【春始】(1)

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2015年10月10日(土)。
 
青葉たちT高校合唱軽音部の一行は早朝の新幹線で東京に出てきた。この日行われる合唱コンクールの全国大会に参加するためである。一行は部員40名と顧問の今鏡先生、そして教頭先生である。。
 
中学の時には2年生と3年生でこの大会に参加した青葉だが、中学の参加校は24校あったが、高校ではその約半分の13校である。
 
北海道1・東北2・関東甲信越3・中部2・近畿2・中国1・四国1・九州1の代表校が出てきている。
 
そしてその東北から出てきた学校のひとつが、柚女が在籍する岩手県T高校であった。
 
「やっとここで会えたね」
と会場のロビーで遭遇した時、柚女は言った。ふたりは硬い握手を交わした。
 
「うん。3年生になってやっとここまで来られた」
と青葉は言った。
 
「こちらも3年生になってやっと来れた」
と柚女も言う。
 
柚女の学校は一昨年は東北大会にも進出できず、昨年は東北大会までは来たものの3位で出場できなかった。今年は1位で文句なしの全国大会出場を果たした。
 
「1年生の時は県大会まで、2年生でブロック大会までというのは、こちらと同じだね」
と青葉は言う。
 
「うん。部を育てるのにそれだけ時間が掛かったんだよ」
と柚女は言う。
 
柚女が入った高校は元々合唱には定評のある学校だったのだが、柚女が加入するまでは、だいたい県内で2〜3位に付けていることが多く、ブロック大会まで行ってもだいたい下位にいた。今年初めて全国大会に出てきたのである。
 
「こちらは最初入った時は新入生7人を入れて11人しか居なかったから」
「よく、そこからここまで育てたね!」
 
中学の時は、青葉の学校も柚女たちの学校も2年の時と3年の時に全国大会に出てきている。2年の時は青葉たちが9位で柚女や椿妃たちは6位、3年の時は青葉たちが3位、柚女たちは7位(椿妃たちは5位)だった。
 

しかし高校の部は中学の部とは別世界だなと青葉は思った。
 
技術力のアピールをしようという学校が多い。最初に出てきた私立女子校は無伴奏でかなり難解な曲を演奏した。あまりにも難解すぎたためか拍手はまばらだったが、近くの席に居た美滝が「この人たち凄い」と言っていたので、多分凄い演奏だったのだろうと青葉は思った。
 
2番目に出てきた学校も無調音楽っぽい曲を歌ったが、青葉の耳にはただの騒音にしか聞こえなかった。この曲も美滝は「結構良いね」などと言っていた。3番目に出てきた九州の学校は一転して民謡をアレンジした曲を歌い、青葉は何だかホッとする思いであった。会場の拍手も物凄かった。
 
この学校は自由曲では会場のピアノを使わず持参の電子キーボードで伴奏者は伴奏をしていた。
 
「ギターとか使うなら分かるけど、キーボードで伴奏するのなら、なんでピアノ使わないのかな?」
と近くで須美が訊く。
 
「音階が違うから」
と青葉と公子が言った。
 
「え?」
「あのキーボードは日本音階に調律してあるんだよ」
「日本音階ってなんか違うの?」
「ピタゴラス音階に近い。ピアノは1オクターブを12等分する平均律で調律されているけど、それだと本来は完全五度となるべきドとソでも響き合わない。日本音階は音と音の周波数を整数比率にしているから、完全に響き合うんだよ」
 
と公子が説明するが
 
「うーん。数学苦手」
などと須美は言っていた。
 
その次に登場したのが柚女たちの岩手T高校で、難曲として知られる「花をさがす少女」を歌った。結構現代っぽい作品ではあるが、先頭の2校が歌った曲などに比べると充分な調性を持つ曲であり、青葉の音楽的感覚の許容範囲だと思った。合唱をする人の間では比較的よく知られている曲でもあるので、まあまあの拍手をもらっていた。
 
青葉たちは最後の方、9番目に登場する。
 
「えー、緊張してる人?」
と青葉がみんなに訊くと、ぱらぱらと手を挙げる子がいる。
 
「まあここまで聴いての通り、何だか別世界という感じで、私たちみたいに調性音楽やる学校がもしかしたら少数派なのかも知れないけど、敵地で大暴れするつもりで、マイペースで歌おう」
 
と青葉が言う。
 
すると
「調性って何ですか?」
という質問。
 
「気持ち良く歌うってことだよ」
と空帆が言った。
 
「まあ歌うと気持ちいいよね」
と日香理が言う。
 
「要するに自己陶酔して歌えばいいのかな」
「入賞する訳もないし、自分たちの歌を歌おう。ここまで聴いた他の学校の演奏は忘れて」
「しゃぶしゃぶがどこかに飛んで行く」
「モスバーガーくらいなら、私がみんなにおごってもいいよ」
 
「おお!!」
 
「よし、思いっきり歌って青葉さんのおごりでモスバーガーを食べよう」
 
「よし、行くぞ」
 

そんな雰囲気で青葉たちは出て行き、整列した。今日は譜面を指揮台に置いてくるのはメゾソプラノの公子がした。
 
まずは課題曲を歌う。何だか凄いのか凄くないのか全然分からない演奏が多かったこともあり、良い具合にみんな自分たちの世界に入り込んで歌うことができた。青葉はこれ結構良い感じの演奏ではなかろうかと思った。
 
希が琵琶を取ってくる。さすがに会場がざわめく。
 
パラーン、パララーンという強烈な琵琶の音に続いて翼のピアノ、そして歌唱が続く。ここまでの演奏曲目には無かった、リズミカルな曲である。ここまで物凄く緊張感のあった会場の空気が突然やわらいだような感覚があった。会場の中で誰かが手拍子をし始め、それが伝染して、青葉たちはまるでポップス系コンサートのように、大きな手拍子を聴きながら歌った。手拍子が来たことでメンバーたちの気持ちのノリが更に良くなった。
 
