【春社】(1)

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2016年7月3日、名古屋市の日本ガイシアリーナ。
 
この大会に前年実績が無いものの特例で出場を認められた幡山ジャネは名前を呼ばれると、入口のところからごく普通に歩いて自分のコースのスタート台の所まで行った。ジャネは「歩ける」喜びをかみしめていた。
 
全員の名前が呼ばれ、選手がそろったところで、ジャネは少し膝を曲げると、右足首の所に触り、ひょいと足首から先を取り外して、プールサイドに置いた。
 
周囲の視線がぎょっとする。観客が騒ぐ。人間の足首から先だけが、プールサイドに転がっているのはシュールである。
 
多くの選手がジャネを見た中、隣のコースの月見里公子だけが全く動じずに、ただ自分が泳ぐコースだけを見つめて気持ちを集中していた。
 
ジャネは右足の先が無いため左足1本でスタート台に立っている。「用意」の声でその左足を曲げてスタートの体勢を取る。各コースの後ろにあるスピーカーからスタートの合図が流れる。
 
ジャネは勢いよく飛び込んだ。
 

右足首から先が無くても、両手で水を掻き、太股と脛だけの動きで力強く身体を推進させる。残っている左足の先で水を蹴る。ジャネは全力で泳いでいった。端まで行くとくるりと身体を回転させ、左足だけでプールの壁をキックしてターンする。また勢いよく泳いでいく。
 
プールを何度も往復する。疲れは出てくるがそれでスピードを落としたりせずむしろ加速する気持ちで泳ぐ。
 
あと1往復。
 
ラストスパート!
 
ゴールにタッチ!!
 
結果は2位でのゴールであった。健常者と何ら変わらないその速度に観客席からどよめきが起きた。ジャネは順位よりタイムを気にした。標準記録を突破しないと本戦に行けない。
 
時計は8:58.15を示している。標準記録は8:58.18なので、わずか0.03秒だが上回っている。やった!とジャネは水中で飛び上がって喜びを表現した。隣のコースを泳いで1位で入った公子と笑顔で握手を交わし、そのまま抱き合って喜びを分かち合った。
 

「それってただの形だけの義足じゃないのね?」
と競技が終わった後、女子更衣室で月見里公子(やまなし・きみこ)がジャネに訊いた。
 
「そうそう。この義足は自分がどう動くべきかを知っているんだよ」
とジャネは説明する。
 
「外側はシリコンで足の形を作っているけど、中にちゃんと骨格が入っていてそれがマイクロコンピュータで制御されているんだよ。私が歩こうとしているのか、走ろうとしているのか、立っていたいのかとかを判断して、それに合わせて骨格を動かしてくれる。だから、これで普通にジョギングができるんだよね。ここ1ヶ月毎日5km走ってた。もっと走りたかったけど医者がそこまでしか許可しなくてさ」
 
「いや、まだ無理はしないほうがいい。でもジャネさん復活だね」
「うん。インカレまでにはもっともっと鍛えるよ」
 
と言って、ジャネは再度公子と握手した。
 

紗早江がスタジオでバックバンドの演奏を聴いていたら、隣にレコード会社の松前会長が座った。
 
「ホシ君、君さあ、クスリやってるでしょ?」
 
「すみません。出来心だったんです。あの頃はまだ世間のこととかもよく分かってなくて。もう7年間やってませんし、今後も決して手を出すことはありませんから」
 
「それでも分かっちゃうんだよねぇ。君の歌は、子供番組のテーマ曲や、商品のCMにも使われている。困るんだよね」
 
「ほんとに申し訳ありません」
 
紗早江は消え入りそうな声で謝った。
 

「ねえ、君ってほんとに女?」
と声を掛けてきたのはローズ+リリーのケイだった。
 
「女だけど」
「いつも髪、短いよね」
「これは私のスタイルなんだよ」
「お化粧した所も見たことない」
「素顔でパフォーマンスするのが私のポリシー」
「スカート穿いた所も見たことないし」
「あんなかったるいもん穿けないよ」
「実は君、男でしょ?女だと装っているだけで。私は自分が元男だったから、そういうの分かるんだよね〜」
 
「違う〜!私は本当に女だよ!」
「生理あるの?」
「いや、それは・・・・」
「ふーん。無いんだ。男なら生理無いよね?」
 

「ねえ、あなたクスリやってるでしょう?」
と今度はローズ+リリーのマリから言われた。
 
「だってさあ、歌詞の発想が尋常じゃないもん。これって普通の頭では思いつけない歌詞だよ。同じ作詞者だから分かる。これって絶対クスリでラリっている時の詩だよ」
 
「そんなもんやったことないよ!」
「隠したって分かるのに。その内警察が来るかもね」
 
紗早江は小学生の頃、作文をいつも白紙提出していた頃のことを思い出していた。あの時期、自分の書く文章が他の子たちと異質だというのを感じて、こんなものを提出したら、この子、頭がおかしいかもと言われて、精神病院に入院させられるのでは?と恐れ、それで一切自分の文章を表に出さなかったのである。
 
代わりに紗早江は自分だけが見るノートに様々な文章や詩を書き綴っていた。そのノートは、机のいちばん下の引き出しの「下」のスペースに隠していた。
 

「君の身体から薬の影響を抜くために治療してもらうことになったから」
と事務所の春吉社長が言い、紗早江は病院に連れてこられた。
 
「では先生お願いします」
と言われ、白衣を着てマスクを付けた医師が
「心配しなくていいからね」
と言って、紗早江をベッドに寝せる。
 
無影灯が点くのを見る。あれ〜、私手術されちゃうの?
 
と思って待っていたら
「治療が終わったよ」
と言われる。
 
「新しい自分を見てごらん」
と言われて上半身を起こす。
 
何これ〜〜〜!?
 
紗早江は絶句した。
 
「君の身体の中の女性器は完全に薬で汚染されていたから、卵巣も子宮も膣も取ってしまうしか無かったんだよ」
と医師が言う。
 
だからって・・・・こんなのどうすればいいのよ?
 
そう思いながら紗早江は、股間に付いている、世にもおぞましい物を触っていた。それは触ると大きく硬くなって、上向きになった。
 

ハッと目覚める。
 
夢か・・・・・
 
おまたを触って変なものが付いてないことを確認する。良かったぁ!
 
