【春始】(3)

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そこにピンポンと来客を告げる音がする。モニターで見ると、何と保志絵さんである。
 
「今開けますね」
とインターフォンに向かって言ってエントランスをアンロックする。やがて保志絵さんが部屋の前まで来たのを認識してドアを開ける。
 
「いらっしゃい」
と京平を抱いたままの千里が笑顔で言うので、保志絵はびっくりしている。
 
「声を聞いた時、あれ?と思ったけど、やはり千里ちゃんだったんだ?でもどうして?」
 
「阿倍子さん、今銀行に行っているんですよ。じきに戻ると思いますから」
と千里。
 
千里は左手のみで10kg近い京平を抱えたまま、右手でお茶を入れて保志絵に出す。日本代表シューターの物凄い腕力のなせるわざである。
 
「私、町を歩いていたら阿倍子さんが大きな荷物抱えて困ったような顔をしているのに遭遇して。なんでも貴司さんと一緒に買物に出たら、貴司さん途中で会社から呼び出しがあったとか言ってひとりで帰っちゃったらしくて」
 
「あらあら」
「だから荷物を私が持って一緒に戻って来たんですよ」
「へー!」
 

「京平、あんたのおばあちゃんだよ。ご挨拶しなさい」
と言って千里がいったん京平を自分の乳首から離して保志絵の方に向けると京平はキャッキャッと笑うような動作をした。
 
「おお、可愛い!ちゃんと挨拶してる」
と言って保志絵は京平の頭を撫でる。
 
それで千里がまた京平を自分の乳首に吸い付かせると、京平は一所懸命お乳を吸っているので、それを見て保志絵は驚いたような声をあげる。
 
「千里ちゃん、おっぱい出るんだっけ?」
「まさか。でも乳首を咥えさせていると、京平が機嫌いいんですよ」
「ああ、そういうのはあるかもね!」
 
「この家は搾乳したお乳の冷凍ボトルがたくさんあるから、それを解凍して飲ませてあげたんですよ。それで満腹したみたいだけど、それでも赤ちゃんってやはり、乳首を咥えていると精神的に安心するみたい」
 
「なるほどー。そうそう。阿倍子さんが最初お乳が出ないと言ってたから少し心配していたけど、搾乳して出るんならいいかもね」
「ええ」
 

「お母さん、こちらにはよく来るんですか?」
「いや、実は初めて。阿倍子さんと直接会うのも初めてで、今日は結構な覚悟を決めてここに来たのに、いきなり千里ちゃんと遭遇するとは思わなかった」
 
「孫の顔を見に時々来てあげてください」
「千里ちゃん、それでいいの?」
 
「ええ。貴司さんと阿倍子さんが早く離婚してくれることを祈ってますから」
と千里が言うと、保志絵は吹き出した。
 
「でもおばあちゃんは大したことなくて良かったですね」
と千里は言う。
 
「全く全く。ヒヤヒヤしたよ。でも本人はもう平気な顔でさ、またゲーム三昧」
「いいんじゃないでしょうか。おばあちゃんが若い頃にはこんなの無かったろうし」
「そうそう。フラフープとかダッコちゃんに燃えた時代だと言ってた」
「ああ、そういう世代か」
 

しばらく保志絵とおしゃべりしていたら、ピンポンが鳴る。見ると阿倍子である。
 
「千里さん、ごめん。私鍵持って出るの忘れちゃって。エントランスの開け方分かる?」
「うん。分かるよ」
と言ってから千里はエントランスを開けるボタンを押した。そして阿倍子が昇ってきたタイミングで玄関のドアを開けるが、この時千里は京平を自分の乳首から離して、ふつうに抱っこする形にした。
 
「わあ、ありがとう」
「京平ご機嫌だよ」
「ああ、良かった良かった」
「ほら、ママの所に行きなさい」
と言って千里が京平を阿倍子に渡すが、阿倍子が抱いた途端、京平は泣き出してしまう。
 
「わ、今までご機嫌だったのに」
「この子、しばしば私が抱いても泣くのよ」
などと阿倍子は言っている。
 
「いっそベビーベッドの方がいいかも」
と阿倍子が言うので、千里は京平を再度引き取って抱いたままベビーベッドの所に行き、そっと京平を寝かせた。しかし実際には千里が京平を抱いた途端、京平は泣き止み、ベッドに寝かせてもそのままご機嫌であった。
 
千里が抱いた途端京平が泣き止んだことで阿倍子は不快そうな顔をした。
 

そこまでした時、阿倍子は初めて保志絵の存在に気づく。
 
「わっ」
「ごめんなさいね。お邪魔してますよ」
 
「お母さん、すみません。そちらに挨拶にも行けなくて申し訳ありませんでした」
と言って阿倍子は正座して手を突いて謝る。
 
「いや、こちらも結婚式に行けなくてごめんね」
などと保志絵は言っている。
 
「でも出産の時はたいへんだったみたいね」
「理歌さんに助けてもらいました。それと千里さんにも随分お世話になって」
 
「あの時は、ちょうど私も貴司さんも東京で同じ場所で合宿中で。それで貴司さんから子供が生まれるのはいつか占って欲しいなんて言われたんですよ。それで占うと今夜だと出たんですよね。それで阿倍子さんは実家に行ってるんだっけ?と聞くと、ひとりでマンションにいるなんて言うから、ちょっと様子見ておいでよと、私言ったんですよ。ところが貴司さん、一晩で大阪まで往復してくる体力が無いなんて言うし、私の友人も、お産の時にどうせ男は役に立たないよなんて言うんで、私が東京の合宿所から大阪まで往復して、阿倍子さんを入院させたんですよ」
 
