【春銅】(4)

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恵馬がその日、フルートのクリーニングペーパーを買おうと街に出て、道を歩いていたら、突然30代の女性に呼び止められた。
 
「君、可愛いね。女の子にならない?」
「は?」
 

千里は、6月16日(火)の午後、青葉に能登空港まで送ってもらい、そこに迎えに来た《こうちゃん》が操縦するGulfstream G450で羽田に帰還した。
 
「自家用飛行機で移動とか、ちー姉もたいがいなVIPだなあ」
と青葉は離陸する飛行機を見送って呟いた。
 
今回、千里は早月(3)・由美(1)、それに優子の娘・奏音(3)の3人を連れて埼玉に戻った。来月の信次の三回忌に3人を出席させるためである。
 
(早月と由美は青葉が運転するマーチに同乗。奏音は優子が自分のムラーノで連れてきた)
 
ここで奏音は早月と同じ3歳だが、まだ誕生日が来ていないためであり、学年は早月より1つ上である。なお、奏音と由美は異母姉妹、早月と由美は(遺伝子的には)異父姉妹で、奏音と早月には血縁関係は無い。ただし、後日早月の父を川島信次だったことにしてしまうので、結果的に3人とも法的には信次の娘ということになってしまう。それでこの3人を連れて行くことにした。
 
早月も奏音も飛行機の旅は初めてで、とても楽しそうであった。由美は機内に搭載しているベビーベッドに寝せておいた。むろんしっかり身体が固定できるタイプである。
 
千里は操縦席の《こうちゃん》に言った。
 
「こうちゃんさ、今月末、たぶん6月29-30日になると思うんだけど、福岡の金田(かなだ)町でアクアのヌード写真を撮影するから、私と写真家さんを羽田から北九州空港までこれで運んで。帰りも」
 
「OKOK。ついでに世界一周してもいいけど」
「こないだケイを連れて世界一周したばかりじゃん」
 
「あれはむしろ地球一周だったんだけど。アクアも一緒だよな?」
 
「撮影前にアクアを写真家さんに会わせたくないから、アクアは転送で」
「ああ、なんとなく分かる」
「それに撮影前に移動で疲れさせたくないしさ」
「それはあるなあ」
 
浦和のマンションに帰宅すると、早月が京平に「おにいちゃーん」と言って抱きついていた。京平も久しぶりに妹たちと会って、楽しそうだった。
 

6/16-28の時期の浦和のマンションの部屋割はこんな感じである。
 
Room1 彪志+京平
Room2 千里+由美
Room3 早月・奏音
 
京平はお母ちゃんを早月たちに取られた感じで、少し嫉妬していた!
 
でもよく遊び相手になって、絵本を読んであげたりしていたし、由美のおむつ交換などもしてくれた。ついでに女の子のお股に興味津々の様子だったが、まいっかと思った。(京平は肉体的には幼稚園児でも中身は高校生程度)
 
なお、千里が不在な時の早月たちのお世話は主として《てんちゃん》と《すーちゃん》が交替でしてくれた。奏音は毎日お母さんの優子と電話していた。奏音自身は、他の家に泊まるのが楽しいようだったし、早月と2人で結構“悪いこと”もして、千里に叱られることになる。むろん千里は他人の子でも、しっかり叱る。
 

(2020年)6月20日(土).
 
音羽と光帆(織絵と美来)の結婚祝賀会が、あけぼのテレビで2時間にわたり生放送された。千里や青葉もこの祝賀会にネットで参加した(千里はあけぼのテレビの小スタジオ、青葉は〒〒テレビの小放送室から)。
 

6月20日(土)、岡山市内の病院で“武石紗希”が帝王切開で元気な女の子を出産した。
 
高園咲子の5人目の玄孫であった(安子の子供が3人、芳彦の子供が1人)。山彦の曾孫としても5人目である。
 
出産で激しく消耗している“紗希”を、“夫の満彦”は
「頑張ったね」
と言って、優しくいたわった。
 
「もう死ぬかと思ったよ」
「経膣じゃないから、比較的楽だったはずなんだけどね」
「骨盤が狭いから経膣は無理だと言われたし」
「まあ男の子の骨盤は狭いからね。でも赤ちゃん産んだから、これでみっちゃんも立派な女性だよ」
 