紗早江はまだ大きく息をしていた。
 
「さっちん、大丈夫?随分うなされていたみたい」
と相棒の波流美が心配して言う。波流美はファッション雑誌を見ていたようだ。
 
「うん。大丈夫。変な夢見てた」
 
ローズ+リリーのふたりが出てきたのって、やはり私、あいつらを意識しているんだろうなと思う。しかし、薬を抜く手術で、男にされちゃう訳?うーん。私、子供の頃は、男だったら良かったのにと思ってたけど別に性転換手術してまで男になりたい訳じゃない。
 
まあ私、スカートも穿かないし、お化粧もしないし、髪は短くしてるし、実は生理がもう6年くらい無いけど。。。。男にされちゃっても何とかなりそうな気もしないではないけど。でも男になったら・・・波流美と結婚することになったりして!?
 
とチラッと波流美の顔を見た。
 
女の子に入れる感覚って、どんなのかなあ・・・。ちょっと興味無いこともないけど。入れられるのより気持ち良さそうな気もするなあ。
 
変な想像をしている内に、まるでちんちんが立ってくるような気がしたが、残念ながらそのようなものは装備していない。
 
紗早江は高校時代に部活の先輩男子と1度だけセックスしたことがある。セックスしたというより、半ばレイプに近かった。でもその先輩をわりと好きだったから、自分としては恋愛上のセックスと考えている。
 
もっともあの後は妊娠してないかと次の生理までヒヤヒヤだった。
 

そうだよなあ。あの頃は生理があって、毎月面倒だと思っていたのに。こんなの無くなればいいと思っていたのに。
 
今は無くなってしまったけど、それが自分を憂鬱にさせる。
 
やはりあがっちゃったんだろうなあ。
 
自分の不摂生な生活が原因なのはほぼ確実だ。
 
私、子供はもう産めないのかな。
 

そんなことまで考えが及んでしまった所で、波流美が雑誌を下に置いた。
 
「お腹空いた。お昼食べに行こうよ」
「うん」
 
ふたりでおしゃべりしながら、旅館のランチを食べる。まあここ御飯が美味しいのがいいよなあ、とも思う。
 
食事が終わってから、部屋に戻ることにするが、紗早江は
 
「自販機でジュース買ってくる。ハル、先に戻っといて」
 
と言って波流美と別れ、ロビーの方に向かった。
 
自販機でペットボトルのお茶を買う。東京では聞かないブランドだが、自販機なのに500ccペットが100円って凄い。ここは長期逗留者が多いので、こういうのも安くしているんだと聞いた。
 
栓を開けようとしてふと左手を見た時、業者さんかなという感じの人が食材でも入っているような青いプラスチックのコンテナを抱えて通用口から運び込んでいた。
 
何気なくそれを見ていた紗早江は、業者さんが出て行った後、通用口が開けっ放しであるのを見て、何気なくそちらに歩いて行ってみた。
 
この旅館に来てから2週間くらいになる。良い場所とは思うのだが、閉塞感も感じる。波流美、マネージャーのサニー春吉(春吉陽子)さん、カウンセラーの森さんと4人だが、だいたい波流美と2人だけにしてくれている。
 
春吉さんは会社の常務だし、副社長の大堀さんが亡くなったばかりで実際にはかなり忙しいようである。専用の光回線を1本部屋に引いてもらってFAX複合機を置いているし、パソコンも5台並べてネット接続してあり、あの部屋がサテライト・オフィスという感じだ。24時間あちこちに電話したりメールしたり、企画書らしきものを書いたりで、むしろいつ寝ているのだろう?と思う。
 
それでも彼女は
「ここにいると余計な電話には煩わされなくて良い」
などと言っていた。
 
彼女の携帯の番号はごく一部の人にしか開示していない。
 
森さんとは毎日夕方に1時間くらいセッションをすることにしている。森さんは空いている時間を使って何か論文を書いているようだ。
 
ここは集中して何かをするのにも良い所である。
 
ホシとナミも「アルバム制作中」という名目でここに来ている。
 

ここには東京から6時間ほど車に揺られてきて、更に湖を渡るフェリーに乗って辿り着いた。
 
「フェリーで渡るんですか? 島なの?」
「半島の先なんですよ。陸続きではあるんですが、そこに至る道があまりお客さん向けではないので、フェリーで渡って頂いているんですよ」
 
と旅館のスタッフさんは説明していた。
 
フェリーの船着き場の目の前に旅館の玄関があり、そのまま中に入って投宿。最初はここしばらく無茶苦茶忙しかったこともあり、のんびりと温泉に入り、波流美とおしゃべりなどしながら過ごして疲れを癒した。
 
しかし一週間もすると飽きて来た!
 

ホシはスマホの類いを取り上げられているのだが、ナミのパソコンで表示させたGoogle Mapで見ても、どうも旅館の周囲には全く道が無いようである。あのフェリーだけが交通手段のようだ。旅館の部屋から見える景色もフェリーが渡ってきた湖と樹木ばかりである。
 
最近紗早江はその湖で遊ぶ鳥たちを眺めているのが日課になっていた。
 
紗早江がその通用口を出てみると、そこには旅館のものと思われる小さな2tトラックやワゴン車、SUVなどが駐まっている。ああ、やはり車も使われているんだ!と思う。少しその車の方に行ってみると、向こう側に道が1本あることに気づく。この道はパソコンで見た地図には載っていなかった。
 
ゲートがあるが完全には閉まっておらず、少し隙間が開いている。閉めたつもりが、きちんとロックされなかったのだろう。
 
紗早江は何となくその道を眺め、歩き出した。
 

ところが歩き始めてから70-80mも行くと、天井が木の枝で覆われて急に道が暗くなり、また道路は一応舗装されているものの、路肩が崩れていたり、道路に多数の亀裂があってそこから草が生えていたりして、まるで廃道のような雰囲気になる。
 
「ちょっとやばいかな」
と独り言を言い、戻ろうかなと迷い始めた時、ひょいと近くの木々の間から出てきた人物がいる。
 
「きゃっ」
と言って紗早江は腰を抜かしそうになった。
 
その人物は60歳くらいだろうか?白い髪に白い髭。長い銃を肩に掛け、右手にステッキ、左手に銃で仕留めたのだろうか、鴨を手にしている。
 
「あんた宿泊客?」
とその老人(?)は尋ねる。
 
「はい」
「この道は危ないよ。戻った方がいい」
「危ないんですか?」
 
「そもそも物凄いワインディングロードな上に、案内板の無い枝道もあるし、大きな道に合流するまで10km以上ある。山歩きに慣れている人でも、この道を向こうまで歩き抜くのは大変だよ。僕は何度か歩いたけどね。猟銃とステッキ持って」
 
