【春老】(4)

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戦いは1分以上続く。
 
青葉は内心焦っていた。
 
千里からエネルギーをもらっているので、何とか自分と《雪娘》《海坊主》の3人をフルパワーで動かし続けている。それでも相手は強い。
 
苦戦しながら《海坊主》の方を見ると、《海坊主》も結構苦戦している気がする。
 
負けたら・・・・自分が死ぬことになる。
 
まだ死にたくないから、ここは絶対に倒さなければならない。しかし本当に相手は手強かった。
 

そして青葉の感覚で2〜3分戦っていた時のことであった。
 
一陣の強い風が吹いてきたので青葉は思わず目の所に右腕を当てた。
 
そして目を開けた時、目の前の相手は消滅していた。
 
『雪ちゃん?雪ちゃんが倒したの?』
『分かりません。今一瞬私も意識が飛んでしまって。気づいたら何も居なかったです』
『まさか逃げた?』
 
《雪娘》は少し考えるようにしていたが言った。
 
『逃げてはいません。消滅したと思われます』
 
ハッとして《海坊主》の方を見る。
 
『海ちゃん、どうした?』
『突然消滅した。どうなってんだ?逃げたのか?くそー!あと少しで倒せそうだったのに』
 

青葉が戸惑うようにしていると、いつの間にか出羽の八乙女のサブリーダー・美鳳さんがそばにいた。
 
「美鳳さん!?」
「青葉も雪娘も、修行がなってないなあ。海坊主はわりと頑張った。でも、あんたたち3人、剣道部にでも入って鍛える?」
 
「それやると、剣道部の怪異に巻き込まれそうだから遠慮します。美鳳さんが助けてくれたんですか?」
と青葉が尋ねると
 
「私たちがこの手のものに直接手を出さないこと知ってる癖に」
と美鳳は言う。
 
それはそうなのだ。神様は俯瞰するのみであり、決して人間のあり様に干渉しない。
 
「まあ、お姉ちゃんに感謝しときな。今うまい具合に向こうは紅白戦のハーフタイムに突入したんだよ。タイミングが悪かったら、あんたたち負けてたよ」
 
千里がどうも出羽に絡んでいるっぽいのは、菊枝から聞いて知っていたのだが、美鳳さんから直接千里のことを聞いたのは初めてであった。
 
「今度、鰤でも送っておきます」
 
「じゃ、サービスでそいつだけは私が連れて行ってあげるよ。禁固300年の刑だ」
と言って美鳳は倒れているサトギを軽々と抱えて!姿を消した。
 

しかし・・・・何か疲れたなと青葉は思った。まるでハーフマラソンでも走った後のような激しい疲労だ。
 
筒石さんは戸惑っている。
 
「川上!? 今、何が起きてたの?」
 
「何も」
「今チャンバラしてなかった? なんか凄い巨大な怪獣みたいなのがいて」
 
ああ、あの<親玉>は、さすがに筒石さんにも見えたんだ!?
 
「気のせいでは」
 
「最初に変な鬼の金棒みたいなの持った男が襲ってきたんだけど・・・あれ?いない。逃げたのかな。警察に通報しようと思ったのに」
 
などと言った時、
 
「あ、マソさん」
と筒石はまだ呆然とした表情で立っているマソに気づいて呼びかけた。
 
「私・・・何してたんだろう?」
と彼女は言っている。
 

青葉は地面をチラッと見たが、彼女が持っていた小刀も消滅している。
 
「マソさん、少し泳がない?」
と青葉は言った。
「え?でも私、足が・・・」
とマソが青葉にだけ聞こえるような小さな声で言う。
 
「大丈夫ですよ。マソさん強いから片足だけでも十分泳げますって」
と青葉も小さな声で励ました。
 
それで青葉は筒石とマソをヴィッツの後部座席に乗せ、市民プールに行った。青葉が
「デートのお邪魔したお詫びに」
と言って、まとめて入場料を払い中に入る。
 
更衣室の前で分かれる。青葉は筒石の視線に気づいて言った。
 
「部長も女子更衣室に来ます?」
「いや、それは無理」
 
手を振って分かれ、青葉とマソは女子更衣室に、筒石は男子更衣室に入る。
 
「あ、私、水着持って来てない」
とマソは言うが
「きっと持ってますよ。荷物見てみて」
と青葉が言うとマソは自分のバッグを見ている。
「あ、入ってた」
と言って競泳用の水着を取り出した。
 
「格好いいですね」
「これ日本選手権に出た時のだ」
 
それでいざ着替えようとするものの
「私、恥ずかしい」
とマソが言い出す。
「大丈夫ですよ。誰も見てませんって」
と言って励ます。
 

それで何とかプールに出る。
 
「マソちゃん、足は?」
 
筒石は今初めてマソの義足に気付いて驚いている。
 
「交通事故で失ったんですよ。それでこの人、事故に遭う前はオリンピック代表になるかもという凄い選手だったのが、泳ぐ自信失っちゃって」
と青葉は説明する。
 
「そうだったのか。知らなかった。ごめんね。気づいてあげられなくて」
「ううん。私特に何も言わなかったし」
 

それで筒石さんと青葉で励ましてマソを水に入れた。彼女の義足は笹竹に持たせておいた。マソは最初はおそるおそるであったが、すぐに自分がちゃんと泳げることに気づく。
 
片足のキックがうまく効かないので左右のバランスが取りにくそうだったが、1往復もするうちに、ちゃんと片足だけでも進行を制御できるようになる。
 
このあたりがさすが日本代表レベルの運動神経である。
 
「マソちゃん、ちゃんと泳げるじゃん」
と筒石。
「うん。自分でもびっくりした」
とマソ。
 
マソは結局25mプールを30往復以上した。最後の方はペースが乗ってきて筒石もかなり頑張らないとマソに置いて行かれそうになるくらいであった。
 
「マソちゃん、マジでオリンピックレベル。男子に出てもいいくらい」
「あ、私性転換しちゃおうかなあ」
「それは勘弁して〜」
「筒石さんも一緒に性転換すればいいかも」
「え〜〜!?」
 
