【春銅】(6)

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「次はお化粧してみよう」
と言われ、恵馬はドレッサーの前の椅子に座った。
 
「産毛(うぶげ)を剃ろうね」
と言われ、最初にハサミでもみあげの毛をきれいに切られた後、三枚刃の女性用カミソリで口周りを中心にきれいに“産毛”を剃られる。
 
「あんた顔の産毛は薄いね。あまり剃らなくてもいいでしょ?」
「週に1回くらいかな」
「うんうん」
 
それから眉をカットされた。最初に眉毛コームを当ててそこからはみ出す眉毛を全部眉毛ハサミで切られる。その上で眉毛自体、細く残して下側をきれいに切られる。
 
「眉毛切る時は上側を切らないこと。下側を切るのが基本」
と言われる。
 
しかし眉毛をカットされただけで顔の印象がガラッと変わったのでびっくりした。
 
顔全体を化粧水を染み込ませたコットンで拭かれる。化粧水が肌に浸透していく感じが心地良い。ついで乳液を付けられる。顔全体にファンデーションを塗られる。
 
アイメイクに行く。アイカラーを濃淡2段に塗られる。アイライナーを目の周囲に塗られるが、アイライナーペンシルが目に刺さりそうでわりと怖かった。アイブロウペンシルで眉を丁寧に描かれる。なんかすごいきれーいと思う。
 
「眉毛って1本ずつ描くんですね」
「そうだよ。なんで?」
「うちのお母ちゃんとか、すーっと横一線で描くだけだから」
「それは古い流儀だね」
「へー」
「最近は自然な眉毛に見えるようにちゃんと1本ずつ描くんだよ」
「ああ」
 
マスカラをたっぷり塗られる。こんなにたくさん塗るのかと驚く。ビューラーでカールを付けられた。下睫毛にもマスカラを塗られる。そんな所にも睫毛があったのかと驚いた。上睫毛は意識していても、下睫毛は意識したことがなかった。
 
目がパッチリとして、睫毛も長くカールしていて、凄く可愛い目になった。少女漫画のキャラみたい、なんて思う、
 

大きなブラシを使って、チークをまた濃淡2段に入れられた。
 
唇の所を紅筆で輪郭をまず入れられる。
 
「最近はこの輪郭を塗らずにボカすのが好まれるけど、今日は基本で輪郭を取ってみよう」
「はい」
「イーっとして」
というので「イー」と発音するように唇を広げる。唇の端までしっかり塗られる。そして輪郭の中をきれいに塗られる。口紅のリップスティックは使わないのかな?などと思った。その口紅の上にグロスを塗られる。輝く感じが可愛い。
 
これで完成だか、元の自分の顔とはまるで別人のような美少女になってしまったので恵馬は本当に驚いた。
 
「まあ可愛くなるのがメイクアップ。しばしばおばちゃんたちの化粧はメイクダウンになってる」
 
「あはは」
 

「“仮名E”ちゃん、買い物しに街に出てきたと言ってたね」
「はい。フルートのクリーニングペーパーを買いに来たんです」
 
恵馬は“仮名E”、恵馬を美少女に変身させてくれた女性は“仮名A”ということになっていて、お互い本名は名乗っていない。
 
「だったら、この格好でその買い物をしてくるといいね」
「え〜〜〜!?」
 
こんな格好で道を歩いていたら、変態と思われて逮捕されないだろうか?などと変な不安が心をよぎる。
 
「私が一緒に付いて行ってもいいけど」
「お願いします!」
 

西湖は住んでいたアパートの建て替えのため、7月下旬から代々木のアクアのマンションに居候していたのだが、荷物を全部持って行くのも大変なので、大半の荷物は、この土地の南側にある小さな家に置いていた。
 
これは元々ここに建っていて千里が土地ごと4000万円で買い取った家ではなく、それが土地のリセットで壊れてしまった後、こうちゃんがどこからか持ってきた家である。こうちゃんは“ヴィラ”と呼んでいた。西湖は分からなかったが、千里は、ドイツ語やフランス語で別荘を意味する単語だろうと言っていた。あの後こうちゃんが手続きをして、水道は引いてある。電気は電力会社とは契約せずに、太陽光パネルを載せて自家発電している。電話はスマホを使うから特に必要無い。テレビは置いてないからNHKとも契約していない。ガスはあまり使わないだろうしガス漏れ事故も怖いということで無しだが、代わりにIHヒーター・電子レンジ・オーブントースター・ケトルを彼は置いていった。
 
ここは本当に小さな家で建面積7坪の2DKである!
 

 
ある日、この家の前をヴィトンの本革アタッシェケースを持ちダンヒルのスーツを着てグッチのネクタイを締め、髪はきれいに七三に分けた“できる”感じの営業マン風40歳前後の男が通り掛かった。この家の、小さい割におしゃれな外観に目を留める。
 
「まるで貴族のお屋敷の離れを切り取って持って来たような贅沢な家だ」
と彼は思わず呟いた。
 
玄関のベルを鳴らしてみる。
 
「すみませーん」
と声を掛けるが返事は無い。
 
男は隣接地でマンション工事か何かをしているのを見ながらアタッシェケースを開ける。手袋をしてから、何か工具のようなものを取り出した。
 
10分ほど掛けて彼はドアを開けた。
 
サムターン回しをすれば1分も掛からないのだが、彼はこのあまりにも豪華なドア(多分ドアだけで300万円はすると見た)に傷をつけるのは忍びなかったのである。しかし鍵は旧式のシリンダー錠なので、熟練のピッキング技で鍵自体も壊さずに開けることができた。
 

中に入る。
 
1階はバス・洗面所兼脱衣室・トイレの他は、居間兼キッチンになっているようである。寝室は2階にあるタイプかなと判断する。キッチンの水引の戸棚など引きだしてみるが、銀のスプーン・フォークなどが入っている。無造作に立っている箸は輪島塗だ。そもそも水引に並んでいる食器も深川製磁が大半で、マイセンもある。お椀は山中塗とみた。やはりお金持ちの別宅か何かとみる。こういうお金持ちの家には無造作に札束が数千万円転がっていたりするものだ。やはりここに目を付けて正解だったと彼は考えた。今日はラッキーデイだなと思う。
 
(7-8分後に後悔する羽目になることを彼は知らない)
 
階段を登って2階に行ってみる。登り切った部屋は衣装ケースやビニル製ロッカーなどが並んでいる。衣装部屋のようだ。襖を開けて次の部屋に入る。
 
サンダルウッドの香りがする。お香を日常的に焚いているのだろう。
 
エレクターのラックに楽器ケースがたくさん置いてある。クラビノーバもある。本棚に多数のCD・楽譜集。そしてワーキングデスク・・・というより学習机?ノートパソコンも載っているが、3オクターブ半のMIDIキーボードが接続されている。
 
もしかして音楽家の作業場所だろうか?
 
机の引出しを開けてみる。4段目は生理用品、3段目はノート、2段目に五線紙がたくさん入っていて1段目は筆記具である。大きな引き出しには教科書類が入っている。高校音楽IIなどと書かれているものもある。
 
音楽学科の女子高生か?
 