終曲。
 
手拍子が拍手に変わり、会場内が一種の歓喜に包まれた。
 
青葉たちは会場の参加者たちに向かって大きく礼をしてから下がった。
 

「でも女声合唱なのに男子が入っていたのは変に思われなかったかな」
などと吉田君が言っている。
 
「何を今更」
と多くの声。
 
「性転換したと思われたかもね」
という声もある。
 
「それって男子が女子に性転換したから女性として参加しているのか、女子が男子に性転換したから男子制服を着ているのか」
「うーん。よく分からない話だ」
 
その後、メンデルスゾーンの曲を合唱に編曲した学校が歌い、これも大きな拍手をもらっていた。やはり聴いている側は調性のある曲に反応が良いように青葉は思った。
 
そして最後の学校は無調音楽だったのだが、無調でもこの学校の演奏は素晴らしいと青葉でさえ感じる、とても素敵な演奏をしてくれた。ここは昨年準優勝だった学校らしい。
 

13校全ての演奏が終わり、審議に入る。
 
審議は10分ほどで終わって審査員長が壇上に上がった。最初に総評を述べるが審査員長さんは、世の中には色々な音楽があっていいんだということを言っていた。調性音楽も無調音楽もそれぞれ良い所があるし、西洋音楽も日本音楽もそれぞれの魅力がある。クラシックも美しいしポップスも楽しい。自分の心を柔軟にして、いろいろな音楽を楽しんで欲しいといったことを述べた。
 
そして成績発表と表彰に入る。
 
1位は最後に歌った学校であった。これにはみんな納得する思いだった。無調音楽に抵抗感のある青葉にさえ、この学校の演奏は素敵に聞こえた。
 
そして2位は九州代表の民謡をアレンジした学校であった。この学校は課題曲はちゃんと西洋音階で歌い、民謡はちゃんと日本音階で歌っていたのだが、そのあたりの技術的なものも評価されたかなと青葉は思った。
 
「そして3位です。中部地区代表、富山県のT高校」
 
青葉の周囲で「きゃー」という声が上がる。隣に座っていた空帆が「やった!」と言って、いきなり青葉にキスする。青葉はその空帆を連れて席を立ち、美滝や公子に美津穂たちとも握手して前に出て行き、壇に登る。3位の賞状を青葉が、そして銅色の楯を空帆が受け取った。
 
青葉と空帆で握手し、賞状と楯を掲げて喜びを表現した。
 

席に戻ってくると
「これでしゃぶしゃぶ食べられるね」
などと須美が言っている。
 
「あ、そういえばそうだったね」
「今日がモスバーガーで、連休明けにしゃぶしゃぶかな」
 
あはは・・・・。私が言ったモスバーガーというのも有効なのか!?
 

大会後の交流会で柚女が言っていた。
 
「結局さ、どんなジャンルの曲を選択するかより、その曲をどこまで深く解釈するかというのが大事なんだろうね」
 
「そういう意味では深みのある曲を選択した方が高得点の可能性が出てくるよね。メンデルスゾーンなんかその可能性があった」
 
「うん。でもあそこの解釈はごく普通だった。10年歌い続けたら深い解釈できたかも知れないけどね」
 
「高校生は3年で卒業しちゃうから」
 
「私たちの曲は少し難しすぎた。私自身もあの曲は難解だと思った」
と柚女は言う。
 
「解釈以前にあの曲は技術的に難しいからね」
と青葉。
 
「うん。だからそれを歌いこなせば評点は高くなるかなという計算もあったんだけど、東北大会までは技術力の評価だけで来られたけど、全国大会ではそれは通用しなかったね」
 
「私たちの曲なんて技術的には難しい所は無い。最初から解釈勝負」
と青葉は言う。
「でも、その解釈が物凄く深かった。曲の解釈という面で言うと、青葉たちの学校が断トツだったと思うよ」
 

「柚女は高校卒業後はどうするの?」
「分からないけど大学の女声合唱団とかに入るかも。青葉は?」
「私も全然分からない。中学高校では部活に燃えたけど、大学では部活までする時間の余裕が無いかも知れないという気がして」
 
「大学は何学部行くんだっけ?」
「法学関係」
「邦楽って民謡とか?」
「違う違う。法律とか」
「ああ、そっちか。かなり忙しそうだね。弁護士になるの?」
「霊能者で弁護士ってのもあり得ないかなあという気はする」
 
「そっかー、青葉、霊能者のお仕事が忙しいから」
「実はそうなんだよね。高校在学中は基本的に全部お断りしてたんだけど、それでも年に10件以上は処理している気がする」
 
「たいへんだねー」
「一応法学関係を出た後、どこかの放送局のアナウンサーとかになれないかなと思ってて。だからアナウンススクールとのダブルスクールかな」
 
「へー」
「柚女は何になるの?」
「お嫁さんかなあ」
「旦那のあては?」
「どこかにいい男落ちてないかな?」
「あまりその辺に落ちているものではないと思うけど」
 

大会が終わった後、青葉は
「約束だから、全員にモスバーガーおごるよ」
 
と言ったのだが、今鏡先生が
「それひとりじゃ大変だよ」
と言って今鏡先生も五千円出してくれた。教頭先生はみんなにコーラをおごってくれた。
 
「でも教頭先生、私たちはしゃぶしゃぶを楽しみにしています」
「高岡に帰ってからね」
と言って教頭先生は笑っていた。
 
「奥さんに叱られません?」
「大丈夫、大丈夫」
 

みんなはその日の夕方の新幹線で高岡に戻るのだが、青葉はひとり他の部員とは別れて恵比寿の冬子のマンションに行った。
 
「お疲れ様。どうだった?」
「3位でした」
「おお、おめでとう!」
 
「いや、なんか難しい曲を演奏する所が多くて、場違い感を感じながらも歌ってきましたよ」
 
「技術的なものに走りすぎると、音楽は難解になるよね。私なんかは楽しんでこそ音楽だと思っているから、できるだけ楽しい音作りをしているけど、ひたすら泣かせる歌を追及している人もいるし、人それぞれかもね」
 
「そうそう。審査員長さんも色々な音楽があっていいんだと言っておられたんですよ」
 
「まさにそうだと思うね。音楽って、最低限の技術は必要だけど、そこから先は単なる好みの問題になっていくんだよね」
 
「そうなんでしょうね」
 
「もっとも今の世の中、その最低限の技術のない音楽家が多すぎるけどね。大衆音楽でもクラシックでもね」
「あぁ・・・」
 

その後、その日10日の夜から12日夜に掛けてローズ+リリーの『ダブル』という曲の音源制作に参加した。
 
楽器を二重化しており、近藤さんと宮本さんのギター、鷹野さんと香月さんのベース、月丘さんと山森さんのキーボード、秋乃さんと今田七美花さんのフルート、そして七星さんと青葉のサックスである。
 
今田七美花さんは冬子さんの従姪で槇原愛・篠崎マイの妹の高校1年生だが、フルートが物凄くうまかった。以前にも聴いたことはあったのだが、前よりもかなり進化している。
 
「凄いですね〜」
と言っていたら、
「この子サックスも上手い」
と七星さんが言う。それで吹いている所を聴かせてもらったら凄かった。
 
「私、高岡に帰りたくなった」
「まあまあ、そう言わずに」
 
「でも私、笙(しょう)がいちばん好きなんですよー」
と本人は言うので、それも聴かせてもらったら、本当に凄かった!!
 
