【春退】(6)

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千里・桃香、そして水城さんと一緒にその道をゆっくり歩いて行く内、青葉は「霧が晴れていく」ような感覚を感じていた。
 
何だろう?この感覚って・・・・
 
「桃香って曖昧なものが嫌いだよね?」
と千里が唐突に言う。
 
「うん。物事は何でもクリアになっているのが私は好きだ。恋愛でもぐずぐずしているのは好かん。『嫌いなわけじゃないんだけど』とかいった訳の分からん話は嫌だ。だから私は好きになったらすぐ告白するし、愛情が無くなったらすぐ別れる」
 
などと桃香は言う。
 
「そういうのいいなあ。憧れちゃう。私は小さい頃から、ぐずぐずするなとか、ハッキリしろとか言われてきました」
と水城さんは言う。
 
「ところで、あんたちんちんあるの?」
と唐突に桃香が訊く。
 
「ちょっと、桃姉!」
と青葉が注意するものの、水城さんは微笑んで答える。
 
「もうありませんよ」
「じゃ、性転換手術しちゃったんだ?」
「ええ。私はもう肉体的には完全な女です。町内会の旅行では女湯に入りますよ」
「でも、女性と結婚している訳?」
 
「ええ。だからあんたら夫婦で一緒に銭湯に入れるって便利だ、なんて言われます」
「あ、それは私も言われたことある」
 
「結婚した時はまだ男の身体だったんですよ。だから結婚当初は何とか男らしくしようと努力していました」
「それ無理でしょ?」
と桃香はハッキリ言う。
 
「無理でした。私は男にはなれませんでした。ですから結婚する前に女物の服とか全部捨てたのに、結婚してしばらくしてから、また少しずつ買うようになって。お化粧とかもするようになって」
 
「当然じゃん、あんた女なんだから」
と桃香は言う。
 
「妻にもそう言われたんです。それで結局性転換手術受けることにしたんです。女になりたいのなら、その気持ちを大事にしろ、自分も応援してやるからと言われて」
 
「お嬢さんはまだ性転換する前に作られたんですね?」
「はい。念のため手術前に精子の冷凍保存はしましたが、あの子は冷凍精液ではなく、生でセックスして生まれた子供です」
 
「女の人とセックスすることに抵抗なかった?」
「セックスしている時は、自分が入れているのに、入れられている側に感情移入してしてました」
 
そんなことを淳さんも言ってたかな、と青葉は思った。
 
「妻は私に自分に正直に生きろと言ったんです。それであの子がまだ妻のお腹の中にいる間に私は性転換手術を受けました。妻はわざわざタイまで付いてきてくれたんですよ。麻酔から覚めて最初に妻から『良かったね。女の子になれて』と言ってもらった時は、嬉し涙で手術の痛みも忘れるくらいでした」
 
「戸籍の性別は修正してないんでしょ?」
「はい。妻は自分との結婚が偽装結婚ではなく、本当に自分のことを好きなのであったら、結婚は維持してくれと言いました。私は本当に好きだと言いました。それで結婚を維持してくれることになったので、私は法的な性別は変更しないことにしたんです。ちゃんと夜の生活もしてますよ。同性婚できたらいいんですけどね」
 
「全く全く。同性婚は認めて欲しいよ」
と桃香も言う。
 
「お姉さんも結婚したい人いるんですか?」
「その人と結婚式は挙げたんだよ」
「へー」
「でも女同士だから籍は入れられない。養子方式で籍をひとつにすることも考えたんだけど、自分たちは親子ではなく夫婦だから、法的に親子になるのは納得できないと言って、それはしていない。だから気持ちの上だけの夫婦だ」
 
と桃香は言う。千里は黙って微笑んでいた。
 

「桃香は、そんな親子か夫婦か曖昧な形は嫌だと言ってたね」
と千里が言う。
 
「うん。私は物事はきちんとしないと嫌だ」
と桃香。
「桃香ってシュレディンガーの猫の観察者なのかもね」
と千里は言った。
 
「あの話は私には理解できん。猫は生きてるか死んでるかどちらかしかないだろ?生きている状態と死んでいる状態が重なってるとか、そんなゾンビみたいな話は許せん」
と桃香は言う。
 
「桃香って貴重な存在だと思うよ」
「なんだか君たちは神様とか幽霊とか、そういうのに関わっているようだが、私は世の中のことは全て科学で割り切れるものと信じている」
 
「その科学で不確定性原理というのがあるんだけどね」
「それは絶対間違ってる」
「でも不確定性原理が無かったらトランジスタは動作しないよ」
「きっと不確定性原理を越える、超確定性原理が発見されて全ては合理的に説明できるようになるんだ」
 
水城さんが笑っていた。
 

青葉はこの道を歩いている内に霧が晴れていくような感覚があるのは、やはり桃姉のせいだと認識した。曖昧さを嫌う桃香は自分の周囲のことを強制的に白黒付けていくのだろう。その時、青葉は今度、和実の採卵をする時に桃香に近くに居てもらったらどうだろう?ということを思いついた。
 
うん、それはきっと何か起きるぞ。
 

そして、4人はその看板の前で立ち止まった。
 
「ちー姉、ここ変だと思わない?」
と青葉は言った。
「うん。ここ何か埋まってると思う」
と千里も言った。
 
「何だ何だ?君たち、何か見えるのか?」
「感じるよね」
「うん。ハッキリ感じる」
「曖昧な話だなあ」
 
そこは消防署の手前70-80mほどの場所である。《急カーブ注意》という看板がコンクリートの土台の上に立っている。
 
「何かあるんですか?」
と水城さんが訊く。
「ここ、何か埋まってます」
と青葉が言う。
 
「消防団の人を呼んできます」
 
水城さんが消防署に駆け込み、消防団員さんを数人呼んできた。
 
「こちら先日、K地区の妖怪騒ぎを解決してくださった霊能者の先生なんです。先生がここに何か埋まっているとおっしゃるんです」
と水城さんが説明すると
 
「掘ってみよう」
と40代くらいの団員さんが言った。
 
水城さんは青葉を見ながら「霊能者の先生」と言ったのだが、団員さんたちはどうも千里姉のほうを「霊能者の先生」と思ったようだなと青葉は感じた。腰付近までの長い髪を束ねている千里は、充分偉い巫女さんに見えるし、妙な貫禄もある。でもそういう存在は便利だ!
 
