【春退】(2)

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東京から戻った翌7月31日、青葉は終業式の前日以来、半月ぶりに学校に出て行った(通知表は終業式の前日にもらっている)。夏休み期間中ではあるが、3年生の進学コースは補習があっているし、近まるインターハイに向けて水泳部の練習もある。2学期になってから行われるコーラスの大会に向けての練習もある。しかしここまで青葉は17日は妖怪?の案件を処理し18-20日の水泳北信越予選の後、21-22日は原付&小特免許取得のため休み、その後更に苗場・東京に行って、全く学校に出ていなかった。
 
補習のテキストも途中からなので結構焦る。ここから頑張らなきゃいけないなと思いながら0時間目の授業を受けていた。
 
ところがその0時間目が終わって1時間目が始まる前に水泳部の顧問の先生が教室にやってきて
 
「ああ、川上君、出てきたね」
と声を掛ける。
 
「はい?」
「高体連の方から、川上君に健康診断を受けて欲しいという連絡が来ているんだよ。明日が期限だったから、戻って来てくれなかったらどうしようかと思ってた。悪いけど、T病院まで行ってきてくれない?」
 
「はい」
 
それで青葉は顧問の先生から
「開封せず、医師に直接渡すこと」
と書かれた封筒をもらい、結局補習を休んでバスでT病院まで出かけた。 

病院の窓口で
「なんか高体連から健康診断を受けてくれと言われたのですが」
と言って封筒を出す。
 
しばらく待っていると、名前を呼ばれ、尿を取ってくださいと言ってコップを渡される。トイレに行っておしっこを出し、提出用の棚の所に置く。そのあと採血しますと言われて検査室に入り、血を取られた。そのあとMRIを取りますと言われてびっくりする。健康診断でMRI? レントゲンくらいなら分かるけど。 
ともかくもMRIのある別棟に行く。
 
「ピアスとか指環とかしている場合は外して下さい」
「してません」
 
「何か体内に埋め込んでいるものはありますか? 骨を固定するボルトとか、ペースメーカーとか、人工内耳とか」
 
「いえ、身体に埋め込んでいるものはありません」
「入れ墨とかタトゥーとかはしてませんか?」
「してません」
「避妊リングとか入れてませんか?」
「入れてません!」
「コンタクトレンズは?」
「使ってません」
「鉄分を補うようなサプリメントやお薬を飲んでおられませんか?」
「特に常用薬はありません」
 
とにかく金属があるとやばいということで、色々確認された。その上で服を脱ぎ、ブラジャーも外し、検査着を着る。
 
「だいたい30分くらい掛かると思いますので」
「分かりました。よろしくお願いします」
 

ベッドに寝たままMRIの筒の中に入れられる。ドンドンドンドンという大きな音がする。青葉はその規則的な音を聞いている内に眠くなってきた。
 
これって寝てもいいんだっけ??
 
どうせ身体を透過して検査するんだから別にいいよね?
 
それで青葉は眠ってしまった。
 
眠っている間に夢を見る。どこかの病院にいるようだ。というか私、今病院に来ていたよね?と思う。しかし、自分が来たT病院ではないようだ。あれ〜?ここどこだろう?と思う内に、細川理歌さんがそばに居るのを見る。それで気づいた。ここは京平君が産まれた大阪の病院だ!
 
貴司さんと理歌さんが何か話している。それを自分が見ている。ベッドに妊婦が寝ているので青葉は彼女に気を送っている。
 
ところがよく見たらベッドに寝ているのは千里姉である。
 
あれ〜〜?なんでちー姉が寝てる訳?妊婦は阿倍子さんのはずなのに。 
不思議に思っている内に、帝王切開しますという話で妊婦が運び出されていく。 
まあ確かにちー姉のヴァギナは人工物だから赤ちゃんが通れるサイズ無いもんなあ、妊娠しても帝王切開しかないよな、などと思う。
 
青葉がそれに付いていき、しばらく外で待っていたのだが、看護婦さんが出てきて
 
「ご親族の方、ちょっと入って下さい」
と言う。
 
「どうしたんですか?」
「子供が産道に移動しはじめたんです。これ自然分娩で行けそうなので」
 
嘘!?
 
それで理歌さんと青葉が分娩室の中に入り、千里の両手を各々握って
 
「あと少しだよ。頑張って」
などと声を掛ける。千里は物凄く苦しそうな顔をしている。しかし赤ちゃんは青葉たちが手術室に入ってから、5分もしない内に産まれてしまった。あまりのスピードに、医師が会陰切開する間も無かった。
 
「おぎゃあ、おぎゃあ」
と産声をあげる元気な男の子を、助産師さんに続いて青葉が抱いた。
 
ああ、赤ちゃん産むのっていいなあ。私も産みたい。ちー姉、頑張ったね。青葉はそう思いながら、京平を抱いていた。
 

ハッと目が覚める。
 
「終わりましたよ」
と看護婦さんが笑顔で青葉に語りかけていた。
 
「ありがとうございます」
と青葉も笑顔で返事をして検査着を脱ぎ、下着をつけ制服を着た。本館に戻って伝票を出すと、今度は精神科に行って下さいと言われるので、青葉はまたまた首をひねった。精神的な健康とかもチェックする訳???
 
入ってくださいと言われて入った部屋に居た人はお医者さんではなく臨床心理士のようである。それで、何やら心理テスト!?をされた。
 
「道路を歩いていてお見合いになった場合、自分が譲る方ですか、相手が譲るのを待つ方ですか?」
「自分が譲ります」
「どちらかというと積極的な方ですか、消極的な方ですか」
「消極的かも。あんたは流されすぎるとよく言われるんですよ」
 
「理科と社会とどちらが好きですか?」
「理科です」
「数学と英語とどちらが好きですか?」
「英語です」
 
なんだかそんな感じのやりとりを数十問くらいしたかと思うと
「はい終わりです」
と言われ、次は婦人科に行けと言われる。
 
いったい何なんだ〜!?
 

婦人科ではいきなり全部服を脱いで下さいと言われ、裸で立って下さいと言われる。お医者さんはどうも青葉の体付きを観察しているようである!?これが男性の医師であったら、人を呼びたい気分である。
 
「胸触っても良いですか?」
「どうぞ」
 
それで両方の胸を揉まれる! いったい何をチェックしてるんだ〜?
 
