【春退】(4)
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(C)Eriko Kawaguchi 2016-02-19
一方貴司は結局そのままベッドに戻って睡眠をむさぼる。貴司は阿倍子との睦みごとでは射精どころか立てることもできない。それで半年ぶりに射精を経験できたことで、自分が男であることを再確認できた気分で、貴司は少し高揚した精神状態にあった。
トントンと部屋のドアをノックする音で目が覚めた。
ドアの所まで行き「はい?」と答えると「私」と千里の声がする。それで開けると、千里は
「忘れ物しちゃった」
と言って部屋の中に入ってくる。そしてキョロキョロ何かを探しているようであったが、やがてベッドのそばに銀色のボールペンが落ちているのを見つける。
「良かった。あった」
と言ってそれを拾い上げる。
「大事なボールペン?」
と訊くと
「万年筆だけどね」
と言って貴司に見せてくれる。
「これ凄い!」
万年筆には 3P Champion 2011 FIBA world Under-21 Championship for Women という文字が刻まれている。
「U21世界選手権は私たちの年が最後になったからね。その最後の大会でもらった万年筆だよ」
「もしかしてこういうの普段使いしてるの?」
「うん。だって万年筆は文字を書くために生まれて来たんだもん。使ってあげなくちゃ可哀想じゃん」
「すごーい」
「じゃ、またね」
と言って千里が出て行こうとしたが、貴司は急に寂しい気持ちになった。
「ね、ね、千里もう一回だけしちゃダメ?」
「デートの度に1回だけという約束だったはず。どこかで歯止めを作っておかないと、お互い自分を抑えられなくなるよ」
「むしろ深みにはまりたい」
「馬鹿ね」
「僕は馬鹿なんだ」
そう言って貴司は千里のスカートのホックを外してしまった。ファスナーを下げるが千里はじっとされるがままにしている。スカートが下に落ちる。
「セックスはできないよ」
「したい」
「だから優勝したら1度だけさせてあげる」
「今してから優勝する」
と言って貴司は千里を床の上に押し倒してしまう。千里の服を脱がせる。敏感な部分を揉むと次第に湿度が上昇してくる。貴司は避妊具を付けて入れようとした。
が千里は手で塞いでそれを阻止した。
「ダメだって言っているのに、どうしてこういうことするの?」
「千里のことが好きだ」
「貴司って本当に馬鹿ね」
「うん」
「そんな馬鹿なこと考えないように、優勝するまで、私が貴司のおちんちん預かっておく」
「へ?」
千里は貴司のおちんちんとタマ袋の根元を強く握りしめた。
「痛たたたた」
シューターの握力で握られたらマジで痛い。
「これ預かって私が時々愛でてあげるから、それで貴司は優勝するまで頑張りなよ」
と言うと千里は貴司のおちんちんとタマタマを勢いよく引っばり、外してしまった。
え〜〜〜!?
「無くさないように、この袋に入れておこう」
と千里はいうと、貴司のおちんちんとタマ袋をジップロックに入れた上で冷却剤を一緒に入れふたを閉じる。それを更に銀色の断熱バッグに入れると自分のトートにしまう。
「じゃね」
と言って再度キスをすると、千里は手を振って部屋を出て行った。
貴司は自分の股間を見る。
無くなってる〜〜〜!? うっそー!!!
そこでハッとして目が覚めた。
夢かぁ!
まだ心臓がドキドキしている。
あれ〜? なんか随分昔にも似たような夢を見なかったっけ?などと思う。
貴司はベッドから起き上がると、ふと気になってベッドの近くの床を見てみた。
銀色の万年筆が落ちている。2011 U21選手権という文字が入っている。本当に千里の忘れ物のようだ。
届けてあげなくちゃと思う。それで千里に電話すると
「探してた!そこに忘れたのか」
と言う。
「貴司、明日は合宿所に入るよね?」
「うん」
「だったら事務の三村さんに預けてくれない? 合宿所内で拾ったことにしといて」
「なるほど」
「私、多分土曜日にそちらに寄るから、その時受け取るし」
「了解」
それで万年筆を取り敢えず自分のバッグに入れてから、トイレに行ってくるかと思う。そしてトイレに行き、ファスナーを下げて、おちんちんを出そうとして初めて貴司は違和感に気づいた。
へ?
手でまさぐる。
?????
貴司は焦ってズボンを下げ、トランクスも降ろしてみる。
そして自分の股間を見つめて
うっそぉぉぉぉぉぉ!!!!!