まあ生理用品を使う以上は女だろう。男には生理用品は不要だ。
 
本棚の方かな?と考える。
 
本棚下部にある引出しを開けようとした時、突然声を掛けられた。
 
「どなた様ですか?」
 

それまで全然人の気配が無かったので胆を潰す。振り向いてみると18-19歳くらいの感じの女の子だ。
 
「あ、すみません。電気設備の点検だったのですが、どなたかおられないかなと探していた所でした」
と立ち上がりながら言い訳をする。
 
「ふーん。それでお金のありかを探していた訳だ」
 
女の子はこちらを全然怖がっていない。もしかして武道か何か、腕に覚えがあるのかも知れないという気がする。結構な威圧感も感じる。ただ者ではない。
 
「また参ります」
と言って男は逃げ出し、階段を駆け下りた。
 
それで玄関の方に行くと、玄関の前に今の女の子がいる!
 
嘘!?
 
「あんた常習犯じゃないの?サムターンせずにピッキングでドアを開けちゃう所とか、凄く上手かったし、引出しを下から順に開けていたし。素人なら上から順に開けるもんね」
 
見てたのか?
 
しかしどこに居たんだ?それにいつの間にここに回り込んだんだ??
 

確か階段の近くにドアがあった気がする。あれは多分勝手口だ。鍵が掛かってないかという不安はあるが、そちらから逃げられないかな?と思う。それで振り向くと、階段の上からもその女の子が降りてきて、彼の前に立ち塞がった。
 
男は前後を見る。
 
双子だったのか!?
 
しかし何とかして逃げなければならない。相手は女の子だ。多少空手か合気道かするにしても、突破すれば何とかなるのでは?と思い、男は(勝手口はロックされている可能性があるので)玄関の前にいる女の子の横を突っ切ろうとした。
 
ところが女の子が唐突に虎に変わってしまったのである。
 
ビクッとして立ち止まる。
 
虎が「がぉっ」と咆哮する。
 
「ぎゃっ!」
と声をあげて、男は恐怖のあまり失神した。
 

ツンツンとユキが男を指でつついてみるが、完全に気絶している。
 
「こんな所で倒れられても邪魔なんだけどなー」
「誰か呼んで来るよ」
と言ってツキが隣で工事をしている播磨工務店の人を呼んできた。
 
「ふーん。こそ泥か。じゃ、適当な所に“捨てて”くる」
「よろしくー」
 
それで彼は気絶している男を片手で掴むと、どこかに飛んで行った。彼が男をどこに“捨てる”のかは知らない。死ななきゃいいけどね、とユキは思った。
 

「だけど錠も壊さず、ドアも壊さずによく開けるよね〜。荒っぽい泥棒でなくて良かった。ドアごと交換とかになってたら、このドア200万円くらいはするから」
 
「でもこの鍵、やはり不用心じゃない?」
「うん。シリンダー錠なんて昭和の遺物だし」
 
「誰かに頼んでもっといい鍵に交換してもらおうよ」
「どうせなら電子ロックがいいよね」
「サムターンがついてなくて、内側からも電子的に解錠するタイプ」
などと、ユキとツキが言っていた時、
 
「こんにちはー」
と言って、西湖がやってきた。
 
「西湖ちゃん、おかえりー」
「ただいま、ユキさん、ツキさん。何も無かった?」
「うん。別に何も無かったよ」
 
そういう訳で、この家には、ユキさん・ツキさんという、おキツネさんの姉妹がお留守番して住んでくれているのである。西湖の部屋に日常的に出没している子たちよりはお姉さんで、2人とも尾が2本ある。
 
西湖は数日に1度、ここに荷物を取りに来ては、ユキさん・ツキさんと色々話していた。
 

「そうだ。ユキさん・ツキさん。橘ハイツで、1階の調理室で作った御飯を男子寮生たちの部屋まで配達する係を探しているんだよ。ユキさん・ツキさん、そんなのしない?男子寮が深沢に移転したら、仕事場もそちらに移動するけど」
 
「ああ。それも面白いかもね」
「深沢程度ならいいよー」
「その時はそちらにも“鏡”のコピーを置いて」
「うん。それは千里さんに頼むよ」
 
「でもタレントの卵なら、格好いい子いるかなあ」
「むしろ女の子になりたい男の子が多いかも」
「そういう子は女装の味を覚えさせるのもよい」
「下着の通販のカタログを配っちゃおう」
「お化粧も教えてあげよう」
「性転換手術の代金くらい貸してあげてもいいし」
 
と危ないことを言っている。
 
(カタログは本当に川崎ゆりこが配っていた!)
 

ユキ・ツキが結構乗り気なので、西湖は8月13日に2人をちょうどこちらに来たコスモス社長に紹介すると
 
「うん、採用」
と社長は2人を見るなり履歴書もチェックせずにOKを出した。更に
 
「ちなみに、君たち双子の女の子デュオ歌手として売り出す気はない?」
などとスカウトしていた!
 
ユキさん・ツキさんは断ったが、コスモス社長は残念そうであった。
 
「ちなみにちょっと性別誤魔化して、双子の美少年デュオ歌手でもいいけど」
「男装はちょっと興味あるけど、パスで」
 
それで2人は基本的には橘ハイツ南側の小さな家“ヴィラ”に住んでいて、日中は橘ハイツの方に来て、食事の配達や、フロントに座って荷物などを受けとる仕事をすることになったのである。
 

男は「君、君」と呼ぶ声に意識を戻した。
 
「君、外来の人?このエリアは一般の人は立入禁止なんだけど」
「え?ここどこですか?」
「ここは東京拘置所だけど」
「え〜〜〜!?」
「そこに転がってる鞄は君の?」
「あ、はい」
「ちょっと事情聞かせてもらっていい?」
 
彼は2日後には、ここに“正式に”入ることになる!
 

8月13日(木)、千里は康子から連絡を受けた。
 
「実は立ち退きの補償金が8割出たんで、引越先を探したいんだけど、太一が出張で九州に行っててさ、いつ帰ってくるのか分からなくて。千里ちゃんも忙しそうなのに申し訳無いけど、引越先選びに付き合ってくれない?」
 
「いいですよ。今日はたまたま空いていたので。そちらに行きますね」
 
それで千里はアテンザを運転して千葉まで行き、康子をピックアップした。
 
補償金は移転の契約が成立した段階で8割支払われ、今の家が撤去(解体)された時点で残りの2割が支払われるらしい。
 
「家の解体の手配もしないといけないんだけど、どこか安い業者さん知らない?」
「ああ。だったら友人がやっている建築会社を紹介しますよ。たぶんあの家なら100万円くらいで解体してくれますよ」
「安い!じゃお願いしようかな」
「連絡しておきますね」
 

桶川市に行き、ネットで目を付けていた不動産屋さんに入って適当なマンションを探す。駅からは遠くていいので、車を使うのに便利な場所がいいと告げる。
 
「なるほど。駐車場付きで2DKくらい、ご予算は2000万円くらいですね」
「はい。立ち退きの補償金がそのくらい出たので」
 
康子が住んでいる土地は路線価が低いので、補償金も低くなってしまった。しかし桶川ならそのくらいの価格でもたぶん2DKは買えるのではと千里は思っていたのだが、やはりあったようである。
 
