【春社】(3)

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洋彦が、現地にいる春彦(山彦の息子)と電話連絡した所、レンタル代は出すから、8人ならエスティマかアルファードの8人乗りを借りて欲しいということであった。それで空港そばのトヨレンで訊いたところエスティマ・ハイブリッドの8人乗りが借りられるということであったので、借りて千里のカードで決済した。
 
千里がカードを見せた時にトヨレンの係の人が一瞬ギョッとした雰囲気があった。洋彦も言う。
 
「千里ちゃん、凄いカード持ってるね」
「ああ、これですか? 銀行の人がぜひ作って下さい。初年度の年会費はサービスしますからと言うんで作ったんですけどね〜。来年からの年会費が頭痛いから1年で解約するかも」
 
「ああ、年会費が恐ろしそうだね」
 

「皆さんお疲れでしょう? 僕が最初は運転しますよ」
と彪志が言って運転席に座る。すると当然青葉が助手席に座り、2列目に洋彦・恵奈・朋子、3列目に千里・桃香・月音と座って出発した。この間、千里も桃香も朋子もひたすら寝ていた。みんなチケットの手配で遅くなり寝不足であった。
 
高速を降りた所で近くにあったローソンで休憩し、その後は千里が運転席に座って車を出した。千里が運転席なので当然桃香が助手席に座り、2列目に月音・朋子・恵奈、3列目に青葉・彪志・洋彦という配列になった。
 
「この人数だと座り方で悩むかと思ったけど、なんか自然に席順が定まるね」
と洋彦。
「きっとうまい組み合わせになっているんですよ」
と桃香は言っていた。
 

通夜・告別式が行われる斎場に到着したのは14時頃である。早速青葉・千里・朋子・月音は「何か手伝うことありませんか?」と佑子さん(春彦の妻)に声を掛け、各々準備作業に入る。彪志はおろおろしている内に芳彦さんから
 
「お、なんか元気そうな男の子がいる。僕のを手伝って」
と言われて、力仕事に動員されていた。
 
洋彦と恵奈は桃香と一緒に親族控え室に行く。すると、夏彦さんと貞男さん(秋子の夫)が居てビールを飲んでいた。
 
「おお、洋彦おじさん、遠い所からお疲れ様。桃香ちゃんも大きくなったね。もう20歳過ぎた?」
などと夏彦さんが言う。
 
「ええ、過ぎました」
「じゃビール飲む?」
「頂きます」
 
と言って、よく冷えたキリン・ラガービールの缶を勧められる。
 
「おお。ラガー大好きです」
と桃香は笑顔で言って夏彦からビールを受け取り、開けてごくごくと飲む。
 
「美味し〜い!」
「おお、いい飲みっぷりだね。どんどん行こう」
 
ということで、桃香は「飲み組」の仲魔!?になってしまった。
 
洋彦も「俺もビール飲もうかな」と言ったものの「あんたの葬式も一緒にすることになりたいのなら別だけど」と恵奈から言われ、名残惜しそうにドイツ産のビールテイスト飲料Beckersを貞男さんから受け取って飲み始めた。洋彦はもう5年以上禁酒している。
 
「でもまだあまり来てないのかしら?」
と恵奈が言う。
 
「うん。あんたたちが1着」
と夏彦は言っていた。
 

青葉や千里たちが到着したあとすぐに、博多組と平戸組が到着した。平戸組の長男・健伸(高校1年)をのぞけば、中学生以下の子供が多いので、健伸君だけ準備作業に加わり、他の子は控え室で、コーラやジュース、またおやつなどをもらっていた。また萌枝さんは道程でかなり疲労したようで「少し休ませて」と言っていたものの、その旦那さんの学さん、また芽依さんと旦那さんの太一さんは準備作業に参加した。
 
結果的にはこの14時前後に着いたメンバーでほとんどの準備作業は進められた。
 
「通夜は何時から始めるんですか?」
「18時半頃と言っといて。北海道や与那国から来る人たちが多分その頃の到着になるから」
 
実際の弔問客は17時頃からポツポツと来始める。千里は町内会の30代くらいの女性、横山さんという人と一緒に受け付けに立ち、その人たちを迎えた。香典の封筒を渡されると名前が書かれていることを確認してビール券入りの会葬御礼を渡していく。議員秘書さんが名刺だけ持ってきたのは、単純に受け取るだけである。お米を2-3kg持って来た人、他にタケノコのでかいのを2つ持ってきた人、他にも野菜など持って来た人がいたが、横山さんと視線を交わした上で名前を尋ねて紙を貼り付けた上で、ふつうに会葬御礼を渡した。
 

少し客が途切れたところで、横山さんが千里の数珠を見て
 
「なんか凄い数珠ですね」
と言う。
 
「ええ。私、戒名を頂いているものですから、それに前後して作ったんですよ」
と千里は答えておく。
 
実際にはこの数珠を佳穂さんから(千里用・青葉用・桃香用の)3種類セットでもらったのは2011年4月であるが、瞬嶽から「瞬里」という名前をもらったのは同年7月のことである。
 
青葉は知らないことだが、この数珠には佳穂さんによれば「セルフ・トレーニング・システム」が組み込んであって、この数珠を持って日常的に使っていると自然に自分の力量ギリギリくらいの事件に出会っていくので、10年くらいで一人前の霊能者になるらしい。もっとも千里も桃香もほぼ放置しているので、そのトレーニング・システムに鍛えられているのは青葉だけである(多分)。
 

「へー。凄いですね。じゃ、お経とかもたくさん唱えられるんですか?」
と横山さんが言う。
 
「それが私、お経は大の不得意で。私、本来は巫女なんですよ。ちょっと本山の偉いお坊さんに気に入られて戒名は頂いたのですが。ですから私がお経を読むと、祝詞に聞こえるんです」
 
「それ聞いてみたい!」
「じゃ後で」
 

通夜が長引いていたので、秋子さんと笑美さんに芽依さんの3人が話し合って高校生以下は旅館に帰そうということになる。
 
それで芽依・安子・幸恵・愛の4人が付き添って子供たちを旅館に連れていくことにする。
 
「何人いるんだっけ?」
「15人かな」
「かなり居るわねぇ」
「バス使う?」
「でも誰が運転する? 来彦さんは席を外せないよね」
「うん」
 
そんな話をしていら、それを聞いた桃香が
 
「あ、うちの千里が大型免許持ってますよ」
と言う。
 
「あら、凄いわね」
「千里さん、お願いできる?」
「はい、いいですよ」
 

それで千里は子供たちを乗せて、芽依さんたちも一緒に旅館までバスを運転した。安子さんだけは赤ちゃん連れなのでベビーシートをセットしている自分の車で伸子ちゃんを運んだ。安子さんが結構飛ばすのに対して千里は速度遵守で行ったので途中で離れてしまう。ところが旅館に着いたのは千里が先だった。
 