と千里は当日のことを説明する。
 
「ああ、そういう経緯だったのか。理歌も当日の状況はよく分かってなかったようだったし」
 
「貴司さんが合宿に入る前に阿倍子さんを入院させておけば全然問題無かったんですけどね」
「あの子は全く気が利かない子なのよ」
 
「産気づいたらタクシー呼んで病院に行けと言われていたんですけど、実際にタクシー呼ぼうと思ったら、スマホが落ちちゃったんです。どうしても再起動してくれないし、その内辛くなって意識失ってしまって。千里さんが来てなかったらやばかったです」
 

「あ、そうそう。京平はお乳1本飲んで満足したみたいで。搾乳ボトルは洗ってミルトンに漬けておいて、さっき取り出して乾燥機に入れたから」
 
と千里が言う。
 
「わ、ありがとう。でもよくミルトンとか分かったね?」
「友だちで赤ちゃん産んだ子がやってたから」
 
「なるほどー。貴司さんは適当なんで困るんですよ。水洗いしただけで布巾で拭いて棚に戻しちゃうし」
 
「まあ男の人はほんとに役立たない」
と保志絵。
「貴司はそもそも適当だし」
と千里。
 
「でもお乳が出てるみたいで安心した。出産当初、あまり出ないみたいなこと言ってたよね?」
と保志絵が訊く。
 
「実はそれ私も不思議なんですけどね」
「うん?」
「自分では搾乳しても出ない感じなんですよ。乳房が痛いだけで。でも搾乳している内に私よく途中で眠っちゃって。それで気がつくと、ボトルにはたくさんお乳が入ってるんですよね」
 
保志絵が考え込むようにして腕を組む。
 
「搾乳したボトルは冷凍しているんですけど、何だか自分で搾乳したのより冷凍室に入っている本数が多いみたいな気がして。でも誰かがそこに置いていったりする訳もないし、自分で搾乳したんでしょうね」
 
などと阿倍子は言っている。
 
「あと、京平にあげたお乳の空ボトルをよく疲れて放置してしまっている気がするのに、ふと気づくとミルトンに漬けてあったり、乾燥機に入っているんですよね。貴司さんがやってくれるとは思えないので、きっと自分で洗って乾燥させているんでしょうけど」
 
保志絵は腕を組んだままチラッと千里を見たが、千里は何も言わずに微笑んでいた。
 

結局千里と保志絵は一緒に貴司宅を辞した。
 
千里は北大阪急行(御堂筋線)で新大阪駅へ、保志絵はモノレールで伊丹空港に行く予定だったが、保志絵が話したそうにしていたので、千里は結局保志絵に付き合って空港まで一緒に行った。
 
「私も飛行機で東京に戻ろうかな」
と言って保志絵と同じ便の切符を買う。並びの席を確保した。
 
「搾乳しているの、千里ちゃんね?」
と機内で保志絵は尋ねた。
 
「はい、と言いたい所ですが、あり得ないですよ。私そもそも男の娘だからおっぱい出る訳無いし、私京平が産まれた後、ずっと海外合宿したり、海外の大会とかに出てましたよ。貴司さんのマンションに来られる訳ありません」
と千里は言う。
 
「いや、千里ちゃんなら、そのくらい何とかする」
と保志絵。
「じゃ、そういうことにしておいてもいいですよ」
と千里は微笑んで答えた。
 
「それにこうしていると分かる。千里ちゃん、おっぱいの臭いがする」
「ああ、このせいかなあ」
 
と言って千里はブラの中から母乳パッドを取り出した。
 
「臭いがあまりしないようにこまめに交換しているつもりなんですけどねー。臭いに敏感な人には分かることもあるみたい」
 
「やはりお乳が出るんだ?」
「まさか」
 
保志絵は吹き出した。
 
「どうかしました?」
「千里ちゃんって昔からこうだったなあと思って」
「こうと言うと?」
 
「『本当のこと』と『常識的なこと』を微妙に取り混ぜて理論的にギリギリ破綻しないように話すんだよね」
 
「科学的合理主義の世の中に迎合しているだけです」
「うん。そのあたりの匙加減が千里ちゃんは面白い」
 
と言ってから保志絵は訊く。
 

「千里ちゃんは、今でも私のお嫁さんということでいいのかしら?」
「そのつもりですよ」
と言って千里は自分の携帯に付けている金色のリングのストラップを保志絵に見せた。
 
「私と貴司さんは最低でも月に1回は会っています。私は東京の妻、阿倍子さんは大阪の妻という感覚なんじゃないかな、貴司さんとしては」
「なるほど、そういう状況か」
「京平を作った精子は私が出してあげたんですよ」
「へ?」
「あの人、ひとりでは出せないらしいんですね。ですから人工授精をする日は必ず会っていました。京平は私と貴司さんと阿倍子さん、3人の子供のようなものなんですよ」
 
「自分の息子ながら信じがたい」
 
「最初に会ったのは貴司さんが阿倍子さんと結婚して1ヶ月ちょっとの頃かな。もっとも貴司さんが婚約してから結婚するまでの間にも10回くらいデートしてますけどね。結婚式の半月くらい前にも帝国ホテルのスイートルームで一晩一緒に過ごしましたよ」
と千里は結構自分に都合のいいような言い方をする(嘘はついていない)。
 
「犯罪者として告訴したいレベルだ」
と保志絵さん。
 
「まあそういう女に対する無節操さまで含めて私は貴司さんを好きになったんでしょうけどね」
 
「だったら、私はやはり千里ちゃんをお嫁さんだと思っておくよ」
「ありがとうございます」
「エンゲージリング、返そうか?」
と保志絵は言うが
「それ、もらう時は再度貴司さんからもらいます」
と千里が言うと
「うん。それがいいね」
と言って保志絵も微笑んでいた。
 
