【春対】(上)

前頁次頁目次


 
2015年11月3日(祝)。
 
東京に来ていた青葉は千里に煽られて彪志に会いに行くことにした。
 
「自分が男の娘だったということをいつまでも引きずっていたらダメだよ。もっと自信を持たなくちゃ。彪志君は、青葉はふつうの女の子だと思っているよ。今みたいな青葉の態度なら、彪志君の方が青葉との交際に疲れてしまうよ」
千里は青葉にそう言った。
 
「そうだなあ。じゃデートして来ようかな」
と青葉も少しその気になる。
 
しかし千里は青葉が彪志に連絡を取ろうとすると停めて
「びっくりさせるといいよ」
と言い、
「今日1日アテンザ貸してあげるから、ドライブデートしておいで」
と言ってアテンザのスペアキーを渡した。
 
「ETCは好きに使って。デートが終わったら都内のどこかの駅の近くのTimesの駐車場にでも乗り捨てておいて。場所だけGPS付きのメールをしてもらったら、回収するから。キーはそのまま持ってていい」
と千里は言う。
 
「でもちー姉、この車お友達から借りているものなんでしょ?又貸ししていいの?」
と敢えて訊いてみる。
 
「ああ、平気平気。オーナーは青葉も知っている人だから。青葉なら文句言わないよ」
と千里は言った。
 
青葉が考えるようにすると千里はひとこと悪戯っぽい笑みで付け加えた。「但し勝手にダッシュボードの中の車検証は見ないこと」
 
青葉は腕を組んで千里を見た。
 

朝御飯を千里とふたりで食べた後(桃香は熟睡している。休日に桃香が起きるのは昼近いことが多い)、千里から
 
「カーナビセットしといたから、そこに向かって行けば彪志君に会えるよ」
 
と言われて、青葉は若葉マークを前後に貼ったアテンザを発進させた。車は首都高に乗り、やがて首都高湾岸線を走る。そして浦安ICで降りる指示が出るので降りる。やや走った所で1軒のコンビニの前で「目的地に到着しました」という案内が流れるので青葉は大いに戸惑う。
 
いったいここに何があるんだ?と思って取り敢えずそのコンビニの駐車場に入れて、車を降りてみた。その時、コンビニの出入口から出てくる男女の姿があった。
 

その日の朝、彪志は従妹の愛奈からの電話で起こされた。
 
「久しぶり〜。どうしたの?」
 
子供の頃は屈託なく遊んだ仲ではあるが、この年齢になると従妹とはいえ女の子との会話にはつい緊張してしまう。
 
「実はね、東京ディズニーランドのペア招待券もらって友だちと2人で行こうと思って東京に出てきたんだけどさ、その友だちにドタキャンされちゃって1人分浮いちゃったのよ。それで彪志君、付き合ってくれない?」
 
「えー?そんなの**ちゃんとかは?」
「彼氏とのデートがあると言って断られた」
「俺もデートあるんだけど」
「それ何時から?」
「あ、えっと12時に東京駅で待ち合わせで」
「だったら午前中だけ付き合ってよ。11時には出ればいいじゃん」
「そんなのもったいなくない?」
「だって1人分まるごとよりはマシだよ」
 
従兄妹というのは何とも微妙な存在だ。基本的に恋愛対象ではないという意識はあるものの、法的には結婚可能なので、変に意識してしまいがちだ。しかし午前中限定なら、まあいいかなという気もした。
 
「うーん。じゃ、午前中だけ付き合おうか」
 
それで彪志は舞浜駅で落ち合う約束をして。出かける準備をした。
 

電話を切った愛奈も実は少しホッとした。親戚関係の集まりでは何度も会っているし、特に小さい頃はけっこう仲良くしていた相手だ。しかしふたりきりで会うなんて初めてである。愛奈は高校時代、部活の先輩の男の子と商店街を散歩したり、一緒にミスドで話したりしたことはあるものの、その彼とは手を握ったりすることもないまま、彼の卒業とともに関係は消滅した。卒業式の時に制服の第2ボタンはもらったものの、半年もしない内にどこにしまったか分からなくなってしまった!
 
実は男の子とのデート(?)なんてそれ以来である。正直何を話していいか分からない気がしていたので、取り敢えず会うのが午前中限定、開園する8時から彪志が彼女に会いに行くという11時までの3時間くらいなら、何とか時間が持たせられるかもという気がしたのである。
 
「バイト代3万円・交通費宿泊費別なんてのが魅力的で飛び付いちゃったけど、やっぱり断れば良かったなあ」
などとつぶやきながら、愛奈は京葉線ホームに向かった。
 

彪志は割と適当な服を着て西千葉駅に行くと、総武線に乗り、西船橋で乗り換えて舞浜駅まで行った。白地に赤や黄色の花柄のワンピースを着た愛奈を見て彪志はドキッとした。以前親戚の集まりで見た、セーラー服の少女ではない。可愛い笑顔で横向きに首を曲げる《女の子式会釈?》をする彼女に、もはや成熟した「女」を見て、彪志はここに来たことを後悔した。
 
しかし放置して帰る訳にもいかない。
 
「朝御飯食べた?」
「実はまだなんだよねー」
「コンビニでおにぎりか何か買ってく?」
「あ、そうしようかな」
「たぶん入場を待つ間に食べちゃうよ」
「なるほどー」
 
それで近くのコンビニに入る。彪志も朝御飯を食べていなかったので、ハムカツサンドとカレーパンを買う。愛奈はシーチキンおにぎりを1個買っていた。 
「寒いしコーヒーでも買って行こうよ」
と言ってドリップコーヒーを2つ注文する。彪志はブラックにしたが愛奈はミルクと砂糖をたっぷり入れていた。
 