「着きましたよ。お疲れ様」
「あら、ここ以前来たことあった?」
「いいえ。でもここですよね?」
「うん。私ったら道案内するつもりがうっかり忘れてた」
「言わなくてもたどり着けるって凄い」
 
そんなことを言いながら子供たちを降ろしていた時、安子さんが着いた。
 
「あれ?先に行ってたと思ったのに」
「参ったぁ。スピード違反で切符切られちゃった」
「ああ。可哀相に」
「成明に叱られる〜」
「こっそり反則金払っておけばバレないよ」
 
愛さんと幸恵さんは子供たちが小さいので一緒の部屋で付いていたものの、芽依さんは小4・小2・年長なので、子供たちがすぐに寝たこともあり、富山組に割り当てられている部屋で休んでいた千里を呼びに来た。それで一緒に安子さんの部屋に行き、そこで長時間おしゃべりをしていた。
 

22時半頃、旅館を出てバスを出し、斎場に戻る。そちらはちょうど通夜振る舞いが終わった所で、片付けなどをしていた。千里もすぐヘルプに入ろうとしたものの、横山さんに捕まってしまう。
 
「千里さーん、さっき言ってた《祝詞風のお経》聞かせてください」
 
「そうですね。じゃ失礼して」
と言って千里は般若心経を唱え始める。
 
おしゃべりなどしていた人がみんなそれをやめて千里の方を見る。周囲の視線を集中的に浴びている中で、千里は半分ヤケクソで、心経を唱えていった。かなりの人が笑っていた。横山さんはもう我慢できずに笑い転げている感じであった。
 
「すごーい」
「こんなの初めて聞いた」
「これぞ神仏混淆?」
 
咲子まで
「凄くいいものを聞いた。あの人が生きている内に聞かせたかったくらい」
などと言っていた。
 
山彦などは呆気に取られていたようである。
 

だいたいの片付けが終わった所で、地元の人たちにお疲れ様を言い、遠くから来ている親族は千里が運転するバスに乗って旅館に移動する。
 
だいたい親族関係の1家族ごとに部屋が割り当てられている感じで、朋子・桃香・千里・青葉・彪志の5人は「富山組」として1つの部屋が割り当てられていた。
 
「青葉と彪志は端の布団を使うといい。他の人の安眠妨害をしない程度に」
と桃香は言っていたものの
 
「すみません。体力の限界です」
と言って彪志はいちばん端の布団に入ると、そのまま眠ってしまった。
 
朋子も「ごめん。私寝不足」と言って反対側の端の布団で眠ってしまう。それで桃香が「じゃ3人で飲み明かそうか」と言ったものの、ビールを1本持って来てふたを開けて1口飲んだところで「うっ」と声を挙げる。
 
「どうしたの?」
と千里が訊く。
 
「何だか身体がアルコールを拒否する」
「それって飲み過ぎということでは」
「仕方無い。寝よう」
 
と言って、朋子の隣の布団に行くと、そのまま眠ってしまった。
 
「この開けちゃったビールどうする?」
「私がもらうよ」
と言って千里は美味しそうにキリン・ラガービールを飲んだ。
 
千里と青葉はそのあとお風呂に行ってきてから、2時頃までふたりで話し込んでいた。
 

翌朝は7時から旅館の大広間で朝食となるが、この場で「帰り方」について話し合いがもたれた。それでJR組と飛行機組に分かれ、JR組は中村駅が斎場の送迎バスのサービス範囲なので、それで送ってもらい、飛行機組は昨日高知空港でレンタルしたバスで移動することにした。結果的にエスティマが余ってしまうのだが、これは芽依さんの提案で「いちゃいちゃ組」青葉&彪志と、満彦&紗希の4人が使うことになり、4人は早めに送り出すということになった。
 
朝は山彦さんがバスを運転して1往復半し、旅館に泊まっていた人たちを斎場まで運んだ。
 
千里は第1便で移動して、笑美さんを手伝い精進落としの料理の準備などを手伝った。煮染めを作る作業を芳彦さんの彼女の舞耶(まや)さんと一緒にした。
 
「桃香ちゃんの彼女でしたよね。富山に住んでるんですか?」
と舞耶が訊く。
 
「いえ。桃香が地元から離れて関東の大学に出てきたんで、そのまま居座って今は東京都内の企業に勤めているんですよ」
 
「ああ、そうでしたか。富山組ということになってたみたいだから」
「まあ分類が大雑把ですね。舞耶さんも高知組に分類されてたけど、言葉が四国の人じゃないみたい」
 
「芳彦が大阪の大学に入って、そのまま居座ったもので」
「まあだいたいそうなりますよね」
「でも大阪の会社に入ったと思ったら即岐阜に飛ばされて」
「サラリーマンに転勤は宿命ですもんね〜」
 
「それで岐阜で私と知り合ったんですよ」
「ああ。岐阜の方でしたか」
 
「千里さんも桃香さんと東京で知り合ったんですか?」
「ええ。大学の同級生だったんですよ」
「なるほどー。出身は・・・北海道?」
 
「すごーい。よく分かりますね」
「関東の言葉と似てるけど、微妙なイントネーションの違いがある感じで」
「概して北海道の人は自分たちは標準語を話していると思っています」
 
「ああ。そういう地域もありますよね。お仕事はなさってるんですか?」
「あ、名刺あげておきます」
と言って千里は舞耶にレッドインパルスの名刺を渡す。
 
「すごーい。バスケット選手ですか!」
「一応プロ選手のはしくれですね。給料安いけど」
「ああ。バスケットは確かに給料安そう」
「プロスポーツで、まともに食っていけるのは、たぶんプロ野球とかサッカーのトップクラスの選手くらいですよ。それも男子のみですよね」
 