「猟銃ですか」
と言いつつ、彼が手にしている猟銃(?)を見る。これほんとに猟銃だっけ?紗早江はあまり銃には詳しくないが、なんか随分と大きくて、メカっぽいデザインである。
 
「ステッキは傾斜のある所の歩行補助でもあるけど、マムシ対策にもなる。マムシはたいてい向こうが逃げるけど、襲われそうだったら、一撃で頭を叩きつぶす。これ失敗したら噛まれるから」
「きゃー」
 
「マムシとはこれまで数回出会った。幸いにもいつも向こうが逃げてくれてる。一度はイノシシと遭遇して突進してきたから、猟銃で仕留めたよ」
「ひぃー」
 
どうもこの道路は自分にはワイルドすぎるようだと紗早江は認識した。
 
「僕は出会ったことないけど、クマも出るらしいよ」
「クマですか!?」
「僕の銃はクマには効かないからね。もっと強力な銃でないと倒せない。だからクマには遭いませんようにと祈りながら歩いている」
 
「わぁ・・・」
 
紗早江はちょっと死にたい気分でもあったのだが、クマに食べられるのは怖いかもという気がした。
 
「万一出会った場合はどうするんですか?」
「とりあえず友好的に撤退できないか試みる」
「それがいいですね」
 
「笑顔で挨拶したりして、敵対心が無いことを相手に示しつつ、後ずさりで逃げる。背中見せて逃げたら追いかけてこられるから」
「あ、その話は聞いたことあります」
 
「襲ってきた場合は仕方無いから、できるだけ近くに寄るのを待ってから急所を狙って撃つ。遠すぎると威力が落ちるし外しやすいけど、近すぎると倒れる前に噛みつかれるから、物凄くタイミングが難しい」
 
「うーん・・・・」
「最後の1発を残して全弾撃っても倒れなかったら、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の冥福を祈る」
 
「最後の1発は何のために残すんですか?」
 
「自分の頭に撃ち込むためだよ。熊って人間の胴体から食べ始めるから、自分が食べられていく所を見ていなくても済むようにするため」
 
「ひぃー!」
 
やはりこの道は通らない方がいいようだ。
 

結局彼に促されて、紗早江は道を戻り、ゲートの所まで来る。
 
「イノシシとかサルとかが侵入しないように、旅館の周りのフェンスは二重にしていて外側のフェンスには電流を流しているんだよね。道の出入り口も普段はここのゲートを閉じてるんだけど」
 
「なんかロックしそこなったみたいでした」
「始末書もんだなあ」
などと言って、紗早江と一緒にそのゲートを通り、そばの操作盤のふたを開けて数字を4つ押すと、いったんロックが解除される。それでゲートをきちんとしめると、自動的にロックされた。
 
「その鴨は今仕留めたんですか?」
と紗早江は旅館の建物に戻りながら尋ねた。
 
「うん。実はもう狩猟期間は終わってて今は禁猟期なんだけど」
「え〜〜〜!?」
 
狩猟が許可されている期間は都道府県によっても異なるが、だいたい11月から1〜2月くらいまでである。季節感のずれる北海道だけは4月15日までになっている。基本的には農作業のできない冬の間だ。これは誤射を防ぐためでもある。
 
「これ、内緒ね。だから支配人さんに見つからない内にこっそり焼鳥にして食べる」
「あはは」
 
「支配人さん、厳しいからなあ。狩猟可能な鳥は厳しく法律で決められているから、種類の分からない鳥は撃ってはいけないんだけどね」
「へー」
「でも間違って撃っちゃうことはあるじゃん」
「それまずいのでは」
「うん。支配人さんに見つかるとそれも叱られる。見つからなければ似た鳥ということにしてごまかして」
「うーん・・・・」
「男の娘を女の子だとごまかして女子高に入れちゃうみたいなもんかな」
「あはは」
 

紗早江は唐突に疑問が湧いた。
 
「従業員の方ですよね?」
「ううん。僕も宿泊客。もう半年以上湯治してるかな。あんたは最近来たの?」
「はい。2週間くらい前です」
「2週間いたにしては、お風呂場で会ったことないね」
「えっと・・・・私、女なので」
 
「へー。髪が短いし声も低いから男かと思った。それともチンコ切って男から女になったの?」
 
「いえ、生まれた時から女です」
と答えながらさっき見た、手術で男にされてしまう夢を思い出す。
 
「なんだ、つまらん。男だったら、夜這いかけようかと思ったのに。あんたが男なら、わりと僕の好みなんだよね」
 
こいつホモか〜〜〜!?
 
「あ、そうそう。僕は水下(みずした)」
「私は双(くらべ)」
とここで初めてふたりは名乗りあった。
 
「クラベってどんな字?」
「双子の双だけです」
「そんな苗字は初めて知った」
「うちの親戚だけかも。元は大蔵省の蔵に部長の部だったのではと聞いたことあります。石川県白山市に倉部町という所があって、そこがルーツらしいです。その傍系みたいで」
 
「ああ。地名が人名に転化したパターンか」
「確かにうちの親戚も北陸に多いんですよね。私は東京生まれですけど」
 
「なるほど。ちなみに手術して男になる気ない?いい病院紹介してあげるけど。最近の手術ではちゃんと立つし自分で触って気持ちよくなるチンコ作れるんだよ」
 
「いえ。結構です」
「相手の中に入れるの気持ちいいよ」
 
それはちょっと興味無いこともない。
 
「取り敢えずいいです」
と紗早江は一瞬の間を置いてから答えた。
 
「立ち小便できると便利だよ」
「立ち小便くらい、ちんちん無くてもふつうにしますけど」
 
紗早江はトラベルメイトの愛用者だったのだが、デビューした後は事務所から使用を禁止されており、仕方無く座ってしている。
 
「偉い!だからかなあ。あんた雰囲気が男なんだよね。体臭も男だし。男性ホルモン飲んでるの?」
 
「飲んで飲ません」
と答えて、体臭が男だと言われたのが気になった。生理が停まっているせいだろうか。
 
「でも半年も湯治って、ご病気か、お怪我かですか?」
「頭の病気かな。頭が壊れてるのがなかなか治らなくてね。夜中に錯乱して銃を乱射したらごめんね」
 
紗早江は彼が冗談で言っているのかどうか判断に苦しんだ。しっかし頭の病気なのに猟銃を持っているなんて危ない人だ。
 
旅館の通用口の所で別れたものの、彼の背中を見送ってから
 
「へんな人」
と独り言のようなつぶやいた。
 
紗早江はさんざん人からは変人だと言われてきたが、紗早江が人を「変わってる」と評するのはなかなか珍しい。例の死んだスナック店主さん以来かもなどと思ってから、また心の傷がうずいた。
 

