【春対】(2)
1 2 3
(C)Eriko Kawaguchi 2016-03-05
青葉は愛奈との約束通り、2015年11月下旬の連休、新幹線を大宮乗り継ぎで仙台まで行った。大宮から先は彪志も同行した。
青葉は実際に幽霊が出るような時間帯にそこに行きたいと言ったので、仙台に到着したのが11月21日(土)の夕方である。仙台駅で愛奈と合流し、仙石線、そしてバスで愛奈のアパートの界隈に到達する。
「愛奈さんのアパートはその2番目の横にピンクのラパンが駐まっている棟?」
と青葉は訊いた。
「ええ。そうです」
と愛奈。
「愛奈さんは右端の部屋かな?」
と青葉。
「なんで分かるの〜?」
と愛奈が訊くと
「そこは安全地帯だから」
と彪志が言った。
「彪志でも分かるよね、これ」
「うん。そこだけ他と空気が違う」
「うむむ」
「愛奈ちゃん、守護霊が強いから、危ない場所を自動的に避けられるんだよ」
と彪志。
「私の守護霊ってどんな人?」
と愛奈が訊くので、青葉は
「上品な女の人だよ。私の目には平安調の袿(うちき)みたいな服を着ているように見える」
「へー!」
と言ってから愛奈は尋ねる。
「女の子の守護霊は女の人で、男の子の守護霊は男の人?」
「うーん。それはあまり関係無い気がするけど」
「男の守護霊が付いてる女性はたくましく、女の守護霊が付いてる男性は優しくなったりする?」
「そういう説は聞いたことがない。愛奈ちゃん研究してみて」
「研究しようにも私には守護霊は見えない」
「でも以前男の娘の守護霊が付いてる男の娘を見たと青葉言ってたね」
「うん。あれは面白かった。適切な指導ができると思う」
「それは凄い」
青葉はこの状況が起きている原因を探るようにその界隈を歩き回る。彪志と愛奈がそれに続く。
「ああ、これかな」
と言って青葉は道ばたに立っている不思議なモニュメントの前で立ち止まる。
「何これ?」
と彪志が言っている。
「震災復興を祈って町のあちこちにこんな感じの芸術作品が設置されてるんだよ。全国の美術学生さんが制作したものなんだって。でもこれ何を表しているのか全然分からないよね」
と愛奈。
「私も抽象芸術は苦手だなあ」
「でもこれがお守りになってるの?」
「なってる。お地蔵さんみたいな役割を果たしている」
「これがお地蔵さんなのか」
「現代的デザインのお地蔵さんかも」
青葉は羅盤で方位を確認したが、このモニュメントは愛奈の部屋からちょうど北東にあることが分かる。つまり北東から来るものを、このモニュメントが止めてしまうのだろう。
この状況は、(多分ちー姉が作り上げた)桃姉とちー姉が住んでいた千葉のアパートの環境に似ているなと青葉は思った。
靴屋さんのあった所が立ち退いて道路の線形改良がされた場所も見た。確かにここに大きな建物があれば、あの界隈は守られていたろうと青葉は思った。道路の流れはよくなったが、幽霊の流れも良くなってしまったようだ。
「じゃ、私の部屋は大丈夫としても、このあたりの幽霊騒ぎはどうにもならないのかな?」
「そうだなあ」
と青葉は考える。
問題は「どの程度の期間」もたせるかだ。
「愛奈さん、今2年生だっけ?」
「うん」
「じゃ、取り敢えず2年ちょっともたせればいいか」
「ああ。ずっと出ないようにするのは難しいんだ?」
「難しいというよりお金が掛かるというか」
「うむむ」
「市とか県とか動かさないといけないし」
「ひゃー」
「思ったけど、アパートの北側に街路樹とか植えたら、かなり変わるよね?」
と彪志が訊く。
「うん。根本的な対策はそれしかないと思う。まあ3000万円くらいあれば」
と青葉。
「それはさすがに無理だな」
と愛奈。
青葉は悩んでいた。
個人の住宅であれば、その敷地内でいろいろ仕掛けを作ることにより防御態勢を作ることができる。しかし共同住宅で、どう考えてもその管理者の協力などは望めない状況で、どこまでやれるか。
自分たちが不動産屋さんに行って、幽霊騒ぎを抑えるために、こういうものを作って欲しいとか言っても、頭のおかしな人と思われるだけだ。
青葉は唐突に千里の顔が頭に浮かんだ。
ちー姉なら、こういう場面でも何か手を打つはずだ。ちー姉ならどうする?
青葉は先日の富山県J市の妖怪騒ぎでは、取り敢えず御札3枚で抑えた上で神社の孫息子さんが春になれば戻って来て、町内の巡回をしてくれることを期待している状況だ。
「愛奈ちゃん、この近所に住んでいるお友達で、地元の子いる?」
「何人かいるけど」
「その中で犬を飼っている人いない?」
「晴恵ちゃんが雑種の中型犬を飼ってる。わりと仲の良い子」
「その犬、お散歩させるよね?」
「あ、毎朝晴恵ちゃんがお散歩させ係になってるみたい」
「その子に、この付近まで足を伸ばしてもらえないかな?」
「犬で幽霊を追い払うの?」
と愛奈。
「うん。わりと幽霊って犬に弱い」
と青葉。
「へー!」
と愛奈は感心している。
「それ結構昔から言われているよね」
と彪志も言った。
それで愛奈が晴恵に連絡した所、彼女もその幽霊騒動には関心を持っていたと言う。時刻は既に19時過ぎだったのだが、愛奈が霊能者さんを連れてきたと言うと、今からでも話を聞きたいということであったので、3人で晴恵の自宅にお邪魔して、愛奈が状況を説明する。更に青葉が地図を示して、靴屋さんの立ち退きで気の流れが変わってしまったことから、この付近に幽霊が出るようになったことを説明し、強い護符を持った人が日々特定のルートを巡回すると、この付近が守られるようになると説明した。すると幸いなことに晴恵はその「幽霊撃退作戦」に興味を持った。
