【春始】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2016-02-27
大会が終わった後で、40 minutesと江戸娘の合同打ち上げ(食事会)を鳴門市内の焼肉店で開いた。お金は千里が半分出して、残り半分は江戸娘オーナーの上島雷太さんから預かっていたお金を使った。
「いや、上島さんのおかげで今年は負担が少なくて助かってますよ」
と江戸娘のキャプテン・青山玲香は言う。
「これで強い子が残ってくれるようになると、江戸娘もオールジャパンに行けるようになるかもね」
と江戸娘創立者の夕子は言う。
「でも今年、村山さんは大活躍でしたね」
と江戸娘のメンバーのひとりが言う。
「ああ、千里はよくやったと思うよ」
と橋田桂華も言う。
「全日本クラブバケット選手権で優勝・3P女王、ユニバーシアード4位・3P女王、アジア選手権優勝、そして社会人選手権準優勝・3P女王」
と麻依子が今年の千里の活躍を数え上げる。
「向かう所敵無しって感じですね」
と言う子もいるが、千里は笑って否定する。
「その3P女王って、全部花園亜津子の出てない大会で取ったものだから」
「うーん・・・」
「だから私は『鳥の居ない島のフクロウ』なんだよ。実際アジア選手権では彼女に大差付けられてるからね」
と千里は言う。
「いや、鳥という話であれば、千里は朱雀、花園さんは鳳凰という感じかも」
と小杉来夢が言う。
「ああ、そちらの方が納得する」
という声があちこちから出た。
「でもだったらさ、千里」
と暢子が言う。
「オールジャパンで3P女王取れば、どちらが鳥でどちらがフクロウかハッキリするよ」
千里は微笑んで答えた。
「そうだね。まあ頑張ってみようかな」
「アジア選手権ではふたりの条件が違いすぎたもん。オールジャパンで雌雄を決すれば良い」
「それがいい。それで負けた方は性転換して御婿さんになると」
「負けた方が雌雄の雄なんだ!?」
「千里、ちんちんくっつけて男に戻りたくなかったら、頑張れよ」
「むむむ」
「ふたりが結婚したら凄いシューターが生まれるよね」
「私、あっちゃんと結婚するの!?」
「千里、元気な赤ちゃん産んでね」
社会人選手権が終わった後、ほとんどのメンバーは徳島空港20:10の羽田行きで帰ったのだが、今夜中に帰らなくてもいい何人かは鳴門市内で1泊してから翌日帰ることにする。午前中の高速バスで大阪に出て、難波で一緒にお昼を食べてから解散した。
それで千里が心斎橋筋の方に行こうとしていたら、ばったりと阿倍子さん・京平の親子に遭遇する。京平はスリングで抱かれて眠っており、阿倍子さんは何だか大きな荷物をそばに置いている。
「こんにちは」
「こんにちは。千里さん、どうしたの?」
「私、徳島で試合があって、今帰るところ」
「ああ、途中なんだ!」
「うん。徳島から2時間半、バスに揺られてきたから大阪で一休みしていた所なのよ。これから東京に戻るけどね」
「千里さん、帰りは何時?」
「新幹線で帰ろうと思ってるけど、まだ切符は買ってない」
「だったら、ちょっと頼んでいい?」
「何を?」
「この荷物を家まで運ぶのを手伝ってもらえないかと」
「いいよ」
何でも貴司と一緒に買物に出て組み立て式の食器棚を買ったらしいのだが、貴司が途中で会社から呼び出しがあったと言って帰ってしまったらしい。
「貴司がいるからと思ってこんな重いもの買ったのに。私ひとりでどうしようと思ってた」
と阿倍子は言う。
「タクシーでマンションまで行っても玄関から33階まであげるのに苦労するね」
「そうなのよ!」
それで千里が荷物を持ち、阿倍子は寝ている京平を抱いた状態で一緒に御堂筋線に乗り、千里中央まで行った。駅からマンションまで歩き、マンションのエントランスを通って33階まで上がり、3331号室に入る。
「助かった。本当にありがとう。でも千里さん、力あるのね」
「バスケット選手だから。貴司を抱え上げられるよ」
「すごーい」
と阿倍子は反応した後で、貴司を抱えるってどういう状況だ?と思い至って少し嫉妬する。
「まあ私たちはライバルだけど、協力できることは私も協力するから、便利に使ってもらっていいからね」
と千里は笑顔で言った。
阿倍子は千里が「ライバル」という言葉を使ったのが気になった。千里はやはり貴司を諦めてないんだなというのを認識する。ただ千里は貴司を積極的に奪い取る意志はなさそうだというのも、千里と関わり続けたこの2年ほどの間の経緯で把握していた。
そして阿倍子は別の問題も最近意識していた。それは自分が「死」を考えなくなったのは、この2年間の千里に対する対抗心があったからではないかということである。自分が死んだら貴司と千里は喜んで結婚するのだろうと思うと、そう簡単に死んでなるものかという気持ちが湧き、それで阿倍子は頑張っている内にいつしか死の誘惑に捕らえられていた自分さえも忘れてしまっていた。
「そうだ。お願いついでに、もうひとつ頼んでいい?」
「うん?」
「京平のベビーベッドの位置がこないだから気になっていて。動かしたいなと思ってたのよ」
「ふーん。どこに?」
「この位置はカーテン開けてると西日がまともに当たるのよね」
「ああ。なるほど」
「もう少し壁の方に動かせないかなと思ってたんだけど、貴司に言ってもまた今度とか言うばかりで」
「ああ、あいつは気が乗らないとなかなかしてくれない奴なんだよ」
「そうみたい」
「じゃ私が動かしてあげるよ」
「じゃ一緒に」
「阿倍子さん体力ないから無理しない方がいいよ。私、充分力があるから」
「じゃ、お願いしようかな」
それで千里は(実は《こうちゃん》と2人で)ベビーベッドを少し奥側にずらし、西日が直接は京平の顔付近に当たらない位置に持っていった。ついでにベビーベッドの周囲に作っている結界も一緒に移動させる。これは自分がしないとヤバかった、貴司が勝手に動かしていたら京平の霊的ガードが崩れていたなと千里は思った。
ベッドを動かしたせいか、京平が目を覚まして少しぐずる。
「お腹も空いてるかな」
「そうかも」
と言って阿倍子は冷凍室から搾乳ボトルを1個取り出して解凍しようとしたのだが、その時家電に電話が掛かってくる。阿倍子が出る。
「あぁ! はい。すみません。すぐ入金しに行きます」
と言って電話を切ってから少し考えている。
「ごめーん。千里さん、今日までに入れないといけなかった電話代を銀行で払ってくるから、良かったらこのボトル湯煎で解凍して、京平に上げててもらえない?」
「いいよ。でも電話代なんて自動引落しじゃないの?」
「少し残高が足りなかったみたいで。3時半までに入金しないと止められるというから」
「あらあら。だったらやっておくよ」
「ごめんねー」
と言って阿倍子は神棚に置いてあった封筒を取ると、出かけて行った。あんな所に置いてあったというのは、へそくりを使うのかな、と千里は思った。貴司の経済状況は、やはりかなり悪化しているのだろうか。
取り敢えず、搾乳ボトルは冷凍室に戻す!