2016年4月。
 
この月の頭に高知の祖父の葬儀に行ってきた青葉は、その時千里と話して節税のため個人会社を作った方がいいという話を聞き、高岡に戻ると早速動きだした。自分で色々調べた結果、こういう手続きは専門家に任せた方がいい!という結論に達し、司法書士さんに依頼することにした。
 
青葉はパソコンで富山県司法書士会のサイトを開き、高岡市内の司法書士のリストを取り敢えずコピーした。そこからまず認定司法書士だけを抜き出す。研修を受けていない人は除外する。これで12人に絞られてしまった。その12人の1人ずつにタロットカードを置いていく。
 
開く。
 
眺めてみる。
 
「ここかな」
と思った司法書士さんの事務所サイトを検索してみる。サイトはどうも3年前から全く更新されていないようである。これは全然問題無い。業務が忙しければ更新できなくなるのは自然である。その3年前に書かれたコラム記事を読んでみる。
 
「ここ良さそう」
と思い、青葉は電話してみた。
 

「ああ、学生さんで会社を設立なさるんですか?ベンチャーか何かですか?」
 
という司法書士さんの「声のトーン」が青葉はとても気に入った。声に乗っている波長はその人の性格や能力をかなり反映する。
 
「いえ。私は作曲家なので、ふつうの会社で言うような業務はほとんど無いのですが、今まで個人事業主でやっていて、税金が大変だったので、法人化した方がいいよと言われまして」
 
「なるほどですね。昨年度の売上はおいくらくらいでした?」
「約4000万円です」
 
一瞬向こうが息を呑んだような気がした。
 
「今年度も同じくらいになりそうですか?」
「今年はたぶん2億円くらい行くのではないかと思います」
「どこか会計事務所などご利用ですか?」
「J税理士事務所さんにお願いしています」
 
「おお、彼は私のK大同級生ですよ」
「それは凄い!」
 
青葉はほぼここに依頼することを決めつつあった。それで一度詳しい話を聞きたいということであったが、青葉がK大に通学しており、なかなか昼間時間が取りにくいと言うと、今夜だったら21時くらいまでいいですよと言ってもらえた。そこで高岡に戻ってから、そちらを訪問することにした。
 

それで4月12日の夕方、青葉は美由紀たちを伏木駅まで送った後、そのまま高岡市内の司法書士事務所に赴いた。
 
司法書士さんと、20-21歳くらいの女性が残っていて、応接室に通され、お茶と「ごますりダンゴ」を頂く。
 
「これもしかして岩手のですか?」
「ええ。お土産にもらったんですよ」
「私、大船渡の出身なんですよ」
「おお、それは奇遇ですね!」
 
という会話で結構なごむ。
 
「でも済みません。こんな遅くに」
「いや、実際仕事してたら、このくらいになるのは普通なんですよ」
「大変ですね!でも事務の方まで」
「ああ、あれはうちの息子ですから大丈夫です」
 
ん?と思う。あれ〜、女性のような気がしたけど、男の人だったっけ?青葉は自信が無くなった。
 
「会社設立に最低何日掛かるかとよく訊かれるのですが、その気になれば1日で株式会社を設立することも可能です」
と40代の司法書士・霧川さんは言った。
 
「1日でできるんですか!?」
「株式会社の設立に発起設立と募集設立があるのはご存じですか?」
「はい。それでちょっと人に募集設立を勧められたのですが」
「それはまた何で?」
「そちらが社会的な信用が出ると言われたのですが」
「関係無いと思いますよ。出資したい人がたくさんいるというのでない限り、発起設立でいいと思います」
「ああ、そういうもんですが」
「実際最近は大きな会社でもほとんどの会社が発起設立してますよ」
「へー」
 
「それに募集設立の場合、資本金が確かに保管されていることを証明するのに銀行から払込金保管証明をもらわないといけないのですが、これを銀行がなかなか出してくれないんですよ」
「え〜〜〜!?」
 
「銀行はその証明を出した場合、万一実際には口座に残高が無かった時は、その証明した金額を銀行自らが弁済する義務があります。ですから銀行は会社の設立者について入念な信用調査をします。日数も掛かりますし、結構拒否されるケースもありまして」
 
「わぁ。。。」
「ですから個人で開業する場合に募集設立をするのは難しいと思います」
「うーん・・・・」
 
ちー姉はそのあたりどうしたんだろう?と青葉は思う。
 
「逆にそういう意味では募集設立は信用度が高いかも知れません。そもそも充分な信用を持っていないと設立困難ですし、出資者を募集してそれを集めることができたということ自体がまた信用です」
 
「なるほど!」
 
「発起設立の場合は、基本的に定款を作って認証を受け、資本金を振り込んで登記の書類を作って法務局に提出するだけですから、発起人さんの印鑑証明、取締役さんの印鑑証明を用意して会社の社印も作っておけば、本当に1日で可能なんですよ。もっとも本当に1日で設立なさる方はあまりなくて、個人で会社を興される場合はだいたい1〜2週間で設立なさる方が多いですね」
 
「分かりました」
 
それで青葉は、やはり発起設立で行くことにし、会社のタイプとしては取締役会設置会社にすること(つまり取締役3人と監査役1人が必要)、発起人は青葉1人あるいはひょっとしたら別の人にも出資をお願いして2人と決め、司法書士さんから定款のひな形をもらい、それを書いて次回持ってくることにした。
 
青葉は帰りがけに、パソコンに向かって何か書類作成をしているっぽい事務の人をチラッと見た。長い黒髪にブラウスとスカート姿、お化粧もしてる。女の人に見えるけどなあと思うものの、詮索するのは、はばかられた。
 