「いや、あの付近は私も通学の時に通るから、幽霊が出たら怖いもん。私自身は見たことないんだけど、幽霊が居たって悲鳴上げて逃げてきた子には遭遇したことあるのよ。シロちゃん散歩させるので追い払えるならやりますよ。どうせ散歩は毎日するんだし」
と晴恵。
「晴恵ちゃんが体調悪い時は私に連絡して。代わりにやってもいいよ。自分の住んでる所の幽霊対策だもん」
と愛奈も言う。
「その犬の首輪に特殊なお守りを付けさせて欲しいんです。それでこのルートを巡回して欲しいんですよ。そのお守りは明日の夕方、こちらに持って来ますから」
と青葉。
「青葉、それどこに取りに行くの?」
「もちろん高野山」
「明日の夕方までに往復するの〜?」
「うん、してくる」
「俺も付いて行くよ」
「交代のドライバーが欲しかった」
青葉は高野山★★院の瞬醒さんに連絡して、これこれこういう仕様のお守りを中型犬の首輪につけられるように作って欲しいと言った。
そして青葉は彪志とふたりで仙台駅に戻ると、最終の新幹線でいったん東京まで行く。都内のビジネスホテルで一泊(青葉はネットカフェでいいと言ったが彪志がビジネスホテルを主張した:どっちみち事件対処のため潔斎中なのでセックスはできない)した上で、22日朝1番の新幹線で京都に向かった。
駅前で彪志の名前でレンタカーを借りると最初は彪志の運転で京奈和道に乗る。ひたすら奈良県内を南下し、有料道路を出た所で運転は青葉に交代。11時頃に高野山★★院前に到着した。
「ここ凄い所だね」
などと彪志が言いながら、お寺の中に入っていくと、瞬醒さん自身が出てきて
「作っといたよ」
と言って、お守りを渡してくれた。
「ありがとうございます。これはちょうどいいサイズです」
「ところでそちらの男の子は青葉ちゃんの彼氏?」
「はい。フィアンセです」
「惜しいな。彼女がいない男の子なら、ぜひうちに入ってもらって100年くらい修行させたいのに」
「私がキープしてるからダメです」
「取り敢えず修行20年か30年でもいいけど」
「済みません。遠慮しておきます」
「お肉食べられないのと、女が居ないことのぞけば、いい所だよ」
「青葉と結婚したいので」
「性欲抑えきれないなら去勢する手もあるし」
「去勢なさっている修行僧の方もあるんですか?」
「少なくとも戦後はひとりも出てないな。去勢手術してくれるお医者さん紹介するよと言うと、みんな頑張って性欲を乗り越えますと答える」
と瞬醒さんが言うと
「俗世間は捨てても男は捨てたくないですよ」
と醒春さんが横から言った。
瞬醒さんによく御礼を言ってから★★院を後にする。
京都駅まで戻り、そこから京都14:05-16:23東京17:20-18:52仙台という連絡で仙台に舞い戻った。
愛奈・晴恵と仙台駅近くの飲食店で落ち合う。
「24時間掛けずに奈良まで往復できるんですね。すごーい」
「日本列島も狭くなったよね」
「これを首輪に取り付ければいいのね?」
「はい。お願いできますか」
「でもこの地図見ていたんだけど、何か図形を描くようなコースだね」
と愛奈が言う。
「うん、図形を描いている」
と青葉は答える。
「それって、やはり魔法陣とか反閇(へんばい)とかのようなもの?」
「まさに、それ。だからこれを実行する人は運気が上がると思う」
「おお」
「あのアパートは女学生が多いということで、特に女性を守る形にしてる」
「おお!」
「じゃお兄ちゃんとかお父さんに代わってもらうと、女性化する?」
「うーん。女性化まではしないけど、少し心が優しくなるかも」
「シロも女性化するかなあ」
「シロちゃん、男の子ですか?」
「生まれた時は男の子だったんだけど、取っちゃったから今は中性ですね」
「だったら、女性化しても問題ないですね」
「うん。確かに問題無い!」
「でもこれ御礼(おれい)とか幾らくらい払えばいい?」
と愛奈が訊くので青葉は言った。
「こないだの彪志のデート権を私が買い取ったのと相殺で」
「なるほどー」
「要するにお代は彪志だね」
「うん。それでOK」
と愛奈も言った。
彪志が複雑な表情をしていたが、晴恵は
「すごーい。人身売買の現場を見てしまった」
などと言っていた。
なお青葉と彪志はその日は仙台市内のホテルに泊まり、翌23日ゆっくり千葉と高岡に帰還した。
しかし今回は彪志の「交際問題」の絡みで報酬を受け取らなかったものの、実費が交通費と宿泊費・レンタカー代・ガソリン代・高速代に瞬醒さんに渡した謝礼まで入れて20万円を越している。
こないだ上旬にデートした時も高岡との往復の交通費は冬子さんからもらったし、高速代は千里のETCカードを使わせてもらったものの、ガソリン代やランチクルーズの代金などで5万円以上使っている。
「まあいいか。12月にはまた印税が入るし」
と青葉は北陸新幹線の車内で今回の旅のレシートを見ながらつぶやいた。
本来印税や著作権料の支払いは3,6,9,12月末だが、契約の関係でその月に振り込まれるものと、1ヶ月遅れで振り込まれるものが混在している。実際には1ヶ月遅れのものの方が多いので、実は12月に入金するのは恐らく10万円前後しかない。
それでちょっとため息をつきながらレシートをバッグの内ポケットに再度しまっていたら千里から電話が入る。周囲に他の乗客がいないのを見て座席でそのまま取る。
「おはよう、ちー姉」
「グーテン・モルゲン、青葉」
ちなみに時刻は既に21時過ぎである。先日幣原さんたちと交わした「おはようございます」は芸能界や歌舞伎界の習慣だが、今日のはただのジョークである!
