【春銀】(2)
1 2 3 4 5 6 7
(C)Eriko Kawaguchi 2020-11-30
その日の夕食時、中学生の香沙(かずな)がテレビの上の棚(正確には棚自体にテレビが載っている)の本を取ろうとしたら、棚に飾ってある、小さな船の模型(長さ4cmくらい)が落ちて船のマスト部分が外れた。
「あ、また落としちゃった。これマストがすぐ取れちゃうし、もう捨てちゃわない?」
「それはお父ちゃんが勤続20年の記念にもらった大事な模型だから粗末にしちゃいけないよ」
と恵馬は注意し、外れたマストを本体の穴に填めた。ここは緩くなっていて、わりと簡単に外れてしまう。
「でもこれ割りと重いよね。アルミじゃないみたい。ステンレス?」
「これは純銀製だからね」
「銀メッキじゃなくて?」
「中まで銀だよ。銀に銀メッキしたもの・・・だったよね?」
と言って母を見る。
「そうそう。銀の銀メッキ」
「なんで銀に銀メッキするの?無意味な気がする」
と香沙はごくまっとうな疑問を呈する。
「銀のフルートなんかも、銀に銀メッキをする。ただ純度が違うんだよ」
と母は説明した。
「へー」
「純銀で全部作ると、柔らかすぎるんだよね。だからだいたいこういうのはスターリングシルバーと言って92.5%の銀で作る。でもそれだと純銀より丈夫なのはいいけど、今度は錆びが出やすいんだよ。だから表面に純銀でメッキをするんだよ」
「へー!!」
と香沙は感心している。
「だからこれはスターリングシルバーの純銀メッキ」
と言い、母は大事そうにその船の模型を恵馬の手から取ると、棚の上に戻した。
「まー兄ちゃんが使ってるフルートとかも、銀の銀メッキ?」
と弟は訊く。
「あれは洋銀の銀メッキ」
「洋銀って銀じゃないの?」
「銀は入ってない。洋銀は、銅とニッケル・亜鉛の合金だよ」
「なぁんだ」
「純銀のフルートなんて高いから、とても買えない」
「でもフルート吹くのって、美少女ってイメージがあるよね。まー兄ちゃんがお姉ちゃんだったら、良かったのに」
と香沙が言うと
「あ、それ賛成。まーちゃんは女の子になって、白いドレスを着てフルートを吹くといいね」
と姉の飛早子(ひさこ)が言った。
それいいなあ、と恵馬も思ってドキドキした。白いドレスを着て、フルートを吹く少女って絵になるよね?
そしてそんなやりとりを母は優しい目で見ていた。
青葉は基本的には〒〒テレビでは、早番勤務なので、早朝に出勤してお昼過ぎには上がる。そして午後からは津幡の火牛スポーツセンター(通称)のプライベートプールで、ジャネ・筒石、南野、リルなどと一緒に練習している。K大の希美や夏鈴、またジャネの妹分(娘?)の月見里姉妹が来ることもある。しかし日本代表候補の5人は各々の専用レーンで泳ぎ、他の人はそのレーンを使用しない。プライベートプールならではの贅沢な使い方である。
テレビ局の仕事では、青葉はたまに、ツェーゲン金沢(サッカー)、金沢武士団(男子バスケット)、石川ミリオンスターズ(野球)、PFUブルーキャッツ(女子バレー)などの試合や練習風景、また高校生の大会などのレポートに出ていくこともある。そういった場合は勤務時間が変則的になる。
午前中の主な仕事はニュースを読むことだが、その日は事故のニュースを読んだ。
「次のニュースです。金沢近郊で車同士の衝突事故があり、2人が軽い怪我をしました。白山市内の国道360号線で、本線を走って来た乗用車と、脇道から飛び出してきた軽ワゴン車が衝突し、乗用車が反対車線道路外にあった樹木に衝突。乗っていた2人が軽い怪我をしました。2人は後続の車に救助され、病院に運ばれましたが軽症とのことです。飛び出してきた軽ワゴン車はそのまま逃走したとのことで、警察ではその軽ワゴン車の行方を追っています」
青葉はこの日3件のニュースを読んだのだが、この事故のことが気になった。この記事を書いた記者・箕山さんに尋ねる。
「すみません。これ現場はどの付近ですか?」
「えっとね」
と言って、記者さんはパソコン上の地図で場所を示してくれた。
「もしかしてここは・・・」
「何か気になる?」
「こないだ、うちの“霊界探訪”のクルーが取材に行った場所かも」
「何かあるの?」
「つまりですね。脇道ではないかも」
「何かありそうだね。何なら一緒に現場に行く?」
「もし良かったら。うちのクルーも一緒にいいですか?」
「OKOK」
それで、箕山記者を案内役に、霊界探訪の神谷内ディレクター、撮影係の森下カメラマン、青葉、幸花の5人で、テレビ局のプリウスに乗って現場に出かけた。カメラマンは制作部のカメラマンだが、もし報道番組としても成立すると思われた場合は映像を融通する約束である。
「あ、ここは純粋坂道じゃん」
と幸花が言った。
「やはりそうだよね」
と青葉。
「どういうことです?」
と箕山記者が言う。
「つまりですね。ここって一見“脇道”に見えるけど実際は脇道ではないんですよ。すぐ行き止まりになってますでしょう?」
と青葉は説明した。
「ほんとだ。10mくらい道らしきものがあるだけ」
「元々はここが本道だったと思うんですよ。でも線形改良でまっすぐでアップダウンも無い道ができたからこちらは廃道になった。でもその入口10mほどだけが埋められずに残ったんだと思います」
「なるほどー。でもどうして残すんでしょうね」
「私たちもよく分からないんですけどね。こういう場所はわりとあるんですよ。こういう感じの傾斜の強い坂道が多いので、霊界探訪では“純粋坂道”と名付けて純粋階段とか純粋シャッターなどと一緒に紹介するつもりだったんですよ」
「ああ、純粋階段は聞いたことある。というか、実は僕の家の近くにもあるんですよ」
「へー。どこの町ですか?」
「**町なんですけど」
「そこは行ってないかも。あとで取材させてもらえません?」
「いいですよ。後で案内しますね」