「内診をしたいのですが、いいですか?」
「内診ですか?」
「女性器の内部を診察したいのです」
「はあ。構いませんけど」
 
内診自体は過去に何度もされているので意味は解っているものの、なんでここで内診までされないといかんのだ?と青葉は大いに疑問である。
 
「ちなみに処女ですか?」
「いいえ。彼氏と定期的にしています」
 
というか昨日もしたんだけど。
「内部にクスコという器具を入れて観察していいですか?」
「いいですよ」
 
する時はちゃんと付けてもらってるから、精液は残存してないはずと青葉は考えた。
 
それで上半身は服を着て良いと言われるので着た上で内診台に乗せられる。何度も経験はしているとはいっても、やられる度に恥ずかしい。入れられる感触もあまり気持ちいいものではない。彪志のアレを入れるのは気持ちいいのに不思議だなあ、などと青葉は考えながら診察されていた。
 
「性転換手術をなさったのはいつですか?」
「あ、えっと3年前です。2012年の7月18日に受けました」
「ペニス反転法ですね?」
「いいえ。陰嚢反転法です」
「あら、陰茎じゃないんだ?」
「私のおちんちんは小さすぎて、膣を作るには足りなかったんです。それで陰嚢皮膚と尿道を利用して膣を作り、陰茎皮膚は大陰唇・小陰唇に転用しました」
「なるほどですね」
 
性転換手術のことを訊かれて、青葉はやっと今日受けている検査の意味が解った。これは健康診断ではない。性別検査だ! そうか。インターハイに出ることになったので、きちんと性別を確認しようということになったのだろう。北信越大会までは適当だったけど、本戦に出るにはきちんと確認されるんだ、というのに思い至る。
 
そういえばちー姉も何度も何度も性別検査受けたなんて言ってたなあ、というのも考えていた。
 
「あなたの骨格はほとんど女性の骨格ですね。去勢あるいは女性ホルモンの摂取を始めたのはいつですか?」
「ある手法で小学5年生の時に睾丸の機能を停止させました。その後、体内で生産される女性ホルモンの量を増やすヒーリングをしてきました」
 
「ヒーリングですか?」
と医師は困惑したような顔をする。
 
「私のヒーリング能力に関しては射水市の**病院の松井医師あるいは鞠村医師に確認してください。私は手術を受けた患者の傷口を早く治癒させるヒーリングなどを実施できますし、体内のホルモン量を調整することもできます。生理不順の子の改善なども何例も実施してきています」
 
「へー」
と言いつつも医師がこちらの話を全く信じていないのは明らかだ。
 
「でも血液検査の結果を見るとあなたの女性ホルモンはふつうの女性の標準値ですし、男性ホルモンもふつうの女性の標準値ですね」
 
「はい、そうなるように調整していますので」
「その状態を小学5年生の時からですか」
「ええ、そうです」
 
「うーん。だったら一応国際基準には合致するかなあ」
などと医師は独り言のようにつぶやいた。
 
その後もいろいろ質問されたが、医師は青葉のヒーリングの件については信じていないようではあったものの、長年女性ホルモン優位の状態にあったことは信じてくれたようであった。実際青葉の身体的な特徴はそう考えないとあり得ないと医師は言っていた。
 
そして最後に
「あなたの性別が完全に女性であることは確認しました。その旨、診察書を高体連に提出しますので」
 
「分かりました。よろしくお願いします」
 
そう言って青葉は病院を後にした。
 

結局、診察が終わったのはもう15時である! お腹空いた!!!
 
学校に戻ってからお弁当を食べていると
「部活前の腹ごしらえ?」
などと美由紀に訊かれる。
 
「今お昼。お昼食べられなかったもん」
「あ、ずっと病院にいたんだ?」
「そうそう。診察が終わるまで何も食べないでくださいと言われたし」
「大変だったね」
「あぁあ、結局今日も補習は1時間出ただけ。みんなに遅れちゃう」
 
「でも青葉はもともと楽勝なところを志望校にしてるし」
「そうでもないよ〜」
 

千里はアジア選手権(オリンピック予選)に向けて7月24日から8月1日までオーストラリア、そのあと8月10日までニュージーランドで合宿に参加していた。
 
千里は今年2月にまずユニバーシアード代表として2年半ぶりに代表に招集され、アンダーカテゴリーとはいえ、世界4位という立派な成績を収めた。それが終わったかと思ったら今度はフル代表の方に招集されてしまったのである。
 
「実際、千里って2012年の夏から昨年末まで何してたんだっけ?」
と千里とお互いに最高のライバルと認識している花園亜津子から訊かれる。 
「オリンピックの最終予選が終わったあと、タイに渡って性転換手術を受けたんだよね。身体が落ち着くのを待って2013年夏にいったん引退していた友人たちと声を掛け合って40 minutesを結成して、それを2014年春に正式に東京のクラブ連盟に登録した。それで40 minutesで活動していたら全国クラブ選手権で優勝しちゃったんだよねー。その途中で篠原監督に見つかっちゃったから、ユニバ代表に招集されてしまった」
 
「そりゃ、あのメンツなら全国優勝して当然」
「実質Wリーグ上位レベルのメンツが揃ってるもん」
 
「いや、実際一時、協会も千里の所在を見失っていたみたいなんだよね」
と佐藤玲央美が言う。
 
「まあ2012年春にローキューツを退団した後、2014年春に40 minutesを登録するまで2年間、正式のバスケ活動はしてなかったからね。だから2012年夏のオリンピック最終予選の時に既に私の所属は曖昧になっていたはず」
 
「でも千里の主張でいちばん理解に苦しむのが2012年夏に性転換手術を受けたという話だな」
と亜津子。
 
「実際、千里は2006年頃に性転換済だったはずだからね」
と玲央美。
 
「まあそのあたりは好きなように解釈していいよ。実際私の性転換手術証明書の日付は2006年7月になっているからね」
「手術証明書がその日付なら本当に2006年に性転換しているはず」
「実際千里が2012年まで万が一にも男の身体だったなんて話になったら大騒動になる」
「3年前も9年前もどちらもずっと昔の話だから、自分自身としてはもうどうでもいい気分になっているんだけどね」
と千里は言った。
 

8月3日、ニュージーランドの合宿所で千里は山野監督から呼ばれて監督の私室に行った。高田アシスタントコーチ、坂口チーム代表も来ているし、同じシューターの花園亜津子、三木エレン、今回のチーム主将の広川妙子も居る。 
「揃ったね。では悪いことの相談をしよう」
とチーム代表の坂口さんが言った。
 