「青葉、ぱーっとお金儲けたくない?」
「うーん。そういう話は何だか怖いけどな」
「即金で25万プラス消費税払うからさ」
「25万!?」
と思わず言って、それだけもらえば今回の仕事の赤字補填ができると青葉はつい考えてしまった。
「簡単なお仕事なのよ」
「霊関係?」
「音楽関係」
「そっちか!」
「アクアに渡す、東郷誠一さん名義の曲、今月いっぱいでいいから1曲書いて」
「えーっと・・・」
「アクアに提供している楽曲は1回目は東郷誠一と上島雷太、2回目は東郷誠一とマリ&ケイ、3回目は東郷誠一と大宮万葉、ということで来たんだけど4回目は大宮万葉さんが受験で忙しいというので、東郷誠一と再度マリ&ケイで書くことになっている」
「うん、聞いてる」
「でもアクアに提供している東郷誠一名義の曲は実際には一貫して私と蓮菜、つまり葵照子と醍醐春海で書いている。でも今回、私忙しくてとても手が回らないのよ。アクアに提供する曲って、結構力(りき)入れないといけないからさ」
「それを私が書くの?」
「歌詞はできてる。だから曲だけ付けてもらえばいい」
「でも私も受験勉強で忙しいんだけど」
「うん。でも受験勉強の気分転換にこういうのちょっとやってみるのもいいじゃん。受けてくれたら明日朝1番に25万プラス消費税振り込むからさ」
「う・・・・」
「これはただの作曲御礼だから。実際の印税・著作権使用料はふつうに払う。東郷誠一さん名義の照海作品の場合、8割をこちらにもらえる。今回は私が通常受け取っている分の全額を青葉に渡す。結果的に売上金額の2.88%になるから400円が100万件売れたとして1152万円」
「凄い」
青葉はアクアの3枚目のシングル用に曲を提供しているが、その発売は明後日11月25日である。それでアクアの曲を書くとそんなとんでもないお金がもらえるということを青葉はこれまで全く意識していなかった。
「美味しいでしょ?アクアの曲はテレビ・ラジオ・有線でも流れるしカラオケでも歌われるからその後の副次的な収入も凄まじい。編曲はあまり凝らなくてもいいから。エレメントガードってゴールデンシックスと違ってあまり演奏の技術力が高くないから、実際難しい伴奏はできないんだよ」
「エレメントガードって何だっけ?」
「アクアの新しいバックバンド。ゴールデンシックスも忙しいから、アクアの音楽活動もこれから増えて行くことが予想されるし、専任バックバンドを作ることにしたんだよ」
「へー!」
「だから今下川工房で、アクアの過去の楽曲をエレメントガード向けに少しやさしい伴奏に書き換えているところ」
「大変だね。でもゴールデンシックスってそんなに難しい伴奏してたっけ?だって毎回メンバーが違っても行けるようにしてあると聞いたのに」
「リノンとカノンが演奏する部分だけはレベルが高かったのさ」
「なるほどー」
「カノンは歌に専念していることも多いけど、そういう時は私や麻里愛とかがキーボード弾いてたんだよ。リードギターはリノン以外が弾くことはめったに無い」
「そうだったのか」
千里と15分ほど車内で話している内に、青葉はいつの間にか自分がアクアの曲を受けることを前提で話が進んでいることに気づき「しまったぁ」と思った。
えーん。せっかく受験で忙しいからと4曲目は他の人にお願いしますと言ってケイさんが引き受けてくれたのに。結局また書くことになるなんて!と青葉は思った。どこの時点でこういう方向に話が来てしまったんだっけ??
それで歌詞がメールで送られてきたので、青葉は帰りの車中でずっと楽曲の構想を練っていた。
そして24日朝、ほんとうに青葉の口座に27万円が振り込まれてきたので、すげーと思った。千里はふだんは結構ぐずぐずしているものの、戦闘モードになっている時は、行動が物凄く速いのである。
青葉に楽曲を1つ押しつけた千里は、この時期実際には社会人選手権を終えて東京に戻った後、毎日バスケ漬けの日々を送っていた。
レッドインパルスが9月以降ずっと冬のリーグ戦をしていたので、千里は2軍選手扱いではあるが、1軍の練習相手として毎日かなりマジな実戦練習をしていたし、40 minutesの方でもオールジャパンに向けて連日みんなを指導していたので、朝から晩までひたすらバスケをしており、時々千里B(きーちゃん)から『ちょっとこちらに来て』と言われても『忙しいからパス、そちらで何とかして』と言っていた。
結局千里(千里A)は11-12月はJソフトの方には1度も顔を出していない。
10月までは40 minutesの練習は火木土のみだったのでまだ良かったのだが、専用体育館を借りて毎日練習できるようになって、張り切って本当に毎日出てくるメンツが何人かいるので、千里も3月で退団する意向を表明しているがゆえに尚更、毎日出て行ってみんなの指導をせざるを得なかった。
40 minutesを始めて最初の半年くらいは千里は純粋に「選手」だったのだが、その後は実質的にチームのヘッドコーチのような位置付けになっている。監督とアシスタントコーチの2人は別途仕事を持っているので、大会の時以外はほとんど顔を見せていない。今年春からレッドインパルスやW大学の練習に参加したのは、自分自身が練習できる場所を確保したかったのもあった。
そんな中、千里は11月3日の朝に着想を得て書いた『門出』を、新島さんから回ってくる作曲依頼をこなしながら、夜間や移動中の矢鳴さんの運転する車の後部座席などで少しずつまとめあげていた。それが11月11日夜に何とか完成したので、翌12日夕方、川崎市のレッドインパルスの練習場所から江東区の40 minutesの練習場所に移動する途中、恵比寿の冬子のマンションに寄り
「これ良かったらローズ+リリーで歌って」
と言って譜面とMIDI, Cubaseのプロジェクトデータの入ったUSBメモリーを置いて来る。
その件で11月16日(月)の朝、冬子から電話が掛かってきた。
「あの『門出』凄い曲だね。さすが鴨乃清見レーベルと思った。なんでこんな凄い曲をくれるの?」
「大西典香が引退して、こういうのを歌える歌手がいないんだよ」
「あぁ」
「青葉に見せたら、冬子さんなら歌えますよと言うからさ」
「青葉のせいか。でも実は凄く助かる。ハイクォリティの楽曲CDを作りたいと思っていたんだよ」
「それは良かった」
「それで音源制作にも協力してくれないかなと思って」
「うーん。今忙しいけど、時間帯によっては協力できるかも」
「千里今どの時間帯が空いてるんだっけ?」
「平日の12時から17時まではレッドインパルスの練習に出ないといけないから、ここは動かせない。それ以外の時間帯なら程度次第。あと11月22日日曜日は動かせない予定が入っているから勘弁して」
「分かった。それでこの『門出』ともうひとつ、私が書いた『振袖』という曲に参加して欲しい」
「それはどういう曲?」
「高校生の時に書いた曲なんだけどね、これを書いた時にその場に鮎川ゆまが居てさ」
「ふーん。女湯で書いたのか」
「何でそんなのが分かるの!?」
「今冬子の話を聞いていて、そのシーンが浮かんだ。若葉ちゃんも居たね」
「さっすが!若葉の件も正解。それでゆまがその時、この曲に入れる龍笛の吹き手として千里を推薦すると言ってたんだよ」
「ああ、ゆまさんの推薦か」
「実際、私は千里以上の龍笛を聴いたことがない。ぜひお願いしたい」
「青葉や天津子ちゃんにはかなわないよ」
「あの子たちのは破壊力はあるけど、まだ味が足りない。人生経験の量が千里とは違う」
「そうだなあ。同じ相手に5回も振られたら深みも出るかもね」
「細川さんとの件については私は何も言わないよ。ただ千里がやがては幸福をつかめることを祈っているだけ」
「ありがとう」
「この『振袖』に関しては実は笙を今田七美花に頼んだ」
「それ、私の龍笛と合わせると、天変地異が起きるよ」
「天津子ちゃんに龍笛を吹かせたら地球が爆発するかもね」
「あり得る、あり得る」
「だけど大西典香が引退して作品発表の場が無いということならさ」
と冬子は言う。
「うん」
「大西典香並みの歌唱力を持つ子を募集するオーディションでもしない?」
「それ冬が主宰するの?」
「鈴木さんにさせるよ。ちょっと話持って行ってみる」
「うん、それは歓迎」
と千里も答える。
「千里、来年はどのあたりなら時間ある?」
「春先からオリンピックまではほとんど時間無いと思う。でも今鴨乃清見用のストックが10曲くらいあるから、それで乗り切れると思うよ。あとオールジャパンがあるから、今の時期から年明けまでもあまり時間が取れない」
「了解」
「一応こないだも言ったように私来年4月からはレッドインパルスに移籍することになったから、その場合、Wリーグは9月中旬から3月中旬までがレギュラーシーズンなんだよね。でもその時期の忙しさはふだん通りから問題無い」
「ほんとに千里って忙しいね」
「それでも冬子の忙しさには足下にも及ばないよ。マジ過労死しないでね。辛いと思ったら、青葉とか花野子とかエリゼさんとかに適当に押しつけて」
「千里じゃなくて、青葉なんだ!」
そういう訳で、ローズ+リリーの音源制作に参加することになって、いよいよ時間が取れなくなった千里は、楽曲制作に多大な手間と時間の掛かるアクア向けの作品は、青葉に押しつけてしまったのであった!