自分は随分と、曾祖母、佐竹のおじさん、佐竹慶子、時には菊枝さんなども「ダミー」として使わせてもらったけど、もしかしたら今は千里姉が自分のダミーを務めてくれているのかも知れないという気がした。
 
もっとも千里姉は時に、こちらをダミーに使って何だか凄いことしちゃうんだけどね!
 

ひとりの団員さんが電動ハンマーを持って来た。
 
「この土台、本来ここまで無かった筈だな」
「たぶん誰かが土台のそばに何か埋めて、その上にコンクリートを敷いて、あたかもここまで土台の一部のように装ったんだ」
 
それで団員さんたちは、その土台の不自然な「延長部分」を壊していった。そして壊してみると、明らかに何かを埋めた跡がある。
 
「おい、スコップ持ってこい」
 
その後は消防団員たちは慎重に掘っていった。
 
「おいこれは・・・・」
「警察呼べ」
 

警察が駆け付け、その後は警官と消防団員で慎重に掘り進んだ所、人間の死体が埋まっていることが分かった。
 
「病院の先生呼んでくれ」
 
「水城さんたちは見ない方がいい」
とこちらに向かって言う。
「うん。これは女が見るもんじゃない」
などとも言っている。
 
水城さんはやはりこの町では一応「女」に分類されているんだろうなと青葉は思った。
 
「はなむけにこのお酒を供えてあげてください」
と千里がさっき水城さんからもらったお酒を1本消防団員に渡す。
 
「うん、そうしよう」
と言って団員さんは掘っている穴のそばにそのお酒を注いだ。そして手を合わせている。
 
「しかしこれは1〜2年経ってるぞ」
「何か身元の分かるものは無いか?」
という声が聞こえる。
 
「運転免許証があったぞ」
「あれ?」
とひとりの警官が声をあげる。
 
「この免許証、こないだ消防署の前で事故って大怪我して入院している奴の免許証じゃないか」
 
「なんでそんなものがここに」
 

警察の事情聴取に対して、当人たちは、全てを告白した。2年前にあの道で今回事故を起こしたのと同じメンツで、夜中にスピードを出して走っていて、老人をはねてしまったこと。怖くなって、あの看板の所に埋めてコンクリートを敷いておいたこと。免許証は紛失していることに気づいて再発行してもらったものの、あそこに埋まっていたというのは思わなかったと供述した。 
そしてその老人はDNA鑑定で2年前に行方不明になっていた徘徊老人であったことも判明した。
 
結局、7月の事故はあるいはそのはねられた人の亡霊の復讐だったのかも知れないという噂が町には立った。
 
水城さんの町の町内会はあらためて青葉たちに御礼がしたいと言ったが、そのお金は町の交通安全施設の充実に使ってくださいと青葉たちは申し出た。それでそのお金で町には2ヶ所、信号が増えた。また例の場所の急カーブの所には最新型の曲線部誘導標(アローサイン)をガートレールに取り付けた上で問題の「急カーブ注意」の看板もLEDを取り付けて目立つようにした。
 

事件の処理が進んでいるのを警察などに任せて青葉たちは鉄道で高岡に引き上げた。人間の死体を発見したなどという話に朋子はびっくりしていた。 
「殺人事件?」
「いやハッキリはしないけど、多分ただの死体遺棄事件だと思う」
と千里が言った。
 
この時点では状況はハッキリしていなかったのだが、ちー姉がそう言うのならきっとそうなんだろうなと青葉は思った。
 
「でもさあ」
と朋子は心配するように言う。
 
「よくそれあんたたちが変に疑われて取り調べられたりとかならなかったね」
 
「え?」
と青葉は声をあげた。そんなことは全然考えていなかった!
 
桃香が言う。
 
「それは私もチラッと思った。これヤバいんじゃないか?って。ふつうなら何の変哲もない看板の下に死体が埋まっているなんて言い出したら、発見者の私たちが真っ先に疑われるよな。それを『霊能者の先生が見つけてくれた』でおさまってくれるというのは、なかなか素晴らしい」
 
千里も
「うん。田舎って素敵だよね」
と言った。
 
「都会の警察なら、そんな霊能者だの霊感だのって話は信じないもん」
と朋子も言う。
 

それで唐突に青葉は先日受けた性別検査の時のことを思い出した。自分がヒーリングで女性ホルモンを増加させていたという話をお医者さんが信じてくれなかったという話をすると
 
「そりゃ当然」
と桃香から言われる。
 
千里も
「青葉も下手だね。そういう時は、ちゃんと女性ホルモン剤を飲んでいますと言っておけばいいんだよ。これ持っておきなよ」
 
と言ってバッグの中から錠剤シートを2種類取って青葉に渡した。
 
「これはプレマリン(エストロゲン:卵胞ホルモン)のジェネリックでエストロモン、こちらはプロベラ(プロゲステロン:黄体ホルモン)のジェネリックでDB-10。今度お医者さんに訊かれたら、これ飲んでますと言って薬を見せるといいよ」
 
すると桃香から突っ込みが入る。
 
「つまりだね。千里君。君は医者から女性ホルモンを飲んでますか?と訊かれたら、こういうのを飲んでますと言って薬を見せるが、実際には飲んでいないわけだ?」
 
「私、高校1年の時まではちゃんと女性ホルモン剤飲んでたよ」
と千里は答える。
 
「それってつまり高校1年の時に性転換手術したんで、もう飲まなくてもよくなったのかな?」
と桃香は突っ込んでくる。
 
「ある人からもう飲まなくていいと言われたから、それからは飲んでない。実際私はホルモン剤飲んでないのに、ちゃんと女性ホルモンの体内存在量が生理周期に合わせて変動するのを感じていた。だからちょうど生理が始まった時から飲んでないんだよ。無くてもいいのにPMSまであるんだよね」
と千里は言う。
 
