【春退】(5)

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この祝賀会が行われた日の午後には、バスケット男子日本代表が成田国際空港から中国の長沙黄花国際空港へと旅立った。実は川淵会長を初めとするバスケ協会幹部はそれを見送った後で品川プリンスに駆け付けている。
 
情勢は厳しいものの、もし男子代表もオリンピック切符を取ってくれたら、日本国内のバスケ熱も一気に高まるところだろう。Jリーグが成功したのも、日本がワールドカップの一次予選を突破し、最終予選でもあと少しでW杯切符に手が届く熱闘(ドーハの悲劇)を演じたことが大きかった。それまではサッカーなどプロ化しても採算が取れる訳無いと言われていた。川淵氏自身も最初はプロ化反対派だったのがヨーロッパのプロチームを視察してきて賛成派に転じたのである。
 
その男子代表の一員として成田空港に来た貴司はドキドキしていた。海外に行くのは別に今更緊張しない。これまでも何度も関空や成田から飛び立っている。先日も台湾にウィリアム・ジョーンズ・カップで行ってきた。しかし今回はとんでもない問題を抱えていた。
 
チェックインはチームでまとめてやってもらった。そのあとセキュリティ・チェックを通るがキンコンと鳴ってしまう。それでボディチェックされる。この時、貴司はバレませんようにとドキドキしていた。しかし係官は
 
「ズボンのポケットに何か入れておられます?」
と訊く。
 
「あっ、すみません。財布入れたままでした」
 
それで財布をトレイに入れて通して再度ゲートを通ると何も鳴らなかった。
 
その後は税関では特に申告するものはないことを告げて通過。出国も自動化ゲートなのでそのまま通過。搭乗ゲート前まで行くと、ホッと脱力する気分であった。
 
バスケ協会の山岡さんが貴司のそばに寄ってきて小声で言った。
 
「細川君、何かおかしいよ」
「そうですか?」
「ね、もし怪しい薬とか持ってるんだったら僕に渡して。うまくバレないように処分しておくから」
 
うっ・・・怪しい薬でも持ってる人に見えたか!?
 
「大丈夫です。そういう変な物は持ってません」
「だったらいいけど、何かあったら、僕に相談してね」
「はい」
 

男子のアジア選手権は23日からなのだが、21日夕方、入国手続きをして宿舎に来た時、腕章を付けた人がチームに寄ってきた。
 
「事前ドーピング検査にご協力ください」
「はい。誰が対象ですか?」
「前山さん、細川さん、広田さん、よろしいですか?」
「はい。おい、その3人行ってきて」
と監督が言う。貴司はやっばぁ!と思った。その様子を山岡さんが心配そうに見ていた。
 
3人の男性の係官に付き添われて、3人が各々ホテル内の多目的トイレ(別のフロア)に入った。貴司はもう諦めの境地で指示されるままにズボンを足首のところまで下げ、上着はまくりあげ、パンツを下げた。
 
係官が戸惑う。
 
「あなたまさか女性ですか?」
「いえ男性です」
「ペニスは?」
「すみません。病気の治療で取ってしまったんです」
「女になりたいとかいうわけではないんですね?」
「別になりたくはありません。私はペニスが無くても男です。ペニスがあるかどうかなんて、男であるかどうかとは関係無いんですよ」
 
と貴司は言いつつ、千里の場合は、たとえちんちんがあったとしても間違いなく女だったからなあと昔のことを思い起こしていた。
 
「分かりました。病気で取ったのなら、追って再建手術とかなさるんですか?」
「そのつもりです」
「ホルモン療法とかはしていますか?」
「男性ホルモンの補充療法を勧められましたが、男性ホルモンを投与するとドーピングに引っかかる可能性があるので、拒否しています」
 
このあたりは万一ドーピング検査をされて股間を見られた場合の想定問答を練り上げておいたのである。
 
「分かりました。男性の私がこの検査を行っていいですか?」
「はい、私は男性ですから問題無いです」
 
「了解です。ではペニスが無いと狙いにくいと思いますが、コップの中におしっこをしてください」
 
「はい」
 
それで貴司はコップの中におしっこを出してドーピング検査を完了した。
 

しかし貴司はここでドーピング検査官に、おちんちんが無くなってしまった股間を見られたことで開き直りの心ができてしまった。そうだよ。自分でも言ったけど、別にちんちんがあるかどうかなんて些細なことなんだ。それが無くたって自分は男なんだから。
 
そういう気持ちが芽生えると、プレイにもキレが生まれた。
 
「なんか細川今日は凄いぞ」
と翌日の練習で主将から言われた。
 
「よし、お前調子いいみたいだから、明日はスターターな」
と監督も言う。
 
「え〜?いいんですか?」
 

それで貴司は9月23日初戦のイラン戦にスターターで使ってもらった。そして貴司はこの試合で12点も取る活躍を見せる。しかし強豪イランの前に試合としては86-48で大敗してしまった。
 
しかし貴司は好調を持続していた。24日のマレーシア戦では主力を休ませたこともあり40分の内28分も出場して20点をもぎとり、48-119で快勝する。更に25日のインド戦では接戦になったものの、後半の20分間使ってもらい10点を取る活躍。試合は65-83で勝ち、日本は予選リーグを2勝1敗の2位で通過。二次リーグに駒を進めた。
 
なおドーピングの検査結果については簡易検査の結果が23日に出たが3人とも問題なしと言われたことで、山岡さんもホッとした表情を見せていた。貴司は自分の検査表を個人的に見せてもらったが、男性ホルモンの数値が男性の標準値より遙かに下(下なのは問題無い。標準値を超えていたらドーピングが疑われる)という結果になっているのを見て、ああそうだよなあ、やはりタマタマが無いと男性ホルモンも無いんだと納得する思いだった。
 