「多分ですね」
「うん」
「5年後くらいにもらえそうな気がするんですよね〜」
「へー!」
 

羽田で旭川行きに乗り継ぐ保志絵と別れて、千里は到着ゲートを出て京急のほうに行く。するとそこに桃香から着信がある。
 
「おはよう。どうしたの?」
「千里、そちらは今、朝なのか?」
「機内で寝てたし」
「どこ行ってたんだっけ?」
「アンティグア・バーブータ」
「四国かと思っていた」
 
「でも桃香何かあったの?」
「いや、実はミラをぶつけてしまって」
「怪我は無かった?」
「うん。私も青葉も無傷」
「ああ、青葉と一緒なんだ?」
「そうそう。買物に行っていたんだよ」
 
「でもどこにぶつけたの?」
「縁石なんだけど、派手にぶつけたから車が動かなくて」
「JAF呼んだ?」
「実はJAFの会員期限が切れてる。千里の会員証の番号教えてくれない?それで処理したい。青葉もまだJAFには加入していないと言うし」
 

2日前。
 
千里が四国で社会人選手権を戦っていた10月31日(土)、青葉は朝から新幹線で東京に向かった。冬子から緊急に呼び出しがあったのである。
 
「実はダブルの音源を作り直したいんだよ」
と冬子は言ったのである。実際には作り直すべきだと言ったのはどうも政子の方であったようだ。
 
「この曲を前回制作した時に凄く違和感があったのよね。この曲はこういう曲ではないはずと思っていた」
 
と政子は言う。この曲の歌詞を書いた時、政子の頭の中にあったのは、優しいヴァイオリンやフルートの音だったのにできあがったのは、ばりばりに電気楽器を使った曲だった。ただ、あの時は政子もあまりそれを言えなかったのだという。しかし10月末になって既に完成していた『The City』の曲目ラインナップに唐突に美しいアコスティック・サウンドの『灯海』を作って差し替えた時、政子は『ダブル』もこうすべきだと主張。冬子もそれを受け入れ、「他にも差し替えるんですか!?」と困惑する★★レコード側を説得して、録り直すことにしたのであった。
 
その日のお昼過ぎ、スタジオに入った青葉は参加者のメンツを見て、凄い!と思った。前回とは楽器のラインナップが一新されていた。
 
アコスティックギター:近藤&宮本、ウッドベース:鷹野&酒向、ピアノ:古城美野里&ケイ、オルガン:山森夏樹&川原夢美、マリンバ:月丘&野乃干鶴子(線香花火)、フルート:秋乃風花&今田七美花、ヴァイオリン:蘭若アスカ&鈴木真知子、サックス:七星&青葉。
 
電気を使用している楽器はオルガンだけである。山森さんはスタジオのYAMAHA STAGEAだが、川原さんは自己所有のドイツ製バロックオルガンを持ち込んでいる。国内に恐らく他には存在しないのではと彼女は言っていたが、本当に珍しい楽器である。STAGEAは電子楽器だが、川原さんのオルガンは送風部分だけ電気で動く「電動楽器」である(エレキギターなどは電気で音を増幅する「電気楽器」)。山森さんが「これ本当にいいね。私も欲しい」などと言っていた。
 
「なんか世界一の人が3〜4人入っている気がするんですが」
と青葉が言ったが
 
「まあ豪華だよね。演奏料を100万円渡すべき人が5人いるし」
などと言って七星さんが笑っていた。実際には川原さんも蘭若さんも古城さんもケイの親友ということで1日5万円で出てきてくれているらしい。
 
「ここに集まっている楽器もかなり高額な気がする」
と本人も高そうな総銀製のフルートを持っている七美花ちゃんが言っていたが
 
「いや、値段のこと言うと、アスカ先生の持ってるヴァイオリンが5億円だからそれで他の楽器はどうでもよくなる」
と真知子ちゃんが言っていた。真知子ちゃんも今日はふだんケイが使用している6000万円の古楽器(青葉の推測ではガルネリの奥さんか弟子の作品)を使っている。
 

アレンジが大胆に変更されており、かなりのシンコペーションが入るが、ケイの「弾き振り」でテンポが管理される。
 
これを多重録音もツギハギもせずに、一発録りをしようというケイの方針に、演奏者は神経を研ぎ澄ます。演奏者の数は多いものの、みんな一流の人達だけに数回のトライできれいにまとまったように見えた。しかし録音を聴いていたケイも七星さんもアスカさんも
 
「ここの所が良くないね」
「うん。ここはちょっとスコア直そう」
 
などと言って、妥協せずに楽曲を調整していく。
 
そういう調整作業はその日いっぱいと翌日午前中まで続き、日曜日のお昼を食べた後、再度みんな集中を高めて5回録音。この中で比較検討して一番良いものを使うということにした。
 
そういう訳で一応この録音自体は何とか11月1日(日)の夕方までに終了したのであった。
 

青葉は昨日はスタジオでの作業がかなり遅くまで掛かったこともあり(本当は高校生を深夜まで使ってはいけないのだが、青葉にしても七美花にしても真知子にしても、そもそも高校生であることを忘れられている)ホテルに泊まったのだが、この日は夕方で終わったので、そのまま高岡に戻ろうと思ったものの、取り敢えず、その旨桃香に電話した。
 
すると桃香が
「仕事終わったの?だったら、こちらに来てよ。お腹空いた」
などと言う。
 
へ?
 
「千里が最近忙しいみたいでさ。この週末も四国にバスケの試合で行ってるんだよ。最近千里、冷凍ストックを作る時間もないみたいで、千里が居ないと、私はカップ麺とコンビニ弁当で命を繋がねばならん」
 
要するに青葉に御飯を作って欲しいということのようである!
 
しかし桃姉、自分で御飯を作るという選択肢は??
 