「ですよね〜」
「女子バスケはそもそも大して観客の入らないような会場でやってることも多いし。大きな会場は料金も高いから」
「なるほど〜」
 
「舞耶さんは何かお仕事なさってるんですか?」
「ギシ製作所に勤めているんですよ」
と舞耶さんはこちらを試すように言う。
 
「義肢ってプロステーシス?」
「よくご存じですね〜」
 
「まあ色々なプロステーシスがありますよね。手や足、指だけのもあるし、おっぱいとか、おちんちんとか。白内障の手術に使う人工水晶体もプロステーシスの一種ですよね」
 
「詳しいですね! でもうちは、水晶体とかおっぱいやおちんちんの義肢は作ってないです。おちんちんも義肢というのかな?」
 
「男性は真ん中の足とか言ってますね」
「確かに言ってる!」
 
「私の知り合いの男性で、ペニスを失ってプロステーシスを検討したことのある人もいたので」
「わあ、男の人がペニス失うのは辛いでしょうね」
「自分が無くなってしまったような気がしたと言ってました」
 
「なるほどー」
「結局その人は移植手術を受けてペニス復活したんですけどね」
「移植なんてやるんだ! ドナーは?」
「お父さんが自分はもう使わないからと言ってあげたんですよ」
「へー。凄い愛ですね」
「それでお父さんの方がプロステーシスをつけたんですけどね」
「なるほどー」
「息子に息子を移植してやった、と本人はジョーク飛ばしてたらしいです」
「余裕がありますね。でも移植したペニスってちゃんと機能するもんなんですか?」
 
「問題無いらしいです。手や足に比べたら随分単純な器官だもん。普通に性的に興奮すると勃起して、ちゃんとセックスに使えるそうですよ。別におちんちんを動かして物をつかんだりはしないし」
「それできたら凄い」
「テレビに出られますね」
「放送できませんよ!」
「あ、そうかも」
 
「でも手術のあと傷が治るまでは勃起禁止だったらしく、できるだけ性的に興奮しないように気をつけていたらしいです」
「それも辛そう」
「女性ホルモンを処方したら立たないけど?と言われて、我慢しますと答えていたとか」
「女性ホルモンを摂れば永久に立たなくなったりして」
 
「でもうちで作っている義肢にはちゃんと動くのもあるんですよ」
「体表の微弱電流に反応するとかですか?」
 
「それもよくご存じですね!」
と舞耶さんは本当に感心しているようだ。
 
「逆に単純に人間の身体の動きに合わせてきちんと動く能動式もありますよね」
「そこまでご存じなのは凄い」
 
「自分の意志でちゃんと動いて握ったり開いたりして物を掴める義手は実際に装着している人を見たことあります。複雑な作業は難しいみたいだったけど、それで車の運転とかもできるんですよね。特例で運転免許をもらえたみたいで」
 
「あ、それは私が知っている人という気がする。その人が使っている義手もうちの会社の試作品なんですよ」
「わあ、それは凄い。でも義肢って、機能を優先するタイプと見た目優先のタイプがありますよね」
 
「ええ。うちはどちらも作っていますが、どちらかというと機能優先のものに力を入れているんですよね」
 
「ああ、そういうメーカーは稀少だから頑張って欲しいですね」
「ですねー。これで給料も良ければいいんですけど」
「まあターゲットが限られている商品ですからね。その人たちには必須の大事なものではあるんだけど」
 

この日の受付は最初青葉と月音さんがしていたが、告別式が始まるとふたりとも親族席の方に座り、その後は町内会の人たちがしてくれた。その告別式もかなり進み、もう焼香が始まって、喪主席にいる人たち(咲子・山彦・風彦・洋彦・聖火・桃香)が焼香のため祭壇の前に行った頃、郵便局の人が入ってきた。
 
「速達で書留が来ています」
「はいはい」
 
と言って受付に立っていた町内会長の奥さんが代理で受け取り、フルネームでサインした。
 
「あれ?現金書留じゃないのね?」
「はい。普通の書留ですね」
「へー」
 
現金書留で香典を送って来た人は何人かいたが、普通の書留なら、もしかしたら弔電の代わりのメッセージか何かかもと思った彼女は親族席のいちばん後ろに座っていた、佑子さんに声を掛けた。
 
それで佑子さんと一緒に開封した所、香典袋に為替が入っていた。見ると額面は2万円であった(と2人とも思った)。それで、他の香典と一緒に、控え室の香典の袋が立っている所に立て、その送り主の名前をリストに書き足して「郵送につき会葬御礼未渡」とコメントを付けておいた。
 
これが最後の香典になった。
 

告別式は11時頃に終わり、その後出棺、火葬となった。初七日法要の後、遺言の公開があり、12:50頃から精進落ち(他地域で言う「精進落とし」を高知県ではこう呼ぶ)が始まる。挨拶が終わった所で、青葉・彪志・芳彦・紗希の4人はエスティマに乗せて先に帰した。
 
一方他の人たちは食事会となり、仕出しやこの日午前中に親族や町内会の女性たちが作った簡単な料理が出される。この食事会が途中からカラオケ大会と化し、大いに盛り上がった!?
 
その後、解散となるが、空港までのバスを運転する予定だった来彦がつい勧められてビールを飲んでいたことが発覚。運転は千里がすることになった。
 

先に出た青葉たちは結局ひとつ早い便に間に合い、青葉は
 
高知空港1650-1735伊丹空港 新大阪18:46-21:22金沢
 
という連絡が金沢まで戻った。
 
精進落ちに最後まで付き合いバスで高知空港に向かった千里たちは
 
高知空港19:10-19:55伊丹空港 新大阪21:33-22:10米原22:48-0:39金沢
 
という連絡になり、金沢駅そばのホテルに泊まった。最初は桃香が青葉と自分と朋子の服を高岡の自宅まで取りに行くと言っていたのだが、青葉がかなり早く金沢に着いたことから、結局青葉が金沢駅そばの駐車場に駐めたままの朋子のヴィッツを運転して高岡に戻り、翌朝服を持って金沢まで来ることになった。
 

さて、千里は桃香には自分の入学式に着られるようなフォーマルは喪服と一緒に持って来ていると言っておいたのだが、実際には持って来ていなかった。それで青葉が別行動になっていて「多少怪しいことをしても」大丈夫なのをいいことに高知空港に着くと《きーちゃん》を分離し、彼女には洋彦さんたちと一緒に18:25の羽田行きに乗ってもらった。
 
そのまま用賀のアパートに帰ってもらう。それから千里のフォーマルを入れた鞄を持った状態で、喪服の入った鞄を持った千里といったん入れ替わり、荷物を下に置いてから、再度お互いの身体だけ入れ替えて、元に戻った。それで千里は入学式用のフォーマルの入った鞄を持って新幹線に乗った。
 