しかし男性ホルモンが無いと闘争心も無くならないだろうかと心配したが、闘争心はふだんよりあるよな、とも思っていた。
 

9月24日(木)、連休明け。
 
青葉は午前中の授業を休ませてもらって、学校からすぐ近くにある自動車学校に行った。今日はここで卒業試験を受けるのである。3人の教習生が乗り込み、試験官が運転して試験コースのある所まで行く。青葉は最初に試験を受けることになった。
 
地図を渡されて「ここまで行って」と行き先を指示される。本来は地図を見てルートを自分で決めるところからが試験なのだが、地図は事前に教習生の間で流通しているので走るルートも事前に考えてある。
 
「はい」
と返事して、エンジンを掛け周囲を見渡し、右ウィンカーを点け、周囲を再度しっかり確認してから車を出す。右左折も事前の「歩行調査」でタイミングなどを確認していたのでスムーズに進行することができた。速度も各々の道路の制限速度ピタリで走って行く。最後は目的地のところで左ウィンカーを点けて後方目視確認もしてから脇に寄せ停車し、セレクトレバーをPに入れパーキングブレーキも掛け、エンジンを停めた。
 
「完璧でしたね」
と教官が言った。
 
「いや、美しい運転すると思った」
と他の教習生からも言われる。
 
「ありがとうございます」
「さすが運転歴40年」
「私まだ18歳ですよ!」
 

青葉はその後教習所内での方向転換もパーフェクトにこなし、卒業試験に合格。卒業証明書をもらった。それで本当なら翌日にも運転免許センターに行って筆記試験を受けて免許を取得したかったのだが、コーラス部の大会が迫っているので後回しにすることにした。
 
卒業試験の日も午後には学校に戻って午後の授業を受けた後で放課後はコーラスの練習をする。翌日も昼休み・放課後に練習した上、土曜日はお昼くらいから3時間ほど練習した上で、9月27日の本番を迎える。
 
9月27日は「あいの風とやま鉄道」「IRいしかわ鉄道」の直通便で金沢に行った後、特急しらさぎで名古屋に出る。それから名鉄に乗り換えて会場まで行った。
 

2〜3年生は今年2度目の中部大会なので、昨年のように浮ついていないし、1年生はもとより緊張などしていない。それでみんなリラックスした状態で本番に臨むことができた。
 
出場しているのは昨年より少し少ない17校である。どこかの県が参加校が減り参加枠も減ったんだろうなと青葉は思った。全国大会に出場できるのは1校または2校という説明が最初になされた。おそらく基本的には1校であるものの、優劣付けがたい所があれば2校になるということか。
 
最初に歌った学校は自由曲の途中で明かにミスをした。ソプラノソロが入るべき所をソロ担当の人が出そこなったのである。焦って途中から歌い出したものの、心理的にパニックになってしまったのだろう。ボロボロになってしまい、それに影響されて他のパートの人たちもおかしくなってしまった。演奏終了後、泣いていた。中部大会のトップバッターということで緊張したことから失敗してしまったのだろう。
 
次に出て行った学校は場内が騒然としていた中歌ったものの、この学校は課題曲の途中でピアニストが演奏を間違って停まってしまうという事態が起きる。ピアノが停まっても歌唱は続ける。それでピアニストも急いでそれに合わせて伴奏を続けようとして違う所を弾いてしまう。そしてその音につられて歌唱者が音を間違う事故が発生、こちらもかなり混乱の中、演奏が終わった。こちらはピアニストが泣いているのを3年生らしき生徒が慰めていた。彼女たちも2曲目はしっかりと演奏した。
 

2校続けて失敗した後で青葉たちのT高校で、何ともやりにくい雰囲気である。ここで3年生唯一(?)の男子ということで、先頭でステージに出て行き譜面を指揮台の所に置いてくる役目を仰せ付かった吉田君が歩いて行く途中でケーブルに引っかかって転んでしまう。
 
青葉は思わず天を仰いだのだが、これが逆にプラスに作用した。
 
吉田君が起き上がって「すみませーん」と気の抜けたような声で言ったことから、思わず座席に座っている参加者たちが爆笑した。それでT高校のメンツもみんな笑ってしまい、これでなんだかリラックスしてしまったのである。
 
「よし、みんな行こう」
と青葉がみんなに笑顔で声を掛ける。
 
「頑張って歌おう」
「ダメ元で思いっきり」
 
と声を掛け合う。それでアルトの日香理が先頭に立ってステージに出て行く。アルトの所に先に立っている吉田君の隣に立って「ドンマイ。おかげでみんな緊張がほぐれたよ」と小声で言った。吉田君は頭を掻いていた。
 
アルトに続いてメゾソプラノ、ソプラノと出て行く。最後に出て行ったのが部長の青葉、そして琵琶担当の希である。希は楽器を途中で取ってこなければならないのでいちばん端に立つ。
 
翼のピアノに合わせて最初に課題曲を歌う。このコンクールの課題曲はしばしば歌いにくい曲が選ばれるのだが、今年はとても歌いやすい、美しい歌である。これがとてもきれいにまとまって、会場全体から大きな拍手をもらう。
 
気をよくした所で希が琵琶とパイプ椅子を取ってきて構える。
 
今鏡先生とのアイコンタクトで希が琵琶を弾き出す。翼のピアノも始まり、歌唱が始まる。
 
KARIONの話題曲であるが、実は作曲者自身が演奏しているのである。そのことまでは審査員さんたちも認識はしていないであろう。しかしギター等を入れる学校はたまにあるが、琵琶が入るというのは珍しいので、会場の生徒たちもかなり興味深く聴いてくれていたようであった。
 