「私に最初に発言させて下さい」
と三木エレンが言った。
 
「私は3年前のトルコでのオリンピック最終予選で、私が代表に選ばれサン(千里のコートネーム)が落とされたことに納得がいかなかった。あの時点でもサンの力は私を凌駕していた。そして私が率いるチームはオリンピックの切符をつかむことができなかった」
 
千里は黙って聞いている。
 
「そのまま引退しようかとも思ったけど、サンが勝ち逃げは許さないと言うし、それで私はこの3年間頑張ってきた」
 
「レン(エレンのコートネーム)のプレイはまだまだ27-28歳の選手の動きですよ」
と妙子が言う。
 
「まあ若い子に負けないつもりでやってきたけどね。今回サンは一時期バスケから離れていたなんて言うからさ、私をがっかりさせるなよと思ったけど、何がしばらく離れていたよ。前より更にパワーアップしてるじゃん」
とエレン。
 
「まだ私は自分の納得いくプレイができずにいます」
と千里は言った。
 
「私とのマッチングにほぼ全勝しておいて何を言う?」
とエレンは言う。
 
「まあそういう訳で、私はもうこれで日本代表から引退させてもらうから。Wリーグからも3月いっぱいで引退するつもり」
とエレンは言った。
 

そのエレンの言葉を引き取って坂口チーム代表が言った。
 
「まあそういう訳で、明日8月4日には、今月13-16日に東京で行われる代表強化試合に出場するメンバーを発表することになっている。そのメンバー表でシューティングガードには、三木エレン君と花園亜津子君を入れることにするから」
 
千里は内心「へ?」と思った。ここまで引っ張っておいて、結局今回の代表は三木さんなのか?正直三木さんには負けてない気がしていたのだが、上の決定には従う必要がある。
 
「分かりました。私はまた2年後のアジア選手権、3年後の世界選手権を目指して鍛錬を重ねることにします」
と千里は顔色ひとつ変えずに言った。
 
「違う違う」
と山野監督が笑って言う。
 
「三木君はこの代表強化試合を花道に代表から引退するんだよ」
と山野さんは言った。
 
「え?」
 
「代表強化試合とうたっているけどさ、全然強化試合じゃないよね」
と花園亜津子が言う。
 
「うん、相手はT国。まあそこそこ強い相手ではあるけど、うちの敵ではない」
と広川妙子主将。
 
「強化試合というより壮行試合。快勝して景気付け」
と亜津子。
 
「村山はアンダーカテゴリーではこれまでたくさん活躍しているけどフル代表ではまだ大きな試合に出ていない。だからこんな秘密兵器をアジア選手権本戦前にわざわざ公開する必要は無い」
と千里とはもう8年来の付き合いになる高田コーチが言う。
 
「それで今度の強化試合ではサンの代わりに私を出してもらって、それを引退の花道にしたいんだよ」
と三木さんは言った。
 
「それでは・・・・」
「だから明日の発表では村山君はあたかも落選したかのように装う。その後、アジア選手権の直前に代表を入れ替える。三木君の代わりに村山君を入れる」
と坂口代表。
 
「あぁ・・・」
「だから、私の引退試合、派手に暴れて、東京の観客に三木エレンという選手の印象を焼き付けるから」
とエレン。
 
「分かりました。頑張ってください」
と千里は言った。
「ということで、村山君は居残りな」
と山野監督。
 
「え?」
 
「他のメンバーは10日でニュージーランド合宿を終えて帰国する。村山は僕と一緒に合宿を続ける」
と高田コーチが言う。
 
「え〜〜!?」
「何度か練習相手になってくれたP大学のチームが村山ともっとやりたいと言っているから彼女たちと一緒に練習。でも日本人ひとりじゃ寂しいだろうから、練習パートナーも兼ねて鞠原(江美子)君にも居残りしてもらう」
 
千里は一瞬考えた。
 
「それって鞠原も強化試合の後に代表入りするということですか?」
「さすがに2人も入れ替える訳にはいかないから、鞠原君はメンバーとして入れておくけど、強化試合は体調不良と称して欠席させる」
 
「分かりました。キラ(江美子のコートネーム)となら気心が知れているからやりやすいです」
 
実際、江美子とは2008年以来、ずっと出羽の修行仲間である。
 

翌8月4日の「東日本大震災復興支援バスケットボール日本代表国際強化試合2015代表チーム発表」では、その代表メンバーの中に千里の名前は無かった。その件で、青葉や冬子、また40 minutesのチームメイトたちからも「残念だったね」というメールが来ていたので、千里は
 
「落ちちゃったぁ! また頑張るね」
とお返事しておいた。また代表からは外れたものの、アジア選手権まで代表チームの練習相手を引き続き務めることを書き添えておいた。またJソフトの山口専務にも経過報告をしておいた。
 
貴司からは直接電話も入っていたが、千里はこれを無視した。代わりに青葉に電話を掛ける。
 
「ちー姉、せっかく会社を休職してまで参加してたのに残念だったね」
「うーん。それ自体が問題って気がするよ。やはりプロで1日中バスケしている人たちにはかなわないよ」
「ちー姉、その会社辞めてプロになったら? 日本代表候補にまで招集されるような選手、欲しがるチームはあると思うよ」
 
「ユニバ代表になった時と、フル代表候補になった時と、2度退職願い出したんだけどさ、受け取ってもらえないんだよ」
「うむむ」
 
「でも青葉こそ、もうすぐインターハイだね。思いっきり泳いできなよ」
「うん。頑張る。でも全国から凄い水泳選手が集まっているかと思うと緊張してしまいそう」
 
「青葉らしくないね。インターハイって、たかが素人の高校生の大会じゃん。気楽にいけばいいんだよ」
「そうだね」
 
「私もバスケはずっと趣味でやってるからね。だってスポーツは楽しむものだもん。確かに厳しいトレーニングを積んで必死に努力してという部分もあるけど、それは結局試合を楽しむためにトレーニングしているだけなんだよ」
 
「うーん・・・・」
 
「冬子がさ、音楽は究める音楽と楽しむ音楽があると言ってたけど、スポーツもそうだと思うんだよね。私は玲央美や麻依子からは逃げすぎだと言われるんだけど、究める道から逃げてばかりで、楽しい所だけ摘まみ食いしてきてるんだよね」
 