「でもマソさん、これだけ泳げたら満足した?」
と青葉は尋ねた。
「満足したかもー」
とマソは笑顔で言った。
 
「じゃ上に行こうか?」
「うん。行く」
 
マソは
「川上さん、筒石さん、ありがとう」
とふたりに感謝の言葉を言うと、すっと姿を消した。
 

「マソ!?どこ行ったの?」
と筒石さんが慌てている。
 
「成仏したんですよ。あの子、幽霊だったから」
 
「嘘〜!?だって俺、あの子とセックスもしたのに」
「幽霊だってセックスくらいしますよ。牡丹灯籠の話はご存じないですか?」
「え〜〜!?」
 
「セックスした時は彼女の足に気づかなかったんですか?」
「うん。恥ずかしいから絶対にあかりをつけないでと言うから暗い中でした」
 
「彼女、私たちに感謝すると言っていたし。来世はまたきっと水泳選手に生まれ変わりますよ」
 
青葉はそう言って、彼女があがって行った上方を見上げていた。
 
・・・・が「へ?」と思った。
 
何だろう?これ。
 

5月3日。青葉は金沢市内で圭織と会って、事件の報告をした。
 
「結局、筒石さん振られちゃったか」
「でも死ななくて済んだから。襲ってきた男の幽霊を回し蹴りした時はびっくりしましたけど」
 
「前に死んだ3人の部長って、みんな運動能力はあまり無かったし」
「そうなんですか!?」
 
「うちの部は4年生で、練習にはマジメに出てくるけど、大会にはあまり出られない子に部長をやらせるのが伝統。部長やってたなんて、就職に有利になるじゃん。ただ、溝潟君のあと適当な人がいなかったし、部長が3代続けて死んでみんな尻込みしてたから、実力No.1で幽霊とかジンクスとか一切信じてない筒石君が俺がやってやると名乗り出たんだよ」
 
「なるほどー」
 
「しかしそのマソさんだけどさ」
と圭織さんは言う。
 
「はい」
「それ絶対自殺じゃないよ」
 
「やはり、そう思いますか?」
「そんな人が死ぬ訳無い。片足でだって両足の人より速い速度で泳いでやるとか言って人の倍練習すると思う」
 
「そうかも知れません」
 
「ジャネさんもきっと意識を取り戻したら、また頑張って練習するよ」
 

青葉は目をぱちくりさせた。
 
「あのぉ、ジャネさんって亡くなったんじゃないんですか?」
「生きてるけど」
 
「え〜〜〜!?でもでも、圭織さん、ジャネさんが病院の窓から飛び降りて亡くなったって言いませんでした?」
 
「ううん。ジャネは飛び降りはしたんだけど、3階だったからさ。その高さから飛び降りて死ぬ訳無い」
 
「生きてるんですか?」
 
「飛び降りたので頭を打ってさ。意識を失ったまま。もう1年くらいかな。ただ、医者は物理的な障害は無いはずだから、やがて意識を取り戻す可能性はあると言っている。だからお母さんが毎日ずっとそばで話しかけているんだよ。話しかけるのがいちばんいいらしいからさ、ああいうの」
 
「良かった」
 
青葉は心底良かったと思った。ひとつの命が失われずに済んだのは、本当に良かった。
 
「私を連れて行って下さい。回復のお手伝いができるかも知れません」
「ほんと?」
 

それで青葉は圭織と一緒に、ジャネが入院しているK大学病院に行った。
 
お母さんは枕元で本を読んであげていた。
 
「いや、お医者さんから話しかけてあげてくださいと言われたものの、1年も経つと話のネタが無くなっちゃって」
などとお母さんは言っていた。
 
「落語の本を読んでいたんですか?」
「ええ。こういうの読むと、この子、喜んでいるような気がして」
 
青葉は考えた。もし可笑しい話に反応して喜んでいるとしたら、それは植物状態ではなく「最小意識状態」と考えられる。
 

こちらの呼びかけに対して反応しない場合、大きく分けて3つのケースがある。ひとつは昏睡状態(Coma)、つまり深く眠っていて神経系統も止まっている状態である。全身麻酔はこれに近い状態を人工的に作り出すものだ。
 
2つめが「閉じ込め症候群(Locked-in syndrome)」である。これは意識はあるのに、それに対して反応する運動中枢がいかれている状態。つまりこちらの言っていることは全部分かっているが、手足も動かず言葉も話すことが出来なくて、自分の意志を伝える手段が無い状態だ。
 
3つめがいわゆる「植物状態(vegetative state)」で、昏睡状態と違って覚醒はしている(覚醒と睡眠のサイクルがある)ものの、意識が無いという微妙な状態である。植物状態が4週間以上続く場合はpersistent vegetative state(持続性植物状態)と呼ばれる。日本語の医学用語では最近「遷延性意識障害」と呼ばれている。
 
ところが近年、今まで植物状態と思われていた患者の中で、実は僅かながらも意識を持っているケースが結構あることが分かってきた。
 
例えばある患者は鏡を近くに持って行くと、眼球がそれを追尾した。またある患者は「テニスをしている所を想像してみて」と言ったら、脳がちゃんとそのような想像をしているような動きをしていることが、脳スキャナーにより観察された。
 