「でもそういう方便は青葉も覚えた方がいいよ。誰もが霊的な力とか心理的な療法とかを信じてくれる訳ではない。科学信仰の蔓延した世の中にある程度迎合しておくことも大事だよ」
 
と朋子も言う。
 
「占い師とか巫女とかも、カウンセラーみたいなもんですよ、と言って今の世の中に迎合しているからな」
と桃香。
 
「私にしても青葉にしても、きっと400-500年前のヨーロッパとかに生まれていたら魔女だとか言われて迫害されていたかもね」
と千里。
 
「千里はきっと男だけど魔女だと言われてるな」
と桃香が茶々を入れる。
「実際に魔女狩りでは男性も犠牲になってるよ」
と千里。
「マジ!?」
 
「私、多分前世では魔女だと言われて殺されていると思う」
と青葉が言う。
 
「だから今度は殺されないように、うまく生きて行こうよ」
と千里は笑顔で言った。
 
「うん、そうする。この薬もらっておくね」
と言って青葉は千里からもらった錠剤シートをコスメバッグにしまった。 

10月4日(日)、一関(いちのせき)市。
 
彪志は4月に就職する会社の身元保証書を書いてもらいに帰省して、1人は父の宗司、もう一人は盛岡に住む叔父の大介に書いてもらった。
 
その日の夕食まで実家で食べてから千葉に戻ることにする。
 
「勤務地はどうなるの?」
と母から訊かれる。
 
「それ3月になってから通知されるみたい」
「だったら引越が大変だね」
「うん。バタバタとアパート探して、バタバタと引っ越さないといけないみたい。引越シーズンで料金も高くなりそうだから、それが悩み」
「大変だね」
 
「夏服とか仕事では使わなそうな本とか、お正月に帰省する時に、いったん一部こちらに持ってこようかと思っているんだよね。レンタカー借りて積んでくる。そしたらその分は引越荷物に入れなくて済むから」
「ああ、いいんじゃない」
 
「勤務地が東京になったら空振りだけどね」
「東京になった場合は今のアパートから通えるのかな」
「通えると思う。でも近くに引っ越した方がいいと思うけどね。だから当初は千葉から通勤して、6月くらいになってから通勤の便のいい所に引っ越せばいいと思う。その時期には引越屋さんも空いているから」
 

「勤務地の希望とか出せないの?」
と父からも訊かれる。
 
「一応出した。第1希望・富山、第2希望・長野、第3希望・東京にした。でも実際には2月くらいの段階での、スタッフの在籍人数とかを見て割り振りを決めるみたいだから」
 
「富山なんだ?」
「盛岡とか仙台には支店無いんだっけ?」
「仙台にはある。でも俺、青葉の近くに行きたいから」
 
「青葉ちゃんは大学進学だよね。あの付近の大学に行くの?」
「一応国立は、第1希望が金沢市のK大学、第2希望が富山市のT大学。K大学は推薦で受けるけど、落ちた場合はT大学の後期試験を受ける。それとは別に東京の私立で△△△大学を受けるけど実際には△△△に行く気は無い」
 
「そんなK大学とかT大学なんて、あまり聞かない大学より△△△に行けばいいのに」
「青葉の地元じゃ、△△△よりよほどK大学やT大学の方が名前が通っているんだよ。この界隈でM大学の名前が通っているのと同じで」
と彪志は笑いながら言う。
 
「ああ、そういうものかもね」
「特にK大学は俺が通ってるC大学と同じ旧六のひとつだよ」
 
「旧六って何だっけ?」
「旧帝大に次ぐランクの大学。まあBランクだよね。新潟のN大学、岡山のO大学、千葉のC大学、金沢のK大学、長崎のN大学、熊本のK大学」
 
「ああ、わりと名門なんだ?」
「でも受験に関わる人以外にはあまり知られていない」
「うん。知らなかった」
「やはり旧帝大の存在感が大きいからね」
 

「でもさ、あんたいつまで青葉ちゃんと付き合うんだっけ?」
と母は言った。
 
彪志はピクッとする。
 
「俺は青葉と結婚するつもりだけど」
「男の娘なんかと結婚して、ほんとにうまく行く?」
「青葉はふつうの男の娘じゃないから」
と彪志が言うと、母の発言に不快な表情をしていた父も彪志を応援して 
「あの子はふつうの女の子だよ。いい嫁さんになると思うよ」
と言ってくれた。
 
それで母もこの場ではこれ以上、この問題については何も言わなかった。 

深夜、東関東道の某PAに駐めたムラーノの車内。
 
「しまった。コンちゃんが切れてしまった」
「じゃ今夜はここまでだね」
 
「ねぇ、生でしちゃだめ?」
と言う信次に優子は曖昧な微笑みで答えた。
 
「妊娠したら養育費、月に100万円ちょうだいね」
「優子、変わってるね。そういう時、ふつう妊娠したら結婚してよとか言わない?」
「私は男と結婚する趣味は無い」
と優子。
「それは良かった。俺も女と結婚する趣味はないから」
と信次が言う。
 
「ホモとレズなんて、お互い全く別世界にいるはずなのにね」
と優子は言う。
「通常お互いの世界が交わらないよね」
と信次は言うと、いきなり入れようとする。
 
「こら、待て。毎月100万円払う覚悟はできた?」
「うーん。月1万じゃダメか?」
「それじゃさすがに食っていけない」
「2万」
「99万」
「2万3千円」
「隔たりが大きいな。取り敢えず養育費が妥結しないと生はダメだな」
「うーん。仕方ない。じゃこの後は優子が俺に入れてよ。俺は妊娠しないし」
「妊娠させてみたいね。でも付けずに入れて大丈夫?」
「俺丈夫だから」
「だったらいいよ。これは信次専用にするから。名前書いとこう」
 
と言って優子は本当にマジックで「シンジ」と名前を書いている。
 
「ちんこに名前書いておくというのは凄い」
「万が一にも他のガールフレンドに間違って入れたら大変だから。でも私はそもそも入れられるより入れる方が好きだし。信次はどちらも好きみたいだね」
 