「いや、ちー姉は凄い練習している気がするけど」
「年間平均で1日12時間程度しか練習してないよ」
 
「12時間って凄すぎると思うんだけど!?」
 
「青葉ってそういう育ち方してきてるからだろうけど、何でもまじめに考えすぎるんだよね。桃香を見習いなよ。あの子、明日どうするかというのでさえなーんにも考えてないから」
 
「桃姉はそのあたりが適当すぎる」
「青葉ももっと楽に人生考えた方がいいと思うよ。とりあえずインターハイは京都旅行に行ってきて、ついでにちょっと泳いでくるか程度に思っていた方が、結果的には実力を出せるよ」
 
「そう言われるとそうかも知れないような気もしてきた」
 
「肩の力を抜いて、イージーに考えよう。お土産はおたべさんでよろしく」
「ちー姉、何日に帰国するんだったっけ?」
「まだ分からないんだよね。だからお土産は桃香のアパートに送っておいて。実は私、代表から落ちたついでに、某校のコーチと一緒に中国に行って会場の下見をしてきてと言われてさ」
 
「へー」
「日本はまだFIBAから制裁を受けている最中だから、代表選手の行動も色々と制限されている。8月9日の東京でのFIBAの会議で制裁は解除してもらえる見込みではあるけどね。だから代表選手ではない私が個人的な旅行で行ってくるんだよ」
 
「すごーい」
 

青葉の次に掛けたのが桃香であった。
 
「桃香ごめーん。帰国が延びちゃった」
「あっと、バスケットの合宿やってたんだっけ?」
「そうそう。その合宿が延びちゃったんだよ」
「ということは、私のカップ麺生活も延びるのか。いつ帰ってくるの?」
「まだ分からないけど今の予定では8月17日の朝に帰国。でもその日の夕方からまた国内で合宿に入る」
 
「え〜〜!?」
「そのあと今度は中国に行ってきて、帰国するのは9月6日かな」
 
「千里〜、カップ麺もレトルトカレーも缶詰も飽きたよう」
「桃香、料理の得意なガールフレンドとか居ないの?」
「あいにく、しばらくそういう子には当たってない」
「会社の食堂とかは?」
「お昼はそこで食べてる」
「うーん。和実のお店とかは?」
「あそこのメニューはあまり数が無い」
「確かに。学生の振りして△△△とかN大学とかの学食に行って食べるとか」
「あ、それ試してみよう!」
 

千里はまた雨宮先生に電話した。
 
「私10日に帰国して、帰国したらすぐインプレッサの廃車手続きするつもりだったのが、バスケ協会から特別任務を仰せ付かってしまって17日まで帰国できなくなったんですよ。でも車検が12日で切れてしまうので、大変申し訳ないのですが、先生か、あるいはどなたかの手でインプの廃車の作業をして頂けないでしょうか?**市の***モータースという所で処理してもらうことにしているのですが、そこに持ち込まないといけないのと、車内の私物を全部回収しておいて欲しいんですよ」
 
「あんた、ほんとに私を便利に使うね?」
と雨宮先生は半ば呆れているようだ。
 
「すみませーん!」
 
「まあいいよ。わざわざオーストラリアから私の親父の葬儀に駆け付けてくれたからね。今度は私が借りを返す番だ。作業しておく」
「ありがとうございます」
「私物はアテンザの方に移しておくね」
「はい、助かります。あと細かいですが、ドアポケットの中身とか、ワイドミラーやステアリングの所にぶら下げている《無事カエル》とかも回収しておいてください」
 
「ああ、ワイドミラーは見落としがちだね。新島と一緒に2人で作業するよ」
「ありがとうございます」
 
そういう訳で、結局先日舞鶴までの往復をしたのが千里にとっては本当にインプを運転した最後になったのであった。
 

青葉は、8月の前半、朝から補習に出て、昼休みは合唱軽音部の練習に行き、放課後は水泳部の練習に出るという生活を続けた。
 
本当はこの時期には高野山で瞬嶺さん主宰の回峰行が行われており、青葉は昨年参加したので今年も出ないかと言われたものの、インターハイに出るのでということでお断りした。
 
インターハイは8月17日から20日まで京都で行われる。それで青葉は杏梨と男子の魚君の3人で顧問の先生に引率されて行くことになる。実際には世間ではお盆の中日となる15日の朝からサンダーバードで京都に入る。京都に着いたのは8時前であった。顧問の先生は打ち合わせがあるということで、朝御飯は君たちで適当に食べてと言われたので、生徒3人でホテルのラウンジに入っていく。
 
するとそこに冬子と政子がいるのでびっくりする。
 

「青葉!?」
「ケイさん!?」
 
向こうも驚いたようである。青葉は冬子・政子のすぐそばに女性2人と男性2人がいるのを認める。女性2人は何か影のようなものが付着している。そして男性2人は・・・明らかに低級霊に取り憑かれている。
 
思わず祓いたくなったが、千里から「火中の栗を拾いすぎ」と先日も注意されたことを思い出して、思いとどまる。
 
「青葉、もしかしてインターハイの応援?」
「いえ、選手です」
 
それで青葉は、杏梨と魚君を紹介した。冬子もそばにいる4人を紹介してくれた。女性2人はパラコンズというユニットのふたり。男性2人はその婚約者で今日このホテルで結婚式を挙げるという。
 
「お盆にですか!?」
と青葉は驚く。
 
「ふたりとも無宗教らしいので。だから人前結婚式」
と冬子。
 

青葉は悩んだ。本来ならちー姉にも言われたように放置すべきことだ。しかし、パラコンズといえば、確か冬子さんがデビューした前後の頃から交友のあったユニットのはずである。
 
もし、自分がこの状況を放置したら・・・・この女性2人は男性に取り憑いている悪霊に彼女たちまで取り憑かれてしまうだろう。その上で、彼女たちが冬子さんとの交友を続けたら・・・
 