と思った。
冬子たち一行は9月11日午後の新幹線で高岡にやってきた。冬子・政子に、近藤さんと七星さんの夫妻、それに専任ドライバーの佐良さんの5人で新幹線で富山駅まで来て、レンタカーでエスティマを借りる。そして高岡市内まで走ってきて、近藤夫妻をホテルに降ろした上で、冬子と政子は青葉の自宅まで来たということであった。青葉が「学校から帰るのは19時近くになるので」と言っておいたので、ふたりも19時過ぎにやってきた。青葉もこの日は自動車学校をパスして、部活が終わるとすぐに帰宅した。
「いらっしゃい」
「遅い時間にごめんね。少し事前に話しておきたかったから」
と冬子は最初に青葉に謝る。
「私も部活とかでずっと遅いから」
「大会前だもんね。大変だね」
朋子も笑顔で迎えてくれる。どんな時間帯に来訪しても嫌な顔をしないのが朋子の良い所である。
「唐本さん、中田さん、晩御飯は?」
と朋子が訊くと
「何御飯かは怪しいけど、頂きます」
と遠慮を知らない政子が言うので、朋子が用意していた富山湾の海の幸で二人をもてなす。
「やはり富山はお魚が美味しい」
と政子はお刺身を5人前くらい食べて、ご機嫌である。
「アルバムの進み具合はいかがですか?」
と青葉が訊く。
「まだ道半ばという感じ。今月・来月が勝負だね」
と冬子。
「そうそう。例のシーサーの子供なんだけど」
「ああ、ヒバリさんとこのシーサーの子供を玉依姫神社に設置する件ですね」
「そうそう。だいたい今月中にできあがるらしいんだよ。それで10月中旬くらいに設置したいんだけど、青葉出て来られる日あるかな?」
「10月中旬ですか」
と言って青葉は手帳を見て、そのことに気づく。
「もしですね。今月末にあるコーラスの中部大会で上位に入った場合、全国大会に行けるのですが、その全国大会が10月10日に東京であるんですよ」
「ちょうど連休だね!」
「ええ、連休の初日です」
「だったら全国大会に出た後、こちらに来てちょっと音源制作にも参加してもらって、それからシーサーの設置をしてもらえば」
「全国大会は中部大会で上位に入ればですけどね」
「まあそれは頑張ってもらって。大会に出たあと、他の部員さんと別れてこちらに合流するのは可能?」
「大丈夫とは思いますが、先生に言っておきます」
そして翌日9月12日(土)、『Flying Singer』制作のため、朝から市内のスタジオにFlying Soberのメンツが集まったのだが・・・・・
練習以前に、技術指導が始まってしまう!
基本的には素人集団なので、色々甘い所があるし、近藤さんの目にはピックの持ち方やストロークの入れ方そのものも不満な所が多いようである。
「下手なうちに個性を出そうとしてもダメ。まず基本がちゃんと出来てから自分の個性を出せばいい」
などと言って、空帆や治美の弾き方を《矯正》していく。直された側も最初はやや不満そうであったものの、他の子から
「あ、そっちの方が格好いいよ」
などと言われると、まんざらでもない感じであった。
それで初日は結局近藤さんによる楽器演奏教室になってしまった!近藤さんはドラムスの須美やキーボードの真梨奈にも色々注文を付けていくし、ヒロミのトランペットについてもタイミングのずれなどを注意する。ヒロミやフルートの世梨奈については、七星さんも息の使い方を指導していた。七星さんはクラリネットの美津穂に関しては「取り敢えず注意する点は無い」と言っていた。
翌日13日になってやっと練習が始まるが今度は主として七星さんがなかなかOKを出さない。七星さんは曲の意味を考えろとみんなに指導した。
「ここは過去の悲しい恋を思い出している所でしょ?だったら悲しく演奏しなくちゃ。今の演奏は楽しい所も悲しい所も弾き方が同じなんだよ。自分の情感を込めて演奏しなくちゃ。機械的に譜面通りに弾くならMIDIの方がマシ」
結局そんなことをしている内にもう16時になってしまう。
「お腹空いた。晩御飯食べようよ」
などとマリが言い出す。
「じゃ、一息入れて、それから夕食後にマジで本番やって、収録しよう」
とケイが提案した。
「せっかく高岡まで来てるし、私、きときと寿しが食べたい」
とマリは言い出す。
「どこだったっけ?」
とケイが訊くので
「氷見の本店が近いと思います」
と青葉が答える。
「きときと寿し好き〜!」
という声が多数あがる。
「じゃ私がみんなにおごるよ」
とケイが言うと歓声が上がる。
「どのくらい時間かかる?」
「10kmくらいだから、渋滞にかからなければ15分かな」
「あ?車で行かないといけない?」
「電車では無理です」
「人数は13人か。エスティマに8人乗るから、あと5人はタクシー2台に分乗すればいいかな?」
などとケイは言ったのだが、世梨奈が
「あ、ワゴン車持ってる子を呼び出しますよ」
などと言い出す。
それで電話を掛けているのは吉田君のようである。
「あんたもう免許は取ってたよね。うん。じゃさ、吉田のお父さんのノアを持って来てくれない?」
途中を飛ばしていきなり結論を言うので、吉田君は何のことだか訳が分からないようである。
「きときと寿しおごってあげるから、私たちを運んで欲しいのよ」
などと世梨奈は言っている。
世梨奈がおごる訳ではないと思うのだが!?