そういう訳で、今日中に高岡に戻ることは諦めて(結果的に明日11月2日は学校を休むことになるが、実際には3日が祝日であるため2日を休む生徒も割と居る)、経堂の桃香の所へ移動した。経堂の駅を降りた所でOdakyu OXで買物をしてからアパートに入った。
 
「桃姉、ちー姉がお嫁に行っちゃったら、どうすんのさ?」
と青葉は晩御飯を作りながら言う。
 
「そんなの絶対阻止」
と言ってから、桃香は少し小さい声で青葉に訊く。
 
「千里は、細川さんとは結局、どうなってんだっけ?」
「私もよく分からないんだけどね〜」
と青葉は前提を置いてから言う。
「まあ、不倫で慰謝料請求されない程度に付き合っているんじゃないかなあ」
「なるほどねー、でもセックスはしてるんだろ?」
「たぶんしてないと思う」
と青葉が言うと
 
「セックスせずにどう付き合う?」
などと桃香は言う。
 
桃姉も恋愛観が壊れているよなあと思いつつも
「まあ、お話したり、お茶飲んだりじゃないの?」
と青葉は言った。
 
「そんなので満足できるもん?」
「細川さんは満足できないだろうけどね」
と言いながら青葉は苦笑したが、少し小さな声で言った。
 
「ここだけの話さ、桃姉」
「うん?」
「私もそうだけど、ちー姉もそうだと思うんだよね。やはり睾丸を取ったことで性欲が100分の1になった感じなんだよね」
 
「うむむむ」
と言って桃香は腕を組んで考えていた。
 

翌日、青葉は午前中千里の机を借りて受験勉強をしていたのだが、お昼近くまで寝ていた桃香が「青葉がいる内に食料の冷凍ストックを作って欲しい」などと言い出したので、14時すぎ、桃香の運転で大型スーパーまで行くことにした。
 
「でも桃姉も少し料理覚えたほうがいいと思うよ」
と青葉は言う。
 
「しかし千里は私に『何もしなくていい。座ってて』と言う」
「あぁ」
 
料理センスの無い人に手伝われると、邪魔なだけだからなあ。
 
「取り敢えず単身赴任の男性向けの料理の入門書とか見るといいかも」
「見たことあるけど、悩むのがさ」
「うん?」
「調味料の分量で『少々』とか『適量』とあるのがさっぱり分からん」
「なるほどー」
「何グラムとか書いてあれば、それで計って入れるのに」
 
「あれ、逆に細かい数字が書いてあると分からないと言う人もあるんだよね」
「千里がそれみたいだ。これ○グラムとか書いてあるよと言っても、そんなの適当でいいんだよと言って計りもせずに、スプーンの先にちょっと取って放り込んだりしている」
 
「わりと料理の得意な人はそれやる傾向が多いんだよね。きちんと計らないと気が済まないのは、お菓子作りの好きな人に多い」
 
「へー」
「桃姉、お菓子作りやってみたら? クッキーとかパウンドケーキとか作ってみるといいと思う。お菓子作りの本ならきちんと何グラムとか書いてあるよ」
 
「なるほどー。しかし私はクッキー焼いて好きな人にあげるとか、そういう乙女みたいなのは趣味じゃ無いし」
 
「別にプレゼントしなくても自分で食べればいいと思うよ」
「でも私は甘いものよりお酒だし」
 
「なんか道は遠いなあ」
 

そんなことを言いながらも、桃香は青葉の買うものの「荷物持ち」をしてくれて、山のような食材をミラに積んで帰途に就く。
 
ところがその帰り道、乱暴に割り込んできた車に焦った桃香がハンドルを切りすぎて車を縁石にぶつけてしまい、動かなくなってしまったのである。それでJAFの会費がもったいないと言って2年前から更新をサボっていた桃香は千里の会員番号を借りようと、千里に電話をしたのであった。
 

「ちょっと青葉と替わって」
と千里が言うので、桃香は電話を青葉に預ける。
 
「ちー姉、お疲れ様」
と青葉が言うと、千里は
「海坊主さんと替わって」
と言う。
 
青葉はうーん・・・何でちー姉は海坊主なんて名前を知ってんだ?と思ったものの、海坊主のいる場所付近に携帯を掲げる。桃香が何やってんだ?という感じで見ている。
 
千里の側では《こうちゃん》が海坊主に語りかける。
 
『やあ、どういう状況?』
『フェンダーが曲がっちまって。何か工具があれば取り敢えず動くようにはできると思うんだけど、この車、何にも載ってないみたいで』
『俺も力貸すから、一緒に引っ張らないか?』
『あんた、かなり力ありそうだな』
 
(青葉には海坊主の声しか聞こえていない)
 
それで青葉は海坊主に言われて軍手をはめて曲がっているフェンダーの所に手を掛ける。桃香に携帯を持っていてもらう。桃香は何も無い中空に携帯を掲げていてと言われて訳が分からない顔をしている。
 
『行くぞ。せーの』
と海坊主が声を掛けて、青葉がフェンダーを引っ張る。実際には力を出しているのは青葉の眷属《海坊主》と、千里の眷属《こうちゃん》である。
 
『おっ、動いた。もう少しだ』
『じゃ、もう一度。せーの』
 
それで再度引っ張る。
 
『おお、これで何とかなりそうだ』
 
青葉のそばでは桃香がびっくりしたような顔をしている。
 
「青葉、なんつー怪力!」
「ちー姉(の多分眷属さん)のおかげだよ」
「でも千里は電話の向こうにいるのに」
「でも電話の向こうのコンピュータはこちらからの指令で動くよ」
「青葉や千里はネットワーク・コンピュータか?」
「ああ、それに近いものがあるかも」
 