「しかしここが行き止まりだとしたら、これはどういう事故だったんでしょうかね」
「ここが本当に脇道なら、ずっとこの脇道を走ってきた車が一時停止を怠って本線に飛び出して、本線を走って来た車と衝突したと考えられる。でもこんな10m程度の距離で、それは考えにくいです」
「ということは?」
「つまりその手の事故ではないということでしょうね」
「うむむ」
青葉たちは、もしかしてこの手の事故が他にも起きてないか調べてみることにした。最初に警察に取材してみた所、確かに未解決の飛び出し衝突事故が最近頻発していると言われる。石川県警で把握しているだけで、この半年で10件起きているらしい。いづれも、脇道から飛び出してきた車はそのまま逃走している。これは車を保険で修理あるいは廃車にして代替の車を買うため事故証明を出してもらうために警察に届けたケースである。富山県でも起きてないかと思い、そちらにも取材したら、富山県警でも同様の事故を4月以降だけで8件把握していることが分かった。
青葉たちは、警察が把握していないものはもっとあるかも知れないと考えた。それで幸花がテレビ局の名前で、この手の事故あるいは事故寸前になったことが無いか、あるいはそういう事故を目撃していないか、ツイッターで質問を流してみた。
すると出るわ出るわ、わずか1日で80件もの反応があったのである。
事故内容には明らかな共通点があった。
・脇道からいきなり飛び出してきた。
・日没後間も無い時間(いわゆる逢魔が時)で結構暗くなったいたが、飛び出してきた車はライトをつけていなかった。
・向こうはそのまま走り去った。
また、ほとんどの通報で、衝突しそうになったのは“青い軽ワゴン車”であったことが判明する。
「この日数の中でこの件数というのは、ほとんど毎晩起きてるよ」
幸花は数人のテレビ局のスタッフにも手伝ってもらい、反応があった各々の人に、できるだけ詳細を教えて欲しいと頼むとともに、場所が分からないか尋ねてみた。すると30人の人が位置情報を送ってくれた。ただし、結構な重複があり、現場は全部で18箇所であった。幸花は真珠に頼んで、彼女のバイクでその場所を巡り道路の状況を記録すると共に、写真も撮ってきてもらった。彼女はこの18箇所を1日で回ってくれた。
「18箇所の内、15箇所が純粋坂道でした」
と真珠は報告してくれた。
「残り3件は普通の事故かもね」
「ありがちな事故ですからね」
「どうもこれは霊界探訪の仕事かも知れないね」
「3月に取材した“幻のワゴン車”の事件に似ているけど、あれより更に雲を掴むような話だなあ」
「ツイッターで反応があった人たちにさ、こちらの車種も尋ねたんだよ。そしたら、どうもスポーツカーが多いんだよね」
と幸花が言った。
「へ?」
「これが事故に遭った車の車種一覧」
と言って幸花はメモを見せる。
トヨタ86
マツダロードスター
マツダ RX-8
ホンダNSX
三菱ランサーエボリューション
スバル・インプレッサ
日産フェアレディZ
日産スカイラインGT-R
光岡オロチ
光岡ビュートなでしこ
ポルシェ911
ポルシェカイエン
VWゴルフカブリオレ
フェラーリ・テスタロッサ
アルファロメオ4C
ランボルギーニ・ウラカン
メルセデスAMG
アウディR8
アルピーヌA110
マクラーレンMP4-12C
アストンマーティンV8
ロータス・ヨーロッパ
「石川富山って、こんな高級車が走ってるんだ!」
「北陸も捨てたもんじゃないね」
「私も取材してて呆れたんだけど、普通のプリウスとかアクセラとか、そういう車の事件が全然無いんだよ」
「スポーツカーが狙い撃ちされてる?」
「その可能性もあるけど、ひとつはスポーツカーで田舎道走ってる人って、通行量が少ないのをいいことに、わりとスピード出すから、飛び出しに即時対応できなかった可能性はある」
「確かに。40km/hとかで走ってたら、脇道から飛び出してきても避けきれるよ」
「報道番組なら、みなさん事故に注意しましょう、と言って終われるな」
「でも霊界探訪はそうはいかない」
「でもこれどうしよう?」
「ドライブレコーダーにはそのぶつかりそうになった車は映ってないんですか?」
と明恵が尋ねた。
「あ、それそれ。ここまで取材した中で、ドライブレコーダー付けてた人が3人あったんだけど、ドライブレコーダーには何も映ってなかったらしい」
「え〜〜〜!?」
「アングルの問題で映らなかったのかもと、3人とも言ってた」
「怪しい」
「それ、この世の物ではないから映らなかったんですよ、きっと」
と真珠も言った。
「これはおとり取材でもするしかないかも」
と幸花が言う。
「つまり?」
「純粋坂道のある道路を夕方、高級スポーツカーで走ってみる」
「誰か高級スポーツカー持ってる人?」
「ここには居ないな」
「ひとり心当たりがあるけど、あの子は何もなくても普通に事故起こすから、あまり頼みたくない」
と青葉は言う。ムーランの社長山吹若葉である。RX-8乗りだが、数ヶ月に1度はどこかにぶつけて修理している。もうひとり、鮎川ゆま(ポルシェ・パナメーラ)も思いついたが、あちらはもっと危ない。
「テレビ局の予算で NSX か GT-R 買って下さい」
「さすがにそんな予算は無い」
青葉は不本意ながら、千里姉に電話した。千里姉は確かゴルフ・カブリオレも持っていたのではないかと思ったのである。しかし千里姉本人が今忙しいようであった。
「だったら、最高の適任者をそちらに行かせるよ」
「なんか凄く嫌な予感がするんですけど」
これが8月15日のことである。
それでわざわざ金沢まで来てくれたのは、丸山アイ!である。
愛車のフェラーリJ50(推定価格3億円)に乗ってきてくれた。でもきっと、ドライブしたかっただけだと青葉は思った。しかし彼女(彼?)なら、万一事故が起きても、死んでも死なないから、最高の適任者だ。万一車が壊れちゃったら・・・千里姉に弁償してもらおう!