その日《きーちゃん》は用賀のアパートですやすやと眠った。ちなみに千里が高知・金沢に行っている間、Jソフトの方には、《せいちゃん》が女装して勤めている。
 
『なんか最近もう女装しても何とも感じなくなってきたなあ』
と忙しくシステムの設計提案書を書きながら《せいちゃんは》独り言のように思考した。初期の頃は女の服を着ると、あそこが立ってしまってどうにもならなかったのである。しばしば女子トイレの個室に籠もってひとりで処理していた。
 
『何なら、いっそ女に変えてやろうか?おまえ女になったら結構もてるぞ』
と《くうちゃん》が言う。
 
『1万年くらい経ったら考えてみる』
と《せいちゃん》は答えた。
 

千里は7日は青葉の入学式に参列し、そのあと青葉の服装センスがあまりに酷いので、通学用の私服をみんなで協力して買いそろえてやった。
 
「青葉の服装センスがなってないのは、やはり小さい頃から親に放置されて、服どころか食べていくだけで精一杯だったからだろうな」
 
と桃香はあとで千里と話した。
 
千里と桃香は7日の最終新幹線で東京に戻った。
 

8日、桃香は会社に出て行くと「無断欠勤」で課長から酷く叱られた。
 
「メールしましたけど・・・」
と言うが
「メールだけでは困る。そういうのはちゃんと電話して僕の許可を取ってくれなきゃ。だいたいいつまで休みたいというのも書いていなかったし」
 
と課長はカンカンであった。結局始末書を書くハメになった。
 
一方千里の方は8日朝、桃香を送り出した後、久しぶりにJソフトに出勤した。千里本人(千里A)が会社に出て行ったのは10月に1度出て行って以来、半年ぶりである。その間、実際には千里B(きーちゃん)と千里C(せいちゃん)が交代で出社していた。
 
千里は朝礼が終わると山口龍晴専務のデスクに行き、休暇願を提出する。
 
「専務、前々から言っておりました強化合宿の件で、明日から休暇よろしくお願いします」
「あ、了解了解。しかしうまい具合に仕事の切れ目になったね」
「ええ。タイミングが良かったです」
 
千里が担当していたプロジェクトは1月下旬に運用を開始し、当初は多少のトラブルもあったものの現在安定して動作している。2ヶ月安定していれば、あとは千里がいなくても他の人でも何とか対応できるはずである。
 
「じゃオリンピックで優勝してきてね」
「はい。優勝できなかったら責任取って退職しますので」
「いや、それは困る」
 

千里はこれまで何度も退職願を提出しているのだが、専務が受け取ってくれないのである。
 
千里はこの日午前中は今年入った新人さんの教育でビジネスマナーやプロジェクトの進め方などに関する話をした。この程度なら千里Aにでもできる話である。午後からは昨年秋に入社した女性SE藤さん、およびMTFプレオペの新入社員・石田さんを連れて新規のシステムの話のある会社に行き、挨拶と先方がどのようなことをしたいと考えているのかに関する「お話」のようなものをした。
 
なお先方には石田さんが戸籍上は男性で肉体的にもまだ一部男性であるというのは言ってないし、言う必要もないだろうと専務は言っていた。彼女は秘書検定も取っているし、専門学校に通いながらバイトもしていたので、けっこうそつの無い言動ができていて、先方にも気に入ってもらえたようだ。
 
彼女は情報処理技術者試験の既にレベル3まで取得しており、このシステムを受注できたら、藤さんがリーダー、石田さんが実質的なサブリーダーとして開発を進めることを予定している。
 

「でも村山さんって、すごく発想が柔軟ですよね。ふつうのSEには思いつかないようなことを提案されますよね」
と藤さんが言っていた。
 
彼女は専門学校卒で他のソフトハウスで3年間の経験があるが、前勤めていた会社が昨年8月に倒産し、それでJソフトに移ってきたのである。
 
「ああ、私はプログラムが分からないから、こういう発想するんだと思うよ。どうやって実現するかが分からないから、どういうものが欲しいかだけ考える」
と千里が言うと
 
「そういう発想の転換ができるのが凄いです」
 
と向こうは何だか感動していた。むろん彼女は千里が「プログラムが分からない」というのは冗談だと思っている。
 

この日は千里は5時半で会社を退出し、そのまま北区の合宿所に行った。荷物は今日はぐっすりと用賀のアパートで休んでいた《きーちゃん》が用意しておいてくれて、途中で交換した。
 
この日合宿所に集まっているのは代表候補として3月9日に発表された18名と発表されていない補欠選手4名の合計22名、その他にアジア選手権を制した時と同じコーチングスタッフの山野ヘッドコーチ・高田アシスタントコーチ、チーム代表の坂口さん、ほか数名のトレーナーやメディカルスタッフなどである。
 
合宿は本当は明日からなのだが、夕食後早速自主的に練習を始める。
 
「サーヤ、勘はにぶってないね」
と久しぶりの代表活動参加になった鞠古留実子(旧姓花和)が、旧友で代表は常連の森下誠美から言われていた。
 
「マチンコを蹴落として代表に入るつもりだから」
「うん。頑張ろう」
 
と言って2人は殴り合っていた!
 
「ところで彼氏はどうなった?」
と百合絵が訊く。
 
「ああ。元気にスカート穿いてお化粧して新しい会社に行ってOLしてるよ」
と留実子。
 
「嘘!?彼、女の子になっちゃったの?」
 
「というのを唆しているんだけどねぇ。俺は女装趣味はねぇと言って拒否してる。でもお化粧は覚えさせた」
 
「サーヤの話もどこまで本気でどこから冗談かよく分からない」
 
「でも新しい会社で女子バスケ部に入らないかって勧誘されたらしいよ」
「なんで〜?」
「今度の会社には男子バスケ部無いからさ」
「ああ」
「コーチ資格で入部してくれないかと言われたらしい。実際自分のトレーニングにもなるからいいんじゃないかと思うけどね」
「うん。それならいいんじゃない?」
「せっかくだから性転換して選手兼任で入ったらと言っておいた。精液は冷凍保存しているし、別にちんちん無くても問題無いから」
「精液保存してあればちんちん要らないんだっけ?」
「うん。必要無い」
「ナイトライフに使わないの?」
「じゃんけんに勝ったら使ってもいいよと言ってるけど、今の所50連敗くらいかな」
「そんなにじゃんけん弱いんだ!」
「それで今年に入ってからはずっとあいつに可愛い服着せてお化粧して、僕のお嫁さんになってもらっている」
 
