【春銀】(6)

前頁次頁目次

1  2  3  4  5  6  7 
 
ルキアは表彰式の時、テレビカメラがいることに気付いた。
 
「あれ?テレビカメラがいる」
とルキアが今気付いたように言うと
 
「この大会の様子はケーブルテレビで放送されるらしいよ」
と美琴が言う。
 
「へー。私たち映るかなぁ」
とモナは言っているが
 
「まさかボク映ってたらどうしよう?」
などとルキアは不安そうに言っている。
 
「決勝まで行ったし、わりと映ると思うよ」
 
「女子制服着てるのが映っちゃう〜」
「ケーブルテレビくらい平気では」
「いやきっとyoutubeとかに無断転載される」
 
「みっちゃんも、そろそろボク女の子になっちゃったんですとカムアウトして堂々と女の子の格好でテレビに映るといいと思うな。みっちゃんが女の子になっても、私結婚してあげるよ」
などとモナは言った。
 
ルキアはそんなカムアウトしなくても頻繁に女の子の格好をさせられている気がした。それより、女子として出場したことがバレたらただでは済まないよーという気持ちが先行してモナが重大な“愛の告白”をしたことには気付かなかった。
 
もっとも実際はルキアは三将戦でしかも決勝では1分で投了したし、表彰式でも美琴とモナだけが映ったので、ルキアが映ったのは2-3秒にすぎない。更にマスクで半分顔が隠れていたおかげで、それがルキアであることに気付いた視聴者はいなかったようであった。準優勝の記念品を受けとったモナには気付いた視聴者もあり、後でバラエティ番組でネタにされていた。でもルキアも出場していたことは言わず(言うと違反になるからヤバい)、囲碁サークルで出たんですとだけ話した。
 

さて、恵真であるが、水着撮影をした8月12日の次は本来なら8月15日(土)か16日(日)になる所だが、お盆だし、人も多いしやめておこうということでお休みになった。それで次は8月19日(水)にセッションをすることにした。
 
19日は母は日中仕事がある。それで、母と仮名Aさんの面談は次の22日か23日にしようという話になっていた。
 
19日は制服のできる日だったので、午前中に取ってこようと思い、朝からイオンに行って、母からもらったお金で支払い、できあがっていた女子制服を受けとった。
 
代金は、冬服のブレザー・ベスト・カーディガン・スカート・リボンで5万円、夏服のオーバーブラウス(洗い替えを兼ねて色違いで2着)と夏用スカートで2万円、合計7万円である。お母さんから渡された“政府からの給付金”10万円から払ったが、うちそんなに経済的にゆとりがある訳でも無いのに悪いなあと思った。残りの3万円は家計で使ってとお母さんに言おうと恵真は思った。
 
「念のため試着してみられます?」
「あ、はい」
 
それでフィッティングルームで、ここまで着てきた膝丈スカートを脱いで、ブラウスの上に制服のオーバーブラウス(これは真夏には下着の上に直接着てもよい)を着て、夏服の裏地が無いスカートを穿いた。姿見の中には可愛い女子高生がいる。先日もL高校の女子制服を身につけて市役所に行ったが、他校の制服なのでコスプレでもしている気分だった。でもこれは自分の学校の制服である。ボク24日から、この制服を着て登校することになるのかなあ、と恵真は不安に思った。
 
恵真は(荷物を持ち)その制服のままフィッティングルームの外に出ると、
 
「問題無い感じです」
と店のお姉さんに言った。店のお姉さんも恵真の身体のあちこち触ってサイズを再確認している。
 
「大丈夫みたいですね。ウェストはこのアジャスタターである程度調整できますから。夏服で大丈夫だから、冬服までは確認しなくてもいいかな」
 
「いいと思いますよ」
 
「じゃもし合わなかったら持って来て下さいね。多少は補正が利きますから」
「分かりました。ありがとうございます」
 
それで恵真がフィッティングルームに行き、元着てきた服に着替えようと思った時のことだった。
 

通りがかりの女子高生と目が合ってしまう。
 
「えまちゃん?」
「かずきちゃん?恥ずかしい」
と言って恵真は真っ赤になってしまった。クラスメイトの一希(かずき)である。彼女も制服を着ている。つまり今恵真が着ているのと同じ制服である。
 
恵真の高校の女子夏服オーバーブラウスはピンクとサックスの2種類があるが、偶然にも恵真・一希ともにピンクの方を着ている。
 
「恥ずかしがることないのに。似合ってるよ」
「そうかな?」
「24日からはそれで出てくるの?」
「悩んでる」
「恥ずかしがらなくてもいいよ。みんな歓迎してくれるよ」
「そう?」
 
その時、一希は突然何か思いついたようである。
 
「ちょっと待って」
と言って、どこかに電話している。どうも電話の相手は、やはりクラスメイトの汐里(しおり)のようである。
 
「そういう訳で3人目を確保したのよ」
 
その“確保した”って、まさかボクのこと?
 
それで一希は汐里との電話を終える。
 
「えまちゃん、今日は何か用事ある?」
とは訊いてくるが、何か少々の用事があっても強引に連れていきそうな雰囲気である。
 
「午後から用事があるんだけど」
「それまでには終わると思う。取り敢えず一緒に来て。話は途中で説明するから」
 
「あ、うん」
 

それで恵真は強引に一希に連れられて、彼女のお母さんと合流し、駐車場に駐められていたレガシィに乗ることになる。
 
お母さんとは面識は無かったのだが、一希が
「うちのクラスメイトのえまちゃん」
と紹介すると
「あら、一希がお世話になってます。よろしくね」
と挨拶されたので、恵真も
「浜梨恵真(はまり・えま)です、よろしくお願いします」
と挨拶した。
 
「それでさ、囲碁の大会に出てくれない?」
と一希は言った。
 
「いいけど、囲碁部なら、汐里ちゃんと・・・美凉ちゃんとかで出るのでは?」
「それが美凉ちゃんが今日はピアノの試験と重なっちゃってさあ」
「平日に試験があるんだ!?」
「夏休みだから設定したみたい。あの子直前まで忘れていたらしくてさ」
「ああ」
「弓恵ちゃんも穂香ちゃんも捉まらなくて。だから、代わりに出てくれない?」
「そんな当日出場者の差し替えとか利くの?」
「大丈夫だと思うよ。こちらは広中汐里ほか3名で登録してるから」
「なるほどー」
 