「こちらの物件はいかがでしょう?桶川加納ICから5分で、3DK 1800万円ですが」
 
千里は地図を見せてくれと言った。そしてそれを見て
「この地域は良くないです。この付近でありませんか」
と言って、別の地域を指でなぞって示す。
 
「その界隈がいいですか。でしたら、これは?」
 
と言って不動産屋さんが見せてくれたのは、3DK 2100万円というものである。
 
「1人暮らしなので、3DKは広すぎるので2DKくらいがいいのですが」
 
「そうですね・・・。あ、あれがあった」
 
と言って見せてくれたのは、桶川加納ICから10分ほどの、2DKマンションで1200万円である。
 
千里は地図、図面を見せてもらい方位も確認した。
 
ああ、ここはあれか。安い訳だ。
 
「これいいですね。現地を見られますか?」
と笑顔で言う。
 
「はい。お連れします」
 

それで不動産屋さんの車で現地に行く。
 
「環境はいいですね(どこが?)。中も見られます?」
「ええ」
 
エレベータで3階に上がり、中を見る。千里は窓からの景色なども見た。
 
「ここいいですね。お母さん、ここにしましょう」
「そう?じゃここに決めようかな」
 
それで部屋を出て不動産屋さんの車でオフィスに戻ることにするが、マンションの玄関を出た時に、康子は「あれ?」と言った。
 
「どうかしました?」
「さっきここに来た時と、今とでマンションの雰囲気が違う気がする」
「あれ?そういえばそうですね」
と不動産屋さんまで言った。
 
「さっきより日が高くなったからでは?」
と千里は言ったが
「いや、その程度の変化ではないと思う」
「まあそんなこともあるでしょう」
と千里が言ったので、康子さんは千里が“何かした”のではと察したようだった。不動産屋さんは首をひねっていた。
 

手続きをする。代金はその場で手付金として振込で100万円を払った。残額は1週間後に物件を引き渡す時に払えばよいということであった。準備しておいて欲しい書類(本人確認書類と住民票・印鑑)、代金以外に必要なお金(管理費の日割り金や税金など)を確認した。
 
不動産屋さんを出たのが11:30だったので、通りがかりの大型スーパーでお弁当を買い、車内で食べた。
 
住む所が決まったので、この後、中古車屋さんに行く。
 

「コンパクトカーがいいんですか?でしたらアクアとかはいかがですか?」
とお店の人は言う。
 
「ハイブリッドって、なんか面倒くさそう。ガソリン車の方がいいんだけど」
「でしたら、ヴィッツとかフィットとか」
「そのあたりがいいかな」
 
と言って見てまわる。白いポルテに目を留める。
 
「これ何?5万円って」
「走行距離が長いので」
「動くの?」
「動くことは動きますが」
「千里さんどう思う?」
 
事故車だというのは即分かったし、なんか憑いてるなあと思ったが《りくちゃん》に命じて除霊させた。そして平気な顔で言う。
 
「少し試乗していいですか?」
「はい、どうぞ。今キーをお持ちします」
 

それでお店の人も同乗して、千里が運転席、康子が助手席に乗って、エンジンを掛けると、明らかに異様な音がする。でも千里は全然気にせず発車させた。中古車屋さんを出て、その付近をひとまわりしてきた。この走行で除霊した後、少し残存していた“かけら”も全部振り落としてしまう。
 
「奥さん、すごく運転がうまいですね」
「国際C級ライセンス持っているので」
「それは凄い!レースとか出られるんですか?」
「年間3回くらいですけどね。ライセンス維持するのにも必要だし」
「凄いですね」
 
中古車屋さんに戻って来る。
 
「エンジンの調子が微妙ですが、大きな問題は無いと思います。友人の整備に詳しい人(こうちゃん!)に整備させますから大丈夫ですよ」
 
「じゃこれ買おうかな」
「ではこちらで契約を」
 
諸経費を入れると20万円になったので康子がスマホから振込んだ。これで取引は成立した。
 
車庫証明が必要なので、この後さっきの不動産屋さんに行ってもらってくることにし、電話連絡したら、用意しておきますということだった。
 
それでアテンザでさっきの不動産屋さんに戻り、書類をもらってからまた中古車屋さんに行った。
 
中古車屋さんは、車庫証明を受けとってから
「このままお持ち帰り頂いてもいいですよ」
と言った。それで千里は
「でしたら、後で山村という友人の女性に取りに来させます」
と言ったら、その名前をメモしていた。
 
「済みません。その山村さんの年齢は?だいたいでいいですから」
「本人は1446歳と言っていますが」
「え?」
「きっと14がなくて46歳ですね」
「分かりました」
 

その後、千葉までアテンザで康子を送っていき、夕食も一緒に食べてから浦和に戻った。
 
なお、この日の京平のお迎えと夕飯の支度は2番がした。
 

《こうちゃん》(6番)はぶつぶつ言いながら、女装した上で、その中古車屋さんにやってきた。
 
「俺は女装あんまり好きじゃないんだけどなあ」
などと言っている。
 
「お昼頃にポルテを買った川島康子の友人で山村と申します」
と言うと
「ああ、山村さん、お待ちしておりました」
と言い、中古車屋さんは、運転免許証(山村勾美名義)を確認した上で車を引き渡してくれた。
 
それで《こうちゃん》はポルテを運転して中古車屋を出るが
 
「なんじゃ、このエンジンは〜〜?」
と声をあげる。
 
「これ普通の奴が運転しようとすると簡単にエンストするぞ」
などとも呟く。
 
「全く、千里の買物って、いつもこんなんだ」
と文句を言う。
 
取り敢えず、板橋ラボに持って行き、駐める。
 
「このエンジンを整備しろなんて鬼だよ。面倒くさいから新しいの買ってこよう」
 
と言って、ポルテに搭載されているのと同じ1NZ-FEエンジン(1497cc)の新品を買ってくると、交換してしまった。ATFもかなり酷い状態だったので、取り敢えず4分の1交換した。またフレームが歪んでいる所があったので、手でぐいっと引っ張って!正しい形に戻した。
 

「よくまあ、こんな鉄くず同然の車を買うよ。これタイヤも新品に交換した方がいいな。こんなタイヤで走ってたらスリップ事故起こすぞ」
 
などと文句を言ってタイヤも新しいのを1セット買って来て全部交換した。他にブレーキパッド、ワイパー、ヘッドライト、室内灯も交換。バッテリーも瀕死だったので、これも新品に交換する。マフラーも錆付いて脱落寸前たったので新品に交換する。エアコンも修理不能だったので新品を買ってきて入れ替えた。
 
「あの婆さん、方向音痴っぽいしなあ」
などと呟いて、サービスで最新のカーナビ(バックモニタ付き)を付け、更にETC、ドライブレコーダー、ワイドミラー、コーナーセンサーも取り付けておいた。コーナーセンサーが無かったら絶対ぶつけると思った。そして急発進防止装置と自動ブレーキも付けておく。こういうのが無いと絶対コンビニとかに突撃しそうだと思った。
 
「スピードも出しそうだしなあ」
と思って、リアスポイラーも取り付けた。
 
「鍵も絶対掛け忘れるよな?」
と言って、スマートキーのシステムも取り付ける。
 
結局この整備に掛かった費用は、材料代だけでも軽く100万円を超えている。車の本体価格は5万円だったのに!
 