そしてコンビニの出口を出た所で、彪志はこちらを見つめる青葉を見て驚愕した。 

「おはよう、彪志」
と青葉が笑顔で言う。
 
「おはよう。お仕事終わったの?」
と彪志は青葉に訊いた。
 
「うん、終わった。連絡しなくてごめんね。それでちょうど少し気分転換にドライブしてたら彪志の姿を見た気がして」
「よく見つけたね!」
「彪志を愛しているからね」
と青葉は言う。愛奈に視線はやらないものの、かなり意識しての発言だ。 
「あ、愛奈ちゃん、こちら俺のフィアンセの川上青葉。青葉、こちら俺の従妹で小比類巻愛奈」
 
「初めまして。彪志さんにお世話になってます」
と青葉が初めて愛奈を見て笑顔で挨拶する。
「あ、初めまして、よろしくです」
と愛奈は緊張して答える。
 
「愛奈さん、どこか行く予定があったら車で送りますよ」
と青葉が言う。
 
あからさまに「邪魔だから帰ってよ」という発言である。
 
すると彪志が説明した。
 
「あ、えっと、愛奈ちゃんがディズニーランドのペアチケットもらっちゃったらしくてさ。友だちと一緒に行くつもりでこちらに出てきたら、友だちがドタキャンしちゃったらしいんだよ。それで俺が午前中だけでもいいから付き合ってくれないかと言われてさ。午後からは俺、青葉と会う予定だったから」
 
彪志は何だか焦ったような顔である。
 
青葉は午後から彪志と会う約束などしていなかったものの、デートを時間限定にするための言い訳だなというのを察してこう言った。
 
「チケットは日付指定されてるの?」
「いえ、オープンです」
「それ有効期限は1年だよね?」
「ええ」
「だったら、また今度来た時に使えばいいよ。1人じゃ詰まらないだろうし」
と青葉は言う。
 
ディズニーランドに行くつもりなら1人で行きなよ、という発言だ。
 
「でもせっかく東京に出てきたんならめったに見られないもの見せてあげようか」
と青葉は笑顔で言った。
 
「えーっと・・・」
「取り敢えず、2人とも車に乗らない?」
と言って青葉はアテンザの方に歩み寄る。
 
彪志は一瞬愛奈と視線を交わしたものの、結局青葉に続いて車の所に行く。青葉はさっさと運転席に座るので、彪志は愛奈に後部座席を勧めて自分は助手席に乗り込んだ。
 

「まだ早いから少しドライブしよう」
と言って青葉は車をさっき降りた浦安ICに向ける。
 
「どこ行くの?」
と彪志が訊くと
「東京湾一周」
と青葉は言った。
 
「なるほどー」
 
それで青葉が運転する車は首都高からそのまま東関東道を進み、宮野木JCTで京葉道路の館山方面に進み、そのまま館山自動車道を南下する。
 
「この車は千里お姉さんから借りてきたの?」
と彪志が訊く。
「そうそう。又借りだけどね」
と青葉。
「ちー姉がカーナビをセットして貸してくれてさ。それでそのカーナビの通り進んだら、あのコンビニの前に辿り着いたから、何があるんだ?と思ったけど、まさかそこでデート中の彪志と遭遇するとは思わなかったなあ」
 
と青葉の言葉はチクリと痛い。が取り敢えず黙殺して言う。
 
「千里さん凄いね!」
「まあ、ちー姉なら普通のことだよ」
 
「青葉さんのお姉さんって占い師さんか何かなんですか?」
と愛奈が尋ねる。
 
「うーん。私もよく分からないんですけどねー。ちー姉が今日は傘を持って行きなさいと言った日は、朝どんなに晴れていても、天気予報が晴れでも絶対雨が降るんですよ」
と青葉。
 
「すごーい」
 
「本職はバスケット選手なんだよ。今年はユニバーシアードとA代表のアジア選手権に出て、ユニバーシアードは世界4位でスリーポイント女王、アジア選手権は優勝してスリーポイント数2位」
と彪志が説明すると
 
「そんなに凄い選手なんだ!」
と愛奈は驚いている。
 
「でも結局、ソフト会社の方はどうなってるんだっけ?」
と彪志は訊く。
「それもどうにも実態が見えないんだけどねー」
と青葉は本気でよく分からないのでそう前提を置く。
「たぶん会社にはほとんど出てないと思う」
 
「忙しすぎるもんね」
 

やがて車はアクアブリッジを渡り、青葉は《海ほたる》に車を駐める。 
「一休みしてお茶でも飲もう」
と言って車を降りる。一緒にカフェに入り、窓際の席に座る。
 
「青葉1時間以上運転していて疲れたろ?この先はしばらく俺が運転するよ」
と彪志が言う。
 
「うん。彪志MT大丈夫だったっけ?」
「しばらく運転してないから、出発前に少しだけ操作教えて」
「了解了解」
 
「でも凄く運転うまかった。もう運転歴長いんですか? 私青葉さんの年齢がよく分からない」
 
「18歳ですよ。免許は9月に取ったばかり」
「嘘!?」
「でも運転歴はたぶん6年くらいだよね?」
「それは言わない約束よ」
 
「18歳なら大学1年生?」
「高校3年生ですよー」
「凄い大人びて見える。私より上かなと思ってた」
「私、小学1−2年生の頃から、あんたと話してると大人と話してるみたいだと言われてました」
 
「家庭に色々問題があったみたいでさ。それで早く自立せざるを得なかったんだよな、この子は。小学2年生の頃から、自分の食い扶持は自分で稼いでいたって子だし」
 
「何して稼ぐの?」
「この子、霊能者なんだよ。だから失せ物捜しとか、病気治療とかを随分やってる。もっとも田舎だから、御礼は大根1箱とか、お魚1袋なんてことも多かったみたいだけどね」
「そういう食料が助かるんだよ。お金だとお母さんが使い込んじゃったりするから」
 
「何か複雑そうですね。あ、でもそれじゃそのバスケしてるお姉さんと姉妹で凄いのね?」
と愛奈。
 
「うん、やはりこういうの遺伝なんだろうね。この子のひいおばあさんがまた凄い大霊能者だったんだよ」
と彪志は言っておいた。
 

「わあ、だったら、私、あれ相談してみようかなあ」
などと愛奈は言い出した。この時点で愛奈はもう彪志とデートすることを彪志の母から頼まれていたことはほとんど忘れていた。
 