「ボク、このまま女として生きていかないといけないのかなあ」
 
「女の子になりたがってた癖に」
「まだ女になる覚悟ができなくて」
「今更だと思うけど。性転換手術でもして男に戻る?」
「ちんちんは無くてもいいんだけど」
「じゃ女でいいんでしょ?私はレスビアンでいいよ」
「どうしよう?」
 
「性転換するなら授乳が終わってからにしてね」
 
妊娠が発覚して以来、満彦は“紗希”として女装して産科を受診し、紗希は男装でその夫を装い、出産の日まで来た。大きなお腹を抱えて男性として仕事はできないし、産休も取れないので、やむを得ず会社は退職している。その後はずっと女装で生活し、女装で病院を受診していた。
 
紗希の方は普通に女性会社員として仕事をしながら、満彦が受診する時は男装して夫のふりをする、二重生活を送っていた。少なくとも病院では、2人の本当の(?)性別に気付いた人は皆無であった。
 

6月20日(土)は須佐ミナミの自己隔離最終日であった。佐和さんからはそのまま常総ラボに居てください。明日お伺いしますという連絡が入っていた。
 
6月21日(日)、ミナミが朝御飯を食べて一休みし、体育館でウォーミングアップしていたら「こんにちわぁ」と言って、大勢の人が入ってくるので驚く。
 
村山千里オーナーが全員を紹介した。
 
「こちら立川社長。以前舞通でコンピュータの部品の調達関係のお仕事をしていて、レッドインパルスの顧問をしていました。こちら下田ヘッドコーチ。以前、旭川L女子高校のコーチをしていました。こちらは矢峰コーチ。以前TS大学でコーチをしていました。こちらは総務部長の石矢浩子。千葉のローキューツというチームで長年キャプテンを務めて、ローキューツをオールジャパンに連れていきました」
 
なんか凄い人ばかり、とミナミは思った。
 
「こちらがうちのチームのキャプテン、竹宮星乃、スモールフォワード。コートネームはステラ。東京T高校、神奈川J大学出身。こちらはヴァイス・キャプテンの河合麻依子、ポジションはパワーフォワード。コートネームはメル。旭川L女子高校出身」
 
「それから後はポジションと名前だけ紹介するけど、PG森田雪子・スノー、SG秋山渚紗・リト、、PF中嶋橘花・キー坊、PF呉服桂華・ダイ、PF若生暢子・チーター、C森下誠美・マチ、C松崎由実・ユミ、SF広丘聡美・オイル、C松山聖子・セイコ、GF島田司紗・ツン、SF佐和国香・クリ、SF後藤真知・ミコ、SG水嶋ソフィア・ソフィア、 PF志村美月・ミツ」
 
(C:センター PF:パワーフォワード SF:スモールフォワード GF:ガードフォワード SG:シューティングガード PG:ポイントガード)
 
ミナミは呆気にとられている。
 
「日本代表がゴロゴロ居る」
「元日本代表ね」
とキャプテンの星乃が言う。
「現役もいるけど」
と松崎由実。
 
「うちは他のチームをリストラされたり、結婚して一時期引退していた選手が多いんだよ。1人若い子がいるけど、大学を出た後、どこにも相手してもらえなくて、仕方なくうちに来た」
と麻依子が言っている。
 
「その言い方は酷い」
と 志村美月。
 
彼女は青葉と同い年で、(若生)暢子の天敵である(むしろ暢子が美月の天敵というべきか)。失言癖があるので、ほぼ決まっていた会社の幹部さんを怒らせて内定辞退するハメになった。暢子に「だったらボール拾いで雇ってやる」などと言われて40 minutesに入団した。25歳以上のメンバーが多い中で異色の(?)22歳のロースターである。プロ契約しているが、年俸は最低額の240万円。予定通りの会社に入っていれば月給30万円(年俸換算500万円)と言われていた。ただ向こうは社員選手なので、午前中仕事をして午後から練習のような形になる予定だったらしい。
 
こちらでは寮に入れてもらったので、節約すれば何とかやっていけるので、バイトなどはせずに1日中バスケをしている。しかし結果的には先にWリーグに行けることになった。
 

「取り敢えず紅白戦をして、うちのレベルを確認してもらおう」
と千里が言い、16人のロースターをだいたい戦力が釣り合うように分けて紅白戦をした。下田・矢峰コーチが各々のチームの指揮を執る。審判は千里と浩子が務めた。
 
ミナミは紅白戦を見てそのレベルに圧倒された。
 
そして思った。
 
これ、Wリーグでも優勝争いに絡めるチームじゃないの〜?なんでこんなチームが地域リーグなんかに居るのよ?
 