青葉は彪志に電話をして個人会社の取締役になってくれないかと打診し了承を得た。印鑑証明を取ってできたら実印と一緒に送ってもらえないかと頼む。
 
「その実印を巨額借用書に押したりはしないからさ」
「うん。いいよ。青葉を信用して実印送る」
 
また、自宅に戻ってから朋子にも取締役になってくれないかと打診し、これも了承を得た。誰か監査役をお願いできないかと朋子に訊くと「典子に頼もう」と言い、朋子が妹の典子(桃香の叔母)に電話して名前だけならいいよと言ってもらった。それで、朋子と典子おばさんに、印鑑証明書を取って欲しいと頼む。
 
「じゃ明日、昼休みにでも行ってくるよ。青葉、あんたの印鑑証明書は?」
「うん。私のは2枚いるんだけどね。実はお母ちゃんのは3枚」
「分かった。一緒に取って来よう」
 
青葉が未成年なので、青葉が署名捺印する書類全てに、親権者である朋子の署名捺印も必要なのである。
 
「ありがとう! ついでにお願いしていい?」
「うん?」
「資本金の振り込み用口座を作らないといけないんだよね。私の名前でH銀行に作ってくれない?支店は既に口座のあるF支店以外ならどこでもいい」
 
同じ支店に同じ名義で複数の口座を作るのは困難である。データ処理上の問題も発生しやすい。
 
「じゃ会社の近くのN支店に作っちゃおうかな」
「うん。それでいい」
 

青葉はその後、現在東京北区の合宿所で合宿中の千里に、練習が終わったくらいの時刻を見計らって電話した。
 
「こないだ話していた会社設立の件なんだけどね」
「ああ。計画は進んでる?」
「うん。今高岡市内の司法書士さんに頼んで作業を進めてもらっている。それでやはり発起設立にしようかと思って」
「いいんじゃない。その方が簡単でしょ?」
「そうみたい。それでこないだ借りたお金をまだ返してないのに申し訳ないんだけど、出資金を一部頼めないかと思って」
 
「ああ。いいよ。発起人になればいいの?」
「どういう形でもいい。発起人でもいいし、単に貸してくれるだけでもいい。来月返すから。あるいは、それを資本金に振り替えるのでもいい」
 
「資本金はいくらにするの?」
「できたら800万円にしたいんだよね。事業の規模から考えて」
「2000万円くらいでもいいと思うけど」
「1000万円以上になると税金が高くなるんだもん」
「売上が10億なら関係無いと思うけど」
「さすがに10億は稼げない!」
「定款に書く業務は?」
 
「音楽・映像・公演の企画・制作および請負・委託、それらのソフトの制作・販売、グッズの制作販売、著作権などの知的所有権管理、書籍・ソフトウェアの制作・販売、そして人生相談と祈祷、念のため歌手やタレントの育成」
 
「ふーん。男の娘を育成して可愛い女の子に変えてあげる業務とかは?」
「何それ〜〜!?」
 
千里姉は時々意味不明のことを言い出す。
 
「まあいいや。800万円の内、どのくらい用意できるの?」
「それが今手元に150万しかなくて」
「じゃ700万円貸すよ。発起人になるには書類への押印も必要でしょ?」
「あ、そうなるかな」
 
「発起人は定款に押印しないといけないし、発起人決議書・発起人会議事録にも押印する必要がある」
「じゃ大変そうだから、単純に貸して」
「了解。今夜中に振り込んでおくよ」
「助かる!」
 
「会社名はどうするの?」
と千里に訊かれたので、青葉は候補としている名前を3個言った。
「うん。どれも大きな問題は無いと思う」
「良かった。誰か霊的な感覚のある人に確認してもらっておきたかったのよね」
「私、霊感無いけど」
「そういう話が面倒になること言わないで」
 
「登記はいつするか決めた?」
「それが悩んじゃって」
と青葉は言う。
 
「理想的には、新月から満月に向かう期間で、太陽と月が同時に地上に出ている時間帯。水星逆行やボイドの時間帯は避ける」
 
「まあそれは会社の設立日を選ぶ時の基本だよね」
 

月が次第に太くなっていくように企業も成長していくということから、こういうものは、朔望月の前半にした方が良いとされている。太陽と月が同時に地上に出ている時間帯は太陽と月の双方の恵みを受け取れる。ボイドはその時間帯にしたことが無駄骨・水泡に帰しやすい時間帯である。決して会社設立とか婚約や結婚のようなことをしてはならない。水星は商売の星であり、その水星が本来の力を発揮できない逆行時期というのも良くない。愛情関係を見る場合は金星の逆行を避ける必要がある。
 
ちなみに、2012年の貴司と阿倍子の婚姻届は2013.8.10、2018年の貴司と美映の婚姻届は2018.2.3、千里と信次の婚姻届は2018.2.16で、全てボイド時間帯に提出されている。
 
貴司と阿倍子の結婚式はボイドではなかったのだが、婚姻届の提出は「忘れられていて」翌日慌てて届けたら見事にボイドであった(忘れるように呪いを掛けたのは千里)。
 
千里と信次の結婚式もボイドではないのだが、パスポートを新姓で作るために婚姻届は1ヶ月前に提出した。それがボイドに掛かってしまった(こちらの犯人は理歌・淑子と結託した青葉)。
 
美映の場合は色々な意味で問題外である。
 
千里と桃香の「結婚式」2012.9.9もボイドである。これは千里としてはボイドを避けるつもりでいたのだが、桃香が写真屋さんに遅刻して来て、結果的にボイド時間帯に突入してしまった。
 
千里・桃香・貴司「3人の再婚」2021.4.3、青葉と彪志の結婚式2023.5.23はちゃんとボイド時間帯を避けて婚姻届の提出および結婚式をしている。
 

そういう訳で青葉は、新月〜満月の期間で太陽と月が同時に地上にあり、かつ水星逆行とボイドを避ける時間帯に会社登記をしたいと考えた。
 
「ところが、それが満たされるのは会社設立までに掛かる時間を考えて来週以降とすると、18日の14:55-17:15, 20日の16:45-17:15しかない。19日は日中が全部ボイド。21日以降は月出が夕方以降になってしまって、4月22日に満月、4月29日0:44から水星逆行に突入」
 