それは冬子さんの霊的防御の重大な「穴」になる。冬子さんたちを攻撃しようとする呪者たちが、この穴を利用しない訳が無い。
 
となれば、これは放置できないと青葉は判断した。青葉は過去にも同様の理由でUTPの須藤さんに関して「ある処置」をしている。
 
それで青葉は確認する。
「もう籍は入れられました?」
「婚姻届けは書いたので、挙式のあと提出の予定です」
 
だったら間に合う。
 
「くっくさん、お名前、何でしたっけ?ご本名」
「原玖美子ですが」
 
「原玖美子さん、本当にこの男性と結婚するんですか?」
と言って青葉はくっくに憑いている暗い影を一瞬で祓い飛ばした。
 
彼女はまさに「憑きものが落ちた」ような顔をして言う。
 
「私、結婚やめます。この人とは別れます」
「え〜〜〜〜!?」
 
「のんのさん、そちらはお名前なんでした?ご本名」
「近藤徳子ですが」
 
「近藤徳子さん、本当にこの男性と結婚するんですか?」
と言って青葉はのんのに憑いている暗い影を一瞬で祓い飛ばす。
 
彼女も「憑きものが落ちた」ような顔をして言う。
 
「私、結婚やめます。この人とは別れます」
「え〜〜〜〜!?」
 

そういう訳で、青葉はこの日の2組の結婚式をぶち壊して破談にしてしまったのであった。
 
話が立て込んでいるので杏梨と魚君には別の席で朝食を取ってもらうことにして、青葉はこの縁談が完全に破談ということで落ち着くまでを見守った。 
その日は午前中会場を下見した後、午後から指定練習場所になっていた市内の中学校のプールで練習をし、練習後、冬子に呼ばれて京都駅構内の飲食店で会い、今朝の事件の顛末を差し障りの無い範囲で説明した。冬子の霊的防御のために彼女たちまで結果的に守ることになったとまでは言わない。あくまで、冬子の友人たちが「たぶらかされて」結婚するのは見過ごせなかったからという説明をした。
 

16日も割り当てられた時間帯に練習し、それ以外の時間帯は道路をジョギングしたりホテルの部屋の中で主として筋力トレーニングなどをしていた。 
「インターハイって現地でもっと練習するのかと思ってました」
と青葉が言うと
 
「いや、うちは予算が無いから、練習場所があまり取れないんだよ」
と魚君が言う。
 
「なるほどー」
「公式練習場は人数が多過ぎて芋洗いみたいなもんで実際には使えないし、お金のある学校は期間中どこかのプールを貸し切っているんだけど、うちは幾つかの学校と共同で借りたから割り当て時間が短くて」
 
「まあ仕方ないですね」
「今回の遠征の費用も僕ら3人の交通費・宿泊費は学校から出ているけど、先生は自腹だし」
「きゃー、申し訳無い」
「顧問って何かあったら責任問われるのに、割が合わないですね」
と杏梨も言う。
 
そういえばちー姉の高校時代のバスケ部はOGの中村晃湖さんや村埜カーチャさんたちが多額の寄付をしてくれていたから予算が潤沢に使えたようなことを言っていた。多分、今はちー姉が恩返しに多額の寄付をしているのだろう。私も大学を出て就職したら、可能な範囲で合唱軽音部や水泳部に寄付しようかな、などと青葉は考えた。
 

千里と江美子は高田コーチと一緒にニュージーランドのP大学で8月16日まで濃厚な合宿を行い、16日深夜の成田行きに乗り、17日朝成田に到着した。但し帰国したのは千里と江美子だけで、高田コーチは本当に武漢の会場と合宿所の下見のため中国に向かった。千里と江美子は18日から(実際には17日の夕方から)国内で始まる日本代表合宿に参加するので、2人が休めるのは今日17日の昼間半日だけである。江美子は都内のホテルでひたすら寝ると言っていた。 
千里は降機して携帯の電源を入れた時、冬子から1度会いたいのだがというメールが来ていることに気づく。それで「今日ならいいよ」と返事。それで和実が店長をしている銀座のメイド喫茶で会うことにした。
 
実際にふたりが会ったのはお昼を少し過ぎた時間帯だったのだが、お店は客が多く、和実はてんてこ舞いの状態であった。
 
「今朝帰国したんだ!?」
と千里から聞くと冬子はびっくりしていた。
 
「実はちょっと秘密指令を実行していたんだよ」
「へー!」
「冬たちも忙しいね。昨日は札幌、明日は福島でしょ?」
「よくそういうスケジュールを把握してるね。政子は今日は福島に居るんだよ」
「ひとりにして平気?」
「美空と一緒だから」
「信頼できるのかできないのか怪しい所だ」
「言えてる」
 

「27日には富山公演もあるんだけど、千里時間取れないよね?」
「ごめーん。今日の夕方から28日まで合宿、29日から9月5日までアジア選手権」
「今朝帰国したばかりで忙しいね!」
「まあ選手以上に忙しいかも」
「結局、ずっと代表チームに付いてるんだ?」
「そうそう。スタッフだから」
と言って千里は微妙な微笑みを浮かべた。
 
「そうだ。9月5-6日は新潟で全日本クラブ選抜があって、これに40 minutes出るんだけど荷物運ぶのに冬のエルグランド借りられない?」
と千里は冬子に頼む。
 
「いいよ。あれ?でも千里はその時期は中国?」
「うん。私は選抜の方には出られないから他の子に頑張ってもらわなきゃ」
「大変だね!出場もしないのに代表チームに付いてないといけないなんて」
 
「冬たちのライブだって、ステージには出ない多くの人に支えられているでしょ?」
 
冬子はあらためて重要な指摘をされた気がした。
 
「確かにそうだよ。私もその人たちに凄く感謝している」
と冬子は言う。
 
「まあ、今の私はそういうポジションだね」
と千里。
 
「なるほどね」
 

ふたりはお互いの作曲のことなどについても話していたが、やがて京平の誕生に関わる微妙な話が出てくる。
 
「卵子も千里の卵子なんでしょ?」
と冬子はごく自然な感じで訊いた。
 
ちょうどそこにやっと仕事が一段落した和実がオムレツとコーヒーを持ってきて座った。そして千里は微笑んで言った。
 
「私、採卵台に寝たよ。部分麻酔打たれて、それでヴァギナから採卵用の針を刺すんだよ。麻酔打たれているのにこれが痛いんだ。あの痛さって様々な医療行為の痛みの中でも超横綱級って言うね。お産の痛みの方がまだ生やさしい」
 