「この車すごーい!」
と幸花も明恵も真珠も見とれている。女の子たちが歓声をあげているので、アイもご機嫌である。
「でもこれドライバーの他には1人しか乗れないですね」
「撮影クルーは別の車で付いてくればいいと思うよ」
「付いていけるならね」
青葉はまた不本意に山吹若葉に電話してみたら、
「私のRX-8、ちょうど能登空港に駐めてたから自由に使っていいよ」
と言われた。車のキーはムーラン羽咋のチーフさんが持っているということだったので、借りて、これを青葉が運転することにする。
(青葉のニスモSで羽咋に行き、キーを受けとって能登空港に行き、能登空港にニスモSを駐めて、若葉のRX-8を運転して金沢に戻る)
アイのJ50にカメラマンの森下が乗り、青葉が運転するRX-8に神谷内・明恵・真珠の3人が乗り、これまでこの“青い軽ワゴン”が何度も出没している国道360号、国道304号などを走ってみることにした。
千里は8月9日(日)に取材で東京に来ていた青葉を彼女のマーチニスモSで高岡まで送って行った。帰りは矢鳴さんにアテンザを持って来てもらって一緒に帰っている。
8月13日(木)は康子のマンション選びと車選びに付き合っている。15日に青葉から“軽ワゴン車飛び出し事故”の件で協力を求められたので、先日会った時に『暇だ暇だ』と言っていた丸山アイを推薦した。アイは千里から話を聞くと
「強い妖怪だったらいいな」
などと楽しそうに言って、16日の夜、愛車のフェラーリを運転して金沢に向かった。夫(妻?)の城崎綾香がずっと映画(アクア主演の『ヒカルの碁・プロ試験編』)の撮影で郷愁村に泊まり込んでいるので、どうも寂しかったようである。
16日は代々木第一体育館にバスケの日本代表が集まって『BASKETBALL ACTION 2020 SHOWCASE』というイベントが開かれたので、これに出席した。
19日には西湖の住んでいたアパート跡に建てていた小型マンション“橘ハイツ”が竣工したので、受領しに行ったが、結局ここのB〜5階をまるごと§§ミュージックに男子寮として貸すことになった。
20日には、康子が先日契約した桶川のマンションに引っ越すのをコシネルズのメンバーと一緒に手伝った。
8月25日(火)は旧七夕で、十二直“さだん”の建築吉日である。それでこの日、春から仙台で建築していた“ツイン体育館”牽牛と織姫が竣工したので、それを受領しに行った。
仙台市の幹部や体育関係者、クレールの和実、牽牛を拠点とするコシネルズのキャプテン・王風玲(ワン・フォンリン)、織姫を拠点とするグリーンリーブスのキャプテン・小野寺秀美、などがテープカットをした。放送局も取材に来ていた。ここでは10-11月には、品川ありさ・高崎ひろかがネットライブをする予定である。
この日はこけら落としで、牽牛で、コシネルズvsグリーンリーブスの練習試合、織姫では、地元の高校、宮城N高校女子バスケ部と宮城K学園女子バスケ部の練習試合が行われた。この2つの高校をはじめ、地元の中学高校のバスケ部やバレー部もここを時々練習に使う予定である。
現時点で考え得る最高の感染対策がなされているので、コロナ下で制約が大きくなかなかまともに練習できずにいる地元の高校ではかなり期待しているようであった。
なお、宮城N高校は、コシネルズの金子さんや、グリーンリーブスの小野寺さんたちの出身校でもあり、ずっと昔、インターハイで千里たちの旭川N高校と対戦したこともある(2007年のインターハイ2回戦)。
§§ミュージックおよび、あけぼのテレビでは、深川アリーナのスケジュールがわりと厳しいこともあり、今後ネットライブはここを中心に開催していく予定である。仙台市長はコロナが落ち着いて、リアルライブができるようになったらぜひアクアちゃんのライブをと言っていたが、その時期までアクアの人気が続いているかは誰にも分からない。
8月19日(水)。〒〒テレビでは、社員2名がCOVID-19に感染していることが判明。激震が走る。
取り敢えず自主制作番組の制作休止が宣言されたが、青葉たちはそもそも局内の設備も使用していないし“制作”前の段階の取材だしということで、作業を継続した(石崎部長からは許可をもらっている)。なお感染が判明した社員との接触があった人は全員PCR検索を受けることになったので、青葉・幸花・神谷内も検査を受けたが、幸花と神谷内は陰性で、青葉は精密検査に回された上で、抗体があると言われた。
「ワクチン接種の治験を受けていたので」
「だったらOKです」
でもちゃんと抗体ができてるんだなあと青葉は再認識した。
そういう訳で、青葉たちの“おとり取材”は続いていたが、一週間走っても、青い軽ワゴン車には出会わなかった。負荷が大きいので、この間、青葉はニュース読みの方はお休みにさせてもらっている。
アイが言った。
「ボクは強すぎるんだと思う。きっと恐れをなして出て来ないんだよ。だからもっと普通の人が運転したほうがいいかも」
「それはありそうですね。アイさんに対抗できる妖怪なんてあり得ないもん」
と青葉も同意した。
「普通の人というと?」
と幸花は言ったのだが、明恵も真珠も神谷内さんまで自分を見ていることに気付く。
「私がこのフェラーリを運転するの〜〜!?」
「うん」
「こんな凄い車運転できないよ」
「普通のMT車が運転できれば問題無い」
「でも万一どこかにぶつけたりしたら」
「きっと修理代は青葉ちゃんが出してくれる」
「うん。そのくらい出すよ」
それで幸花はおそるおそるフェラーリの運転席に座り、アイに助手席に同乗してもらって、慣らし運転で、軽く金沢市の外環(外環状道路 (*2))を一周してきた。
(*2)金沢市には、内環状道路・中環状道路・外環状道路という3本の環状道路がある。ただし外環状道路は、まだ一部未開通区間があるので、そこは適当に近くの道路を通過した。中環・内環は慢性的に渋滞しているが、外環は朝夕以外はわりとスムーズに走ることができる。
「何とかどこにもぶつけなかった」
と幸花はホッとしているが、かなり神経を使ったようだ。
「ちゃんと運転できるじゃん」
「でも大丈夫かなあ」
「何かあった時に対応できる人に助手席に乗ってもらおう」
「それって誰?」
「ひとり思い当たる」
それで青葉が呼び出したのは、吉田君である!