「何か問題があるの?」
と青葉は訊く。
 
「私が住んでいるアパート自体では何も起きてないのよ。でも最近周辺のアパートで随分幽霊騒ぎが起きていて」
 
「へー」
 
「夜中に何か人影を見たというので、最初は変質者ではと言ってたのよね。この界隈のアパートはほとんどが女子学生なんだ。女子大が近くにあるから、そこの学生さんが多いし」
「それは痴漢とかが寄ってきそうだね」
 
「実際に痴漢が捕まったこともあるのよ。でも今回のはどうも人間では無さそうだという話になっていて」
「というと?」
 
「夜中に帰宅した女子学生が階段を登る男の人の姿を見たんだって。誰かのボーイフレンドかなと思って、その人がどこかの部屋に入ってしまうまで待とうと思っていたら、その男の人が階段の途中でスーっと消えたんだって」
 
「わっ」
と声を出したのは彪志である。
 
「その子腰抜かして。とてもその階段を登る気になれなくて、ファミレスで一晩明かしたらしい」
と愛奈。
 
「賢明な対応だと思う」
と青葉は言う。
 
「他にも自転車に乗って走っていた男の人が自転車ごと消えるとか」
「ああ」
 
「極めつけがこれで。2階の住人が夜中に窓がノックされるの聞いて。痴漢が外壁をよじ登ってきたかと思って無視してたんだけど、いつまでもしつこくノックしてるから怖くなって、隣の部屋に女子学生として大学には通っているけど戸籍上は男の子って子がいたんで、その子を呼んできて懐中電灯とモップとか持って『せーの』で窓を開けたら、うつろな目をした男が空中に浮かんでいたんだって」
 
「ひゃー」
と声を挙げたのはまたしても彪志である。
 
「その隣の住人の男の娘がたまたま持ってた、お清めの塩をそこに向かって投げつけたら、すっと消えたというのよね」
と愛奈。
 
「完璧に幽霊ですね。でも勇気あるなあ」
と青葉。
 
「私も思った!」
 
「愛奈さんの住んでいる棟では目撃されていないのね?」
「そうなの。でも、周囲であれだけ起きていたら、うちの棟でも出るんじゃないかと、隣に住んでいる子たちと話していたのよね」
 

「ちょっと地図で場所を示してもらえる?」
と言って青葉は自分のAquosを開く。
 
それで愛奈は青葉のスマホを操作して、その場所を示した。
 
「この一帯で幽霊騒ぎが起きているんだけど、私のアパートはこれ」
と愛奈は示す。
 
「この地図と実際の地形とで何か違う所ある?」
「あ、うん。ここの道が地図上では、ここで曲がっているようになっているけど、最近線形改良されて。ここに表示されている靴屋さんが立ち退いたあと、ここはまっすぐの道になったのよ」
 
と言ってから
「もしかして、その工事のせい?」
と青葉に尋ねる。
 
「時期的にはどう?」
「記憶が曖昧だけど、幽霊騒ぎはこの道路の形が変わった後という気がする」
 
「だったら可能性はあるね。一度行ってみたいけど」
 
「でも青葉、受験で忙しいのでは?」
と彪志が心配する。
 
青葉は手帳を見る。
 
「今月下旬の連休にだったら行ってもいい」
と青葉。
「大丈夫?」
と彪志は本当に心配そうである。
 
「多分受験前最後の東北行きになると思う」
と青葉は言った。
 

その後、彪志がアテンザを運転し(青葉は助手席)、アクアトンネルを越えて車は川崎市に入る。
 
「知る人ぞ知る場所を見せてあげるよ」
と言って青葉は助手席からカーナビを操作する。その案内に従って彪志が運転した車は川崎市郊外の某電機メーカーに到達する。
 
「ここで何するの?」
「まあ待ってて」
 
門の所で、青葉は彪志に「助手席に移って」と言って、いったん車を降り、守衛の人に何か話すと守衛さんはパソコンで何か確認した上で頷く。それで青葉は入退出者票に名前を書き運転席に戻る。青葉の運転で車は構内の倉庫のような建物に辿り着く。
 
青葉が車を降りて入口の所に行く。彪志と愛奈も続く。入口の所に居る職員さんに青葉は
 
「こんにちは。門の所で連絡させて頂いた村山ですが、見学させて頂いていいですか?」
と声を掛ける。
 
「はい、どうぞ。ご案内しますね」
と言って職員さんは3人を中に入れた。
 
(苗字が異なると面倒なので青葉は門の所で『村山青葉』と署名した)
 

「わあ・・・これは・・・」
 
「改修中のT美術館の所蔵品を、管理システムの受注をした関係でここで舞通が預かっているんだよ。実は誰でも言えば見学できるんだけど、ここにあるということはあまり知られていない」
と青葉が言う。
 
「情報は公開していますが、あまり来られるとこちらのスタッフが対応できないので積極的には宣伝してないんですよ。舞通のこのエリアに勤務している人なら多くが知っていますけどね」
と職員さん。
 
「青葉よく知ってたね」
と彪志が感心する。
 
「ちー姉の練習を見学に来た時に、その話を聞いてたから一度見てみたいと思ってたんだよね」
と青葉。
 
「あ、お姉さんこちらの選手なんですか?」
「そうそう」
 
その問題は説明しようとすると複雑になるので、取り敢えずそういうことにしておいた(実は青葉もよくは分かっていない)。
 

美術館の収蔵物を見学した後は、青葉は車を日の出埠頭に回し、東京湾クルーズのランチタイムクルーズに申し込む。
 
「あ、心配しないで。私が3人分おごるから」
と言って青葉がチケットを買う。
 
「ひぇー!お一人様12,300円もする!」
と彪志が悲鳴をあげている。
 
「大丈夫だよ。10月末にちょうど収入があったところだし」
と青葉。
「私高校生におごってもらっていいのかしら」
と愛奈。
「それは気にしなくていいよ。こいつ高額納税者だし」
と彪志が言う。
 