満場の拍手をもらって青葉たちはステージを後にしたが「やったね」「何だかすごく上手くいった」などと言って、青葉たちは手を取り合って満足いく演奏を喜んでいた。
 

早々に歌ってしまったので、その後はみんな楽な気持ちで他の学校の演奏を聴くことが出来た。
 
「へー、この学校けっこう上手いね〜」
「この曲かっこいいー。誰の曲だっけ?」
などと言いながら聴いている。
 
やがて3時間ちょっとの演奏が終わり、審議に入る。審議している間にはゲストにこの会場を提供している大学の女声合唱団が登場し、美しい歌声を聴かせてくれた。
 
「さすが大学生だね〜」
などと言って聴いていた。
 
やがて審査が終わり、審査員長が結果を発表した。
 
「1位愛知県E学園」
と発表される。E学園は昨年も優勝して全国大会に進出している。会場全体から拍手があり、E学園の部長さんは笑顔で壇上にあがるが、平然としている感じだ。
 
「E学園は全国大会に進出します」
と審査員長が言ってからE学園の部長さんに賞状を渡す。賞状の端に金色のリボンが付いているのが、どうも全国大会に行けるという意味のようである。
 
「なんか当然って顔してるね」
「いや、ここは本当にうまかったもん。ちょっと別格という感じだった」
 
「つづいて2位です。評点としては1位に迫るものがあったことを申し添えておきます」
と審査員長は言う。
 
「2位富山県T高校」
 
「うっそー!?」
と青葉の周囲で声があがる。そして
「きゃー!」
という嬉しい悲鳴をあげている子もいる。
 
青葉は空帆から強烈に背中を叩かれて「痛いよ」と言って立ち上がり、壇上にあがったところで審査員長は
 
「今年は2位のT高校も全国大会に進出します」
と言う。
 
青葉が見ると、この2位の賞状にも金色のリボンが付いている。T高校の生徒がいる席はなんだか大騒ぎになっている。
 
青葉も壇上で口に手を当てて戸惑うように喜びを表現し、審査員長にお辞儀をして、それから賞状を受け取る。そしてそのまま会場のT高校の生徒たちのいる方向に向けて賞状を掲げた。青葉が席に戻ると、みんな
 
「やったね!」
「凄いね私たち」
などと声があがっている。
 
「東京行ったらスカイツリー見なきゃ」
とお上りさん気分の子もいる。
 
「でもまたNホールに行けるね」
と日香理が言う。青葉と日香理は中学2年と3年の時、全国大会に参加している。
 
その後3位の学校も賞状が渡された後、8位までの学校が発表された。同じ高岡から来たC高校は7位であった。昨年は8位だったのでC高校も順位をひとつ上げたことになる。
 

帰りの《しらさぎ》の中。
 
「いや、この中部大会でもう引退かなと思ってたのに、引退が延びたね」
と言っている3年生がいる。
 
今鏡先生が声を掛ける。
 
「10月中旬まで活動が延長になったけど、受験の都合で活動からはもう退きたいという3年生は遠慮無く言ってね」
 
「大丈夫ですよ〜。そこまでは活動します」
とみんな言っているが、先生は
 
「親御さんとかとも話し合って、退きたい人はあとで個別に私の所に来てでも言ってね。それで他の部員から恨まれたりはしないから」
と言う。
 
「そうそう。受験に専念したい人は遠慮なく専念して」
と空帆もみんなに声を掛ける。
 
「いや、受験に専念しろと親は言うかも知れないけど、せっかく全国大会に行けるんだもん。それを花道に引退しますよ。全国大会が終わったら受験一色で頑張る」
と言っている子もいる。
 
「それに全国大会まで行ったなんてのは、内申書でもいいこと書いてもらえますよね?」
という声もある。
 
「推薦入学の人も、良い推薦状を書いてもらえると思うよ」
と青葉も言った。
 

月曜日には今鏡先生と青葉が教頭先生に合唱軽音部が中部大会2位で全国大会の参加権を獲得したことを報告。教頭先生は3年生部員についても特例で全国大会が行われる10月10日まで部活動を延長することをその場で認めてくれた。また全国大会には教頭先生も同行しようと言ってくれた。
 
「もし上位入賞したら、みんなにとやま牛のしゃぶしゃぶをごちそうするよ」
などと教頭先生が言うので
 
「それ部員に伝えますが、教頭先生その言葉を後悔しないでください」
と青葉は笑顔で言っておいた。
 
実際その日の昼休みの練習で、上位入賞なら、とやま牛のしゃぶしゃぶという話に歓声があがっていた。
 

火曜日、青葉は学校を休んで三度富山市の運転教育センターに出かけて行った。受付の人は青葉を覚えていて、例によって性別男の申請書類を何も言わずに通してくれた。
 
「あんたも早く戸籍修正できるといいね」
とだけ小声で言ってくれた。
 
筆記試験はまだ自動車学校を卒業して間もないし、この日も富山までの道すがら教則本をしっかり読んできたので、問題無く合格した。それで青葉はこの日の午後、原付と小特がセットされたブルーの免許を返納して交換に原付・小特・普通という3つがセットされた新しいブルーの免許をもらった。有効期限はこれまでの免許と同じく、平成30年6月22日である。
 