「この子の笙をフィーチャーして何か曲を作りたいね」
などと冬子は言っていた。
 

10月12日の作業が終わったのはもう夜12時近くである。さて、どこかホテルにでも泊まろうかなと思いながら、楽器を片付けていたら
 
「お疲れ様〜。まだ遅くなるかな?」
などと言って千里がやってくる。
 
「今終わった所。千里、忙しいかと思って声掛けなかったけど、何か弾かない?」
と冬子が言う。
 
「無理無理。私みたいな素人が出る幕ではない」
と千里は笑って言って、差し入れのピザを出してくれる。
 
「あ、ちょうどお腹空いたと思ってた」
という声があがり、ピザはあっという間に無くなる。ちなみに千里は政子の前には専用で1箱置いたが、それが最初に無くなった。
 
「でも千里、龍笛もフルートも凄いし、キーボードやベースも上手いし、確かドラムスも打てるよね?」
「まあでも実際今は月末の社会人選手権向けの練習と、例の運営会社設立の件で忙殺されてるよ」
 
「あれ大変みたいね。私はローキューツの会社設立の件は毛利さんに投げてしまっているし」
 
「あれ、結局毛利さんがしてるんだ?」
「そうそう。雨宮先生が押しつけた」
「毛利さん、アクアのCDの制作もしてるのに、大変だね」
「うん。でも実はこの手の話は男性に動いてもらった方が話がスムーズなんだよ」
「ああ。日本って男女差別社会だからね〜」
 

結局青葉は千里のアテンザに乗って経堂の桃香のアパートに移動した。
 
「この車は初めて見た」
と青葉は言う。
 
「インプレッサがもう限界だったんで、この車のオーナーの人が買い換えたんだよ。それを借りてきた」
と千里。
 
「オーナーってちー姉だよね?」
「違うよ」
「うーん・・・」
 
「明日、そこの姫様の神社に行くからさ、ミラじゃあそこの坂を登れないもん」
「確かに確かに」
 
「姫様は新しいしもべたちは見られました?」
と千里は、青葉の後ろで、青葉の守護霊とおしゃべりしていた風の《ゆう姫》に直接語りかける。
 
『まだ見てないが、可愛い子たちだと聞いて楽しみにしてる』
と《ゆう姫》。
 
「可愛い子ですよ。ちなみにひとりは男の子にでも女の子にでもできますが、どちらがいいですか?」
『女は面倒くさそうだから男でよい』
「了解です。ではあの子は男の子を基本とすることにして」
 
千里と《ゆう姫》が、そうやって直接会話しているので、青葉は何なんだ〜!?と思って、半ば呆れて会話を聞いていた。
 
千里は肉声に出して話しているのでそれが《ゆう姫》に聞こえるのは分かるのだが、《ゆう姫》の『念の声』は何かの縁がある人でなければ聞こえないはずなのにと青葉は思う。元々ちー姉とどこかで関わりがあったのだろうか???
 
「でもそんな簡単に男にしたり女にしたりできるんだっけ?」
と青葉は訊いた。
 
「女の子にしたい時はおっぱいくっつけて、男の子にしたい時はちんちんくっつければいいんだよ。それで青葉も男の子のふりしてなかった?」
と千里。
 
「私は男の子のふりしたことは無いよ!」
「青葉、男の子としても可愛いのに」
「そんなこと言ったのは中村晃湖さんくらいだ」
 
「青葉はまた男の子に戻りたくなったりはしない?」
「絶対嫌」
「ちんちん、あると便利だよ」
「要らない!」
 

「あ、そうだ。例の国際C級ライセンスはもうもらったの?」
と青葉は訊く。
 
「ああ、あれは勘違いでさ」
「へ?」
「5月に北海道で出たのはレースだから良かったんだけど、こないだ宮城で出たのはレースではなくてスピード行事なんだよね」
「どういう違いが?」
「何人かが同時に走って競争するのがレース、1台ずつ走ってタイムで競うのがスピード行事」
「へー!」
「あと、サーキットじゃなくて公道を走るのがラリーね」
「難しい!」
 
「で、スピード行事やラリーは3回でレース1回分と計算するから、あれではまだ申請条件を満たしていないとJAFからの返事」
 
「あらら」
「いや、申請条件が結構複雑だし国際ライセンスの申請なんてしばらくやってなかったから、うちのクラブの会長も勘違いしてたと言ってた」
「あぁ」
 
「だから、昨日レースに参加してきた」
「わっ」
「だってこの後お正月に掛けて忙しくなるからさ。何度も何度もは出場できないもん。それに条件を満たすレースもそう多い訳じゃ無いからさ」
「ちー姉、忙しすぎるもん!」
 
「でもこれで国際C級のレース除外ライセンスが取れるはず」
「レース除外?」
「国際ラリーに出場できるけど、国際レースにはまだ出場できない」
「よく分からない」
「実は私もよく分かってない」
「あははは」
 
「国際レースにも参加できる除外無しの国際C級ライセンスを取るには2年以内に5回以上レースに参加して順位認定される必要がある」
「結構大変そう」
「挑戦はしてみるけど、無理はしないよ」
「作曲家しながらバスケットしながらソフト会社に在籍しながらレースまでというのは無茶だよ」
 
「まあ私も今年は忙しすぎたなという気はする。でもレースは雨宮先生に乗せられてやってみたけど、あの超高速の世界は病みつきになる快感だよ」
「そうだろうね」
 
「でも青葉も勉強しながら、水泳とコーラスやりながら、アナウンス学校にも行きつつ作曲家をしながら霊能者もってのはかなり無茶」
 
「実は7月以降、アナウンス学校にあまり行ってない」
「それは仕方ないと思うよ。青葉って物事断るのが下手だしね」
「うん。アクアの作曲も受験が一段落したらまた頼むと言われているけど、正直どうしようと思っている部分がある」
「誰かに押しつけちゃえばいいんだよ」
「うーん・・・。誰に押しつけよう?」
 