「わあ、やはり霊能者って収入も大きいんですかね」
「相手の懐具合次第ですけどね。庶民からはささやかな御礼を受け取り、お金持ちからはどーんともらうから」
「なるほどー」
 

高額の料金を払っただけあって、窓際の席なので景色も良かったし、お食事もとても美味しく、愛奈が
 
「ディズニーランドで長い列待って大したことないご飯に高いお金払うより、こちらの方があの値段払っても満足度は高いですねー」
と言っていた。
 
「その内、彼氏ができたらねだってみるといいですよ」
と青葉。
「ねだるのはいいけど、その後が少し怖い気もする」
と愛奈。
「俺は既にこの後が怖い」
と彪志。
 

クルーズが終わった後はお台場に行き、Fテレビを見学する。見学コースに沿って歩き、ショップなど見ていたら、ざわめくような声がする。ふとそちらを見るとレッドブロッサムの幣原咲子さんである。
 
「誰かタレントさんだっけ?」
と愛奈が小声で訊くので、青葉は
「南藤由梨奈のバッグバンド、レッドブロッサムのドラムスの幣原咲子さんだよ」
と教えてあげる。
 
「よくそんな人の顔まで覚えてるね!」
と愛奈が言っていたら、その咲子がこちらを認めてしまった。それで青葉が会釈すると寄ってきた。仕方ないので挨拶する。
 
「おはようございます、幣原さん」
「おはようございます、川上さん」
 
その「タレントさん」が青葉の名前を知っているので、愛奈が驚いている。なお「おはようございます」と言っているが、時刻は14時くらいである。 
「ね、今時間ある?」
と咲子が訊く。
「何か?」
「ちょっと来て」
 
それで咲子は買物をレジで精算した上で、青葉を連れて店を出る。彪志と愛奈も一緒に付いて行く。「関係者以外立入禁止」と書かれた札の立っている所を通過、業務用のエレベータであがって、スタジオのあるフロアに来る。
 
行くと、鮎川ゆま・鈴木和幸・貝田茂というレッドブロッサムの他のメンツも居る。
 
「おはようございます」
と青葉が挨拶すると
「おお、サックス奏者が来た」
とゆまが言う。
 
「えっと・・・・」
「青葉良い所に来た。これから南藤由梨奈のステージあるんだけど、サックス、私の代わりに吹いて」
とゆまが言う。
 
「はあ!?」
 
そして青葉の顔を認めた顔見知りのディレクターさんが
「南藤のバックのサックス代理演奏者、確保しました」
と大きな声で他のスタッフに伝達している。
 
私「確保」されたの〜?
 

話を聞くと、なんでもあと少しで生放送の本番というのに、ゆまが突き指をしてしまったらしい。それで慌てて誰かサックスを吹ける人を探していたという。 
「今日はセルマーとヤマハと持って来てたのよ。私がセルマー持って吹いてる振りするから、青葉はヤマハ持ってかげで実際に吹いてくれたらいいかと。これ、予備の新品マウスピース」
とゆまが言う。
 
「分かりました、先生」
 
と青葉は返事して、スコアを見せてもらう。急いで自分のパートを読む。上島雷太さんが書いた曲だ。結構シンプルな流れ。難しい曲ではない。これなら何とかなるかな。
 
15分ほどで出番となる。南藤由梨奈とレッドブロッサムがカメラの前に出て行く。演奏が始まる。しかしゆまはサックスを吹いているふりだけして実際には吹いていない。それがバレないようにカメラはゆまの指を映さないように気をつけている。そして実際にはカメラに映らない場所で青葉がサックスを吹いている。
 
曲は放送用に3分ほどにまとめられたショートバージョンだったが、ほとんど初見に近かったので、青葉は緊張の3分間であった。
 

「お疲れ様でした」
「ありがとう、川上さん。助かりました」
とディレクターさんが青葉に直接お礼を言ってくれた。
 
「ゆまのお弟子さんだけあって、吹き方がゆまと似てたから、これなら熱心なファン以外には代理演奏がバレなかったと思う」
と鈴木さんが言っていた。
 
「でもその子、可愛いね。高校生?」
とプロデューサーさんが訊く。
 
「高校3年生ですよー」
とゆまが代わって答える。
 
「3年生か。年誤魔化して高校1年ってことにして歌手デビューとかする気無い?ちなみに歌はうまいかな?」
「この子、4オクターブの声域持ってますよ」
 
「それは凄い。君、マジでアイドルとかになる気無い?あるいはそんなに歌えるなら、シンガーソングライターということにしてもいいけど」
とプロデューサーさん。
 
「でも実は私男なんですよー」
「え?ほんと。でも君くらい可愛かったら男でも問題無いよ。アクアみたいな子だっているし。何なら性転換手術しちゃえばいいし」
 
「すみませーん。取り敢えず遠慮しておきます」
と青葉は言い、あとは逃げるようにスタジオを出た。
 

「いや、まじでめったに見られないものを見られた」
と愛奈が喜んでいた。
 
「まあ公開収録番組とか以外は、ふつう一般人は立ち寄れないからね」
と青葉。
 
「テレビ局の人とか、鮎川ゆまさんが青葉ちゃんを知ってたね」
と愛奈。幣原咲子は知らなくても、鮎川ゆまは知っていたようだ。
 
「私、ゆま先生にサックスを習っているんですよ」
「へー!」
 
「それで一時期は毎月2回くらい東京に出てきてたね」
「そうそう。なかなか大変だった」
「あ、その時、彪志君と東京でデートしてたの?」
「1日中練習してたからデートする時間無かったね」
「うん。だから青葉が帰りの新幹線に乗るのを俺が越後湯沢とかまで一緒に乗ってつかの間の1時間とかを過ごしていたんだよ」
 
「なんかVIP並みの付き合いかたしてるな」
 

テレビ局を出た後は、青葉は★★レコードの入っている青山ヒルズに向かった。車を地下の駐車場に駐め、いったん★★レコードのフロアまであがる。制作部で大宮万葉の名刺を出して氷川主任かどなたか、と言ったら八雲礼朗さんが出てきてくれた。
 