青葉がストック用にシチューとか、唐揚げとかを作ろうと下ごしらえをしている内に千里も帰宅した。
 
「駐車場見てきたけど、あれは簡単に直せるよ。休み明けにでも車屋さんに持ち込んで直してもらうから」
と千里は言う。
 
「修理代どのくらい?」
「3万くらいでしょ」
「高い」
「そのくらいで済めば充分だと思うけどな」
「そもそもあの車、3万で買ったのでは?」
 
「まあ、そうだけどね。でもここまで修理代は30万くらい使ってるね」
と千里。
「ごめーん。それ大半が私のせいだ」
と桃香。
 
「まあ怪我しなければいいよ」
と千里は言った。
 

その夜は部屋の真ん中にパーティションを置き、奥側に千里と桃香、手前側に青葉が寝たものの、青葉は聞こえてくる「物音」に閉口する。もう。桃姉たちも、私を泊める時は少し控えるとかは考えないの〜? などと思うものの、これはさっさと眠ってしまうに限ると思い、青葉は無理矢理自分を深い睡眠に誘導した。
 
しかしその晩は実は千里の方が積極的に桃香を誘っていた。今日大阪で京平を抱いてきて、そして保志絵さんと話してきて、心の中にいろいろな感情が吹き荒れていて、それをどこかにぶつけたかったのである。桃香も千里に「今日は何かあったのか?」などと小声で言いながら千里の求めに応じていた。
 
この日千里は桃香と3回もした所で深い眠りに落ちていった。
 

2013年9月。新婚わずか1ヶ月半の貴司とホテルで密会した千里は貴司から「子作り」への協力を求められ了承した。
 
しかしどうもすっきりしない気分である。結局自分は貴司の性欲処理係?などと思って、少し悶々とした気分だった時、千里は本屋さんで大学の友人・美緒に遭遇した。取り敢えず近くのプロントに入って話す。
 
「千里、なんか沈んでるね。失恋でもした?」
「そうだね。ずっと好きだった彼が先月結婚した」
「ふーん。でも千里には桃香がいるじゃん」
「桃香とはただの友だちだよ」
「あんた、最初からそういう見解だったね」
「私の恋愛対象は男性だもん」
 
「それでその彼のことずっと好きだったんだ?」
「うん。でも先週、その彼と密会した」
「新婚なのに!?」
とさすがの美緒も驚いている。
 
「男の子って性的に到達できたら、奥さんでもそうでなくても構わないのかなあ」
「ああ、男ってそういうもんだよ。男はね、ちんちんの付属物なんだよ」
「なるほどー」
「千里の場合は、ちんちんに隷属していたのを独立して自由になったんだな」
「あ、確かに私、ちんちんのせいで苦しんだもん」
「自由になれて良かったね」
 
「でも私、彼と毎月会って射精に協力する約束しちゃった」
「なんて大胆な」
「私って、あいつの愛人になったも同然かなあ。これまであいつの奥さんのつもりだったのに」
 
美緒は少し考えていたが言った。
「妻と妾とか、正妻と愛人とか、正室と側室とか、そういうのは西洋文明に毒された考えだと思う」
 
「ほほお」
「平安時代の通い婚というのが、やはり日本の基本的な恋愛の形なんだよ」
「ふむふむ」
「男はたくさん妻を作る。その時、誰が正妻でだれが愛人かなんて考えはない。みんな自分の妻なんだよ」
「ああ、わりと男って自分の好きになった女は全部自分のものと思ってるよね」
 
「そうそう。それで結果的には、跡継ぎになるような男の子を産んだ妻と、天皇に差し上げられるような女の子を産んだ妻が特に大事にされる。男女両方を産んでいると理想的」
「なるほどー」
「要するに産んだものの勝ちだな」
「うーん・・・」
「その点、千里は子供を産めないのは圧倒的に不利だから、まあ法的に結婚してもらえなかったのは、とりあえず仕方ないと開き直ればいい。毎月会ってHなことすることを約束したということは、今でも千里はその彼の奥さんなんだよ」
 
「あ、そうなるのかな・・・」
「これまでもずっと彼としてたんでしょ?」
「何百回とセックスしてる。実は彼とはもう10年半付き合ってきたんだよ」
「それは凄い!」
と美緒は言った上で、千里に言った。
 
「だったら千里とその彼の関係は今までと何も変わらない。千里、もっと自信を持って、その彼との関係を続けなよ」
 
恐らく元々男女関係に関する観念が崩壊しているに近い美緒でなければ、こんなとんでもないアドバイスはしなかったろう。
 
「私も、奥さんのいる男2人と今付き合ってるよ」
「相変わらず凄いね!」
 
「奥さんから訴えられたらその時だけどさ。でも、千里の話を聞いていると、それむしろ千里のほうがその結婚した女を訴えられるくらい、千里の方が正当な妻だという気がするよ」
 
「私、美緒と話して良かった」
「まあ、私はふしだらな女だと言われるのには慣れてるし」
「私も不道徳な女だと言われても気にしなければいいんだね」
「そうそう。一妻一夫制なんて、明治以降に唐突に出てきた考え方に過ぎない。伝統的な日本人の男女関係を続ければいい」
「なんかそれ凄いかも」
「それで男の態度でストレス感じたらさ、何かでぱーっとすることしてストレス解消すればいいんだよ」
「ぱーっとすることか」
 
「私は海外旅行とか行ってくると結構気が晴れるけどね。千里パスポートは持ってる?」
「持ってたけど、この5月で期限が切れちゃった」
「でも前のパスポートは男だったんでしょ? せっかく女になったんだから、再度女のパスポートを取ればいいんだよ。それでラスベガスとかに行ってカジノでもしてくるとか」
「そんなにお金無いよ!」
 

確かに旅行とか行ってくるのもいいかも知れないなあと思って道を歩いていた時、千里は中古車屋さんに目を留めた。中でも千里の目を引いたのは「30,000」と書かれた紙の貼られた赤いミラである。
 