青葉はケイを見たが、ケイは笑って頷いている。
それで吉田君はすぐ来てくれることになった。
「そちらは何人乗りだろう?」
「7人乗りですよ」
「だったら今呼び出した子まで入れて14人だから乗るね」
などと言っていたのだが、やがて来たノアを運転してきたのは吉田君のお母さんである。
「若葉マークの息子に運転させて、事故起こして他のお子さんに怪我でもさせては大変なので私が運転してきました」
と言っている。吉田君は助手席である。
がそちらにあと5人乗るので、佐良さんの運転するエスティマと2台で無事、氷見市のきときと寿しまで行くことができた。
吉田君のお母さんは「私は車で待っていますから」と言ったのだが、ケイが
「14人も15人も変わりませんよ。一緒にどうぞ」
と言うので、一緒に店内に入った。佐良さんも外で待ってますと言ったのだが
「まあまあまあまあ」
と世梨奈が言って連れ込んだ(おごるのは世梨奈ではない)。
それで15人でお寿司を食べたが、女子高生集団の破壊力はなかなか凄まじい。マリと食べ比べをしようとして「負けたぁ!」などと言っている子もいる。ケイが積み上げられた皿を眺めて悩んでいたので青葉が「冬子さん、私も少し出しますよ」と言ったが「いやいや気にしないで」とケイは言った。ケイはカードで払ったが、その伝票を見てまた悩んでいるようだった。
しかし美味しいお寿司をお腹いっぱい食べたからか、スタジオに戻ってからのみんなの演奏はひじょうによくなっていた。
「あんたたち、美味しいものを食べると演奏まで美味しくなるんだな」
と七星さんが少し呆れていた。
それでこの後は順調に収録が進み、8時には無事収録を終えた。念のため3回収録して、あとで比較していちばん良いものを生かすことにした。
「良さそうな所をつなぎ合わせるんですか?」
「いや、私たちは基本的にそういうことはしない。つぎはぎはつぎはぎでしかないよ。まるごとの演奏をそのまま使わないと、魂に響く音楽にはならない」
とケイは言っていた。
青葉たちが高岡のスタジオでローズ+リリーと一緒に『Flying Singer』の音源制作をしていた9月12日、千里は朝から夕子・麻依子に竹宮星乃、下田監督・矢峰コーチ・立川さんと江東区内の和風ファミレスで待ち合わせ、とりあえず今回の会社設立の件について話し合った。
この件についてこれまで聞いていなかった星乃は驚く。
「基本的には今まで同様、趣味の範囲で活動するけど、まあプロ契約する人があってもいいかなという姿勢」
「まあそれならいいかな」
「勤めている会社の就業規則に反しないなら、プロ契約していなくても例えば1試合3000円とかの手当を出してもいいと思う」
「おっ、それは美味しい。それってトーナメント勝ち上がればたくさんお手当もらえるよね?」
「うん、そういうことになる」
7人は会社の名前、事務所の場所、などについても話し合う。
「専任の事務スタッフが必要だよね?」
「それは必要だと思う」
「それ、誰か江戸娘なりローキューツのOGでやってくれる人がいたら使えないかな?」
「うん、いい人がいたら、それでもいいと思う」
(40 minutesのメンバーの半分くらいがこの2チームのOGだが、40 minutes自体はまだ設立されてから2年しか経っていないので「OG」は発生していない。幽霊部員は存在する)
「一応役員は、立川さんが社長、千里が会長、私が副社長でいいかな」
と夕子が言う。
「それって出資額の順?」
「出資金は大半を千里が出す。私は100万くらい」
と夕子。
「私も100万しか出せないです」
と立川さん。
「100万出せるあんたたちが凄い」
と星乃。
「でもキャプテン・副キャプテンが役員に入るのも悪くないかもね」
「いや、私たちは主将・副主将はやめようかと」
「え〜〜!?」
「まあそれで、来年の主将はステラ、副主将は私がやろうかという話なのよ」
と麻依子が言う。
「ちょっと待て」
と突然指名された星乃。
「ステラちゃん、主将向きの性格だと思うし」
「みんなを笑いでリラックスさせる」
「私が主将やったら、お笑いチームになりそうだ」
「それでもいいかもね」
「勝利は追及せずに、お笑いを追及する」
「それってけっこう集客力が出るかも」
「むむむ。でも、あんたたちなんでキャプテン・副キャプテン辞める訳?」
「私は子供産みたいのよ」
と夕子が言う。
「私は悪いけど、別のチームに移籍する」
と千里。
「うっそー」
この話は下田監督には言っていたのだが、矢峰コーチはこの時初めて聞いて驚いていた。
「今年は自分のレベルアップのために、日中毎日レッドインパルスの練習に参加させてもらっていたんだけど、やはり正式にこちらに加入しないかと誘われて、私もまだ迷ってるんだけど」
「いや、それは移籍すべき」
と星乃も言った。
「みんな、そう言うんだよ!」
と千里。
「いつ移籍するの?」
「移籍する場合は来年の4月付け」
「まあそれが面倒も少ないよね」
「ユニバーシアードで世界ベスト4になって3P女王取って、更にアジア選手権でも大活躍してオリンピック枠獲得。こちらも3Pが亜津子さんに続いて2位。これだけの選手、どこも欲しがるよ」
と星乃。
「だから2017年正月のオールジャパンでは私たちの40 minutesが千里たちのレッドインパルスを倒してやろうかと」
と麻依子が言う。
「おお、それで頑張ろう」
と星乃も笑顔で言った。
「その前に千里を入れた40 minutesで今度のオールジャパンでレッドインパルスを倒そうとも言っていた」
と夕子。
「よし、来月の社会人選手権、頑張ろうか」
と星乃は張り切る。
40 minutesは10月31日〜11月1日に鳴門市で開かれる社会人バスケット選手権に出場することになっている。この大会で3位以内に入ればお正月のオールジャパン(皇后杯)に出場することができる。
「でも運営的にはこちらに残るわけね」