「おはようございます、大宮さん」
「おはようございます、八雲さん」
と挨拶を交わした上で、青葉がビルの展望所で夜景を楽しみたいのでパスを出してもらえないかと頼む。
 
「ああ、OKですよ。今発行してきますね」
と言って、彼は中に戻ると、5分ほどで3人分のパスを持って来てくれた。 
「ありがとうございます」
「あ、八雲さん」
「はい?」
「ちょっとそこに座りません?」
「ん?」
 
「あそこが炎症起きてますよ」
「あんた、なんでそんなこと分かる?」
「ヒーリングしていいですか?」
「よく分からないけど、いいよ」
 
それで青葉が椅子に座っている八雲さんのお股の付近の上に手をかざして5分くらいじっとしていた。
 
「何か凄く楽になった」
「このお仕事してたら仕方ないですけど、しっかり睡眠取ってくださいね。どうしても生活の乱れがあちこち身体にも出るんですよ。特に人工的に加工している部分はトラブル起きやすいから」
 
「君のお姉さんにもそれ言われたことある」
 
「ああ、姉にお会いになったことがありますか?」
「あれ?僕が性転換していること、お姉さんから聞いたんじゃないの?」
と八雲さんが言うと
 
「え〜!?あなた、まさか元女性なんですか?」
と愛奈がびっくりしたように言う。
 
「そこ、そういう話を大きな声で言わないように」
と青葉は愛奈に注意した上で
「誰からも聞いてませんが、見れば分かりますよ」
と青葉は笑顔で言った。
 
「そういえば君のお姉さんからも見れば分かると言われた気がする。確か波動がどうのと」
「姉なら波動が分かりますからね」
「その波動って、性転換手術すると変わるものなの?」
「すぐ変わる人、少し置いてから変わる人、と居ますが、概ね2〜3ヶ月以内には変わりますよ。自分の新しい身体を心に受け入れられた時に波動は落ち着くんです。それまでは混乱していたりしますね」
 
「ああ、何となく分かる」
と八雲さんは言った。
 
「僕のっていまだに乱れているでしょ?」
と八雲さんが訊くので青葉は
「その内落ち着いていくと思いますよ」
と笑顔で答えた。
 

それで八雲さんと別れてエレベータで30階に上がる。
 
「声出しちゃってごめんなさい。でも女性としても美人だったと思うのに男になっちゃうなんて、もったいないね」
と愛奈。
 
「愛奈さん、逆ですよ。あの人は男から女になったんですよ」
「嘘!? だったらどうして男装してるの?」
「実質性転換しているけど、世間体とか親族との関係とか、そして仕事の絡みで社会生活上の性別を移行できずにいる人って結構あるんですよ」
 
「ああ。じゃ、あの人、会社が女社員として勤務することを認めてくれないから男装でお仕事してるんですかね?」
「うーん。あの人の場合は、そういうことではなくて、何か複雑な事情があるみたいな気がしましたね」
 
患者の取り違えで性転換手術されちゃった、などというのはさすがの青葉にも想像できない話であった。その件については青葉は八雲さんの結婚式の時に初めて聞くことになる。
 

展望所では、ひとり1枚ずつパスを持ち、自動改札機を通って中に入った。 
「ここは出ようと思ったら外にも出られるのよね。一応普段は鍵が掛けてあるけど。それもあって一般には開放してなくて、ビル内に入っている企業から招待された人のみが入れるようになっている。でもおかげで、のんびりと夜景が楽しめるんだよね」
 
外はちょうど日が落ちてしまい、夕闇が迫る時刻である。
 
「きれーい」
と愛奈が声をあげた。
 
「ここの美しさは東京の夜景ベスト5に入ると知り合いの人が言ってたよ」
「すごーい」
 
自販機があるので彪志が暖かい缶コーヒーを3つ買ってくる。
 
「なんか食べ物の自販機もあるね」
「うん。長時間滞在できるようにね」
「そのホットチキン食べてみようかな。あ、私が3人分出すよ。今日はおごられてばかりだし」
と言って愛奈がホットチキンを3個自販機で買った。冷凍されたものが電子レンジで加熱されて出てくるタイプのようであった。
 
それで3人で窓際のテーブルに座り、チキンを食べつつ、コーヒーを飲みつつ、光の加減が刻々と変わっていく外の景色を眺めていた。その日は青葉たち以外には27-28歳くらいのカップルと、接待らしき4人組が来ただけで、みんなあまり騒がずに夜景を楽しんでいたので、青葉たちも良い雰囲気の中で時を過ごすことができた。 

夜景を楽しんだ後、青葉は愛奈をしゃぶしゃぶに誘ったが
 
「これだけデートを邪魔しておいて、これ以上邪魔したら悪いから私帰るね」
と言って、結局東京駅で別れた。
 
「彪志君の彼女が彪志君にはもったいないほど素敵だってのが分かったから、私、ふたりを応援するよ」
などとも愛奈は言っていた。
 
愛奈と別れてから彪志は青葉に謝った。
「御免。あれ多分うちのお袋に頼まれて俺を誘惑しに来たんだと思う」
 
「お母さん、私のこと気に入ってない?」
と青葉は尋ねる。
 
「青葉自身のことは気に入っているよ。いい子だと思っていると思う。ただ息子の嫁に、元男の子である女の子を迎えることに、お袋自身、心の決着を付けられないんだと思う。親父は結構受け入れてくれているんだけどね」
 
「私、彪志と別れた方がいい?」
と青葉が訊くと
 
「2度とそんなこと言うな」
と彪志は言った。
 

青葉は愛奈と別れた後
「でもほんとお腹がすいたね。彪志のおごりでしゃぶしゃぶが食べたい」
と言ったのだが、彪志は
「俺は牛肉より青葉が食べたい」
と言った。
 
それでふたりで一緒にファッションホテルに行き、1時間ほど束の間の熱い時間を過ごした上で、青葉は最終新幹線で高岡に戻った。
 

2015年11月22日(日)。連休の中日。大阪。
 
「こんにちは。カンガルー協会から参りました」
と言ってマンションのエントランスで来訪を告げたのは40代の庶民的な雰囲気の女性だった。阿倍子はエントランスをアンロックしてあがってもらった。 
「ベビーシッターお願いするの初めてなんで、あまりよく分かってないのですが」
「お子さんは何人ですか?」
「1人です。こちらで今寝ているのですが」
 