そして急に不安になった。
 
私のレベルでここに入れてもらえるかしら?入団試験で落とされるのでは?
 

紅白試合が終わった後で、キャプテンの元日本代表・竹宮星乃が言った。
 
「ところでうちのチーム名の40 minutesって、由来は何だと思う?」
 
ミナミは一瞬考えてから言った。
「バスケットの試合時間の40分からですか?」
 
「ノンノン」
と、やはり元日本代表の呉服桂華(旧姓橋田)が言う。
 
「1日に40分練習すればいい、というポリシーだからだよ」
と、副主将の河合麻依子が言った。
 
「え〜〜〜!?」
 
「まあ、うちはメンバーも50-60人いるし、本当に1日40分だけ練習する人もあれば週に2〜3回、2時間程度ずつ練習する人もあるし、毎日朝から晩まで10時間くらい練習している人もある。みんな、各々自分のペースで好きな時間だけ練習すればいいというお気楽チーム。練習場は24時間365日使えるしね」
 
「へー!」
 
「主婦はわりと午前中とか昼食後午後一番に練習に来る」
「練習場にある牛丼屋さんでお昼食べてから練習する子もいるね」
「逆に牛丼屋さんでお昼食べてから帰る子もいる」
 
「学生さんは授業が終わってから夕方来る。会社勤めの人は夜7時とか8時にやってくる。みんな好きな時間帯に練習に来るから、毎日来てるのに、普段お互いにめったに顔を合わせない、なんて組合せもある」
 
「ああ」
 
「一応プロ契約する人は、週に最低20時間は練習して欲しいと言っている」
「プロ契約しているのはここにいるメンツ以外に、あと10人ほど」
「もっともこの中にも学校の先生とかしていて、副業禁止規定があるのでプロ契約してない人もある」
 
「まあプロ契約してないメンバーの中には、めったに顔を見ない幽霊部員もいるけどね」
「毎年春に意志を確認して、続ける気があれば登録して登録料はチームで払う」
「それでバスケ協会の会報メールは受信することになる」
「それが目的では?という子もいる」
 
「暇だったら、大会にチアとして徴用される場合もある」
「ああ」
「あれは旅費はチームから出るし、コート近くで試合を見られるから割とお得」
「へー」
「男の娘は公式戦には出さないから、もっぱらチア要員だな」
 
「男の娘もいるんですか?」
「心が女であれば肉体的に男であっても入団を認めている」
「なるほどー」
「背の高い子が多いから実は練習要員としては貴重」
「ですよね!」
 
「チア以外にTO(テーブル・オフィシャル)要員として連れていく場合もある」
「なるほど」
「こちらは選手より大変かも知れない」
「言えてますね〜。すっごい神経使うもん」
 
特に24秒オペレータは試合時間中、一瞬たりとも気を抜くことができない。24秒オペレータの感覚(ブザーとシュートのどちらが早かったかなど)が試合の行方を左右することもある。
 
「それから、今は地域リーグに居て、地域リーグの2番手なんだけど」
「地域リーグで、まだ強いチームがあるんですか!」
「深川アリーナを共用しているジョイフルゴールド。同じ東京都だから、どちらか片方しか全日本に出られなくて、片方が涙を呑んだりする」
「それもったいない」
 
「だから、さっさとWリーグに来てよと言われて、うちも向こうも来年度、2021-2022シーズンからWリーグに参加することになっている」
「わぁ」
 
「ということで、もし良かったらうちのチームに入りませんか?」
と星乃キャプテンが言った。
 
「入ります!」
と言ってからミナミは急に不安になって付け加える。
 
「入れてもらえたら」
 

「まあテストしてみればいいね」
と千里が言って、そのまま入団試験(?)になる。
 
「じゃ今日来ているメンバーと1on1をやってみるというので。誰か1人にでも勝てたら合格」
 
「はい」
と言って武者震いする。頑張れば1人くらいには勝てるかも。
 
それで最初に元日本代表ポイントガード・森田雪子が出てくる。
 
さすが代表を張るポイントガードである。ミナミは全く勝てなかった。
 
ついでキャプテンの竹宮星乃、副キャプテンの河合麻依子とやるが勝てない。次々と選手が出てくるが、全く勝てない。
 
1on1は休憩を挟んで続く。1度目の休憩では誰かのお土産らしい筑紫餅、2度目の休憩で牛丼!が出て来たのでびっくりしたが、みんな美味しそうに食べている。ミナミも食べてお腹も満ちて気分も少し変わる。
 