「なんか楽しそうだね」
 
「あいつがエプロンドレス着てお料理している所に僕が後ろから抱きしめてそのまま押し倒して入れちゃう」
 
「えっと・・・・」
「もしかしてサーヤが鞠古君に入れるわけ?」
「あいつがお嫁さんだから」
「うーん・・・・」
 
「2人目はあいつに産んでもらおうかな」
 
「あ、交代で産むのもいいよね」
 

合宿中の12日には青葉から会社を設立するのに資本金の払い込みをしなければならないが来月頭までお金が無いので一時的に貸してくれないかと言われ、快諾して700万円振り込んでおいた。
 
また青葉がどうもかなり危険な事件に関わっているようだと感じた千里は青葉の後ろで暇そうにしていた《ゆう姫》に語りかけた。
 
『今回のはちょっとやばそうなんです。万一の時に青葉を助けてやったりはなさいませんよね?』
『私はそんなに親切ではない』
と姫様は言う。
 
『それでは私の眷属のひとりを姫様に預けさせてもらえませんか?その存在を青葉に秘匿しておいて欲しいのです』
 
『ああ。そのくらいなら、してもよい』
 
それで千里は万一の場合にはある程度の戦闘も可能な《びゃくちゃん》を姫様に預けた。《びゃくちゃん》は最近、大阪に行って京平のお世話をしていることが多いのだが、そちらは《いんちゃん》に行ってもらった。
 

16日の昼過ぎ、紅白戦をしている最中にその《びゃくちゃん》から
 
『やばい!青葉を停めて!』
という直信が飛んできた。
 
「すみません!タイム!!」
と大声で言って千里は試合を停めた。
 
「何だ?何だ?」
と高田コーチが言う中、千里はコート脇に置いていたバッグに走り寄り、青葉に電話を掛けて、向こうでとても危険な曲を再生しようとしていたのを停めた。
 
電話は1分以内に終えたが、電話を切ると周囲の視線が冷たい。
 
「すみませーん。妹が誤って劇物の入っている瓶を開けようとしていたものですから」
と千里は弁明する。
 
「ふーん。それで?」
とチーム最年長の武藤博美。
 
「えーっと、今日は全員にカツ丼おごりますから」
と言う。
 
「カツ丼じゃダメだな。ステーキをおごってもらおう」
と代表チーム主将でレッドインパルスの主将でもある広川妙子が腕を組んで言う。
 
「分かりました。それで」
と言って千里はペコペコした。
 

その日の夜、部屋で休んでいる時に冬子から電話がある。
 
ゴールデンウィークのローズ+リリーのツアーで、青葉に龍笛を頼んでいたのだが、青葉が何か人の命に関わる案件に関わっていて北陸から離れることができず、誰か他の人に代わってもらえないかということらしかった。
 
「千里はゴールデンウィークの予定は?」
「4月25日から5月11日までオリンピック代表候補の合宿」
「じゃ。だめかー!」
「ちょっと私も誰か吹ける人がいないか探してみる」
「頼む」
 
それで千里は真っ先に海藤天津子に電話してみたのだが、彼女はゴールデンウィークは彼女が主宰している神秘サークルのメンバーを連れて富士登山するということであった。
 
他にも何人かライブで演奏できるレベルの龍笛の吹き手に電話してみたのだが急なことで、日程の取れる人がいない。
 
千里は正直困ったなと思った。
 

『千里が吹いたら〜?』
と投げやりな感じで《すーちゃん》が言う。
 
『合宿中に抜け出す訳にはいかないよ』
と千里。
 
『龍笛吹く時だけ千里が行けばいいじゃん』
と《すーちゃん》
『はぁ?』
 
『ああ、なるほどー!』
と《てんちゃん》がその方式に気付いた。
 
『貴人がケイたちについて全国を飛び回る。そして龍笛を吹く時だけ千里に交代する』
 
『え〜〜〜!?』
と千里も《きーちゃん》も言う。
 
『千里はふだん旭明流で吹いているけど、鳳息流でも吹けるだろ?』
『たぶん吹ける』
 
旭明流は留萌Q神社で先輩巫女の寛子さんから習ったもので、最終的には寛子さんの師匠の師匠にあたる名人さんから免許皆伝を認定されている。鳳息流は千葉L神社で、もうひとりの龍笛担当であった巫女さんが吹いていたのを真似させてもらったものである(彼女も交換に千里の吹き方を学んだ)。
 
『それで吹けば千里だとはバレないよ』
 
『でも私がステージに出ている間、合宿の練習は?』
『5分や10分くらいなら私が代理をするよ』
と《すーちゃん》
 
それでツアーには基本的に《きーちゃん》が付いて回り、龍笛を吹く場面では
 
1.ステージの《きーちゃん》が合宿所の千里と位置交換
2.合宿所の《きーちゃん》が自宅にいる《すーちゃん》と位置交換
 
というステップを踏むことにした。出番が終わったらこの逆をやる。篠笛やフルートくらいなら《きーちゃん》がそのまま吹くことにする。また入れ替わりがバレないようにするため《きーちゃん》はツアー中、プロレスラーのマスクのようなものをかぶって、顔を隠しておくことにした。・
 
『マスクとか服の下の中身だけ位置交換できる?』
『できるよー』
『凄いことを知った。これ何か使えそうだなあ』
と千里は言って、考えるようにした。
 
ともかくも、何とかなりそうなので、千里は冬子に電話して『禁断の吹き手』を紹介すると伝え、冬子も千里が推薦する人なら信頼するよと言って、龍笛の吹き手は決まった。
 
そういう訳で、ゴールデンウィークのローズ+リリーのツアーでは、シビアな問題に同時に2つ関わり時間の取れない青葉に代わって、千里が(内緒で)龍笛を吹くことにしたのである。
 

千里はできるだけ他の子たちが眠っているタイミングを見計らって、《くうちゃん》に頼んで、自分と《きーちゃん》《すうちゃん》の3人だけが話し合える空間を作り出してもらった。
 
『まあさっきは、他の子たちの手前、あの計画に賛成したんだけどね』
と千里は切り出す。
 
『そのやり方では確かに物理的には可能かも知れないけど、練習にも演奏にも集中できなくて、中途半端なことになりかねないと思うんだよ』
 
『それで代わりにこういうことにしたい』
と言って千里は、これまで眷属全員に秘密にしてきた、あることを打ち明けて代替案を提示した。
 
『すごい秘密を知ってしまった』
と《きーちゃん》も《すーちゃん》も言う。
 
『だから基本的にはやり方は同じ。当日、彼女は合宿所の私の部屋で休ませておくから、出番になったら《きーちゃん》は彼女と自分を入れ替えて』
 
『了解。じゃ結局私が基本的にはツアーに同行するのね』
『そうそう。彼女は他の眷属とは違うから、長時間は動かせないんだよ。ステージの間だけ入れ替えて、打ち合わせとかはきーちゃんが聞いといて』
『分かった』
 