「まるでお産をしたことがあるみたい」
「でも千里、卵巣あるんだっけ?」
 
「なかなかうまく行かなくて、何度もリトライした。でも最終的に採卵針の中には確かに卵子が入っていた」
 
そして千里は和実に言った。
 
「私でさえ採卵できるんだから、和実ならもっと確実に採卵できるよ」
 
和実は何か考えているようであった。
 

インターハイのために京都に来ていた青葉だが、千里が帰国した17日は、青葉の出番は無く、魚くんが出場する男子400m自由形、200m平泳ぎを見学、応援した。しかし予選で400m自由形は12位、200m平泳ぎは16位で、いづれも魚君は決勝に残ることはできなかった。
 
18日には、杏梨が出場する女子200m自由形の予選と決勝、および青葉が出場する女子800m自由形の予選が行われた。杏梨は残念ながら決勝に残ることができなかったが、青葉はぎりぎり8位に入り、翌日の決勝に進むことが出来た。 
「頑張ったね」
と杏梨も魚君も喜んでくれる。
 
「北信越大会の時よりずいぶんタイムが良くなってる」
 
「バスケやってるお姉ちゃんとこないだ電話して話したんだよね。それで私って何でも難しく考えすぎるから気楽に行けって言われて。そのおかげかも」
 
「うん。こういう大会ってプレッシャーに負けちゃう子が凄く多いんだよ」
と3回目のインターハイ出場である魚君は言っていた。
 
T高校の水泳部の生徒がインハイ決勝に進出したのは「多分10年ぶりくらい」とと言って顧問の先生も嬉しそうにしていた。
 

19日は最初に女子400m個人メドレーの予選が行われたが、これは青葉は10位となり、決勝への進出はならなかった。
 
それから少し置いて女子800m自由形の決勝が行われた。これも思いっきり楽な気持ちで臨むことができて、青葉は予選の順位より1つあげて7位となった。タイムも予選の時より更に良くなっていた。メダルには届かなかったものの、8位までは賞状があるということで、青葉は7位の賞状をもらった。
 
「これは凄いよ。全体集会できっと校長からお褒めの言葉があるよ」
などと顧問は浮かれたように言っていた。
 

帰りの電車の中で顧問の先生が青葉だけがいる時に小さい声で言った。 
「川上君、今回は7位だったから良かったけど、もし3位以内に入っていたら再度東京あたりの大学病院で徹底的な性別検査を受けさせられたかもね」
 
ああ・・・・。それでちー姉って最初の年は2度も検査されたなんて言ってたのかな。最初の年、いきなり全国3位ということだったからなあ、などと青葉は思っていた。
 

19日の深夜、青葉が帰宅すると、和実から電話が掛かってきた。
 
「青葉ちょっと協力して欲しいことがあるんだけど」
「何だろう?」
「私子供作ろうと思うんだよ」
「子供??どうやって?」
 
「体外受精しようと思うんだよ。私から採卵して、淳の精子と結合させて、代理母さんの子宮に入れて十月十日育てる。代理母さんに関しては実は震災の復興ボランティアで知り合った仙台の産科医さんが、その斡旋をしているんだよ。その人に斡旋を頼むことで内諾を得ている」
 
「淳さんって精子あるの?」
「まだある。もうほとんど立たないけど射精は可能なんだよ。液もかなり薄いんだけど濃縮すればいいから体外受精するのには問題無い。それは都内の病院で確認済み」
「いや待って。卵子は?」
「だから私から採る」
 
「和実、卵子あるの〜〜!?」
「世の中の物事って、過程は人間の論理で進むけど、結果は神の論理でできていると思わない?」
と和実はいきなり難しいことを言った。
 
「人間には有限の時間しかないじゃん。だから数学でよく『これを無限に続けていけば』とか言うけど、実際にはそれは実行できないよね」
と和実は更に言う。
 
「ああ、それは数学の授業聞いてて、疑問に思ったことある」
と青葉も答える。
 
「人間ができる範囲のことを考えるのを直観論理、無限の時間の操作みたいな神にしかできないことまで考えるのを古典論理と言うんだよ」
 
「えっと・・・」
 
「私、性転換前に撮ったMRI写真に何度か卵巣が写ったじゃん」
「うん」
「それは多分、私の卵巣は不確かに存在していると思うんだよ」
「ファジーみたいな話?」
「ファジーに似てる。ファジーは真理値を実数空間に拡張した論理なんだけど、私はその話は怪しいと思っている。むしろこの世の中の真理値は直観論理を数学化したcomplete Heyting algebra, 略してcHaでできていると思うんだ」
 
「ごめーん。私そういう話、苦手」
 
「だから結論から言うとね、私に卵巣があるかどうかは不確かであっても、卵子の採取が成功する可能性はあると思うんだよね」
 
青葉は少し考える。
 
「それってシュレディンガーの猫みたいな話?」
「うん。それに似ていると思う。あちらはむしろ量子論理だと思うんだけどね」
「なんか話が難しい」
「量子論理と直観論理は、古典論理をはさんで対の関係にある論理なんだよ。たぶんミクロの世界では量子論理が有効で、マクロの世界は直観論理が動いていると思うんだ。古典論理はそれらの論理の近似にすぎないと思う」
 
「ごめん、ついて行けない」
「大雑把に言えば、真でも偽でも無い状態が許容されるのが直観論理、真でありかつ偽でもある状態が許容されるのが量子論理。古典論理では全ての物事は真か偽かどちらかであると考える」
 
「そうあらためて言われると、古典論理が間違っている気がする」
「でしょ? それで採卵を松井先生にやってもらうことにした」
 
「松井先生なら成功するかも」
「松井先生、すっごい乗り気だった。でも実際性転換者から採卵しようなんて馬鹿な話をまじめにとってくれるようなお医者さんはあの先生以外に考えられないんだよ」
 
「言えてる」
 
「でもその採卵の時、青葉私のそばに付いててくれない?気のせいかも知れないけど、たぶん青葉がそばにいれば採卵針が卵巣に到達する瞬間、卵巣が存在して卵子の採取に成功する確率があがりそうな気がするんだよ」
 
「あり得るかも。でもそれ多分物凄く確率が低いよ」
 
「それは分かってる。でも確率が100分の1でも500回もやれば成功する確率は99%を越えるんだよ」
 
数学専攻の人らしい発言だなと青葉は思った。青葉も現役高校生だから、

0.99^x=0.01→ x = log0.01/log0.99 = 458,

1-(1-0.01)^500=0.993

という計算ができるけど、普通の人なら100分の1を500回やったら5回くらい成功しそうに思ってしまうだろう。成功の「期待値」と本当に「成功するか」はまるで別物である。
 