このような患者は意識が全く無いのではなく、ひじょうに小さな意識が働いているとして、これを「最小意識状態(Minimally Conscious State)」と呼ぶことにしたのである。
 
そして実際、多くの植物状態の患者が、最小意識状態を経て、意識回復に至ることが分かってきている。それはいまや「奇跡」ではなくなってきているのである。この意識の働きを強めるため、電気刺激を与えたり、また効果があるとされる薬の投与などの治療も行われている。
 

青葉はまずジャネさんの手を握ると、エネルギーを注入しながら体内をサーチした。
 
身体的な怪我はもう治っているようだ。右足の足首から先が無いのが痛々しいものの、それ以外には異常は無いように思える。
 
秘密兵器の《鏡》を使って脳をきめ細かくサーチする。
 
あ、ここだ。
 
青葉は「気の乱れ」の観察から、視床下部の一部に微細な損傷があり、それが正しくない方法で癒着していることに気づいた。
 
ここをいったん《剣》を使って癒着を切り離す。その上で正しくつなぎ直す。
 
損傷の起きている箇所はかなりの広範囲にわたっている。ひとつひとつの損傷は小さいのだが、範囲が広い。
 
「あっ」
とお母さんが声をあげた。
 
「どうしました?」
と圭織さんが言う。
 
「娘が、娘が・・・目を動かしているんです」
 
「ジャネさん、私の右手を見て」
と言って圭織が手を彼女の右側に持って行くとジャネはちゃんとそちらを見る。
「今度こっち」
と言って左側に持って行くと、ちゃんと反対側に視線をやる。
 
青葉は今気付いた箇所の3分の1程度を治療しただけである。それでもどうも目の神経付近が動き出したようだ。
 

「お医者さんを呼びましょうか?」
とお母さんが言うが
 
「待って。もう少し確かめてみましょう」
と圭織さんが言う。
 
うん。待って欲しい。この「治療」が終わるまで、医者には来て欲しくないのである。
 
「ジャネさん、瞬(まばた)きできますか〜?」
 
彼女が瞬きをする。
 
お母さんが息を呑んでいる。
 
「ではジャネさんに質問でーす」
と言って圭織さんはバッグの中からnonnoを取り出す。
 
「答えがYESの時は瞬き1回、NOの時は瞬き2回してください」
 
するとジャネさんは瞬きを1回した。お母さんが手を口に当てて驚いている。
 
「あなたは女の子ですか?」
 
瞬きを1回する。
 
「あなたは男の子ですか?」
 
瞬きを1回する。
 
「あれ〜、ジャネさん、性転換しちゃった?」
と言うと少し考えるようにしてから、瞬きを2回した。
 
「あなたは石川県出身ですか?」
 
瞬きを2回する。彼女は福井県あわら市の出身である。
 

青葉はうまい具合に圭織さんが口頭試問(どうも読者アンケートの質問を読み上げているようだ)をしてくれている間に、どんどん治療を進めていった。そして治療が進むほどに、彼女の脳全体が活性化していきつつあることを意識していた。圭織さんの質問に対しても最初の方はけっこう間違っていたのが少しずつ正解率が高くなってきている。
 
今彼女の脳内には覚醒物質がどんどん行き渡っていきつつあるのではなかろうかと青葉は思った。
 
青葉の治療が8割ほど進んだとき、病室にこのフロアの婦長さんが入って来た。そしてジャネの様子が違うことに気づく。
 
「どうかしました?」
「この子、意識が戻ってきつつあるみたい」
 
婦長さんはジャネに呼びかけた。
 
「あなたのお名前は何ですか?」
 
ジャネはしばらく考えるような表情をした。そして口を開いてささやくような声を発した。
 
「さ・・・ね」
 
「おぉ!!」
「ドクター呼んできます」
と言って婦長は急ぎ足で病室を出て行った。
 

婦長に呼ばれて担当医が病室に来た時、青葉はちょうど今回見つけた損傷箇所の「治療」をひととおり終えた所であった。
 
医師がいろいろ質問すると、ジャネはかなり反応が鈍いし発音も不明瞭ではあるものの、ほとんどの質問にきちんと答えた。ただ、まだ難しい質問にはうまく答えられないようである。
 
「画期的に改善されましたね。彼女の中で何かが起きたのでしょうね」
と医師は言った。
 
青葉はその様子を30分ほど見てから、圭織と一緒に病院を後にした。
 

「何かテレパシーみたいなのずっと送っている感じだった。あれ、心霊治療のようなもの?」
と圭織さんから訊かれる。こちらが「気を送っていた」のを感じ取るというのは、この人も若干の霊感を持っているのだろう。
 
「そのようなものです。一般に心霊治療をすると主張している人のほとんどは実際は手品みたいなものですけど、私がやっているようなのが本来の心霊治療かも知れないですね」
と青葉は笑いながら言った。
 
「本当は事故の直後なら、もっと簡単だったんですけど、1年経っているからかなり大変」
「じゃ明日も行って、もっと治療をしない?」
「させてください。この人、見過ごせないです」
 
と言いつつ、これってちー姉にしばしば注意される「火中の栗を拾う」行為かなあ、などと青葉は思う。
 

青葉は圭織や他の数人の女子水泳部員と一緒に、4日も5日もジャネの病院に行って2時間ほど一緒に過ごした。部長の筒石さんなど数人の男子部員や顧問の先生も来て彼女を励ました。そして青葉はその度に彼女の脳内の損傷箇所をもっとどんどん治療して行った。
 