『私は出番無し?』
と《すーちゃん》が訊く。
 
『うん。せっかく提案してくれたのにごめんね。でも何なら基礎練習中とかに私と入れ替わって代表合宿を体験してみる?』
 
『なんか、そういうのやってると深みにハマりそうだけど、経験してみたい気はする』
『じゃ、きーちゃん、その時はよろしく〜』
 
『OKOK』
 

合宿は4月9日から20日まで12日間、みっちりと行われた。今回代表メンバーは大幅に若返っており、それに合わせてかなりハードな練習になっている。それで元々体力の無い数名が「今回の合宿はきつーい」と言って、途中でへばってしまうこともあった。
 
4月18-19日は男子の代表候補が世界最終予選に向けた第2次合宿に来たものの、女子の方が優先でコートは使わせてもらった。しかし1回だけ男子代表と女子代表で練習試合もした。
 
試合はさすがに男子が勝ったものの
「女子強ぇ〜」
「スピードがほとんど男子と変わらん」
「全然気が抜けなかった」
「一瞬の隙にやられてしまう」
「さすがアジアチャンピオン」
 
と言って男子代表選手たちが、女子代表選手たちを褒め称えていた。
 
「ところで男子で1人か2人、ちょっと手術して女子チームに参加してくれたりはしない?」
などと高田コーチが冗談を言っていた。
「今女子代表になればリオに確実に行けるよ」
 
何人か顔を見合わせていたものの
「大丈夫です。俺たちもOQTを勝ち上がってリオに行きますから」
と前山さんが言っていた。
 

千里の合宿は20日夕方終了した。
 
「じゃ次は25日〜」
「また頑張ろうね〜」
と言って別れる。
 
千里は合宿所に駐めていたアテンザに乗ると都内の小さな体育館に向かった。そこでひとりでバスケの練習をしている人物がいる。
 
「お疲れ〜、貴司」
「お疲れ〜、千里」
「じゃちょっと手合わせしよう」
 
ジャージの上下を脱ぐと、下はチーム名の入ってないバスケットウェアを着ている。合宿所を出る時にこれを着けて来ていたのである。
 

千里と貴司は、1on1やシュート合戦、ゴール下の攻防練習、またパス練習などで2時間ほど汗を流した。
 
「結構いい汗掻いたね」
「私たち結構健全なデートしてるよね」
「僕は健全じゃないデートの方が好きだけど」
 
時間が遅いし、他に体育館を使っている人もいなかったので、用具室の中でふたりで一緒に着替え、ついでにキスだけした。
 
体育館の人に御礼を言って出る。アテンザにふたりで乗って、首都高から中央高速に乗った。
 
「だけど、代表合宿は何か女子は凄い気合いが入っていたね」
「男子は何か動きが鈍かった。もう少し気合い入れた方がいいと思うけど」
「うーん。。。平均年齢高いからなあ。女子は今回物凄く若返ったみたいね」
「うん。大リストラしたね。でも若い選手が多いから練習内容がこれまでの1.5倍になっている感じ」
「大変そう」
 
「ちなみに貴司は手術受けて女子チームに参加したりはしないよね?」
「遠慮しとく。それに今の女子代表のレベルなら、僕が性転換して参加してもロースターに残れるかどうか微妙だと思う」
「気が弱いこと言ってるな」
 
「実際問題として僕の身長ならセンターやってと言われそうだけど、僕はゴール下で、鞠古や森下に勝てる気がしないよ」
「まああの子たちはゴール下で10年15年戦ってきているからね」
 
最初は貴司が運転し、談合坂SAで休憩。ここで夕食兼夜食という感じの食事を取った。車はSAの建物から最も遠い付近に駐めており、食事のあとでトイレにも行った後、車に戻ってフロントグラスにはサンシェード、横の窓にはカーテンを取り付けて目隠しする。
 
ふたりで後部座席に乗り、ロックを確認した上でキスした。そのまま抱き合う。
 
むろんふたりは「セックスは」しない。
 
ふたりは貴司もオリンピック切符を掴めたらセックスするという約束である。
 

貴司が結局眠ってしまったので、千里は自分が運転席に座った上で、助手席に《きーちゃん》を座らせる。
 
その後《きーちゃん》は大阪にいる《いんちゃん》と位置交換した上で、更に千里と位置交換した。これで千里は大阪に来ることができて、《きーちゃん》は結果的に運転席に座るので、そのまま《きーちゃん》が車を出して、夜の中央道を走って行った。《いんちゃん》はそのまま助手席で仮眠する。
 

大阪のマンションではもう阿倍子さんは居間のソファの上で眠ってしまっていた。千里は彼女に毛布を掛けてあげて、部屋の灯りを消した。
 
京平は起きて独り遊びしていたようだが、千里を見ると「カーカー」と言って嬉しそうにする。
 
『京平、おかあちゃんのおっぱい飲む?』
と尋ねると嬉しそうな顔をするのでベビーベッドから抱き上げて居間の床に座って京平を抱きおっぱいを直接飲ませてやった。
 
これは実は千里と京平の「日常」なのである。
 
千里が来られない日は女の眷属が千里に擬態して遊んであげたりもするが、千里以外はおっぱいも出ないし、京平には誰が擬態しているかの区別が付いているようで「きーきー」とか「すーすー」とか呼びかけてくる。
 
このマンションは貴司が仕事やバスケ活動、更には浮気!?で不在がちなので、阿倍子と京平の2人暮らしに近い状態ではあるものの、実際には夜中になると千里やその眷属たちに伏見の人たちまで入り乱れて、かなり賑やかなことになっていたりする。伏見の人たちは原則として千里たちにも見られないようにしているようだが、ノリのいい《てんちゃん》に見つかって『まあまあ』とか言われて、京平を入れて3人で遊んだりしたこともあった。
 
今夜の京平は千里のおっぱいを飲みながら、時々口を離しては色々な声を出して、様々な出来事の報告をしているような感じだ。それで結局30分ほどおしゃべりをした後、眠ってしまったので、そっとベビーベッドに置いて布団を掛けてあげた。
 

