

千里はその日日中は川崎のレッドインパルスの練習場に行って汗を流し、15時頃あがって、広川主将、江美子をアテンザに乗せて北区の合宿所に入った。
 
「この車に乗るのは初めてだ」
と江美子から言われる。
 
「前乗ってたインプが限界だったんで買い換えたんだよ。江美子は今何に乗ってるんだっけ?」
 
「ランエボだよ」
「大学1年の時に買ったやつ?」
「そうそう」
「頑張ってるね」
「まあ年間1万kmくらいしか走ってないから。だからまだ走行距離が5万kmくらい」
 
「ほとんど新車に近いね」
「そうか?」
 
「私のインプは買った時に5万kmで、昨年廃車にした時点で30万kmを越えていた」
「よく走るなあ。それだけ走ったら限界だろうね」
 
「妙子キャプテンは車に乗るんですか?」
「私はペーパードライバーに近いなあ。一応モコを持ってるんだけど、めったにエンジンを回さない」
 
「おお、モコなんて女らしい!」
と千里と江美子が言うと
「そ、そうか?」
と言って何だか照れていた。
 

合宿所で各自荷物を部屋に置いてから江美子を誘って食事に行く。まだ全員集まっている訳ではないが、これまで22人だったのが15人に減っているので、ちょっと寂しい感じである。
 
既に玲央美と彰恵が居たので寄っていって同じテーブルに就いた。
 
「千里は4年前は最終予選で補欠になったから、補欠の辛さが分かるだろ?」
と玲央美が言う。
 
「うん。自分のほうがロースターに選ばれるべきだと思ってたからね。凄く悔しい思いをしながら試合を見てたよ」
 
「あの後、しばらく沈没してたのも、その影響あるだろ?」
「かもねー」
 
千里は2012年6月の世界最終予選で大会前日に代表落ちを通告され、そのあと2013年10月に40 minutesを結成するまで、全く公的なバスケ活動をしていない。それどころか2013年度はバスケ協会からも籍が外れていた。そのことを話すと彰恵が尋ねる。
 
「その1年ちょっとって何してたの?」
 
彰恵が今回は4年前の千里の立場である。
 
「あの年は散々だったんだよ。12月に結婚する予定だったのを、世界最終予選が終わって帰国したら、いきなり婚約破棄されるんだもん」
 
「あれはひどいよなあ」
と当時のことを知る数少ない友人である玲央美も言う。
 
「やはりそのショックから立ち直るのに時間が掛かった面もあるよ」
「その間、バスケは全然してなかったの?」
「してないに等しいと思う。だから2014年春に渚紗が私のプレイを見て、がっかりしたと言っていたからね」
 
「ああ、少しはしてたんだ?」
「週平均で20時間程度しかしてないと思う」
 
「それどうかしたプロより練習時間長い気がする」
 
「あの年、冬山修行には来たっけ?」
と江美子が訊く。
 
「行ったよ。やはり出羽の冬山を歩いたので精神的に落ち着いた面もある」
と千里。
「あれやってると、頭が空っぽになるからなあ」
と江美子。
 
「何?冬山で特訓すんの?」
と彰恵が尋ねる。
 
「冬山をひたすら歩く。1日50-60kmかな」
と千里。
「うん、そんなもん」
と江美子。
「死者が出るのはふつうという過酷な修行」
「そんな恐ろしい修行やってる所があるんだ?」
「あの参加者は死を恐れてないもんね」
「うん。既に死んでいる人も混じっているし」
「私は死んでも200年くらい修行を続けないといけないらしい」
 
「うーん。。。どうも私には無理っぽい」
と彰恵。
「ふつうにバスケの練習してたほうがいいと思うよー」
「そうしよう。こないだの内定選手発表の時は帰ってから泣き寝入りしたけどだいぶ気持ちを切り替えられた」
 
「まあ補欠でも選手名簿には載るし、何かあったら本当に出場することになるかもしれない訳だし、頑張ろうよ」
 
「うん。みんなありがとう」
 

「ところで男子さんは幸先良いスタートだね」
と玲央美が言う。
 
現在男子代表は中国に行っており、Atlas Challengeという大会に出ている。昨日はその初戦で中国に1点差勝ちしたのである。
 
「うん。勝った勝った勝ったって凄い嬉しそうなメール来てた」
と千里が言うと
 
「誰から〜?」
と3人の声。
 
「あ、えっと・・・男子代表の関係者」
と千里は焦って答える。
 
「関係者ね〜」
 
3人とも千里と貴司のことは知っている。
 
「千里、週刊誌に報道されるようなことはするなよ」
「あははは」
 

夕食の後は、この時点で来ていた8人で自主練習を始めたが、練習している内にメンバーが少しずつ到着して増えていった。
 
21時からミーティングが行われる。王子がこのミーティングに遅刻してきて、山野監督から「次遅刻したら代表から降ろすぞ」とマジに叱られていた。
 

千里が合宿所に入った15日(水)の夜遅く。
 
彪志が青葉に電話を掛けた。
 
「ハロー、マイハニー、愛してるよ」
と青葉は電話を取るなり言ったのだが
 
「あ、えっと。夜遅くごめん」
と彪志が言うので、ありゃ〜、近くに誰か人がいたかなと思う。
 
「ちょっと青葉の意見が聞きたくて電話したんだ」
「うん。何?」
 
「こないだ引越の時に会った芳野さん、覚えてる?」
「うん。マジメそうな感じの人だったよね」
 
「すごくマジメな人。曲がったことが大嫌いな人。それで芳野さん、18歳で免許取ってから今年まで10年間、無事故無違反だったんだよ。実際あの人の運転する車に何度か乗ったけど、絶対に制限速度を遵守するし、横断歩道に人が立ってたら絶対停まるし」
 
「それ本来あたり前のことなんだけどね」
「でもその芳野さんが今日事故起こして」
「ありゃ」
 
「その事故を起こした原因なんだけどね」
「うん」
「足首を誰かに捕まれたと言うんだよ」
 

青葉は緊張した。
 
それはあの焼き肉屋さんで聞いた、別の先輩・・・確か・・・
 
「それ左藤さんのケースと同じだよね」
「そうなんだよ。芳野さんが言ってることと、左藤さんの言ってたことが凄く似ている。これ何だと思う?」
 
青葉は似たようなことをこないだ政子さんも言っていたことを思い出した。政子さんはその足首の付近に出現した手と平気で握手してあげた。そういう対応って、政子さんだからできた気もする。普通の人なら肝を潰して、運転をミスることは充分あり得る。
 
「それちょっと調査してみたい。近い内に一度そちらに行くよ。その事故の場所、それから左藤さんが事故を起こした場所を、地図上で確認しておいてくれない?」
 
「分かった」
 
青葉の東京行きは、水泳部の圭織さんが勝手に青葉を大会にエントリーしていて、そちらとの日程調整が必要だったため、7月の初旬ということにした。
 

「ところで車はどのくらい運転した?」
と青葉は訊いた。
 
「月曜日に受け取ったんだけど、その日の夜、10kmくらい慣らし運転しただけ。昨日は運転しなかったし、今日は先輩たちに誘われて飲み会に出てた所で事故の連絡があって、一緒に病院に駆けつけたんだよ」
 
「ああ、飲んじゃうと運転できないよね」
「飲み会に行く時は、最初にじゃんけんして、負けた人がドライバー役。でもどちらかというとその最初のじゃんけんに負けたい気分」
「あはは」
 
 
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