休憩明けに若い志村美月とやる。こちらの攻撃では5回の内3回抜けた。向こうの攻撃は5回の内4回を停めた。
 
「ミナミちゃんの勝ち!」
とキャプテンの星乃が宣言する。
 
ミナミはホッとした。ホッとしたら調子が出て来て、その後、わりと勝った。
 
対戦は続いていき、結局16人の内、6人(志村美月・島田司紗・広丘聡美・後藤真知・森下誠美・呉服桂華)に勝てた。日本代表の森下に勝てたのはミナミ自身もびっくりしたが、彼女はセンターなので、必ずしもマッチングは上手くないことを割り引く必要があるなと思った。
 
「この成績ならロースター入り決定」
と星乃は言う。
 
「ということで、オイル(広丘聡美)はロースター落ち決定」
と星乃が告げると
 
「え〜?」
と言って、その広丘聡美が頭を抱えている。その仕草がユーモラスだったので、ミナミはつい微笑んでしまった。
 
「まあオイルは練習して、私をロースターから引きずり降ろすといいね」
と現役日本代表・松崎由実が笑いながら言っていた。
 
ミナミはこのチーム、ほんとに楽しそうなチームだなと、このチームが気に入った。休憩時間中も和気藹々としていて、ジョークとかがたくさん飛んでいたし。
 
「だけど、ローキューツに居た須佐ミナミとは別人なのね」
と後藤真知が言う。
 
「そうそう。同姓同名なのよ」
と佐和国香が言った。
 

なお、(こちらの)須佐ミナミは、立川社長、村山オーナーと話し合い、年俸600万円で契約した。来年以降は今期の活躍次第である。住まいについては、取り敢えず船橋市内の寮(寮費月5万円・朝夕食込み)に入ることにした。
 
取り敢えず常総ラボで受けとっておいた、アメリカで生活していた間の荷物は若生暢子さんが2トントラックを持って来て、数人の部員さんで積み込んで、寮に移動してくれた。みんな男性顔負けの腕力を持っている。
 
この寮は、40 minutes, Rocutes, 江戸娘(えどっこ)の3チームで共同運営しているもので、寮から練習場所(深川アリーナ・千城台体育館)及び船橋駅・西船橋駅との巡回バス(無料)も運行されている。2019年春に3チームのオーナー(千里・ケイ・マリ)の3人が共同で、中古マンションを土地ごと3億円で買い取ったものである(1人1億円ずつ出した)。
 
実は極めて不便な場所にあったため、入居者が全く無く、所有していた千葉市内の会社経営者が買い手を探していたのを直接取引で買い取った(この会社はこのマンションを売ったことで資金に余裕ができてコロナ不況を生き抜くことになる)。
 

地下1階・地上8階建てで、住居は2〜8階に設定されていた。2〜6階は1K×7戸、7〜8階は1K×1戸+2DK×4戸という構成で、合計45戸である。基本的には単身者向けのマンションである。
 

 
1階は管理人室、スタッフルーム、そして唯一の入居人であった焼鳥屋さんがあったのだが、この焼鳥屋さんには、そのまま営業継続してもらい、選手たちのために定食メニューなども設定してもらっった。結果的には寮関係の売上が8割ほどを占めるようになり、事実上の寮食化していくことになる。
 
本来は焼鳥屋さんだったのだが、親しくなった選手たちからの要望で、カレーライス、ラーメン、ハンバーグ、スパゲティ、などのメニューもできていく。店主さんがノリのいい人で「**作れない?」「よし。作ろう」などといって、高校生の娘さんに“監修”してもらって洋食メニューなども設定していった。
 
おかげで“カレーライスやラーメンのある焼鳥屋さん”としてテレビや雑誌の取材まで受けることになった。
 
この焼鳥屋さん一家はこのマンションの7階に住んでいた(ほんとに唯一の入居者だった)のだが、1階の管理人室に移動してもらい、奥さんに寮の管理人をしてもらうことにもなった。
 