経堂のアパートに着いて、千里と青葉が協力して夜食を作っていると、寝室で寝ていた桃香も起きてくる。
 
「あ、桃姉ただいま」
「うん。おかえりー。千里もお帰りー」
「桃香、ただいま」
「レースってのは成績どうだった?」
「4位だったよ。表彰台は逃した」
「それは残念」
 
「でも桃香、いくら空調入っているからって服着たら?」
と千里が言っている。
 
「まあ青葉ならいいかなと思って」
「取り敢えず、ちんちんは取らない?」
「付けてると立っておしっこができて便利なんだよ。君たちも男の子だった頃はやってたろ?」
 
「立ってしたことない」
「同じく」
 
「君たちの性転換前の実態というのもどうにもよく分からん」
などと桃香は言っていた。
 

翌日は朝食後、千里と青葉が巫女服に着替えた上で3人でアテンザに乗り込む。青葉が免許を取ったと聞くと、桃香は「よし青葉に運転させよう」と言った。
 
「だって免許取り立てで運転して万が一にもどこかにぶつけたらまずいよ。借り物の車だし」
と青葉は言うが
 
「青葉は少なくとも私より上手いし、私より長く運転しているはずだ」
などと桃香は言っている。
 
「でも若葉マーク持って来なかった」
と青葉が言うと
「あるよ」
と千里が言う。
 
むむむ。さすが、ちー姉!
 
それで結局青葉が運転席に座り、念のため千里が助手席に乗って車は駐車場を出る。首都高・京葉道路を走ってまずは3月まで千里が勤めていた千葉市内L神社に寄る。顔見知りの副巫女長・友香から玉依姫神社・御札授与所の鍵を借りる。
 
「この鍵、千里さん1つコピーして持ってません? そもそも神社は千里さんの妹さんが設置者だし」
「そうだね。でも授与所はL神社のものだし」
「大丈夫ですよ。こちらはみんな千里さんを信頼してますから」
 
そんなことを言っていたら宮司さんが通り掛かって言う。
「確か村山君はうちの神社の嘱託になっていたはずだよ。だから鍵を持っていても問題無い」
「え〜!? そうだったんですか!?」
 

ここまでずっと青葉が運転していたので替わることにする。千里が運転席に座り、桃香が助手席に乗って青葉は後部座席に行く。それで彪志のアパートに寄って拾う。彪志は当然後部座席、青葉の隣に座る。そしてそのメンツで町外れに出て急坂を上り玉依姫神社に到達した。
 
既に冬子のエルグランドも来ている。青葉たちが車を降りると冬子たちも降りてきた。千里が授与所の鍵を開けてみんなを中に案内する。
 
「かなり大きなものだね」
と桃香が言っているし、政子も
「可愛い」
と言っている。《ゆう姫》も
『ふむふむ。なかなか素直そうで良い子じゃ』
などと言っていた。
 
しばらく待っている内に業者さんが来たので、台座に乗せてセメントで固定してもらった。その後、青葉はヒバリから託された「中身入りストラップ」と呪文のメモを取り出す。
 
シーサーの各々に念を込めてそのメモの呪文を読み上げると、ストラップに入っていた「中身」が各々のシーサーの像の「中」に飛び込んだ。呪文を読んだ青葉自身、「へ〜」と思いながらそれを見ていた。
 
「魂を入れたの?」
と冬子が尋ねる。
 
「ええ。沖縄のシーサー兄弟の子供をヒバリさんからお預かりしていたので、それをここに移しました。移す呪文は、特別にヒバリさんから教えて頂いたんですよ」
 
「へー、どんなの?」
と言って政子が覗き込むので
「勝手に見ちゃダメ」
と冬子が注意する。
 
青葉は
「別に構いませんよ。私以外が唱えても効果無いですから」
と言ったが、政子は実際にはメモを覗き込んで
「これ読めな〜い」
などと言っている。
 
「古代文字で書かれているので」
と青葉。
「読み方教えて」
と政子が言うので、青葉は微笑んで古代文字の横に振り仮名を振ってあげた。すると政子はそれを読んでいる。
 
「何か起きた?」
「もう子供たちは中に入っていますから」
「残念。いったん外に出せないの?」
「出す方の呪文は習ってないんです」
 
そんなことを言っていたら千里が
「そもそも、この手の呪文は私や政子のような素人が唱えても効果無いよ」
と笑いながら言っている。
 
「やはり修行とかしてないとダメなのね?」
 
それはそうだけど、でもこの呪文、そもそもちー姉から教えてもらったんだけど!?と青葉は突っ込みたくなるのを抑えていた。千里は沖縄からの帰りの飛行機の中で
 
「中に入れる呪文はこれって、ヒバリちゃんから教えてもらったから」
と言って、この古代文字でメモを書いたのである。つまり千里姉はこの呪文をいったん覚えていたことになる。
 

引き上げようとしていた所に、またまた谷崎潤子ちゃんたち「関東不思議探訪」の撮影スタッフがやってくる。この番組はどうもこの神社を定点観察スポットにしている感じである。
 
それで今設置したばかりのシーサーについて説明していたら、千里が片方のシーサーのおちんちんを取り外してみせたので、びっくりする。そんな仕掛けがあったとは知らなかった!
 
そういえば昨夜、ちー姉は姫様に「男の子がいいですか?女の子がいいですか?」なんて訊いていたなと思い起こす。しかしまあ不思議な仕掛けを作っておいたものである。千里は谷崎潤子に、おちんちんを取り外す鍵を見せていたが、あの鍵はどこにあったんだろう?
 