《こうちゃん6》が文句を言いながら板橋ラボで車の整備をしていたら、ここに練習に来た左倉ハルが
 
「お疲れ様です、山村さん」
と声を掛けてくれて、アイスクリームの差し入れまでしてくれた。
 
「ありがとう!」
と言って微笑んで受けとる。可愛い女子大生に声を掛けられて、彼は少し元気が出た。
 
結局、丸3日かけて整備した上で《こうちゃん6》は呟いた。
 
「これ新品のフル装備の車を1台買って来て、渡した方が早かったかもしれん」
 
しかし、彼がこの車を整備(?)したことから、康子(現在66歳の若葉ちゃん)はこの車にこの先10年近く乗ることになる。その間の走行距離は20万kmを越えた。そして9年後の免許更新の時に反射神経の低下を指摘されて自動運転機能のある車に買い換えることになる。
 
でも康子が手放したこの車を買った20代の女性がその後5年6万km乗ることになる。廃車にした時の走行距離が50万km近く、「走る奇跡ですね」と言われた。
 

 
恵馬は“仮名A”さんの運転する物凄く格好良いフェラーリの助手席に乗ると新宿に戻る。10分200円なんていう駐車場に駐める。料金高ぁと思ったが、お金持ちだから気にしないのだろう。お屋敷も立派だったし、この車とか、5000-6000万はするのではという気がする。
 
ちょっと怖いけど、車を降りる。そして駐車場の外に出る。
 
夏の熱い風がスカートの中に吹き込んでくるのが心地いい。
 
これって女の子だけが得られる快感かもという気がした。
 
人がたくさん歩いてる。
 
恥ずかしー!
 
ひとりだったらどこかに逃げ出したい気分だけど、Aさんと一緒だから何とかなる感じだ。
 
「マスクしてたら顔なんてよく分からないから大丈夫だよ」
「あ、そうですよね!」
 
「だけどあんた、スカート穿いたの初めてではないね」
「え?」
「だって転ばないもん」
「あ」
 
そういえば、ずっと昔、本当に初めてスカートを穿いてみた時は、いきなり転んだんだったと、思い出した。
 
「これからはスカートが普通になるからね。もうズボンなんて穿かなくていいから」
「・・・・・」
 
よく行く楽器屋さんに入る。店員さん、ボクの顔を覚えてて変に思わないかなあと不安があったが、特に何も言われない。フルートのクリーニングペーパーを買った。“仮名A”さんもクリーニングペーパーを買っている。
 
「Aさんも管楽器するんですか?」
「うん。フルートとかサックスとかね」
「へー」
「そうだ。来週は自分のフルート持っておいでよ。良かったら演奏見てあげるよ」
「ありがとうございます。お願いします」
 
でも来週も会うんだっけ?
 
その後一緒にHMVに行き。“仮名A”さんはフィオナ・アップルとかいう外人女性歌手?のCDを買っていた。
 
「あんたも何か買いなさいよ。おごってあげるから」
「そうですか?」
と言って、恵馬はHey! Say! JUMPのCDを選んだ。
 
「ジャニーズ好き?」
「好きです。キンプリもスノーマンも好きです」
「女の子アイドルとかは聴かない?」
「あまり聴かないなあ。下手糞な子ばっかりだし。アクアくらいかなあ。あの子は割とうまいから」
「アクアは男の子だけど」
「え?冗談でしょ?」
と恵馬が言うと、“仮名A”さんは、なんか苦しそうにしていた。
 
どうしたんだろう?と恵馬は思った。
 
女の子アイドルにそもそも興味無いからフォローしてなかったけど、カナダで撮影した水着写真集出るとかで(よくこの時世にカナダに渡航できたものだ)、ビキニを着た写真のCMとか流れてたし。女の子だよね?ね?男の子がビキニ着る訳ないもん。いくつか聞いた歌の声も女の子の声だったし。
 

駐車場に戻る。
 
「君の家近くまで送っていくよ」
「え?でもボク、こんな格好なのに」
「自宅前でなくても、近くでいいよ」
「あのぉ、男の子の服に戻るという訳には?」
「君は女の子なんだから、ずっと女の子の服を着てればいいんだよ」
 
つまり男の子の服は返してもらえない訳か。だったら自宅で着替えるしかない。でもこの人に自宅の場所までは教えたくない。としたら、近くで降ろしてもらうしかない。
 
「だったら**の駅前で」
「OKOK。じゃ来週は##の駅前で」
 
恵馬は返事をしなかった。ボク来週そこに行くのかなあ。自分でも分からなかった。
 

指定した駅前で降ろしてもらう。
 
「そうそう。ブラウス何枚かあげるから、ボタン留める練習しなよ」
と言って紙袋をもらった。
 
「ありがとうございます」
と御礼を言って、車から降りる。
 
「あ、これもあげるよ。メイクを落とすのに必要」
と言ってクレンジングペーパーをもらった。
「ありがとうございます!助かります」
 
知り合いに会いませんようにと祈りながら自宅まで戻る。玄関は鍵が掛かっているので自分の鍵で開ける。誰もいませんようにと祈りながら中に入った。
 
「あら、お帰り」
と母が言った。
 
恵馬は目の前が真っ白になる気分だった。
 

千里は桶川に行った翌日(8/14),
 
「そちらに置きっぱなしにしていた和服を引き上げますね」
と康子に連絡した。
 
この日は軽トラを運転して千葉に行き、2階の押し入れに入れっぱなしにしていた、和服衣装ケースを軽トラの荷台に積み込み、落ちないようにロープを掛け、浦和のマンションに持ち帰った。
 

8月19日(木).
 