「分かった。こちらに来る日は前もって連絡して。できるだけ付いているようにするよ」
「青葉が付いていられるように、採卵作業は夜間にしてもらうことにしたから」
「松井先生も頑張るね!」
 

青葉たちはインターハイを終えた後19日の夜、高岡に戻ったので、翌20日(木)からは補習に出た。そして21日から23日に掛けては合唱軽音部の練習が終わった後、16時から20時までの時間帯を使い、Flying Soberのメンツが市内のスタジオに集まって、このバンド最後のCDの音源制作をした。
 
楽曲の譜面は事前に渡してあり、各自練習しておくように、と言っておいたのだが、実際にはみなまともにできていなかったので、最初の2日間がひたすら練習で潰れ、実際には23日、最終日の4時間でバタバタと収録する楽曲の録音だけした。ミクシングとマスタリングは空帆と青葉の2人だけで夜中まで掛けて仕上げた。実はその際、一部の楽器の音を取り直したりもした。空帆がギターやベースを弾き、青葉がドラムスやキーボードを演奏している。
 
収録完了を受けて8月24日の昼休みに音楽室に集まり、今鏡先生の差し入れのクッキーと青葉が提供した缶ジュースで乾杯してFlying Soberの活動を終えた。 
「これで高校生軽音活動は引退かな」
「でもまあ楽しかったよね」
「まだやりたい気はするけど、卒業後はバラバラになっちゃうからなあ」
 
「また大学入るなり就職してから近くに住む人で集まってバンド組めばいいと思うよ」
「そうそう。高校生バンドは引退したけど、今度は大学生バンドになればいい」
 
「またFlying Soberを名乗るの?」
とひとりが空帆に訊く。
 
「ううん。Flying Soberはこのメンツの名前だから、また別のバンド名を考えるよ」
と空帆は答える。
 
すると今鏡先生が言った。
「あんたたちさ、今は仲良しだからいいけど、後からこういうのって揉めがちなんだよ。誰が《Flying Sober》という名前の権利を持っているかを文書化しておいた方がいい」
 
「その名前の権利ということなら、空帆でいいと思う」
という声が複数から出る。
 
それで美津穂が
「じゃ、Flying Soberという名前の権利は清原空帆が持っているという文書を書いて、全員署名しておこう」
と言う。須美も
「うん、それでいいと思う」
と賛成したので、レポート用紙に今鏡先生が今言ったことを書き、その場で全員に回して署名をもらった。また今鏡先生も証人として署名した。
 
なお、売上金の分配についてはこれまでも美津穂が管理していたのだが、今後の分も引き続き管理することにし、口座を変更したい場合、また連絡先を変更する場合は連絡してくれるようみんなに伝達していた。
 
「いや、美津穂ちゃんがいちばんしっかりしてそうだもん」
「空帆ちゃんはアバウトそうだし、青葉ちゃんは忙しすぎるし」
「うん。私、財布に1000円入れておくといつの間にか1200円になっていたりするんだよ」
「それは絶対おかしい!!」
 

その日8月24日の夕方、青葉は合唱軽音部の練習が終わった後で学校から歩いて15分ほどの所にある自動車学校に入学した。
 
しかしまたまた例によってトラブる。
 
「この住民票違いますよ」
「すみません。性転換しているので。こちら病院の先生に書いて頂いた性転換証明書です」
「へー。若いのに凄いね」
 
それで自動車学校の書類は男性になっているものの、実際にはほぼ女性として学校側は扱ってくれたようである。
 
「トイレは女子用を使ってもらって構いませんから」
と言われたが、実際問題として青葉のような子が男子トイレを使おうとしたら 
「女子トイレが混んでるからと言って男子トイレに来ないでよ」
と言われるだけのことである。
 
普通自動車免許の第1段階の課程は学科10時間・実車15時間だが、実車は1日最大2時間しか乗れないことになっている。それで第1段階は最短でも8日掛かることになり、これを青葉は24日から31日までの8日間で完了させ、9月1日の始業式の日の午後仮免試験を受けるつもりであった。
 
この時期は夏休み中ではあるが、補習が朝7時からの0時間目から始まり13時まで6時間鍛えられる。そのあと14時から16時まで合唱軽音部のコーラス練習に出て、17時から20時まで3時間自動車学校の講習を受けた。
 
初日は最初の学科講習を受けた後、シミュレーターを使って運転席の乗り降りや車の始動の仕方、エンジンの停め方、ハンドルやアクセル・ブレーキの操作などの練習をする。そして3時間目は実車である。
 
青葉は当然指摘される。
 
「えっと・・・君、免許取消しか何かになって再取得?」
「いいえ、初めての取得です」
「これまでも運転していたね?」
「してませんよぉ」
「嘘ついても分かるんだけど」
「嘘ついてませんけど。私、生まれてこの方、一度も嘘なんてついてませんよ」
「やはり相当の大嘘つきのようだ」
と言って教官は笑っていた。
 

8月27日にはKARIONの富山公演でまたまた冬子と会ったので、Flying Soberの最後の音源を、まだプレス前のデータで渡して「良かったら聴いて下さい」と言っておいた。
 

8月28日、中国の武漢(ウーハン)に来ている日本女子バスケット代表は現地で(とっても少数しか来てくれていない)日本記者団の前で記者会見を開いた。出席したのは、チームリーダーの坂口さん、ヘッドコーチの山野さん、主将の広川妙子、そして三木エレン選手である。
 
記者会見の冒頭、三木エレンが発言する。
 
「私は今回の日本代表を辞退し、またWリーグからも3月いっぱいで引退します」
 
数人の記者がメールを打つ。速報でツイッターなどに流すのだろう。
 
「どうして引退なさるのでしょうか?」
と質問が出る。
 
「体力の限界を感じたからです。私も1995年に19歳で初めて日本代表に選ばれて20歳の誕生日の直後、静岡で開かれたアジア選手権で3位になり翌年のアトランタオリンピックに出場して。それから20年にわたって日本代表を務めてきましたが、さすがに若い子たちに付いていけないと思っていました。本当は主将として臨んだ2012年の世界最終予選で負けてロンドン・オリンピックに行けなかった時に引退しようと思ったのですが、多くのファンの方たち、そして多くの若い選手から、こんな不完全燃焼状態での引退は許さないと言われて、それで4年後はオリンピックに行けるよう、道筋だけでも作れるよう頑張ってきました。今回、多くの若い選手たちと一緒に代表での活動をしていて、今のメンバーならもう間違いなく来年のリオデジャネイロ・オリンピックの切符はつかめると確信したので、引退させてもらい、若い子たちに託すことにしました」
 