「そうそう。40 minutesの運営会社会長で、レッドインパルスの選手」
「それは構わないんだっけ?」
「レッドインパルス側もバスケ協会も特に問題無いと言っている」
「まあまさかライバルチームになることはないだろうと思っているんだろうね」
と麻依子は笑いながら言う。
「万一問題にされたら、ケイが持つことになるローキューツの株と交換しようかという話もケイとはした」
「ローキューツも運営会社設立?」
「そうそう。あちらはあちらで進んでいる。ケイが超多忙だから、その件については、雨宮三森先生が実質進めている」
「なんか大物の名前が出てきた」
「千里の先生でもあるんでしょ?」
「そうそう。私とケイは元々雨宮先生の姉妹弟子なんだよ」
「へー」
「それって男の娘仲間?」
「ああ、雨宮先生は男の娘をコレクションする趣味がある」
「でも弟子ってサックスとか習ってるの?」
「いや、千里は作曲家でもある」
「醍醐春海という名前で、KARIONとかゴールデンシックスとかに曲を提供している」
「すごーい!」
「40 minutesの活動資金は千里が作曲で稼いだお金」
「知らなかった! あれ?ソフト会社に就職したというのは?」
「あれは不幸な巡り合わせというか」
「実際、全然会社には行ってないよね?」
「退職願い何度も出してるんだけど、受け取ってもらえないんだよ」
「あれま」
「でもローキューツもレッドインパルスのライバルになったら?」
「その時はマリに株を買い取らせようという話もした」
「なるほどー」
「お金持ちは利用するに限る」
「良い言葉だ」
この場で2時間ほど話し合っている内に、他の40 minutesのメンバーがぱらぱらと集まってくる。この日は40 minutesが全日本クラブ選抜で優勝した祝賀会を昼食会を兼ねてすることになっていたのである。
「みんな好きな物頼んでね」
「もしかしておごり?」
「その選抜を欠場した誰かさんのおごり」
「おお、それはおごってもらおう」
40 minutesに所属しているメンバーのだいたい7〜8割が集まった感であった。選抜を実際には欠場した子でも都合が付けば来てくれているが、逆に家庭や仕事の都合、子供の行事の都合などで欠席しているメンツも多い。
「あれ?館長さんがいる」
という声があがるが
「4月からうちのチームのスタッフになってくれることになっているんだよ」
と千里が説明する。
「おお、それはよろしくお願いします」
キャプテンの夕子が乾杯の音頭を取って祝賀会は始まった。堅苦しい挨拶は抜きで、まあ食べようということで適当に御飯やおやつなどを取り、和やかに会は進む。
かなりみんな満腹してきたあたりで、キャプテンの夕子から運営会社を設立してプロチーム化する話を出すが、やはり不安の声が多い。
「実はその運営会社の社長を立川さんにお願いしようと思ってね」
と夕子が説明した。
「ああ、それで今日来ておられたんですね」
「でも参加できる時に参加する今のスタンスが気に入っているんだけどな」
「うん。だからそれは今のままでいい」
「子供の参観とか、バイトとかあったら大会であったも遠慮無く休んで良い」
「もちろん子連れで練習に出てくるのもOK。誰か適当に見ていてくれるし」
「それにチームがプロであっても、選手が全員プロである必要はない」
「なるほどー」
しかし中折渚紗などは前向きである。
「私、今の職場はサービス残業が多くて、もう転職しようかとも思ってたのよね。こちらでお給料出してもらえるなら、プロになってもいい」
と彼女は言う。
「リト(渚紗のコートネーム)のレベルなら、まあ細かい数字は交渉次第だけど、税込みで月30万出せると思う」
と千里が言う。
「リトで月30万か・・・・」
と言ってみんな腕を組む。彼女のレベルでそのくらいの報酬ということは、みんな自分なら幾らもらえるかというのが概ね想像できるだろう。
「税込みだから源泉徴収して27万、そこから住民税・国民健康保険・年金を払えばまあ22万くらいかな」
「そんなに引かれるんだっけ?」
「お勤めの人は自分の給料明細見てみなよ」
「私は安くてもプロになりたい」
と雪子が言う。
「今年ユニバーシアードに参加してヤング日本代表にもなって、レベルの高い人たちに揉まれて、凄くやる気が出てきて、むしろやる気が余っちゃって。プロになった場合、練習場所はどうなります?」
「今使っている**体育館より小さいんだけど、去年学校が統合されて閉鎖されている元LL小学校の体育館をボロいままでもいいから安く借りられないかと区と交渉している」
と千里が言う。
「区側は維持費だけ掛かっていたから取り壊そうと思っていたらしいけど、有料で借りてくれるなら、貸してもいいかなという雰囲気。金額次第と思う」
と麻依子が言う。
「毎日練習できるなら、凄く嬉しい。もうバイト辞めちゃおうかな」
と雪子。
「でもプロになったらWリーグに加盟するんですか?」
「Wリーグになるには色々条件があるんだよ。組織だけの問題ではなく経営的に採算がちゃんと取れているか、観客はどのくらい入っているか、地域に支持されているかなどなど。だから行くとしても5〜6年後かもね」
「Wリーグに行ったとしてどの程度の成績になりますかね」
「まあ今の陣容でもWリーグ中位くらいはキープできると思う」
と夕子。
「そんなに行けます?」
「うん。君たちは充分強い」
と下田監督。
「千里抜きで全日本クラブ選抜で優勝したんだから、クラブチームとしては圧倒的な強さだと思う」
と中嶋橘花が言う。
「そうそう。来年も千里はオリンピックの方の活動であまり参加できないだろうし、千里を首にしてもやっていけるくらいの強さだな」
と若生暢子が言う。
「うん。ほんとにみんな強くなった。だから私は選手としては辞めさせてもらおうかと思って」
と千里が言った。
「え〜〜〜〜〜!?」
とみんなから驚きの声があがる。