このマンションの地下は(自走式の)駐車場だったのだが、千里は言った。
 
「ここをバスケットの練習場に改造していい?費用は私が出すからさ」
「まあいいよ」
 
それで千里はここにフローリングを敷き、ラインも引き、バスケットゴールも設置した。1週間ほどで改造終わったよというので、ケイは見に行った。
 
「結構広いね」
 
「元々の駐車場が自走式のためのスロープまで入れて32m×18mほどあったからね。それでバスケットコート28m×15mをひとつ取った上にシュート練習場まで作ることができた」
 
「マンション自体の建て面積よりずいぶん広いね」
「たくさん車を駐めるために敷地いっぱいまで地下駐車場を作っていたみたいね。駐車枠は20台分切ってあったよ」
 
それで見ていたケイは重大な問題に気付いて言った。
 
「千里、質問がある」
 
「どうかした?」
「地下駐車場の天井って、こんなに高かったっけ?」
「男は細かいこと気にしない」
「私、女だけど」
「女はもっと気にしない」
 

地下駐車場を潰してしまったので、車を駐めるスペースはマンション前面の地上駐車場だけとなる。ここは約18m×16mほど(マンションの建面積とほぼ同じ)あり、駐車枠の白線を暫定的に12台分引いておいた。
 
しかしたまたま通り掛かった若葉が言った。
 
「住人が45人もいるのに駐車枠が12台って足りないよ」
「一応住人が全員駐められるだけの駐輪場を作れば違法じゃないんだけどね」
 
「こんな不便な場所で自転車だけでは辛いと思う。スーパーも遠いじゃん。私が駐車場を建ててあげよう」
 
「へ?」
 
「立体駐車場ならたくさん収納できるよ」
「それ建設費が凄まじくない?」
 
「1億くらいで建つと思うけどなあ」
「このマンション自体を3億で買ったんだけど」
「男は細かいこと気にしない」
「私、女だけど」
「女はもっと気にしない」
 
それで若葉は、勝手にここに機械式立体駐車場(垂直循環式)を2基、建ててしまったのである。2つの垂直循環式駐車場はひとつの建物の中に納められており(実際マンションの建物と一体化している)、システムとしては統合的に動くので、利用者はそのどちらに収納されたかを意識する必要はない。ボタンを押せば自分の車が収納されている側が回転して、その車を地上まで運んでくれる。
 
前面の垂直循環に21台、後の垂直循環に22台入るので合計43台の車を駐めることができる(前面に22台入れると後面の車が出せなくなるので21台で留める)。これに前面の地上駐車枠を入れたら、入居者全員に最低1枠の駐車枠を提供できることになった。
 
マンション前面のスペースは練習場や駅などとの“巡回バス”を停める他は来客用の一時駐車場としても利用できるようする。ただし無断駐車を防ぐため囲いを作りゲートも設置しており、住民に渡しているカード、また室内のパネル操作でゲートを開閉するようにしている。
 
千里といい、若葉といい、わりと勝手な造作をする人が多いなとケイは思った。千里はきっと“体育館作りたい病”だ。
 
しかしこの地下練習場は千城台や深川まで行くのが面倒な時に結構使われることになる。
 

なお、買物は忙しい人のために前日までに予約しておけば、スタッフでまとめ買いしておいてくれることになっており、スーパーなどに行かなくても生活できる。このシステムは特にコロナ流行でとても助かることになった。買物スタッフは食肉や野菜などは生産者から直接仕入れている(ヤフオクなども使う)ほか、不足するものの購入では、今年2月以降は、マスク・手袋・帽子をつけて人の少ない14時頃にドラッグストアやスーパーに買物に行っているらしい。
 
ミナミも食材はまとめ買いをできるだけ利用して、洋服などの購入もできるだけ通販を使うよう言われた。スポーツドリンクなど、また靴下などの消耗品も大量にストックされている。
 

寮に入り、荷物も運び入れ、ここで暮らしながら毎日深川アリーナに行って練習をするようになって3日目。
 
ミナミは練習を終えてシャトルバスで寮に戻り、中に入ろうとしていた所で、買い物用っぽい肩掛け鞄を持った志村美月と遭遇した。彼女は駐輪場の方から来たようである。揚げ物(多分フライドチキン)の臭いがする。自転車でコンビニにでも行ってきたのだろうか。
 