「うん。女って俺に入れてくれないからつまらないと思っていたけど、優子は俺に入れてくれるから好きだ。俺もうホモは卒業しようかなあ」
「いっそ男も卒業して女になったら?たくさん入れてもらえるよ。ちょっとタイまで行って手術してくればいいし。私の昔のガールフレンドの今のステディ・パートナーがプーケットで手術して女になっちゃった子だよ」
 
「それは凄い。でも俺はチンコは放棄したくない。できたら入れられながら入れたい」
 
「物理的に可能なんだっけ?ふたなりさん同士なら何とかなりそうだけど。でもどっちみち生でする場合は養育費問題を解決してからだ」
「2万5千円」
「98万7千円」
 

アジア選手権を結局4位の成績で終えた男子バスケット日本代表の一行は10月4日の夕方帰国し、その後やや疲れた感じの記者会見をし、翌日はあちこちに挨拶回りをして、昼過ぎに解散となった。
 
貴司は大阪に帰るのに東京駅に向かいながら、不完全燃焼の心の持っていきようがなくて鬱屈とした気分だった。準決勝にしても3位決定戦にしても、勝てた試合だという気がしてならなかった。
 
もっと強くなりたい・・・・。
 
自宅に戻ったら、自分のペニスが無くなっている問題がばれて阿倍子が騒がないだろうかとも思ったが、考えてみると阿倍子との睦みごとは妊娠成功以来絶えているし、そもそも向こうも子供を産んだばかりで、秘め事をする気力はないだろうから、案外バレないかも知れないと開き直りの気持ちが出ていた。実際帰りの出国・入国審査でも、別に性別に関するトラブルは無かった。 
新大阪までの乗車券と新幹線特急券を買い、貴司は改札に向かった。
 

その頃、大阪豊中市の留守宅では阿倍子が久しぶりにエステとヘアサロンに行って戻って来て、料理の下ごしらえをしている所であった。貴司の好きなヱビスビールも買ってきて冷蔵庫で冷やしている。今日の料理はビーフシチューだ。お肉はグラム500円もする神戸牛を買ってきた。実は先週買った宝くじが10万円も当たっていたので、今少し余裕がある。
 
「でも貴司、何時頃帰ってくるのかなぁ」
 
などとつぶやきながらジャガイモの皮を剥いていたら、京平が泣くので行ってみる。お乳はさっきあげたばっかしだし、おむつかな?と思って触ってみると濡れているようだ。
 
「はいはい。今換えてあげるね」
と言って、ベビー服のお股付近のボタンを外し、おむつを取り外す。新しいおむつを付ける。京平の可愛いおちんちんを見て、ついちょっと触ってみた。 
「うふふ、可愛いおちんちん。このおちんちんがその内パパのおちんちんみたいに大きく育っちゃうのかなあ」
などと独り言を言いながら触っていると、小さいなりに立ってしまう。 
「あらあら。あんたのはちゃんと立つのね〜。これ取り外してパパにくっつけちゃったらダメかしら?」
などと言うと、京平は不快そうな顔をする。
 
「ああ、ちんちん取られたくない? でもあんた不思議な子だね。おとなが言っている言葉を全部理解してるんじゃないかと思うことあるよ」
 
と言いながら阿倍子はおむつをしっかりセットし、ベビー服のボタンも戻してから、おむつの始末をした。
 
この子は自分と遺伝子上のつながりは無い。でも自分が産んだ子だし。それに・・・・。
 
阿倍子は貴司と結婚した頃に見た「女神様」の夢を思い出していた。女神様は1人自分の子ではない子を産んだら、その後自分の子供を2人産ませてやると言った。私、もしかしたらこの後、本当に貴司と自分との間の子供を産めるのだろうか。
 
そう思いながら、どっちみち体外受精だろうけど、また採卵しないといけないかと思うと気が重いなあとも思っていた。
 

東京駅の改札を通ろうと列に並んでいる時、貴司の携帯にメールの着信がある。見ると千里だ。
 
《新横浜駅ホテルアソシア2317》
 
ドキッとする。
 
並んでいる列からいったん外れてからメールする。
 
《新大阪行きの切符買っちゃった。どうしよう?》

《もう改札通ったの?》

《いや、まだ》

《だったら新横浜までの特急券を別途買えばいいよ》

《あ、そうか》

《今持ってる新大阪行きの特急券は最終便とかにみどりの窓口で変更すればいいし》

《そうする!》

 

それで千里の言う通り、みどりの窓口で新幹線指定席特急券は最終便に変更した上で、新たに新横浜までの特急券を買い、新幹線に乗り込んだ。新横浜で途中下車して、駅ビル内のホテルに入る。23階まで昇り、2317号室の前まで行って携帯を鳴らす。
 
千里は裸でドアを開けて貴司を中に入れた。
 
「今日のことは忘れることができますか?」
「忘れる」
「じゃ今から1時間くらいのことは無かったことに」
「うん」
 
と言いながら焦る。
 
どうしよう?
 
せっかく千里がその気になっているのに、おちんちんが無いよぉ!!
 
しかし千里は貴司の焦りに気づいているのか気づかないのか激しくキスして貴司の股間も激しく揉む。
 
あ、そこは・・・・あれ!?
 
「とりあえずベッドに行こうよ」
「あ、うん」
 
あれれれ??と思いながら千里と一緒にベッドに行く。千里が貴司を押し倒すようにする。今日の千里は物凄く積極的だった。あっという間にベルトが外されズボンが下げられ、トランクスが下げられる。
 
「このおちんちん、もう私専用ということでいい?」
などと千里は言う。
 
貴司はうっそー!?と思った。自分のおちんちんがちゃんと存在していて、千里はそれを握りしめている。握る力が強すぎてちょっと痛い。
 
「うん、実際僕は阿倍子とはセックスできないんだよ」
「私専用のおちんちんなら、今夜は私が支配してあげる。いっそこれにチサトって私の名前書いておこうかな」
 
「それは勘弁して」
「じゃ今日のところは無記名で」
 
そう言うと千里は貴司のそれに避妊具を付け、即、自分の中に入れてしまう。いきなり入れられてびっくりしたが、この感触は久しぶりだ! 凄く気持ちいい。千里のヴァギナは物凄く濡れている。水音までする。そして千里は貴司の上になったまま自分が腰を動かし始める。
 