「俺、この番組からは離れていたのに」
「いいじゃん、いいじゃん。ついでに女装してくれない?」
「何でだよ?」
「か弱い女の子が2人で運転しているように見せる方が、向こうも安心する。これって、ほとんど愉快犯みたいなもんだから」
「うーん・・・」
「銀行の女子制服持ってるんでしょ?それ着てもいいよ」
「それは叱られる」
と言って、結局、吉田君は、女子大生風の白いブラウスに青いタイトスカートを穿かせられ、ついでにお化粧もするように言われた。
「お化粧うまくなったね!」
「毎日お化粧して勤務してるの?」
「してない、してない」
「でも自前のお化粧道具セット持ってるんだ?」
「新人研修で買ったんだよ」
「男性社員もお化粧の練習するの?」
「俺、間違って女子社員ということになってたから」
「なるほどねー」
「それで女子制服を着て勤務しているのね」
「男子制服だよ!性別はちゃんと修正してもらったから」
「なるほどー。性別を女性に修正してもらって女子社員になったんだ?」
「逆だよ。正しく男子社員にしてもらったんだよ!」
そういう訳で、丸山アイのフェラーリを、(本物の女性の)幸花が運転し、助手席に女装の吉田君が座る。
それに追随するRX-8は、アイが運転し、助手席に青葉、後部座席に神谷内さんと明恵が乗ることにした。真珠は森下カメラマン、城山ドライバーと一緒に放送局で待機である。
「要するに私たちはオトリなのね」
「そうそう。題してチョウチンアンコウ作戦」
「やはり私たちは餌なのか」
なお、チョウチンアンコウの英名は footballfish (メスの形がアメフトのボールに似ているから)であり、grand fisher は、ブリーチでの造語と思われる。
初日は国道360号で、白山白川郷ホワイトロード(旧・白山スーパー林道)の入口まで走ったが、何も無かったのでそのまま引き返してきた(白山白川郷ホワイトロードは夜間通行止め)。翌日は国道304号で南砺市まで行ったが、やはり何も起きなかった。
(吉田は毎日女装させられている)
「なかなか出会えないなあ」
「提案。千里ちゃんに電話してみよう」
とアイが言う。
「結局それか」
(実は綾香の方は映画の撮影が終わったのにアイが自宅に居ないので「早く帰って来てよ」と言われ、事件をさっさと片付けたくなった)
それで青葉は8月26日、千里姉に電話してみた。千里姉は仙台にいるようだった。そのワゴン車が出そうな道の地図を送ってというので、Mapionで石川富山の地図を出してそれをWindowsのペイントに取り込み、これまで出没情報のあった道路をマークしてからメールした。
千里姉からは
「今日は、この道だと思う。氷見ICを18:30に出発して」
と書かれていた。国道415号の氷見−羽咋間、熊無峠越えの道である。ここは幸花たちの調査では1回出現しただけだったこともあり、まだ今回の“おとり取材”では通っていなかった。
千里姉が吉田君とだけ話したいというので電話をつないでから吉田君と代わった。彼は
「え〜〜〜!?」
と声を挙げたが、
「分かりました。千里さんを信じてそうします」
と厳しい顔で頷いた。
何の話をしたんだろう?と青葉は訝った。
ラッシュを避けるため、16時に金沢の放送局を出発した。フェラーリとRX-8が並んで走っていると物凄く目立つ。国道8号・津幡北バイパスを走っていると、白いマークXが後についた。
「覆面パトカーだね」
と丸山アイ。
「はい。これは私にも分かりました」
と青葉も答えた。
マークXはしばらく青葉たちの車を追随していたが、ずっと速度制限を守って走っている(後から来た車がどんどん追い越して行く)ので、やがてマークXも青葉たちを追い越して先に行った(スピード違反だと思う)。
千里姉からは高速を使わずに行ってという指示があったので、国道8号をずっと走り、四屋IC(国道同士の交点だが高速のジャンクションのような構造)で国道160号上りに乗る(R160は一般的な感覚とは逆に七尾市の川原町交差点が起点。この交差点は本当に小さな交差点なのに、R159, R160, R249という3つの国道の起点である)。
17時半頃に氷見IC近くのローソンに到着する。この時間帯はラッシュが凄い。ローソンでトイレに行って来て、コーヒーやお弁当・おやつも買う。神谷内さんがお弁当を買うから好きなものを言ってと言ったが、青葉・アイ・吉田君の3人は「すみません、後で」と言い、コーヒーだけを飲んだ。
でも幸花はロースカツ弁当、明恵はアジフライ弁当、神谷内さんも牛焼肉丼を食べていた。明恵はアイまで居るなら自分の出番は無いとみてオフモードだなと青葉は思った。吉田君が食事を取らないのは多分、千里姉から何か特命を与えられたのだろう。精神を研ぎ澄ますためには、軽い飢餓状態にすること、特に生臭を取らないことが大事である。
18:30にコンビニの駐車場を出発する。
ちょうど日没である。
「まだ混んでるね」
「それも計算の内だと思いますから大丈夫ですよ」
道路は割と混んでいて流れが遅かったが、やがて町並みを抜け山道に入ると、さすがに通行量も減り、流れも速くなる。
先行するフェラーリの助手席に座る吉田君から確認の電話が入る。
「流れに沿っていけばいいよね」
「うん。それでいい」
18:20頃に県境を越えて石川県側に入る。すぐに右手にドライブインを見るが、まっすぐ進む。大きなカーブがあるのを慎重に進行する。青葉は何の気配も感じなかった。運転しているアイに声を掛けてみるが、彼女(彼?)も今の所何も感じないと言っている。
吉田は幸花が運転する車の助手席で車酔いしそうな気分だった。こういうカーブの多い道は運転している本人はいいのだが、同乗者はわりと辛い。更に幸花はあまり上手いドライバーではないので、身体に掛かる加速度が結構辛いのである。
(アイはとっても上手いので、後続のRX-8の同乗者はここまできつい思いはしていない)
気分を紛らすのも兼ねて後続のRX-8に乗っている青葉に電話してみたが、青葉の指示では流れに沿って走ってということであった。その内、前の車が脇道に移り、前が居なくなる。再度電話してみると、速度制限を守って走ってということだったので、そのように幸花に伝える。
18:50頃に県境を越え、そのすぐ先にある熊無峠のドライブインの横を通過して車は下りに入る。暗くなってきたのでライトを点ける。大きなカーブを速度を抑えながら走る。下り道なので、抑えているつもりでも、どうしてもスピードが出る。
わりと直線になっている箇所で、下り坂なので少しスピードが出てしまった時のことだった。
「アッ!」
と、運転している幸花、助手席の吉田、2人が同時に声を出した。
左手の脇道からいきなり無灯火の軽ワゴン車が飛び出してきたのである。
幸花がブレーキを踏むとともに、ステアリングを右に切る。
しかし吉田がそれに飛び付くようにして「だめ!」と言い、ステアリングを掴み、左に戻した。
(吉田は実は「アッ」と叫んだ瞬間に自分のシートベルトを外していた)
フェラーリは一瞬ふらつくようにしたものの、結局まっすぐ進む。
「ぶつかる!」
と幸花が悲鳴のような声をあげた。
軽ワゴン車がもう視界の目の前に迫る。
そして
ぶつかった!