一希は恵真が女子制服を着ていることについては何も言わなかった。お母さんがいる場では、実際何も言えなかったろう。
 

品川のアクエリアスプラザ前で降りる。玄関前で降ろしてもらい、お母さんは車を駐車場に入れに行った。汐里はもう来ていた。
 
「誰かお友達?」
と彼女は訊く。恵真に気付いていないようである。
 
「そうなのよ。小学校の時、囲碁部に居たのよ」
「へー。何級くらい?」
「当時1級だったね」
「それは凄い」
「しばらくやってないから腕は落ちてると思う」
「問題無いよ。参加できない所だったし」
 
それで既に「主将・広中汐里、副将・桜井一希」と書かれている登録用紙に、一希が「三将・浜梨恵馬」と記入した。
 
「なんか見たことあるような名前だけど」
「だから、えまちゃんだよ」
「え〜〜〜!?そういえば確かにえまちゃんだ!」
と汐里は驚いている。
 
「取り敢えず出してくる」
と言って汐里はその登録用紙を本部に出してきた。
 

戻って来てから尋ねる。
 
「でもなんで、えまちゃんが女子制服着てるの?」
「何から説明したらいいのやら」
と恵真も説明の順序が分からない。それで悩んでいたら
 
「えまちゃんは女の子になったんだよ」
と一希が言う。
「とうとう性転換したんだ!」
 
「さっき車の中で胸に触ったみたらちゃんとおっぱいあるし」
 
うん。さっき何かいやにベタベタして触られた。
 
「ちんちんも無いみたいだし」
 
うん。そこにも触られてギクッとした。
 
「ちょっと触らせて」
と言って汐里も恵真の服の上から、胸とお股に触る。
 
「確かに女の子だ」
「でしょ?女の子なら参加資格あるよね?」
「ある」
「それに囲碁も強いし」
「それは歓迎」
 
しかし恵真は困惑する。
「ちょっと待って。これもしかして女子の大会?」
「そうだよ。男女混合の大会なら、私たちとても選手にしてもらえないし」
「それはそうかも知れないけど、ボクが出てもいいの?」
 
「女の子になったんでしょ?」
「うーん。やはり女の子になったのかなあ」
「ああ、もしかしてまだヴァギナは作ってないとか?」
「性転換手術って、最初ちんちんとたまたまを切って、後からヴァギナと子宮を作るらしいね」
 
え?そうなの??
 
「でもちんちん無ければもう女の子ということでいいよね」
「うん、それで問題無いよ。何か言われたら裸になって見せればいいし」
などと一希と汐里は言っている。
 
でも自分も囲碁部やめてから3年以上経ってるし、大会なら強い人ばかり出てきているだろうから、あまり問題無いかなと思い、恵真はこの大会に出ることにした。
 

参加しているのは全部で16校という話であった。元々は男子の大会・女子の大会を同時開催する予定だったが、三密を避けるために分離開催になったらしく、男子の大会(女子でも女子の大会と両方でなければ参加してよい)は16日にあったということだった。それで女子の大会は平日になってしまったらしい。
 
恵真は負ける気満々で臨んだのだが、1回戦の相手は、囲碁を始めてまだ1〜2ヶ月という感じの子だった。恵真は簡単に勝ってしまう。そしてこの子との対戦を通して恵真は小学生の頃に囲碁をしていた頃のことを少し思い出した。
 
1回戦は一希も汐里も勝って、BEST8進出。次はもう準々決勝である。
 
準々決勝は、勝ちあがってきただけあって、恵真の相手は初心者ではないものの、まだ10級くらいという感じだった。いくらブランクがあっても、このくらいの相手に負けることはない。楽勝である。一希と汐里も勝ち、準決勝に進出する。
 
そして次は準決勝と思っていた時のことだった。
 

「君、君は本当に女子だっけ?」
 
という声が近くでして、恵真はギクッとしたが、別の学校の生徒である。見た感じ、背が高くて、髪も短い。筋肉質っぽい体型である。
 
「はい、そうですけど」
と答える声は女の子の声である。
 
「証明するもの持ってる?」
「生徒手帳でいいですか?」
「うん」
 
それでその生徒はバッグから生徒手帳を提示した。
「ちゃんと女と書いてありますね。ごめんなさいね。疑ったりして」
 

しかし恵真は思った。万一自分が疑われた場合、自分の生徒手帳には男子制服を着た写真が貼り付けてあって、性別も男と書かれているぞ。やばいんじゃない?
 
などと思ってそちらを見ていたら、大会スタッフさんと目が合ってしまった。慌てて視線をそらすが、これがかえって変に思われたのかも知れない。
 
「君は・・・女子生徒だよね?」
と恵真を見て言う。
 
「はい、そうですが」
と恵真はもう開き直って答えた。
 
「いや、念のためと思って。生徒手帳か何か、性別を確認できるもの持ってる?」
 
それを見せたら、男と確認されてしまう!それで言った。
 
「済みません。私、補欠で急に呼び出されたもので。何も持ってきてなくて」
 
すると一希が言う。
 
「間違い無くこの子は女の子ですよ。一緒にお風呂入ったこともあるし。こんな男子がいたら大変ですよ」
 
「いや、チームメイトの証言では・・・」
と大会スタッフさんは困っている。そこで恵真は思いきって言った。
 
「何でしたら裸になってみましょうか?」
 
すると一希が少し不安そうな表情をしているので
 
「女であることを確認してもらうだけだよ」
と恵真は彼女に言う。
 
スタッフさんが、
 
「じゃちょっと別室で」
と言うので、一緒に大会会場を出る。それで一緒にそのフロアの多目的トイレに入った。
 
「じゃ脱ぎますね」
と言って、恵真はまずスカートを脱ぎ、ついでリボンを外してから夏服の上とブラウスも脱いだ。これでブラジャーとパンティだけになる。大きな胸がブラジャーに収まっている。パンティには変な物がその下にあるような突起は無い。すっきりしたフォルムである。
 
「全裸になった方がいいですか?」
「いえ、そこまでで充分です。疑ってごめんなさいね。ちょっと視線が合ったものだから」
「済みません。私も視線が合っちゃったと思って外しました」
 
それで(少し暑いなと思っていたので)ブラウスは着ずに下着の上に直接夏制服を着てリボンを結び(L高校の女子制服を使って姉にだいぶ練習させられていたのが役に立った)、スカートを穿いた。
 
スタッフさんと一緒に大会会場に戻る。
 
「確かに女性であることを確認しました」
とスタッフさんが言う。
 
「疑ってごめんね」
「いえ。ちゃんと生徒手帳持って来てなかったのが悪いんです」
 
しかし一希と汐里がホッとしていた。
 

そして準決勝の対局が始まる。恵真は目の前に座ったのが美少女アイドル(と恵真は思っている)弘田ルキアであることに気付き驚いた。アイドルなんて忙しいだろうによくこんな大会に出てくるなと思う。
 