実際の冬子たちの音源制作は11月の19-21日に『振袖』、25-27日に『門出』を収録した。『振袖』では今田七美花の笙と合わせたのだが、この時はスタジオ機器にトラブルが多発して大変だった。データも途中で2度飛び
「バックアップの大切さというものがよく分かった」
などと録音作業をしていた冬子の旧友の技師・町田有咲さんが言っていた。
「ところで前から思ってたけど、有咲さんって冬と以前何かあったんだっけ?」
と音源制作で遅くなって冬子のマンションに泊まった時、千里は冬子に訊いた。(政子は既に熟睡していた)
「まあ千里だから言うけど、有咲は私の性転換時期が少なくとも中学3年秋よりは後であることを証言可能な数少ない子のひとり」
「ほほお。恋人だったの?」
「まさか。私が女の子に恋愛感情持つ訳無い」
「うん。そうだとは思ったけどね」
「ただ有咲とはどこまで行ったのか実は私自身は記憶無いんだよ。当時失恋してそのショックで茫然自失だった時期でさ。有咲にさり気なく訊いても笑っているんだよね。たぶんセックスまではしてないんじゃないかとは思うんだけど、自信がない」
「冬、セックスしようにも立たないでしょ。女性ホルモンはもう幼稚園の頃からしてたんでしょ?」
「さすがに幼稚園の時には女性ホルモンは飲んでない」
「怪しい気がするけどなあ」
「その言葉はそのまま千里に返す」
「それにさ。実はここだけの話、政子と1回だけ私が男役でしたことあるんだよ。最初で最後の経験。でも政子はそれ本当に私のものを入れたのかって疑問を抱いている感じ。私のってほんっとに立たなかったからね」
すると千里は懐かしむような顔をして言った。
「私も実は桃香と1度だけそういうセックスしたことある。でも桃香も信じてくれないんだよね。あれが私の本物を入れたということを。桃香はその時期私は既に性転換済みだったのではと疑っている」
「なんか事情が似ている気がするなあ」
「そういえば情報源は明かせないけど、かなり信頼できる筋からの話で、青葉は小学6年生頃までは立ってたみたいね」
「ほほお。それは面白い話を聞いた」
「和実は本人は大学1年生の途中頃まで立っていたと主張しているけど、それは怪しい気がする」
「あの子もかなり早い時期から女性ホルモンのシャワーに身体を曝していると思うよ。だって骨格が女の子だもん」
「だよねー」
「女性ホルモンを摂っていると最初はとにかく男の機能が消失していくんだよね。その後で、女性の身体的特徴が発達し始める」
「そのいったん男でも女でもない状態になっている時期が精神的に辛いんだよね」
「精神的にも不安定になるよね。結構トランスする人の中には、女性の身体的特徴を獲得しつつ、男性機能は保持したい、みたいに思っている人いるけど、そうはならないもんね」
「じゃ雨宮先生って奇跡だね」
「あ、それは思ったことある」
12月初旬の日曜日。
この日試合が無かった貴司は阿倍子に言われておむつやトイレットペーパー、ミネラルウォーターに粉ミルク、それに先日ふたが壊れてしまった圧力鍋の代わりの新しいのなど、かさばるものを買いに一緒に買物に出かけた。
後部座席・運転席後ろにセットしたベビーシートに京平を乗せ、阿倍子がその隣(助手席の後ろ)、貴司が運転席に座ってAudi A4 Avantで6kmほど離れたイオンモールまで出かける。
駐車場で貴司が京平を見ている間に阿倍子がモールの中に何度か入って買物をしては荷物を車に積むというのを繰り返す。実際には貴司はほとんど寝ていたものの、京平はご機嫌だったようである。貴司は「この子、よく誰かと話しているかのように声を出しているなあ」と夢うつつに思っていた。
だいたい買物が終わった所で、貴司がスリングで京平を抱いて3人で一緒にフードコートに行き、お昼を食べた。貴司が大盛りのラーメン、阿倍子はハンバーグランチを食べ、京平はミルクである。
一休みしてから晩御飯の材料を買って車に戻る。子供連れでもあり左車線を制限速度ちょうどくらいの速度で走っていたのだが、少し前の車との車間距離を開けていたら、そこに右車線から大型トラックが入って来た。
「前が見えないわね」
「でも道は分かってるから大丈夫だよ」
そのままの状態で200-300m行った時、(多分)信号でトラックが停まるので貴司のアウディもブレーキを踏んで停まろうとする。
その時
京平が
「ぎゃー!」
と物凄い声で泣いた。
え!?
と思ってバックミラーで京平の様子を見ようとした貴司は、後ろから凄いスピードで迫ってくるコンパクトカーがあるのに気づく。
嘘!?