『これで安心して無免許運転できるんだな?』
などと後ろで《姫様》が言うので
 
『もう無免許運転じゃないですよー』
と答えておいた。
 
T高校では進学コースの免許取得は9月30日までという制限があるので9月29日に取得した青葉はいわばギリギリの駆け込み取得であった。
 

9月29日(火)大阪。
 
阿倍子は悩んでいた。この日、京平の3〜4ヶ月検診に行くことにして予約をしていたのだが、昨夜から急に自分自身が熱を出してしまい、京平に移さないようにとは思いつつも、とりあえず検診に連れて行ける状況ではないのである。そもそも体力不足で自身が病院にも行けない。そして実は食料ストックも丁度無くなっており、栄養を付けたいのに食べるものも無い。
 
中国に行っている貴司に電話してみたものの、何だかぜんぜん頼りにならない感じであった。名古屋に居る母に電話してみたものの、母はどうも乳幼児検診の意義自体を理解していない雰囲気で電話している内に精神的に疲れてしまった。
 
私、こういう時に頼れる友だちがいないからなあ。。。
 
と思っていた時、唐突に千里の顔が脳裏に浮かび、ぶるぶるっと首を振る。あの人にだけは頼りたくないぞ。
 
と思った時、来客がある。モニターで見ると、その千里である。
 
「何でしょう?」
とややぶっきらぼうに言う。京平の出産の時にいろいろ親切にしてもらったこともあり、あまりつっけんどんにはできない気分であった。
 
「貴司から電話あってさ。阿部子さんが風邪ひいて動けないでいるから、悪いけど、病院に連れて行ってくれないかといわれて。それと京平の乳幼児健診もあるんだって?」
 
阿倍子は物凄くむかついた。なんで貴司って、こういう問題で千里さんを呼び出すのよ〜? 千里さんもなんでノコノコやってくる訳?
 
しかし・・・
 
阿倍子は切実だった。実際問題として風邪の症状が酷くて病院どころか買物にも行けない。阿倍子はエントランスのロックを解除した。
 

「阿倍子さん、熱は?」
「さっき計ったら9度2分あった」
「きゃー。ちょっと見せて」
と言って千里は阿倍子の額にてのひらを触る。
 
「これは病院行かなくちゃ」
「でも動く気力も無くて」
「連れて行ってあげるよ」
 
それで千里は阿倍子に厚着をさせた上で、千里が京平を抱いて、阿倍子を連れ地下の駐車場まで行く。今まで泣いていた京平が千里に抱かれた途端泣き止んだことに阿倍子は軽い嫉妬の感情を抱いた。
 
京平をアウディA4 Avantの後部座席にセットしているベビーシートに寝せる。阿倍子にもその隣に乗るように言い、千里は車を発進させた。車内に置いているリモコンで駐車場のシャッターを開け病院への道を走る。
 
「千里さん、駐車場の開け方慣れてる感じ」
と阿倍子が言うと
「まあ、貴司が阿倍子さんと出会う前にさんざん乗ったからね。この車も多分私の方が貴司より多く運転してるよ」
と千里は笑顔で答えた。
 
「千里さん、今でも貴司のこと好きなの?」
 
「私は貴司とは友情で結ばれている。だから今私は貴司と阿倍子さんと京平のことを応援しているよ。3人の幸せを願っている」
 
と千里は言ったが、そのことばをそのまま素直には取れないと阿倍子は思った。
 

「千里さんって香水の類いは使わないのかしら?」
「バスケやってると、そんなのやってられないという感じ」
「あ、そうか」
「汗掻いてシャワーで流してそれだけだよ。私お化粧もあまりしないしね」
「そういえばお化粧してる所も何度かしか見たことない」
 
「だからさ」
「うん?」
「貴司が何か香り付けて帰宅した時は絶対誰か女と会ってるから、私に報せてよ。即その浮気潰してあげるから」
 
それって自分は貴司とデートしても香りを残すようなヘマはしないという意味では?と阿倍子は内心思う。しかし・・・
 
「千里さん、もしかして貴司の浮気潰すのに燃えてる?」
「うん。今までの12年間に40人くらい排除してきた」
「すごーい!」
 
「貴司と阿倍子さんが婚約した後でも、この3年間に10人以上排除してるよ」
「あの人、そんなに浮気してるの〜!?」
「ほとんど病気だね。いっそちょん切ってしまわない限り、浮気はやまないかも」
 
「うーん・・・・」
「ちょん切っちゃう?」
 
「ちょん切りたくなった」
と阿倍子。
「その時は貴司を取り押さえておくくらいは協力するよ」
と千里。
 
「あはは」
 
「でも貴司のおちんちん無くなっちゃったら、千里さんは困らないの?」
と阿倍子は訊いてみる。
 
「別に私は貴司のおちんちんには用事無いから。阿倍子さんが困るかどうかだけじゃないかな」
 
まあそう簡単には口を割らないか。でも逆に開き直られて自分と貴司は深く愛し合っているとか主張されても困るけどね。
 
「そうねぇ・・・」
 
と言いながら阿倍子は考えていた。そういえば貴司と最初の頃は色々睦みごともしてたけど、あいつってEDだからいつの間にか全然しなくなったな。中国から帰ってきたら、立たないまでも、少しいじったりしてあげようかなぁ。。。。
 

行きつけの内科クリニックで阿倍子を降ろすと、千里は
「じゃ、阿倍子さんが診てもらっている間に私は京平を検診受けさせてくるよ」
と言った。
 
「うん。お願い。正直、病院の待合室に京平を置いておきたくなくて。帰りはタクシーででも帰るから」
と阿倍子も言うので、そういうことにした。
 
母子手帳を持っているのを確認して、千里は京平を連れて検診を受ける総合病院に行く。
 
『いんちゃん、阿倍子さんに付いててくれる?』
『了解』
 
そして千里は某所に向かっている最中の《こうちゃん》と《きーちゃん》に問いかける。
 
『今どのあたり?』
『まだ仙台付近。あと2時間くらいかな』
『お疲れ様、気をつけてね』
 

検診は10時からになっていたのだが、千里が到着したのは9:50くらいである。受付を済ませて、最初は広い部屋に入る。赤ちゃんを連れたお母さんたちがたくさんいる。ミルクをあげている人もいるが、直接お乳を吸わせている人もいる。京平が少しぐずる。千里は、ここならまあいいかなと思い、自分も服を少しまくりあげて京平に乳房を含ませた。勢いよく吸い付く。
 