と幸花は思ったが何の衝撃も無かった。
え?え?
後続のRX-8は熊無峠を越えてから、大きなカーブを曲がり、更に小さなカーブを曲がってから、フェラーリの後を追随して長い直線を降りて行っていた。
突然左脇道から軽ワゴン車が飛び出してくる。
フェラーリは急ブレーキを掛けるとともに一瞬右に舵を切るかに見えたが、すぐに元に戻し、そのままの車線を走り続ける。2つの車が衝突する・・・・
かに見えたが、衝突音などは無かった。
「行くよ!」
とアイが声を出し、RX-8のステアリングを切って、華麗に先行するフェラーリを追い越す。そして青いワゴン車を追いかける。
フェラーリは停車したのだが、ワゴン車はスピードをあげて逃げて行く。
「実体が無いですね」
と青葉が言う。
「うん。今この様子を他の人が見たら、単にRX-8が山道で暴走しているようにしか見えないと思う」
とアイも答える。
「どうします?」
「停める」
とアイが言うと、突然道路の前方に巨大な壁が出現した。
先行していた軽ワゴン車が急ブレーキを掛けて停車する。
RX-8も停車する。
青葉とアイが車外に飛び出した。
後部座席の神谷内さんと明恵も続けて飛び出す。
「任せた」
とアイが言った。
「分かりました」
と青葉は答えると、印を結び、光明真言を唱える。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」
青いワゴン車はその姿がカゲロウのように揺らぎ、そして燃え上がるようにして、やがて少しずつ薄くなり、消えて行った。
向こう側に出来ていた“塗り壁”のような壁も消えている。
ここはもう普通の空間になっていた。
「帰ろう」
「ええ、帰りましょう」
「待って」
と言って、神谷内さんが付近の様子をカメラで撮影していた。
幸花が少しショックを受けているので、フェラーリをアイ、RX-8を青葉が運転して放送局に帰還した。
吉田君がお腹を空かせたろうと思い、途中のファミマで、お弁当を買って車内で食べてもらった。吉田君は唐揚げ弁当を食べたが、幸花はさっきもトンカツ弁当を食べたのに、今度はハンバーグ丼を食べていた。アイと青葉は運転しながら食べられるようにおにぎりを買った。
放送局に着いてから、待機していた真珠がコーヒーを入れてくれた。
「結局、何だったの?」
と、特別に水割りを作ってあげたのを飲んだ幸花が尋ねる。
「千里さんから言われたのはさ」
と吉田君(男の服に着替えた)が語る。
「その青いワゴン車というのは、実体の無いただの幻だから、その車が飛び出してきても、物理的に衝突することはない。だから、ハンドルを切ったりせずに、そのまままっすぐ走れということ。ハンドル切れば絶対事故るからと」
「そうだったのか」
「でも運転している人はそう言われていても反射的にハンドルを切る。だから助手席に乗る俺がそれを修正してくれと言われたんだよ」
「私もう死ぬかと思った」
と幸花は言っていた。
「まあその状態で冷静にまっすぐ走れるのは青葉ちゃん以上の霊能者とか、千里ちゃんみたいな“自称霊感無し人間”だけだよ」
とアイ。
「姉は、いい加減、自分には霊感が無いなんて嘘はやめた方がいいと思います」
「大いに賛成」
「結局、あれは妖怪の類い?」
と神谷内さんが尋ねた。
「そうです。愉快犯の類いですよ。妖怪にはこの手のものがわりとあるんですよ。だけど、さすがに調子に乗りすぎましたね」
と青葉。
「しかし車の形をした妖怪がいるなんて」
「昔は鍬(くわ)や鋤(すき)、提灯(ちょうちん)や唐傘といった道具の妖怪が出没していた。今の時代には。車や飛行機、パソコンやスマホの形を取る妖怪が出ても不思議ではないですよ」
と青葉は言う。
「なるほどー」
「まあそういう形に、妖しい“気”が集まるんだろうね。昔は“さまよえるオランダ人”(Flying Dutchman)なんてのもあったし」
とアイも言った。
「そうか!あの類いか!」
「ネット上で暗躍する、バーチャルな妖怪も出ますよね?」
と明恵が訊く。
「出るだろうね。幻のサイトとかね」
と青葉もアイも言う。
「だけと青葉ちゃんは優しいね。あれを成仏させちゃうなんて。ボクだったら千年封印の刑にしちゃうのに」
などとアイは言っている。
「生憎、その手の術は覚えてないので」
「じゃちょっと番組をどう構成するか打ち合わせない?今、丸山さんもいる場所で、放送していい内容と、してはいけない内容を切り分けたい」
と神谷内さんは言った。
「そうしましょう」
番組構成を1時間くらいにわたって打ち合わせたが、結局、今回は30分の短縮構成(実質23分)のつもりだったが、通常通り1時間構成(実質45分)にすることにし、前半を純粋階段(箕山さんの自宅近くのも追加で取材したが、最も美しい純粋階段だった)、純粋ドア・純粋門などの類いのものを紹介(千里姉が四国の純粋トンネルの写真を持っていると言っていたので、それも送ってもらい一緒に紹介した)し、後半にこの“脇道から飛び出す軽ワゴン車”事件の顛末を放送することにした。
塗り壁が出現したり、青葉が車を成仏させてしまう所は、CGで構成することにしたが、幸花が「うちの番組って予算あるんですねぇ」と感心していた。実際は石崎部長が特別に予算を出してくれたお陰である。
ちなみに吉田は、女装の自分が映ることになることに、気付いていない!!
その日は、打ち合わせが終わってから、神谷内さんが取ってくれた仕出しを食べた。それで丸山アイは深夜の方が走りやすいからと言って、その夜帰っていった。神谷内さんは丸山アイにどれだけ謝礼をすればいいか見当が付かなかったようで、青葉がトイレに立った時に自分もトイレに立ち尋ねた。
「あの人はお金持ちだし、今回の仕事はただの趣味ですから、お車代に3万円くらい渡しておけばいいですよ」
「そんな少額でいいの?」
「まともに謝礼を払うなら100万円くらいでしょうけど、本当に今回は趣味の暇つぶしで来てくれただけですから」
それで神谷内さんは結局、御車代の名目で10万円渡したようである。多分制作費から都合できる限度額だろう。
青葉は何ももらっていないが!
