【春社】(4)

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千里の第二次合宿は4月25日から5月11日までの17日間で、途中にオーストラリアチームとの強化試合も設定されていた。
 
その間、5月2日には青葉が「水泳部の怪」の解決にあたって、幽霊の集団との戦いをした。この時、千里はちょうど紅白戦のハーフタイムに入ったので、青葉に密かに付いている《びゃくちゃん》を媒介にして、青葉の身体を勝手に使って瞬嶽から預かっていた秘法のひとつを作動させた。
 
その場の自然の気を集めて竜巻のようなものを作り相手にぶつけるもので、いわば風遁の術である。瞬嶽はこれはパワーさえ注ぎ込めば鯨1頭くらい簡単に倒せるし、コンクリートのビルを破壊できると言っていた。
 
しかしさすがにこんな大技を発動させるには千里も本体が一時的に動けなくなる。これはうまくハーフタイムに掛かったので良かったのである。また体力回復にも時間が掛かるので、千里はこの日はローズ+リリーのライブが無くて《きーちゃん》が使えるのをいいことに、後半は《すーちゃん》を代わりにベンチに座らせ自分は部屋で仮眠していた。
 
ローズ+リリーのライブは4.29-5.1 5.3-5,8 とうまい具合にこの日が休養日になっていたのである。《きーちゃん》はこの時間帯は広島から札幌への移動中で大阪に居たのだが対応してくれた。
 
千里の代役を務めた《すーちゃん》はスリーは撃たないものの、華麗なフットワークでランニングシュートを決めたりして
 
「千里、今日はいつもと動きのパターンが違う」
「いつもよりスピード速くないか?」
 
などと言われていた。
 
「でもなぜスリーを撃たん?」
「まあ紅白戦だし、いろんなパターンを試してみようかと」
「ああ。そういうの色々試すのにいいチャンスだよな」
 
ただひとり勘のよい玲央美だけが腕を組んで何か考えていた。玲央美は千里が眷属使いであることを知っている。
 

国際強化試合は、5月7日長岡市シティプラザホール・アオーレ、9日と10日は東京の代々木第2体育館で行われた。いづれも2試合セットで、日本のU23代表と韓国のKDB生命、日本のA代表対オーストラリア代表という試合を続けておこなう。
 
結果、U23はKDB生命に3勝したものの、A代表は結構マジだったオーストラリア代表に全く歯が立たず3連敗。千里や玲央美は「世界」のレベルの高さを再認識し、新たな闘志を燃え上がらせた。
 
この間、青葉がこないだから数回に分けて貸しておいたお金を6日に返してくれたので、電話して少し話した。2日の日の戦いのことについても青葉が少し無謀であったことを注意しておいた。
 
9日になって《びゃくちゃん》が意外なことを報告してきた。水泳部の事件で青葉自身は「最初の死者」と思い込んでいたジャネさんは、実際には死んだのではなく、意識不明の植物状態で丸1年入院しているのだという。それで青葉は圭織と一緒に病院に行き、彼女の脳内の傷を治療し、おかげでジャネは意識を回復するに至る。この時、《びゃくちゃん》からそのことを聞いた千里は試合前ではあったものの《びゃくちゃん》にパワーをある程度分け与えて、青葉に協力してジャネの治療に当たらせた。
 
その日の試合が終わったのは21:03である。
 
7日の試合が80-41とダブルスコアだったので今日はもう少し何とかしようと頑張ったものの、81-55とやはり大差がつき、選手たちは精神的に疲れていた。千里は他の選手と一緒に合宿所に帰りシャワーを浴びて取り敢えず寝ようとしたのだが、突然そのことを思いついた。
 

先日の高知の葬儀で会ってアドレスを交換しておいた舞耶さんにメールを送ってみる。
 
《足首で切断って、足首の上ですか?下ですか?》
《確認させる。ちょっと待って》
 
それで千里は《びゃくちゃん》に確認すると「足首の上」ということであった。
 
《そういう人が運動できるようにする義足って無いもんですか?》
《研究中のがある。まだ試作品の段階》
《じゃ、ちょっと日本代表クラスのスポーツ選手で実験してみません?》
 
《それって、こちらがお願いしたいくらい。その人の足の太さ、長さとかの寸法が欲しい。身長・体重も。それとできたら写真、レントゲン写真とかも》
 
《明日そちらに送らせる》
 

翌日、千里が朝御飯の場に出ていくと、やはり連日の敗戦がこたえているようでみんな暗い。
 
「みなさん、どうしたんです?今日こそ頑張りましょうよ」
と高梁王子(たかはし・きみこ)が1人元気に、みんなにハッパを掛けている。
 
「全くですよ。プリンの言う通り。今日はこちらがダブルスコアで勝つつもりで行きましょうよ」
と割と調子の良い湧見絵津子が言って、それで広川さんや武藤さんなどベテラン組も
 
「私らがそれ言うべきところだったね。よし気合い入れ直して行こう」
と言って、だいぶムードが改善された。
 

「そうだ。私、こないだ鱒鷹さんに会ったんだよ」
と彰恵が言い出した。
 
一瞬千里や絵津子たちの世代に緊張が走る。
 
「それって**高校の鱒鷹さん?」
「そうそう」
 
「どうしてるの?彼女」
 
鱒鷹さんは優秀なスモールフォワード兼シューターで、インターハイにも出てきたことがあり、千里も1度対戦している。しかし、彼女は化学実験をしていた時に薬品が爆発し、顔に大火傷を負い失明したのである。火傷は1年ほどで何とか回復したものの、傷ついた目の視力回復はならなかった。
 