(恵真は元々女の子アイドルに興味が無いこともあり、ルキアを女の子アイドルだと思い込んでいる。恵真はアクアも女の子アイドルと思っているが、アクアについては割とそういう誤解の人は多い)
 
“彼女”と打ってみて、すぐに初心者、というよりまだほとんど囲碁の対局の経験が無いなということに気付く。石を持つ時に親指と人差し指で石を摘まんだまま盤に置いているし、対局時計の切り換え忘れを何度もして、恵真が注意してあげた。
 
しかし向こうは情勢を見ることはできたようで、3分ほど打ったところで投了した。それで恵真は囲碁ソフトで打ってるのかなぁ〜?と思った。
 
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 
恵真は“彼女”に
「人と打ったの初めてですか?」
と訊いた。
 
「実はそうなんです。私、人数合わせで」
 
それでその後、“彼女”と少し感想戦をした。
 
ルキアが今日初めて人と打ったにしては筋が良かったので、恵真は
 
「才能ありますよ。お仕事忙しいでしょうけど、合間にでもやっとみるといいですよ」
 
などと言い、これを機会に少し囲碁を覚えるといいですよと勧めておいた。
 

なお、準決勝は、恵真は勝ったものの、一希も汐里も負けたので、ここで敗退となった。
 
「ごめーん。えまちゃん折角頑張ったのに」
と彼女たちは言ったが
「だって私の相手は、人数合わせだったみたいで、今日初めて打ったと言ってたもん」
と恵真は言った。
 
「そうだ。午後から用事あったんでしょう?大丈夫?」
「この時間なら何とかなると思うけどなあ」
 
実は予定外に上まで上がったので、11時くらいまでには終わるつもりが、もう12時近い。
 
「待ち合わせ場所はどこ?」
「**駅前に13時なんですよ。でも連絡してみる」
 
それで恵真がAさんから緊急連絡がある時はと言われていたアドレスにメールすると「だったらその品川アルタイルスクエアまで迎えに行くよ」ということである。「品川アルタイルスクエアではなくて品川アクエリアスプラザです」と返事すると「ジョークジョーク。ちゃんとそこに行くよ」ということだった。
 
それでここで待つことにした。
 

恵真は一希たちと一緒に決勝戦を見学する。主将戦も副将戦も凄かった。三将戦ではルキアちゃんはあっさり負けた。結局ルキアちゃんたちの高校は2位となり、準決勝前に性別を疑われた子のいるチームが優勝した。
 
表彰式では、優勝→準優勝→3位と表彰が行われ、準決勝で負けた2つの学校が3位の賞状と記念品をもらった。記念品は茶色系というか、十円玉のような色のボールペンである。そして見てたら位のチームは銀色、優勝チームは金色のボールペンである。
 
「つまり3位は銅色のボールペンか」
「金銀銅ということみたいね」
 
「これ、実際に銅、銀、金でできてるのかなあ」
「さすがにそんな予算は無いでしょ」
「銅メッキ・銀メッキ・金メッキ?」
「ただの塗装だと思う。材質はこれ軽いからアルミ合金だよ」
「なんだ」
 
「でも記念品が出るだけでも予算掛けてるよ」
「うん。賞状だけってのが多い」
 
「あれ?そういえばテレビカメラまで来てるね」
「ああ、この大会の様子はケーブルテレビで放送されるらしいよ」
「へー。私たち映るかなぁ」
「準決勝まで行ったし一瞬くらいは映るかもね」
 
「え〜?映るの?」
と恵真は不安そうに言う。
 
「どうかしたの?」
「女子制服着てる所、みんなに見られたら」
「えまちゃんは、24日からは女子制服で学校に来るんだよね?」
「どうしよう?」
 
「そのために女子制服作ったんでしょ?」
と汐里から言われたものの、恵真は悩むような顔をした。
 

脇道飛び出し事故の件を番組としてまとめていた北陸霊界探訪のクルーだが、金沢西警察署の橋本警部補からの強い要請でこのような会話を入れることになった。
 
「でも今回の一連の事故って全てがお化けのせいではないですよね」
と明恵が言う。
 
「実際私が報告のあった現場をバイクで見て廻ったのでは、純粋坂道は事故現場18ヶ所の内、15ヶ所だけだったんです。残りの3つは普通の脇道だったから、これは普通の事故あるいは事故未遂だった可能性があります」
と真珠も言った。
 
「やはりこういう事故を防ぐには、夕方は早めにライトを点けることと、カーブの多い道はスピード控えめで走ることが大事だよね」
と対談に加わっている神谷内ディレクターも言う。
 
「今の時期はだいたい5時半頃に日没になって30分もしたら日暮れになります。12月頃になると日没は4時半頃日没で5時頃には日暮れです。警察にも取材してきたんですが、日没の30分くらい前から視界が悪くなるので、ライトを点灯して欲しいということです。ですから今の時期なら5時で点灯、12月くらいなら4時で点灯ですね」
と幸花が言う。
 
(放送が9月下旬の予定なので、その時期の日没時間で発言している)
 
「あと、やはり見通しの利かない道ではスピード控えめで走ることですよね」
と明恵は言う。
 
「免許取った人は教習所で習ったと思うんですが、前方に危険物を見てから車が停止するまでに、だいたい速度の数字-10mくらい走るんです。40km/hで走っていれば30mくらい、60km/hで走っていたら50mくらい走ります。前方に飛び出しを見た時ってたぶん距離的には30mくらいだと思うんです。だから40km/hくらいで走っていれば何とか衝突を回避できると思うんですよね」
と幸花は言った。
 

「空走距離と制動距離というのを習ったよね」
と明恵。
 
「そうそう。危険なものを見てからブレーキを掛けるまでの人間の反応時間の間に走る距離が空走距離、ブレーキを掛けてから実際に停まるまでが制動距離」
と幸花。
 
「それ条件によって結構変わるよね」
「制動距離は物理的なものだから、走行速度と摩擦係数によって決まる。タイヤがすり減っている場合とか、雨の日は制動距離が伸びる」
「冬になって雪が積もってたらかなり伸びるよね」
「全くプレーキが利かなくて焦ることあるよね」
「運を天に任せるしかないという気分になることもある」
「やはり11月中にはスタッドレスに換えたいよね」
 
「空走距離は人間の反応速度の問題だから、疲れている時はどうしても遅くなる」
「つまり夕暮れ時って、見えにくくもなるし、反射神経も落ちる訳か」
「だから夕暮れ時は事故が多い」
「あと絶対にあってはいけないけど、お酒を飲んでいると絶望的に反射神経が落ちる」
「よく俺は酒を飲んでも平気とか豪語する人いるけど、人間であれば確実に落ちる」
「あれ飲み過ぎて、自分の反射神経が落ちていること自体に気付かないんだよ」
 