「お疲れ様ー」
「お疲れ様ー」
と声を交わす。ミナミはエレベータの前に行ったが、美月は向こうの方に行く。
 
「予約していた食材の受け取りか何かですか?」
と声を掛けると
 
「食材は午前中に受けとっているけど、階段から行くから」
と美月は言う。
 
「ミツさん、何階ですか?」
「私は8階」
「8階まで歩いて登るんですか?」
「ミナちゃんは何階?」
「私は7階です」
 
「この寮に入っている選手でレギュラー格の子はだいたい上の方の階に部屋が取られている。なぜだと思う?」
 
ミナミは考えたが分からなかった。上位陣は特別待遇で上の良い部屋??
 
「レギュラーを張るほどの選手なら、階段で足を鍛えて欲しいからだよ」
と美月は言った。
 
ミナミは驚いた。
 
「そうだったんですか!」
と言い、
 
「私も階段で行きます」
と言った。
 
「うん。頑張ろう」
「はい!」
 
それでふたりは階段の方に行き、そこを登り始めた。ちなみにミナミは703号室2DKだが、美月は804号室1Kの部屋らしい。
 
「いちばん頑張れということだと思っている」
「私も頑張ります」
「うん」
 
7階まで行って別れる所で、チキンを1個お裾分けしてもらった!
 

「さあ、この手術台の上に寝て」
「これ手術台なんですか?」
「君をこれから女の子に改造しちゃうからね」
「えー!?」
などと言いながら、恵馬は自分でその台の上に乗って横になった。
 
本当の手術台なら、無影灯が灯っていると思うが、ここに灯っているのは豪華なシャンデリアである。この台もとても柔らかい。手術台というよりベッドだ。恵馬は、安い少女漫画にでもありがちな情景だと思った。お金持ちの奥様の趣味で女装させられる美少年とか?などと自分をそういう漫画の“生け贄”になぞらえる。
 
ズボンが下げられ、ブリーフが下げられて、どちらも手術台(?)そばのゴミ箱に放り込まれてしまう。ボク帰る時どうすればいいんだろう?などと少し不安になる。もう帰れなかったりして!?
 
それで下半身裸になってしまった。
 

恵馬(けいま)は自分の足の毛が女性用カミソリで剃られて、真っ白な地肌が露出するのを、古い映画でも見るかのように見ていた。
 
そうだった。ボクは小学5年生頃までは、女の子たちから
「エマちゃん、足も手も白ーい。羨ましい」
なんて言われていたんだった。足に毛が生えてきてからは、こんな白い肌を見ていなかったなと思った。
 
なお、恵馬の名前は本当は“けいま”と読むのだが(将棋好きの父が付けた。最初は桂馬になる予定が、あまりダイレクトすぎるということで恵馬になった)、小学生の頃から友人たちは“えまちゃん”と呼んでいた。
 
「さあ、女の子のように白い肌が出て来たよ。君は本当はこんなに美しいんだよ。次はこれを穿いてみよう」
と言って見せられた下着を見て、恵馬は心臓がドキドキした。
 

2020年6月25日(木).
 
“桃香”は1月から千葉県内に3つの校舎(船橋市・千葉市・松戸市)を持つ中堅・学習塾の臨時講師になり、4月からは社員として採用され試用期間になっていた。そしてこの日は給料日だったのだが、給与明細を受け取りに校長室に行くと、校長は明細を渡してから言った。
 
「高園君。君、7月1日付けで試用期間を終えて本採用に移行するから」
 
「ありがとうございます。頑張ります」
 
「それで健康診断書と身元保証書を提出してくれない?できたら今月中に。保証人は、生計を別にする70歳未満の有職者2名で」
「分かりました」
 
と言って書類をもらって校長室を出たものの、さて、と困った。
 
健康診断書はいいのだが、保証人を誰に頼もうかと悩んだのである。自分が千葉で就職していることは、高岡の母も知らない。そもそも母は会社を定年退職してしまったので“有職者”ではないから保証人になれない。生計を共にしている人はダメということは、季里子や季里子の親などもダメである。
 