京平とのふれあいが終わると千里は伏見の人に向かって会釈する。向こうは見られているとは思っていなかったようでビクッとしていた。それで千里が《きーちゃん》に連絡すると《きーちゃん》は車を非常駐車帯に駐め、まずは自分と千里を入れ替え、その後《いんちゃん》と入れ替わった。
 
結果的に千里が運転席、《きーちゃん》は助手席に来る。
 
『じゃこの後は私が運転するね』
『うん。途中で交替しよう』
 
それで千里の運転で中央道を走り続け、阿智PAから桂川PAまで《きーちゃん》が運転、最後はまた千里が運転して、朝6時頃、千里(せんり)のマンション前に到着する。
 
「貴司着いたよ」
「わ、完璧に熟睡してた」
「また頑張ってね」
「うん、そちらもね」
 
ふたりはキスして別れた。千里は車を近くの月極駐車場に入れると、新幹線で東京に帰還した。新幹線の中ではぐっすりと寝ておいた。
 

4月21-22日は「クロスリーグ」の開幕戦であった。
 
40 minutes, ローキューツ、ジョイフルゴールド、レッドインパルスの4チームによるリーグ戦で、今回は21日に40 minutes対レッドインパルスを行い、22日にローキューツとジョイフルゴールドの試合を行った。アイドル歌手のライブをハーフタイムにやったのも効いてチケットは1500席が2日間ともソールドアウト。リーグ戦は黒字スタートとなった。
 
初日40 minutesとレッドインパルスの試合は激しい試合になった。
 
千里が3月までいたチームと4月から入ったチームの戦いである。スターティングオーダーはこのようになっていた。
 
4m PG.森田雪子 SG.中折渚紗 SF.中嶋橘花 PF.若生暢子 C.森下誠美
RI PG.入野朋美 SG.村山千里 SF.広川妙子 PF.鞠原江美子 C.三輪容子
 
両軍合わせて日本代表が5人も入っている!
(雪子・誠美・千里・妙子・江美子。代表経験者なら8人)
 
そして両軍のシューター、渚紗と千里はどちらも33の背番号を付けている。
 

誠美と容子のティップオフは誠美が日本代表の貫禄で勝って雪子がドリブルで攻めあがる。レッドインパルス側が守備体制を整える前に渚紗にパス。渚紗はスリーを放り込んで40 minutesが先制する。
 
しかしレッドインパルスも江美子から朋美、千里とパスでつなぐ速攻でこちらもスリーを放り込む。試合はスリーの応酬から始まった。
 

どちらも無駄なパス回しなどはせず、どんどん走ってどんどん攻める。むろんマンツーマンだが、実際問題としてマッチングが固まる以前に速い攻めで得点を奪うケースが多かった。
 
交代要員も層が厚く、40 minutes側は主将の竹宮星乃、副主将の河合麻依子のほか橋田桂華、松崎由実、松山聖子など、プロ級の選手をどんどん送り出す。レッドインパルスも渡辺純子、久保田希望、黒木不二子、小松日奈など並みのチームに行けばエースを張れるメンツを送り出す。
 
観客の中から
「すげー。男子の試合みたいだ」
という声が漏れるほど、スピードとパワーあふれる試合展開となった。
 

第2ピリオドも終わりかけ、そろそろ選手も疲れが出てきた頃。ドリブルで攻めあがってきた40 minutesの暢子が前の方に33番を付けた選手がいるのを見てそちらにパスした。
 
ボールをもらったのは千里である。
 
暢子はパスした瞬間「あっ」という声を出していた。
 
完璧に間違ったのである。
 
しかし千里は顔色1つ変えず、もらったボールをドリブルして速攻。軽いフットワークと絶妙なフェイントで暢子を抜くと、スリーポイントラインの所まで辿り着き、即シュート。3点取った。このプレイで前半終了となった。
 
「渚紗と同じ33だから間違った」
と追い付いてきた暢子が言う。
 
「間違いだろうと何だろうともらったボールはシュートする」
と千里。
 
「千里、高校時代は相手チームの選手が間違ってパスしたボールを外に投げ捨てて相手チームに返してやったね」
 
「あの頃はまだ今ほど厚かましくなかったんだよ」
 
「お互いに年取ったな」
と暢子。
「お互い成長したんだよ」
と千里。
 
ふたりはお互い肩を叩き合って、各々のベンチに引き上げたが、暢子は主将の星乃から「罰金。あとで全員にコーラおごること」などと言われていた。
 

23日の日はオフであったが、エヴォン銀座店で冬子と会い、音楽関係のことや★★レコードの新しい体制などを中心に意見を交わした。なお、エヴォン銀座店は3月いっぱいで和実が退職したので、現在如月乃愛が店長をしている。
 
24日は経堂のアパートで、掃除・洗濯・食料の備蓄作りに精を出した。そしてその日の夕方からまた北区の合宿所に入り、オリンピックに向けての第2次合宿に入った。
 
桃香とはほとんどすれ違いである!実は4月8日の朝以来桃香と会っていない。
 

4月27日(水)夕方。
 
Jソフトから千里のスマホに「合宿中で申し訳無いけど夜になってからでもいいから、これちょっと見てもらえないだろうか?」という連絡が入った。このスマホは《きーちゃん》と《せいちゃん》が共用しているものである。
 
『これ誰が分かる?』
『それは千里Cだな』
『しゃあねえな。行ってくるよ』
 
それで《せいちゃん》は合宿所を抜け出してJソフトに行って問題の生じていた箇所を修正した。作業はデータの再調整作業まで含めて翌日の昼近くまで掛かった。
 
『やっと終わったよ』
『お疲れ様〜。あ、戻ってくる時、ついでに用賀のアパートからきーちゃん用の龍笛・篠笛・フルートと着替えも持ってきてくんない?』
『へいへい』
 
29日からローズ+リリーのツアーが始まるので28日は午後から沖縄に移動することになっていた。
 
それで《せいちゃん》はJソフトを出て二子玉川駅から東急に乗るとすぐ次の用賀で降りて、アパートに寄り、《きーちゃん》から教えられた場所に入っていた、やや赤味のある外観の龍笛、白っぽい感じの篠笛、アルタスの総銀フルートA1007(Eメカ)を楽器用のハードケースに入れる。千里が通常制作やライブ演奏に使用しているのは本棚の所に置かれている黒い外観の龍笛、朱塗りの篠笛、サンキョウの総銀フルートArtist(New-E)である。
 