「待って。普通にさせて」
「いいよ」
 
それで貴司が千里の上になり、貴司が腰を動かす。
 
千里とのセックスは・・・・2012年6月以来、3年4ヶ月ぶりだ。そして貴司自身セックスというものを3年4ヶ月ぶりに経験していた。
 
貴司は5分くらいで逝ってしまった。
 
そしてそのまま眠ってしまった。
 

2012年の春から夏に掛けては本当に慌ただしかった。
 
1月千里は4年ぶりに出場したオールジャパンで準々決勝まで進出する快挙を遂げ、その直後、貴司からあらためてプロポーズされた。千里は貴司が用意してくれた1カラット・ダイヤモンドの24金リングのエンゲージリングを受け取り、ふたりは年末くらいに結婚することを約束した。
 
しかしこの後、初めてフル代表候補に選ばれた千里は合宿に次ぐ合宿の日程をこなすことになる。
 
法的に婚姻するには戸籍を女性に直さなければならないので千里は5月、合宿の合間を縫って留萌の実家を女装で訪れ、父に性別変更と貴司との結婚について説明するつもりだったが、性別問題で父が激高し「殺してやる」と言って日本刀を振り回す事態となり、結婚のことまで話せなかった。
 
結局、このあと千里は性転換の準備のためいったん戸籍を分籍。その上で合宿と合宿の合間を縫って6月6日(水)友引、旭川市内のホテルで、貴司の両親・理歌・美姫と、千里の母と玲羅だけが出席した状態で結納の儀式をおこない、結婚式は12月22日(水)友引におこなうことも決めた。千里の父については母が何とか説得するということで細川家側の了承も得た。
 
千里は6月25日からの世界最終予選まで日本代表と行動を共にしたが、最終予選が始まる直前の6月24日、代表からは落選し、応援席から試合を見守ることになった。千里が帰国したのは7月2日夕方である。
 

7月6日(金)、千葉市内のアパート。
 
千里から「しばらくデートできない」というメールが来たまま、こちらから電話してもメールしても反応の無いのに業を煮やして、とうとう千里の住むアパート(桃香との共同住居)までやってきた貴司は
 
「あ、いらっしゃーい」
とご機嫌な様子の千里に迎え入れられて、拍子抜けする思いだった。
 
実際問題として千里が返事を出していなかったのは、今更性転換手術を受けにタイに渡るという問題を合理的に説明することが不可能であったのと、2日にトルコから帰国した後しばらくは本当に忙しかったからだった。理学部は卒論は無いのだが、それでも合宿でゼミとかに出ていなかった分を補なう大量のレポートを提出する必要があった。
 
「ごめんねー。なかなか電話とかできなくて。ビール飲む?」
「う、うん。もらおうかな」
 
それでヱビスビールが出てくる。開けて一口飲んでから言う。
 
「最終予選惜しかったね」
「それってチームについて?私について?」
「どちらもだよ」
 
「まあね。私、三木さんに負けてる気しなかったんだけどなあ。すっごく悔しい」
「多分このオリンピックを三木さんの引退の花道にさせてあげたかったんじゃないの?」
「でも出場枠取れなかったし」
「あれも惜しかったね。あと少しだったのに」
「私が出てたら、絶対あそこでやられてないよ」
 
「その悔しさをバネにまた頑張りなよ。来年はまたアジア選手権だし、再来年は世界選手権(*1)だし」
 
(*1)バスケットボールのワールドカップは2014年まで「世界選手権」の名前であった。 

「あんまり悔しかったから、私、三木さんに言ったんだよ」
「なんて?」
「このまま代表枠の勝ち逃げは許しませんからね。4年後のオリンピックの時は私がレンさんを蹴落として代表になりますから、それまでバリバリの現役でいてくださいよって」
 
「過激なこと言うなあ」
「三木さんは言った。『オリンピックに行けなかった主将としての責任取ってこのまま引退するつもりだったけど、サンがそう言うのなら、4年後また勝負しよう。でもまた私がサンを蹴落とすからね』って」
 
「いいじゃん。それでお互いに切磋琢磨できる」
「まあね。だから私も本格的にバスケ頑張るよ。だから貴司のベビーはちょっと待ってね。私、リオデジャネイロ・オリンピックが終わるまでは赤ちゃんなんか産んでられないからさ」
 
「・・・千里、赤ちゃん産めるんだっけ?」
「産むつもりだけど。あ、それでさ、赤ちゃん産むのにおちんちんが付いてたら邪魔じゃん。だから今月18日にタイに行って性転換手術を受けて、おちんちん取って、ちゃんと女の形に改造してくるから」
 
「は?意味が解らないんだけど?」
「これで性転換手術が終わったら、すぐ戸籍も修正するから。たぶん10月くらいまでには貴司と法的に婚姻できるようになるから後少し待っててね。もちろん12月の挙式には間に合わせるから」
 
「性転換手術って・・・千里、とっくの昔に性転換済みじゃん」
「これから手術受けるんだよ」
「そんな馬鹿な。だって性転換が済んでいるから、2006年秋以来女子選手として活動してきているのに」
「今までは男の子だったけど、試合の時だけ、おちんちん取り外していたんだよ」
「そんな無茶な!」
 

「まあそれで手術受けてくるから、手術後1〜2ヶ月はとてもデートとかできないからさ、しばらくデートできないとメールしたのよ。手術が終わってちゃんと女の身体になったら、私の新しいバージンをもらってね。それとも結婚式の初夜にそれ取っとく?」
 
千里がそう言った時、貴司は激しい自責の念に襲われた。しかし言うしかない。 
「すまん」
と言って貴司は千里の前に土下座した。
 
「どうしたの?」
と千里はキョトンとした顔で言う。
 
「本当に申し訳無い。別れて欲しい」
「はあ?」
 
「実は別の女性と結婚の約束をしてしまった。この8日に結納するんだ」
「どういう意味よ?」
「どう謝っても謝りきれない」
 

貴司は語った。この春に自殺未遂の女性を助けたこと。そして彼女を慰めているうちに、深い仲になってしまったこと。彼女が心理的に落ち着いたらちゃんと関係を清算するつもりだったが、結婚してくれなければまた死ぬと言われて、つい結婚の約束をしてしまい、向こうの両親とも会ってきたこと。
 