「でもどうして、このタイミングで引退を発表なさったのでしょうか?」
 
「実は引退することは、先月、海外合宿をしている間に決めました。それで監督やチーム代表、主将の広川さんなどと相談して、月初めの段階で引退発表するつもりだったのですが、8月13-16日の代表強化試合を、事実上の引退試合にしないか?と言われまして、お言葉に甘えさせてもらいました。実際には全然スリーが入らなくてネットには『ロートル・エレン氏ね』とか随分書かれましたけど」
と言って笑っている。
 
「でも最後16日の試合で1本決めましたね」
と隣から広川妙子が言う。
 
「ええ。あれがとても良い思い出になりました。私の日本代表としての最後のスリーです」
とエレン。
 
「三木さんが抜けられたら、残りの11人で今回は戦うのでしょうか?」
と記者団から質問が入る。
 
「補充メンバーとして、40 minutesの村山千里選手を緊急招集致しました。村山選手を含めて数人の補欠選手を今回の遠征には帯同し予備登録もしておりましたので、村山選手は今日から代表チームに合流します」
と坂口チームリーダーは述べた。
 

翌日、8月29日にはアジア選手権の初戦、韓国戦が行われた。
 
アジア選手権はレベル1とレベル2に別れており、各々6ヶ国のチームが所属している。日本はレベル1におり、ここで「優勝」することが来年のリオデジャネイロ・オリンピックに行ける条件である。2位・3位の場合は翌年開催される世界最終予選に回ることになる。
 
試合は序盤、相手が日本だと異様に燃える韓国が試合の主導権を奪い、いきなり7-0とワンサイドゲームか?と思わせる展開となる。しかしここから佐藤玲央美が冷静に2点取ったのを皮切りに反撃。亜津子と千里がスリーを1本ずつ決めるなどして第1ピリオドは13-13の同点で終えることができた。
 
その後、試合は追いつ追われつの展開となる。第2ピリオドは17-18と日本が1点リード、第3ピリオドは15-15のタイと進み、最終ピリオドを迎える。 
ここで日本は亜津子(3)・玲央美(2)・千里(3)の連続得点で一気に8点を奪い、韓国との点差を9点まで広げる。しかし韓国も必死に追いすがる。
 
一時は3点差まで詰め寄るが、残り1:56でセンターの(金子)良美がフリースローを得てこれを1本決めたあと、残り46秒で今度は主将の(広川)妙子がフリースローを得る。妙子はこれを冷静に2本決め、結局日本は53-59で初戦の激戦を制した。
 
終わってみると59点中、亜津子が15点、玲央美が14点、千里が12点を取っており、この3人でチーム得点の7割を稼いでいる。彼女らが各々平成元年、平成2年、平成3年の生まれであることから、ひとりの記者が「平成123トリオ」と呼んだ。
 
この呼称はネットのバスケファンの間で拡散し、その後10年以上にわたり呼ばれ続けることになる。
 

試合が終わった後、何かの腕章を付けた女性が2人日本チームの控室に来る。 
「アンチ・ドーピング・エージェンシーのものです。抽出検査をさせて頂きたいのですが」
と日本語で言う。
 
「はいはい。誰と誰ですか?」
「佐藤玲央美選手と村山千里選手、よろしいですか?」
「はい、行きます」
 
それで玲央美と千里は係官に付いて行き、血液採取と尿の検査を受ける。例によって尿の採取はほとんど全裸に近い状態になって係官の前でおしっこをしたのをコップに取る。玲央美も千里も何度も受けたことがあるので今更ではあるがあまり気の進まない検査でもある。
 
「簡易結果は3日後、完全な結果は半月後に分かります」
「はい、了解です」
 

その後日本は8月30日にはインドに31-131で圧勝、31日には台湾に44-60で快勝して取り敢えず最初の3戦を3戦全勝の成績とした。明日9月1日は最強の相手・中国との対戦を迎える。
 

9月1日には青葉の学校が始まる。始業式の後インターハイの報告会が行われた。インターハイに出場した水泳部・テニス部・陸上部の部員が壇上にあがる。この中で入賞して賞状をもらったのが青葉とソフトテニスのペアの2組3人だけだったので、校長先生から特に言葉をもらい、賞状を全校生徒に披露して校長先生と握手もした。お昼休みにはその3人は校長室に呼ばれ、校長のおごりの仕出しを食べながら歓談した。
 
この日は朝からセンター試験の受験案内が配布された。青葉はすぐに書類を書いた。受験料の払い込みは母がしてくれると言っていたので、提出は明後日になるだろう。
 
「あれ?青葉、性別は女でいいんだ?」
と美由紀が青葉の志願票を覗き込んで訊く。
 
「うん。問い合わせてみたら、高校に女子生徒として在籍しているのであればセンター試験の志願票も女子にしておいてくださいと言われた。大学に提出する時に、高校の調査票が女子になってて、センター試験の成績表が男子になっていたら、トラブるから」
 
「いや実際青葉の場合、志願票を男にしていたら絶対試験会場で揉める」
と日香理。
 
「自分でもそう思う」
 
「そのあたり面倒だね〜」
「うん。早く戸籍も女に直したいよ」
 
「それで志望大学に合格した場合、そのまま女子大生になれる訳?」
と純美礼から訊かれる。
 
「それも照会したけど、金沢のK大学も、富山のT大学、東京の△△△大学もそれでOKという回答をもらっている。まあ△△△大学は私立でセンター試験とは関係無いけど」
「へー」
 
「ただ正式に戸籍が女に変わったら、その時点で一応届けを出してくれと」
「多分内部的なものと表示上のものを別途管理するんだろうね」
「うん、そういうことだと思う。通り名を使う人の名前を二重管理するのと似たようなものだと思うよ」
 
「なるほどねー」
 
「通称ならぬ通性かな」
「うんうん、そういうことでしょ」
 

この日青葉は学校での行事が午前中で終わると、そのまま歩いて15分ほどの自動車学校に行き、仮免試験を受けた。結果は合格で、青葉は路上実習を受けるための仮免許を手にした。
 
このあと教習は第2段階に入ることになる。
 
 
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