そして千里は京平を抱くと、自ら乳房を出して京平に含ませた。泣いていた京平が、急に機嫌がよくなる。そして京平に授乳している自分もすごく幸せな気持ちに包まれるのを感じていた。
そしていつしか千里は授乳しながら、うとうととしてしまった。
3年前、2012年7月6日。
貴司から唐突に婚約破棄を通告された千里は放心状態で部屋の中に座っていた。そこに桃香が帰宅するも、千里はうつろな目である。
「千里どうした?」
「桃香・・・・・・」
「何かあったの?」
「私・・・・何したらいいんだろう?」
千里の異様な状態を見た桃香は、最初、誰かにレイプされたのではと思ったらしい。
「千里、私の愛で包んでやるから、取り敢えずシャワー浴びてこないか?」
「シャワー?」
「うん。浴びておいで。あのあたりも綺麗にしておいで」
「うん」
千里は確かにシャワー浴びるのはいいかも知れないと思い、本当にバスルームに行きシャワーを浴びてきた。
「おいで、マイハニー、私が千里を心の芯まで愛してあげるから」
と桃香は言った。
そしてその日、桃香は千里を何度も何度も愛してあげた。
明けた7月7日は七夕である。桃香は千里をホテル・オークラのディナーに誘った。
「こんな日によく予約が取れたね」
「実は1ヶ月前から予約していた。千里とデートしたかったから」
「誰か他の女の子とデートするつもりで、振られたんじゃないの?」
と千里は少しだけ元気を出して言った。
桃香は少し焦ったような顔をする。どうも図星っぽい。しかし桃香は言った。
「もしかして千里も振られたの?」
「うん」
と答えるだけの気力が千里は24時間の時間経過で出るようになっていた。
「性転換するから振られたんじゃないの?」
と桃香は言う。
「そうだっけ?」
と千里。
「性転換したら別れたというカップルは結構聞くし、実際にも数組見ている」
「それって、元々相手は同性愛だったってこと?」
「だと思うよ。MTFとゲイのカップル、FTMとレズのカップルは、性転換すると高確率で壊れる」
「あいつ、ゲイだったのかなぁ」
と千里は遠くを見るような目で言った。
「MTFとレズのカップルは性転換した方がうまく行くと思う。千里と私みたいな」
と桃香が言う。
「ふーん。。。。でも私、レスビアンの経験は無いなあ」
と千里が言うので、桃香はむせてしまう。
「どうしたの?」
「私とたくさんHしてるではないか?」
「あ、桃香とのあれもレスビアンになるんだっけ?」
「だって千里は女だろ?」
「うん、そのつもり」
「だったら私と千里の関係はビアンだ」
「確かにそうかもね〜。でも私たち、恋愛はしないと言わなかった?だからただのセフレ関係」
「いや、あれは言葉のあやで」
と桃香は何だか焦っている。
「まあそれでだ。私は千里が性転換手術が終わったら言いたいことがある」
「ふーん」
この日、桃香は何も具体的なことは言わなかったのだが、桃香と一緒に美味しいディナーを食べ、その後、桃香が誘うので、千里もまあいいかと思い、このホテルの一室で桃香にたくさん抱かれて、千里は何とか失った心の一部を桃香に支えてもらえるような感覚になったのである。
「昨日の千里も今日の千里も随分スムーズに入るなあ。何だかまるで女の子としてるみたいな感覚だ」
などと桃香が言うのを微笑んで聞きながら、千里は桃香の背中を撫でていた。
翌7月8日。
貴司は今日、その篠田さんという女性と結納をすると言っていたなと思うと、千里は居ても立ってもいられない気分になった。
「ぶち壊しちゃる」
と言って千里が立ち上がると、後ろで《こうちゃん》がパチパチと拍手した。
この精神状態で車を運転するのは危険だと思ったので新幹線で大阪に向かう。結納が行われるホテルに行き、レストランに入る。このレストランの一角で結納が行われるという情報は後ろの子たちがわざわざ調べてくれている。
千里は紅茶を頼んでのんびりと飲みながら待った。迷ったがバッグの中から貴司からもらったダイヤのエンゲージリングを取り出して左手薬指にはめた。今まで何度も貴司から振られたけど、その度に愛を復活させてきた。この愛、もう失いたくないという気持ちが強くなる。
やがて貴司と26-27歳くらいかなという感じの女性、そしてその両親かなと思われる60歳前後の夫婦が入ってくるのを見る。あれ?保志絵さんと望信さんは?と千里はいぶかった。
貴司がこちらを認めてギョッとしているが千里は貴司の視線を黙殺した。
千里が目の端でそちらを見ていると、どうも貴司の両親は出席していないようである。貴司が祝儀袋に入れた結納金を渡し、そのあと歓談しているようだ。阿倍子の左手薬指にはめられた指輪を観察する。指輪の材質は分からないが白いからプラチナだろうか?しかし千里はその指輪に付けられたダイヤを0.3ct程度と見て「勝った」と思った。貴司が自分にくれて今左手薬指に填めているエンゲージリングは1ctちょっとのサイズである。200万円したと言っていた。さすがに1月に200万円の指輪を買ったばかりでは、同程度の指輪は用意できなかったのか。
『千里、どうやって潰すの?手伝うぜ』
と《こうちゃん》がワクワクしたふうに訊く。
『今日は潰すの中止』
『え〜〜〜!?』
『だって、あの女のお父さんに、こうちゃんだって気づいたでしょ?』
『ああ。あれはもう半月ももたんな』
『自分が死ぬ前に娘に良い婿が来てくれるのを見ることができたと安心しているところを邪魔したくないよ』
『でもいいの?』
『今日はあのお父さんに免じて許してあげるよ』
それで千里は席を立つと会計の所で自分の分を払った上で言った。
「ヴィラジオ・ノルド・ディ・モンテフィアスコーネ、あります?」
「少々お待ちを」
ソムリエを呼んで確認する。
「ございます」
とソムリエさんが言う。
「それボトルで1本、あそこの結納やっている席に、私のおごりで」
「かしこまりました。何か伝言はございますでしょうか?」
「後輩より、幸せを願ってと」
「承ります」
千里はワインの代金をカードで払ってから、それが席に届けられるのをレストランの入口で見守った。貴司が驚いたようにしてこちらを見ている。両親は笑顔でこちらにお辞儀をしている。そして阿倍子はこちらを、正確には千里の左手を見つめて怖い目で睨んでいた。