ついでに《きーちゃん》用のタンスの引出しから着替えをバッグに詰めて持った。普通は女物の服を男の眷属には触らせないのだが、最近《せいちゃん》は女装している時間が長いので、女の眷属たちから《半分女の子》扱いされていて、結果的に便利に使われている。
 
ともかくも、荷物を持ってからそれで電車で移動する。
 

用賀から合宿所までの移動は神保町で乗り換えて三田線に乗るのだが、その頃には《きーちゃん》の方も合宿所を出て、本蓮沼駅から三田線に乗っていた。彼女はそのまま三田駅まで乗ってエアポート快特に乗ればいいのだが、その途中の神保町で荷物の引き渡しをすることにしていた。
 
それで《せいちゃん》が荷物を持って神保町で《きーちゃん》を探していた時、トントンと後ろから肩を叩かれる。
 
「わっ」
と言って振り返ると、17-18歳くらいの女の子が4人並んでいる。
 
「こんにちは、千里お姉さん」
とひとりの子が挨拶する。
 
お姉さんってことは・・・・この子たちは多分、青葉の友達で。えっとえっとと《せいちゃん》は必死に記憶を辿る。
 
「えっと、せりなちゃんと、みつえちゃんだったっけ?」
「世梨奈と美津穂でーす」
「ごめーん。間違った」
 
あと2人は久美子ちゃんと照香ちゃんということだった。
 
「ローズ+リリーのツアー伴奏で沖縄まで行くのに新幹線で東京に出てきたんですよ」
と彼女らは言っている。
 
高岡から沖縄に行くのには伊丹空港を使う方法と羽田空港を使う方法があるが、料金は伊丹経由が安いものの、時間は羽田経由の方が速い。それでサマーガール出版からは羽田経由の料金でお金をもらっていたので、朝一番の便で東京に出てきて、新宿や神保町を散歩していたらしい。
 
「これから羽田空港に向かうんですよ。お姉さんはお仕事中ですか」
「あ、いやこちらも羽田に向かおうとしていたのだけど」
 
「あれ?もしかして、青葉の代理で今回龍笛を吹くのは結局、お姉さんになったんですか?」
 
しまったぁ!その話は内緒にしないといけなかった。千里に叱られるぅ!と《せいちゃん》は焦る。
 
「あ、えっとその件はケイさんたちも含めて他の人には内緒で。正体不明の《禁断の吹き手》が参加することにしているから。これで顔を隠して参加するんですよ」
 
と《せいちゃん》は言って、《きーちゃん》用の荷物に入れていた覆面をかぶってみせる。
 
「おお、プロレスラーみたい」
「でも、秘密にするのは問題ないですよー」
「私たち、口が硬いもんね」
 
口が硬いというのに関しては、すごーく怪しい気がする。
 
「でもお姉さんも沖縄に行くのなら一緒に行きましょうよ」
「うん、そうだね」
 
と言って、《せいちゃん》は結局彼女たちに促されるように、三田線の乗り場の方に移動していった。
 
その様子を少し離れた所から見ていた《きーちゃん》は「うーん」と腕を組んで悩んだものの
 
「ま、いっか。後で入れ替わればいいし」
 
と言って、取り敢えず合宿所に戻ることにした。
 
なお航空券とツアーのバックステージパスは《くうちゃん》が転送してくれた。
 

那覇空港を出た後、《せいちゃん》は覆面をして、世梨奈たちと一緒に今日泊まるホテルに入った。覆面をしているとゆいレールの中で随分視線が集中していた。
 
ロビーで待機していた氷川さんに《ローズ+リリー伴奏者/禁断の吹き手》というバックステージパスを見せると、氷川さんは顔色一つ変えずに
 
「お疲れ様でした。18時からリハーサルをしますので、早めに夕食を取っておいてください」
と言って、ホテルの部屋の鍵とレストランの食事券を渡してくれた。
 
《せいちゃん》はこの人、大物だと思った。
 

覆面姿で出歩くのは怪しすぎるので、普通の男性の姿になって食事を取っておいた。そのあと部屋で休んでから17:40くらいに千里に擬態し、自分用の女性下着を着けバストパッドも入れて完全女装した上で髪をまとめ覆面をつける。そして楽器の入ったケースを持ってリハーサルをする会場に入った。
 
《きーちゃん》に『そろそろ交替してくれない?』と呼びかけるのだが、反応が無い。そんなことをしている内に、覆面姿の彼を見て、マリが興味津々な様子で近寄って来て
 
「あのお、お名前お聞きしてもいいですか?」
と言うので、
 
「謎の男の娘ということにしておいてください」
と取り敢えず女声で答えておく。
 
「男の娘なんですか!?」
「ちんちん付いてますよ」
「ほんとに? 見せて」
「そんなの見せたらセクハラです」
 
実際には股間はJソフトに勤務する時はテープタックしている。きーちゃんにはメンテが楽な接着剤タックを勧められているものの、接着剤タックは《おいた》をしたくなってもできないという重大な問題がある。あれはもう男を捨てている人のものだが《せいちゃん》は取り敢えず男を辞める気は無い(たぶん)。
 
マリとそんなやりとりをしている内に、七星さんが
「何か吹いてみてもらえます?」
と言ってくる。
 
さすがにやばいぞ、と思った瞬間、《きーちゃん》が位置交換をしてくれて《せいちゃん》は合宿所の千里の部屋に来ていた。
 
目の前に覆面をつけた女が居るが、千里ではないようだ。これは誰だ? と思った次の瞬間、その女の姿は消えて覆面をつけた《きーちゃん》が出現した。《きーちゃん》はすぐ覆面を外す。
 
(つまり覆面は同じ物が、せいちゃん用・きーちゃん用・実際の演奏者用と3枚ある)
 
「助かったぁ。俺が龍笛吹いたら、速攻で首になってたよ」
と《せいちゃん》。
 
「いや、吹いてもらう人がすぐにはスタンバイできなかったんだよ。それで時間が掛かった。何とか間に合ったね」
と《きーちゃん》
 
「やはり千里じゃないよね?あれ誰なの?」
「内緒。千里ではない人が吹いているというのも、他の子には言わないで」
「それはいいけどさ」
 
「でもあんた、何もわざわざ男の娘ですと言わなくてもいいのに」
「いや、ただの冗談のつもりだったんだけど、真に受けられたかも知れん」
「まあいいか。でも、あんたも関わっちゃったし、今回のシークレット・オペレーションに参加してよ」
「いいよ。女装してソフト書いてるよりは面白そうだし」
 
 
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【春社】(3)