と言って阿倍子は京平のベビーベッドに案内する。
「可愛いお嬢さんですね!」
「あ、いえ。男の子なんですが」
「あら、ごめんなさい! 凄く優しい顔しているから」
 
阿倍子は搾乳ボトルの場所を示し、解凍は湯煎でして欲しいこと、それに使用する鍋とIHヒーターの使い方、空きボトルはそのままシンクに置いておいてよいこと、おむつの場所と捨て場所、好きなおもちゃ(ガラガラ)なども伝えておく。
 
「緊急連絡先ですが、お母様の携帯番号はこちらでいいですか?」
「ええ。その番号です」
「他に連絡できる方はありませんか?」
「一応こちらが夫の携帯ですが、今日は取引先の人と会うようなことを言っていたので多分つながらないと思います」
「他の親族とかお友達とかは?」
「母がいるのですが、名古屋に住んでいるのであまり役に立たないかと。私、頼れるような人がいないんですよ。それでベビーシッターをお願いした所で」
「分かりました。何かあった場合は、お母様とお父様にとりあえずCメールを送りますね」
 
「あ、できたら私の携帯だけに」
「分かりました。では取り敢えずそれで様子見て、どうしても連絡が取れない場合は、お父様の携帯に連絡しますね」
「はい、それでお願いします」
 

それで阿倍子は京平をベビーシッターさんに託して出かけた。
 
ひとりで出かけるのって何だか久しぶり! 妊娠中はひとりではあってもお腹に京平が入っていたし、それまで考えると純粋な一人での外出は1年以上していなかったなと思った。
 
貴司は昨夜から何だかそわそわしていた。それが今朝、会社から緊急の呼び出しの電話があった時に貴司は「すぐ行きます。でもこれ何時頃終わりますかね?」とエンドを気にしていた。「あ、11時くらいには終わりますか。じゃいいな」と貴司は言った。
 
しかし貴司は出かける時「たぶん帰りは夕方になると思う」と言った。要するに11時に会社の仕事が終わった後、誰かと会い、夕方まで過ごすということだ。どう見ても浮気である。貴司はよく浮気するくせに、こういうのを誤魔化すのが下手なのである。
 
それで阿倍子は貴司が出かけた後、雑誌で紹介されていたベビーシッターの会社に子守を頼み、自分も出かけることにした。バレにくいようにやや性別不明っぽい服を着て、帽子をかぶりサングラスをしている。
 
貴司の会社の出入口が見える場所で待つ。10:50、貴司が出てきたのを見て阿倍子は尾行を開始した。
 
貴司は地下鉄とJRを乗り継いで桜ノ宮駅で降りた。少し歩いて帝国ホテルに入って行く。ラウンジに入るので自分も続けて入り、貴司が座った場所から遠く離れた席に座った。
 

待つこと20分ほど、ラウンジに千里が現れるので、阿倍子は猛烈に嫉妬の感情が沸いた。やはり貴司と千里さんは密会していたのね。
 
ふたりはランチを頼み、オレンジジュースで乾杯している。長期戦になるなと見て阿倍子もランチを頼んだ。
 
向こうをチラリチラリと見ながら食べるが、貴司と千里は何だか楽しそうにおしゃべりしながら食事をしている。何を話しているんだろう。盗聴器でも仕掛けておけば良かった、などと思う。
 
やがて食事が終わって向こうは店を出るようだ。こちらもお釣りの無いようにお金を用意して貴司たちに少し遅れて会計を済ませ、ふたりの後を追う。食事の後は。。。やはり上の客室に行って秘め事をするのか?いやここは高いから、別のホテルに移動するのだろうか。
 
それで30mほど離れて付いて行くと、結局ホテルを出て行く。橋を渡って桜ノ宮駅に来る。どうも地下鉄で移動するようだ。同じ車両の別の出入口から乗り、向こうの様子をうかがう。やがてふたりは地下鉄を降りる。そしてふたりが入って行ったのは体育館である!
 
阿倍子は拍子抜けする思いだった。
 
バスケットのプロの試合をやっているようだ。阿倍子もチケットを買って中に入った。
 

いったん見失ったものの、何とか観客席に貴司と千里が並んで座っているのを発見する、その席を斜め方向から見られる位置に自分は座る。やがて試合が始まる。ふたりは何やらけっこう難しい顔をしたり時には笑ったりしながら観戦しているようだ。阿倍子はそういえば自分は貴司の試合を見たことなかったなと思い起こしていた。
 
貴司に出会った時に職業を尋ねて「バスケット選手」と言われて、バスケットで食べていけるのだろうかと疑問を感じたことも思い出していた。やがて試合が終わる。阿倍子は早めに席を立って出入口のそばに行き、ふたりが出てくるのを待った。ふたりはまた地下鉄で移動する。阿倍子の尾行も続く。
 
そしてふたりはまた別の体育館に来た。また何かの試合があるのだろうか?と思ったものの、体育館の玄関まで行くも特に何かのイベントなどは行われていないようだ。ちょうど阿倍子の後ろから入って来た中学生の団体に紛れるようにして阿倍子は中に入り、取り敢えず2階にあがってみた。
 
フロアを見ても貴司や千里の姿が見えないので、もう出ちゃった?と焦ったものの、ふたりはすぐ姿を現した。ふたりともジャージ姿だ!
 
そしてふたりはバスケットの練習を始めたのである!
 