と青葉は言う。
 
「結構タイトだし、設立の作業は急ぐ必要があるね」
「そうなんだよ!だから定款の認証は時間の掛からない紙認証で行く」
「ああ。電子認証は料金は安いけど、時間が掛かるのが問題」
「そうみたい。3日は見て下さいと言われた。電子の方が時間掛かるって変なんだけどね」
 
「税務申告の書類だって紙の方が楽だし簡単だし」
 
「あれもおかしいよね。そういうわけでできたら18日(月)に設立。もし間に合わなければ20日(水)の夕方ぎりぎり。それにも間に合わなかったら再度考えるけど、次は6月5日まで条件に合う日が無いんだよね」
 
「あまり遅くすると売り上げの処理が面倒になるでしょ?」
「うん。4月中に設立できれば5月頭の巨額印税入金を会社の売り上げとして処理できるから」
「まあ設立前1ヶ月くらいまでのは、設立前の売上として計上は可能だけどね」
「うん。その話は一応聞いた」
 

翌13日。朝一番に千里から700万円が振り込まれてきた。ありがとうのメールを送っておいた。
 
昼休み、司法書士さんから連絡があり、青葉が候補としてあげていた会社名はいづれも法務局に類似社名は登録されていないということであった。またこちらで書いて今朝ファックスしておいた定款については特に問題は無いということであった。
 
青葉は社名は第一候補にしていたものを採用することにし、すぐにオンラインで「会社印セット」(代表者印・銀行印・角印・ゴム印)を頼んだ。即日発送ということだったので、明日14日に届く筈である。
 
その日帰宅すると、朋子が自分の分の印鑑証明3枚、青葉の印鑑証明2枚を取って来てくれていた。
 
「典子は印鑑証明は取ったということだった。取りに行って来ようと思う」
「だったら定款に押印してもらえるかな?」
 
それで典子叔母さんに連絡して、了承を得て、朋子の車で高岡市内の典子の家まで行く。
 

それで定款に署名捺印をもらった上で印鑑証明も受け取り、その足で司法書士事務所に行った。まだ残って作業をしていた事務所の人に渡す。
 
先日霧川司法書士が「息子」と呼んでいた女性である。
 
「来られるということでしたので、所長からこれを渡してくれるように頼まれていました」
 
と彼女はふつうに女の人の声に聞こえる声で言い、登記に必要な書類と書き方セットを渡してくれた。
 
「ありがとうございます。あのぉ」
「はい?」
 
「先日、所長さんから、所長さんのご子息と聞いた気がするんですけど、女の方ですよね?」
 
「私ですか?」
「はい」
「私、男ですけど」
「え?」
「女に見えます?」
「見えます!」
 
「不思議だなあ。確かに時々、お嬢さんとか、娘さんとか言われるんですよねぇ。私、いっそ性転換しちゃおうかな」
 
性転換って、それ男から女になるのだろうか?それとも女から男になるんだろうか?
 
「まあ別に仕事に支障はないから、性別なんてどう思われてもいいんですけどね」
 
と彼女はにこにこしながら言った。
 
「そうですね。確かに性別なんてどうでもいいですよね」
と青葉も笑顔で答えた。
 
彼女は今日もOLっぽい女性用スカートスーツを着ているし、ナチュラルメイクをしている。胸も見た感じ、Dカップくらいありそうだ。体型も女性的に脂肪が付いているように見える。少なくとも喉仏は認められないし、肩もなで肩である。身長は160cmくらいだろうか。
 
「ああ。私の名刺も差し上げますね」
「あ、はい」
 
それで受け取った名刺には《霧川司法書士事務所・事務員・霧川裕子》と書かれていた。これって女名前だよね?
 
「読み方はきりかわ・・・ひろしさん?」
「いえ。きりかわ・ゆうこです」
「失礼しました」
 
やはりこの人の性別は謎だ!
 

「そうだ。K大法学類の学生さんだそうですね」
「はい。1年生です」
「私も3月までK大法学類にいたんですよ」
「わあ、そうでしたか!」
「昨年、司法試験の予備試験に合格したので、今年は司法試験の本試験に挑戦です」
「それは頑張って下さい。優秀なんですね!」
 
予備試験に合格したというのは、つまり法科大学院卒業程度と認定されたことになる。学部在学中に予備試験に合格するのはひじょうに優秀な人である。
 
「はい、ありがとうございます。川上さんも法曹資格を取られるんですか?」
 
「あ、いえ。私はマスコミ関係を狙っていて。ですから総合法学コース(弁護士や司法書士を目指すコース)ではなく、企業関係法コースなんですよ」
 
「へー。でも自分で会社経営しながら、弁護士や裁判官はできませんもんね」
「ええ。そんなことしたら罷免されます!」
 

4月14日(木)は学校は休んで自宅で登記用の書類作成作業をした。午前中に彪志からの速達書留が到着する。取り敢えずありがとうメールを送っておく。自分の分と彪志の分を署名捺印し、朋子の会社と典子の自宅に車で行ってふたりの分の署名捺印ももらった。
 
そうこうしている内に、司法書士さんから定款の認証が終わったという連絡がある。それで青葉は資本金振込用に作った口座にネットで翌15日付けで800万円振り込むようにした。(資本金の振込は定款の認証後でなければならない)
 
これで登記作業が18日以降にならできることが確定したので、司法書士さんの所に行って書類を再確認してもらった上で、登記の日付は18日と記入した。
 
「じゃ18日(月)の15時以降に登記すればいいんですね?」
「お願いします。14:55-17:15の間ならいいのですが」
「それは確実にやりますよ。その時間帯の中で早い方がいいですか?遅い方がいいですか?」
「18日の場合は、できるだけ遅い時間帯で」
 
19日0:07に月が青葉の出生の火星に重なるので18日の場合は、できるだけ遅い時刻のほうが、出生ホロスコープとの相性が良いのである。20日になってしまう場合は逆にできるだけ早い時間帯がよい。
 
「じゃ17時くらいになるように順番札を取りましょう」
 
「助かります。よろしくお願いします」
 

青葉は4月15〜17日には東京に行ってきて、ステラジオのマネージャー連続怪死事件を解決した。
 
その事件に関して亡くなったステラジオのマネージャー大堀さんが自宅で使用していたパソコンが複雑にパスワードが掛かっていてデータが取り出せないということであったので、青葉はそのパソコンを預かって事務所に持って来た。
 