貴司はとっさに右後方を確認して右側の車線後方に車が居ないのを見るとアクセルを思いっきり踏むと同時に急ハンドルで右側の車線に逃げる。
急激な動きに阿倍子が「きゃっ」と声を挙げる。
しかし後ろから突っ込んできた車の勢いが凄くて、貴司の車は後ろから追突され、貴司が思いっきりアクセルを踏んだこともあり、そのまま中央分離帯まで行ってしまった。
ガチャッ、バリンッ。
という音が二連発か三連発で起きた気がする。
後ろから凄い勢いで突っ込んできた車は貴司の車にいったん追突した後、貴司の車が右側に抜けた後、そのままトラックに激突した。
貴司の車も中央分離帯に半分乗り上げる形で停まる。
貴司は一瞬意識が飛んだ気がした。エンジンは停止している。停まったのか自分で停めたのか、分からなかった。
貴司は
「阿倍子、大丈夫か?」
と呼びかける。
「うん。何とか。・・・・京平も大丈夫みたい」
と阿倍子が返事するのでホッとする。
人が集まってくる。
「大丈夫ですか?」
と声を掛けてくれる人がある。
「はい、何とか」
「助手席、誰も乗ってなかったんだね」
「ええ」
「良かったね。これ当たってたら死んでたね」
と言われて貴司は初めて気がついた。そしてゾッとした。
中央分離帯で何か工事でも行われていたのだろうか。鋼材が積み上げられていたのの1本が車に突き刺さる形になっていて、その先が助手席の所に達していたのである。
貴司から電話で事故の話を聞いて、千里も肝を潰した。
「誰も怪我が無くて良かったよ」
「うん。病院に連れて行ってもらって診察受けたけど、僕も阿倍子も京平も異常なし。追突されたから鞭打ちとか出たら怖かったんだけど、僕がアクセル踏んで逃げたので、追突のショックは最小限で済んだみたい」
「良かった」
「でも京平をもしベビーシッターとかに預けて阿倍子と2人で出ていたら阿倍子は助手席に乗っていたと思うんだ。京平を連れていたから阿倍子は後部座席に乗っていた。それで助かったよ」
「やっぱり阿倍子さん、運が強いんだよ。私も今阿倍子さんにそんな形で死なれたら夢見悪いからさ」
「そうだね。でもあの時京平が泣いてなかったら、凄い速度で追突されていて、それで3人とも大怪我していたと思う」
千里はさっすが京平と思った。泣くことによって危機を貴司に伝えたのだろう。
「そのトラックに突っ込んだ車は?」
「居眠り運転だったんじゃないかなあ。ドライバーは重傷。命には別状無いけど、足とか肩の骨折で全治6ヶ月くらいじゃないかという話」
「きゃー。よく助かったね」
「それも思った。実際そちらの車は前がほとんど潰れていた。サバイバルゾーンも半分くらい潰れていた。でも、いったん僕の車にぶつかったことでトラックに衝突する時の勢いが少し小さくなったのでは、と保険屋さんは言ってた」
「なるほどー。貴司の車のお陰でその人も助かったんだ。トラックの運転手さんは?」
「無傷」
「それも良かった。やはりトラックは頑丈だからね」
「そうそう。でもアウディは廃車だよ。前も後ろも傷が酷い。特に前はかなり変形してる」
「まあ仕方ないね。でもアウディじゃなかったら、それで済んでないかもよ」
「思った。軽とかだったら、あの鋼材が後部座席まで達していた可能性もある。そもそもクラッシャブルゾーンが小さいからね」
「やわな車だと鋼材の山に突っ込んだだけでもたぶん全員怪我してるよ」
「うん。その可能性もある」
「それ事故の責任はどうなるの?」
「事故の様子を見ていた人が何人か証言してくれて、責任は突っ込んできた車に全てあるということになった。本人も自分の過失を認めたから、それで処理されると思う」
「貴司の責任は?」
「問われなくて済むみたい。鋼材も工事の責任者が保管の仕方が悪かったってんで始末書を書いたみたいだし」
「それはちょっと気の毒かも」
青葉は千里から頼まれた「東郷誠一」名義のアクア向け楽曲を受験勉強の合間を縫って何とか11月29日(日)に書き上げ、Cubaseのプロジェクトの形で千里に送信した。
ホッとしていた12月1日(火)、教頭先生から呼ばれて職員室に行くと
「△△△大学が、願書受付前に、君に一度会っておきたいと言っているのだけど」
と言われる。
「私の性別問題ですか?」
と青葉は尋ねる。
「うん。そうだと思う。君の取り扱いについて、実際に本人を見てから判断したいんだと思う」
と教頭。
「でも私、あまりこの大学に行く気は無いんですけど」
「その件は一応向こうにも言ったけど、それでも合格した場合に入学する可能性があるのであれば、実際の本人を見ておきたいと思うんだよね」
「なるほどですね」
「それで申し訳ないけど、今週中に一度東京まで行ってきてくれない?交通費と宿泊費は向こうが出してくれるらしい」
「まあ旅費付きなら行ってきましょうかね」
それで教頭先生に向こうに連絡を取ってもらった上で、青葉は翌日12月2日(水)朝から新幹線で東京に出た。(新高岡6:25-9:20東京)
10時すぎに△△△大学の法学部を訪れ、1階事務所で来訪の趣旨を言うと、応接室に通され、女性の教授が応対してくれた。
「あの、失礼ですが、あなた本当に男の子だったんですか?」
「ええ、そうです。中学3年生の時に性転換手術を受けました」
「声も女の子の声ですね」
「声変わり前に去勢してしまいましたから」
「それは凄い。ご両親に随分理解してもらえたんですね」
「いえ。親は私も姉もネグレクトして食事も作ってもらえなかったんで、自分たちで勝手にご飯作って食べていた状態で」
「え〜〜!?」
「食料とかは親戚や知人から援助してもらっていたんですよ」
「よくそれで生きて来ましたね」
「後からそう思いました。私は岩手県に住んでいたのですが、東日本大震災でその両親も姉も失って、その後、縁があって、今のお母さんに後見人になってもらって富山県で暮らしています」
「ああ、それで保護者の苗字が違うんですね」
「ええ。養子にはなっていないので。まあ、それで親に放置されているのをいいことに、私はずっと女の子の格好で小さい頃から暮らしていたし、小学4年生の時から、女性ホルモンを勝手に調達して飲んでいて、5年生の頃には睾丸の機能も停止してしまったんです。それで声変わりもしていません」
このあたりの話は先日千里に注意されたので、ホルモン剤を飲んでいたことにしたのである。
「なるほど、それでそんなに自然に女の子なんですね」