千里は軽くそちらの席に手を振ってレストランを後にした。
ホテルの出口の方に行きかけたら、ばったりと保志絵さんと遭遇する。
「お母さん!」
「千里ちゃん!?」
「お母さん、結納に出なくてよかったんですか?」
「千里ちゃん、やはり気になって来たのね?」
「そうだ。これお母さんに返しておきます」
と言って千里は左手薬指から指輪を外すと、ジュエリーボックスに入れてから保志絵に差し出した。物凄く寂しい気持ちになる。これで自分でも婚約解消を認めたことになる。
保志絵はそれを受け取らないまま、じっと見ている。
「ちょっと話さない?」
「はい」
それで千里は保志絵と一緒に近くの和風レストランに入った。
「私も理歌や美姫も貴司の行動に激怒している。この結婚は認めない」
と保志絵さんは本当に怒っているようであった。
「千里ちゃんは納得してるの?」
「私、一昨日唐突に別れてくれと言われて、正直まだ事態が飲み込めてない感じです。事態が飲み込めてきたら、私、ものすごいショックに襲われそう」
と千里は正直な気持ちを言った。
「今日は相手の女の顔を一目見てやろうと思って出てきたんですよ」
と千里。
「私も!」
と保志絵。
「お母さん、見られました?」
「あれ、貴司より年上だよね?」
「たぶん6〜7歳年上なのでは」
「×1(ばついち)だって?」
「それは聞いていませんでした。ヴィラジオ・ノルド・ディ・モンテフィアスコーネをあの席に贈っておきました」
「何それ?」
「イタリア産のワインです。昔あった『別れのワイン』という映画に出てきたワインで、主人公のカップルが最後破綻して別れる時にそのワインで乾杯するシーンが印象的なんです。そこまで貴司も向こうの親御さんも気づかないでしょうけど」
と千里が言うと、保志絵は吹き出していた。
「10月7日に結婚式を挙げると言っているけど、私も理歌たちも出ないつもり」
と保志絵は言ったが
「その結婚式は延期されます」
と千里は言った。
「どうして?」
「喪中では結婚式できないでしょうからね」
「へ?」
「あのお父さん、どう見ても余命1ヶ月って感じですよ」
千里も《こうちゃん》同様、もって半月と思ったのだが、少し長めに言っておいた。
「・・・・いや、千里ちゃんって結構人の寿命が分かるよね」
「そうでしょうか」
「宝蔵さん(望信の父・淑子の夫・貴司の祖父)が亡くなるのを知ってたでしょ?」
「唐突に感じられることがあるんです」
「京平はどうなるんだろう?」
「それは問題ありません。私が産みますから」
「千里ちゃん産めるの?」
「産みます。期待していてくださいね。種はちゃんと貴司さんから取りますよ。貴司さんは浮気性だから、たとえ阿倍子さんと結婚していたって、私が誘惑したらセックスに応じますよ」
「ああ、それは絶対そうしそう。でも、それじゃ千里ちゃんは貴司のこと、まだ好きなのね?」
「私、貴司さんに振られるの、もう5回目か6回目くらいですよ」
「あんた、苦労してるね!」
「貴司さんが実際に結婚するまでは諦めません。私、貴司さんを誘惑して籠絡を試みます」
「おお、頑張って! 応援してるから。私も理歌たちも千里ちゃんのことをお嫁さんだと思っているからね」
「ありがとうございます。ふつつかな嫁ですが、頑張ります」
思えば千里が貴司に関わり続けたのには、この時のお母さんの言葉で勇気付けられたことも大きい。
「でも指輪はいったんお母さんにお返ししておきますね」
「じゃ私が取り敢えず預かっておく」
と言って保志絵はジュエリーボックスをバッグの中にしまった。
「これもお返しします」
と言って結納金の封筒を渡す。
「中身は急いで用意したのでピン札がそろってないのですが」
保志絵はその封筒を見て数秒考えたが、やがて言った。
「これは返却の必要無い。一方的に貴司が婚約を破棄しておいて、本当は指輪も返却の必要はないんだけどね。むしろ慰謝料を払うべき」
「慰謝料はいりません。そんなの受け取ったら私と貴司さんの仲は本当にそれで終わりになってしまいます。でも結納金の方は、私が貴司さんを籠絡して再婚約した時のために取っておきますね」
と千里が言うと
「うん、そうしよう」
と保志絵も笑顔で言った。
7月14日、千里が桃香と一緒に、性転換手術のためタイに旅立とうと成田空港に行くと玲羅が来ていた。
「わざわざ来てくれたの?」
「近くまで来てたからね」
「もっともお姉ちゃんがいったい今更何の手術を受けるつもりなのかがよく分からないんだけどね」
と玲羅が言うと
「実は私もよく分からないのよねー」
と千里は答えた。
「その手術って死んだりはしないよね?」
「うーん。稀に死ぬ人もいるみたいだけど」
「じゃ、死なないように気をつけてね」
「ありがとう。お母ちゃんによろしく」
実は実際問題として千里は、いっそ手術中に死んだ方がいいかもと思っていたので玲羅のことばで、少しだけ自分を取り戻すことができた。搭乗する時、なにげなく貴司からもらったスントの腕時計を見ると、SAT 14 JUL 10:40 という数字が並んでいた。日付にも時刻にも1と4が出ているなと思った。千里は暗算で10+40=50, 易で火風鼎、日付まで入れても2012+7+14+10+40=35(mod64) 火地晋、どちらにしても吉だなと思ったことも覚えている。
そしてバンコク空港に着いて、入国審査を通った後で再度時計を見ると、そこには FRI 14 JUL 17:47 という表示が出ていた。あれ〜。なんで金曜日になっているんだろう?時差だっけ?と思ったので千里は桃香に
「時差は何時間だっけ?」
と訊く。
「2時間だよ。あ、千里の時計、直してあげるよ」
と言ってバンコク時刻に設定変更してくれた(機械音痴の千里はこういう操作も苦手である)。それで時計の表示は15:48になったものの、曜日は金曜日のままなので千里は首をひねったが、まあいいかと思った。
その後、16:45→18:05の国内便で更に移動して19時前にプーケットの病院に入院した。入院手続自体は先行してプーケット入りしていたアテンダントさんがこちらがバンコクに着いたという連絡をした時点でしてくれていたので、その日の内に基本的な検査を受けることができた。