1on1というのだろうか。ふたりで攻守を交代しながら、ドリブルで相手の守りを突破する練習をしている。
 
かなりその練習をした後、今度はパスの練習、シュートの練習などをする。 
しかし、同じフロアに団体さんが居て良かったと阿倍子は思った。他にもその中学生団体の保護者だろうか、けっこうな人数のおとなが2階席に座っている。この中に自分も紛れておくことができる。
 
貴司と千里は結局体育館で2時間ほど練習をしていた。やがて終わったようで、ゴールを折りたたみ、ボールをバッグに入れたりシューズを脱いだりしている。そして出てくるので、今度こそホテルにでも行くのではと思い、また尾行する。きっと練習したあとの汗を流そうとか言ってホテルの中で・・・などと妄想をしてしまう。
 
ところがふたりが来たのは銭湯である!
 
銭湯は当然出入口が男女で別れている。ふたりは手を振って別々の入口から中に入った。阿倍子は自分も入ろうかとも思ったものの、入ったらさすがに千里に発見されてしまうだろうと思い、結局銭湯の外でふたりを待った。 
1時間近く経ったところでふたりがほとんど同時に出てくる。同時に出てきたのはたぶん脱衣場でメールなどで連絡を取り合ったのだろうと阿倍子は推測した。 

そのあとふたりは御堂筋線の駅に向かう。が、駅の入口のところで立ち止まって何か話している。どこに行くかでも話しているのかと思ったら、その内ふたりは握手!した後、千里がバイバイの仕草をしてどこかに歩いて行く。そして貴司は駅入口の階段を降りていく。
 
ここで阿倍子は「やばっ」と思った。
 
貴司より先に帰宅してベビーシッターさんを帰さないとまずい!
 
慌てて自分も階段を降りていく。
 
しかしこのままでは貴司と同時に帰宅することになってしまう。今日ベビーシッターを使ったこともバレてしまうし、何よりも、今の自分の格好を見られたくない!
 
どうしよう?と思いながら、貴司と同じ車両の離れた位置に乗る。
 
そして何も妙案が浮かばないまま列車は、千里中央駅の2つ手前・緑地公園駅に着くが、ここで貴司は地下鉄を降りた。
 
ハッと気がつく。
 
ここは貴司のバスケチームの練習場所、最寄り駅ではないか。
 
じゃ、貴司は今からチームの練習に出るんだ!
 
だったら恐らくまだ2時間は帰宅しない。
 
助かったぁ!
 
と思って脱力した阿倍子は、ホームをエスカレーターの方へ歩いて行く貴司を列車の窓から見送っていた。
 

列車は千里中央駅に到着する。阿倍子は急ぎ足で駅を出るとマンションに戻る。そしてベビーシッターさんに
 
「ただいま、戻りました。ありがとうございました」
と声を掛け、留守中の報告を聞く。
 
京平は途中2回、お乳(搾乳冷凍したもの)を飲み、おむつも2回交換したということであった。
 
「この子、けっこうひとり遊びができるんですね」
とベビーシッターさんは笑顔で言っていた。
 
「あ、何だかまるで誰かそばに居て、その人とおしゃべりでもしているかのように声を出している時があるんですよ」
と阿倍子も言う。
 
「ほんとに手の掛からない子でした。またお世話したいですね」
などと言ってベビーシッターさんは帰って行った。
 
それを見送って阿倍子は急いで着替えて「まとも」な服に戻った。
 

一方で、緑地公園駅を出た貴司は、駅の出口に立って少し待つ。10分も待つ内にアウディA4 Avantが走り寄り貴司の前で停まる。貴司はドアを開けて助手席に乗り込んだ。すぐ車は発進する。
 
「待った?」
と運転席に座る千里が尋ねると
「5分くらいかな」
と貴司は答えてから千里の頬にキスした。
 
「でも阿倍子さん、かなり体力回復させてない? 以前はちょっと歩いただけでかなり休まないといけなかったでしょ? 今日は私たち随分歩き回ったのに最後まで付いてきたね」
と千里は言う。むろん今日は尾行されていることは最初から気づいていた。そもそも阿倍子の風体はあまりにも怪しすぎた。警官に職務質問されかねない格好だと思った。
 
「うん。それは最近思ってた。妊娠前より明らかに体力が付いていると思う。たぶん妊娠で体質が変わったんだよ」
と貴司も言う。
 
「そのまま健康になってくれるといいね。顔色とかも以前よりよくなっているようだし。目つきが違うのよね。私が初めて阿倍子さん見た時はまるで死んだような目をしていたのに、春頃から目に輝きが出てきたのよ」
「そのあたりは僕は分からないや」
「身近に居ると分かりにくいのかもね」
と千里は微笑んで言った。
 
「大事にしてあげてね」
「うん」
「浮気するなよ」
「できるだけ控える」
 
「あんまりやってると、マジでちょん切っちゃうからね」
「その言葉が冗談に聞こえないのが怖いんだけど」
「もちろん本気だよ」
「怖いな」
 

「ところでこの車、こないだ京平の3ヶ月検診の時も思ったんだけど、なんか調子悪くない?」
と千里は運転しながら訊いた。
 
「あ、それは感じてた。時々エンジン音が変なんだよね。あとクーラントがこないだ漏れてて、ちょっと修理してもらった」
と助手席の貴司。
 
「クーラントは気をつけておかないとやばいよ。緊急用に水道水入れたペットボトルとか積んでる?」
「あ、積んでおかないといけないと思ってた。今夜やっとこう」
 
「何年乗ってたっけ?」
「2009年1月に買ったから、もうすぐ7年になるかな。走行距離は20万km近い」
「まあ私が結構千葉との往復にも使わせてもらったしね」
「鹿児島から青森まで高速代2000円で走るなんてのもやったね」
「うん。あれは楽しかった」
「僕はきつかったけど」
「あはは」
 
「そうだ。来月は車検しないといけなかった」
「車検のついでによく見てもらうといいよ」
「それはいいけど、車検だけでも結構お金が掛かるからなあ」
「うーん。いっそ買い直すとか?」
 

《アウディを運転する貴司》は新大阪駅前で千里を降ろした。千里は貴司にキスして助手席から降りた時、近くにタコ焼き屋さんが出ているのを見て、貴司にちょっと待つよう言い、それを1パック買って「お土産にどうぞ」と言って渡した。
 