番組の放送が終わった後、谷崎潤子がこの神社の裏手からの景色が好きなどというので、みんなで裏手に行き、千葉市街の景色を眺めていたのだが、その内潤子が
 
「あれ!?あそこ煙があがっている」
と言い出す。
 
青葉はその方角を見て「あっ」と思った。千里の顔を見ると、千里も厳しい顔をしている。
 
「どうかしたの?」
と冬子が尋ねる。
 
「あそこで燃えているのは、私と桃香が3月まで住んでいたアパートだよ」
と千里が答えた。
 
「私も多分あのアパートだと思った。千里姉もそう感じたのなら間違い無いと思う」
と青葉も言った。
 
あのアパートはそもそも、とても人が住めないような場所にあったし、あのアパート自体にもかなりの問題があった。しかし青葉が2011年4月に、震災後身を寄せていた佐賀の祖父宅から「逃げ出し」、千里と桃香に保護してもらえないだろうかと期待して、あそこに初めて行った時点で、あのアパートだけ、そしてあの部屋だけが安全地帯になっていた。
 
当時青葉はその理由を、ちょうどアパートの鬼門の位置にあったお地蔵さんのお陰だと思っていた。そのお地蔵さんは、桃香の部屋から正確に磁北から東45度の方角に在ったのである。つまり桃香の部屋はあの凶悪な地区の中であそこだけオアシスになっていたのである。
 
ところがある時、青葉があのアパートに寄った後、そのお地蔵さんに守ってもらっているからお供えしておこうと思い、水とあんぱんを供えていたら偶然近所のお年寄りと遭遇する。そしてそのお年寄りから、そのお地蔵さんがごく最近「C大学の学生さん」がその近くの交通事故で亡くなった学生さんの慰霊にと設置したものであることを青葉は聞いた。その時は「へー」と思っていたものの、最近千里の「霊的な能力」に気づいてから改めて考えてみると、その設置した学生さんというのは、千里姉だとしか思えないのである。
 
そして桃香と千里は3月末であのアパートを退去したが、ちょうど引越をしていた時、近くで道路工事も行われていた。道路の線形改良という話だったのだがその工事の影響で、お地蔵さんも少し場所を動かすことになるというのを地元の人から聞いた。その地蔵が動けば当然、地蔵が守ってくれるエリアも移動することになる。このアパート何か起きなければいいが、と一瞬思ったのであった。
 
そして今あのアパートは燃えている。
 
『ちー姉、あそこ燃えた後はどうなるんだろうね?』
と青葉がテレパシーで問いかけると、
 
『駐車場か何かにするかもね。アパート再建したって、また自殺者や犯罪者が出るだけだよ』
と千里もテレパシーで返事してきた。
 
あそこはアパートが5軒並んで建っているのだが、桃香たちが暮らしていた間に自殺者も出ているし、夜中に包丁を振り回して暴れて警察が出動する騒ぎを起こした住人もあったらしい。
 
『あそこって古戦場?』
『それはそうだけど、その問題だけではないと思う。どっちみちあまり関わりにはなりたくない』
『確かにね。でもなんであんな最悪の場所に住んでたの?』
『青葉、馬鹿とハサミは使いようって言葉知ってる?』
『へ?』
 

神社からの帰りはまた青葉が運転する。この日はある事情で彪志には遠慮してもらいたかったので、彪志を彼のアパートで降ろした後、青葉・千里・桃香の3人で都内の産科医院に入った。
 
話を聞いていなかった桃香はそこに和実がいるのでびっくりする。
 
「和実ここで何してんの?」
と桃香が訊く。
「淳が妊娠したから診てもらってんだよ」
と和実。
 
「淳さん妊娠できるの〜?」
「無理かなあ」
「和実が妊娠するのなら分かるが淳が妊娠できる訳無い」
「私なら妊娠できる?」
「和実ならあり得るという気がする」
「ふーん」
 
それで青葉と和実のふたりが処置室の中に入り、千里と桃香は廊下で待つことになる。
 
「で、ここで何する訳?」
と桃香が訊く。
「秘密の儀式が行われるんだよ」
「病院で儀式なのか?」
「まあ、待ってようよ」
 

「それは構わないのだが」
と桃香は何か気に掛かっているよう。
 
「千里、最近妙に私に優しいような気がするのだが」
「え〜?何それ?」
「私に何か後ろめたいことでもあるのか?」
「そんな馬鹿な。しばらくバスケの活動で桃香を放置してたから、埋め合わせしているだけだよ」
 
と言いつつ、千里は内心焦っている。
 
「そうならいいが、千里、最近浮気とかしてない?」
「え〜?私は桃香一筋だよ」
 
桃香ってふだんは勘が悪いのに、なんでこういうのだけ勘が働くのよ!?
 
「ほんとかなあ。まあ私も浮気してるから千里は責められないが」
「私はバスケと会社の仕事で手一杯で、浮気なんてする時間無いよ。このあとバスケは年末年始が少し忙しくて、その後春から夏に掛けてまた海外合宿とかもあるから」
「大変だな」
 

「でも**ちゃんは残念だったね。可愛い子だったのに」
と取り敢えず反撃しておく。
 
桃香はむせる。
 
「なんで、私の恋人の名前知ってるの〜?」
「そりゃ知ってるけどさ。でも**ちゃんは少し男っぽいけど意外
にスカート似合うし、まあ楽しみなよ」
 
「うむむむ。でも千里、私が浮気するのは気にならないの?」
「そりゃ嫉妬するけどさ。取り敢えず今の所、週末以外は恋人をアパートに連れ込んでないみたいだし」
「さすがに平日まで恋愛はできん」
 

「しかし千里はソフト会社も無茶苦茶忙しそうだな」
「なんか徹夜が普通って感じだしね。桃香の方はお仕事どうよ?」
「まあ今の所、毎月契約2〜3件取ってるからな。そこそこ評価してくれてはいるみたいだけど、基本的には詰まらん」
「ふーん」
「私もソフト会社に入れば良かったかなあ」
 
「桃香のプログラムはバグ取るのが大変そう」
「うん。私のプログラムは自分で言うのも何だが、構造はできているのに細かいところがうまく動作しないんだよ。学生時代の実習でも随分朱音や玲奈に助けてもらった。朱音がよく言ってたのは、私のプログラムは例外事項がきちんと考慮されてないと言うんだよな」
 
「うんうん。桃香のプログラムって、if x>0 と if x<0 が書いてあるのにif x==0 が書いてなかったりする」
 
「正か負かと考えた時にちょうどゼロというのを忘れる。それは自分でも思うが、世の中の物事、そんなにピタリとゼロになることなんて無いだろ?」
 
「でも数値化されたデータでは四捨五入されてジャスト・ゼロになることがあるんだよね」
 
「そういうのがどうも苦手だ。物事は正か負か、それだけでいいじゃん」
「好きか嫌いかハッキリしろって奴だよね」
「そうそう。好きというのとも嫌いというのとも違うとか、そういう曖昧な話は私は嫌いだ」
 
「ふふふ」
 

「しかし千里がソフト会社でプログラムを組んでいるのがもっと信じられんのだが」
と桃香は言う。
 
「全く全く。私のプログラムなんてまともに動いたことないのに」
と千里も自分で言っている。
 
「よくそれでSEが務まるな」
「私のプログラムは直しようが無いと玲奈からは言われていたよ。東京から甲府に行くのになぜか成田エクスプレスに乗っちゃってるような所があって。根本的に作り直す以外の道が無いって」
 