「それと今回は自動車同士の衝突事故だけど、歩行者も危険だよね」
「そうそう。道路を横断する時は車が来てないかよく見て」
「特に最近のハイブリッド車や電気自動車はエンジン音がしないから気付きにくい」
「あれ、私もハイブリッド車が来てるのに気付かなくて、あわやということあったよ」
 
「服装とかも黒っぽい服装は危険だよね」
「そうそう。できるだけ明るい服装で、夕方以降は反射タスキをつけて」
「自動車も黒い車って気付きにくいよね」
「うん。夕方黒い車って物凄く見えない」
「黒い車の人は特に早めに点灯して欲しいね」
 
といった感じで番組の最後5分くらいにわたって、交通安全教室をしたのであった。
 

囲碁大会が終わった後、恵真は待ち合わせ場所がここのプラザになったので、そのまま待つことにした。一希と汐里は各々のお母さんと一緒にコメダ珈琲か何かにでも寄ると言っていたが、12時半頃
 
「あ、まだ居た居た」
と言って一希がコメダ珈琲のミックスサンドとカフェオレを持って来てくれた。
 
「無理言って出てもらった御礼も兼ねて」
「ありがとう!」
「じゃ24日は頑張って女子制服で出て来てね。女子全員に根回ししておくから」
「うん。ありがとう」
 
と答えたが、それってもう男子制服で出て行くことは許されないってことか!
 
それで、玄関付近のベンチに座ってサンドイッチを食べていたら、ちょうどそれを食べ終わった頃、仮名Aさんがいつものフェラーリでやってきた。
 
「済みません。待ち合わせ場所変更してもらって」
「いや、こちらは大して距離変わらないし」
 
ちょうど恵真たちの前で大会のスタッフさんが「東京都高校生囲碁大会」という看板を片付けている所だった。
 
「あんた将棋の大会にでも出たの?」
 
とAさんが訊く。
 
この人っていつもこういう感じだよなあと思いながらも
 
「囲碁ですけど」
と答える。
 
「あんた囲碁打つんだ?」
「1級程度かな」
「だったら、碁石を人差し指と中指で挟んでパチッと碁盤に“打つ”のできる?」
「それ普通じゃないですか」
「いや初心者は人差し指と親指ではさんで石を“置く”からさ」
「ああ、確かにそうですね」
 
さっきの対局者は1回戦・準々決勝の相手も、準決勝のルキアちゃんもそうだったなあと思い返していた。
 

「だったら、今日の写真撮影は中止」
「はい?」
「ちょっと一緒に来て」
「どこまで?」
「熊谷市」
「え〜〜〜〜!?」
 
仮名Aさんはどこかに電話しているようだった。それで向こうの同意が取れたようである。
 
「あんたにちょっと一局打ってもらう」
「私弱いですよ」
「1級なら充分だと思う。3〜4級の子が多くてさあ、もう少し強い対戦者か欲しい所だったのよ」
「ドラマ撮影か何かですか?」
 
恵真としても、ここまでの経緯でAさんは、きっと芸能関係の人なのだろうということは想像していた。
 
「映画撮影。アクア主演の『ヒカルの碁』の撮影をしてるのよ。囲碁のプロ試験の場面なんだけど、女子の受験生を演じて欲しい」
「え〜〜〜!?」
 
今日はルキアちゃんとも対局したし、どういう日なんだ?と思った。
 

仮名Aさんのフェラーリは首都高から関越に乗り、熊谷に向かった。
 
「新幹線の方が少しだけ速いけど、映画関係者は公共交通機関での移動が禁止されているのよ」
などと言っている。
 
「厳戒態勢なんですね」
「そうそう。撮影場所に入る時は感染の有無を簡易検査キットでチェックされるけどいい?」
「そのくらい構いませんよ」
 
そこまでやっているのかと、恵真は感心した。
 

1時間半ほどで熊谷市郊外の“郷愁村”に到着する。
 
「こんな所にリゾートがあったなんて」
「最近ムーランが開発しているのよ」
「ムーランって、移動販売方式のレストランですか?」
「そうそう。トレーラーハウス型のレストラン。現在全国に21車両が展開している。外食を避けてテイクアウトする傾向の中で、お弁当が無茶苦茶売れているらしいよ」
 
「へー。それでこんな巨大なリゾート開発するって儲かってるんですねー」
「いや。資産を減らしたいからこういう巨大開発をやってる」
「は!?」
 

仮名Aさんから
「セシルちゃんでーす」
と映画スタッフ?に紹介される。
 
「え?セシリアじゃなかったんですか?」
と恵真が訊くと
「そうだっけ?長いからセシルでいいや」
と言われる。適当なんだ!
 
「これに署名して」
と紙を渡された。
 
契約書のようである。書いてある内容は、守秘義務に関すること(無断撮影禁止、撮影中の様子や見聞きしたことの口外・ネット投稿禁止を含む)、備品等の持ち出し禁止、追加報酬要求のを禁止、監督などの指示にきちんと従うこと、など常識的な内容である。
 
「本名で署名するんですか?」
「それだと誰だか分からなくなるから、羽鳥セシルで」
「ボクの苗字、羽鳥なんですか?」
「うん。今思いついた」
 
本当に適当っぽい!
 
それで恵真は2020.8.19 という日付と、羽鳥セシルという署名をした。
 
ここでAさんと別れる。終わったらスマホで呼んでと言われた。
 
その後、非接触式の体温計で体温を計られる。36.2度である。
 
問診票?を渡される。
 
「14日以内に海外に出ましたか?」
「風邪症状がありますか?」
「14日以内に新型コロナの感染者、あるいは風邪症状のある人と接触しましたか?」
「14日以内に、人が沢山密集するイベントに参加しましたか?」
 
などといった質問があり、いづれも「いいえ」を選び、一番下に「羽鳥セシル」と署名した。
 
「感染検査を受けて下さい」
と白衣を着た女性に言われ、鼻に綿棒を突っ込まれて粘液を採取された。そのまましばらく待って下さいと言われるので、待機する。
 
15分ほどの後「陰性でした」と言われる。それでやっと撮影現場の内部に入ることができるようだった。なるほどこれをパスしないといけないのなら、撮影に直接関係ない人は中には入れない訳だ。
 