7月19日、昨夜受けた性転換手術の痛みは激しかったものの、青葉が自分も同日性転換手術を受けているにもかかわらず国際通話を通じてヒーリングしてくれたのに加え《びゃくちゃん》も問題のある箇所の改善をしてくれたことで、かなり状況はよくなった。
普段は寡黙な《くうちゃん》が注意した。
『千里。貴司君に振られて、いっそ死にたいと思ってたろ?それで本当に死にかけたんだぞ。生きてないと貴司君を取り戻せないぞ』
『ありがとう。頑張るね』
それで千里は「生きる意志」を取り戻したことにより、急速に体力を回復させることができたのである。
《きーちゃん》なども、
『せっかく女の子になれたんだから、こんな所で死んじゃダメだよ』
と言ってくれた。
《くうちゃん》は手術中に千里の心臓が一時停止した時、全身麻酔中であるにも関わらず強引に千里の意識を覚醒させた。それで千里は「あ、心臓が停まってる。ちゃんと動け〜」と思うことで、鼓動は再開した。しかしおかげで千里はその後、自分の男性器が解体されていく様子を知覚することになり、苦痛の1時間を体験したが、実はそれでもかなり神経を削られた。
お昼くらいになると結構桃香とおしゃべりするくらいの体力と精神力も回復する。それであれこれ話していた時千里の携帯にメールが着信するものの、着信音がモー娘。の『恋のダンスサイト』なので桃香が顔をしかめる。
むろん貴司からだが、《阿倍子のお父さんが亡くなった》というメッセージが入っていた。
千里は7月24日(月)午後に退院し、HKT 19:00-20:25 BKK 22:25-6:40 HND 9:30-10:30 TOY という連絡で帰国し、そのまま高岡の桃香の実家に入った。ちなみにプーケットを出発したのは7月24日(月)であるが富山に到着したのは7月25日(水)である。どうも千里たちがタイに居る間だけ時間が6年前になっていたようであるが、そのことに千里が気づいたのはかなり後になってからである。
帰国する時の行程が0泊なのは例によって「余分に1泊するなんてもったいない」という安いもの好きな桃香の性格の反映だが、手術から1週間しか経っていない状態でのこの強行軍は、千里にはなかなか辛かった。
しかし桃香の実家ではひたすら青葉のヒーリングを受けることができて、千里は急速に体力を回復させていく。
千里たちが高岡に到着した日の夕方、千里の携帯にまた『恋のダンスサイト』の着メロでメールが着信する。貴司からで
《結婚式はとりあえず一周忌明け以降に延期になった》
と書かれていた。
横になっている千里を覗き込むように座っている桃香が尋ねる。
「こないだもそれ鳴ってた。よく考えてみると、以前から結構鳴ってた。千里のボーイフレンド?」
桃香は明らかに嫉妬するような目である。
「私を振った人だよ」
と千里は答える。
「ああ、そうだったのか」
「彼、他の女性と結婚するらしいんだけどね。その相手のお父さんが亡くなったので、結婚式を来年の7月以降に延期する、というのが今のメッセージ」
「あらら」
「まあ親の一周忌が来ない内に結婚式あげたら結構顰蹙買うよね」
「千里、結婚式が延期されている間に、その彼を奪い返すつもりだろ?」
「よく分かるね」
「千里は簡単に物事を諦めない女だ」
「そうかも」
「しかし、その彼、ゲイなんだったら、きっとその女とはうまく行かないよ」
「ふふふ。それは結構期待している」
「だけどさ」
「うん?」
「いっそさ。そんな千里のことを振ったような男のことは忘れて、これを受け取ってくれないか」
桃香は机の引き出しから小さな袋を取り出した。そしてその袋の中から青いジュエリーボックスを取り出した。
開けるとダイヤのプラチナリングである。ダイヤは0.7ctくらいある。これは多分100万円以上する。
「へ?」
と千里は戸惑うように声をあげて桃香の顔を見上げた。
「千里、私の奥さんになって欲しい」
と桃香は言った。
「え〜〜〜〜!?」
千里はこういう事態は全く想定していなかったので驚いた。
「桃香、私のこと好きだったの?」
「好きでなきゃ千里と同棲するわけない」
「それ、わたし的には同居なんだけど」
と言いつつ、桃香が性転換手術が終わったら言いたいことがあると言っていたのはこれだったのかと思い至った。
「でも私、女の子の身体になってしまったけど、いいの?」
「私がレスビアンだって知ってる癖に」
と桃香は言った。
「千里、私のこと好き?嫌い?」
「嫌いではないけど」
「そういう曖昧な言い方はやめて欲しい。好きか嫌いかどちらかにしてくれ」
「桃香って、いつもそう言うよね。じゃ、好き」
「私も千里のことが好きだ。だから結婚して欲しい」
「そうだね。まあいいか」
それで千里は桃香のエンゲージリングを受け取った。そして桃香と千里は2012年9月9日(日)大安にふたりだけで密かに結婚式を挙げた。
その時千里は思っていた。私、女の子に興味はないけど、桃香とだったら、まあ仲良くやっていけるし、桃香の奥さんということでもいいかなあ、と。もう薄情な貴司のことは忘れちゃおう。保志絵さんにも私が貴司を諦めたと言わなきゃいけないなあ。いつ言おう?と。
しかしその千里の決心(?)はわずか半月で壊れることになる。
9月14日から22日まで、大田区総合体育館で男子FIBAアジアカップが開かれ、貴司は日本代表の一員としてこれに参加していた。日本は予選グループBをイランに次ぐ2位で通過して決勝トーナメントに進出。中国・カタールを破って決勝まで行く活躍。しかし最後は決勝で再びイランに53-51の1ゴール差で敗れ、準優勝に留まった。
実際には貴司は代表12人の内12番目くらいの位置づけなので、ほとんど出番は無かったのだが、千里は日本の試合を全部観戦した。何度かコート上の貴司と目が合ったので笑顔で手を振ると貴司も笑顔を返していた。
決勝戦が終わった後、今日はちょっと「精神的な浮気」をしてしまったかなあと思いながら、桃香にお詫びにと思いケーキを買って千里は千葉のアパートに21時頃、帰宅した。
「ただいまあ」
と言って玄関を入るが返事が無い。
「桃香留守?」
などと言いながら、ケーキの箱を台所のテーブルに置いてから居間に入り、そこに居ないので寝室との間の襖を開ける。
すると布団の中に2つの影があることに気づく。
「え?誰?」