「恐ろしいプログラムだ。絶対に千里の会社にはソフトを外注しないようにしなくては」
 
「だけどやはりハードな仕事だからさあ。先月末で、とうとう私と同期で入った人が全員辞めちゃったんだよ」
「ああ・・・」
「5年以上続いている人が存在しないもんね」
「体力がもたないのでは?」
「創業以来過労死した人がゼロというのが信じられないくらいだよ」
「きっと死ぬ前に辞めてるんだよ」
「だと思う。この会社、風通しだけはいいから、思考停止して進退窮まるってことだけは無いんだと思う。悩んでる人いたら誰かが声掛けてるもん」
 
「逆にホウレンソウ(報告・連絡・相談)が機能してないのがブラック企業だよ」
「うんうん。同感」
 

千里と桃香はその病院の廊下のソファーで2時間近くおしゃべりをしていた。そして青葉が処置室から出てきた。
 
「どうだった?」
と千里が訊く。
「成功した」
と青葉は疲れたような表情の中、笑顔を作って答えた。
 
「ちー姉、胚を仙台の病院に運ばないといけないんだけど、ちー姉、和実に付き添ってあげてくれない? 和実、無茶苦茶消耗してるから」
 
「うん。青葉もお疲れ様。帰りの新幹線の中では寝ていくといいよ」
「そうする」
 
「何?何?何してたの?」
と事情が全く分かっていない桃香が訊く。
 
「桃香、私これから和実を連れて仙台まで往復してくるけど、桃香はどうする?」
「これからって?」
「今から走れば向こうに夕方くらいに着くかな。帰りはたぶん真夜中になると思う」
 
「仙台まで今から日帰りなの〜?」
 

それで桃香が何が起きているかを把握していないまま、千里は青葉・和実・桃香を乗せて、まずは東京駅に行き、高岡に帰る青葉を降ろす。それから淳の勤め先に寄り、淳を拾って東北道に乗った。
 
淳はスカートスーツを着ている。もう「女性社員」になってしまってから3年ほどが経過している。
 
「禁欲大変じゃなかった?」
と千里が淳に訊く。
 
「いや、私はもう全然性的な衝動が起きないんだよ」
「ああ」
「全く立たないし。たぶん精子を生産できるのも今の時期が限界という感じ」
「だったら、是が非でも成功させないと」
 
話が見えていない桃香は
「淳ちゃん、いよいよ去勢するの?」
などと見当外れのことを言っている。
 

千里ひとりで仙台までノンストップ運転するのは無茶だよと言って桃香が上河内SA(宇都宮市)で運転交代して2時間ほど運転してくれた。桃香は最初MTの発進の仕方とかも完全に忘れていたので、最初5分くらい千里が教えてあげていた。念のため淳が助手席に乗って桃香が危ないことをしないかチェックする。
 
そして桃香が運転している間は千里は寝ていた。ちなみに和実もこの道程中ひたすら寝ていたが、ずっと辛そうな顔をしていた。
 
菅生PA(宮城県村田町)でまた運転交代して、やがて千里の運転するアテンザは仙台近郊のとある病院に辿り着く。建物が新しい。この病院は震災で完全に崩れてしまい、その後再建したのである。幸いにも入院患者に死者などは出なかったという。
 
「卵子は3個取れたんです」
「では受精しましょう。採精してきてください」
 
と言われて淳は採精室に入り、15分ほどしてから出てくる。
 
「済みません。なかなか出なくて苦労しました」
などと言っている。ほんとに男性能力が低下しているのだろう。
 
「もしかしてこれ人工授精?」
と桃香がやっと今しようとしていることが何か分かったようである。
 
「人工授精というより体外受精」
「そうだったのか。それで淳さんの精子を取って・・・・卵子は誰の?」
と桃香が訊くので
 
「卵子は和実のに決まってる」
と千里が答える。
 
「なぜ和実に卵子がある?」
「問題はね」
と千里は説明(?)する。
 
「和実に卵子があるかどうかじゃないんだよ。和実から採卵できるかどうかなんだよ」
「はあ?」
 
「砂場の中にダイヤの指輪が落ちてることってあると思う?」
「そんなことは無い」
 
「でも砂の中に手を突っ込んだら、たまたまダイヤモンドの指環を拾う可能性ってさ、全く無いとは言えないでしょ?」
 
「それはまあ、あり得ないことではない。物凄い偶然だが」
 
「実際には砂の中にダイヤがある可能性なんてほとんど無いのにね。和実に卵子がある可能性もほとんどないけど、可能性は低くても実際に採卵作業をすれば卵子が取れる可能性もある」
 
「意味が解らん」
「100回目の挑戦で成功したんだよ」
「うむむむ」
 
「103回目でした」
と和実が弱々しい声で修正した。
 

一方の青葉は、和実の採卵を成功させた後、千里のアテンザで東京駅まで送ってもらい、少し休んでから15:52の《はくたか》に乗って高岡に帰還した。列車の中でもひたすら寝ていたが、自宅に戻ってからも、晩御飯も食べずにひたすら寝た。
 
和実の採卵作業は本当に大変だった。青葉は和実の痛みを積極的に引き受けたので自分も下腹部に針を刺されているような痛みをずっと感じていた。普段はあまり介入しない《姫様》が
 
『これはこのままでは気を失う』
と言って少しだけ助けてくれたので、おかげで何とかこの日高岡まで帰る体力を得ることができた。
 
翌朝になってもまだ痛みは残っていたが、何とか気力を振り絞って学校に出ていく。学校では青葉が戻ってきたのをうけて、全体集会を開き、合唱コンクール全国3位の成績が全校生徒に披露され、校長からもお褒めのことばをもらった。その日の放課後には、結局校長・教頭が半々ずつ負担して、合唱軽音部の全部員を、ほんとうにとやま牛のしゃぶしゃぶに連れて行ってくれた。
 

10月13日にシーサーの設置に千葉の玉依姫神社に行った冬子は、そこで谷崎潤子が「都会の風景って美しい」と言ったことばから、そもそも自分は『The City』で都会の美を描きたかったんだ、ということを唐突に思い出した。
 