16日夕方、事務所の若い人が新しいハードディスクを1台買ってきて作業を始める。まずはそのハードディスクをUSBケーブルでつなぐ。
 
本体ディスクの中のファイルは、50組のアーティストに関する様々なデータ、一部は未発表曲のCubaseのデータなどもあったが、各アーティストごとに別のパスワードが設定されていたのである。
 
青葉はそれぞれのパスワードが各アーティストの作品名をある規則で変形させたものであることに気づき、それで事務所の人から曲名のリストをもらい、だいたい「これかな」と見当を付け、その曲名からパスワードを作ってひとつずつ解除しては新しいディスクにコピーした。何度か試行錯誤する場合もあったが、だいたい3回目くらいまでには「当たって」解除できた。
 
作業はその日22時までやった所で
「いったん休憩しましょう」
ということになり、翌日また朝8時から再開する。このアーティスト関係のデータの処理が14時頃まで掛かった。
 
それ以外に個人的なデータが入ってる。どうも写真のようなので、この件については娘さんの浮見子さんに来てもらった。彼女は今日は露出度の高い服を着ていて、青葉は目のやりように困った。この格好で電車に乗ってきたのだろうか?それとも自家用車か??と思っていたら、ターモン舞鶴さんがそのことを尋ねる。
 
「浮見子ちゃん、凄い格好で来たね?電車」
「電車ですよ〜。なんか今日は凄い視線を感じました」
「感じるだろうね!」
「今日は都内のスタジオで写真撮影してたんですよ。撮影用の衣装なんですけどね」
「ああ、そうなんだ」
「カメラマンの方が、それ家から着てきたの?と言ってましたけど変ですかね」
「うーん。。。浮見子ちゃんがよければそれでもいいかも」
 
「そうそう。今日のカメラマン助手の子が可愛かった」
「へー」
「タレントさんとかになる気無い?と言ったら興味あると言ってたから、今度事務所に呼ぶようにしたんですよ」
「おお、スカウトしてくれてる」
「男の娘ですけど、別にいいですよね?」
「可愛ければ問題無い」
「了解了解」
 

それでやっと本題になる。
 
「お母さんの思い出の場所とか、好きだったものとか、あるいは飼っていたペットの名前とかあったら教えて欲しいのですが」
 
それで青葉は彼女が思いつくもので解除を試みるもなかなかうまく行かない。
 
青葉もさすがに腕を組んで悩んでいたのだが、ふと思いついた。
 
I LOVE FUMIKO SATSUKI HANAE
 
と打ち込むとフォルダを開けることができた。
 
「おお!」
と見ていた社長が声をあげる。
 
「お子さんたちの名前だったのか」
とターモン舞鶴さん。
 
「お母さん・・・・」
と浮見子さんは涙を浮かべていた。
 
中はF S H P Xという5つのフォルダに分かれており、各々浮見子さん、五月さん、英恵さん、親族、そして別れた御主人絡みの写真が入っていた。
 
この家族の写真はUSBメモリーにコピーして浮見子さんに渡し、サルベージ作業は完了した。
 
青葉は17日の最終新幹線(東京21:04発)で高岡に帰還した。
 

18日(月)。夕方17:17頃に司法書士さんから連絡があり、17:12に法人登記の申請をしたということであった。2016.4.18 17:12 なら数理は6であり、会社の数理としては最高である(営利企業は4-6, 研究所や教育機関は7-9が良い)。基本的にはホロスコープ優先で数理はあまり重視していなかったのだが、幸先が良いなと青葉は思った。
 
なお登記完了はこの時期混んでいることもあり、4月28日(木)になるということであった。青葉はその日に登記事項証明書を取り、また会社実印を登録して、その印鑑証明書を取ってくれるよう依頼した。
 

23日土曜日、先日のステラジオの件で、最初の犠牲者となったスナック経営者の男性との補償交渉の場に同席することになった青葉は、その亡くなった男性の父親にあたるスイミングクラブのコーチさんから、思いがけず30年ほど前の悲恋物語のことを聞いた。
 
ところが翌々日の25日には大学構内で偶然遭遇した中川教授から、それとは全く違う話を聞き、ようやく青葉は水泳部事件の真相にほぼ到達することができた。
 
28日、司法書士さんから連絡があり、会社の登記が完了したこと、印鑑登録もして登記事項証明書と印鑑証明書を取って来たという報告を受けた。
 
これで青葉も「社長」である。
 
「今日中に税務署と高岡市と社会保険事務所への届けもしておきますので、数日中に税務署から法人番号指定通知書が会社の登記住所に送られると思いますので」
 
そのあたりは提携している税理士さんや社会保険労務士さんと連携して作業してくれるようである。提携している税理士さんというのは、青葉がこれまでも頼んでいたJ税理士事務所である。
 
「分かりました。ありがとうございます」
 
法人番号の通知書が届かないと(銀行によっては)法人口座を開設できないのである。結局銀行口座の開設は連休明けになるなと青葉は思った。
 

5月2日、青葉は水泳部事件の「ホンボシ」と対決することになった。相手のパワーが思いがけず強く苦戦したものの、最後は千里や美鳳の介入で何とか倒すことができて(恐らく)100年くらいの因縁を解消し、マソも成仏させてやることができた。
 
その件を翌3日、圭織に報告したのだが、ここで青葉は大きな誤解をしていたことに気付く、今回の一連の事件で、てっきり「最初に死んだ」と思い込んでいたジャネさんは実際には死んでおらず、意識不明のまま1年間入院中だと言うのである。
 
青葉は彼女の回復に何か力になれるかも知れないと思い、圭織と一緒に病院に行く。そして青葉の「霊的な治療」の結果、彼女は1年ぶりに意識を回復することになる。
 
そして彼女の口からジャネは自殺を試みたのではなく、木倒さんに突き落とされたこと(無理心中未遂)であったことが判明した。そして木倒さんの方こそ自殺であったことが、警察の事情聴取に対して彼のお母さんが、公開していなかった遺書が存在していたことを告白して判明。警察はその内容から、ジャネさんを突き落としたのが木倒さんであったことを断定した。木倒さんのお母さんはジャネさんの病院に行き、本人とご両親の前で土下座して謝罪した。
 

5月6日(金)。青葉は千里から借りていた2100万円を千里の口座に振り込んだ。2月に車を買うのに借りた200万円、3月に税金を払うのに借りた1200万円、それに先日会社設立の資本金用に借りた700万円の合計である。
 