その結果、4日にはジャネは顔に表情が出るようになり、自分の名前もきちんと「ジャネ」と発音できるようになる。この名前は結構難しいのである。
 
「でもジャネというのは変わった名前ですよね」
と1年生部員の亜希子が言う。
 
「ジャネット・エヴァンスから取ったのかな?」
と青葉。
 
「そうです。正解!」
とお母さんが嬉しそうに言った。
 
ジャネット・エヴァンスは1988年のソウル五輪で400m自由形,800m自由形,400m個人メドレーの3種目で金メダルを取り、1992年のバルセロナ五輪でも800自由形で再度金メダルを取った。ジャネさんは1993生なので、それにあやかって水泳命の両親が名前を付けたのだろう。
 
「誕生日もジャネット・エヴァンスも同じなんです。8月28日」
「おお、凄い!」
 
「でも時々間違えてジュネと言われるんです」
とお母さん。
 
「ああ、腐系の人はそちらに連想が行く」
 
「海外の大会に行くと、ジェーン、ジェーンと呼ばれてたらしいですね」
と圭織。
 
「まあJaneを英語読みするとジェーンだから」
 
ジャネさんは、この日はまだ完全にはこちらの会話を理解できないようで、微笑みながら話を聞いていた。
 

しかし5日に青葉が帰る頃になると、彼女はこちらの話をほぼ完全に理解するようになってきたし、本人の発音もかなり明瞭になってきてイントネーションまで付くようになっていた。
 
そして5日の夜、ジャネはお母さんに驚くべきことを語ったのである。
 
彼女は自分で飛び降りたのではない。木倒さんに落とされたのだというのである。警察が来て事情聴取をするとジャネはハッキリと当時のことを語った。
 
その日木倒さんが見舞いに来て、ジャネが「足が無いと動き回るのも大変だし。私松葉杖とかで歩かないといけないのかな。車椅子かな」などと言うと「ひとりで歩けるよ。ちょっと手伝ってあげるから起きてごらんよ」と言い、木倒さんに支えられてジャネはベッドから起き上がった。
 
「あ、今夜は月がきれいだよ。見てごらん」
と言って彼女と一緒に窓際に行く。
 
「あ、ほんとにきれいだね」
とジャネが言った時、木倒さんはいきなり彼女を窓の外に突き落としたのだという。
 

警察は木倒さんの家族に事情聴取をした。するとお母さんが
 
「申し訳ありませんでした」
と言って泣いて謝り、木倒さんが「遺書」を残していたことを告白する。
 
そしてその遺書には
「ジャネはもう世界選手権にもオリンピックに行けない。可哀相だから、俺が虹の向こうのオリンピックに連れて行ってあげることにする」
 
と書かれていたのである。警察はお母さんに事情聴取し、その遺書原本を任意提出してもらって、調書を作った。数日中に送検されることになるが、被疑者死亡により不起訴になるはずである。
 

「確かに木倒さんが死んだのは、ジャネさんが転落した同じ晩だったもんね」
と圭織は言った。
 
「その話を私は今聞きましたが」
と青葉は言う。
 
「言わなかったっけ?」
「聞いてません」
「ごめんごめん」
 
「でも鉄骨の下敷きになって死んだなんて、普通事故として処理されて補償交渉とかも行われるはずが、全然その話が進んでなかったのは、木倒さんの遺族が死の真相を知っていたからだったのね」
 
「それってむしろ建設会社が木倒さんの遺族に損害賠償を請求したくなるケースですね」
 
「でもどうやって鉄骨を自分の上に落としたのかなあ。木倒さん、あまり腕力無いし」
「うーん・・・紐か何かで引くのかなあ」
 
と青葉も首をひねった。
 

青葉は30年前のできごとを知る中川教授をジャネさんの病床に連れて行った。
 
話を聞いて、ほぼ意識の戻ったジャネさんはゆっくりした口調で言った。
 
「それ絶対、そのサトギという男に突け落とされたんてすよ。私は足を失ったのは凄いシャックだったけど、だったらパレリンピックで金メデル取っちゃると思ってたもん」
 
と彼女は言う。彼女の言葉はかなりまともになってきているのだが、微妙な言い間違いもまだまだあるようである。
 
「30年前のマソさんとサトギさんの事件、今回のジャネさんと木倒さんの事件。似たパターンの事件が起きましたが、今回はジャネさんが助かったから良かったです。そしてどうも、それよりずっと以前にも何度か似たような事件が起きていたようなんですよ」
と青葉は語った。
 
「人間ってどんな状況になっても、結構可能性はたくさんあるものなんだよ。絶望の淵にいる人にはその残された可能性が見えてないんだな」
と中川教授は言った。
 
「私、ほんたに頑張りますね」
とジャネさんは言い、私たちも笑顔で頷いた。
 

「ところでこないだから思っていたのですが」
とジャネのお母さんが青葉に言った。
 
「はい?」
「川上さんでしたっけ? もしや娘に何かしてくださってました?」
 
青葉は微笑んだ。
 
「すみません。勝手なことしまして。私の祈祷がジャネさんの回復に少しは役立つかも知れないと思って、ずっとベッドのそばで密かに祈祷しておりました」
 
「お祈りなんですか!?」
 
「実は過去にも交通事故などで脳出血をした患者をこの方法で助けたことが何度かあります」
 
青葉がそう言うと中川教授が腕を組み、右指を唇の所に当てて考えるようなポーズを取っている。
 
「お邪魔でしたよね。済みません」
「いえ。効く祈祷なら、どんどんしてください」
 
「でも祈祷がこういうのの回復に効くの?」
と中川教授が尋ねる。
 
「祈祷というのは、マクスウェルの悪魔のようなものです、教授」
と青葉は言った。
 
「ほほお」
 

マクスウェルの悪魔というのは、熱力学の法則に関するこのような仮想実験である。前提として熱力学の第二法則
 
「エントロピーは増大する」
 
というのがある。エントロピーというのは、いわば「乱雑さ」であり、この私たちが住んでいる世界ではエントロピーは単純に増大していき、小さくなることはないというのがこの法則である。
 