「それは君の学校の制服?」
と30代の女性に訊かれる。
 
「はい、そうです」
「だったら、用意している映画衣装の高校制服に着替えて下さい」
 
と言われ、渡されたブレザーとチェックのスカートの制服を着た。リボンもU高校のリボンはピンクなのだが、この制服のリボンは紺色だった。
 
着替えが終わった所で、映画スタッフに導かれて3階建ての建物の中に入り、階段!を上って3階に行く。
 
「密閉が発生するからエレベータは使用禁止にしているんだよ。御免ね」
「いえ、全然問題ありません」
 
そして3階の部屋の一室に入っていくと、学生服で男装したアクアちゃんがいる。
 
すごーい。格好いい!学生服とか着るとちゃんと男の子に見えるのも凄い!と恵真はすっかり“彼女”のことが好きになった。
 

「こちら羽鳥セシルちゃん。モデルさんだけど囲碁1級らしい」
と紹介される。
 
「羽鳥セシルです。よろしくお願いします」
と恵真が言うと
「アクアです。よろしくお願いします」
と“彼女”は言った。
 
すっごく可愛い!マスクで半分顔は隠れていても、可愛さがにじみ出ている感じである。女の子アイドルには関心が無いつもりだったが、こんなに可愛い子なら、ファンになってもいい気がした。
 
それで早速碁盤の前に座り対局・・・かと思ったらネット碁らしい。どうもコロナの影響で直接の接触をできるだけ減らす方針らしい。
 
でもこれなら石の持ち方とか関係無くない?
 
“消毒済”と書かれた紙が貼られている部屋の、その紙を剥がして個室に入り、ネット碁の操作の仕方を教えてもらった。モニターの上に小型のカメラがついていて、それで打っている最中の表情とかも撮影されるから、対局中あまり変な顔はしないで下さいと言われたが、変な顔ってどんなのたろう?
 
シナリオがあって、その通りに打つのかと思ったら自由に打って下さいということだった。アクアちゃんはアマ6段くらいの腕前なので、よほどのことがない限り負けることはないということらしい。
 
へー。アイドルなのに囲碁も強いって凄いね、と恵真は感心した。
 

それで対局が始まるか、ほんの数手打っただけで、アクアちゃんが本当に強いことを認識した。この子本当にプロ試験が受けられるレベルじゃないの?などとも思った。
 
80手ほど打った所で投了した。実はどんなに劣勢になっても60手以内では投了しないで下さいと言われていたのだが、50手くらいの時点で既に勝負はほぼ付いていた。しかしこのままでは面白くないだろうしと思い、そこからイチかバチかの勝負を掛けた。しかしアクアちゃんはそれに冷静に対処し、こちらは大石が取られる寸前で最後まで打てばとんでもない大差になることが見込まれたので投了した。
 
チャット機能で「ありがとうございました」と挨拶を交わしてから対局用個室を出たが、助監督さん?に
 
「いや、見応えがあった。あの勝負は面白かったよ。この映像もしかしたら映画に残すかも」
と言われてちょっと嬉しくなったが、まあ外交辞令かな?とも思った。
 

Aさんと品川アクエリアスプラザで会ったのが13時で、熊谷に移動し、感染検査を終えて撮影現場に入ったのが15時くらいである。そのあと対局を収録し終えたのが16時だが
「普通にリアルで打っている所も撮りたい」
と言われて、結局アクアちゃんの代役さんの少女俳優さんとリアルの碁盤で打った(石が本物の貝の白石と(たぶん)那智黒の黒石だった:予算あるなと思った)。なるほど、これならちゃんとした石の打ち方ができないと絵にならないかもねと思う。
 
恵真にしてもその子にしても、さっきの対局をちゃんと覚えているので、きれいに撮影したネット対局を再現できた。この子もかなりの棋力があるんだろうなと思う。代役さんも、やはり強い人を使っているのだろう。
 
更にその後、
「受験者の普段の表情も取りたいから」
と言われて、ライダースーツを着て250ccくらいのバイク(Kawasakiと書かれていたが車種とかは分からない)にまたがっている所、喫茶店っぽいセットのテーブルで、他の同年代の女優さん?と同じ制服を着てジュースを飲みながらおしゃべりしている所(おしゃべりの内容はスノーマンの誰が好きかという話!恵真は阿部君推しだが、他の2人はラウール推しと深澤君推しだった)、その子たちと散歩している所、ひとりでマクテリア(という看板が掛かっていた)のテーブルで、チキンを摘まみながら、ポータブルの囲碁セットで囲碁の研究をしている所、などの撮影がされた。
 
それで結局開放されたのがもう18時半である。Aさんを呼んで、撮影所前で落ち合う。
 
「これギャラですといって頂きました」
ともらった封筒をそのままAさんに渡した。
 
Aさんが封筒を開けると1万円札がたくさん入っているので驚く。
 
「取り敢えず山分けしよう」
といって、その半分の5万円をもらった。
 
こんなにもらえるの〜〜〜?
 
「でも遅くなって済まなかった。自宅まで送っていって、遅くなったお詫びもするよ」
と仮名Aさんが言った。
 
「済みません、お願いします」
 
それでAさんのフェラーリに乗って自宅に向かう。
 
「ごめんねー。1時間くらいで済むかと思ったら、監督に気に入られちゃったみたい」
「そうですか?」
 
「いかつい大学生の男とかの受験生が多いから、可愛い女子高生は歓迎されたのかも知れないね。私は見て無いけど、対局の内容も良かったと聞いたし」
 
「実力差は圧倒的だったんですが、単純に一方的にやられて終わるのでは面白くないだろうと思ってイチかバチかの勝負を掛けたんですけどね」
 
「それで面白い局面になったんだろうね。試合には負けたけど、映画としては成功だったんだと思う」
 
「だって映画ですからね。少しでも面白くしなきゃ」
「うん。そういうサービス精神は、あんたタレント向きだと思うよ」
 
ボク・・・タレントになることになるんだろうか?さっきは『モデルの羽鳥セシルちゃんです』とか紹介されたけど。
 

「あ、あそこにも、こうちゃんがいる」
と、バリヌル共和国に来ている千里は言った。
 
「うん。あいつは当面ここの専任にしている」
と《こうちゃん》
 
「向こうは7番君か」
「よく見分けが付くな」
「ちなみに、あんたは1番だ」
「千里を連れてくるのは必ず俺だぞ」
「龍虎のそばで世話を焼いているのが2番だよね」
「よく分かっているな」
 
千里は《こうちゃん7》が多数の現地の人を指揮して、海に浮かべた100m四方くらいのイカダの上にどうも学校のようなものを建築しているようである。
 
「ここの住宅や学校・商店などは日本の高床式倉庫にヒントを得たもので、床が地面より1m高くしてある。多少の水害があっても生活床面は水没しなくて済む」
 
「うまいね」
 
「木造住宅だから軽い。それで水上に浮かべているイカダの上では避けられない揺れも吸収してくれる。これ欧米人に作らせたら煉瓦やコンクリートの家を作って揺れに対処できない」
 