「バスケットやってるんだよ」
「嘘!?」
「じゃ視力回復したの?」
「ブラインドバスケットとか言うんだって」
 
それで彰恵が《ブラインドバスケット》のシステムを説明すると
 
「なるほどー。それなら何とかなる気がしてきた」
という声があがる。
 
「でもそれ1度見てみたいね」
という声も上がった。
 
ちょうど食堂にやってきた高田コーチに相談すると、コーチも興味を示す。
 
「そういうの見るのは士気高揚にも役立つかも」
と言い、彰恵から彼女の連絡先を聞いた。
 

10日の試合は、日本側が気合いを入れ直して必死に食い下がった結果、やはり敗戦はしたものの、84-73という僅差のゲームになった。
 
合宿は翌日11日に終わったのだが、高田コーチが連絡を取った鱒鷹さんからブラインドバスケットを運営している神奈川県の某大学の仲村教授と連絡が取れ、バスケのフル代表の人たちに興味を持ってもらえたのなら、ぜひ1度見てあげてくださいと向こうから言ってきた。
 
それで12日、合宿の終了翌日、都内の体育館に興味のある人だけ移動し、そこで彼らのゲームを見せてもらうことにしたのである。実際には予定が入っていて都合の付かない人以外ほぼ全員が見学した。
 
チームは男女混合で編成されていた。主催者の教授の話では先天性あるいは幼児期に失明した人と中途失明者の割合はだいたい1:2ということであった。
 
「全盲の人は赤い腕カバーを付けています。彼らはボードに当たっただけで得点にします」
 
「男女ではハンディは無いんですか?」
「ハンディつける流儀もありますが、うちのチームの女子は男子並みの実力者ばかりなので」
と教授は言っている。
「性別の曖昧な人にも優しいな」
とひとり冗談で言ったのだが
「ああ。性別が微妙な選手もいますよ」
教授。
 
「やはりいるのか」
 
コートの周りには色付きのマットを敷いてインとアウトを識別できるようにしている。ゴールの所に音源があり、特定の高さの音を常時出している。またボールの中にも音源が入っている。
 
鱒鷹さんは片方のチームの4番を付けている。赤い腕カバーは付けていないので、微かに見えるのだろう。しかし彼女が相手チームの男性選手からボールをスティールしてみせたり、ランニングシュートを決めたりするので、観戦していた日本代表メンバーの中にどよめきが起きる。
 
「クムカちゃん、実は見えてない?」
と旧知の子たちが声を掛ける。
 
「いやー、見えるようになったら神様に大感謝セールだけど、見えない。目の前が明るいか暗いか、どんな色が主かくらいしか分からない」
 
と本人は答えていた。
 
その鱒鷹さんがその後、スリーポイントゴールを決めると
 
「うっそー!?」
という声が上がった。
 
「目が見えないのにスリーを決められるのは、今日本国内では彼女だけですよ」
と仲村教授は言っていた。
 
「でもさすがに目が見えていた時ほどは入らないんだよ。3回に1回くらいしか決まらないもん」
と本人が言うと
 
「それ私よりよほど確率良いじゃないですか!」
と高梁王子が言っていた。
 

千里はこのBlind Basketballの「公式戦」が今度の週末神奈川県内の某大学で行われると聞き、その夜、青葉に電話して、週末ジャネさんを連れて東京に出てきて欲しいと連絡した。
 
千里は青葉、ジャネ、ジャネのお母さんの3人で想定していたのだが、翌13日水泳部4年生の圭織さんも一緒に来たいと言っているということだったので高岡の度々使っている旅行代理店に電話して、とりあえず東京までの4人分の新幹線切符をグリーンで手配し、青葉の自宅に届けさせた。
 
車椅子を使うと思うし、席の幅にゆとりがある方が良いだろうと考えたのである。
 
その日の午後、今度は舞耶さんから、ジャネさんの足サイズに合わせた試作品の義足を作ってみたので、一度本人に装着させてみせたいという連絡がある。そこで千里は神奈川でその試合を見せた後、岐阜に移動してその義足を試してみてもらおうと考えた。
 

5月13-14日は川崎市内の体育館でクロスリーグの第二戦をした。ここはレッドインパルスがいつも練習に使っている体育館からも近い距離にある市の施設である。観客も3000人入るのだが、例によってハーフタイムにアイドル歌手のショーをしたおかげで、2日間ともきれいにソールドアウトした。今回の組合せは40 minutes対ローキューツ、レッドインパルス対ジョイフルゴールドであったが、どちらもかなり良い試合になり、盛り上がった。
 
14日の夕方はレッドインパルスを3月いっぱいで引退した餅原さんの結婚式披露宴に出席した。千里は御祝儀の相場が見当付かなかったので、素直に広川キャプテンに相談した。
 
「そんなに少なくていいんですか!」
「あんたいくら包むつもりだったのよ?」
「いやあ、音楽関係だと***万くらい包むもので」
「それはさすがに異常だ」
 
広川さんは千里が少々多い金額を言ったら、半ば冗談で「そのくらい包んであげてもいいよ」と言うつもりだったらしいが、千里があまりに常識外れの金額を言ったので、呆れてとめたらしい。
 

結婚相手は男子バレーボールの元日本代表の人で、バレーボール関係とバスケット関係の双方の関係者が来ており、バレーボールの元日本代表・ロサンゼルス五輪銅メダリストで、6月からバスケット協会の会長に就任予定の三屋裕子さんも顔を見せていた。
 
「赤ちゃんが生まれたら、ぜひバレーボール選手に」
「いや、ぜひバスケット選手に」
 
などと言われていた。どちらも背が高いので、子供も背は高くなりそうだ。運動能力は分からないが。
 

ホシは医師の診断を受けていた。
 
「生理が停まっているのはあなたの身体に悪魔が寄生しているからですね」
「え?ほんとですか?」
「取り除けば生理再開しますよ」
「じゃお願いします」
「そこのベッドに寝て下さい。あ、ズボン脱いでね」
「あ、はい」
 
それでホシはベッドに寝ると、ショートパンツを脱いだ。
看護婦さんがパンティも脱がせてしまう。
 
え?
 
パンティを脱ぐと、おまたの所に松茸のような形のものが生えていた。
 
何これ〜〜〜!?
 