例えば部屋を掃除すると、部屋の中の乱雑さは小さくなるので、この部分のエントロピーは小さくなるものの、作業によって身体が発熱し汗を掻くので作業した人間のエントロピーが増えていて、合算するとちゃんと全体のエントロピーは増えている。
 
物事は必ず秩序が乱れ、でたらめになっていく傾向がある。ルールを定めても必ず破る人が出る。ひとつの地位を築いた人がその地位を永久に維持することはできない。そのような人間の事象でさえも、まるで熱力学第二法則に従っているかのようである。山が削られその土砂で谷が埋まっていくように形あるものは壊されていく。エントロピー増大の法則とは、物事をランダム化・平均化していく働きでもあり、盛者必衰・諸行無常の理(ことわり)だ。
 
ところで、ここに小さな口のある仕切り板で区切られた2つの部分からなる箱を考える。この箱の中には最初はどちらも同じ温度の空気が満たされている。温度が等しいというのはつまり両者の空気分子の「平均速度」が同じであることを意味する。しかしあくまで平均速度であり、個々の空気分子の速度はバラバラである。
 
この仕切り板の口の所に小さな悪魔が居て、左側の箱の中の分子で動きの速いものが飛んできたら右側に通過させる。しかしゆっくりした動きの分子は跳ね返すということをする。
 
すると次第に左側はゆっくりした動きの分子が増え(温度は低くなる)、右側は速い動きの分子が多くなり(温度は高くなる)、両者には温度差が生じる。
 
この時、悪魔は分子を通過させる時は当然何も仕事をしてないし、跳ね返す時も単純に分子の方向を変えるだけなので何も物理学的な意味での仕事はしていない。
 
これは最初完全に乱雑だった空気の状態が、低温と高温に分けられ秩序付けられたことになり、エントロピーは減少している。
 
これは熱力学の第二法則に矛盾しているのではないか。
 
この悪魔のことをマクスウェルの悪魔と言い、この問題の解決に科学者たちは1世紀以上の月日を費やしたのである。
 

「祈祷は何も物理的な意味での仕事はしません。ただ触媒になるだけです」
「というと?」
 
「幽霊が見える仕組みなんかも似たようなものなんですよ」
と青葉は言う。
 
「例えば写真に人の顔が写っていたとしますね。ところがそれはよく見たら偶然葉っぱの形がそう見えるだけだった。なーんだ。ただの葉っぱじゃんと思う。ところが、それは How を説明しただけなんですよね」
 
「ほほお」
 
「概して科学は How しか説明しません。しかし霊能者や祈祷師は Why を重視します。確かにそれは葉っぱにすぎない。でもなぜ、その時、その葉っぱがそんな形に見えたか」
 
「なぜなの?」
と教授は青葉を試すように質問する。
 
「その写真を撮影した人が、そのように葉っぱが形を取る瞬間に撮影したからですよ」
 
「あああ」
と言って教授も納得しているようである。そばで聞いているジャネのお母さんも感心している。
 
「それはおそらく、その写真を撮影した人が何かの雰囲気を感じ取ったり、あるいは本人の心にやましいことがあったりしたので、そういう瞬間を切り取ってしまうんです」
 
「それはあるかも知れないね」
 
「霊的なものって、そのように物理法則には矛盾しないところで作用するんです。ですから、科学は霊的なものを探求する道具にはなりませんし、私の治療法は科学的に証明された、などとおっしゃる祈祷師さんはまずニセモノです」
 
「ああ、それは思ったことある」
 
「私がジャネさんにしていた治療法はですね。簡単に言うと、ジャネさんの脳内で怪我の後、正しくない形で癒着してしまった微細箇所を見つけては、そこをいったん切り離した上で、正しく接合し直すというのを何百回と繰り返したものです」
 
「それを霊的に?」
 
「そうです。実際には私はそのような変化が起きるようにジャネさん自身に心理的に働きかけただけです。まあ催眠術にも似ていますよね。身体の特定の部位にだけ作用する呪文の唱えかたがあるんです。右の腎臓だけに効く呪文、左の卵巣だけに効く呪文といった唱え方があるし、その臓器の場所を細胞単位で特定する呪文があります。もう数字の羅列ですけどね」
 
「そこまで細かい指定ができるんだ!」
 
「それでこちらはそういう暗示を掛けているだけで、実際にその細胞のつながり方を修正したのはジャネさん自身です」
「いわば自然治癒力を後押ししているんだ?」
 
「そうなんですよ。ですからこれは生きていて最小限以上の意識の働いている人にしか適用できません。昏睡状態の人は事実上モノと変わらないので私の手には余ります(ということにしておこう)」
 
「それなら何となく分かるね」
 

「川上さん、お願いです」
とお母さんが言った。
 
「その治療法、私が正式に依頼します。娘にもっともっとしてあげてもらえませんか?」
 
「いいですよ」
と青葉は言った。
 
中川教授も微笑んで頷いていた。
 

「水泳部の怪異の件、青葉が解決したって?」
と連休明けの9日の昼休み、星衣良は青葉に尋ねた。
 
「耳が早いなあ。私は誰にも何も言ってないのに」
「上級生の女子の間で噂になってたから。誰か凄い霊能者の在学生が解決したらしいと聞いたけど、そんな凄い霊能者ってきっと青葉だと思ったし」
と星衣良。
 