「ちょっと待ってよ。私はどうなるのよ? 貴司ってまさか何人も婚約者がいるの?」
 
「いや、そんなに何人もはいない」
「だいたい私の方が先約のはず。私、貴司から婚約指環ももらったし結納ももらったし、式場の予約もしてるし。2012年12月22日、夫婦の日で友引で最高の日だね、なんて言ってたし。だから私、それに合わせてちゃんと戸籍の性別も変更しようとしているのに」
 
「ほんとに申し訳無い」
と貴司は謝るばかりであった。
 

1年後。
 
2013年7月下旬。
 
貴司は居酒屋で夕食を取っている時に、たまたま隣の席になり、言葉を交わすうちに意気投合してしまったOL風の女性と、そのまま夜のミナミの町を歩き、スナックで一緒にカラオケなどした後、お互いの呼吸で誘い合ってホテルの玄関まで来てしまった。
 
「いいの?」
「うふふ」
 
女は明快な返事はしないものの、同意していることは明かである。それで入口のところで「どの部屋がいいかなあ」などと言いながらパネルを見ていたら、唐突に誰かが貴司の手を握って、その中のひとつ『地獄の部屋』のパネルを押してしまう。
 
へ?と思って振り向くと、貴司の手を握ってパネルを押したのは千里である。そして千里は連れの女に向かって言った。
 
「申し訳ないけど、私この人の妻なの。帰ってくれない? タクシーチケットあげるから」
と言って千里は勝手に貴司のバッグを開けると、中に入っているタクシーチケットを1枚取り、女に渡した。
 
女はしばらく貴司と千里を見ていたが
「分かった」
と言ってそのタクシーチケットを受け取って去って行った。
 

「貴司、信じられないよ。来月9日には阿倍子さんと結婚するのに、他の女とホテル行くなんて。あり得ないよ、そんなの」
 
「すまーん」
と貴司は一応反省している顔をしている。
 
「そんな奴は地獄に墜ちるがいい。ひとりでその地獄の部屋に入ってきなよ」
 
そう言うと千里は踵を返して帰ろうとする。
 
「待って。千里、君と少し話したい」
と貴司は言った。
 
「ふーん。何話すの? 今更謝られても知らないよ。私が1年前、どれだけのショックを受けたと思っているの?」
「ほんとにすまん。でもあの時は、結局あまり色々話せなかったし。そのあと何度か会った時もあまり時間無かったし。千里とエンドレスで話したいと思っていたんだ」
 
千里は少し考えているようだったが、言った。
 
「じゃエンドレスで話を聞いてもいいけど、最高の部屋を要求する」
「最高って?」
「帝国ホテル大阪のスイートルーム」
「うっ。財布が痛いけどいいよ」
「帝国ホテル大阪じゃなくて大阪帝国ホテルだったら貴司のタマタマが潰れるくらい握りしめてあげるからね」
 
「千里の握力なら、マジ潰れるだろ!?」
 

それでふたりはラブホテルの方は「申し訳無い。キャンセルする」と伝え、改めて帝国ホテル大阪に予約を入れた上で、タクシーでそちらに行った。貴司のカードで払うが、高額なので、フロントの人がカード会社に承認を求める電話をしていた。 
ボーイの案内で部屋に入る。
 
「さすがいいお部屋だね」
と千里も少しだけ機嫌を直してくれたようである。
 
取り敢えずワインを頼み、それを開けてグラスを合わせる。
 
「貴司と阿倍子さんの幸せのために」
と千里は言った。
「千里が幸せになれるように」
と貴司は言った。
 
「でも今だから言えるけど、あの時は、いっそ私を殺して欲しいと思ったよ。だって、私の22年の人生の内、9年間が貴司とともにあった。貴司から勧められてバスケット始めたし、貴司と会ってなかったら、私たぶん、まだまだ男の子の身体のままだったと思う。2007年1月に結婚して以来、ずっと法的にも貴司の妻になる日を夢見てきた。貴司が他の人と結婚するなんて想定外だったし、私の人生返してよと思った。返せないなら、もうこのまま死にたいから殺してって」
 
と千里は少し遠い所に視線をやって語る。
 
「僕が何を言っても言い訳にしかならないのは分かっている。でも僕は千里が好きだ。それだけは動かしようのない事実だ」
と貴司は言った。
 
「阿倍子さんのことはどう思っているの?」
と千里は厳しい顔で訊いた。
 
「阿倍子のことも好きだ」
と貴司は言った。
 
「良かったね」
と千里は言った。
 
「へ?」
 
「貴司が『阿倍子のことは何でも無いんだ』とか言っていたら、私今貴司を殺して私も死んでいたと思う」
 
と言って千里はバッグの中から包丁を取り出す。
 
「わっ」
と言って貴司がさすがに肝を潰す。
 
「大丈夫。これは使わないよ」
と言って千里はそれをバッグに戻した。
 
「貴司はその場限りの言い訳で適当に誤魔化すような人ではない。そういう貴司でなければ、私は願い下げだから」
と千里は言った。
 
貴司は何も答えられなかった。
 

1分ほど沈黙が続いた後で貴司は言った。
 
「ねえ、千里、最後に1度だけセックスしない?」
 
それに対して千里は3秒ほど間を置いてから答えた。
 
「しない」
 
貴司は言う。
「自分が悪いのにこんなこと言うのも何だけど、千里のことは自分としてもどうにもすっきりしなくて、だから最後に1度だけセックスして、決着をつけたいんだ」
 
しかし千里は言う。
「うん。決着なんか付けられたくないからセックスしない」
 
「うっ・・・」
 
「だって私にとって貴司は自分の全てだもん。そんなのに決着つけられる時って、私が死ぬ時しかあり得ないよ。だから絶対に清算なんかしてやらない。だから今日はセックスしない」
 