「これが悪魔です。大丈夫ですよ。今取っちゃいますから」
と言って医師はその付近を消毒する。さわられると、その松茸のようなものは大きくなり、ホシは何だか気持ちいい気分になった。
 
「こんなものが付いていたら、生理の出てきようがないですからね。じゃ取ります」
と言って医師はその松茸のようなものをハサミで切り取った。
 
「これで大丈夫ですよ。数ヶ月で生理は再開します」
「ありがとうございます」
 
と言ってホシは何も無くなった股間を見ていた。
 

少し寝ていてくださいと言われたので、そのまま目を瞑って少し眠った。
 
トイレに行きたい感覚で目が覚める。それでベッドから起き上がってトイレに行った。ショートパンツとパンティを下げ、おしっこをしようとして、股間を見てギョッとする。
 
うっそー!? 悪魔がまたくっついてるよぉ、さっきお医者さんに取ってもらったはずなのに。
 
なんで復活してしまう訳!?
 

そこで目が覚めた。
 
ハアハア息をしていたら、
「大丈夫?」
とナミが心配そうに言った。夜中だが、ナミはニコ動のトーク系番組を見ていたようである。
 
「あ、うん」
と曖昧な答えをしてから股間に触る。
 
良かったぁ!おまたには変な物は付いてない!!
 

夜中ではあるが、気分転換にお風呂入ろうよとナミが言うので、一緒に大浴場に行った。結構人の声がすると思ったのだが、どうも男湯の方に団体客が入っているようだ。あるいは夜遅く到着したのだろうか。
 
女湯の方は誰も居ないようである。ふたりでおしゃべりしながら服を脱ぎ、一緒に浴室の方に移動する。浴室に行ってみたら、浴槽に1人先客が入っていた。ああ、1人いたのかと思いながら、洗い場の方に行こうとしたのだが、その時、浴槽にいた人物がこちらを振り向く。
 
「きゃっ」
とホシとナミは小さな悲鳴をあげて反射的にタオルで身体の前面を隠した。
 
「水下さん?」
と言ってホシは顔をしかめる。
 
「やあ、君はクラバ君だったっけ?」
「クラベですけど。なぜ水下さんが女湯に入っているんです?」
 
「男湯に入るつもりだったんだけどさあ。なんか飲んべえの集団でうるさくて。ゆっくり瞑想にふけってられないと思って、念のため女湯のほうをのぞいてみたんだよ。誰かにとがめられるかもと思ったけど、誰もいないみたいだし。夜中だから、こんな時間に入る女はいないんじゃないかと思って、こちらに入った」
 
「通報しますよ」
とホシが厳しい顔でいう。
 
「勘弁、勘弁。すぐあがるから」
と言って水下は湯船からあがり、脱衣場の方に行った。
 
男性器があらわになる。
 
ホシは男の人のって、あんなに巨大だったんだっけ? と思ってそれを眺めていた。高校時代にセックスした時は、相手の性器をしっかり見る余裕もなかった。それでホシはよくあんな巨大なものが、あそこに入るもんだなあと、今更ながら考えていた。
 
「ねえ、マジで通報しなくていい?」
とナミが訊く。
 
「うーん。。。。年寄りだし見逃してやるか」
とホシ。
 
「でもさ、おちんちんってあんなに大きなものなんだっけ?」
とナミ。
「実は私も思った!」
とホシは笑い顔になって言った。
 

身体を洗った後、湯船につかり、たわいもないおしゃべりをする。高校時代まではこういう女の子同士のおしゃべりって苦手だったなあ、と昔のことを思い出す。でもナミとなら不思議といくらでも話題が出てくる感じだ。
 
こういう感覚になれるのは、ナミと以前担当してくれた八雲さんだけである。ホシは八雲さんが実は「仮面男子」で女装の常習犯であることを知っている。ナミとふたりでおだててツアー先で女装させてみたら、ふつうに女にしか見えなかったので、すっごーいと驚いた。ホシはそれまで持っていた「女装男」のイメージを変えることになったのである。
 
しかし・・・・
 
ホシはナミとおしゃべりしていても、最近悩んでいる問題については気が晴れない感じであった。
 
ホシは悩んでいた。
 
ここには「アルバム制作中」という名目で来ている。来てから1ヶ月経つので精神的には結構落ち着いてきた気もするし、自分としてもまた少し曲を書こうかなと思っているものの、全く書けないのである。
 
ナミは
「あまり悩むことないよ。これまでだって数ヶ月書けない状態が続いたあと、ドドドっと10曲くらいできちゃったことあるじゃん」
 
と言うものの、ホシは自分はもう2度とまともな曲を書けないかも知れないという気さえしていた。
 
曲のモチーフを書いていたら、何だかそれが異常な旋律のように思えてしまうのである。詩を書いていても、尋常ではない気がして、丸めて捨ててしまう。
 
自分が薬物の影響でこの詩や曲を書いているのではないかという気がしてしまい、それで人が死んだりしないだろうかと怖くなって中断する。
 
薬に溺れていたのはほんの数ヶ月だ。そして薬をやめてからもう7年になる。それでも当時のことを思い出すと自己嫌悪に陥る。
 
フラッシュバックも薬抜きのための入院の後では1度起きただけで、もう6年起きていないが、念のためホシは車の運転を控えている。運転はマネージャーさんか、あるいはナミに頼んでいる。
 
自分の生理が止まってしまったのも、根本的には薬のせいなのかも、ともホシは悩んでいた。
 

5月15日朝。都内のホテルで目を覚ました千里は「同室の人」がまだ眠っているのを放置して自分だけ出かけ、朝一番にレンタカー屋さんに入り、予約していた福祉車両を借り出した。
 
ジャネさんや青葉たちが泊まっていたホテルまで行き、4人を乗せて神奈川県の某大学まで行く。そしてここで行われていたBlind Basketballの試合を見せた。
 
ジャネさんは、目が見えない人たちがこれだけプレイできるとはと感動し、自らの競泳復帰に強い意欲を持ったようであった。
 
ハーフタイムに千里は青葉にこの試合に参加していた鱒鷹さんを診せた。
 
「どう?」
「視覚神経は生きてますね」
「ああ、やはり」
「網膜がかなり痛んでいるけど、これは少し改善できると思う」
と言って青葉はずっとヒーリングをしていた。
 
「なん目の奥が冷やされるような感覚がある」
「これで少しは視認能力があがると思います」
と青葉。
「継続的にセッション受けたら、もう少し回復する?」
「保証はできませんけど。網膜の能力が少しでも回復すれば、あとはお医者さんのお仕事になります」
 