3月〆の印税は5月2日(月)に振り込まれていたのだが、2日の日は壮絶なバトルをしていたので、とてもそこまで作業する余裕が無かったのである。
 
その日の夜遅く、千里から電話が掛かってくる。
 
「お金、確かに返してもらった。ありがとう」
「こちらこそ。本当に助かった」
「会社の設立は終わった?」
「終わった。あとは法人番号を税務署からもらった上で銀行口座を作れば、一通りの作業は終わりかな。あと、もう少し細かい手続きがあるけど」
 
「色々大変だろうけど頑張ってね」
「うん。ありがとう」
 

「でも2日の日はありがとう。本当に助かった」
と青葉は言った。
 
「ああ。あれは私じゃないから」
「ちー姉の眷属さんが倒してくれたんだよね?」
「まさか。あんなのそんじょそこらの僧兵とか龍とかに倒せるもんじゃない」
と千里は言う。
 
僧兵ね〜。龍ね〜。
 
と青葉が頭の中で千里の言葉を反復すると、《海坊主》が『ん?』という顔をしている。
 
「じゃ・・・誰がやったの?」
「あれは瞬嶽さんの能力だよ」
「師匠の!?」
「パワーとしては土地の神様の力を借りている」
「神様でないと無理かもと思った!」
 
「何が出てくるか考えずに封印開けちゃうなんて、青葉もわりと無謀だね。人間が航空機に立ち向かったって勝てないよ」
 
青葉はドキッとした。その飛行機のたとえは生前の瞬嶽から言われていたことである。
 
「私、瞬嶽さんのパワーとか呪法とかをいくつか預かっているから、その中のひとつを使わせてもらった。周囲の自然の《気》を自らがレンズになって集中させ相手を倒す。だから凄い風が吹いたはず」
 
確かに・・・凄い風だった。
 
「瞬嶽さん、まだ90歳とか100歳の頃はそれでイノシシ倒して食料にしてたみたいよ」
「実用的な呪法だ」
「霞を食べて暮らすようになったのはここ10年くらいだったかもね」
 
「ふーん。でもそれって、使える修行をしている人にしか使えないのでは?」
 
と言いつつ、青葉は千里姉が実際問題としてかなりの修行を積んでいるのではと想像していた。
 
「青葉はその前提修行が済んでいたからね。あれは***法というものだよ」
 
青葉は緊張した。その名前は聞いたことがあったものの、実態は知らなかった。
 
「青葉に伝授しちゃったからね。気を付けて使ってね。ビルの1個くらい簡単につぶせるから」
 
って・・・つまり、あれは結局私が倒した訳〜?うっそー。
 
「かもね」
「ただし、力加減を考えて使わないと、全力出し切ったら、使った後3ヶ月くらい寝込むことになるから。運が悪いと自分が死ぬ」
 
「だろうねぇ」
と青葉はため息をつきながら言った。
 
「今回は明治時代に始まった、たかが幽霊4〜5匹の集団だったから、青葉も私も大して消耗せずに済んだ」
 
そのくらいの集団だったのか・・・自分には相手の強さがどのくらいかがよくは分からなかった。修行不足だなと青葉は思った。
 
「青葉が使えるようになったから、これで***法を使える人は日本国内で3人になった」
 
「あと2人は誰?」
 
「羽衣さんと虚空さんかな」
 
青葉は腕を組んで沈黙した。
 

その日青葉が帰宅すると、税務署から法人番号指定通知書が届いていた。それで、司法書士さんと連絡を取り、明日一緒に銀行に行って口座開設の依頼をすることにした。銀行によってはひとりで行ってもなかなか作らせてくれない所もあるらしいのである。
 
それで青葉は明日は美由紀たちを金沢まで送れないことを3人にメッセで送っておいた。
 
5月10日(火)。朝から霧川司法書士と待ち合わせて、H銀行の伏木支店に行く。青葉の個人口座もあり、また登録している事務所住所(自宅)に最も近いので最も適切な開設場所である。
 
青葉が窓口で法人口座を作りたいと言うと、窓口の人が後ろの方にいる上司に確認するのに席を立とうとした所で、その前に先日個人口座を作った時に対応してくれた副支店長さんが出てきた。
 
「川上様、今日はどういうご用件ですか?」
 
と笑顔で言う。ちゃんと名前を覚えているのは偉いなと青葉は思った。商売をしている人の中には時々このように1度会っただけで顔を覚えてしまう人があるのである。
 
それで株式会社を設立したので法人口座を作りたいと言うと、頷き、青葉が提出した書類を見て
「資本金800万円ですか。分かりました。すぐ手続きを致します」
と言って法人用の口座開設申し込み書を渡してくれる。
 
「作るのは普通預金ですか?当座預金ですか?」
「普通預金で。今の所小切手とか使う予定はありませんので」
「分かりました。必要になったらまたご相談下さい」
 
会社名や代表者名を書き、銀行印を押して提出する。30分ほど待たされたものの、特に問題無く口座開設は行われ、通帳をもらう。
 
「この口座のキャッシュカードは後日、御登録の住所に簡易書留で郵送致しますので」
「はいお願いします」
 
ということで、青葉の会社の銀行口座は無事作ることができた。
 
世間では会社を作っても法人口座の開設を断られ、やむを得ず社長の個人口座で取引をしている会社も結構あるようなので、青葉の場合は物凄くうまく行った例のようである。また法人口座を申し込むと色々審査をして口座開設までに半月くらい掛かる場合もあるという。今回は即日作ることができた。
 
「私は特にすることなかったね」
と司法書士さんが言うが、
 
「いえ。一緒に来ていただいて、桐のバッヂを付けている人がそばに座っていただけで絶対、銀行側の態度が変わったと思いますよ」
と青葉は言った。
 
司法書士のバッヂは銀色の地に金色の「五三の桐」である。
 
「まあそれはあるかもね。僕らの役割の大半は実はそういう権威付けだから、そういうので役に立ちそうな場面があったらいつでも使って下さい」
と霧川さんは笑っていた。
 
なお、銀行口座は地銀だけでは不便なので、SBI住友ネット銀行にも開設することにした。この銀行の場合は「他行に開設した通帳のコピー」が開設申し込みに必要なので、どこかの銀行で口座開設に成功していないと、法人口座を作ることができない。
 
この日青葉は午後から学校に出たので帰りは美由紀と世梨奈を乗せて帰った。
 
 
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【春社】(1)