「私は自分が男だなんて思ったことは1度もありません。ただ戸籍だけが男になっているので、本当に困っているのですが。これ20歳になるまで変更できないんですよね。高校1年の修学旅行でヨーロッパに行った時もあちこちで大変でした」
「ああ。苦労するよね」
どうも青葉を一目見ただけで、向こうの「用事」は済んでしまったようで、その後はほとんど雑談になってしまった。
青葉は自分を保護してくれて、そして13年間親の愛を知らずに育った自分をほんとに優しくして愛してくれている今のお母さんに恩を感じているので、富山県からは移動したくないと思っていること、こちらの大学は進路指導の先生から言われて、やむを得ず受けることにしただけで実際には進学の意志は無いことも伝えた。
「でももし国立に落ちてしまったら、こちらに来ますよね?」
「まあ、来る可能性はあると思います」
「法学部を受けるということですが、弁護士志望ですか?」
「いえ。法律全般の勉強をして、放送局に勤めたいと思っています」
「なるほど、公共政策コースですね」
「はい。弁護士になったら、私、被告人の弁護より真実の追究に燃えちゃいそうだから、あまり弁護士に向かないです」
「あら、だったら、検察官になる手もあるわよ」
「そしたらたぶん私、回ってきた被疑者を全員、起訴猶予にしちゃいますよ」
「それは困った検察官だ」
教授は唐突に法律の条文番号を挙げる。
「民法第753条を言えますか?」
「成年擬制ですね。未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす」
「それでは16歳で結婚した女性は、お酒を飲んでもいいでしょうか?」
「いけません。民法753条が定める成年擬制は、あくまで民法や商法などの私法における法律行為の主体となるためのものですので、公法上の行為には適用されません。ですからお酒やタバコを飲むことは許されませんし、選挙権も得られません」
「では16歳で結婚した女性が17歳で離婚した後、成年擬制は消えますか?」
「消えません。子供の親権を持たないといけないこともありますので」
「あなた法律に結構詳しいみたい」
「一応六法の範囲なら全部条文を暗誦できますよ。コンメンタールも一通り通読していますし」
「凄いね。あなた裁判官になるとかは?」
青葉は苦笑して自分の「副業」について明かす。
「これ言うと、あやしげな人と思われそうで言わなかったんですけど、私はずっといわゆる拝み屋さんをしているんですよ。もう4〜5歳の頃から、拝み屋さんをしてた曾祖母に連れられて」
「へー!」
「曾祖母が亡くなった後は、私まだ小学生なのに、あちこちで霊的な相談とか受けていて」
「なるほど」
「そういう相談を受けていると、医学的な知識とか法律上の知識とかも結構要求されるんですよ。そういうのに絡む相談って多いもんだから。病気の相談は多いし、恋愛関係や結婚離婚・子供の養育、親戚や近所同士の遺産や土地の揉め事とかでの相談も多くて」
「ああ」
「それで医学や法律のことかなり勉強したから、その方面の知識はかなりありますよ」
「それだけの知識持っているなら、本当に法律家になってもいいのに」
「でも裁判官が『この事件は占いをしてみたら被告人は無罪であることが分かった』なんて言ったら罷免されちゃいますよ」
「確かに!」
教授とは最近話題になった幾つかの法律論議でもけっこう盛り上がった。最後の方は法律論からも離れてなぜかAKB48とSUPER☆GiRLSの話をしていた。会談は和気藹々とした雰囲気の中で終了した。
教授は青葉の最近の模試の成績表なども見た上で
「試験を受けたらふつうに採点するけど、あなたのこの成績と知識量なら多分合格する。それでもし気が向いたらぜひ入学してください。歓迎しますよ」
と言ってくれた。
なお、大学側からは「交通費宿泊費です」と言われて、新高岡−東京の新幹線指定席往復運賃と市内交通費相当分750円に宿泊費として15000円が入れられた封筒を受け取った。青葉は明細を見て「日帰りしますから宿泊費は不要です」とその分を返そうとしたのだが
「実際に宿泊するかどうかはそちらの任意ということでいいですよ」
と言われたので、そのままもらっておくことにした。
実際問題として大きな組織ではここで金額を変更しようとするとかえって手続きが面倒なのであろうとも考えた。
△△△大学での用事は午前中だけで済んでしまったので、青葉は彪志に今日の都合を訊いてみたら、午後東京に出てくるからデートしようと言われる。ゼミとか大丈夫なのかな?とは思ったものの、やはり先日の愛奈の件もあって青葉としては、彪志とのつながりはしっかり作っておかねばと思った。
彪志と東京駅で会うことにしたので、お昼を食べるのも兼ねて自分も東京駅に移動する。それで駅構内を歩いていたら、トラベリング・ベルズの相沢孝郎さんにバッタリ遭遇する。
「おはようございます」
「おはようございます」
と挨拶を交わしたのだが、相沢さんが何だか暗い顔をしている。
「どうかなさいました?」
「川上さんって、凄い霊能者だって言ってたよね?」
「凄いかどうかは分かりませんが、結構その関係の相談は受けています」
「ちょっと相談に乗ってくれない? 見料というのかな、それはきちんと払うから」
「午後から用事があるので1時間程度で済むなら」
「うん。今日の段階ではとりあえず話を聞いてもらえるだけでもいい」
「はい」
それでふたりで八重洲地下街のレストランに入る。
「実は先月22日にうちの弟が亡くなってね」
「あらぁ。それは大変でしたね」
「昨日が十日祭だったんで、それまで出てから帰ってきた」
「ああ、神葬祭ですか」
「そそ。うちの集落は坊主じゃなくて神主呼んで葬式する家が多いんだよ」
「へー」
「まあ奈良の田舎町のまた山の中の集落でさ、うちの実家はそこで温泉のある一軒宿を経営しているんだけど、親父とお袋は経営的なセンスが全くなくて、旅館にも全くタッチせず畑耕して暮らしてる。その農産物を旅館に納入しているだけ」
「はい」
「一応80歳の祖母がまだしっかりしているんで、会長の肩書きで、女将として睨みを利かせているんだけど、実際の切り盛りはほとんど社長の肩書きを持っていた弟がしていたんだよ。実は俺も名前だけの専務でね。何も仕事はしてなかったけど」
「その弟さんが亡くなったのは辛いですね」