と千里が声を掛けた時、桃香がギョッとした顔で飛び起きた。桃香は(少なくとも上半身は)裸である。そして桃香の隣で裸で寝ていた《女の子》も
「誰?」
という声を出して。こちらを見た。
「信じられない!私だけを一生愛すというあの誓いは何だったのよ!?」
激怒した千里はそのあたりの物を手当たり次第桃香に投げつける。
「待ってくれ、話せば分かる」
と桃香は防戦一方である。桃香がセックスしていた相手の女の子は慌てて服を着て逃げ出している。
「痛い。ちょっとやめて。暴力反対。千里、君は物を投げる力が強すぎる」
「私、小学校の時はソフトボールのピッチャーだったし」
「それに何だか私の顔にばかり飛んでくるんだけど」
「当然、桃香の目に向かって投げてる」
「やめて〜。私が壊れる」
千里の周囲にあったものが全部桃香の所に飛んで行った段階で、千里の投擲は終了するが、それでも千里の怒りは収まらない。取り敢えず今日自分が「精神的浮気」をしてきたことは忘れて棚に上げている。
「指輪も返す。私、出て行く。サヨナラ」
そう言って千里は婚約指輪の入っているジュエリーボックスと、結婚指輪を入れているビニール袋まで桃香に投げつけると、荷物をまとめはじめた。
そこに桃香が必死になって説得する。それで結局千里は「結婚生活」は解消し、従来の友だち同士に戻るという条件で、桃香との同居は継続することに同意したのであった。つまり、桃香と千里の結婚はわずか半月で終了した。この後、千里は年末まで桃香との同衾も拒否して、別の布団に寝ていたし、一切セックスに応じなかった。
「あ、なんか美味しそうなケーキがある」
「それも桃香に投げつければ良かったな」
「食べ物をムダにするの反対」
「それは同意だ」
「お茶入れるから一緒に食べようよ」
「まあ、そのくらいはいいか」
それで桃香が紅茶を入れてくれて、一緒にケーキを食べた。そして桃香は再度エンゲージリングとマリッジリングを千里の前に置いて言った。
「この指輪も千里のためだけに作ったものなんだ。もしよかったら千里、これファッションリングとしてでもいいから再度もらってくれない?」
この2つのリングには MOMOKA TO CHISATO という刻印が入っているのである。
千里はまだかなりはらわたが煮えくりかえっていたのだが、桃香がほんとに低姿勢で頼むので妥協することにした。
「じゃファッションリングということで。つける時は左手じゃなくて右手の薬指につける」
「うん。それでいい」
そういう訳で、千里は桃香からもらったエンゲージリングとマリッジリングは右手薬指につけるようになり、桃香もそれに合わせて自分も右手薬指にマリッジリングをつけるようになったのである。
もっとも千里はふだんはバスケットをしているので、指輪の類いはつけられない。千里がマリッジリングをするのは、何か特別な時だけである。
千里は2012年1月に貴司のプロポーズを受け入れた時点で、大学院には進学せず、就職もせず、大学を卒業したら、そのまま大阪に行って貴司と暮らすつもりだった。しかし貴司と破局したことで、桃香と一緒に修士課程まで行くことを決め、秋になってから指導教官に打診し、追試を受けて修士課程に合格した。それで秋から年末に掛けては、入試対策で忙殺されていた。
12月22日(土)。
本当は今日は自分の結婚式の予定だったのにと思うと、急に寂しい気持ちに覆われた。何かに動かされるかのようにして千里は新大阪行きの新幹線に乗った。そして自分が式を挙げる予定だった大阪市内のNホテルに行く。そしてラウンジ・レストランでスペシャルランチを注文して食べていたら、そこに入ってくる影がある。
貴司であった。
千里が笑顔で手を振ると、貴司は驚いたようにして寄ってきて、千里の向かい側の席に座った。
「何かこちらに用事あったの?」
「まあ、お昼でも食べない?」
「うん、それもいいかな」
貴司はここに来た理由を何も話さなかったが、千里はここに貴司が居るということだけで、自分が救われる思いだった。千里はボーイを呼んで、貴司にもスペシャルランチを注文する。
「それと、モエ・エ・シャンドンの・・・何か美味しいのあります?」
と訊くと
「少々お待ちください」
と言ってボーイはソムリエを呼んできた。
「今日は私たちの結婚記念日なの。モエ・エ・シャンドンのシャンパンで何かふさわしいものあるかしら?」
「それではモエ・ロゼ・アンペリアルの2004年ものはいかがでしょうか?」
「うん。じゃ、それで」
シャンパングラスを2つ持って来てくれて、ソムリエがポンと勢いよく蓋を開ける。
「結婚記念日おめでとうございます」
と言ってグラスに注いでくれる。綺麗なロゼ色だ。
「じゃ、私たちの幸せを祈って」
と言って千里がグラスを掲げると、貴司も少し迷ったような様子でグラスを掲げた。グラスをチンと合わせる。
飲むと貴司が「美味しい!」と言った。
「まあ安いシャンパンとは違うよね」
「これ高いの?」
「1万円くらいだと思うけど」
「高い!」
「これドンペリニオンを作っている会社なんだよ。貴司の顔を見てドンペリは勧めなかったね」
「うーん。貧相に見えるか」
「もっともいきなり15万円とかのシャンパンを勧められても困るけどね」
「うん」
と言ったまま貴司は言葉少なである。
「千里、戸籍の性別は直したんだっけ?」
と貴司は尋ねた。
「直したよ」
と千里は答える。
「性転換手術は予定通り、あの後すぐ、7月18日に受けて、10月9日に私の戸籍は正式に女になった」
「それは良かった」
「精神的に物凄く不安定になってたからさ。手術の時は私死にかけたんだよ。何とか持ちこたえたけどね」
「大変だったね」
「でもおかげでちゃんと法的にも女になれたから、私がこの婚姻届けを役場に出せば貴司と法的に夫婦になれるよ。貴司が阿倍子さんとの婚姻届け出す前にこれ出しちゃおうかな?」
と言って千里は笑顔で、6月にふたりで書いておいた婚姻届けを見せる。貴司の父と、千里の母の署名も入っている。
「その件に付いてはあらためて済まん」
と貴司は謝る。
「まあいいや。提出はしないけど、この婚姻届けはこの後も度々貴司を責めるためにとっておこう」
などと言って千里はその書類を自分のバッグにしまった。
「ねえ、千里一度ゆっくり話したいんだけど、うちのマンションにでもちょっと来ない?」