「アジアならではの文化かな」
 
「自然のパワーに対抗してはいけない。受け流すことが大事」
「哲学的なこと言うね」
 

「これ、マリナのアイデアで虚空が思いついたんだよ。海を埋め立てて地面を作ってそこを開発するのは地球規模の気候変動につながる可能性もある。だからたくさんイカダを浮かべて、その上に住宅とか工場とかを作ってしまう」
 
「台風が来たらどうするの?」
「その時お互いが衝突して破壊が起きないように、イカダ同士は充分な距離を空けて浮かべる。行き来はイカダ同士の間に渡した浮き橋で行き来するけど、嵐が来たら橋は引き上げてしまう。各々のイカダは一応海に垂らしたアンカーで実質固定している。
 
「ああ、固定しているんだ?」
 
「でも万全じゃない。強い風には流される。風のエネルギーをできるだけ受け流せるように建物の形を工夫している。更に風力発電機を回すことでエネルギーを少しでも吸収するようにしている。あと、細かい渦のような風もあるだろうけど、基本的には並んでいるイカダ同士は同じ方向に流されやすい。それで全体が同じ方向に流れるのであれば良しとする。
 
「それは言えるね」
 
「ここはソリア島。5km先の隣のヌルア島までの間にこうやって海の道を作る」
 
「壮大な計画だね」
 
「5km先までつなぐのに10年かかると思う。ソリアとヌルアは元々近いことから古くから交流があってお互い親戚も多い。実は今のソリアの村長とヌルアの村長もお母さんが姉妹で、つまり従兄弟同士なんだよ。だから最初にここを選んだ。ここがうまく行ったら、他の島も結ぶ」
 
「海上王国ができていく訳だ」
 
「この国はサンゴ礁でできた島が多くて、みんな海抜が低い。地球が温暖化して海水面が今より5m上昇した場合、全ての国土が水没して、国土が消滅する」
 
「それどうなるの?」
「領土が無ければ領海も無いから、この国自体が消滅する」
「全部公海になっちゃう訳?」
 
「マジで海抜10mくらいの人工島を造る計画もある。でも人工的な建造物は領土としては認められない」
 
「うむむ」
 
「今オーストラリアが支援して、領土が消滅しても特別に領海を認定して欲しいという働きかけを大国にしている。アメリカなどは好意的だけど、難色を示している国もある」
 
「色々利権が絡むからね〜」
 

「人工島を造る計画もあるにはあるけど、費用がかかりすぎて、計画が進んでないんだよ」
「全国民を収容できる島を造るのは大変だね」
 
「それで次善の策として、イカダを浮かべる案が浮上した。イカダの周囲で海を仕切ってそこを淡水化させるプロジェクトも進めている。同時に塩も生産する。“南洋の塩”として日本や中国で売る」
 
「一石二鳥だ」
 
「そして淡水化したらそこに植林する」
 
「木を植えるんだ!」
 
「イカダの周囲に緩衝地帯を作って風水害を防ぐのが第1目的。海老などの養殖もして日本に買ってもらう。風力発電機をたくさん造って電気を起こし、工場を動かす。その工場で作った製品を海外に売って外貨を稼ぐ。これはアメリカや日本・中国の大資本が興味を持っていて、虚空の人脈でたくさん営業して回っている。実は電気そのものをオーストラリア・ニュージーランドや日本・中国に買ってもらう案もある。衛星経由で飛ばす」
 
「外貨を稼がないと資金を投入できないよね」
 
「そうなんだよ。この“方舟計画”Ark Project では膨大な資金が必要だから、その資金を輸出で稼ぐんだ。果樹園も作ってフルーツも輸出する」
 
「ああ」
 
「風力発電所で起こした電気が余ったら、鉄骨を組んで作る揚水発電所に貯めて風の無い日に使う」
 
「水はたくさんあるから行けそうだね」
「そうなんだよ」
 
しかし、生死の境をさまよっていた鱒渕マネージャーを助けるために《こうちゃん》が取った行動が、結果的にこんな大きなプロジェクトに発展したというのは驚きである。このプロジェクトは確実に何十万人もの人を救うことになる。
 
悪戯好きの虚空も、たまにはいいことする!
 
「植林をするのは、台風の被害を減らすためでもあるけど、そこで木材を生産して、イカダを造るためでもある」
 
「それって何十年レベルのサイクルだね」
「これは100年単位の計画だよ」
 
「それを最後まで見届けられるのはあんたたちだけだね。私はたぶんあと30-40年で死ぬだろうし。私の後は、緩菜に付いてあげてよ」
 
「千里はまだ300年生きるという説もあるけど」
「人間がそんなに生きられる訳が無い」
「千里が人間かどうかについて大いに疑惑があるんだけど」
 
「龍虎が男の子かどうかよりは確かだと思うけどなあ」
「いやあいつは女の子ライフに味をしめすぎている。きっと今年中には去勢に同意すると思う」
 
それ、本人の意志と関係無く手術してしまうつもりなのでは?
 

アクアは7月中旬から8月20日まで(正式な撮了は24日)ずっと映画(ヒカルの碁)の撮影を、主として埼玉県熊谷市の郷愁村でしていたのだが、多忙なアクアはこれに完全には専念することができず、ちょこちょことテレビの撮影やCMの仕事などをこなしていた。実際には映画の撮影をしているのはほとんどMであり、他の仕事はだいたいFの方がこなしていた。
 
その日、アクアは京都の和服メーカーからの発注で来年の成人式に向けての振袖広告のモデルを頼まれていた。写真形式で、同社のカタログに載るほか、雑誌などにも載るのが主体だが、テレビCM用の動画も撮影する。
 
メーカーの人は、アクアの振袖写真を何かで見て“振袖がとっても似合う女の子”と思って話を持ちかけてきたので、アクアが男の子と知ってびっくりした。しかし、とっても可愛いから、ぜひと言われて(コスモスが)オファーを受けたのである。
 
振袖のCMには過去には出たことない!ので業種競合のようなものも無かった。
 
それで撮影場所が、聖母女学院と指定されていたので、アクアはマネージャーの緑川志穂と一緒にホンダジェットで伊丹に飛び、そこから予約していたレンタカーのアクアで、まずは京都市内の京都聖母学院中学高校に行く。ここは煉瓦作りの美しい建物である。設計者などは不明(イギリス人か?)であるが1908年に建てられた古い建物で、元は日本陸軍・第十六師団指令本部であった。戦後、聖母学院に払い下げられ、建物正面のマリア像などが追加されている。
 