西湖が住んでいたアパートの場所に建築中だったマンションが竣工した。ここの一部を§§ミュージックに男子寮として貸すことにしていたので、コスモス・ケイと一緒に見に行ったのだが、コスモスはここが気に入り、結局このマンション全体(6階と地下の西湖が使用するピアノ練習室を除く)を§§ミュージックの男子寮にすることになった。
 
「葉月(西湖)も“元男子”だし」
などとコスモスは言っていた。
 
あの子、もう男の子には戻れないよなあと千里も思った。今更実は男でした、なんて言ったら、同級生女子や散々共演して楽屋を共用していた女優さんに殺されるよ。
 
早速この日ここに引っ越して来た寮生も数人居たが、スカート穿いてる子もいるし、どう見ても既に睾丸の無い子もいて
 
「やはり男子寮というより男の娘寮では?」
と言ったら、川崎ゆりこもそんなこと言っていたらしい。
 

この寮の管理人兼料理係として門脇真悠の御両親と“妹”の瀬那が、一時的に同居していた赤羽の瀬那のマンションから引っ越してきた。門脇さん一家は、引越の荷物を積んだ2トントラックが待機していて、物件を播磨工務店からフェニックストラインに引き渡し、鍵類を千里がコスモスに渡し、コスモスが管理人室・調理室・キュアルームの鍵とマスターキーを門脇さんに渡すとすぐに、トラックから部屋に荷物を搬入し始めた。
 
その後注文していた調理用品やお米・お肉・野菜・調味料、食器類などもだいたい午前中には届き、門脇さん夫婦、瀬那、それに朝一番に入寮してきて、その付近に居た篠原倉光と弘原如月(一応男手)も徴用して追加したい食料等の買い出しに行き、オープン当日の夕食から、寮生たちに食事が提供された。
 
ユキちゃん・ツキちゃんも料理配達係として稼働し始める。ふたりは日中は1階のキュアルームに居て、原則として、朝食をユキちゃん、夕食をツキちゃんが各部屋の前に置き配する。
 
ユキちゃん・ツキちゃんは、各部屋のドア前でピンポンを鳴らし、返事があれば部屋の前に食事の載ったトレイを置く。寮生は彼女たちが部屋の前から移動した後、ドアを開けて料理を受けとるようにして、直接は接触しないようにするルールである。接触はしないものの、室内のボタンを押すとモニターにも映るし、またドアを透過モードに切り替えると、実物大!でユキちゃん・ツキちゃんを見ることもできる(こちらの姿も向こうに見えるから裸や下着姿はNG)。
 
配達時に不在だった場合は、連絡票を入れておくので、それを見て連絡してもらえば持って行く。こうしないと、特に夏は、時間の経った料理を食べて食中毒でも起こしたら大変である。
 
寮生たちは最初の内、朝夕同じ子が配達してくれているものと思い込んでいたが、キュアルームに行った寮生が2人並んでいるのを見て双子だったことに気づいた。その後、ユキちゃんとツキちゃんの見分け方が、寮生たちの間で話題になることになる。
 
(実は、ユキちゃんは右利き、ツキちゃんは左利きなので、動作を見ると分かる。双子で利き手が違うというのは割とありがちである。利き手の違いに最初に気付いたのは弘原如月であった)
 
お代わりについては、そもそもたくさん食べたい子には、大盛りとかあるいは2〜3人前を配膳しているが、足りなかった場合は呼んでもらえば持って行くし、朝食時、夕食時は、ワゴンにジャーと鍋を載せて、ユキちゃん・ツキちゃんが巡回するので、声を掛ければ新たな器に盛ってまたドア前に置いてくれる(感染拡大防止のため、使用した食器に盛るのは当面禁止にしている)。
 
食器は御飯茶碗や皿などは有田焼の香蘭社、お椀は山中塗の喜八工房、の製品を使用している。日常的に良いものに触れてセンスを磨いて欲しいということから採用することにした。ちなみに女子寮は同じ有田焼の深川製磁と、根来塗の島安の製品を使用している。ただし、日常的に使うものでもあり、食器を洗うのは食器洗い乾燥機を使用するので、食洗に耐えられるタイプの普及品である。
 
食事後の食器はドア前の食器回収箱に入れておけば、回収してもらえる。これは朝はユキちゃん・ツキちゃんのお友達らしい数人の女子が交替でしてくれていたが、夕飯の分は遅くなることもあり、しばしば瀬那がやっていた。それで瀬那も寮生たちのアイドルとなった。
 

なお、寮生たちは毎日体温計で体温を計り、配布しているアプリを使って報告することになっている。朝9時までに報告しないと警告音も鳴る。
 
「毎朝体温を計っていれば、排卵期も分かるからいいよね」
などと川崎ゆりこは寮生たちに言っていたが、排卵期のある子がいるのか??
 
ゆりこは全室のトイレに汚物入れまで置いていた。ゆりこは更に「夜中に急に生理になった時のために」と言って、ナプキンの自販機まで設置させた!
 
昼用・夜用・パンティライナーが買えるもので、女子寮には以前から設置されている。そしてこのナプキンの自販機が結構売れていて!毎週補充が必要であった!!
 
ゆりこの“男の娘教育”プロジェクトは順調なようである。
 

竣工の翌日には木下宏紀も引っ越してきたが、スカートを穿いているので、仲の良い篠原倉光から言われる。
 
「ヒロちゃん、女の子になっちゃうの?」
「違うよー。出がけにどうしてもズボンが見当たらなかったんだよ」
「アクアさんみたいなこと言ってる」
 
「姉貴に捨てられたのかも知れない。後でベルメゾンで頼まなくちゃ」
 
取り敢えず事務所からはお店では買わずにできるだけ通販を使うように言われている。
 
「ベルメゾンなの?それってレディスということは?」
「だってボク、メンズではサイズが合わないもん」
「それもアクアさんみたいなこと言ってる。ちなみに、ヒロちゃん、とうとう睾丸を取ったという噂があるんだけど」
 
「内緒」
「ふーん」
 
内緒にするというのは、取っちゃったのかなあ。この子いつも女の子ショーツ穿いてるし、ブラジャーもつけてるしなあと思う。だいたい声変わりしてないのではという疑惑がある。喉仏は無いし。
 
篠原が宏紀の引越を手伝ってあげていたら、荷物からポロポロと何かの薬のシートが大量にこぼれ落ちる。
 
「あ、ごめん」
「大丈夫大丈夫」
と言って拾って机の引き出しに放り込んでいる。
 
「何かお薬常用してるの?」
「あ、これはエストロモン(*2)」
 
「女性ホルモン飲んでるんだ!?」
 
(*2)プレマリン(卵胞ホルモン(エストロゲン)製剤)のジェネリック薬品のひとつ。エストロモンと聞いただけで女性ホルモンと分かった倉光もたいがいである。しかもジェネリック薬品の名前なので“普通”の人はそんな名前まで知らない。
 
「母ちゃんが定期的にボクの机の中に入れてるんだよ。DB-10(*3)も」
 
「プロゲステロンも!それを飲んでるんだ?」
 
(*3) プロベラ(黄体ホルモン製剤)のジェネリック薬品のひとつ。ジェネリック薬品の名前なので“普通”の人は・・・以下同文。
 
「飲まない、飲まない。捨てるのはもったいないから取ってるだけ。クラちゃん飲むならあげるよ」
 
「ボクは女の子になるつもりは無いよ!」
 

千里は、経堂のアパートに住んでいる鶴野明日香に言った。
 
「そちらのアパートがどうもあまり遠くない内に崩壊しそうでさ」
「実はこないだから、変な揺れとかあって、私も不安に感じていました」
 
「ここからは少し離れた所で、小田急沿線じゃなくと東急沿線になっちゃうけど、用賀駅の近くに新築のマンションがあるからさ、申し訳無いけど、そちらに移動してくれない?」
 
「そちらの広さとお家賃は?」
「2LDKだけど、家賃はここと一緒でいいよ」
「それは素敵ですね」
 
それで明日香は橘ハイツの241号室に引っ越すことになったのである。
 
「鏡はどうしますか?」
「あれは別の所に移動するからそのままにしといて」
「分かりました」
 
なお、明日香が青葉から借りっぱなしにしているショッキング・ピンク(?)のアクアは、橘ハイツ前面の空きスペース(一応駐車枠を白線で描いて、周囲をフェンスで囲っている)に駐めておいてもらうことにして、入庫口の開閉リモコンを渡した。ここに他に車を駐めるのは現時点では、管理人の門脇さん夫妻、キュアルームの看護師・海老原さん、それに西宮ネオンの3人である。カウンセラーの上野美津穂は、ここと女子寮(研修所)とのシャトルバスでやってくる。
 

8月20日(木).
 