千里が立ち止まってその車を見ていたら、スタッフの人が寄ってきた。
 
「中に入って、よく見られませんか?」
「あ、そうですね」
 
この時期千里は全てに関して自信を失っていたことから、運転についても自信を喪失ぎみであった。昨年7月の婚約破棄以来、愛車のインプもほとんど運転していない。しかしこの時は、こんな小さな車なら動かせるかもという気がしたのであった。
 
「ちょっと型式が古いのでこのお値段なんですよ。車自体はそんなに傷んでいませんよ」
「確かに凹みとかはそう多くないですね」
「ええ。フレームに響くような傷はありません」
 
「距離はどのくらい走っています?」
「どのくらいかな。ちょっと待って下さい」
と言ってスタッフさんはそのミラの鍵を持って来てくれた。
 
スイッチを入れるとオドメーターに 223606 という数字が表示された。
 
「すごーい。ルート5だ」
「え?」
「√5=2.2360679 富士山麓オーム鳴く、ですよ」
「ああ、そんなの習いましたね。何でしたらちょっと試乗してみられます?」
「してみます!」
 
それで千里が運転席に座り、スタッフさんが後部座席に乗って、お店の近くを周回する。スタッフさんは
 
「お嬢さん、凄い運転うまいですね」
と感心する。千里はここで褒められたことで、また自信を少しだけ回復した。
 
「この車気に入っちゃった。買います」
「じゃ事務所の方で手続きしますね」
 
それで千里はこのミラを衝動買いしてしまったのである!
 

千里がミラを購入して諸手続きが終わり、車を受け取ったのは10月5日(土)であった。千里はミラを買ってから受け取るまでの間に、これで高速を走りまくってこようと考えていた。
 
まずは郊外のスーパーに行って食料などをたくさん買い込み、布団と毛布にサンシェードも積んだ上で6日(日)に出発する。まずは東北道をひた走って青森まで行き、浅虫温泉に泊まった(770km).
 
ミラは何と言ってもスピードが出ない!高速では左側の走行車線や登坂車線をひたすら走る。後ろから煽られても焦らない。焦ってもしょうがない。ハイビームで照らされても、罵声を浴びせられても気にしない。どっちみち最大頑張っても100km/hしか出ないし、坂道では80km/hとかどうかすると60km/h以下まで落ちることもあるが、ただマイペースで走るだけである。
 
千里はこの走行で「厚かましく生きる姿勢」を心の中に確立していった。
 
またミラは給油タンクが小さい。インプなどと違ってかなりこまめに給油する必要もある(これはやばいと認識して途中でガソリンの携行缶と給油ポンプを購入してGSでそちらも満タンにしてもらった)。千里は早め早めに手を打つことの必要性も再認識していった。
 
貴司が阿倍子に入れあげていっていたのは実は知ってはいた。しかし当時なぜか自分はそれに介入しなかった。結果的に手痛いダメージを食らうことになった。早めに手を打っておけば、こういう目には遭っていなかったかも知れないという気持ちはあった。
 
千里は浅虫のひなびた温泉宿で温泉につかりながら、その日の走行を振り返ってそんなことを考えていた。
 
しかし千里がこの旅で旅館に泊まったのはこの1日だけであった。
 

7日(月)には、早朝から東北道を南下、郡山JCTから磐越道に入り新潟PAで車中泊(620km)。8日(火)は新潟中央IC/JCTから北陸道を南下して長岡JCTから関越に入る。
 
千里はこの時はこのまま東京に戻るつもりだったのだが、走っている内に気が変わる。藤岡JCTで上信越道に行き、更埴JCTから長野道を南下、みどり湖PAで車中泊(410km).
 
9日(水)は岡谷JCTから中央道名古屋方面に乗り、東海環状道・伊勢湾岸道・東名阪道・伊勢道と通り、夕方、伊勢の神宮に外宮→内宮と参拝してから、二見ヶ浦でカエルさんたちと戯れ、瀧原宮・瀧原竝宮前の道の駅で車中泊(350km).
 
10月10日(木)の日出と共にその瀧原宮・瀧原竝宮に参拝して、すがすがしい空気の中で千里は心の平穏をかなり取り戻した。
 
その後、紀伊半島の沿岸を半日走り続けて和歌山の加太で夕日を見る(310km). そして夜間に阪和道・近畿道・(阪神高速)と走って明石海峡大橋を越え、道の駅あわじで車中泊する(160km)。この道の駅は実は貴司との思い出の場所である。
 
11日(金)は大鳴門橋を越えて四国に渡った後、高松自動車道から瀬戸大橋で岡山に戻る。そのまま山陽道を西端まで走り、山口JCTから中国道に合流して壇ノ浦PAで車中泊(530km).
 
12日(土)は関門橋を渡った後、九州道を南下、えびのJCTから宮崎道に分岐して宮崎まで行き、青島まで到達する(380km)。実質、清武PAで車中泊したのだが高校時代に来た時と同様に、早朝島の手前まで来て夜明けを待った。
 
13日(日)は日出とともに青島神社に参拝した後、九州東岸を北上。大分の佐賀関(ここまで200km)から国道フェリーに乗って愛媛県の三崎へ。ここから愛媛県内を走り、しまなみ海道を走って大三島へ(三崎から200km).
 
14日(月)は大山祇神社横の道の駅で車中泊。朝から大三島神社に参拝した後、しまなみ海道に再度乗って本州に戻り、山陽道・岡山道・中国道・名神・北陸道と走って徳光PAで車中泊(630km).
 
15日(火)は白山スーパー林道で白川郷に抜け(ここまで70km)、東海北陸道を一宮JCTまで南下してから名神・東名・首都高・京葉道路と走って深夜0時過ぎに千葉市に帰還した(白川郷から560km).
 