「千里・・・・」
 
「次私が貴司とセックスする時は、私が再度貴司と結婚する時だろうね」
と言って千里は微笑む。
 
貴司は言った。
「悪いけど、僕、阿倍子と別れることはないよ」
「うん。いいよ。貴司が阿倍子さんと一生添い遂げたら、私は来世の貴司と結婚するから」
 
貴司はしばらく考えた。そして答えた。
 
「分かった。じゃ今日はセックスしないことにしよう。でも千里、君のために言う。誰かいい男を見つけて結婚してくれ」
 
「言われなくても結婚するよ。薄情な貴司のことなんか忘れて、もっと誠実な男性と結婚するよ」
 
「君の幸せを祈ってる」
「私も貴司と阿倍子さんと京平の幸せを祈ってる」
 
「京平か・・・・」
 
「良かったね、貴司。京平は2015年に産まれる予定だったけど、私が産むのなら、その時期はたぶんアジア選手権とかで、とても子供なんか産んでる時間が無いもん。阿倍子さんに代わりに産んでもらってよ」
 
貴司はその時は、阿倍子が不妊症であることをとても千里に言えなかった。 

「あ、そうだ。これあげるね」
と言って千里は祝儀袋を取り出して貴司に渡した。
 
「千里のバッグからは実に色々なものがでてくるな」
と貴司はマジで感心して言った。
 
「お母さん(保志絵)に郵送しようかと思ってたんだけど、直接会えたから今渡しておく。さすがに私、貴司の結婚式に出席する訳にはいかないしね」
 
「こんなのまで用意してくれたんだ。ありがとう」
と言って貴司はそれを受け取るが重いし、異様に厚い!
 
「わ、これ凄く重いんだけど」
「ああ。千円札で入れといたから」
「面白いことするね!」
「ただの嫌がらせよ」
 
「でもありがとう」
と言って貴司は祝儀袋を開封する。そして顔をしかめた。
 
「なんか銀行の封がしてある」
「100枚で1束だよ」
「2束あるけど」
 
つまり20万円もある。
 
「10束くらいにしようかと思ったけど、祝儀袋に入らなかったんだよねー」
「こんなにもらっていいの?」
 
「だって私のいちばん大事な人の結婚だもん」
 
千里の言葉がとげとげしいが、千里のせめてもの嫌がらせなのだろう。それで貴司は何も言わないことにした。
 
「分かった。僕も千里の結婚式の時は御祝儀あげるよ」
「倍返しでよろしく」
「あはは、じゃ千円札400枚で」
「期待してるよ」
 
その夜、ふたりは婚約破棄以来、初めて一緒に寝た。但し「一緒に寝る」だけで何もHなことはしていない。ふたりで洋服を着たまま、ベッドに入り、並んで寝ただけで「タッチ」もNGという約束だった。帝国ホテルの最上級の部屋のベッドだけあって、とても気持ちが良かった。
 
なお、ふたりはこの日は洋服を着たまま一緒に寝たのだが、次回からは「洋服がしわになる」という《技術的な問題》で下着をつけた状態で一緒に寝るようになる。 

はっと目が覚めた。
 
2年前、そして3年前の出来事が、まるで昨日のことのようだ。なぜ自分と千里はこんな迷い道に入り込んでしまったんだろうと悔やむ。2012年の春くらいに結婚式を挙げておけば、こんなややこしいことにならなかったろうに。千里にも悲しい思いをさせることはなかった。ただあの時は自分も千里も日本代表の活動で忙しすぎたんで挙式は年末になんて言ったんだよな、というのも思うが、それがまるで言い訳みたいだ。
 
ただそういう展開だった場合、阿倍子はきっと自殺してしまっていたんだろうな、というのにも思い至った。
 
しかし、今日、3年ぶりに千里とセックスしたことで、取り敢えず今回のアジア選手権で不完全燃焼になっていた心の中がすっきりしたような気分でもあった。 
隣で千里が目を覚ます。
 
「おはよう」
「おはよう」
 
と言ってキスを交わす。
 
「なんかアジア選手権のもやもやが消えちゃった」
「貴司は頑張ったと思うよ」
「それでセックスさせてくれたの?」
「うん。優勝はできなかったけど、あれだけ頑張ったらご褒美あげなくちゃと思ったから」
「ありがとう」
 
「でもこれ無かったことにしようね」
と千里。
「そうする」
と貴司。
 
「私たちは貴司が私との婚約をあまりにも唐突に一方的に無情にも破棄して以来、セックスは一切していない」
 
「わざわざ僕の罪悪感をつつく言い方するなあ」
「当然。私がどれだけショックで落ち込んだと思ってるのよ」
「ごめーん」
 

「まあいいよ。私は京平が生まれたことで、貴司の妻の座に復帰したつもりだから。貴司の法的な妻は安倍子さんかも知れないけど、真の妻は私だと思っている」
と千里は言った。
 
貴司はドキっとする。
 
そうだった。2年前、阿倍子との結婚式の直前に千里と会った時、千里は自分と再度セックスするのは、ふたたび千里と自分が結婚する時だと千里は言った。自分は今また千里と結婚してしまったのだろうか。
 
そして、貴司は「例の問題」も確認したくなった。
 
「やはり京平を作った卵子って千里の卵子なんだよね?」
「まさか。私が男の娘だって知ってる癖に」
「それが大嘘なんじゃないかという気がしてならないんだけど」
「私は間違いなく2012年までは男の子だったよ」
 
「それだけは嘘だ。もし仮に千里が元々は男の子だったとしても、性転換したのは2006年か、あるいはひょっとしてと思っているのは2004年、千里が中学2年の時」
 
「そうだね。2004年に私、初めて自分のお股を貴司に見せちゃったからね」
「・・・・ちんちんなんて無かった」
 
「あれはちょっと取り外していただけだよ」
「そんな簡単に取り外せるんだっけ?」
 
「取り外せるよ。やり方知らないの?右に2回ひねってから左に5回ひねって、更に右に10回ひねった後、左に20回ひねって・・・」
「ちょっと待って。20回もひねったら、ねじ切れちゃう!」
「その程度でねじ切れるなんて鍛え方が足りないな。取り敢えず貴司のおちんちん取り外してあげようか?」
「いい!もう取り外したくない!」
 