「まあね。でもあまり人に言わないでよ。依頼が殺到すると、私勉強する時間無くなっちゃうし」
「うん」
 
「例の部長さんが3代続けて死んだ奴?」
と蒼生恵が尋ねる。
 
「そう。もう大丈夫だから、蒼生恵ちゃんも安心して水泳部入るといいよ」
 
「そうしようかなあ」
「じゃ、放課後連れて行ってあげるよ」
と青葉は微笑んで言った。
 

この日の放課後は、その水泳部に「入ろうかなあ」と言っている蒼生恵も連れて、圭織さんと一緒にジャネさんのお見舞いに行ったのだが、行くと彼女は病室で歌を歌っていた。
 
青葉たちが病室に入っていくと「きゃっ。恥ずかしい」などと言ったが
 
「歌を歌うのもリハビリですよ。続けて下さい」
と青葉が言うと
「じゃ続けちゃおう」
と言って、ステラジオの『虹色の日々』を最後まで歌った。
 
「ジャネさん、歌が上手い」
と蒼生恵が言う。
 
「水泳選手は肺活量があるから、声量が出るんだって、高校の時の音楽の先生が言ってたよ」
と本人。
 
「確かに。水泳選手の肺活量は一般に凄まじいです」
と青葉。
 
「でもステラジオ、ゴールデンウィークに予定していた野外ライブをお休みしたんだって? 体調でも悪かったのかな」
 
「どうでしょうね。忙しすぎるから体調崩したのかも」
と青葉は顔色ひとつ変えずに言う。
 
「私、あの人たちインディーズの頃からのファンだったんだよ」
「へー。早い時期に目を留めてたんですね」
 
「ローズ+リリーもいいんだけど、歌詞がレスビアンっぽいじゃん」
「あはは。マリさんのセクシャリティが出てますね」
 
「ステラジオの歌詞はむしろ男らしいからいいな」
とジャネさんが言うと
 
「違いが分からん」
と圭織さんが言った。
 

5月10日(火)。この日青葉は午前中は会社設立関係の手続きで休み、お昼から出てきたのだが、学食に行くと星衣良と蒼生恵が手を振っていたので寄っていく。それで青葉もお昼を買ってきて食べながらおしゃべりしていると、吉田君が近くに来た。
 
「やっと正しい学生証をもらった」
と彼は言っている。
 
「良かったね」
 
「ちゃんと名前の読みは『ほうせい』になってるし、性別は男になってる」
 
「女子学生になるチャンスだったのに」
「性別女の学生証を欲しがっている男の子たくさんいるのにね」
「そんなにたくさんいるか!?」
 
「吉田、そういえば部活とかは入った?」
「ああ。俺“しょうげきだん”に入った」
「衝撃の弾丸?」
「小さな劇団?」
「ショーをやる劇団?」
「オカマショーをするとか?」
 
「違う違う。お笑いだよ。笑劇団」
「そちらか」
「お笑いは吉田に結構合ってる気がするよ」
 
「でもちょっとびびってるんだよなあ」
「なんで?」
 
「実はうちの笑劇団の部長がさ」
「ん?」
「3代続けてさ」
 
青葉は緊張した。また何か怪異か?ここも3代続けてってどうなってるんだ?
 
「3代続けてどうしたの?」
と星衣良が訊く。
 
「3代続けて、男だったのが性転換して男優から女優になっちまったらしい」
 
「ぷっ」
と青葉も星衣良も蒼生恵も吹き出した。
 
「いいんじゃない?そういうのも」
「こういう所にいたら、俺もふらふらと性転換したくなってしまったらどうしようと思っちゃうよ」
 
「まあそうなった時はそうなった時で」
「お化粧教えてあげるね」
「いや、お化粧は練習中」
「ほほお」
 
「なんか新入生は全員男は女役、女は男役するんだって」
「どういうポリシーなんだ?」
 
「男と女の両方の感覚が分かってないと、お笑いはできないと言われた」
「そうなのか?」
 
「だから、今ひらひらしたドレス着てお化粧して『アリババと4人の盗賊』のモルディアナ役を練習してるよ。セリフがダジャレのオンパレードなんだけど」
 
「それ事実上の主役じゃん」
「いきなりそんな大役もらって、びっくりした」
「それは頑張って女の子らしく振る舞えるよう練習しなきゃ」
 
「日常生活も女子学生として送って、女としての行動に慣れよう」
「女子トイレに入りたかったら付き添ってあげるよ。女子更衣室はダメだけど」
「勘弁してよぉ」
 
「だけど『4人の盗賊』なんだ?」
「40人も居ないからしかたない」
 
「でもドレスだけ?ブラジャーとかは?」
「下着も女物つけてないと女の感覚になれないから、自分に合うサイズの買ってきて本番までに付けられるよう練習してと言われた。8月の本番ではブラジャーの中にパッド入れるからって」
 