吸う力が強くてちょっと痛いけど、これけっこう幸せな気分になるなあ、と千里は思っていた。京平に直接授乳するのは実はもう4回目である。
 

やがて保健師さんのお話が始まる。予防接種の話をしているが、これってパズルだよなあと思っていた。何の後に何をしなければならないとか、いつまでに何をしなければならないとか、何を受けた後は最低これくらいあけないといけないとか、条件がたくさんあるので、予防接種の計画を練るのは、本当に難しい。
 
貴司がかなり悩んでいたので、いくつかの案を貴司とふたりで組み立てておいた(阿倍子は「分からない!」と音を上げたらしい)。京平は先月末にヒブ・肺炎球菌・ロタの接種を受けている。今日は4種混合を受けさせる予定である。しかし今日ヒブを受ける人もいるようだ。
 
その後離乳食のお話があるが、京平の離乳食は急がないことを貴司と阿倍子さん(と千里!)は合意している。昔は離乳食はできるだけ早く始めて断乳しろなどと言われていたが、それはアレルギーなどを増やすと現在では言われている。
 
そのあと個別に身体測定と診察が行われる。京平は標準より身長も体重もあると言われた。
 
「お母さんも背が高いですね。お父さんもですか?」
「ええ。夫は身長188cm, 私も168cmくらいですから。実はふたりともバスケット選手なんですよ」
「だったら、お子さんもきっと大きくなりますね」
と助産師さんは言っていた。
 
「混合栄養ですか?」
「そうです。だいたいお乳が7割くらいです」
「お乳はよく出ます?」
 
「出ます。私、日中はバスケの練習に出ていて、子供は他の人に見てもらっているのですが、練習中に休憩して搾乳したりしてるんですよ。ですから水分補給も他の選手の倍くらいしている感じで。でもその練習中に搾乳しておいたもので翌日の私が不在中の哺乳もだいたい行けるんです。足りない時はミルクをあげますけど」
 
「それだけ出るのはいいですね」
 
千里は実際に助産師さんにおっぱいも見てもらったが
「いい感じで張ってますね〜」
と言われた。
 
助産師さんは乳首を少し指で押して「出具合」を見ていたが、それもちょうどいいくらいの出方だと言った。
 
「乳腺炎とかは大丈夫ですか?」
「ええ。今の所特に問題もないようです」
 
お医者さんによる診察でも京平はどこも問題無い、健康そのものと言われた。
 

別室で予約していた4種混合の予防接種を受けた。そして京平を連れて駐車場に戻り、取り敢えず京平が欲しがっているのでお乳を飲ませていたら、《きーちゃん》から
 
『今いいよ』
とメッセージが来る。
『じゃ、よろしく』
と千里が答えると、千里は京平を抱いたまま、病院の一室の前に居た。千里はドアを開けて中に入った。
 
「おばあさん、お久しぶりです」
と千里は起きて編み物をしていた淑子に言った。
 

貴司から連絡があった時に全ての計画を立てた。まず阿倍子さんの近くに京平の世話(主として霊的なガード)と搾乳ボトル補充回収のため当番で詰めてくれている子(今日は《すーちゃん》)と《きーちゃん》が位置交換した上で、《きーちゃん》と千里が位置交換して千里は大阪に来ることが出来た。その上で《こうちゃん》に《きーちゃん》を乗せて留萌に飛んでもらった。そして2人が到着した所で《きーちゃん》と千里の位置をまた交換したのである。
 

「千里ちゃん!?」
「こちら京平君ですよ」
 
「わあ・・・」
と言って淑子は笑顔で京平に触る。
 
「だっこしてみます?」
「いいの?」
「はい」
 
それで淑子は京平を抱いて撫でている。京平も淑子に抱かれておとなしくしている。この子はけっこう人見知りをするのだが、自分の曾祖母というのが分かるのだろうか。
 
「でもどうして千里ちゃんが?」
「阿倍子さん、身体が弱くて北海道までの旅行には耐えられないみたいで。あの人数百メートルも歩いたら、10分くらい休まないといけないみたい」
 
「そんな身体でよく京平を産んだね!」
「産んだ後、死にかけて焦ったんですよ」
「ひゃー」
 
「私、この子が生まれた時、理歌さんと一緒にその部屋に居て阿倍子さんの手を握って励まして、産まれて最初にこの子を抱いたんですよ」
 
「そんなことしてたんだ?」
「貴司さんったら、ホントに何にも考えてなくて。私や理歌さんが行ってなかったら大変でした」
 
「ああ、理歌が行って色々してあげた話は聞いた」
 

「でもちょっと今日はこっそり連れてきました」
「あらあら」
 
「だからお母さんにも京平と会ったことは内緒にしておいてください」
「うん、いいよ」
 
と言ってから淑子は急に不安そうな顔をした。
 
「千里ちゃん、じいさんが亡くなる直前に京平の写真をじいさんだけに見せてあげたよね?」
 
千里は微笑んで答えた。
「あれはおじいさんの寿命はどうにもならなかったので。でもおばあさんはまだまだ30年は行けますから、ちゃんと京平が小学校・中学校に入学して、お嫁さんもらって子供産むまでちゃんと見られますよ」
 