車はマンションに戻る。エレベータで33階にあがり、3331号室に帰還する。 
「ただいま」
と言って玄関を入るが、阿倍子は
「あ、お帰り」
と言ってテーブルの所で雑誌を見ているだけだ。そういえば阿倍子とは、行ってきます・ただいま・おやすみのキスとかしたことないな、とふと貴司は思った。千里とはいつもしているし、緋那もしてくれていたのに。
 
「タコ焼き買ってきたよ」
と言って貴司は千里が買ってくれたタコ焼きのフードパックをテーブルの上に置く。 
「わあ、美味しそう」
と言って阿倍子はフードパックを開けながら貴司に尋ねる。
 
「でもお疲れ様。お仕事たいへんだった?」
「ううん。でも仕事に出た後、ちょっとバスケの練習してたんだよ。来年の世界最終予選にまた日本代表として呼んでもらえるかどうかは分からないけど、呼んでもらったらオリンピックに出られるよう頑張らなきゃと思って」
 
「オリンピックか・・・凄いなあ」
「阿倍子は特に何か無かった?」
「うん、何も無かったよ。京平もいい子してたし」
「良かった、良かった」
 

その夜、貴司がいつものように書斎に行って寝ようとしていたら
 
「待って。今夜は寝室で一緒に寝ない?」
と阿倍子が誘った。
 
「うん、いいけど」
 
それでふたりで寝室に入り、裸になって抱き合う。貴司は「痕跡」に阿倍子が気づきませんようにと祈るような思いだったが、阿倍子は特に気づく様子は無い。そしてやがて貴司自身は快感の中に埋もれていく。
 
「でもほんとこれ反応しないなあ。本当に気持ちいいの?」
「うん、気持ちいいよ。ありがとう」
「貴司、もしおちんちん触られるより、入れられる方がいいなら、指くらいなら入れてあげようか?」
「いや、いい! 僕はそっちの趣味は無いから」
 
千里にうまく乗せられて入れられてみたことはあるものの、あれは痛いだけだった、と過去のことを思い出す。
 
「そう?でも私に恥ずかしがったり遠慮しなくてもいいからね」
「うん」
「それとも、女の子になりたいとかだっけ?」
「なりたくない」
「もしおちんちん取りたいとか思っているんなら正直に言ってね。おちんちんの無い貴司を愛せる自信無いけど、できるだけ頑張ってみるから」
「ちんこ取るなんて絶対嫌だ」
「そう? それならいいけど。でも貴司の荷物にスカートとかブラとか入っていたことある」
 
「ごめん。それは浮気相手のを間違って持ち帰ってしまったもので」
 
あれは絶対千里が「わざと」入れたものだと貴司は推測している。千里は口では阿倍子と仲良くしろと言いつつ、結構な「牽制球」を投げてくる。
 
「ブラくらいつけてもいいのに」
「ブラジャーつける趣味は無い」
「最近、メンズブラとか言って、ブラジャーつける男の人多いらしいよ」
「ほんとに? それ女装趣味じゃないの?」
「どうなんだろう。貴司は女装しないの?」
「余興でさせられたことはあるけど、個人的に女装する趣味は無い」
 

阿倍子がたくさんしてくれたので、こちらもお返しにいじってあげたら阿倍子は凄く気持ち良さそうにしていた。
 
「貴司、すごく上手だよね。私、こんなに気持ちよくなれるって、貴司と結婚するまで知らなかった」
などと阿倍子は言う。
 
「そう? 開き直りじゃないけど、やはりたくさん女の子と寝たからかも」
「ベテランの技かぁ」
 
そんなことを言いつつ、こういうことまでしたのは実は千里と緋那のふたりしかいない。ホテルに行く約束をした女は何人かいたが、全て千里に潰された。 
「ごめーん。でも前の旦那はしてくれなかった?」
「あの人は自分が逝ったら終わりだったなあ。そもそもあまり濡れない内に入れようとするから、私けっこう苦痛を味わっていたし」
 
「それは勝手すぎる。セックスはコミュニケーションなんだよ。お互い気持ちよくなることが大事なんだ」
「私、貴司と結婚してよかったかも」
「入れてあげられたらいいんだけど、どうしても立たなくて。ごめんね」
「浮気しすぎて立たなくなったのでは?」
「あはは」
 
さすがに千里の前では立つなんて言えないよなあ。
 

貴司が千里のことを考えたら、阿倍子からも訊かれた。
 
「貴司、今でも千里さんのこと好きなの?」
 
「いや、千里とはそういう関係じゃないんだよ。あくまであいつとは友だちだから。それとバスケに関するライバルでもある。あいつが男のままだったら現実でもたぶんライバルとして戦っていたと思う。女になっちゃったから時々人から誤解されることもあるけどね。それでも男友だちの一種だよ」
と貴司は弁明した。
 
千里さん本人はふたりの間に恋愛関係があったこと、婚約までしていたことも話してくれているのに、貴司はあくまでふたりの間には何もないと主張するのか・・・と阿倍子は思う。それはやはり実際には千里さんに恋愛感情を持っているから、自分に隠したいんだろうな。
 
千里さんは間違いなく貴司のことが好きだ。自分が貴司と、もし離婚したら、おそらく半年もしない内にふたりは結婚するのだろう。
 
しかし現在のふたりが基本的には友だち関係だという貴司の主張については、今日1日貴司たちを尾行して見たふたりの様子を思い起こすと、あるいは信じてもいいのかもという気もした。ふたりが身体の接触をしたのは自分が見ていた限りでは最後に握手した時だけだった。まあ自分が気づかなかった所でキスくらいはしているかも知れないけど。少なくともセックスする時間は無かったはず。 
でも本当に千里さんが元男性だというのなら京平を作った卵子はいったい誰のものなのだろう?貴司、他にも愛人がいるのだろうか?と思ってみたが、そんな人がいたら絶対千里さんに排除されていると思い至った。
 
 
前頁次頁目次