「千里は来年は選手から外れて、40 minutesに関しては運営会社会長に専念ということかな」
と夕子。
「マジで辞めるの?」
と暢子から訊かれる。
「みんな、ごめん。実は今年は自分を鍛えるのにレッドインパルスの練習にも毎日参加させてもらっていたんだけど、向こうから正式に加入しないかと誘われていて」
と千里はみんなに謝る。
しばらくみんな沈黙していたが、やがて橋田桂華が言う。
「実は、千里はそうなっちゃうかも知れないねと何人かで話していた」
「だから2017年正月のオールジャパンでは、私たちの40 minutesが千里のレッドインパルスを倒してやろうよ」
と星乃が言う。
「ああ、それはいいかも」
「その前に2016年正月のオールジャパンでは、千里も入っている40 minutesが千里が加入する前のレッドインパルスを倒す」
「ローキューツに居た子にとっては2012年正月のオールジャパンのリベンジだな」
と麻衣子が言う。その時、千葉ローキューツは準々決勝でレッドインパルスに敗れている。
「今度のオールジャパンに出られるんだっけ?」
「今度の社会人選手権で3位以内に入れば出られる」
「よし、頑張ろう」
「まあそういう訳で4月からのキャプテンはステラ(星乃)、副キャプテンはメル(麻依子)ということで」
と夕子が言う。
「キバ(秋葉夕子)もどこかに移籍するの?」
と神田リリムが訊く。
「私は赤ちゃん産みたいから。籍だけは置いておくけど、実質稼働できないと思う」
「もう妊娠してるんですか?」
「春頃仕込む予定」
「ほほぉ」
食事が終わった後も1時間ほどこの問題を話したが、みんな千里の移籍には理解を示してくれた上で、プロ化についても、今まで通り自由に参加して、家や仕事の都合では練習や大会を欠席しても構わないということ、大会に参加する場合のメンツも、練習の参加頻度ではなく、あくまで実力順で選ぶという点を確認したことで、来年からのプロチーム化自体についても全員了承してくれた。
「でもたぶん全員がプロ選手になったら、予算が足りないですよね?」
「取り敢えず3年くらいは私が必要な分の費用は全部出すよ」
と千里は言った。
「千里を破産させるくらい頑張ろう」
「売上もあげてよ〜」
祝賀会が終わった後、千里たちはバスケ協会に千里・夕子・星乃・麻依子に下田監督・矢峰コーチ・立川さんというメンツで出て行き、宮本専務理事と話をした。当面40 minutesはプロ化してもクラブチーム連盟に留まり、Wリーグ入りについては、そちらのリーグ拡大の機運が盛り上がってきたあたりで検討することになった。
「取り敢えず実業団の方からはバタフライズをWリーグに昇格させるけど、これに続くチームを少しずつでも出して行きたいんだよね」
と宮本さんは言うが
「向こうは元々Wリーグでしたし、地域の支援態勢もファンクラブ組織も最初からありますから。うちもそういうものをこれから作っていかないといけないですね。まだ3〜4年は掛かるでしょうけど」
「うん。地域に応援されるチームに育って欲しいですね」
と宮本さんは言っていた。
宮本さんは、女子バスケットの実力底上げのため、クラブチームの上位の選手を育成する意図で2月くらいに有望選手を集めて合宿をやろうかという計画を練っているということを言った。
「エンデバーみたいなものですか?」
「です。クラブ・エンデバーという感じですね」
それでそういう合宿をやる場合に使うことになる北区の合宿所を一度見ませんか?と言ってナショナル・トレーニング・センター(NTC)に連れていってくれた。むろんここはバスケットだけの合宿所ではなく、日本国内の様々なスポーツのトップアスリートが集まる場所である。
「おお、ここは久しぶりだ」
と星乃が言っている。
「私は初めて来た」
と麻依子・夕子。
「千里はここの常連でしょ?」
「そそ。顔パスで入れちゃう」
ちょうど男子バスケ日本代表が合宿をしていたので、それを少し見学した後、宿泊棟であるアスリート・ヴィレッジの方に行こうとしていたら、事務局の三村さんが千里に声を掛けた。
「村山さん、忘れ物が届いてますよ」
と言って銀色の万年筆を千里に渡した。
「わあ、ありがとうございます。これ探していたんですよ。ここに落としていたのか」
「合宿に入った選手さんが見つけてくれたんですよ。この刻印を調べたら村山さんのものだろうということになったので」
「助かりました」
それで三村さんは戻っていくが、星乃から訊かれる。
「何落としたの?」
「U21世界選手権の3P女王取った時にもらった万年筆」
「そんな大事なもの、持ち歩いてるの?」
「これは普段使いにしてるよ。だって筆記具は文字を書くために生まれてきたんだから」
「そうかも知れんが、無くしたらどうするの?」
と星乃。
「ってか、あやうく無くすところだったね」
と夕子。
「そうだね。誰かさんは何かを無くしたかも知れないなあ」
と言って千里は笑いを噛み殺していた。そしてその様子を麻依子は難しい顔をして腕を組んで眺めていた。
9月17日(木)。和実が富山県にやってきた。コーラスの練習を終え、この日は自動車学校の方は休んだ青葉と、射水市の病院で合流する。
「青葉ちゃんか和実ちゃんか、もう一度性転換手術受ける気無い?ふたりの手術はどちらも楽しかったなあ」
と松井医師が言う。
「もうおちんちん取ってしまったので再度は手術できません」
「いったんおちんちんくっつけて、もう一度切るとか」
「無茶な」
和実は採卵に挑戦することにして松井医師とその件で合意した時から、ずっと排卵をコントロールするためのホルモン剤を毎日自己注射していた。それでそのホルモン剤のコントロールのタイミングから「理論的に」この日が採卵に適した日になるはずなのである。
医師が採卵の方法を説明する。
「これハッキリ言って痛いですから。私も体験してみたことあるけど、体験してみようと思ったことを激しく後悔した」