「それ、ぜひセッション受けたい」
 
「富山まで来ていただけるなら、月に1回くらいのサイクルで予定を入れますが。ただ1年くらいやってもあまり効果が出ないようなら諦めて下さい」
と青葉は必ず最初に最悪のケースを伝える。
 
「回復する可能性に賭けてみる。富山まで行きますから、ぜひしてください」
 
そういうことで鱒鷹クムカは青葉のセッションを当面の間毎月1度受けることになった。
 

試合が終わった後は、大学の学食で少し休んでから、借りた福祉車両を運転して新横浜駅まで行く。ここで千里は車の運転席に鍵を置いたまま降りたが、朝の内に分離して新幹線で移動してきていたOL風に女装した《こうちゃん》がすぐにその車に乗り、千里や青葉たちが駅構内に入ったのを見て、車を出した。そのまま東京まで戻り、福祉車両を返却する。
 
駅構内で千里は青葉に、駅弁・お茶・おやつなどの購入を頼み、その間に自分はみどりの窓口で岐阜羽島までのグリーン乗車券を5枚買った。
 
この時、自分に用事を言いつけてその間に何かするのではと感じた青葉が眷属の笹竹を残し、笹竹はじっとこちらを見ていたが、実は鍵の眷属への受け渡しは、車そのものに鍵を置き去りにする方式で既に済ませていたし、《こうちゃん》の分離もそもそも青葉と会う前に済ませていた。
 
かくして笹竹は「千里さんは何も怪しいことしませんでした」と青葉に報告することになり、青葉は自分の眷属が気付かないような高等魔術を使って何かをしたのではと疑ったようであるが、実は青葉の心理的な隙を突いただけである。
 
術者同士の「化かし合い」は、実は術そのものより、この手の駆け引きの部分が大きい。そして青葉はこういうものがまだまだ甘いのである。
 
ちなみにこの日、《きーちゃん》は《せいちゃん》と一緒に名古屋でローズ+リリーのライブに関する作戦実行中である。
 

5人で新幹線で移動し、岐阜羽島で降りると、そこに舞耶さんが会社所有の福祉車両を持って来てくれていた。彼女の運転で、舞耶さんが勤めている、義肢製作所に行った。
 
ジャネ母娘にも、青葉にも内容は言っていなかったので
 
「これは・・・・」
と驚いている。
 
「事前に内容をお知らせして打診しておくべきだったのですが、電話などではなかなか伝わりにくいので、直接実物を見て頂いた方がいいと思いまして」
と千里は言う。
 
「もし良かったらこれをちょっと填めてみてもらえませんか?」
とスタッフの人が右足用の義足を見せる。
 
「あ、はい」
と言ってジャネが右足を出す。
 
「ちょっと待って下さいね。調整しますから」
と言ってスタッフさんはジャネの足の末端に保護用の弾力包帯を巻いた上で、3Dスキャナでスキャンし、そのデータを元に自動掘削機で、用意していた義足の接続部の形を再調整した。それで足の末端に填めると
 
「すごい。ピッタリだ」
とジャネさんが言う。
 
「ピッタリになるように合わせましたから」
とスタッフさん。
 
「3Dスキャナのおかげですね」
「ええ。3Dスキャナ、3Dプリンタは産業革命ですよ」
 
「なんか足の先に巻かれた包帯が結構痛いです」
とジャネさん。
 
「それをしておかないと、歩いている時の衝撃であの付近がむくんでしまうんですよ。最悪足の先が変形します。水泳の大会に出場なさる時は包帯は使用できないかもしれませんが、その場合に控え室とプールの間の往復の間くらいなら包帯無しでも大丈夫です」
とスタッフさん。
 
「それについては連盟に照会してみよう」
とお母さんが言っている。
 
足に靴下と靴も履かせる。
 
「歩いてみてください」
「あ、はい」
 
と言ってジャネはおそるおそる歩き出す。
 
「歩ける!」
「ちゃんと足が動きますでしょ?」
「ええ。凄い。これ、ちゃんとこちらの思うように動く」
 
「動くんですか?」
とお母さんが驚いたように言う。
 
「うん。これ自分の思うように動いて地面をキックできるんだよ」
「慣れたらそれで走れるはずです」
 
「やってみよう」
と言って、ジャネさんは普通の歩行から少し早歩きに変え、やがて室内を軽く走り出した。
 
「走れる!これ凄い!」
 
「普通の人なら走れるようになるには数日かかるのですが、スポーツ選手で運動神経がいいから、できちゃうんでしょうね」
とスタッフさんは逆に感心していた。
 
「セラミックの骨格と人工筋肉にマイクロチップを内蔵していて、足の動きから今どう動くべきかを判断して義足自身がちゃんとそれに合わせた動きをするようになっているんです。ただのシリコン樹脂の固まりとは違うんですよ」
とスタッフさんは説明する。
 
「これ凄いですね!」
 
「主治医の先生と相談する必要はありますが、もし可能でしたら、これの試用、トライアル・ユーズにご協力いただけないかと。これ開発中の商品なんですよ」
 
「それぜひやりたいです」
と本人はかなり乗り気である。
 
「なんかこれ指が動かせる気がする」
と言って、ジャネは腰掛けて靴と靴下を脱ぐ。そして少し考えていると、ちゃんと親指が上下する。
 
「すごーい。これ」
「足を動かすための電気信号を読み取っていますので。現在、その電気信号に反応するロジックと、足自体の動きから意図を推測するロジックの優先比率を調整中なんですよ」
 