「もう買った?」
「まだ。だって、そんなの買いに行ったら変態みたいで」
 
「よし。だったら、放課後、吉田の女性下着購入に付き合ってあげるよ」
「え〜〜?」
「それともひとりで買える?」
 
「いや。実は女下着コーナーに行ってみたけど、近寄れなくて帰って来た」
「まあ普通はそうなる」
「男なのに堂々と女下着コーナーに近づけるのはきっと変態だけ」
 
「じゃ、一緒にきてもらおうかなあ」
「OKOK」
 
「パンティは?」
「それもどうしようかと思ってた」
「じゃ、それも一緒に買おうよ」
「うん」
 
「しかしこういうのやるから、女装に目覚めて、性転換したくなる人が出るのでは?」
「俺、自分が怖いよ」
 

5月14日(土)。
 
青葉は外出許可を取ったジャネさん、付き添いのお母さん、圭織さんと4人で北陸新幹線に乗り、東京に出た。ジャネさんは
 
「私が意識を失っている間に開通してたんだね」
と北陸新幹線での旅を楽しんでいた。
 
その日は都内のホテルに泊まり、翌15日朝、千里が車椅子ごと乗せられる福祉車両を運転してホテルまで来る。みんなで協力してジャネさんの車椅子を車両に乗せた。
 
千里の運転で首都高を走り、神奈川県内某所にある大学の体育館そばに付けた。みんなで協力して車椅子を下ろし、圭織さんが後ろを押す。
 
体育館内ではバスケットの試合が行われているようであった。男女混合チーム同士の対戦のようである。
 

千里は何も説明しない。青葉も内容を聞いていなかったので、これは何だろうと思って試合を眺めていた。
 
「なぜこんなに音が鳴っているの?」
とジャネさんが尋ねる。
 
「バスケットのゴールの所で固有の音が鳴っています。そしてボールの中にも音を発する装置が入っています」
と千里は説明した。
 
「お姉ちゃん、コートの周りに蛍光色のマットが並べてあるのはなぜ?」
と青葉が千里に尋ねた。
 
「そこを踏んだ時に、あ、ここはコートの外なんだと分かるようにするためだよ」
と千里は答えた。
 
5分くらい観戦してから、圭織が言った。
 
「もしかして、この人たち目が見えないの?」
 
「正解です」
と千里は笑顔で答えた。
 

「え〜〜〜!?」
とジャネさんとお母さんが声をあげる。
 
「Blind Basketballというんですよ。ルールは基本的に普通のバスケットと同じです」
 
「でもでも、今ボールをドリブルしてくる人を手を広げてディフェンスして、攻撃側はフェイント1回入れてから反対側を抜いて、シュート撃ちましたよね」
と圭織さんが言う。
 
「どうしてゴールの方向とか距離が分かるんです?」
とジャネのお母さんが訊く。
 
「ゴールの所で音が鳴っているので、それを聞いて方角と距離が分かるんですよ」
「音だけでよく分かりますね!」
 
「他に、センターライン付近でも別の音を鳴らしていますし、制限エリアの所は踏んだ時に他の部分と違う音がするシートを床に貼っています。それでゴールの近くまで来たことが分かります。ただこの試合では3秒ルールは6秒ルールで運用していますし、お互い見えない同士ですから、悪質で無ければ制限エリア内全部ノーチャージ(チャージングを取らない)ということにしています。一応、怪我防止のためユニフォームにお互い1m以内に近づいたら振動で知らせる装置を付けています。右半円に入ったら右側の装置、左半円に入ったら左側の装置が反応します」
 
「なるほどー」
「かなりハイテクだ」
 
「でも何かパスも普通にしてるし」
 
「履いている靴をチームごとに統一していますので、味方と敵はその靴音でも識別できます。そして、ボール自体から音が出るから、それを聞いてボールの場所が分かるし、ちゃんとパスを受け取れるんですよ。お互い声も出し合ってますし。もっとも1m以内のバイブを確認してそのくらいの距離に届く勢いでパスを出す選手も多いです」
 
「それにしても凄い」
 
それでしばらく見ている内に圭織が言う。
「この人たち、物凄くうまくないですか?」
 
すると千里は説明する。
 
「どうかしたチームなら、目が開いていてもこの人たちに負けますよ。今ここでプレイしている人の半数くらいが、インターハイの県予選決勝リーグくらいまでは行った経験のある人たちですから」
 
「でも事故とかで視力を失って・・・」
 
「そうです。たとえば今、緑色のチームの4番付けている人。あの人は私が高校時代にインターハイで対戦したことのあるチームのシューターですよ。でも化学の実験をしている時に薬品が爆発して両目の視力を失ったんです」
 
その4番をつけた女子選手がドリブルしていた相手男子選手から巧みにボールをスティールするとそのままシュートに行った。
 
「スリーポイントゴール!」
と記録員の人が大きな声で言っている。
 
「すげー!目が見えないのにスリーを入れるなんて」
「その前に男子選手からスティールしたのも凄い」
 
「あの人の場合はちょっと特殊なんです」
「特殊?」
 
「あの人はコートを何度も色々な歩幅で走ってみて、それでどのくらいの歩幅で何歩走ればコートのどのあたりまで来るかというのを完全に把握しているんです。ですから、実はあの人はゴールで音が鳴っていなくても、正確にボールをゴールに放り込むことができます」
 
「凄い!」
「スティールは?」
「あれは、ほとんど勘でしていると思う」
「ひゃー」
 
「それにしても」
「音と勘だけでそこまでできるって」
「この人たち凄い」
 
「かすかに見える人も混じっています。その人たちのために、ユニフォームは派手な視認しやすい色にしているんですよ」
「なるほど!」
 

「選手たちの中には、元々目が見えなかった人もいますけど、中途失明者の方が多いです。彼らは視力は失ったけど、バスケットボールに対する情熱は捨てられなかった。それでこういうシステムがあることを知って参加したんです」
 
「ブラインド・ベースボールというのは聞いたことあったけど、バスケットもあるんですね」
 
「こういうシステムが確立したのは割と最近のようです。車椅子バスケットはかなり以前から行われていましたが、ブラインド・バスケットはまだできる環境、そしてチームとかも少ないです。ルールも試行錯誤があるようですね。この試合では採用していませんが、ゴールに入らなくてもバックボードに当たっただけで得点を認める流儀とかもあります。今関東はこの2チーム、あと名古屋に2チームあるだけで。両者で半年に1度交流戦してます」
 