「うふふ。簡単に取り外せたら便利なのにね。そしたら貴司のおちんちんも必要に応じて取ったり外したりして、普段は私が預かっておいて、他の女とは絶対にセックスはできないようにできるのに。まあ阿倍子さんにだけは貸してあげよう」
 
「取ったり外したりって同じことでは?」
「あ、取ったり付けたりの間違い」
 
「実際僕は千里以外とセックスできないんだけど」
「そうだね。奥さん以外とセックスしたら大罪人だよ」
 
「でも思えば千里って、中学や高校の頃、よく、おちんちん忘れてきたとか、置いて来たとか言ってたよね」
「私におちんちんなんてあるわけないじゃん」
「やはり千里って生まれた時から女の子なんだよね?」
「まさか」
 

「だけどさ」
と言って貴司は自分のおちんちんが「しばらく消失していた」ことを話した。千里は大笑いしていた。
 
「そのおちんちんを取って行った私って、きっと貴司の良心なんだよ。アジア選手権の間、向こうの女とHなことできないようにちんちんを封印したんだよ、きっと。女買ってる選手いなかった?」
 
「それは禁止令が出ていた。ホテル側にも、選手から照会があっても絶対に斡旋しないでくれと釘をさしてあった。だけど僕、向こうでドーピング検査を受けて、その時に係官にもちんちんが無い所を見られているんだけど。そして検査表見たけど、男性ホルモンの濃度が物凄く低かった。睾丸が無いからこの数値なんだろうと思った」
 
「ふーん。でも貴司は男性ホルモンが低い方が浮気しなくていいかもね。私もたいがい貴司の浮気を潰すのに疲れてるんだけど、いい加減にして欲しいなあ。なんなら去勢手術してくれる病院紹介しようか?去勢してストイックにバスケに打ち込む貴司って魅力的かもよ」
 
「やだ。そうだ、例の万年筆は千里の所に戻った?」
「うん。戻ったよ。ありがとう」
と言って、千里はバッグの中から例の銀色の万年筆を取りだして貴司に見せた。 
「ねえ、千里。僕の奥さんに復帰したのなら、またセックスしてくれる?」
 
全くこの男は〜!と千里は思ったが、まあいいかとも思う。こちらにとってもその方が都合がいいし。
 
「じゃ最終予選でオリンピック行きを決めたら、セックスしてもいい」
「分かった。頑張る」
 
と貴司は何だか張り切っていた。
 
その後、千里と貴司は服を着た上で、またホテルの部屋の中でたくさんシャドウバスケットをした。なお千里は例によってこの部屋の真下の部屋も一緒に借りている。
 
「勝てない〜!千里また上手くなってる」
と貴司が嘆く。
 
「貴司は練習不足だよ。もっともっと練習しなよ。浮気している時間に練習すれば貴司はもっと伸びるよ」
と千里は言う。
 
「朝練とかしてる?」
「してない」
「朝早く起きてジョギングしたり近くの体育館とかでドリブルやシュートの練習すればいいよ」
「それは頑張ってみようかな」
 

その後ふたりは交代でシャワーを浴びてシャドウバスケットで掻いた汗を流した後で、また例によってお互いちゃんと下着をつけてからベッドに並んで寝た。Hなことはしないことにしているものの、この時間が千里はとても好きだ。貴司もこの「並んで寝る」のは心の充足を感じると言ってくれている。 

「貴司、そろそろ行かなきゃ」
という千里の声とキスで目を覚ました。
 
反射的にあそこに手をやり、男性の象徴が存在することを確認してホッとする。ほんとにあれは夢だったのだろうか??
 
「うん」
と言って貴司は起き上がる。それでベッドから出て服を着ようとした時に電話が掛かってきた。
 
「はい」
「ええ・・・。写真集ですか!?」
 
千里は何の話だろうといぶかった。
 
「分かりました。それは構いませんが、でもオリンピック切符逃したのに。ええ。もちろん来年の最終予選は代表に選んでもらったら頑張りますよ」
 
そんなことを言って貴司は電話を切った。
 
「写真集って?」
「僕の写真集を作りたいんだって」
「へ〜!」
 
「でも恥ずかしいよ。オリンピック予選で負けたばかりなのに」
「今度の最終予選で勝てばいいんだよ」
「うん。勝つつもり」
 
と言う貴司に千里はキスをした。
 

その時、今度は千里の携帯にメールの着信がある。千里が見てみると桃香からである。
 
《千里〜。今夜遅くなるの〜?お腹空いたよぉ》

という文面を見て千里は吹き出した。
 
「どうかしたの?」
「私のペットちゃんがお腹をすかせてるみたい」
「ペットなの!?」
 
そんなことを言った時、貴司は、千里が持っている携帯に金色のステンレス・リングがついていることに気づいた。
 
「それ付けてくれているんだ?」
「私はまた貴司の奥さんになったから付けるよ。貴司と会う時だけだけどね」
「僕も千里と会う時は付けようかな」
「ふーん。捨ててないんだ?」
「捨てる訳がない。実は会社に置いてる」
「ふふ・・・」
 
交代でシャワーを浴びてから、新大阪行き最終新幹線に乗る貴司をキスで送り出す。
 
「そうそう。運動して少しお腹空いたでしょ?これ用意してたの。新幹線の中で食べて」
と言って千里は手作りのおにぎりを5個渡した。
 
「そ、そうだね。あんなこともしたし」
「うん。シャドウバスケット楽しいよね」
「あ、そっちか?」
 
貴司が部屋を出て行った後千里はひとりごとのようにつぶやく。
 
「まあ恋愛って要するに餌付けだよね〜」
 
そして千里は大きく伸びをする。
 
「でもとうとうセックスしちゃった。ごめんねー、桃香。今夜サービスするからね」
 
それで千里は今夜は桃香の好きなビーフストロガノフでも作ろうかなと思い、レシピを頭の中で再生しながら買物メモを書き始めた。
 
普段はオージービーフだけど、たまには国産黒毛和牛でも買っていってあげようかなあ、などと千里は考えていた。
 
 
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