「でも阿倍子さんと同居してるんでしょ?」
「まだしていない。結婚式が延びたから、同居開始もそれまで延びた」
「ふーん。セックスはしてるんだよね?」
「それが。。。」
「うん?」
「全然立たないんだ」
「天罰かもね。貴司、女を泣かせてばかりいるから、とうとう男の機能が無くなったのかも。もういっそ貴司も性転換手術受けて女になる?女なら立たなくてもセックスできるよ」
「うーん・・・・」
「悩んでる?女になろうかって?」
「いや、女になるつもりはない」
と言ってから、やがて貴司は決心したように言った。
「ねえ、千里、僕とセックスしない?」
「私、貴司を誘惑して再略奪しようかと思ってたのに、貴司から誘ってくるなんて、凄いな」
「いや、悪いけど結婚は阿倍子とする。でも千里とセックスしたい」
「なんかとんでもないこと言われている気がするけど。でも立たないのなら、セックスもできないでしょ?」
「千里となら立ちそうな気がして。緋那と付き合っていた時も、緋那の前では立たないのに、千里とならちゃんと立って射精もできていた」
千里は本当は貴司をうまく誘惑して、このままホテルのお部屋に連れ込むつもりだったのだが、貴司の側からこういうことを言われて態度を変えた。それで厳しい顔で通告する。
「私は貴司の妻ではあるけど、貴司の愛人でもないし、私は売春婦でもないから、そういう話はお断り。私とセックスしたいなら、阿倍子さんと別れて私に再度プロポーズすることね」
「だよなあ、それは分かっているんだけど」
その日のふたりの「性と結婚」に関する話し合いはそこまでで終わったものの、その後ふたりはバスケの話題で盛り上がった。最後はけっこう良い雰囲気で別れることになり、千里は上機嫌で千葉に帰還した。
その後も貴司と千里は、毎月のようにこのNホテルのレストランで《偶然遭遇》し、貴司が千里をセックスに誘うも、千里は阿倍子と別れない限りあり得ないと拒否するというパターンが続く。しかしふたりは会う度にバスケの話で盛り上がり、千里も貴司もいつも楽しい時間を過ごしていた。ふたりがいつもモエ・エ・シャンドンのシャンパンを頼むので、気易くなったソムリエさんが
「仲の良いご夫婦ですね」
と言ってくれて、そのことばに千里も気をよくしていた。
しかし2013年8月9日(金)、とうとう貴司は阿倍子と決婚式を挙げた。
千里は我慢できずに当日、結婚式・披露宴の行われる大阪のRホテルに行ったものの、モーニング姿の貴司とウェディングドレス姿の阿倍子が並んでいるのを見て、激しい悲しみが込み上げてきた。
私、ここに来なければ良かったかな・・・・。
少し落ち込み気味の気持ちで帰ろうとしていたら、理歌に遭遇する。
「千里姉さん、来てたんですか?」
「理歌ちゃん、ありがとうね。出席してくれて」
「出たくなかったけど、千里姉さんが出て欲しいと言うから私とお父ちゃんだけ出席しました」
「お母さんは?」
「『絶対出ない。阿倍子さんを嫁とは認めない』って。美姫も行きたくないと言ったから、異様な結婚式でしたよ。こちら側の親族って私とお父ちゃんの2人だけなんだもん。向こうも親族少ないみたいで。だから披露宴も出席者は全部で10人もいない寂しい式でした。兄貴って友だちも居ないし」
確かに貴司は「男同士の付き合い」のようなものが苦手で、中学高校時代もあまり男性の友人はいなかった。今の会社でもきっとそうなのだろう。
「まあ5年はもたないだろうけど、早々に離婚するといいね」
と千里が言うと理歌は吹き出した。
(実際には貴司は2013.8に結婚して2018.1に離婚したのでふたりの結婚生活は4年5ヶ月続いている)
「そうそう。うちのお父ちゃんったら、新婦の名前を言い間違って」
「へ?」
「お父ちゃん、兄貴が千里姉さんと別れて別の人と結婚すると聞いて、長年兄貴に干渉していた緋那さんかと思っていたらしくて、『貴司、緋那さん、幸せになってください』って」
緋那は留萌まで押しかけていったこともあり、千里も彼女の対策にはかなり神経を使わされていた。しかしそれで望信は緋那の名前を覚えていたのだろう。
「緋那さんはもう結婚して今は九州に住んでいるんだよ」
「へー。よくそういう動向をつかんでますね」
「万が一にも干渉されたくないからね。過去の貴司のガールフレンドの中でいちばん手強い相手だったもん」
「なるほどー」
と言ってから理歌は言う。
「まあそういう訳で、千里姉さんが兄貴を諦めていない以上、私もお母ちゃんも美姫も、兄貴のお嫁さんは千里姉さんだと思っていますから」
「ありがとう」
そんな感じで理歌に励まされはしたものの、やはり貴司が結婚してしまったという喪失感は大きく、千里はしばらくボーっとした日々を過ごしていた。心ここにあらずという雰囲気の千里を見て、桃香は「気分転換も兼ねて、うちの実家に来ない?」と誘い、ふたりは高岡の桃香の家にしばらく滞在することになった。
そんな中、青葉が関わった案件でクライアントが持っていた様々な「怪しげなグッズ」を高野山で処分することになり、青葉は千里に高野山まで車を運転して欲しいと言った。しかし千里はまだ貴司の結婚のショックから立ち直っておらず「運転に自信が無い」と言ったので、車(朋子のヴィッツ)は結局桃香と無免許の青葉が交代で運転し、千里は助手席に座っていた。
高野山から帰ろうとしていた時、貴司からのメールが着信する。ちなみに着メロは岡村靖幸の『バスケットボール』に変更してある。歌詞の内容は「友だちじゃなくて恋人になろうよ」というものなので、これを知られていると結構やばいのだが、洋楽しか聴かない桃香はまさかこの曲の歌詞は知るまいと思って千里はこの曲を貴司からのメール着信に設定している。
《話が面倒なので電話で直接話したい》
とある。
仕方ないので千里は青葉と桃香から少し離れて電話を掛ける。桃香が嫉妬の目でこちらを見ている。
「実は例のヴァイオリンを引き取って欲しいんだ」
「うーん。いいけど、何で?」
「いや、阿倍子にヴァイオリンを見られて弾くのかと言われるんで、もう長いこと弾いてないから弾けないと言って。それで話している内に、つい最近まで千里が持っていたことを言っちゃって」
ああ、貴司って適当な嘘つくの下手だもんな、と千里は思う。