事前に姫路スピカをスタンドインにして撮影のシナリオが練られていたのだが、振袖は着替えに時間が掛かることもあり、4種類の振袖で朝8時から5時間掛けて昼13時頃までの撮影となる。
 

その後、1時間ほど掛けて、大阪府寝屋川市の系列校・香里ヌヴェール学院高校(旧名:大阪聖母女学院高校)に移動する。元々は大阪の方が本流だが、近年は京都側に本部が置かれていた。
 
京都校舎も大阪校舎もどちらも国登録文化財(有形文化財建造物)に指定されている。京都校舎が煉瓦造りの古風な建物であるのに対して、大阪校舎は白亜のモダンな建物でアーチが多用されている。こちらは日本女子大などの建造物の設計をしたアントニン・レーモンドの作品である。
 
アクア(アクアF)は両校舎のあまりのギャップに驚いた。
 
ここも姫路スピカを使って結構シナリオを錬っていたのだが、撮影は夕方まで4時間も掛かった。実際問題として日没で撮影不能になったので、それで打ち切ったというのが実態に近い。
 
しかし真夏の振袖撮影は暑かった!!
 
撮影には和服メーカーの社長さんの他、聖母女学院の人も立ち会ったのだが、聖母女学院の先生(?)は撮影の合間にアクアに
 
「アクアさん、うちの生徒たちにも凄く人気ですよ。みんなあなたみたいな可愛い女性になりたいって言ってますよ」
 
などと笑顔で言っていた。この先生、ボクのこと女の子だと思ってる〜と、アクアは思った。こないだ、ゆりこ副社長も言ってたけど、元々ボクのこと女の子だと思っている人って、かなり多いよね!
 

今回の撮影には“お母さん役”でローザ+リリンのケイナが出演している、お陰で、ケイナもこの真夏に冬用の訪問着を着るはめになった。
 
お母さん役としては、最初、アクアのファンクラブ会員番号4番・春風アルトに打診があったものの、あけぼのTV社長という立場では、あまり遠出ができない。それでケイからケイナに依頼があったのである。
 
マリナが妊娠中でなければ、アクア・ファンクラブ会員番号119番のマリナがいかにも優しいお母さんという雰囲気で良かったのだが、妊娠9ヶ月ではさすがに無理で、会員番号110番のケイナの出番となった。
 
これは後から「母と娘に見えて、実は父と息子かも」などとネットで書かれることになる。でもこのCMのお陰でここの振袖は例年の2割増し売れ、社長さんは凄い笑顔で「来年もお願いします」と言ってきた。結果的にケイナは来年も真夏に訪問着を着るハメになる。
 
「本当にケイナがアクアを産んだんだったりして」
「もしそうなら、ケイナは18歳でアクアを産んだことになる」
「あり得ない年齢ではないな」
「でもアクアの本当のお母さんは亡くなっているらしいよ」
 
アクアの本当のお母さんが亡くなっているという話は出所不明であったが、元々アクアの本当の両親については20歳になって以降開示するということにしていたので、その地ならしに、ワンティス関係者が流したのだろうとケイは思った。
 
一方今回炎天下で振袖を着たアクアFは、来年はボクはもう居ないだろうから来年真夏に振袖を着るのはMになるなと思っていた。しかし、実際にはまた自分が着るハメになる!
 

恵馬は仮名Aさんのフェラーリの車内から母に電話を掛けて、予定外のことが起きて熊谷まで行っていたこと、それで少し遅くなったこと、またここの所ずっと会っていた“仮名Aさん”と一緒に自宅に向かっていることを話した。
 
それで自宅に到着したのは20時半になってしまった。近所に時間貸しの駐車場とかが無いので、近くにある公園の駐車場に駐め、そこから300mくらい歩いて自宅に戻った。
 
玄関には灯りが点いていた。ドアも開くのでそのまま開けて入る。
 
「ただいまあ、遅くなって御免」
と恵真が言い、
 
「失礼します。お嬢さんを遅くまで連れ回して申し訳ありませんでした」
とAさんが言った。
 
母が出て来た。
 
「お帰り、恵真。そしていらっしゃい、ミモちゃん」
と母が笑顔で言うと、仮名Aさんがギョッとしている。
 

「ヒロミン!?」
と言って仮名Aさんは驚いている。
 
「知り合い?」
と恵真は戸惑うように訊いた。
 
「この人たちが学生時代にワンバンというバンドをしててね。よく私が勤めていたライブハウスで演奏してたのよ」
 
へー。バンドをしていたのか。でもワンバンなんてバンドは聞いたことない。あまり有名じゃなかったのかも。そうだよねぇ。そんな有名バンドの人が自分みたいな子に目を付けるはずもないし。
 
「ヒロミンはそのライブハウスの看板娘だった」
とAさん。
 
「看板娘といっても既に結婚していたけどね。覚行を産むのに退職したんだよ。だから短期間のお付き合いだった」
 
「でも出産後もわりと出て来ていた」
「パートだったけどね。不思議とワンバンが出演する日にはお店に出ていることが多かった気もする」
 
「そうか、ヒロミンの娘さんだったのか・・・」
「うん。私の可愛い娘」
 
ボク、やはり“娘”でいいのか、と恵真は思った。
 

玄関の所で立ち話もなんだしということで、居間にあがってもらう。帰り途中に買って来ていた松花堂弁当を出すので、それをチンして、飛早子と香沙は2階に持って上がった。
 
「だけど私がこの子に関わっていると知ってたの?」
「あれは30年くらい前かなあ。ミモちゃんと女の子の格好をした恵真が新宿を歩いているのを見かけてさ」
 
「30年前はボクまだ生まれてないよ!」
「相変わらず、ヒロミンのギャグは寒い」
「うん。氷点下まで冷やしたチューハイが好き」
「で、見てたんだ?」
「新宿に行ったのなら先月の下旬かな」
 
「あら可愛くなってるじゃんと思ってさ」
「なるほど」
「この子女の子になりたいと思ってるくせに、なかなか女装しないなと思ってたから、とうとう目覚めたかと思った」
 
え〜?ボク女装して良かったの?
 