康子は朝から太一に付き添ってもらって桶川市まで行き、不動産屋さんで書類を確認した上で、マンション代の残金・手数料などを振込で支払った。交換で鍵を受け取る。
 
一方、千里は4トントラックを運転して千葉に行き、予め呼んでいたコシネルズのメンバーの手で、取り敢えず、食器などをダンボールに詰めた上で、洗濯機・冷蔵庫・本棚・タンス・食器棚・仏檀・テレビ・寝具、などの大物をトラックに積み込んだ。みんな腕力があるので、タンスなどは中身を入れたまま運んでしまう。食器をダンボールに詰めたのは輸送中に割れないようにするためである。本棚の本も途中でこぼれないように段ボール詰めしている。
 
「千里さん、これで一度持って行って、他のはまた取りに来たほうがいい」
と王風玲が言うので
 
「じゃ一度持って行くか」
と言って、桶川の入居予定マンションまで持って行く。途中太一さんから連絡があるので、“第1便”を運搬中と言うと、現地で待ち合わせることにした。
 
「あれ?マンションの前にあったスナックが無くなってる」
と現地で康子さんが言った。
 
向いに2階建ての家があり、1階がスナックだったのが、無くなって更地になっているのである。
 
「どうしたんでしょうね」
と千里はしらばっくれて言う。
 
「スナックとかあったら、カラオケにでも行こうかと思っていたのに残念」
 
「母ちゃん、今の時期はお店で歌うの危ないよ。俺がジョイサウンドを家で使えるように設定してやるから」
 
「そう?じゃ後でお願い」
 

太一さんが鍵を開け、コシネルズのメンバーが荷物を搬入する。太一の指示で家具などを設置していく。
 
「よし、もう一度行ってこよう」
と言って、コシネルズのメンバーが乗る車と4トントラックで千葉まで戻る。トラックは千里が運転して康子も同乗した。太一は康子に頼まれて買い出しに行った。
 
千葉で残っている荷物をどんどん搬出する。空っぽになった家の中を少し寂しそうに康子は見ていた。エアコン、照明なども取り外す。
 
忘れ物が無いか家中を見てまわり、全員退去する。この時、千里はやっとここに置いていた鏡を持ち出した。
 
ここの襖とか畳とか窓ガラスは播磨工務店の人が再利用したいというので持ち出してもらった。特に畳は昨年の水害の後で入れたもので、かなり新しい。ガラスは実は千里が所有する工場でグラスウールの材料にする魂胆である。解体費用は本来120万円という見積もりだったが、これらを売却することで30万円値引いて90万円ということになっている。
 
千里と康子は彼らが畳などをトラックに積み込むのを見ていた。そして彼らのトラックが出発し、千里たちも桶川に移動しようかと言っていた時、
 
ガラガラガラと凄い音を立てて、家が崩れてしまったのである。
 
「嘘!?」
 
「まあ2階にいると結構揺れてましたもんね。昨年の水害で傷んでいた分もあるかも知れないし。家を出てからで良かったですね」
 
「ほんとに!」
 
そういう訳で、この後の播磨工務店のお仕事は、瓦礫の片付けになったのであった(基礎のコンクリートを崩す仕事はある)。斫り(はつり)専門の茶組の手で1日で片付けられて更地になった。茶組の別の部隊は昨日には桶川で一仕事している。
 
茶組は特殊な部門で、ほとんどが人間の社員だが、割と粗っぽい人が多い。更生中の元ヤクザや元薬物中毒者なども交じっているが、超人的なパワーを持っている茶組幹部が睨みを利かせているので真面目に仕事をしている。むしろ幹部たちに憧れて「舎弟にしてください」と言って「うちはヤクザじゃねぇよ」と言われた者もいたとか?「夜のお世話します」と言って寝床に侵入してきたので、慌てて(幹部のほうが)逃げ出したこともあったとか!?
 
千里たちは、桶川に移動し、みんなで荷物を運び込んで、コシネルズのメンバーの手でエアコンや照明を取り付け、テレビアンテナの設置と配線などもしてもらい、その後、太一が買ってきていたお寿司を食べて引越祝いとした。
 

8月20日(木).
 
この日は龍虎(アクア)および西湖(今井葉月)の誕生日で、代々木のマンションでは、龍虎F・龍虎M・西湖F・西湖M・桜木ワルツ・和城理紗の6人でお誕生会をした。その最中に、ゆみがやってきて、上の部屋のクリーニングが終わったから、鍵を渡すと言った。
 
それでゆみは龍虎に鍵を渡したのだが、ゆみは「鍵は5個」と言ったのに、実際にゆみが渡したのは4個だった。しかし龍虎はそのことには気付かなかった。
 
ゆみはマンションに傷などがないか確認して欲しいと言うので、鍵を受けとった龍虎(龍虎F)が一緒に上の部屋に行った。そして各部屋をまわる。龍虎も問題無いですねーなどと言いながら見て廻っていた。
 
↓(再掲)

 
そして最後の部屋に入った時、龍虎Fはそこにベッドがあるのを見た。
 
「ゆみさん、ベッドが残ってますよ」
と言ったが、ゆみは
「じゃね」
と言って、ドアを閉めて帰ってしまった!
 
そしてベッドの中からは
「龍、お誕生日おめでとう」
という彩佳の声がした。
 
この日、彩佳は龍虎のものになった。
 
(龍虎は既に彩佳のものだったらしい:彩佳的見解)
 

8月23日(日)は、緩菜の2歳の誕生日であった。
 
しかし、貴司も美映もそのことに全く気付いていなかった!
 
千里1+3、及び千里2は《きーちゃん》に転送してもらって、緩菜に「誕生日おめでとう」を言いに来た。千里1+3は、京平も伴って会いにいったが、京平と緩菜は兄妹の交款?をしていた。
 
千里は24日(月)の日中に貴司に電話をした。
 
「しまった!忘れてた」
と言い、その日、ケーキを買って帰った。
 
「何だっけ?」
と美映が言うので
 
「昨日、緩菜の誕生日だった」
と答える。
 
「私も忘れてた!」
 
ということで。緩菜は1日遅れで、貴司と美映からは誕生祝いをしてもらったのであった。
 

8月23日(日).
 