「それで彼女からもらったものをここに置いて欲しくないというからさ」
「いいよ。じゃ引き取りに行くよ」
それで千里は、自分はちょっと大阪に寄って帰りたいから桃香と青葉は先に帰っておいてと言ったのだが、桃香が
「千里が大阪に寄るなら自分も同行する」
などと言い出す。
千里はそれって結果的に自分にとっても都合が良いなと思った。
それで結局大阪までヴィッツで一緒に出た後、青葉はサンダーバードに乗せて帰して、千里と桃香の2人で千里(せんり)の貴司のマンションを訪れる。桃香が車でマンションの車庫口に付けてから、千里が貴司に電話すると貴司が入口のシャッターを上げてくれるので中に入る。
「来客用駐車場はどこかなぁ」
「確か入って右手奥の方にあった気がする」
などと言いながら少し場内を回っていて、やがて見つけたのでそこに桃香が駐める。それでエレベータで33階まであがり、3331号室の外で再度携帯に掛けると、貴司がドアを開けてくれたが、桃香も一緒なので驚いているよう。
千里と桃香は
「お邪魔しまーす」
と言って中に入っていった。阿倍子が千里の顔を認めて厳しい顔をするが、千里はポーカーフェイスである。
「中学のバスケ部の先輩なんだよ」
と千里は桃香に説明した。
「へー。バスケットしてたんですか?」
と桃香が阿倍子に訊くので
「いえ、私はスポーツは何も・・・」
と阿倍子。
「私の先輩は貴司さんの方だよ。奥さんが男子バスケ部に入る訳ない」
と千里。
「あ、そうか。時々、千里が元は男だったことを忘れてしまう」
と桃香が言うが、それで阿倍子はびっくりしたようにして
「うっそー!? あなた男性だったんですか?」
などと阿倍子。
「ええ。ですから私、高校時代はバスケのために髪は五分刈りにしてたんですよ」
と千里が言うと
「そういえば、そんな話は聞いていた」
と桃香も言う。
「中学は同じだったんですけど、高校は別の所になって。インターハイの道予選の決勝でぶつかったんですよね」
と千里は言う。
「へー」
と桃香は感心している。阿倍子も
「そんなことがあったんですか」
と言っている。
「結果は貴司さんの勝ちで、貴司さんたちの学校がインターハイに出場しました」
と千里。
「まああの試合は既に代表は1校決まっていて、僕たちのチームと千里のチームで勝ったほうが2番目の代表校になれるという試合だったからね」
と貴司も言っている。
「このヴァイオリンは、元々僕が小学生の頃に弾いていたものでさ、千里がヴァイオリン弾くのに楽器持ってないと言ってたから、自分はもう弾かないからあげるよと言ってあげたものなんだよね。でもその後、何度か色々な経緯で僕の所に来たり、千里の所に行ったりしていたんだけどね」
と貴司は説明する。
「だから、これは僕と千里の友情の印みたいなものかな。僕と千里の関係は基本的にはバスケの先輩・後輩の間柄だから。まあ千里が女になってしまったから、会って話したりしてると、たまに誤解する人もあるみたいだけどね」
と貴司は更に言った。
しかし阿倍子はその言葉を完全には信用していないようにも見えたし、桃香もまたそれを信用していないように見えた。阿倍子は多分自分が元は男だったということを信じてない感じで、桃香は自分と貴司がただの先輩後輩の関係だということを信じてないようにも見えた。
そういう訳で千里はヴァイオリンを貴司の所から引き取って高岡に戻ったのだが、帰り道は桃香ひとりで運転したので、途中休憩が必要になる。女形谷PAで休憩して桃香が仮眠していた時、千里はそっとヴァイオリンの共鳴胴の中から、1枚の紙を取り出した。
読んでみて微笑む。そしてその紙をそっと自分のバッグの内ポケットにしまいこんだ。
9月21-22日、大阪では近畿実業団バスケットボール選手権が行われていた(決勝は10月12-13日)。貴司のチームもこれに出場していたが、千里はこれを観戦に行っていた。そして試合が終わった後、これまでも毎月レストランで会っていた大阪市内のNホテルに行く。
「予約していた細川です」
と名乗り、部屋の鍵をもらって上に上がる。貴司も30分もしないうちにやってきた。
貴司が部屋の中に入ってくると、千里はいきなり貴司にキスをした。
「メッセージに気づいてくれたね」
と貴司が言うので
「当然」
と千里は答える。ヴァイオリンの中に入っていた紙には、貴司の書いた下手な(?)短歌と、9.22 17:00という日時だけが入っていたのである。場所は書かれていないものの、いつもふたりが会っているこのホテル以外には考えられなかった。
ちなみにヴァイオリンが千里と貴司の間でやりとりされる度にお互い詩とか短歌とかを書いた紙を入れておくのはふたりの「暗黙の約束」で、実はこれは中学高校の時にずっとやっていた交換日記の続きなのである。
「セックスしてもいい?」
といきなり言う貴司に千里は吹き出す。そして通告した。
「結婚している人とセックスなんてできません」
「え〜〜!?」
それで貴司は自分が阿倍子の前ではどうしても立てることも射精もできないことを言う。
「ひとりでは出来るの?」
「それもできない」
「やはり、男性機能が消失したのね。いっそ性転換手術して女になって」
「その話はもう勘弁してよ」
「私とセックスして自分に男性機能があるかどうか確認したいの?」
「それもあるけど、僕は千里が好きだから」
「新婚ほやほやの男性の言葉とは思えないなあ」
と言いつつ、千里は貴司のズボンを下げてしまう。
「あ・・・・」
「じゃ男性能力の確認だけしてあげよう」
と言って千里は貴司のそれを握ると手を動かし始めた。
「ごめん。痛い。もう少し優しく握って」
「軟弱だなあ。もっと鍛えなよ」
と言いつつも少し握る力を弱くする。
実は千里は男性時代にオナニーの経験が無いので、どのくらいの力で握ればいいのか、どのくらいのスピードですればいいのかの見当が付かないのである。
貴司は途中で立っていられなくなってベッドに腰掛けた。そして貴司は結局3分ほどで逝ってしまった。
「できた。やはり僕はちゃんとできるんだ」
と言って貴司は到達したこと自体を嬉しがっているようだ。
「緋那さんの時もそうだったね。貴司、きっと女性の前では立たないんだよ。もしかしてホモじゃないの?」
「男には興味無い」