などと松井先生は言っている。
「麻酔はするんですよね?」
と青葉が尋ねる。
「するけど痛い」
と松井。
「うん。その覚悟をして来た」
と和実は言った。
採卵台に寝てスカートの中でパンティは脱いでしまう。部分麻酔を掛ける。青葉は和実の手を握っていた。
採卵針が膣内に挿入され、やがて膣壁を通して卵巣があるはずの付近へと針が入れられていく。和実が激しい苦痛の表情を浮かべる。青葉はしっかりと手を握り、波動を送っている。
「失敗。もう一度やるよ」
「はい、お願いします」
刺される度に和実は本当に苦しそうである。手を握っている青葉まで痛みを感じる。これ実際和実の痛みを少し引き受けているんだろうなと青葉は思った。
10回くらいした所で和実がかなり消耗しているのでしばらく休憩した。それでまた10回ほどやるが卵子は1個も取り出せない。
「痛みが激しいね。全身麻酔掛けようか?」
と医師が言う。
「いえ。頑張ります」
「じゃ今日はここまでにする?」
「成功するまでしてください」
「分かった。やるけど、やはり全身麻酔する。これ以上この痛みに耐えられないのは医師の目で見て明らか」
それで松井医師は和実に全身麻酔を掛けた上で採卵作業を更に20回やったものの卵子は取れなかった。この日は全部で50回くらいしている。
「これ他の医師がこんなことしてるの知ったら私を告発するだろうな」
などと松井医師は難しい顔で言っていた。
意識が回復してから和実に
「今回はどうしても取れなかった。来月また挑戦する?」
と尋ねる。
「挑戦させてください。今日は私も根性が足りなかったですけど来月はまた頑張ります。そしてやはり全身麻酔はしないでください。たぶん私の意識が無くなっていると、卵巣は出現しない気がするんです」
と和実は言った。
青葉も同意する。
「女でありたいという和実の意志がやはり卵巣出現に絡んでいると思うんです。ですから、意識のある状態で作業しないと採卵は成功しないと思います」
「分かった。それじゃ次回は全身麻酔は使わないことにしよう。それとこれは来月と、それで失敗したら再来月までやって、それでも成功しなかったら諦めようよ。費用も掛かるし、あんたの体力が耐えられないよ」
と医師は言った。
「分かりました。11月までに成功しなかったら諦めます」
と和実も答えた。
その夜、和実は青葉の家に泊めて、青葉はずっと一晩中(オートで)和実のヒーリングをしてあげた。それで翌朝には和実も
「ありがとう。だいぶ楽になったよ」
と言える状態になった。病院を出る頃は今にも倒れるのでは?という感じだったのである。
9月19日(土)から9月23日(秋分の日)までは5連休、いわゆるシルバーウィークである。この間、学校ではずっと補習があっているものの、青葉はこれを欠席することにした。そして自動車学校の残っている教習を一気に受けた。
高速教習では、3人1組で乗車する。助手席が教官である。最初ひとりの受講生が高岡ICから乗って氷見ICまでの約15kmを運転した。ICを出た所の路上で運転交代し、次の受講生が七尾大泊ICまでの約15kmを運転する。そして帰りは高岡ICまでの30kmを全部青葉が運転したが、他の2人の受講生から
「川上さん、運転うまーい!」
と言われる。
教官まで
「川上さんは、生まれた時から運転していたという噂もあるから」
などと言っていた。
「ところで川上さん、実は男性なのではという噂を聞いたんだけど」
などとひとりの受講生が言う。
「こらこら、個人情報」
と教官が注意するものの
「戸籍上は男ですよ〜」
と青葉は運転しながら答える。
「すごーい。男には見えない」
「声も女の子だし」
「発声法なんですか?」
「私、声変わりする前に去勢しちゃったから」
「え〜〜!?じゃカストラートみたいなもの?」
「そうです、そうです。だから骨格が完全に女子らしいです。あんたこの骨盤なら赤ちゃん産めるとか言われました」
「いや、赤ちゃん産めそう」
という声もあがる。
「じゃ、睾丸はもう無いんだ?」
「おちんちんも無いてすよ」
「性転換しちゃったの?」
「中学3年の夏休みに手術しちゃいましたよ」
「すっごーい!」
「中学生で手術ってのは早いですね」
そういう訳で青葉は22日までにこの自動車学校での全ての教習を終了した。残りは卒業試験だけだが、これは平日にしかできないので連休明けの24日(木)に受けることになる。
一方この連休中の9月19日、千里は所属しているドライビングクラブのメンバー数人とともに、宮城県のレーシング場に向かった。5月に北海道でのレースに出た時は車は札幌のレーシングクラブから借りたのだが、今回は宮城県なのでクラブの車を使って会場まで自走していく。車3台に9人が分乗して向かった。千里は前回も一緒だった鹿美さん、それに前回は参加していなかったものの、わりと親しい彩里花さんと3人で1時間交代程度で運転を替わりながら東北道を北上した。
山形自動車道に分岐する少し手前、村田ICで降りて15kmほど走ってレース場にたどりつく。
最初にみんなで歩いてコースを下見する。知らない道を走る場合、実は歩いて見ておくのがいちばんよくその道を覚えるのである。車で1回走ってみるのも効果はあるが、細かい点を見過ごしがちである。カーブの曲がり具合、距離などの感覚は歩いてみた方が正確に把握できる。
それでこの手のレースでは歩いて下見というのが入ることが多い。このコースは3.7kmの長さがあり、平均時速160kmで走れば1分23秒掛かることになるが、ここのコースレコードは1分5秒(平均速度205km/h)である。
最大直線700m, いちばんきついカーブは30Rで130度くらい曲がっている。千里はこのカーブはどういう走り方をするか脳内でシミュレーションしてみた。