「ほんとに?」
 
「ですから、病気しっかり直してくださいね。またこっそり連れてきますから」
「うん。私、頑張る」
 
と淑子は言った。
 

「でもおじいさんとおばあさんって結構な年の差婚ですよね」
「うん。20歳違う。でも私は後添えだから」
「あ、そうだったんですか?」
 
「宝蔵の最初の奥さんは7つ違いだったんだよ」
「昔はそのくらい結構普通かも知れませんね」
「その人が6人子供を産んで。でも数え年三十三歳の大厄の年に亡くなったんだよ」
「あらあ」
 
「その後私が後添えで入って、2人産んだから」
「じゃ8人兄弟だったんですね」
「そうそう。でも前妻さんが産んだ6人の内2人は小さい内に死んでしまったし、ひとりは大学生の時に交通事故で死んだから、結局今は5人しか居ないけどね」
 
「人数が多いと、亡くなる人も多いですよね」
「特に昔は田舎では子供の死亡率は結構あったんだよ」
 
「でしょうね。ということは、今は前妻さんの子供が3人と淑子さんの子供が2人残っている訳ですか?」
 
千里がそんなことを言うと、淑子は不思議な笑みを浮かべた。
 
「実は私が産んだ子が3人なんだけどね」
「え!?」
「前妻さんが最後に産んだことになっている晴子はね、実は私が産んだんだよ」
「それ、どうなってるんですか?」
 
「前妻は私の従姉でさ。親戚の集まりで私があの家に行っていた時に宝蔵に手籠めにされちゃって」
「え〜〜!?」
 
「私、まだ高校生だったのに、子供産んじゃったんだよ。でも子供産んだなんてバレたら学校退学になっちゃうじゃん。それで出産したのがちょうど夏休みでバレにくかったし、前妻さんが産んだことにして出生届を出したんだよね」
 
「わあ」
「その後で、前妻さんが亡くなった後、結局晴子の面倒を見るためにあの家に入っている内に、実質的な宝蔵の妻みたいな形になっちゃって、それで望信(貴司の父)も産んで。婚姻届けは前妻さんの三周忌がすぎてから出したから望信については、子供が先に入籍して母親が後から入籍したという逆転入籍でさ」
 
「あぁ・・・・」
「最後の麗子はちゃんとあの人の妻として産んだけどね」
 
「でも昔はけっこう妾さんが産んだ子供を正妻の子供として入籍しちゃうというのもあったみたいですね」
「うんうん。わりとそういう話は聞いた」
 
千里はこの話を聞いて貴司の「女に対するだらしなさ」って祖父の遺伝では?などと思ったりした。
 
「でも世の中、スケベな男が多いのは、やはりスケベな男の遺伝子が残り易いからなんでしょうね」
などと千里が言うと
 
「あ、それ私も思ったことある。清廉な男は子孫を残しにくいんだよ」
と淑子も言った。
 
「でももしかしておばあちゃん、礼文から留萌に移動なさったの、そのあたりの関係もあります?」
 
「うん。実は何か言い訳が無いかなと思ってた。やはり血の繋がってない子の所より自分の子供の所のほうがこちらとしては気易いのよ。芳朗も鶴子さんもよくしてはくれていたけどね」
 
千里は淑子の言葉に色々思いを巡らせた。
 

やや生臭い話はあったものの、その後は淑子が最近ハマっているらしい刀剣乱舞や妖怪ウォッチの話でかなり盛り上がった。
 
「千里ちゃんも結構ゲームするのね?」
「バスケの休憩時間とかにちょこちょこやってるんですよ」
「なるほどー」
 
「そうだ。とっておきの未使用・妖怪メダル、おばあちゃんにあげちゃおう」
と言って千里がかなりレアなメダルを渡すと
 
「これ本当にもらっていいの?嬉しー!」
と本格的に喜んでいた。
「でも使うのもったいないから、ずっと保存しておく」
「きっとレア物を持ってる人はそうしてる人が多いですよ」
 
千里と淑子が難しい話をしている間も、ゲームの話をしている間も、京平はずっとご機嫌で、淑子に「ひいばあちゃん孝行」をしてくれていた。そして実はこの「秘密のデート」をしている最中、《びゃくちゃん》が淑子の治療を可能な範囲でしてくれていた。
 
京平がおっぱいを欲しがったので千里が飲ませてあげたが、千里が京平に授乳しているのを見て淑子は驚愕する。
 
「千里ちゃんも誰かの子供を産んだんだっけ?」
 
千里はそれには直接答えず、ただこう答えた。
「阿倍子さんはお乳が全く出ないみたいですね」
 
淑子は戸惑うような表情を見せる。千里は更に言った。
 
「でもこの子、物凄く霊感が強いみたい。浮遊霊とかが近くに居ると激しく泣くんですよ。きっと保志絵さんと私と両方の遺伝子を受け継いでいるからでしょうね」
 
「あんた、まさか・・・」
 
「あ、そうだ。これもおばあちゃんへのお見舞い」
と言って千里は、ビットキャッシュの《ひらがなID》を渡した。
 
「おぉ!!」
「1万円入ってますから、退院してゲームできるようになったら、良い装備を買って下さい」
「私これがいちばん嬉しい。早く退院しなくちゃ!」
 
と言って淑子は喜んでいる。
 

淑子はこの日を境に驚異的な回復を見せ、翌週には退院の許可が出て家に戻り、またまたゲーム三昧の生活に復帰した。淑子が自分もまだ持っていない最新の京平の写真をデータで持っているのを見た保志絵は「あら、貴司がメールして来たんですか?」と尋ねた。
 