「いや、これほぼこちらの意図する通りに動いてくれる感じです」
 
「現在試用していただいている方からは、足表面に触覚が無い以外はまるで自分の足みたいと言って頂いているんですよ」
 
「いや、まさにそういう感じです」
とジャネさんは感激しているようであった。
 
それでジャネさんは主治医の許可を得ることを条件にこの試用実験に参加することになり、お母さんと一緒に仮契約書にサインした。
 
「これ、正式契約ができてから、お借りできるんですか?」
「今日お持ち帰り頂いていいですよ」
「持って行きます!」
「月に1度レポートをお願いします。あと異常があったら休日でもいいですのでご連絡ください。プログラムはリモートでも書き換えられますので」
「分かりました!」
 
「接続部分に痛みや違和感があったらすぐお知らせ下さい。協力関係にある金沢市のK工業大学でも多少の調整はできますので」
 
「金沢市内でできるならいいですね!」
 
接続部分は身体の側に負担を掛けないよう柔らかいシリコンゴムでできているものの、結果的に劣化しやすいので、定期的に交換する必要があるらしい。取り敢えず予備のを1つもらった。ふつうの人なら2〜3年大丈夫らしいのだが、あなたはスポーツ選手だから半年くらいで交換になるかも、とスタッフさんは言っていた。
 

千里はここまで来るのに使った義肢製作所の福祉車両を借りて、ジャネたちをそのまま金沢に送り届けることにした。
 
「ちー姉、あとでそれを返しに行くの?」
「うん。返した後、新横浜駅に舞い戻って、向こうで借りた福祉車両の返却をする」
「お疲れ様!」
 
実際には東京で借りた福祉車両は《こうちゃん》が既に返却してくれている。《こうちゃん》はその後、何かの場合にそなえて東京で待機してくれている。
 

千里たちは1時間半ほど走った所のSAで休憩した。ここはハイウェイオアシスになっており、商業施設や、ホテル・プールなどのあるリゾート施設などが併設されている。
 
ジャネさんは早速義足を使って歩行してみている。
 
「なんか普通に歩けるよ!これすごーい」
「良かったね」
「私、一生車椅子か松葉杖なのかなあとか思ってたけど、まるで足があるみたい」
 
「ハイテクの勝利ですね。10年前なら、こんな技術はありませんでしたから。足の電気信号を読み取って反応する義足自体は30年前からあるんだけど、こんなに細かい反応ができるものは、最近まで作れなかったらしいですよ」
と千里は説明する。
 
「今の時代に生きてる幸せですね」
と圭織が言った。
 
ジャネさんが歩けるのが嬉しくてたまらないようで、かなり歩き回っている内に施設から結構離れて大きな池に橋が架かっている所まで来た。休日で人が多いものの、この付近まで来る人はそう多くないようで、人もわりとまばらである。
 
「だいぶ来たね。戻ろうか」
とお母さん。
「さっき美味しそうなアイスクリームがあった。あれ食べたい」
と圭織。
 

それで戻り掛けた時のことであった。
 
ドボン!という水音がして「きゃー!」という声が上がる。
 
見ると橋から5〜6歳くらいの子供が転落したようである。
 
「私、人を呼んでくる」
と言って圭織が走り出す。
 
しかしその時、向こうの方で別の水音がある。見ると若い女性が着衣のまま池に飛び込み、その子供を助けようとしているようである。彼女はきれいなクロールで子供に近づき、助けようとしたのだが
 
「あ、だめ!」
とジャネさんが言った。
 
女性は子供の正面から近づいたのだが、子供が女性にしがみついてしまったのである。
 
その時、ジャネさんが服を脱ぎ始めていた。
 
スカートを脱ぎ、上着も脱いで下着だけになる。
 
「あんた何してんの?」
「着衣のまま泳ぐこと自体が無謀」
と言うと、ジャネさんは義足も取り外した上で、今脱いだスカートをまるめて手に持ち橋から下の池に飛び込んだ。
 
見事な泳ぎで、おぼれかけた子供と、その子供にしがみつかれてしまって、自分も沈みそうになり、苦しんでいる女性のそばまで寄る。
 
そしてジャネさんは自分の穿いていたフレアスカートの端をつかんだまま、子供の前に投げるようにする。
 
「君、これをつかんで」
 
そう言われた子供がスカートの端を掴む。
 
それで最初に助けに飛び込んだ女性は子供から離れることができた。
 
「そちらはひとりで岸まで行ける?」
「はい、行けます」
と女性が言うので、ジャネさんは、スカートの端に子供を捕まらせたまま力強い泳ぎで岸まで行った。
 
少し遅れて最初に助けに飛び込んだ女性も岸まで到着する。その頃、やっと圭織が呼んできた、リゾート施設のスタッフさんが到着した。
 

青葉たちも岸の所に駆け寄る。
 
最初に飛び込んだ女性がジャネの足に気付いて驚いたように言う。
「あなた、足が」
 
そしてジャネも彼女を認識して嬉しそうに言う。
「わあ、ステラジオのホシさんだ!」
 
そして母親が駆け寄った時、助けられた男の子は初めて泣き顔になり
「お母さん」
と言った。母親は自分の服が濡れるのもかまわず、男の子を抱きしめた。
 

「私、ステラジオは『青い金魚』以来の大ファンなんですよ」
とジャネさんが嬉しそうな顔で言う。
 
「わあ、ほんとに?それは凄い」
「あのオリジナルCD持ってますよ」
「すごーい」
 
それはホシとナミが高校生時代にカラオケ屋さんで吹き込んだCDであり、パソコンに強い友人に頼んで、パソコンとCDドライブを使って100枚程度(正確な枚数は本人たちも知らない)制作し、街頭ライブで売ったり、自分のブログに書いて通販したものである。ジャネは横浜市内の街頭ライブで見かけて買ったと言った。
 
「でもあなた、足の先が無いのに、あんなに泳げるなんて」
とホシが言うのに対して
 
「足なんて飾りです。水泳は心で泳ぐんですよ」
 
とジャネが答えると、ホシは感動しているようであった。
 
実際にはジャネにとっては2014年12月以来、1年5ヶ月ぶりの泳ぎであった。
 
その頃、やっとホシは青葉に気付く。
「あ、大宮万葉さんだ!」
 

リゾート施設の人が全員をプールの休憩所まで連れて行ってくれた。青葉はジャネさんの身体が濡れているので、研究所で借りてきた高機能義足がトラブってはいけないと、取り敢えず笹竹が持っていた義足をジャネさんに渡し使ってもらった。
 