「あまり女装しないから、この子寝ている間に病院に運び込んで性転換手術してあげないといけないかしらと思ってた」
 
「ああ、それは賛成」
 
またそういうジョーク(ジョークだよね?)言ってるし。
 
「ただ、ミモちゃんが、この子を女装っ子として扱っているのか女の子として扱っているのかは判断が付かなかった。でも帰宅した様子がサックスしてきた雰囲気じゃなかったから、女装の味を覚えさせようとしてるなと思った」
 
「サックス?」
「あ、間違った。セックス」
「私、セックスもサックスも得意だけど」
「あの頃、結婚してる私まで誘惑してたからね」
 

Aさんがお母ちゃんを誘惑??恵真はその意味を理解できなかった。
 
「Aさん、レビアスンなの?」
「レバイアサン??」
「もしかしてレスビアンのこと?」
「あ、それかも」
「私は男の子も行けるけど、ストレートだよ。基本的には女の子とセックスしたい」
 
「意味が分からない」
 
母が恵真の誤解に気付いた。
 
「ミモちゃんは男だよ」
「嘘!?」
「ただもう25年くらいずっと女装生活だよね」
「あら、私女装とかしてないわよ。普通に男の格好してるつもりだけど、女装に見える?」
 
Aさんは男?うっそー!?と恵真は思う。
 
「普通に女性に見えるんですけど」
「あら失礼ね。私が女に見えるなんて、眼科行ったほうがいいわよ」
 

お弁当も食べ終わったので、母が紅茶を入れてくれた。
 
「ディンブラだ」
とAさん。
 
「ミモちゃんが好きだったから、用意しておいた」
と母。
 
「よく覚えてるね」
「懐かしいね。高岡さんはいつも無茶苦茶だったし、上島さんはいつも女の子のお尻を追いかけていたし」
「ああ。高岡はとんでもない奴だったよ」
とAさんも懐かしそうに言う。
 
「いつも何か考えてるから、しばしば変な物飲んでた」
「変なもの?」
「コーラの水割りとか」
「まずそう」
「ウィスキーの焼酎割りとか」
「そんなの飲んで大丈夫?」
「よくそんなのを水割りと誤認して一気に飲んで倒れてたね」
 

恵真は母に尋ねた。
「この人、何か有名な人?」
「ああ。女の子に手が早いことと、男の子を女装させたがることで有名」
と母。
 
女装させられました!
 
「あんた、この人と寝た?」
「寝たって?」
と恵真が意味が分からないので尋ねるが
 
「やはり何もなかったようね」
と母は言う。
「この子は商品になるから手を付けない」
などとAさんは言っている。
 

「それであんまり可愛いから、写真を撮っていたのよ」
と言って、Aさんはノートパソコンを取りだして開くとCeciliaと書かれたフォルダを開いて中の写真を母に見せた。恵真は恥ずかしくて顔を俯せた。
 
「あら可愛い」
「可愛いでしょ?」
 
母はたくさんの写真を見ながら笑顔である。恵真は最初恥ずかしかったものの、母がずっと笑顔でスクロールしていっているので、いいのかなあと思って少し心の余裕ができた。母は写真を30分くらい見ていて、
 
「振袖似合うね〜」
とか
「水着写真がわが娘ながら、なかなかセクシーだ」
などと言っている。
 

「それでこれどうするの?」
と母は訊いた。
 
「写真集を出したい。ヒロミン、契約してくれない?」
「いいよ」
と母はあっさり言った。
 
え〜〜!?本当に写真集出しちゃうの?恥ずかしー。
 
「で、ギャラは幾ら?」
と母は訊く。
「話が早いね。買い取りにする?印税にする?」
「各々の場合の金額は?」
「買い取りなら500万円、印税なら5%」
 
500万円!?それまさかボクがもらえるの?
 
「印税で」
「1000部しか売れなかったら10万円にしかならないけど」
「ミモさんが売り込むのに1000部ということは無い」
「だったら、この子をキャンペーンとかで全国連れ回してもいい?」
「いいよ。学校の休みの日か放課後なら」
「うん。高校卒業まではそれでいい」
 
「だったら芸能契約もして欲しい」
 
芸能契約??ボクまさか芸能人とかになるの??
 

「事務所はどこ?」
「♪♪ハウスを考えている。実はここは§§ミュージックの友好プロダクションだから、移動に自家用機が使えるんだよ。いまのご時世、有望タレントほど、公共交通機関には乗せたくない」
 
「でも飛行機ってアクアちゃん専用なのでは?」
「現在3機運用しているし、年内にもう1機くらい追加されるはず」
 
「儲かってんだね!」
「まあアクアの事業規模が大きいからね」
「だけどあの子、声変わりしたらどうすんの?絶対人気急落するよ」
 
声変わり??女の子アイドルが???
 
「そうならないように、去勢しようよと本人を口説いている所というのが実情。世間では既に去勢済みと思っているけどね」
 
恵真は疑問が膨らんで聞かずにはいられなかった。
 
「アクアちゃんが声変わりとか去勢とか、アクアちゃん、女の子ですよね?」
 
「男の子だけど」
とAさんも母も言う。
 
「うっそー!?」
と恵真は声を挙げた。
 
「でもでも、今日会ったけど、女の子の声で話してましたよ」
「まだ声変わりが来てないからね。だから彼はボーイソプラノなんだよ」
 
「あの子何歳ですか?」
「明日で19歳」
「それで声変わりしてないなんてあり得ない」
「だから去勢疑惑がある、というか多くの人が実際には去勢済みなんだろうと思ってる」
 
「去勢してるんですか?」
「してない、してない。あの子は小さい頃に、3年くらい入院する大病をしたから肉体的な発達が遅れているんだよ」
「幾ら遅れてもさすがにいい加減声変わりするのでは?男の子であるなら」
 
「だからそうなる前に去勢しちゃおうよと口説いてる」
「そんなの強要してはいけないのでは?」
「だから本人が自主的に去勢手術を受けるように口説いている」
 
「寝ている間に病院に運び込んで手術しちゃえばいいのに」
などと母はまた過激なことを言っている。
 
そういえばこないだも母はボクのこと、寝ている間に病院に運びこんで性転換手術しちゃったとか言ってたけど。
 
「まあそれは最後の手段だね」
などとAさんは言っている。
 

「じゃセシルちゃんと、芸能契約していい?」
「いいよ」
と母は言う。
 
「契約書の書式持って来たけど、これでいいかなあ」
と言ってAさんが書類を出す。
 
母は書類を見ていたが言った。
「学業絶対優先という条項を入れて」
 
「鋭いなあ」
「高校卒業まではそれが絶対条件」
「分かった。卒業したら仕事優先でもいい?」
「まあそんなものでしょ」
 
それでAさんはパソコン上で書類を訂正した。
 
「じゃ今からでも♪♪ハウスの白河さんに会ってくれない?」
「今からなの?」
「昼間は仕事があるんでしょ?」
「まあいいよ」
 
それで結局、母のキューブに3人で乗って、四谷にある♪♪ハウスまで行くことになった。Aさんのフェラーリを母のキューブを駐めている月極駐車場に移動する。
 
 
前頁次頁目次

1  2  3  4  5  6  7 
【春銀】(6)