「ほんとかなあ。昔からそれ怪しいと思ってたけど」
「でも阿倍子さんとセックスしてもらわないと京平が生まれないよ」
と千里は言う。
「その件だけど、こないだ7月に会った時はとても言えなかったんだけど」
と言って貴司は、阿倍子が不妊症で、それが原因で前の夫からも離婚されたことを初めて話した。
なるほど、京平の母親は阿倍子さんではないかも知れない気はしていたけど、そういうことだったのかと、千里はここで初めて納得した。しかしそれでは困る。阿倍子さんと貴司の結婚を容認したのは、自分の代わりに京平を産んでもらえるならという気持ちがあったのに。
「それでさ、阿倍子とは結婚前からそういう話をしていたんだけど、人工授精を試みたいんだよ。でも僕、ひとりでは射精することができなくて」
「まさか、採精するのに、私に手伝ってくれとか言わないよね?」
「いや、まさにそれを頼みたいんだ」
「阿倍子さんにおちんちん握ってもらった?」
「それは試したけど、やはり大きくならない」
「困った子だねえ。やはりここはもう役に立たないおちんちんは手術で除去して」
「だからその話は勘弁してよ。とにかく僕の精子を出さないことには人工授精もできない」
「まあいいよ。私の子供を作る為だもん」
そういう訳で、結局このあと貴司と千里は毎月1回、このホテルで密会しては千里が手で採精用の容器に出してやるということをするようになったのであった。これは結局妊娠が成功する2014年10月まで1年間続くことになる。ただし受精の方法は、最初精液を阿倍子の子宮に投入する人工授精方式で行っていたものの、途中で試験管内で受精させて受精卵を子宮に投入する体外受精方式に変更された。
つまり阿倍子が採卵台に寝て激痛に耐えながら卵子の採取をしている時に貴司は千里との逢瀬で月に1度限定の快楽を味わっていたのであった。
受精卵の分裂がすぐ止まってしまうことから阿倍子の卵子に貴司の父や従兄の精子を受精させてみる試みもしたのだが、その時千里は冷凍保存していた自分の精子を持ち込み、これも使ってみてと言った。自分が京平の母親になれないなら、父親になる選択もあるかと思ったのだが、この受精卵は多数試してみた組合せの中で唯一正常に分裂をしてくれた。しかし子宮に投入しても着床してくれなかった。
そしてとうとう貴司たちは阿倍子の卵子を使うことを諦める。それで貴司は千里に頼んだ。
「千里の卵子を貸してくれないか? うまい具合に阿倍子も千里もAB型だから、子供が生まれて育った時に親と血液型が合わないことに悩まなくて済むだろ?」
その時、突然美鳳が千里の中に入り込んで貴司に言った。
「誰かは明かせないけど、阿倍子さんと同じ血液型の女性に提供させる。ただその採卵する時に貴司はその病院には近寄らないで欲しい」
千里自身は「へ〜」と思いながら美鳳が自分の身体を借りて言うことばを聞いた。
「分かった。それでいい」
と貴司は言った。
美鳳がそう貴司に伝えた時、千里はいったい誰の卵子を借りるのだろうと思っていたのだが、美鳳から「あんたが採卵台に寝なさい」と言われた時、千里は驚愕した。
「でも私に卵子がある訳ないじゃないですか?」
「私が寝なさいと言うんだから、そうしなさい。何とかするから」
まあ神様が言うのなら何とかなるのだろうと思い、軽い気持ちで千里は採卵台に寝たのだが、あまりの痛さにたまらず声を挙げた。しかも最初は失敗する。
「やめますか?」
「いえ、再度してください」
と言って2回目からは激痛に耐える。そしてその日は6回目に採卵に成功したものの、最初の体外受精は胚が子宮に着床せず失敗に終わった。
翌月もまた採卵をするが、この時、千里は「京平の身体をつくるためだ。自分が頑張らなくてどうする?」と強い覚悟で臨んだ。この時、千里は一度も弱音をはかず、医師が感心していた。この日は4回目に採卵は成功した。
そして育った胚を阿倍子の子宮に投入する時、青葉に頼んで気を送ってもらった。その結果、着床は成功し、胎児が阿倍子の胎内で育って行くことになる。しかし妊娠が成功して以来、千里は自分の体質が変化していることに気づき、美鳳に尋ねた。
「まあ細かいことは明かせないけど、京平は実際には阿倍子さんと千里が共同で妊娠しているような状態にある。だからhcgホルモンとか、今千里は凄い高い状態にあるはずだよ。そのhcgの出を調整してくれている青葉も含めると3人で協力して妊娠している状態かな。青葉はホルモン量変化してないけど」
「私、バスケしても大丈夫ですか?」
「京平の本体は阿倍子さんの体内にあるから大丈夫だよ。でも水分補給とかしっかりしてね。睡眠も充分に取って。あんたが体調崩すと、それは妊娠に影響するから。今年はふたりとも風邪やインフルエンザにかからないよう、サービスで守ってあげるけどさ」
「よく分かりませんけど。でも採精で男は快楽を味わって、採卵で女は激痛を味わうって絶対不公平ですね」
と千里は言った。
千里はハッとして目が覚めた。
京平はお乳を吸いながらこちらを不思議そうな顔で見ている。この子は本当に表情の豊かな子だ。
京平に授乳している内に自分が眠ってしまったようだが、時計を見ると10分も経っていない。それにしては長い夢を見ていたなあと思った。貴司は結局阿倍子が不妊症に悩んでいて自殺しそうなのを防ごうとしている内に彼女と結婚したということのようである(貴司の説明)。しかし彼女が不妊症であったがゆえに、千里が子作りに協力することになり、結果的に千里は貴司の実質的な妻の座に復帰してしまった。最近は貴司と阿倍子は寝る部屋も別々だと貴司は言っていた。
「離婚して欲しいけど、京平がある程度の年齢になるまでは阿倍子さんも絶対京平を手放さないだろうなあ」
などと独り言を言いながら京平を見つめる。千里の理想としてはふたりが離婚して京平は貴司が引き取るケースであるが、日本では子供が幼い場合、母親が親権を取るケースが圧倒的に多い。京平をこちらに取れないのは困る。千里としてはわりと貴司はどうでもいいから京平だけ欲しいくらいだ。
京平は久しぶりに千里からおっぱいをもらってご機嫌な様子でニコニコしている。
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【春始】(2)