RX-8を貸してくれた若葉には純粋に車の借り賃として3万円渡した。しかし若葉は「そんなの要らないのに」と言ってムーランの食事券(額面500円)を60枚もくれた。
それで神谷内さんは、それを吉田君に御礼代わりと言ってあげたので、吉田君は銀行の同僚にそれを配ったようである。そしてそれは主としてお弁当の出前に使用された。金沢市内は、ムーラン出前専用部隊の配達区域になっている。
ムーランの出前専用部隊は、和実がクレールのデリバリー専門部隊を作ったのにならって6月から営業開始したもので、津幡を拠点に、津幡町・内灘町・かほく市・小矢部市・金沢市・高岡市までを配達範囲にしている。ムーランのロゴ(水車のマーク)を入れた三菱ミニキャブミーブ(電気自動車の小型バン)を10台購入。2人1組で配達して回るようにした。これは会社などでまとめて注文というのが多いので、機動性のあるバイクより、積載性の高いバンを選択したためである。
2人1組にするのは、配達をする女性スタッフが性被害に遭わないようにする用心と、配送中に連絡を受けられるようにすること、それに駐車違反逃れである。
なお、この配達部隊(総勢50人も雇用している)の中に、津幡火牛アリーナを本拠地にする、バスケ女子チームの、女形ズおよびレディ加賀の選手が合計10人入っている。他は、だいたい金沢や高岡のスポーツをする女子大生が多い。実は女形ズなどのコネでバスケ部員や、青葉のコネで水泳部員も多い。コロナのせいでバイトの少ない時期なので、応募者は多かった。
恵馬は夏休みに入ったので週2回会おうと言われ、その後、水曜と土曜または日曜に会うことにした(土日のどちらになるかはAさんの都合に合わせてくれと言われて了承した)。女装して出かけるのは恥ずかしい気がして、ズボンを穿いて出かけるが、だいたい帰りは女装で帰宅することになる。
夏休み中ではあるが、姉は高3なので塾の夏季講座に出かけていて、恵馬が帰宅する時間帯は不在だった。また、中学生の弟はゲームに夢中で、ずっと自分の部屋に閉じこもっている。それで女装で帰宅する恵馬を見るのは、いつも母だけであった。
8月5日(水)はカットソーとアクリル生地のゴム編みウェストの膝丈スカートという、ほとんど室内着みたいな、カジュアルな服を着せられた。
「お出かけできる服もいいけど、普段着も必要だろうからね。この服もあげるから、おうちで普通に着てなよ」
「そうですね。考えておきます」
と恵馬は曖昧な返事をした。
この日も前回と同様に1時間ほど歌の練習をしてから、撮影に出かける。今日行った場所は、わりと山の中にあったのだが、まるでお城のような家(?)が建っていた。
「映画のセットか何かですか?」
「あんた勘がいいわね。実はある歌手のPV撮影のために建てたものなのよ」
「なるほどー!そういう用途でしたか」
「また他の歌手のPV撮影とかに使うかも知れないというので崩さずに取っておるのよね。それを今日は借りることにした」
そういえば、こないだは「1年以内に歌手としてデビューさせてあげる」とか言われたけど、本当に音楽業界にコネがあるのだろうか。
「取り敢えず着替えよう」
「この服で撮影するんじゃないんですか?」
「まさか」
それで、お姫様のような真っ白なシルクのドレスを着せられた。
まるで学芸会の劇にでも出るかのような気分である。恵馬は小学生の時に、学芸会でシンデレラ役をして、こんな感じのドレスを着たよなあ、と昔のことを思い出していた。
前回も長い髪のウィッグを付けられたのだが、この日もやはりロングヘアのウィッグを付ける。ただ、前回はカーリーヘアだったが、今日のウィッグはストレートヘアである。確かにこの方がお姫様っぽい。
この衣装で撮影していたら、アナさんが言った。
「ここでフルートでも持って吹いていると絵になるんですけどねー」
「ありゃ、フルート持ってくれば良かったわね」
と仮名Aさんが言う。
「フルート持って来てますけど」
と恵馬は言った。
「持ってるんだ?」
「演奏を見てあげるから持っておいでと言われたんで」
「そうだった!忘れてた」
とAさん。
どうも完璧に忘れていたようである。
恵馬は自分の荷物からフルートのケースを取りだし、中のフルートを取りだして組み立てた。
「そこの窓辺で何か適当な曲を吹いてみて」
と言われたので、恵馬は窓辺で、通称“ハイドンのセレナーデ”を吹いた。
長年ハイドンの作品と思われていたので“ハイドンのセレナーデ”と呼ばれているが、実はロマン・ホフシュテッターの作品であったことが判明している。ミファ・ソミドー、ソミ・ラファドーというメロディーである。元々は弦楽四重奏曲ヘ長調の第二楽章(アンダンテ・カンタービレ)であるが、ピアノやフルートで演奏されることも多い。
「あんた、上手いじゃん」
と言われた。
「だったら撮影の後で少し手ほどきしてあげるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
それでこの日は、この“お城”のあちこちで、フルートを手に持っている姿とか吹いている所を撮影された。
この“お城”はPV撮影用に作られたというだけあって、前から見た姿は確かにお城なのだが、中は広間、廊下、部屋などが絶妙に“効率的”に詰め込まれていて、窓側は豪華なお部屋の窓付近に見えるが、振り返ると広間に見えるなどという面白い作りになっていた。
1時間ほどプリンセスドレスでの撮影をした後
「ドレスだけではもったいない」
と言われて、今度は侍女のようなコスチュームを着せられて、それでの撮影も30分くらいした。
その後で、この城まで来た時に着ていたアクリルスカートのカジュアルな服装に着替えて、30分ほどフルートの演奏を見てもらった。
「技術的には充分上手い部類だと思う」
と最初に言われた。
「レッスンか何かを受けてる?」
「いえ。吹奏楽部で吹いているだけです」
「それでここまで吹けるのは凄いよ。技術的なものはひたすら吹きこなすことだな。レッスンとか通っているんじないなら、今度会う時までに、あんたのレベルに適当な課題を用意しておくから、それを練習してみて」
「はい、よろしくお願いします」
「後は、あんたのレベルなら要求していいこととして、感情を込めて吹くこと」
「感情ですか?」
「単に譜面通りに吹くだけなら、MIDIの打ち込みとかのほうがよほど正確に演奏する。人間のプレイヤーに要求されるのは、その譜面をきちんと解釈し、悲しい所は悲しく、楽しい所は楽しく演奏することなんだよ」
「それ具体的にはどうすればいいんですか?」
「そのフルートちょっと貸して」
「はい」
それで仮名Aさんはフルートの歌口をアルコールウェットティッシュで拭いた上で、それを構えると、さっき恵馬が拭いた“ハイドンのセレナーデ”をまず1回吹いた。物凄く上手いのでびっくりする。これはプロの演奏だと思った。
「今のが1回目。次の演奏」
同じ曲なのだが、凄く悲しい感じがした。実際恵馬はつい涙が浮かんでしまった。
「今のが2回目。次の演奏」
やはり同じ曲なのに、今度は何かワクワクするような感じを受けた。踊りたくなってくる感じである。