それで結局、マリとふたりで東京タワーに行き、そこで見た夜景から『灯海』という曲を書いて、急遽録音をすることになった。
 
その件で10月25日の夜、雨宮先生から千里に電話があった。
 
「あんた暇だよね?」
「忙しいです。31日と11月1日に徳島に行って全日本社会人バスケット選手権に出るんですよ」
「だったら、明日からちょっと数日、ローズ+リリーの音源制作に入って欲しいんだけど」
「いえ、だから忙しいんですけど」
「私が言ったらちゃんとやりなさい」
「でも大会の直前なんですよぉ」
 
「参加しなかったら、あの件バラすから」
「あの件って何ですか?」
「あんた、不倫してるでしょ?」
「不倫くらい、普通にしてますけど」
「開き直ってるな」
「先生には負けます」
 
「でもこないだ新横浜のホテルアソシアで彼氏と密会したでしょ? 証拠写真もあるんだから」
「そんな馬鹿な。入る時も出る時も、別々に出たのに」
「ああ、やはりあそこで不倫したんだ?」
「うっ・・・」
 
「語るに落ちたね。あの日、私は新横浜駅の構内の喫茶店で構想を練ってたのよね。そこにあんたが改札を出てホテルの方に行って、30分後くらいに今度は細川君が改札を出てやはりホテルの方に行くのを見たからね。ピーンと来たんだよ。念のため両方ともホテル行きエレベータに乗る所の写真を撮っておいた」
 
「じゃ日中だけにさせてください。夕方から練習しないといけないので」
「うん、それでいい」
 

それで千里は26日と27日の2日間の日中だけ『灯海』の音源制作に参加させてもらい、夕方からは江東区の体育館に行って40 minutesの練習に参加した。
 
ここで使用した体育館というのは、これまで40 minutesが火木土の夕方に使用していた公共の体育館ではなく、来春からの運営会社設立と合わせて区から借りることになった、廃校になった小学校の体育館である。40 minutesは取り敢えず10月から来年3月までの半年間、ここを200万円で貸し切りにしてもらったのである。ただ、制限エリアが台形でそもそもミニバスのサイズで線が引かれていたので、古いラインを削り取って取り敢えずテープで新しいラインを引き直すのに15万ほど掛かった。
 
しかしこの体育館が使えるようになると、早速バイトを辞めてしまった雪子が喜んで本当に毎日来て朝から晩まで練習していた。
 
彼女には暫定的な「活動支援金」として月10万を3月まで渡している。これに「自称・不良主婦」の麻依子や、「自宅警備員」をしていた神田リリムなどが日替わりで出てきて練習相手を務めてくれていた。
 

「彪志君、彼女いたんじゃないんですか?」
と愛奈は文月の電話での話に対して疑問を呈した。
 
「でも彪志は色々な女の子を知っていいと思うのよね。別に結婚してくれという訳じゃないからさ」
と彪志の母・文月は言う。
 
「まあ私も彪志君のこと嫌いじゃないし、今のところフリーだし、デートに誘ってみるくらいはいいですよ」
と愛奈は答えた。
 

「ねえ、マジでさ。万一妊娠してしまった場合の養育費、5万じゃダメ?」
と信次は優子に《抱かれ》ながら言った。
 
「やっと考慮に値する数字が出てきたな」
と自宅アパートの布団の中で信次の上に乗っている優子は答えた。
 
「じゃ生でやっていい?」
「セブンイレブンに行ってきてコンちゃん買ってくること推奨」
「そう来たか」
「ついでに何かおやつも買って来てよ」
「はいはい」
 
「深夜だし女装で行ってくる?私の服、勝手に着てもいいよ。お化粧品も貸そうか?」
「俺は女装する趣味は無い。俺はホモであってオカマではない」
 
「でも信次のバッグにはよくスカートとかブラジャーとか入ってるじゃん」
「スカートは持ってるけど女装には使わん」
「女装に使わずに何に使うのさ?」
「それは男の秘密だ」
 

10月30日(金)。40 minutesの遠征参加メンバーの大半は19時に羽田空港に集合し、JAL465 19:35-20:50徳島阿波おどり空港行きに搭乗した。一部どうしてもこの便に間に合わないメンバーは翌朝1番の便(JAL 453 7:10-8:25)で駆け付けることになっている。
 
その日は取り敢えず旅館に入って一息ついた後、練習場所として借りることになっていた中学校の体育館で軽く汗を流して調整した。
 
翌日、開会式の後、午前中は男子の1回戦8試合が行われるので、これを大半が見学したが、一部のメンバーは徳島ラーメンや鳴門うどん・讃岐うどんなどを食べに行ったりしていたようである。完璧に旅行気分だ!しかしこういう気楽さが40 minutesである。午前中には昨日夕方まで仕事があり、19時半の飛行機に間に合わなかったメンバーも到着して合流した。
 
食べ歩き?しているメンバー以外は11時に早めのお昼を食べて13:20からの1回戦に臨む。相手は教員1位の東京・TTCであったが、試合の最初からこちらが圧倒する。最後の方で向こうもかなり頑張ったが57-75で快勝した。
 
教員連盟からは1位の東京・TTCと2位の千葉・千女会が参加している。千里はローキューツに参加したばかりの頃、千女会の圧倒的な強さに随分苦しめられたな、というのを思い起こしていた。
 
その千女会は玲央美たちのジョイフルゴールドに大敗している。ジョイフル・ゴールドは実業団1位であるが、実業団2位が来年の春からWリーグに昇格するバタフライズで、こちらはクラブ3位の江戸娘に勝って明日の準決勝に駒を進めた。もうひとつの試合は、実業団3位の秋田U銀行がクラブ2位のセントールを破った。
 
《初日の結果》
40 minutes○−×TTC
Joyful Gold○−×千女会
バタフライズ○−×江戸娘
秋田U銀行○−×セントール
 

この日の試合はこの1試合だけなので、試合終了後はまた練習場所の中学校に行き、たっぷりと汗を流して、そのあと旅館の温泉に入って身体をリフレッシュさせた。
 
11月1日は朝9:30から準決勝の2試合が行われる(男子の準決勝2試合も同時刻に行われる)。
 
組合せは40 minutes vs バタフライズ、ジョイフルゴールドvs秋田U銀行である。千里たちの試合は、来季からのWリーグ昇格が決まり、意気盛んなバタフライズと楽しむムードの40 minutesと、最初から両者の雰囲気は違っていた。
 
集団戦法のバタフライズに対して、40 minutesは基本的に個人技が中心である。40 minutesがこういうチームになったのは、練習にも大会にも自由参加というポリシーがあるので、誰が休んでも困らないように、個々人のプレイを中心に組み立てるスタイルを確立したためである。
 