「しかし目が見えないのに、飛んでくるボールをきちんと受け取るって、物凄い感覚ですね。歩数を数えて今自分がどこにいるかを常に把握しているというのも本当に凄い」
とジャネさんが言う。
 
「人間の能力って凄いでしょ?」
と千里は彼女に言う。
 
「私、俄然やる気出ました。お母ちゃん、今月中に退院しようよ」
 
「それはちょっと・・・・お医者さんの許可が出るかどうか」
 
「許可出なかったら脱出してプールに行って泳ぎたい」
 
「1年泳いでないとプールが恋しいですよね」
と千里は煽る。
 
「恋しいです。リオデジャネイロ・オリンピックの最終選考はまだかな?」
 
「まだですけど・・・・パラリンピックじゃなくて、まさかオリンピックを目指すの?」
 
「そのくらいのつもりで頑張るよ」
とジャネさんは意欲満々な顔で言った。
 

試合見学が終わった後は学食で少し休憩したあと、大学を出る。千里は車を新横浜駅につけた。
 
「新幹線で東京に戻るの?」
「ちょっと岐阜県まで移動しましょう」
「岐阜県?」
 
千里は車を駅近くの駐車場に駐め、ジャネさんを車椅子に乗せて駅構内に入る。
 
「青葉、駅弁とお茶を5つにおやつとかも少し買ってきてくれない?」
と言って千里が1万円札を渡す。
 
「あ、うん」
と言って青葉は他の4人から離れる。多分自分に見られたくないことを何かするんだろうなと青葉は思った。
 
駅弁などを買ってから改札前で千里やジャネたちと合流する。千里が岐阜羽島までの切符を渡す。やはりグリーン券である。
 
「今度は何があるんですか?」
と圭織が尋ねる。
 
「まあ行ってみての楽しみです」
と千里。
 

新幹線の中で駅弁を食べながら、話はまださっきのブラインド・バスケットの話で結構盛り上がった。膝下切断のハンディを乗り越えて北京五輪の水泳に出場したナタリー・デュトワや、義足でロンドン五輪の陸上400mに出場したオスカー・ピストリウスなどのことも話題になる。
 
「でも今回ごめんね。私が自分で迎えに行きたかったけど、時間が無いからそちらから自主的に出てきてもらった」
 
と千里。
 
「いえ。凄いものを見られて、本当に水泳復帰への意欲が湧きました」
とジャネさん。
 
「お姉ちゃん、今回合宿の谷間だったんでしょ?」
と青葉が言う。
 
「うん。11日まで北区のナショナル・トレーニング・センターで合宿してた。13-14日は川崎でクロスリーグの試合やって、今日だけ休み。明日からはまた合宿で今度はフランスに行ってくる。帰りは6月6日。その帰国した日に最終的な代表が発表される」
 
「お姉ちゃん最終メンバーに残るよね?」
「さあね。現在代表候補は18人いる。補欠として参加している人もいれると24人。でもリオデジャネイロに行けるのは12人だけ。生存確率2分の1」
 
「お姉さん、もしかしてバスケットの選手なんですか?」
 
「姉は今オリンピックの日本代表の合宿に参加しているんですよ」
 
「お姉さん、そんな凄い選手なんだ!」
 
「じゃ、お姉さんはバスケットで、妹は水泳でリオに行こう」
と圭織さんが煽る。
 
「それはさすがにレベルが足りません。それとこないだも言ったように私は申し訳無いけど水泳部は辞めますので。代わりにジャネさんが復帰するということでどうですか?蒼生恵も入れたし」
と青葉は言った。
 
「甘い。新入りは3人は勧誘してもらわないと」
「それじゃマルチ商法ですよぉ」
「でもジャネさんは復帰してください」
と圭織は言っている。
 
「うん。そうさせて。今から練習してれば、取り敢えずインカレあたりには間に合いそうな気がするもん」
とジャネさんは言っている。
 
「ジャネさん、右足くらい無くてもインカレ、ぶっち切りで優勝したりして」
と圭織。
 
「短距離は厳しいけど、800mなら結構行ける気がするんだよ。できたら女子にも1500mが欲しいよね」
とジャネ。
 
「欲しいですよね。それともジャネさん性転換します?」
と青葉。
 
「あ。それもいいな。義足作るついでに真ん中にも1本足付けちゃおうかな」
 
「勘弁してぇ」
とお母さんが言っていた。
 

やがて新幹線が岐阜羽島に着く。車椅子を押して出札口を通ると、青葉も見たことのある人が手を振っていた。
 
「こんにちは、舞耶(まや)さん」
と千里が挨拶する。青葉も慌てて挨拶する。この人は確か・・・・先日の高知での葬儀の時に会った人で、えっとえっと・・・青葉は必死に記憶をたどった。
 
「そうか。芳彦さんのフィアンセさんでしたね?」
「うん、そうだよ。青葉ちゃん」
 
と彼女は笑顔で答えた。
 
彼女の案内で外に出る。駐車場に福祉車両が駐めてあり、車椅子ごとジャネさんを乗せる。それで舞耶の運転で車は岐阜羽島ICから高速に乗り、30分ほど走ってから下道に降りた。
 
「ここは何ですか?」
「きっとジャネさんのお役に立ちそうなものがあるんですよ」
 
と千里は言った。
 
そこは何かの研究所のようであった。
 
青葉たちは建物の中に入ると「わぁ・・」と言って、展示されている製品のラインナップを眺めていた。
 
 
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【春老】(4)