「ここだけの話、千里ちゃんにもらったの」
 
と淑子は笑顔で答えた。今度は保志絵が悩んでいた。
 

千里が京平を連れてマンションに戻った時、阿倍子は薬が効いたのか寝室のベッドで熟睡していた。千里は風邪のウィルスを部屋から追い出すために少し換気をした上で、そっと京平を居間のベビーベッドに寝せ京平の額にキスする。ベビーベッドの枠・手摺りを洗剤を染み込ませた布で拭き、枕元にはクレベリンも置いた。このベッドの周囲に作っている結界に念を込めて再強化しておく。
 
京平は近くを漂っている浮遊霊などに結構反応するが、反応してしまうと向こうもこちらに警戒する。すると、まだ対処能力の無い京平は危険である。そういう場合のために、京平のそばには必ず千里の眷属の誰かが付いているし、ベビーベッドの周囲に結界を作って、そもそも変な霊などは近寄れないようにしているのである。
 
「京平、またお母ちゃん来てあげるから、阿倍子さんを困らせるなよ」
と言うと京平が笑ったような気がした。
 
部屋のゴミなどを捨てておく。茶碗も洗っておく。搾乳したお乳のボトルを冷蔵庫内に追加し、空きボトルを回収する。またスーパーで買ってきた食材も冷蔵庫に追加しておいた。テーブルに胃腸が弱っていても食べやすいヤマサキの北海道蒸しパンと水分補給用にアクエリアスなどを置く。ついでにおかゆを作ってパイレックスの容器に入れておく。この容器も実は数年前に千里がここに持ち込んでいたものだ。
 
そして後のことは《びゃくちゃん》に託して、マンションから引き上げ、新幹線で東京に戻った。この日は《びゃくちゃん》も《きーちゃん》も大活躍であった。千里は新幹線の中で今日ずっと京平を抱いていた感触の記憶が蘇り、寂しさが込み上げてきた。千里の目には涙が浮かんでいた。
 

9月30日(水)。
 
昼休みの合唱部練習を終えて教室に戻ろうとしていた青葉は以前からずっと気になっていた「そのこと」を確かめたい欲求が急に高まり、渡り廊下の所から電話を掛けた。
 
「はい、Jソフトウェアでございます」
という中年女性の返事がある。
 
「お仕事中、大変申し訳ありません。私、村山千里の妹ですが、村山はおりますでしょうか?」
 
「妹さんですか?お世話になっております。今すぐお呼びしますね」
と電話の相手。
 
あれ〜? ちー姉、絶対会社なんかに出てないと思っていたのに、本当に出勤してるわけ〜?
 
1分ほどで千里が電話口に出た。
 
「はい、電話替わりました」
と確かに千里の声がする。感じられる波動も間違いなく千里の波動だ。
 
「ちー姉、忙しい時にごめんね」
「うん。今いいよ」
「例のJ市の件なんだけど」
「妖怪さん、また動き出した?」
「ううん。そちらはまだ抑えられているみたい。でももうひとつのクラクションの怪の件でさ、試してみたいことがあるんだ。ちー姉と一緒に現場に行きたいんだけど、そちら時間の取れる日ある?」
 
「ああ、それだったら、今度の土曜に行こうか?10月3日かな」
「ありがとう。助かる」
 
「それでその件だけどさ」
と千里は言った。
「うん?」
 
「桃香も連れて行った方がいい気がする」
「桃姉も?」
「すると何かが起きそうな気がしてね」
「ふーん。ちー姉がそう感じるんだったら、恐らくそれが必要なんだと思う」
 

電話を切った千里は、ふっとため息をついた。実はさっきまでカラオケ屋さんに居て、そろそろレッドインパルスの練習場所に移動しようと思っていた。それが千里B(きーちゃん)から
 
『青葉から会社に電話。替わって』
というメッセージがあり、急遽交代して電話に出たのである。実は突然交代したので服装を千里Bと合わせていない。物凄くラフな格好だが、この会社ではこういう格好もあまり目立たない。スカートなんか穿いているのは事務の子と専務の奥さんくらいだ。
 
しかしそれでも千里の服が突然変わったことに誰にも気づかれない内に元の場所に戻ろうかと思った時、専務が
 
「ちょっとみんないいかな」
とオフィス内の社員全員に声を掛けた。隣に同期で入った女性社員・石橋が立っている。
 
「急なことなんだけど、実は石橋君が今日いっぱいでこの会社を辞めることになったので」
 
なに〜〜!?
 
「短い間でしたが、皆さんには大変お世話になりました。突然の辞職でご迷惑お掛けしますが、この会社と皆さんの今後の発展を祈っております」
 
と言って彼女はペコリと頭を下げる。
 
うっそー。これで私と同期に入った人全滅? というか、専務、私の退職願いは受け取ってくれないのに、他の子のは受け取るの〜〜?
 