「当面は30年来務めている番頭さんが、頑張って運営をしていくと言っている。俺が東京でこんなことしてるし、妹も東京の大学で今大学院に行っているんだけど、数年以内に俺か妹かどちらかが田舎に戻って、後を継いでくれないかと祖母からは言われた」
「大変ですね。でも相沢さんに辞められたらKARIONは困りますよ」
と青葉は言う。
「うちの女房も行きたくないと行っている。でも妹も、東京の生活に慣れちゃってるのもあって、もうあの閉鎖的な田舎には帰りたくないと言っているんだよね。戻ると番頭さんの息子と結婚させられそうなのも嫌がっているみたいだし。あの息子はちょっと問題あって。今はおとなしくしているみたいだけど10代の頃は何度か暴力事件や恐喝で補導されたこともあるんだよ」
「うーん・・・」
「それに今、妹は博士課程に在籍していて、将来的には大学か企業の研究室に入りたいと言っているし」
「それなら帰りたくないでしょうね。特に田舎では女は抑圧されるもん。博士課程までいくほどの人なら、なおさらですよ」
「うん。だから俺と妹の考えとしては、もう旅館を閉めるか誰か適当な人に売却してもいいんじゃないかと思っている」
「その番頭さんに買い取ってもらう訳には?」
「それは大きな選択肢なんだけど、何か引っかかる所があってさ」
「引っかかる所?」
「実はそれが何か分からないんだけど、俺は何かとんでもない見落としをしている気がしてならなくて。でもそれが何か見当も付かないんだよ。それで俺は帰ってくる途中、大阪で街の占い師に見てもらった」
「はい」
「するとだね。その占い師がエキとかいうんだっけ? あの竹の棒みたいなのをじゃらじゃらさせる奴」
「はい。易ですね」
「それでサンライイってのが出たと言われたんだ」
「山雷頤ですか」
「どういう意味だっけ? その占い師は、食事に気をつけろ。旅館を経営しているんだっら衛生管理を徹底して、食中毒に気をつけろと言っていたんだけど、どうも的外れのことを言われてる気がしてさ」
「山雷頤というのはこういう形です」
と言って青葉は紙に易卦(えきか)の形を書いた。
━━━
━ ━
━ ━
━ ━
━ ━
━━━
「上と下に陽爻(ようこう)━━━があり、真ん中の4本は陰爻(いんこう)━ ━です。陽爻は陰茎の形、陰爻は陰裂の形とも言われます」
「エロいね」
「陰陽の世界ですから」
「なるほど」
「その占い師さんが食事に気をつけろと言ったのは、この卦の形が人の口に似ているので、食事関係を表すことがあるからです。真ん中の穴の連続が口を開けている所ですよね。でもこの卦は別の見方をすると外側がしっかりしているのに内部が空洞になっている形にも見えます。つまりですね」
と言ってから青葉は一呼吸置いた上で相沢さんに言った。
「これ、旅館の経理に問題が生じている可能性がありますよ」
「やはりそれか!」
やはりという言葉を使ったということは、相沢さんも漠然と疑いを持っていたのであろう。
「相沢さん」
「うん」
「誰かが継ぐ形になるにせよ、また売却するにせよ、きちんとした経理監査をしてみた方がいいと思います」
「そうしよう。地元の税理士とかにやらせたら情実に流されるかも知れんし奈良市か場合によっては大阪から専門家を呼ぶか」
「それがいいかもですね」
相沢さんはまた相談するかも知れないが、とりあえずの見料と言って青葉に3万円を払っていった。
その後、東京駅の総武線ホームで彪志と落ち合うのだが、その前に青葉は駅のトイレで制服を普段着に着替えておいた。そして彪志に会うといきなり
「ホテルに行こうよ」
と言った。
彪志はストレートに言われてドキッとした顔をしていたが、むろん断ることはない。山手線で移動して、ふたりで五反田駅の近くのファッションホテルに行った。
11月3日に会った時はホテルには行ったものの1時間ほどしか時間が取れなかったし、11月21-23日に会った時も、22日までは事件中で潔斎しておかねばならなくてセックスはもってのほかだったし、解決した後で一緒に泊まりはしたものの、行程がハードだったので、お互い何もせずに眠ってしまっていた。それで、この日は実は半年ぶりのゆっくりとした愛の確認時間となった。
「やっと青葉とちゃんと出来た」
と彪志にも言われた。
「まあ夢の中では毎月1度してたけどね」
「うん。あれも気持ちいいけど、やはりリアルですると、青葉とのつながりを確認できる」
「そうだね。物理的にもつながるし」
彪志がむせる。
「青葉、けっこう大胆なこと言うよな」
「まあ、生娘じゃないし」
「青葉、エンゲージリング買ってあげようか?。俺貯金額が50万に達したからさ」
「えらーい。でも無理しないで。就職する時に色々お金かかるよ。引越代とかも掛かる可能性あるでしょ?」
「うん」
「指輪とか無くても、もう私は彪志の奥さんのつもりだから」
「じゃ、俺のアパートに来た時は『ただいま』と言ってくれ」
「うん。そう言うことにしようかな」
「でも彪志って、誰かふつうの女の子とセックスしたことは無いの?」
「青葉以外とはしたことないよ」
「してみたいとは思わない?天然の女の子の感触はどうかとか」
「別に関心は無い。俺は青葉だけで充分だから。それに俺は青葉とのセックスで充分に気持ち良くなっているよ」
「うん、気持ち良さそうにしてるね」
「青葉も気持ちいい?」
「気持ちいいよ。お互い気持ちよくなれるのがいいよね」
「男と女のピークのカーブが違うというから、だいたい前戯をたっぷり目にするようにしているんだけど、それでいいのかな」
「私も自分のピークカーブが本当にふつうの女の子のカーブと同じかどうかは自信無いんだけどね。あれこれ読んでみると、少なくとも男の子のカーブとは違うなあという気がする」
「たぶん青葉は男として発達し始める前に去勢しちゃったから、男のカーブにはならなかったんだよ」
「あ、それはそうかも知れない気はする」
「いったん男として発達してしまった後で性転換した人の場合、結構演技しているという話もあるよな」
「うん。でも実はふつうの女でもけっこう演技している人は多い」
「ああ、それはそんな気がする」
「でも多分物理的に快感を感じなくても、精神的な充足が大きいんだよ。だから女は演技するんじゃないかな」
「セックスって心のコミュニケーションだもんな」
青葉と彪志は14時くらいから16時半くらいまでホテルに滞在、その後山手線で有楽町駅に移動し、和実が店長兼チーフメイドを務めるエヴォン銀座店に行った。お店は夕食時で混んでいるかなと思ったものの、それほどでもない。