「違いが分かったでしょ?」
「全然違いました!」
「その曲をどう吹くかは、結局その曲をどう解釈するか次第なんだよ。あんた、何か好きな曲があったら、それを色々な人の演奏で聴いてみるといい。その中であんたがいちばんしっくりする感じの演奏を手本に吹いてみて、それをベースに自分の演奏を確立していくんだよ」
「それって物凄い時間がかかりますよね」
「そうだよ。その作業は音楽家の一生を掛けて進行していくのさ。だからしばしば天才少女とかいわれて10歳か12歳くらいで有名オーケストラと共演する少女とかいるけど、そういう子は技術的には上手いけど、何も解釈できていない」
「10歳じゃそうでしょうね」
「自分の人生を掛けて、ひとつひとつの曲を究めていく。それが音楽家の道だね。あんたはその道の入口に立っているのさ」
恵馬は自分の先に長い道が続いているのを感じた。
「まあ、私が指導していれば、1年後には、結構なレベルの美少女フルーティストに進化していると思うよ」
あはは、やはり“少女”フルーティストなのか、と恵馬は思った。
この日はこのフルートレッスンの後、自宅近くの**駅まで送ってもらった。
その次の、8月8日(土)は初めての土曜日のセッション(?)となった。
普段着っぽい女子高生風の服に着替えて、まずは30分ほど歌の練習をしたが、最後の方で
「裏声のまま、声のピッチを下げて行って」
と要求された。
声が凄く不安定になる。
「その付近の声がミドルボイスといって、実声と裏声の中間なのよ。その辺りの声の出し方が、実は女声の出し方にとても近い」
「へー!」
「これ私と会わない日も自分の部屋で練習してみて。ただし練習をしすぎると喉を潰してまともな声が出なくなるから気をつけて。1日に最大30分にすること」
「はい」
歌および発声のレッスンの後で、今日は30分ほどフルートを見てもらった。この日はAさんも自分のフルート(総銀だ!さすがである)を持って、吹いてみせてくれる。この日は先週恵馬が吹いた“ハイドンのセレナーデ”について、しばしば問題になる箇所をいくつか取りだしていくつかの吹き方をしてみせてくれた。それで各々の箇所で恵馬か
「こっちの演奏の方が好きです」
と言うと
「ではそれでやってみよう」
と言われて、その演奏の仕方をする。それで30分ほどのレッスンの間に、自分でもかなり、演奏が上手くなったような気がした。
「かなり良くなったよ。じゃ次回はこの曲をやろう」
と言って楽譜を渡された。知ってはいるが、吹いたことのない曲である。
「では練習しておきます」
「うん。頑張ってね」
その後、この日は、振袖を着せられた。
和服なんて七五三で着せられたかもという微かな記憶があるくらいである。もっとも当時着せられたのは恐らく“男児用”の和服だろう。不確かだけど。
最初にタオルで体型補正された上で、肌襦袢・長襦袢と着せられ、振袖を着せられてから帯を結ぶ。着るだけで30分くらいかかったので、それにも驚いた。
「でもきれーい」
「可愛い子に着せると美しいね」
「まるで女の子になったみたいな感じ」
「君はとっくに女の子だよ」
この日はお化粧も和風に、これまでとは少し違う感じに化粧された。
髪は、最初に行った何とか邸ではカーリーロングヘア、前回行ったお城ではストレートロングヘアのウィッグを付けたのだが、今回は日本髪のウィッグを付けさせられた。
でも重かった!
それからフェラーリに乗って、八王子市郊外にある、純日本風の邸宅に行き、アナさん・オナさんを撮影助手にして、2時間ほど撮影をした。
撮影終了後は普通の女の子の服に着替える。今日は細かい青白チェックのブラウスと、ジーンズのタイトスカートになって帰宅する。また普段着用にと言われてスカートを3着もらった。
「これで家の中では毎日スカートを穿いていられるよ」
「それはちょっと恥ずかしいです」
「慣れの問題と思うけどね」
恵馬は女の子の服が増えてきて、これをどこに収納するか悩み始めた。
4回目のセッションが終わった翌日の8月9日(日)、恵馬はお昼を食べた後、母から「ちょっと一緒に出かけよう」と言われた。
それで恵馬がグレイのTシャツにジーンズ(ズボン)という格好で降りてくると
「スカートを穿いて」
と言われた。
「え〜〜!?」
と恵馬は言ったが、今日は弟は友だちと映画を見ると言って出かけているし、姉も例によって塾に行っている。
それで恵馬は自分の部屋に戻り、少し悩んだ末、膝下まで丈のある紺色の台形スカートに穿き換えた。これを穿くと上はグレイのTシャツは合わない気がして、レモンイエローのブラウスに着替える。ブラウスのボタンを留めるのにもだいぶ慣れてきたのでスムーズに留めることができた。
その格好で降りて行くと、母は
「うん。可愛い」
と言ってくれた。母は更に
「これかぶりなさいよ」
と言ってウィッグを渡した。
「ごめん。つけかたが分からない」
写真撮影ではウィッグをつけているが、いつもAさんにつけてもらっていた。
「ちょっとそこに椅子に座って」
「うん」
それで母は恵馬の頭にウィッグをかぶせてくれた。
「可愛い女子高生のできあがりだね」
「えへへ。でもお母ちゃん、ボクが最近出かけて何してるのかって聞かないの?」
「聞いて欲しいの?」
「たぶんその内、ちゃんと話せる」
「うん、それでいいよ」
それで母のキューブに乗って出かけた。
最初、カーマに行った。
「あんた、最近たくさんお洋服を持ってるみたいだから、衣装ケース買おうよ」
「あ、それ困ってた」
それで母はプラスチックの5段の衣装ケースを買ってくれた。大きいので、キューブの後部座席に積み込んだ。
その後、イオンに行き、洋服屋さんに行く。母が店員さんに声を掛けた。
「済みません。この子、転校してきて、2学期からU高校に入るんですが、制服を作りたいと思って」
「あ、はいはい、U高校ですね」
恵馬はびっくりした。U高校は今恵馬が通っている学校だが・・・むろん恵馬は男子制服で通学している。その制服をなぜ再度作るのだろう?と恵馬は母の意図が理解できなかった。
しかし売場のお姉さんは、メジャーを出して恵馬の身体の寸法を測ってくれた。
最初に背中にメジャーを当てられ、首の後ろの所から腰付近までの長さ、お腹の後付近から膝付近までの長さを測られた。
「まだまだ成長期だから、着丈は余裕があった方がいいですよね」
「はい、それでお願いします」
手を水平に上げて、首の後から手首の所まで、次に手を下げて、肩の所からやはり手首の所までを測られる。肩幅、腕の太さも測られる。
腰周り、そこから少し上の部分の周囲、お腹のいちばん細い所の周りを測られ、最後に胸回りを測られた。
「1年生ですか?」
「はい、そうです」
「バストの成長が遅いみたいですけど、この年齢の女子は急速に発達しますから、少し余裕を持って作りましょうね」
「はい、それでお願いします」
などと母は言っている。
ここに至って、恵馬は、もしかしてこれ女子制服の採寸?ということに気付いた。そういえば、お腹から膝までの寸法を測られた。ズボンなら足首までの長さを測る。膝まで測ったのはスカート丈なんだ!