「青葉ちゃん、そんなのどこに持ってたの?」
「いや、義足を使っている人から預かったまま返しそびれちゃって」
「あらら」
 
これはマソが使っていた義足なのである。マソの方がジャネより背が高いのでたぶん使えると思ったのだが、実際何とかなったようである。しかし普通の義足だと歩きにくいようである。
 
「なんか、びっこ引く感じになっちゃう」
とジャネは言っている。
 
あらためて高機能義足のすごさを認識したようである。
 
ジャネさん、ホシ、水に落ちた子供が、プールの設備でシャワーを浴びさせてもらった。
 
ジャネさんは旅行中なので着替えを持っており、お母さんが車から取って来てくれたのでそれに着替える。ホシもやはり着替えを持っていたので、ナミがやはり駐車場まで行って取って来た。最初に落ちた子供が着替えを持っていなかったが、
 
「少し大きいけど、私のでもよければ着る?」
と言って、ナミが言って、とりあえず服を着替えさせた。ナミは150cmくらいしか無いので、服が子供に着せやすい。
 
「これスカートなの?やだあ」
と子供は言っている。
「我慢しなさい、そのくらい」
と母親が言っている。
 
「小学生ですか?」
「小学2年生です」
「君、めったにスカートなんて穿けないから、ちょっと女の子体験しておくのもいいよ」
などとナミは言っていた。
 
本当はズボンも持っていたのだが、スカートを穿かせたのはナミの悪戯心である。
 

「暖かいものでもどうぞ」
と言ってリゾートのスタッフさんが暖かいココアを差し入れてくれたので、水に入った3人が飲んだ。
 
「泳ぎは自信あったんですけど、溺れている人を助けるのは大変なんだなとあらためて認識しました」
とホシが言う。
 
「あれ、ライフセーバーとかの訓練受けている人でないと難しいんですよ」
とジャネは言う。
 
「着衣だと動きが制限されるから、飛び込む前にまず服を脱いじゃうのが基本」
「なるほど」
「正面から近づいたら、しがみつかれるから、屈強な男性でも一緒に溺れちゃいますよ。髪の長い女の子なら、後ろから近づいて髪をつかむのがいいんです」
「ああ」
 
「でも基本はロープとか棒とかを差し出して、それにつかまらせる。とっさのことで用意が無かったんで、脱いだスカートを使ったのですが」
 
「なるほどー」
「実はスカートより長ズボンの方が優秀みたい」
「へー!」
 
「ホシはショートパンツだったから、どっちみち服は使えなかったね」
とナミが言っている。
 

「ステラジオさん、ゴールデンウィークのライブはお休みなさってましたけど体調不良とかですか?」
とジャネが訊いた。
 
「ええ。すみません。楽しみにして頂いていたのに」
とナミが謝る。
 
「なんか今はアルバムの制作中とか聞きましたけど」
「そうなんですよ。ダウンしたついでに、この近くの温泉宿に籠もって楽曲を練っているところで」
とこれもナミが言う。
 
それを見て青葉はホシさん、やはりかなり精神的に参っているなと思った。こういう場面ではたいていホシが返事するのが、これまでのステラジオだった。
 

「でもホシさん、泳ぎは実際うまいと思いましたよ」
とジャネのお母さんが言う。
 
「私の両親、ふたりとも水泳選手だったので」
とホシ。
 
「凄い!」
「ふたりとも国体とか出てたそうです。水泳選手同士の結婚ってんで私も随分期待されてたみたいで」
「ああ」
 
「でも私は県大会で入賞するくらいが精一杯で、全然ダメだったんですよ」
とホシ。
「いや、県大会入賞は充分立派」
と圭織。
 
「でもそれで私、関東大会にも出たこと無いんです。なんか親からはいつも冷たい視線を受けていて。母親からはよく殴られていたし」
とホシは言う。
 
ホシが音楽活動にのめり込んでいったのは、そういう家庭環境ゆえだろうかと青葉は想像した。芸能界に入ってくる人には、しばしば家庭に問題のある人が多い。
 
「私もお母ちゃんに随分殴られたなあ」
とジャネさんが言うと、お母さんは苦笑している。
 
「水泳選手なんですか?」
「うちも母は国体とかに出てたんですよ。私も事故に遭う前は大きな大会とかに結構出てたんですけどね」
とジャネ。
 
「さっきの泳ぎなら、少し練習すればまた出られるよ」
とお母さん。
 
「そう?実は私も結構いけるかもとさっき泳いでいて思った」
とジャネさんは言っている。
 

話が長くなりそうだったので、助けた小学生の子と母親とは別れて、青葉たちとステラジオの2人でホテルのレストランに移動した。母親はあらためてジャネとホシに御礼を言っていた。
 
レストランの個室を借りて入り、夕食を一緒に取ることにする。
 
ジャネが午前中にBlind Basketballの試合を見学してきたことを言うとホシたちは興味を示していた。
 
「目の見えない人たちがあそこまで頑張っているのを見てたら、私も頑張らなきゃと思ったんですよ。だから私、パラリンピック目指そうかと思ってたけど、むしろ普通のオリンピックの代表を狙うくらいの気持ちで頑張ろうと思って」
 
とジャネさんが言うと、ホシはいたく感動していたようである。大きな挫折を今乗り越えようとしている彼女の姿を見て、自分自身にも投影しているのだろう。
 
「興味があるようでしたら、試合のある日を連絡しますよ」
と千里が言う。
 
「よろしくお願いします。見たいです」
とホシ。
 
それでナミと千里、それにジャネのお母さんで赤外線を使ってメールアドレスを交換する。(ホシは携帯を取り上げられているらしい)
 