「今日は割と空いてるね」
と青葉が言うと
「朝10時くらいから16時くらいまでは結構混むけど、その後はそれほどでも無いんだよ。まあ19時から20時くらいは多少混むけど、今の時間帯はやや少ない」
と和実は言った。
「そうか、ここって日中が混むのか」
「そうそう。ここで打ち合わせとかするビジネス客が多いんだよ。ここってまじめなメイドカフェだから、下心のある客は来ないし」
それでも店内はテーブルの7〜8割が埋まっている感じである。税込み3000円の「震災復興ディナー」を頼んで、食べながら、ピアノの生演奏を背景に彪志とおしゃべりしながら店内の様子を何となく眺めている内に、青葉はひとりの若い男性に目を留めた。
彪志がその視線に気付いて青葉を咎める。
「どうしたの?あの男って青葉の好み?美形ではあるけど」
「そんなんじゃないよー。あの人、和実の知り合いみたいだなと思って」
「へー」
「和実が通りがかりに結構声を掛けているんだよね。何度か立ち止まって話していたけど、和実のその時の様子が面白い」
「面白い?」
「きっとあの人、和実の元憧れの人だよ」
「憧れの人?恋人なの?」
「恋人だったことはないと思う。恋人になれなかった人って気がする」
「へー!」
青葉たちが行った17時半くらいはまだ混んでいなかったのだが、18時半すぎになるとやや店内が混み出す。
「あまり長居しても悪いから出ようか」
などと言っていた時、店内に入ってくる女性が居る。青葉と視線が合い、軽く手を振ってきたので、こちらも手を振ったのだが、彼女には店内の常連さんと思われる人たちから
「ハミーちゃん、お久〜!」
という声が掛かり、彼女はお客さんたちにもたくさん手を振っていた。
「誰だったっけ?」
と彪志が尋ねる。
「和実や冬子さんたちと同じ大学に通ってた山吹若葉さん。冬子さんの小学校中学校の時の同級生でもある。そしてエヴォン神田店の元チーフメイドだよ」
「へー!」
「ハミーというのは彼女のメイド名。常連さんには結構ファンが多いみたいね」
「なるほどー」
その若葉が店内を見渡していたのだが、和実が寄ってきて、相席でいいかと訊いている。まだ店内には空いたテーブルがいくつかあるものの、まだ客が増えることが予想されるので、身内の人間はどこかに押し込んでおきたいのだろう。青葉はこちらに相席してと言われるかと思ったのだが、和実は若葉をさっき青葉が注目した男性、和実の元憧れの人ではと推測した男性のテーブルの所に案内して、相席を打診していた。
すると、男性が
「相席はOKですが、どこかでお会いしましたっけ?」
などと言っている。
「私も会った記憶がある。どこでしたっけ?」
などと若葉も言っている。
なんか面白そうな遭遇だなあとは思ったものの、やはり店内が混んでいるからそろそろ出ようということにして、青葉たちはそのままお店を出た。青葉は和実から「妊娠の状況」についても直接聞いておきたかったのだが、まあ後で電話するかと思った。
12月2日に東京まで日帰り往復して△△△大学の事前面談を受けてきた青葉だが、高岡に戻って3日、学校に出て行き教頭に昨日の報告をしたら
「実は今度は金沢のK大学と富山のT大学からも、一度会いたいという話が来ているのだけど」
と言われた。それで青葉はその日の内に金沢まで出かけてK大学の法学類の女性の教授と会い、翌12月4日にはT大学の経営法学科の女性の準教授と会い、どちらからも
「あなた本当に元は男の子だったんですか?」
「来て下さったら歓迎します」
と言われた。
実際問題として、どちらもリアルの青葉を一目見ただけで向こうの用事は済んでしまったようであった。
なおK大学の先生には推薦入試を受けたい旨伝えたが、その方がこちらも体制を整えやすいと言われた。学校生活で部活動のことも訊かれたので、合唱で全国3位、インターハイの水泳で7位に入ったことも言うと、
「それは素晴らしい。ぜひ大学でも部活動頑張ってください。もし入部でトラブルがあったらこちらからもひとこと言いますので」
などと言われた。
「ところで合格した場合、通学はどうされますか?」
とK大学の先生は訊いた。
後から考えてみると、青葉が学生寮に入寮を希望した場合の取り扱いについて学内で検討する必要があったからではと思った。K大学には男子寮が2つと女子寮が1つある。青葉はさすがに男子寮に入れる訳にはいかないものの、戸籍上男性である青葉を女子寮に入れることには、難色を示す関係者が出る可能性もあったろう。
「それなんですが、自宅から車で通学しようかと思っています」
「へぇ!」
「震災後途方に暮れていた私を保護してもらった恩があるので、私は今の家を出たくないのです。でも公共交通機関で通おうとすると大変なんですよね。今日も高校からここまで来るのに2時間掛かりましたが、公共交通機関で自宅からこちらに来る場合、時刻表を確認すると朝5時半に自宅を出てK大学に着くのは8時半ギリギリなんですよ。乗るのもJR西日本・あいの風とやま鉄道・IRいしかわ鉄道・北鉄バスと4社乗り継ぎになりますし」
「そのあたり新幹線開業で不便になったよね」
「そうなんです。それに冬は雪でバスが遅れる可能性があるので、授業開始に間に合わない事態も想定されます。でも最初から車で走れば自宅からここまで1時間で来ちゃうんですよ」
「凄い!」
「やはり数年前の津幡北バイパスの開通で高岡と金沢が物凄く近くなったんですよね」
「ああ、その話は結構聞いた」
「津幡北バイパス・津幡バイパスから山環(金沢外環状道路の山側部分)に入れば渋滞しやすいエリアを避けてここまで到達できますし」
「うんうん」
K大学の現在のキャンパスはその山環から少し入った所にあるのである。金沢市内の交通はこの山環の開通で画期的に改善された。
「それでキャンパス内乗り入れ許可を頂けたら、車で通学しようかなと思っています。するとバスの時刻を気にせず図書館とかも利用できるし、部活動とかも考えられるかなと思うので」
「ああ、特に部活動する場合は、公共交通機関は不便だよね」
と教授も言った。キャンパス内の乗り入れ許可は出るはずだから、何かあったら自分に言ってくれと先生は言ってくれた。
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【春対】(2)