合計5190kmの旅である。実際のミラのトリップメーターは5260kmを示していて千里は「逆から読めば貴司の誕生日(6月25日)だ」と思った。
 

2013年10月16日の夜中1時過ぎ、千里がアパートの前にミラを駐め、部屋の前まで行くと、桃香が起きてきて千里が鍵で開ける前に、ドアを開けてくれた。千里は桃香に
「ただいま、桃香」
と言って抱きつき、キスをした。
 
「ちょっとちょっと。ドアを閉めてから」
と言って慌てて桃香が千里を中に入れてドアを閉める。あらためて抱き合って深いキスをする。
 
「千里、どこ行ってたの?」
「あちこち」
 
と言って千里はお土産をミラから運び出す。
 
「南部煎餅、津軽産の紅玉、干し菊、かもめの玉子、萩の月、新潟のえご、信玄餅、ゆかり煎餅、紀州の梅、徳島ラーメン、讃岐うどん、岡山のきびだんご、豆子郎のういろう、筑紫餅、博多ラーメン、かるかん、薩摩揚げ、じゃこ天、愛媛ミカン、赤福、中田屋のきんつば、ます寿司、高山ラーメン、ひるがの高原サービスエリアで買ったアイス、ドライアイス入れてもらったから大丈夫と思う。最後に買ったまま食べてなかったロッテリアのリブサンド」
 
「ほんとにあっちこち行ってきたね!」
と言ってから
「お酒とか無いの?」
と訊く。
 
「ごめーん。自分があまり飲まないもんだから」
「私は左党だ」
「じゃ、また次日本縦断することがあったら」
 
「この車は?」
「買った」
「いくら?」
「3万円」
「安い!」
「そういうの好きでしょ?」
「大好き」
「今夜はHしようよ」
「おお、そういうのは好きだ」
「たまには私に男役させて」
「え〜〜!?」
 
もっとも千里は男役としてはあまりに下手くそだったので
「そんなんじゃダメだ。男はクビ。女になれ」
と言われて2回戦以降はいつものように桃香が男役を務めた。
 

2012年春に千里が千葉ローキューツを退団したのには幾つかの理由があった。2012年1月にオールジャパン出場、3月の全日本クラブ選手権では優勝して、花道にすることができたこと。貴司との結婚を決めて、結婚準備のため忙しくなることが予想されたこと。
 
しかし実は最も大きな理由はキャプテンにされないためであった!
 
当時キャプテンの浩子は就活のため退団する意志を示していたし、麻依子はちょうど結婚したばかりで、しばらく新婚生活を楽しみたいと言っていた。そうなると自分が残っていたら、間違いなくキャプテンをやれと言われそうだったので「私も結婚するから辞める」と言って辞めてしまったのである。
 
もっとも、その一方で千里は日本代表候補に招集されてしまい、そちらが忙しくて実際には結婚準備など、ほとんどできなかったのだが。
 
千里は2012年夏に日本代表の活動から離れた後は、年末くらいまではマジで性転換手術後の身体を休めていたし、また貴司に振られたショックもあり、更に進学することにした大学院の入試の勉強に追われて、バスケ活動は何もしていなかったのだが、12月22日の「結婚記念日」に貴司と再会して和解(?)したこともあって年明けくらいからは個人的にバスケの練習を再開していた。
 

千里がミラを買って日本縦断してきてから少しした頃、千里は江戸娘の創立者秋葉夕子とバッタリ遭遇する。
 
取り敢えずお茶でもと言ってドトールに入り
「最近何してんの?」
などと言っていたら、夕子も実は江戸娘を退団していたことを知る。
 
「でもバスケしてないと、何だか体調悪くてさ」
「あ、私もそう思って最近、個人的に練習してたのよ」
「誰と練習してるの?」
「今ひとりなんだよね〜。何なら一緒に少し汗流さない?練習パートナーが欲しいと思ってた」
「それもいいねー」
 
当時、千里は江東区の公共体育館を木曜日の夕方だけ借りていた。そこに夕子が加わる形になり、ふたりは毎週木曜の夕方にこの体育館に行って一緒に練習するようになった。
 
そしてそこに2013年2月に子供を産んで、そろそろバスケ活動を再開したいと思っていたという麻依子が加わり、東京の大学院に進学して以来、バスケをする環境が無くなって悶々としていたという中嶋橘花が加わり、橘花が更にTS大学時代のチームメイト橋田桂華を誘い、また所属していた実業団のチームの上層部と対立して退団したという竹宮星乃が加わりといった感じで、この木曜日の練習仲間が増殖していったのである。やがて練習日は火曜日にも設定され、しばらくは火曜・木曜の週2日間が千里たちの練習日となった。
 
(翌年4月からは土曜日も練習日に加えられた。このあたりは元々千里と知り合いであった立川館長の好意で、空いた時間帯を優先的にこちらに回してくれたのである)
 

「なんかこれだけ人数がいたらチームが作れそうだ」
「じゃチーム名決めようよ」
「40 minutes」
と提案したのは麻依子であった。
 
「バスケットの試合が40分だから?」
「1日40分練習すればいいよ、という気楽なチームを目指す」
「あ、それもいいね」
「うん。頑張って全国優勝するぞ!とか張り切るのもいいけど、のんびりと気楽にバスケを楽しむというのもいいよね」
 
「じゃマークは40分までしかない時計で」
と言ったのは星乃だった。
 
「よし、ユニフォーム作ろう」
と千里は言い出した。
 
「え〜〜!?」
「今参加しているメンツの分は私がお金出すよ。背番号の希望は早い者勝ち」
と千里。
 
「早い者勝ちなら、私はマイケル・ジョーダンの23」
と橘花。
「じゃ私はシャキール・オニールの34」
と夕子。
「だったら私はマイケル・クーパーの21」
と星乃。
「私は一度付けてみたいと思ってた1番かな」
と麻依子。
「じゃ私は・・・」
と千里が言いかけると
「千里は33だ」
と星乃が言う。
 
「なんで?」
「平成3年3月3日生まれの3P女王で、コートネームもサンだから、33が最も千里にふさわしい番号だ」
と星乃。
「じゃそれで」
と麻依子が言い、千里の背番号は勝手に決められてしまった!
 