その後、試走時間があるので、ゆっくりめの速度で走ってみる。例のカーブはやはりなかなかきつい。ここは30Rが3つ続くので、どうしても減速せざるを得ない。それをどこまで落とさずに走るかが鍵だろう。
「みんな怪我だけはしないように。自分の技量を超える速度を出さないこと」
とリーダーの人から注意があった。
やがて1人ずつ走行が始まる。このレースは数人で一緒に走るのではなく1人ずつ順番に走り、2回走った内の良い方のタイムで比較して上位8名が決勝に進出する。
参加者は70-80名いる。今回は千里たちのクラブで実際に走ったのは来た9人のうち7人なのだが、決勝に残れたのは千里と男性の勝山さんの2人だけであった。鹿美さんは14位、彩里花さんは68位であった。
もうすぐ決勝が始まるという時に千里は車をチェックしていて、アクセルに違和感を感じた。
リーダーの人に言ってみる。
「この車、アクセルが少し重い気がするんですが」
「どれどれ」
と言って彼が運転席に座ってアクセルを踏んでみる。何度か踏んでいる内に言う。
「あ、これは確かにおかしい。別の車を使おう」
それで千里は今回クラブの3号車を使う予定(勝山さんが1号車)だったのを2号車に変更。その旨、レースの事務局にも連絡した。
「これ5〜6回に1回重くなるみたい」
とリーダーが言う。
「よく気づいたね」
「予選で走った時も、直線に入った時の加速が遅い気がしたんですよ。私の踏み込み具合が弱すぎたのかなと思ってたんですが」
と千里が言うと
「あ、それは私も感じた」
と同じ車を使った鹿美さんも言う。
「直線の加速くらいならいいけど、カーブ曲がる時にこの現象出たら危険だな」
「必要なところでちゃんと加速できないとコース逸脱しかねませんね」
「100km/h程度の走行までは大した問題ないけどね」
「戻ってから整備しよう」
やがて決勝が始まる。1回目の走行では勝山さんは2位に入る快挙でクラブのメンバーから歓声があがる。千里は取り敢えず順位を認定してもらうため、きちんと完走することを目的に走ったこともあり8人中7位であった。
2回目の走行。勝山さんは1回目より少し早いタイムだったが、他にタイムを上げた人がいたので4位相当まで落ちてしまう。8人中最後に走ったのが千里であった。
気持ちをニュートラルにする。コースの線形は全て頭に入っている。試走も含めて既に4回ここを走っていることから、身体が走行パターンを覚えている。自分の限界をきちんと意識した上で、その限界を微妙に超える所までアクセルを踏み込む。正確にコーナリングのための位置取りをする。前半続く急カーブをぎりぎりの速度で走り抜ける。
そして直線で思いっきりアクセルを踏む。スピードメーターは軽く200km/hを超え更に上昇していく。どこか別世界にでもいるかのような独特の浮遊感。しかしその感覚は10秒ほどで終わる。少し減速してカーブを曲がる。3つ連続でカーブを曲がったあと、ゆるやかに円形に曲がっていくルートを走り、最後のホームストレートを思いっきり速度を出してゴール。
タイムは何と3位に入る快走だった。
降りてタイムを見て千里自身びっくりしていると、鹿美さんが抱きついてきた。
「千里ちゃん、すごーい!」
「勝山さん、ごめんなさい。抜いちゃった」
「いや、いいよ。凄くいい感じで走ったね」
「はい。私自身もこんなにうまく走れるって凄いと思いました」
表彰式で表彰台に立ち、銅メダルを掛けてもらう。クラブのメンバーたちの方に笑顔で手を振った。
こうして千里は今年2度目の順位認定を受け、国際C級ライセンス申請の条件が揃ったのである。
「ちー姉、すごーい。3位に入ったんだ?」
「取り敢えず国際C級ライセンスの申請は出した。この後、私は毎年14000円JAFに払い続けなければいけないけどね」
「毎年レースにも出ないといけないんだっけ?」
「C級ライセンスの場合は必要ないんだよ。でも楽しくなっちゃったから、年に1〜2度は出るかもね」
「そういうのもいいね〜」
「青葉は連休明けに卒業試験でしょ? 頑張ってね」
「うん。でもあまり馴染みの無いコースを走るんだよね。建前ではその場で地図を渡されて走るということになっているものの、その地図自体は他の教習生からコピーをもらった」
「そういうのって、ずっと教習生の間で伝えられていくよね」
「そうそう。一応地図は読んだんだけど、なんかちょっと不安。一応見極めを兼ねた最後の実車では、そのコース近辺の走行もあるらしいんだけど」
「歩いてみればいいんだよ」
と千里は言った。
「歩くの?」
「そうそう。私が出たレースでも、走行前にみんなでコースを歩いたんだよ」
「へー!」
「走るだけでは分からないものが、歩いてみると結構分かるんだよ」
青葉は考えた。
「それ思考の盲点だったかも知れない」
「車の運転の経験の無い人、レース出場の経験の無い人がコースを歩いても実はよく分からない。私も5月に北海道のレースに出た時は、やはり事前に歩いてもピンと来なかったんだよね。でも今回は2度目のレースだったから。歩いていてかなり実走する時のイメージがつかめたんだよ」
「なるほどー」
「青葉も実際卒業試験のコースを歩いてみなよ。卒業試験って何度右折があって何度左折があってって決まってるじゃん。ここで右折するぞ、直進車優先!とか、ここで左折・巻き込み注意!とか現地で考えると、実際に運転した時に慌てないと思うよ」
「それ明日にもちょっと教習時間の合間にやってみるよ」
それで青葉は翌日、実際に教習の合間に、タクシーで試験の行われる地区に出かけ、実際の候補コース3種類を全部歩いてみた。この3コースのどれかが試験当日、その場で指定されることになる。
そして再びタクシーで自動車学校に戻っている最中、青葉は唐突に思いついた。
例のJ市の「クラクションの怪」の場所、あの長い直線から消防署前のカーブに至るところを水城さんの車に同乗して走ってみたけど、よく分からなかった。あそこを歩いてみたら何か分からないだろうか?