今年は多くの学校でこの日が夏休みの最終日だったが、アクアはあけぼのテレビ・★★チャンネルの回線を使ったネットライブを行い、100万人以上の視聴者が出てアクア人気の根強さを示した。演奏場所は深川アリーナ、前座で歌った子たちはあけぼのテレビのスタジオ(大田区の§§ミュージック・サテライト)である。
 
この成功に気を良くして、あけぼのテレビでは§§ミュージックの他の歌手や他のプロダクションのアーティストのライブも同様に開催することを決めた。
 

8月24日(月).
 
門脇瀬那は昨日受けとったばかりの真新しい女子制服を身につけ、初日だけは母に付き添ってもらい、通うことになったF中学校に登校した。職員室に行って校長・教頭および担任になることになった久野先生に挨拶する。そして一緒に1年2組の教室に行った。
 
「転校生を紹介します。徳島の中学から転校してきた門脇瀬那さんです。みんな仲良くしてあげてくださいね」
と先生から紹介される。
 
「門脇瀬那です。よろしくお願いします。好きな学科は音楽と社会です。前の学校ではコーラス部に入っていました」
 
「あ、だったらこちらでもコーラス部に入らない?」
と声を掛ける女子がいる。
 
「はい、入れてもらえるなら」
「うん。放課後、一緒に行こうよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 
こうして瀬那の東京での女子中学生としての生活は無難に始まった。
 

休み時間には他の女子と一緒にトイレに行く。トイレには“立ち位置”がビニールテープでマークされていて間隔を空け“横向き”に並ぶようになっていた。結果的に待ち行列はトイレの外まで続いている。
 
この女子トイレの待ち行列という文化は、徳島の中学でも経験しているが、向こうでは瀬那が“女子初心者”であることをみんなが配慮してくれていた。でもここではみんな自分のことは普通に女子と思っている。瀬那はドキドキしながらも平常心を頑張ってキープして他の子たちと横向きのまま、おしゃべりしていた。
 
トイレの入口の所にはアルコール・ウェットティッシュが置かれていて、各自1枚ずつ取っては、ドアの取手やロック、更には便座まで拭くようにという指示であった。個室の中にそのティッシュを捨てる箱も置かれている。また流す時は蓋をした後「流す」操作(手かざし式)をするようにということだった。
 
「トイレはアルコールの臭いで満ちてるから、万一タバコと吸おうとしたら爆発するから絶対吸うなと、特に危ない子たちには厳命が出たらしいよ」
 
「トイレでタバコ吸うんだ!」
「たまにトイレに入るとタバコの臭いすることあったもんねー」
「へー」
 
都会の中学は違うなあと瀬那は思った。
 

やがて順番が来て瀬那は個室に入る。言われていたように、入口の所で取ってきているアルコールウェットティッシュで掴んでドアのロックをし、ロック自体も拭く。便座もそれで掴んで開け、便座まで拭いてから個室内のアルコールウェットティッシュ入れに捨てる(汚物入れの反対側に置かれている)。
 
スカートをめくりパンティを下げ、便座に座っておしっこをするが、このおしっこが後方に飛び出す感覚がいいよなあと思う。もうボクは女の子、と自分に言い聞かせる。
 
終わったらトイレットペーパーで拭き(凄く後の方を拭く感覚がいい)、立ちあがってパンティを上げ、スカートの乱れを直す。便座のふたを閉じてから手かざしして水を流す。(入る時に拭いていた)ロックを手で開けて外に出る。そして手を洗ってからトイレを出た。
 
外で待ってくれていたクラスメイトと一緒に教室に戻った。
 

3時間目の授業中に身体測定があった。これも徳島の中学で1学期に経験している。2度目になるし、女の子たちと一緒に下着姿になるのは体育の着替えでも経験しているので、前回よりはドキドキせずに済んだ。
 
学校によってはキャミソールまで脱いでブラとパンティだけになる所もあるらしいが、この中学ではセーラー服上下だけ脱ぎ、ブラウスも着たまま、身長と体重を計られ、下着・ブラウスの分として0,2kg引いて記録された。
 
他の子たちの下着姿を見ても平気である。
 
むろん瀬那はパンティ姿になっても、パンティに変な盛り上がりができたりはしない。でもクラスメイトから
 
「まだ、おっぱい小さいね」
などと言われて、胸に触られちゃった。当然こちらも触り返して
「**ちゃん、大きいね。羨ましい」
と言っておいた。
 
でも彼女と触りっこしたおかげで、だいぶ度胸がついた。
 

放課後、瀬那は、誘ってくれたクラスメイトの由梨ちゃんと一緒に音楽室に行く。音楽室は窓とドアを全開し、扇風機も掛けてどんどん新しい空気を取り込んでいる。音楽室に入る所で非接触式体温計で体温チェックされ、手もアルコール消毒する。
 
部員は全員女子のようだ(少なくとも全員女子制服を着ている)。女声合唱のようである。男の子だったら、そもそも入れてもらえなかったみたい、と思う。
 
部員の立つ位置も間隔を空け、スタッガード配置である。全員マスクをしたままである。瀬那は最初に声域のチェックをしてもらった。
 
「凄いね。Cまで出るんだ。もちろんソプラノで」
と顧問の先生に言われる。瀬那はお姉ちゃんにもらってずっとダイアン35飲んでて良かったなあと思った。声変わりなんかしちゃったら、こういう高さの声は出なくなっていたところだった。
 
「門脇さん、この位置に立って」
とソプラノの子(部長さんだった)が言って、瀬那はその場所に立ち、練習は始まった。
 

8月27日(木). 西湖は約1ヶ月間居候していた代々木のアクアのマンションから、用賀の橘ハイツ6階の243号室(243は“フシミ”で伏見の符合である)に引っ越した。もっとも楽器など荷物の大半は実は、元のアパートの取り崩し後、橘ハイツ南側にある小さな家(ユキとツキがお留守番している所)に収納されていたので、そこからの移動が作業の大半だった。実際の作業は山村マネージャーが手配してくれた人たちがやってくれた。西湖ひとりでは大型の家具などはとても動かせなかった。
 
「ボクの荷物は全部運び出したから、後は、ユキさん・ツキさんで自由に使っていいよ」
と西湖は彼女たちに言った。
 
「男の娘牧場でも作ろうかな」
「何それ?」
 
「男の子を連れて来て女装の楽しさを覚えさせて、その内本当に女の子になりたいという気持ちにさせる。男子寮には、いっぱい良い素材がいるみたいだし」
 
「マリさんかゆりこ副社長みたいなこと言ってる」
 
「**ちゃんと**ちゃんと**ちゃんは睾丸が無いね」
と彼女たちは言ったが
 
「個人情報だから聞かなかったことにするね」
と西湖は言った。
 

西湖は龍虎のマンションに居候していた間、元の用賀のアパートに置いてあった白銅鏡(京平の依代)は龍虎Nの部屋に置かせてもらっていたのだが、橘ハイツへの引越の際、それも持って行き、243号室の千里から指定された場所に置いた。
 
西湖が引っ越した後、千里は龍虎のマンションを訪れて言った。
 
「この鏡の入った箱を、上の階1803号室に置かせてもらえない?」
「いいですよ。こないだまで西湖が置いてた鏡とは別のものですか?」
「こちらは別系統の鏡なんだよ。材質も黄銅だしね」
「へー」
 