「でも千里、そんなにお金あるんだっけ?」
「いや、去年私結婚を目前に婚約破棄されたからさ。結納金が手付かずで残ってるんだよね。向こうのお母さんは返却不要と言った。あいつこの8月に結婚したからこちらは破談確定。だからそれを使っちゃう」
 
千里が貴司に婚約破棄された問題では、麻依子や橘花など古くからふたりの交際を知っていた面々も心配していた。
 
「いいの?」
と夕子が心配する。
 
「うん。婚約破棄記念で。私は恋よりバスケに生きる女だよ」
「バスケの試合中に10万人の観客の前で細川君とキスした女がよく言うよ」
と橘花。
 
橘花も10万人にしてるし!
 
「よし。そういうのは、ぱーっと使ってしまおう」
と星乃も言い、それで40 minutesのユニフォーム(ホーム用・ビジター用)はいきなりどーんと50組も作ってしまったのであった。デザイン画を描いたのも提案者の星乃である。
 
(名前は在籍中のメンバーは注文時に入れてもらい、後で加入したメンバーの分は橘花が手作業で同じ書体のレタリング文字をパソコンで作って入れてくれた)
 

「ところでここだけの話。千里、婚約破棄されても、細川さんといまだに付き合ってるだろ?」
と麻依子が言った。
 
練習中に千里に掛かってきた電話などを聞いていれば、そのあたりは想像がつくところだろう。
 
「ここだけの話って、こんなにたくさん聞いてるのに!」
と千里は言う。
 
「大丈夫。私は口が硬い。親友以外には話さない」
と橘花。
「私は人の秘密を無闇にもらしたりしないよ。仲間内だけに留めておく」
と夕子。
「私は放送局の異名がある」
と星乃。
 
「ちょっと待て」
 

このチームは2014年4月に東京都クラブバスケット連盟に登録することになり、千里や麻依子を含む、引退扱いになっていた参加者たちも全員正式に現役復帰することになる。
 
(千里は三木エレンには「引退は許さない」と言っておいて自分は1年間引退状態にあったのである)
 

2015年11月3日(祝)の早朝4時頃、千里は目を覚ました時、まるでここ3年くらい自分の心を覆っていた霧が晴れていくような感覚を覚えた。
 
社会人選手権で準優勝して2012年以来3度目のオールジャパン出場を決めた。その帰り道、貴司のマンションで保志絵と遭遇するという面白い体験をして、貴司の正当な妻としての自覚を取り戻したし、京平の母としての自覚も再認識した。
 
今回は貴司本人とは会ってないけど!
 
昨夜、自分の2年前の出来事をリプレイするかのような夢を見たのは、きっと自分の心を再度整理するためだったのだろう。
 
その感覚の中で千里は詩を書いていった。
 
桃香は熟睡している。青葉もまだ寝ているようだ。
 
使っているのはここしばらく愛用しているU21世界選手権で3P女王を取ってもらったパーカー製銀色の万年筆である。
 
1時間ほど掛けて詩を書き上げると、自然にメロディーも浮かんできた。千里は五線紙を取り出すと、そのメロディーを書き綴っていく。所々ギターコードも記入し、ここはこういう伴奏という所は伴奏パターンも書き添えておく。
 
7時頃、青葉が起きてこちらの様子をうかがっている雰囲気なので
「青葉、朝御飯にしようか」
と声を掛けて千里は立ち上がった。
 
青葉は千里が《左手薬指》に大粒の上品なアクアマリンが輝くプラチナリングをつけているのを見てドキッとした。これ、誰からもらった指輪だろう?絶対桃姉の趣味じゃない、と思う。値段は多分60-70万円はする。エンゲージリングとしても使えるレベルの品だ。しかし青葉は訊いた。
 
「ちー姉、何してたの?」
「これ書いてた」
と言って千里は書き上げた曲を見せる。
 
青葉は譜面と歌詞を見ている。
 
「すっごい曲だ。タイトルは?」
「『門出』かな」
 
「ちー姉、心の迷いが晴れたみたい」
「青葉」
「はい」
「自分の大事な人はしっかりキープしとけよ。油断すると取られるぞ」
 
青葉は数秒考えて「うん」と頷いた。
 
「だから今日は千葉に行って彪志君とデートしてきなよ」
「え〜!?」
「青葉は彪志君を放置しすぎていると心配していた」
 
青葉は少し考えてから
「そうしようかな」
と言った。
 
「コンちゃん持ってる?」
「一応2個はナプキン入れに入れてるけど」
「1箱持って行きなよ」
と言って千里は居室の机の引き出しから1個取り出して渡す。
 
「ありがとう」
と言って青葉は素直に受け取った。
 
「でもちー姉、この曲、誰に歌ってもらうの?」
「そうだなあ。これ鴨乃清見の名前で出したいのよね。でも大西典香が引退しちゃったから、こんな曲歌える人がいない。困ったな。津島瑤子とか花野子(ゴールデンシックスのカノン)の歌唱力ではちょっと歌えないし、龍虎(アクア)は問題外だし」
 
と千里は悩んでいる。
 
「そうだ。青葉、歌手デビューしない? 大学進学なんかやめて」
と千里が言うと
 
「遠慮する」
と青葉は言った上で
「冬子さんなら歌えるよ」
と言う。
 
「なるほどー。よし、ローズ+リリー用に編曲しよう」
と千里は笑顔で言った。
 
この楽曲はこのあと千里がCubaseに打ち込んで11月12日の夕方、自ら冬子のマンションを訪れ「良かったらこれ歌って」と言って手渡すことになる。
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【春始】(3)