相手が集団で攻めてきても、必ず1対1の場面は発生するので、そういう時に元々個人技を鍛えている暢子・星乃・橘花・麻依子が相手のプレイヤーに勝ってしまう。逆にこちらが攻めて行く場合は、相手は複数で止めにかかることから、結果的にどこかに穴ができ、そこからこちらは得点を重ねる。そして油断していると、千里や渚紗の遠距離砲が飛び込む。
 
そういう訳で試合は終始40 minutesがリードする形で進み、結局52-80の大差で40 minutesが勝利した。
 

試合後向こうのキャプテンが
「強いですね。負けました。ひとりひとりの能力が物凄いです。そちらさんも数年後には上(Wリーグ)に来ますよね?」
 
「そうですね。10年以内に行けたらいいですけど」
と千里は言っておいた。
 
もうひとつの準決勝はジョイフルゴールドが秋田U銀行を破った。これにより今年の社会人選手権・決勝はクラブ1位の40 minutesと実業団1位のジョイフルゴールドで争われることになった。
 

11:10からは男子の交流戦、12:50からは男女の三位決定戦と女子の交流戦が行われた。女子の三位決定戦ではバタフライズが僅差で秋田U銀行を破り、何とかオールジャパンの出場権を獲得して、来期Wリーグに昇格するチームの面目を保った。
 
14:40からは男女の決勝戦がおこなわれる。オールジャパンに行けるのは、男子2位以上・女子3位以上である。つまり決勝戦に出る男女4チームは全てもうオールジャパンへの出場は確定している。
 
14:40、鳴門市の大塚スポーツパーク・アミノバリューホールのBコートに40 minutesとジョイフルゴールドのスターティング・メンバーが整列した。
 
40 PG森田雪子/SG村山千里/SF竹宮星乃/PF溝口麻依子/C森下誠美
JG PG奥宮早希/SG湧見昭子/SF佐藤玲央美/PF高梁王子/C熊野サクラ
 
この2チームが対戦するのは実は初めてである。千里はローキューツ時代に2010,2011年の2度、この同じ社会人選手権でジョイフルゴールドと対戦している。千里と玲央美の公式戦での対決は実にそれ以来4年ぶりである。
 
しかしチームとしての対戦は初めてでも、お互いにほぼ顔見知り同士である。特に誠美とサクラはいつもメーリングリストなどでおしゃべりしている仲なので、試合前からお互いにパンチを当てたりしていて、審判が止めるべきかどうか悩んでいる様子であった。
 
「ところでどちらもシューターが男の娘なんだな」
などと星乃が言っていた。
 
ちなみに昭子も既に戸籍は女性に変更済みである。
 

誠美とサクラでティップオフをする。
 
サクラが勝って、これを玲央美・王子とつないでまずはジョイフルゴールドが先行した。
 
試合はお互いに個人技と個人技の応酬である。ジョイフルゴールドも名誉監督の藍川真理子の考え方が反映されていてアメリカ流の個人技中心のチームだ。どちらもマンツーマン・ディフェンスで、しかもお互いに技術力の高い選手ばかりなので、女子の試合とは思えないスピーディーでパワフルで、とても見応えのある試合となった。
 
「どちらも社会人というよりプロレベルじゃん」
「この2チーム、Aコートでやってる男子と対戦させてみたい」
という声も役員さんたちの中で起きていたようである。
 

点数は完璧にシーソーゲームで推移した。
 
第1ピリオドが22-21, 第2ピリオドは24-25, 第3ピリオドは21-21とここまで67-67の同点できて、第4ピリオドも激しい点の取り合いが進む。85-85の同点のまま試合が残り1分となった所で昭子が美しいスリーを決めて88-85と3点のリード。これに対して橘花が速攻から麻依子につないで2点返し88-87と迫り、更に相手の攻めを千里がスティールしてスリーを決め88-90と逆転する。
 
残りはもう12秒しかない。
 
ジョイフルゴールドの攻撃に対して40 minutesが激しいプレスを掛ける。しかし玲央美が母賀ローザとワンツーパスで40 minutesの守りを突破。最後はその玲央美のブザービーターとなるスリーが決まり、最後の最後でジョイフルゴールドが91-90で逆転勝ちをおさめた。
 
江戸娘・バタフライズ──┐
TTC・40 minutes───┴40 minutes─┐
セントール・秋田U銀行─┐      ├Joyful Gold
千女会・Joyful Gold ──┴Joyful Gol─┘
 
喜んで抱き合ったりしているジョイフルゴールドのメンバーに対して40 minutesのメンバーは「ああ、残念だったね」「惜しかったなあ」などと淡々とした表情で、こちらも抱き合ったりして笑顔で健闘を称え合っている。
 
更には、向こうでジョイフルゴールドが伊藤監督を胴上げし始めると、
「こちらもやろう」
などと言って、下田監督を胴上げしてしまう。
 
監督が「ちょっとちょっと」と焦っていたが、負けたチームが胴上げをするなどというのは、まず他では見られないシーンであった。
 
「あんたたち、負けたチームという自覚が無い」
などと下田監督に続けて胴上げされそうになり、断固として拒否した矢峰コーチが呆れたような顔で言うが
 
「いや、楽しいゲームでしたよ。勝敗は時の運」
などとメンバーは全く勝敗は気にしない姿勢であった。
 
「この無欲さがこのチームの長所でもあり短所でもありますよね」
とキャプテンの夕子は言っていた。
 
「いや本当にワクワクする試合だったよ。でも矢峰さんが止めてなかったら、私たちまで胴上げされてたかもね」
と千里も笑顔で言った。
 
なお、負けたチームが胴上げをしたことについて運営側が不快感を表明したので監督・コーチ・主将・副主将の4人で、まずは優勝したジョイフルゴールド、そして大会主催者に謝罪に行く羽目になった。ジョイフルゴールドのキャプテンの玲央美も監督の伊藤寿恵子も
 
「いや、びっくりした。面白いものが見られた」
と言って笑って許してくれた。
 
大会のMVPは玲央美、ベスト5は宮崎典佳(バタフライズ)、村山千里(4m)、佐藤玲央美(JG), 高梁王子(JG)、森下誠美(4m)と発表された。得点女王は玲央美、3P女王は千里、アシスト女王は宮崎典佳、リバウンド女王は誠美であった。
 
 
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【春始】(1)