これは緩菜の依代の2つの鏡の内、先週まで千葉の康子宅に置いていたものである。(緩菜のもうひとつの依代:白銅(洋銀)鏡は尾久の筒石のマンションにある)
 

8月29日(土)、明日香は引越屋さんを手配してこの日、経堂のアパート(1K)から用賀のマンション6階(2LDK)241号室に引っ越した。距離としては短いものの、女子1人で運べるものではない。千里さんからは引越し代と言って30万円もらったが、実際の支払いは15万円で済んだ。千里さんに余った分を返却しようとしたが「手間賃にとっといて」と言われたので、もらっておくことにした。
 
千里は、キュアルームで、上野美津穂と話していたので、明日香は美津穂とエア・ハイタッチしてから、千里に鍵を返却した。
 
「ありがとう。こちらの都合で短期間で移動してもらってごめんね」
「いえ。助かりました。新しい部屋も広いし」
 
「しかし明日香がここに住んでいるなら、私は遅くなった時はここに泊めてもらってもいいかな」
と美津穂が言っている。
 
「それ向こうの寮母さん(高崎ひろかの母)には連絡しておいてね。女の子が帰って来ないと心配するから」
と千里は注意しておく。
 
「了解でーす」
 

明日香から鍵を受けとった千里は、オーリスに乗り、明日香が出た後の経堂のアパートに行った。部屋に入り、忘れ物が無いか再度確認する。
 
そして鏡を持ち出した。これは京平の依代の青銅鏡である。
 
むろん持ち出した後、即アパートが崩壊したりはしない。千里もそこまで親切(?)ではない。千葉の川島家の場合は、播磨工務店の子たちの手間を省いてあげるために崩しただけである。
 
桶川のは・・・千里は「この家、風水的に邪魔だなあ」と呟いただけであり、“千里は”何もしていない。
 
(ちなみに崩れたスナックはコロナで客が減り既に閉鎖されていたのだが、保険金が入って、借金を清算することができたらしい)
 
経堂のアパートは空屋にしたものの、千里はここの契約を解除せず、毎月家賃相当額を明日香の口座に千里が振り込むことで明日香と同意した。今解約すると違約金を取られるからである。たぶん家賃を払うのはそう長いことではない。
 

女の子の格好をしてお化粧までした状態で「誰も居ませんように」と祈りながら帰宅した恵馬は母から「お帰り」と言われて絶望的な気分になった。
 
「どうしたの?わりと時間かかったね」
「うん。ちょっとついでにCD見てたから」
と言って、HNVの袋を見せる。
 
「ああ。なるほどね。ピザ買って来てるから、荷物置いたら降りといで」
「うん。ありがとう」
 
と言って恵馬は自室のある2階への階段を登った。
 
そして自室に入り座り込むと、どっと疲れた。
 
どうしてお母ちゃん、ボクの服装のこともお化粧のことも何も言わなかったんだろう?
 

恵馬は取り敢えずクレンジングペーパーでメイクを落とした。
 
女子高生制服風のスカートと上着を脱ぎ、襟元に結んでもらったリボンを外し、ブラウスを脱いだ。衣装ケースの中からTシャツとショートパンツを出して、それを着た。
 
ブラジャー、キャミソール、ショーツ・ガードルはそのままだけど、まあいいかなと思った。まだ外すのがもったいない気がしたのである。Tシャツがゆとりのあるサイズだし濃紺だからバストは隠せそうな気がした。
 
それで下に降りていって、ピザを食べる。母は自分の女装のことは何も言わなかった。母と30分くらい過ごした後で、恵馬は2階の自分の部屋に戻る。
 
“仮名A”さんからもらった紙袋からブラウスを取り出してみた。
 
メモが入っている。
 
《学校行く時もワイシャツじゃなくて、このブラウス着て行きなよ。バレないよ》
 
それは凄く誘惑を感じる。でもホントにバレないかなぁ。
 
ブラウスたくさん入っているなぁと思って取り出していたら、ブラウスは3枚だった。その下には別の服がある。
 
取り出してみると、今日あのお屋敷に行くまで着ていた、男物の服が(ブリーフ以外)全部入っていた。
 
「返してくれたのか」
と少し脱力する思いだった。
 
ブリーフは無かったが、代わりに真新しいショーツが9枚も入っている。
 
またメモがある。
 
《もう男パンツ穿くのやめなよ。毎日女の子パンティ穿きなよ》
 
どうしよう?と思って、恵馬はドキドキした。
 
そして自分は来週“仮名A”さんに会いに行きそうな気がした。
 

経堂のアパートから鏡を持ち出した千里は、千葉に住む“桃香”に連絡した。
 
「外で会うと変に疑われるから、いっそうちに来てくれない?」
「了解了解」
 
それで千里は季里子の家まで行った。季里子は不快そうな顔をしているが、気にしない!
 
「実はお願いというのは、この鏡をこちらに置いてもらえないかと思って」
「あ、それは経堂のアパートの押し入れにあった鏡だ」
 
「そうなのよ。私たちが退去した後、実は青葉のお友達が一時的に住んでいたんだけど、もう少しまともなマンションが見つかったらそちらに移ったのよね。それであのアパートがいよいよ空き家になったから、鏡も持ち出した」
 
「それどういう鏡ですか?」
と季里子が訊くので、取り出してから部屋を暗くし、懐中電灯の灯りを当ててみせる。稲穂の形が壁に映し出される。
 
「凄い!魔鏡だ!」
と季里子が感動したように声を挙げる。
 

「桃香があのアパートに住んでいた間、あそこが無事だったのも、これがあったからなのよね」
 
「お守りですか?」
 
「かなり強力なものです。これを取り出したから、あのアパートは多分2〜3ヶ月の内に何かありますよ」
 
「なんか今年の初め頃には、しばしば不気味な揺れがあったよな」
「多分崩壊は近いと思う。これをここに置いておけば、また水害とかにやられる心配も無いですよ」
 
「じゃ置いてもいいかな」
 
と季里子も同意してくれたので、この鏡は仏檀の横の床の間に横向き!に飾られることになった。
 
(この家は仏檀が南向きなので、鏡を西に向けるには横向きにする必要がある)
 
この後、来紗と伊鈴がよく仏間で楽しく遊んでいる風だったが、何してるんだろう?小さな子供はご先祖様とかが見えるのかなあ?などと季里子は思っていた。
 
また、この後、しばしば季里子は宝くじが当たるようになった。
 

ともかくも、これで4つの銅鏡の置き場所が定まったのであった。
 
京平白銅鏡 用賀のアパート→2020.7龍虎のマンション→2020.8西湖のマンション
京平青銅鏡 経堂のアパート→2020.4明日香が住む→2020.8季里子の家
 
緩菜洋銀鏡 尾久の筒石のマンション
緩菜黄銅鏡 川崎のマンション→2018.7千葉の川島家→2020.8龍虎のマンション
 
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【春銅】(6)