中国湖南省・長沙(チャンシャー)。
 
アジア選手権に参加している男子日本バスケ代表は2次リーグでフィリピンに負けたものの、パレスチナと香港に勝って2勝1敗。予選リーグの成績と合わせて3勝2敗(予選リーグで脱落したマレーシアに勝った分は数えない)のグループE・3位で2次リーグを通過。決勝トーナメントに駒を進めた。
 
前回は5位で決勝トーナメントには行けなかったので、メンバーも関係者も歓喜であった。
 
そして10月1日は準々決勝のカタール戦が始まる。
 
試合はカタールが先行して始まった。身体的に勝る中東の選手たちに日本の貧弱な体格の選手たちは身長でもスピードでも負けてしまい、どうにもならない感じである。
 
監督はタイムを取った。選手たちに指示を与えるものの、妙案は浮かばない。選手たちに言うことばも、ありきたりのものだ。その時、ふと監督は熱い目で自分を見つめる貴司に気づいた。
 
「よし。流れを変える意味でも細川を投入しよう」
と監督。
「あ、それは悪くないかも」
と主将も言った。
 

負ければそこまでのトーナメントである。貴司は無心でプレイした。先日の京王プラザホテルの一室での千里とのシャドウ・バスケットのことが思い起こされた。千里って会う度にうまくなっている。正直もう自分は千里にかなわないような気もしていた。しかし千里はあくまでアマだし、女子選手。自分は実業団のセミプロで男子選手という自負がある。ちんちん・・・無くなっちゃったけど無くたって自分は男だという気持ちをあらたにする。
 
そしてこの試合の貴司はひたすら体格的にずっと自分より優位の相手選手に勝って行った。そして貴司が実質的な司令塔としてボールを支配し、巧みに相手のマークの甘い選手の所にボールを供給すると、日本はどんどん挽回していった。
 
そしてとうとう1点差まで迫った所で、貴司は目の前に思わぬスペースができていることに気づく。敵は貴司が誰かにボールを供給すると思って、特に最大の得点源であるセンターの赤尾を2人でマークしている。
 
貴司は反射的にその空いているスペースにドリブルで切り込み、そのまま鮮やかにレイアップシュートを決めた。
 
逆転!
 
日本応援団から大きな歓声が上がる。
 
この後も貴司はひたすら試合を支配続け、終わってみると67-81と14点差を付けてカタールに勝利していた。
 
貴司自身が取った得点はその逆転を決めた1ゴール2点のみなのだが、日本のファンに物凄く強く細川貴司という選手を印象づけた得点であった。
 
これで日本はベスト4となり、最悪でもオリンピック世界最終予選には出られることが確定した。
 

10月2日(金)。
 
彪志は7月の段階で内々定になっていた製薬会社から内定通知をもらった。誓約書、入社承諾書、身元保証書、健康診断書を提出してくださいという指示があったので、取り敢えずその日の内に学生課に行き、4月に大学で受けた健康診断に基づく診断書を1部、発行してもらった。
 
身元保証書については母に連絡してみた。
 
「ああ、その提出時期になったのね。1人はお父ちゃんに書いてもらって、もう1人は、大介叔父さんに頼めば良いよ」
「ああ、頼めるなら助かる」
「取り敢えず週末、こちらに戻っておいで」
「うん」
 
それで彪志は週末、一度帰省することにした。
 

10月3日(土)。
 
千里は桃香と一緒に新幹線で富山に向かった。ふたりが一緒に富山に戻るのは3月以来である。5月のゴールデンウィークの時は桃香だけの帰省、6月の時も7月の時も千里がひとりで高岡に来た。
 
富山駅で青葉と落ち合う。そして水城さんの黄色いブーンで3人拾ってもらってJ市に向かった。なお、今日は青葉・千里ともに巫女服を着ている。これは実は「戦闘服」なのである。
 
「そういう訳でこちらがレスビアンの姉です」
などと青葉が桃香を紹介するので、桃香が
「ちょっとちょっと。突然何を言い出す?」
と焦る。
 
「大丈夫です。私はニューハーフのレスビアンですから」
と水城さんが言うので
「え〜〜!?」
と桃香は驚いていた。
 
「それで先日もご報告したように、あの後、怪異は全く出なくなったんですよ。町内会での集まりでも、凄い先生に来てもらったんだなあ、とみんな感謝してました」
と水城さんは言う。
 
「でもあくまで私がしたのは応急処置なんですよね。ですから神社の孫息子さんが戻って来て、町内巡回を再開してくれるまで何とかもってくれたら、という状態なんです」
と青葉。
 
「はい、それも町内会では言っておきました」
と水城さんも言う。
 
「一応これ、取り敢えずの御礼ということで」
と言って水城さんは素敵な布の袋に入ったお酒の四合瓶6本セットを渡す。
 
「地元の酒屋さんが造っている銘酒のセットなんです。ふつうの清酒、大吟醸、本生酒、2本ずつですが、本生酒は早めに召し上がって頂ければと」
 
「ありがとうございます」
と言って千里はお酒を受け取るが、お酒好きの桃香が興味津々な様子だ。
 

青葉は車を例の直線の始まり付近で停めてもらった。
 
「ここに車を置いておいて大丈夫ですか?」
「ええ問題ありません。田舎は交通量も少ないですから」
 
4人とも車を降りるが千里は清酒を1本手にしている。
 
「それどうすんの?」
と桃香が訊くと
「たぶん必要になる」
と千里は言った。
 
4人で町の方に向かって歩いて行く。
 
「けっこう距離あるなあ」
「あのカーブまでだいたい600mくらいかな」
「ひゃー。そんなに歩くのか」
「多分桃香が居ないとできないことなんだよ、これ」
と千里が言う。
 
青葉が千里に都合のいい日を訊いた時、桃香も連れて行きたいと言ったのが千里なのである。青葉は桃香の作用というのは何なのだろうかと考えていた。
 
しかし、水泳で鍛えている青葉、バスケット選手の千里に比べて、桃香は運動などしていないので、ちょっと歩いただけで「きついよー」などと言っている。
 
「桃香、運動不足解消のために会社まで毎日歩いて通勤する?」
と千里が言う。
 
「それさすがに無茶」
「無茶じゃないけどなあ」
 
「桃姉のアパートから会社までってどのくらいの距離だっけ?」
「15kmくらいだと思うよ。私の足なら2時間掛からない」
「いや、それは速すぎる」
 
 
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【春退】(5)