「わ、久しぶりにガラケーを見た」
とナミ。
 
「私、静電体質だからスマホは苦手なんですよ。私が触るとすぐダウンする」
と千里は言っている。
 
「へー。たまにそういう人いますね」
 
お互い交換したデータを読んでいる。
 
「むらやま・ちさとさんですか?」
とナミ。
「はたやま・くろみさんか」
と千里。
「はやしば・るみさん?」
とジャネのお母さん。
 
「あっと、私の名前はそこで切るのではなく、林・波流美(はやし・はるみ)です。業務用のスマホにはステラジオ・ナミで登録しているのですが、こちらは個人用なので」
とナミ。
 
「でも私の名前をよく一発で読みましたね」
とジャネのお母さんが言う。
 
「私、人の名前を読むのは得意なので」
と千里。
「すごーい」
 
お母さんの名前は「自由」と書いて「くろみ」なのである。クロールから来ている。彼女の妹さんは「平泳」と書いて「ひらみ」らしい。
 
「ホシのお母さんも凄いよね」
とナミが言う。
「うん。お祖父さんとお祖母さんが陸上選手だったからホップステップジャンプのホップなんだよね。本人は水泳選手になっちゃったけど」
「へー」
 
「中学時代、陸上部にも入っていたんだけど、助っ人で出た水泳で全国大会に行っちゃって、すっかりそちらが本業になってしまって」
「凄ーい」
 

「名刺も差し上げておきます」
と言って千里はレッドインパルスの選手の名刺を配っていた。
 
「わ、バスケット選手ですか。あ、そういえば、ここにいる人たちの関係は?」
 
「ジャネさんと圭織さんと青葉が同じ水泳部のチームメイトで、私は青葉の姉です」
「大宮万葉さんのお姉さんでしたか! 万葉さんの苗字の川上と苗字が違うのはご結婚なさっているのかな?」
 
「そのあたりは話せば長くなるので」
と千里。
「ちょっと複雑かもね」
と青葉。
 

「その複雑な所が知りたい」
とホシ。
 
ああ、暇もてあましてるなと青葉は思う。
 
それで千里が青葉が東日本大震災で家族をまるごと亡くし、桃香の母に後見人になってもらったこと。そして千里は桃香と夫婦であることを説明する。
 
「川上さん、大変だったね」
と言ってホシは涙もろくなっているようだ。ジャネさんとお母さん、圭織さんも腕を組んだり、難しい顔をしたりしていた。みんなこの話は初めて知ったようである。
 
「ですから、桃香と青葉が義理の姉妹で、私は桃香の妻なのでやはり義理の姉妹になるんですよ」
と千里。
 
「でも女同士の結婚かあ。それもいいなあ」
などとホシは言っている。
 
「ホシさんもビアン婚したい?」
と千里。
 
「ここだけの話、私は自分はビアンというよりはFTXっぽい気はしている」
とホシは大胆発言をする。
 
「ああ、それは歌詞を見ると感じますよ。ホシさんの詩って結構男っぽいもん。男が考えた女性主人公の歌って感じなんですよ」
と千里は言う。
 
「それ、以前、後藤正俊先生にも言われたことあります」
とホシ。
 
「ホシ、いっそ性転換手術しちゃう?」
とナミが言う。
 
「うーん。手術までするつもりは無いというか、実は男装もしたことないんですよ」
 

「一部話が見えないんだけど、大宮万葉って何?」
と圭織が質問する。
 
「すみません。私のペンネームです。私、作曲家もしてるんで」
と青葉。
 
「あんた忙しいね!」
と圭織は驚いていた。
 
「KARIONとか、スイートヴァニラズとか、広原鳥子とか、槇原愛とかに主として書いてるよね?」
と千里。
 
青葉は敢えてアクアを外したなと思った。広原はスイートヴァニラズと同じ事務所の10代の歌手で、青葉は彼女にこれまで3回曲を提供している。
 
「うん。そのあたりをケイさんとかエリゼさんに押しつけられているというか」
と青葉は答える。
 
「ケイもオーバーフローしてるからなあ。でもあの人、ゴーストライターとかは使わないし」
と千里。
 
「ここだけの話、ケイってまじであれ全部自分で書いてるの?」
とホシが小さな声で訊く。
 
「ですよ。だから年間100曲くらい書いているはず」
と青葉。
 
「すげー!」
 
「上島雷太さんにはかなわないけどね」
と千里。
 
「上島さんってさ、あれこそゴーストライター何人いるの?50人かひょっとして100人くらいいるのかなと思ってたんだけど」
とホシ。
「あの人はゴーストライターが嫌いなんですよ。だから1人で書いてますよ」
と千里。
「いや、それはさすがにありえない」
 
「一度上島さんのご自宅に行ってみるといいです。次から次へと曲を書いているところを見ることが出来ますよ」
「嘘!?」
 
「それは私も見たことない」
と青葉。
「私が見てた時は一晩で10曲書いたよ」
と千里。
「信じられない!」
 
「あの人はメロディーライターだからね。伴奏を付けてちゃんと編曲するのは下川工房のアレンジャーさんたち。上島担当チームは数十人いるはず」
「そのくらい居ないと無理だろうね」
 
「歌詞は面白いですよ。上島雷太歌詞データベースというのがあって、上島さんはキーワード検索して適当なものを見つけて、そのデータベースの何番とか指定するので、その歌詞をアレンジャーさんが取り出してメロディーに合わせ付ける。これ大半は高校大学時代に大量に書いた歌詞のストックで、ある時期に人海戦術で入力したものですけど、それを使ったら消し込んでいく」
 
「へー!!」
 
「でもさすがに尽きてきたんで、最近は結構、他の作詞者さんを使ってますよね」
「あれだけのペースで書いてたら尽きるだろうね」
 
「一応出しても1000枚以上売れなかった曲の歌詞は微調整して再利用してもいいことにしているみたい。あと、演歌系は逆によほど売れたもの以外は同じ歌詞を何度か再利用して微調整している。そのあたりの調整は上島さんの弟子を自称している山折大二郎さんの担当」
 
「ああ、演歌はむしろ全部同じ歌詞でもいいんじゃない?」
「そもそも演歌って、ほぼ同じ曲だよね」
「そうそう。**の歌詞で**が歌える」
「**の歌詞で**も歌えるよ」
「一般に演歌の歌詞は『どんぐりころころ』で歌えるものが多い」
「『水戸黄門』でも歌える。高校時代のバンドでよくやってた」
 