母は注文書に住所・氏名・電話番号を書いたが、氏名の所は“恵真”と書き、“えま”と仮名を振った。ボクって恵真なのか!でも同じ読みでも字が変わると女の子っぽくなるんだなと思った。性別は女に丸をし、高校名はU高校と書く。そして服の種類は、夏服・冬服の双方に丸を付けた。
8月24日からの2学期からしばらくは夏服だが、10月からは冬服になるはずだ。
洋服屋さんを出てから尋ねる。
「女子制服を作ってくれるの?」
「あんた必要になるんじゃないの?」
「まだよく分からない」
「10日くらいでできるというから、2学期からはそれで通学できるよ」
「女子制服で通学とかしていいのかなあ」
「それで通学したいんじゃないの?」
「どうしよう?」
と恵馬は悩んでしまった。
「でも制服高いのに」
「政府から出た10万円のあんたの分、まだ使ってなかったから、それを使ったよ」
「まだ取ってあったんだ!」
「飛早子のは塾の夏季講座の受講料に使った。香沙のは、PS5が出たら欲しいと言っているから、それに使う予定」
お母ちゃん、ボクたちの分の給付金、ふつうの家計には転用しないんだなあと思った。
「あんたが飛早子と同じ高校に入ってくれていたら、あの子が1年生の時に着ていたお下がりでも行けたんだけどねぇ」
「ごめーん」
姉は実は胸が想定以上に成長してきつくなってしまったので作り直したのである。ボクも胸が成長したりしないかなぁ。
姉は頭がいいので公立に合格して通っているが、恵馬は公立に合格できなかったので私立に通っている。授業料自体は“高校無償化”のおかげで掛からないものの、あれこれ要求される校納金がわりと高い。その上、好きなフルートも、中学時代に最初使っていた白銅?製品(怪しげなメーカーの品で2万円)が壊れてしまったので、昨年、まともなメーカーの洋銀製品(Pearl PF-505E Straight Covered-key 7万円)を買ってもらっている。
「高い楽器買ってもらってこめん」
と言ったが、
「いや、最初買ったのがさすがに安物すぎでごめん。それにお姉ちゃんの塾代より安い」
と言われた。
大学進学を目指すのも大変なんだなと思った。恵馬はあまり頭の出来はよくないのを自覚しているので、大学には行かずに、高校を出たら専門学校を出て、デザイナーか何かにでもなれたらと思っている。恵馬は音楽も好きだが絵も好きである。
女子制服の注文をした後、更に母は恵馬をしまむらに連れていった。
「あんた、女の子の服があまり無いでしょ?少し買おうよ」
「あ、うん」
それで母はTシャツの女の子が着るようなものを5着、それにカジュアルなスカートを4着、更にパンティを6枚とブラジャーを3枚買ってくれた。
「家の中ではずっとスカート穿いてなよ」
「え〜〜?」
「だってスカート穿くの好きなんでしょ?」
「好きかも」
「自分に正直になった方がいいよ。あんた、小学生の頃はよくお姉ちゃんのスカート勝手に穿いてたし」
「知ってたんだ?」
「当然」
「髪も最後に切ったの6月でしょ?夏休み中ずっと伸ばしていたら、学校が始まるまでには女子としてもあまり不自然じゃない長さになると思うよ、学校始まる直前に美容院で女の子らしい髪型にしてもらおう」
「美容院・・・」
なんて素敵な響きだろうと思った。恵馬は母や姉がいつも美容院で髪を切っているのを羨ましく思っていた。
帰宅した後、置き場所に困っていた女の子の服を、買ってもらった衣装ケースの中に収納した。いちばん下の段は、パンティ、キャミソール、ブラジャーだけでいっぱいになってしまった。
更に母は
「これもう着ないよね?」
と言って、恵馬の部屋の衣装ケースから、男物の下着(パンツとシャツ)とワイシャツまで全部回収してしまった。
つまり、これ以降、恵馬は下着は女物しか着ることはできないことになる。またワイシャツが無いのでブラウスを着て学校に行くしかない。
ま、いっかと思った。
そしてその日は母にも言われたように、帰ってから家の中でずっとスカートを穿いていようかと思ったのだが・・・
この日はスカート姿で、姉や弟の前に出る勇気が無くて、結局キュロット(こないだAさんからもらった服の中にあった)を穿いていた。
母が「根性無いね」と言っていた。弟は恵馬がショートパンツを穿いているように思ったようである。姉は恵馬のボトムをじろじろ見ていた。キュロットだというのがバレてる〜!と思った。だいたいキャミソールのラインが透けて見えているのだが、弟は恵馬がランニングを着ているように思ったようである。
1 2 3 4 5 6 7
【春銀】(2)