青葉は時間が取れ次第、行って試してみたくなった。
9月21日午後、千里は品川プリンスホテルに向かった。この日の夕方からバスケ女子日本代表のオリンピック出場権獲得祝賀会が開かれるのである。
選手控室に集まって揃いのスラックス・スーツを着る。リボンフラワーの付いた名札をつけ、金メダルを掛ける。
「さすがに金メダルを無くしたという人はいないな?」
と蒔田優花が言う。
「そんな人、いるんですか?」
「昔の話だけど、藍川真璃子さんは世界選手権で準優勝した時の銀メダルを1ヶ月で紛失したらしい」
千里は思わず吹き出しそうになった。
「あの人、そんなにドジなのか」
と江美子が呆れたように言う。
「いやマジであの人は結構抜けてる」
と玲央美も言う。
「そうか、玲央美んとこの名誉監督か」
「来年からうちは運営会社設立して独立会計になるんで、その新会社の社長に就任予定」
と玲央美は言う。
「お、もしかしてジョイフルゴールドはプロチーム化?」
「今でも全員契約選手で、社員選手は居ないけどね。だから運営会社を設立して、今後ファンクラブ作ったり、地域交流とかもやっていくということ以外ではあまり変わらないと思う」
「いや、実業団に居るにはもったいないチームと思ってた」
と武藤博美が言う。
「いや当面は実業団に居る。Wリーグは数年後かな」
「へー」
「だから来期の実業団からWリーグへの昇格はバタフライズだけ。今いくつかのチームを将来のWリーグ入りのためプロ化を進めているみたいね。会長が女子の強化についてもあれこれ手を打っているみたい」
「なるほどー」
17時から始まった祝賀会では、その川淵会長の挨拶、山野監督、妙子主将の挨拶などがあり、選手12名とコーチングスタッフなどに1人ずつ報奨金の目録が会長から手渡された。報奨金が出るらしいという話は聞いていたのだが、金額を見たら選手1人50万円ということなので、千里はびっくりした。
「すごーい!こんなにもらえるんだ?」
「うん。私もびっくりした」
と玲央美が言っている。情報通の彼女も知らなかったというのは多分直前に会長主導で決めたんだろうなと千里は思った。
妙子主将やMVPを取った玲央美、3P女王の亜津子などがインタビューされている。千里はそれを笑顔で眺めていた。
「千里もああやってインタビューされてみたい?」
と江美子が訊く。
「その質問はそのまま江美子に返そう」
と千里は言う。
「でもむしろ高校時代は地元記者に随分インタビューされたけどね」
と江美子。
「私もそれは随分経験したなあ」
と千里も言う。
しかし会場にはけっこうな数の報道陣が集まっていた。千里はこれだけ多くの報道陣がいる所に来合わせたのは、鍋島先生の通夜・葬儀の時以来かも知れんなあと思っていた。もっともあの時は今日の10倍くらいの報道陣が居た。千里は音楽関係のイベントにも招待状はもらってもあまり出席していない。
しかし、某ファッション雑誌の記者がひとり千里を認めて近づいてきた。
「醍醐春海さんですよね?」
「ここでは本名の村山千里ということで」
「焼きそば投げのパフォーマンスも1度見ましたが凄いですね」
「まあボールをゴールに放り込む余技ですね」
「私、バスケットの方はあまりよく分かってなくて、お昼すぎに行って来いと言われて慌てて出てきたんで資料もあまり見ていなかったんですが、村山さんは直前に追加招集されたんですね?」
「そうなんですよ。20年にわたって代表を務めてきた三木エレンさんが本戦の直前に引退なさったんで、緊急招集されたんですよ。私なんて三木さんの足下にも及ばないのに。取り敢えず3試合だけ使ってもらえて何とかゴールも決められたので良かったです」
「あぁ、ゴールも決められたんですね。良かったですね。じゃ次は全試合出してもらえるように頑張りましょう」
「ありがとうございます。オリンピックで使ってもらえるか分かりませんけど、使ってもらえたら全試合出してもらえるように頑張ります」
と千里が言うと、記者もメモしながら頷いていた。江美子が隣で微笑んでいた。
「ところで実は誰にインタビューしていいか分からなくて。村山さん、お勧めはありませんか?」
と記者は小声で訊く。
「それはやはり広川主将と、チームの中心の佐藤・花園にポイントガードの武藤、センターの金子ですよ」
と千里は教えてあげる。
「ありがとうございます。村山さんは今回初めてのフル代表だったみたいですけど、目標にしている選手とかありますか?」
「男子ですけど、アメリカNBAのマイケル・ウィリアムズ選手ですね。やはりシューターなんですけど、ファウル受けて倒されたのに床に転がりながら片手でシュートして3ポイント決めたりしてるんですよね。物凄い筋力とゴールセンスの持ち主だと思います。彼は昨シーズン新人王を取りましたけど、これからきっとNBAの中心的スター選手になっていくと思います」
と千里が言うと江美子は「ほほぉ」という顔をしていた。
「へー。男子なんですか。村山さん男子に性転換してNBAに参戦するとかは?」
「ああ、それもいいかも知れませんが、私が男の子になっちゃったら、彼氏が困るかも」
「ああ、それは困るかも知れないですね」
と言って記者も笑っていたが、江美子は呆れていた。
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【春退】(4)