などと千里とホシは会話しているが、どうもふたりとも演歌が嫌いっぽいなと青葉はそれを聞いて思った。
 
「あれ?でもお姉さんも音楽業界詳しいみたい」
とホシ。
「私もメインはバスケ選手なんですけど、たまに時間が取れた時に、頼まれて曲を書くことがあるので」
と千里。
 
「へー。何か名前とかあります?」
「じゃ、この名刺も差し上げますね」
 
と言って千里が渡した名刺を見たホシとナミは
「うっそーーーーー!!!」
と驚いていた。
 

「でも女同士で結婚しているというと、あの人たちもそうだったね」
とナミは突然思いついた感じで言った。
 
「あの人?」
「あ、えっと・・・例の片町でスナック経営していた人」
と言ってから、ナミは話を出したことを後悔しているっぽい。
 
例の事件で、亡くなったスナックのオーナーさんが女装者で、女性の奥さんがいたんだったなと青葉は思い起こしていた。
 
「ああ、あの人か」
とホシは疲れたような感じで苦笑いしながら答えた。
 
「名前といえば、あの人も名前が強烈だったなあ」
とホシは言う。
 
「どういうお名前だったんですか?」
と何気なくジャネが尋ねた。
 
「キトウ・マラと言うんですよ」
というホシの答えに
 
「はぁ!?」
と青葉は言ったのだが、ジャネ・ジャネの母・圭織の3人がこわばったような表情をした。
 
しかしホシはそれには気付かないようで、解説を続ける。
 
「キトウは木を倒すと書くんです」
とホシが言った時、青葉も「え!?」と思った。それって・・・まさか・・・
 
「マラはマラソンの略らしいです。いや、戸籍名は別にあるらしいんですけど、その人、戸籍上は男なんだけど、実質女として生活していたので、女性名でマラを名乗っていたらしいです。でもマラに変な意味があること、人に指摘されるまで全然気付かなかったらしくて。しかも苗字が苗字だし」
とホシは少し苦笑いしながら語る。
 
ちょっと待て〜〜!? マラソンの略って、そういう名前の人を知ってるぞと青葉は思う。それにその苗字は・・・・。
 
青葉は重大な見落としをしていたことを認識しつつあった。
 

ホシたちと別れてから千里が運転する車で金沢に向かうが、最初に圭織さんが発言した。
 
「ホシさんたちが言ってたキトウ・マラさんって、木倒ワサオ部長のお父さんだよね?」
 
「ですね。キトウ・ワサオも酷い名前でみんなから『キトウ・サオ』って、からかわれていたけど、キトウ・マラって、名前だけで発禁になりそうな名前。でもあの人のお父さんはその名前でゲイバーのママをしていたんですよ。そういう職業ならインパクトがあっていいのかなと思っていたけどね」
とジャネさんが言う。
 
「でもマラソンの略というのは知らなかった」
と圭織。
 
「漢字では真良と書くんですよ」
「ほほぉ」
 
「戸籍名はご存じですか?」
「いいえ」
 
というので誰も知らないようである。
 
「亡くなったのはご存じでしたか?」
 
「ええ。ワサオ君が大学に入る前の年に亡くなったと言ってました。その後はお店はチーママしていた玉梨乙子(たまなし・おとこ)さんという人が接待の中心になって、ワサオ君のお母さんが店長としてお料理と会計だけして運営していたらしいです。でもそういうお店に出ていると、ふつうにオカマさんだと思われていたみたいですね。最初は天然女だと主張していたけど、信用してもらえないので、開き直って、私高校時代にこっそり去勢して、20歳でタイに行って性転換手術受けたの、とか架空のプロフィール作っていたらしいです。名前もキトウ・クリコを名乗って。本名はクミコなんですよ。さすが若い内に去勢した人は女らしいね、とか言われてたみたい」
 
あそこ、そういうお店だったのか!
 
あ・・・と思う。あのお店の名前の「数虎」の読み方は「スートラ」だ。カーマ・スートラに掛けていて、オカマのお店だったんだ!!
 
青葉は頭の中で関係者の年齢を計算していた。
 
「木倒ワサオさんって浪人してますよね?」
「ええ。二浪ですよ。だから1990年生まれ。現役と1浪の時は東大狙ってたらしいけど、二浪になると慎重になって、ランク落として地元のK大を受けたんですよ」
 
1990年生まれというのは桃香や千里と同学年である。彼の場合高校に行ったのが2006-2008年度。2009-2010年度を浪人して、2011-2014年度が大学生。ジャネさんが突き落とされ、木倒ワサオが自殺(?)する事件は2015年1月。当時ジャネさんが3年生、ワサオは卒業を目前にした4年生であった。事故死と考えられていたこともあり、ワサオは特例で卒業扱いにしてもらい、お母さんが代理で卒業証書を受け取っている。
 
なおワサオは先日発見された遺書によりいったん自殺と認定されたものの、その後検察庁の再捜査で、自殺方法不明につき事故死の可能性もあるということで判断保留状態になっている。
 
事故なら建設会社に数千万円の賠償責務があり、自殺なら逆に木倒家側に数百万円の賠償責務が出る。しかし検察の段階で判断保留になってしまい、今後新事実が出る可能性も薄いので、双方の弁護士による話し合いで、結局建設会社が木倒家側に適当な額の御見舞金を払うことで和解したらしい。
 

青葉は今まで見えていなかった事件の背景のパズルが急速に組み合わさっていくのを覚えていた。
 
途中の小矢部川SAで休んだ時に、青葉は先日マソの元ボーイフレンドで唯一、サトギのことを覚えていた人の所に電話した。
 
「お仕事中恐れ入ります」
「いや、今いいですよ」
「先日言っていたサトギさんなんですけど、苗字は何とおっしゃいました?」
 
「ああ。苗字はキトウ、木を倒すと書くんです。でもマソは彼の居ない所ではちょっと言えないようなあだなで呼んでたよ」
「ありがとうございます!」
 
 
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【春社】(4)