しかし桃香は取り敢えず健康診断に行ってくることにした。
 
コロナの折、不要不急の患者は優先度が低くなっている。予約が必要なようなので、あちこち電話してみるが、どこからも断られる。予約可能な所があっても、空いているのがかなり先だ。これは困ったぞと思い、市外の病院にも電話していたら、浦安市内の病院で、6月29日(月)なら受けられるということだったので予約した。月曜は休みなので助かる。
 
学習塾なので土日こそがメインであり、代わりに平日に交代で休みを取ることになっている。休める日は授業のラインナップやスタッフの陣容の都合で毎月変動するのだが、今月桃香は月・木が休みである:来紗の入学式が6月8日(月)だったら、難しいことをせずに済んでいた。
 

6月28日(日)は京平の5歳の誕生日だった。阿倍子からは予め誕生日プレゼント(絵本3冊)も送られて来ていたし、当日は電話で京平とたくさん話していた。彪志も京平にプレゼント(レゴ)をくれたし、貴司も会いに来て、京平を連れ出し、プレゼント代わりに2時間ほどプラドでドライブしてきた。ドライブには早月と奏音も付いていった。プラドに3つチャイルドシートを取り付けた。由美は小さいのでお留守番である。
 
貴司は緩菜が「おにいちゃんへ」と言って描いた“おにいちゃんの絵”も持って来て、京平が喜んでいた。“おにいちゃんの絵”は早月と由美も1枚ずつ描いてくれたし、奏音まで「きょうちゃん、おめでとう」といって絵を描いてくれた。
 
夕食にはケーキを買って来て5本のローソクを立てて京平に吹き消させた。この日は京平の大好きな、いなり寿司たくさんに唐揚げも作って、お祝いしたが、奏音や早月はケーキや唐揚げがいちばん嬉しかったようであった。
 

6月29日(月).
 
“桃香”は、健康診断に行ってくると言って朝、季里子の家を出て浦安市に行った。
 
健診のため朝御飯は食べていない。受付で予約番号を伝えてカルテと問診票・診察券をもらう。
 
カルテに書かれている順番に巡回する。最初にトイレ(女子トイレ)でおしっこを取り、提出する。検査室で身長・体重(着衣)・腹囲・血圧・脈拍を測られた後で採血される。
 
胸部X線撮影のためレントゲン室に行く。待ち時間に問診票に記入する。病歴などを書いた後「あれ?」と思う。普通なら、こういう所に「妊娠していますか?あるいは妊娠している可能性がありますか?」とか「月経は定期的に来ていますか?」という質問があるのに、それが見当たらない。
 
いいのかなぁと思って考えている内に、桃香はそのことに気付いた。
 
性別が男になってる!
 
そりゃ男には月経も無いし、妊娠もしないよなあと思った。しかし“桃香”という名前を見て男と思うか??
 
取り敢えず問診票をレントゲン科の受付の所に提出した。妊娠した覚えは無いので、まあレントゲンくらい撮っても大丈夫だろうと考える。先日の織絵のマンションでの一夜は何が起きたが誰も覚えてないので、やや不安ではあったが、その後生理(らしきもの)が来ているから、多分大丈夫。
 
男性が1人部屋から出てくる。少ししてから名前を呼ばれたので中に入る。アルコールの臭いがする。たぶん1人撮影する度に、機械をアルコールで消毒しているのだろう。
 
桃香は上着だけ脱いで、シャツのまま中に進む。桃香は健診をスムーズにするため今日はブラジャーをつけていない。
 
「そのシャツはボタンとかは付いていませんね?」
「はい。付いていません」
「でしたら、ここに顎を乗せて、手を機械の向こうに回してください。はい、そうです」
 
それで技師さんが撮影室に行く。
「息を吸って。停めて。はいOKです」
 
それで桃香は機械の所から離れ、上着を着て外に出た。
 

心電図検査に行く。
 
名前を呼ばれて中に入る。例によってアルコールの臭いがする。ここは服を脱がなければならない。上半身裸になってベッドに横になる。男性の技師さんが「あれ?」と言う。
 
「たかぞの・とうこうさん?」
と名前を確認される。
 
どうも「桃香」を「とうこう」と読まれているようである。
 
「はい、そうです」
「いつ頃から、胸が大きくなってきました?」
 
男性で胸が膨らんでいる場合、肝機能障害の疑いがある。
桃香は面倒くさいので、こう答えておいた。
 
「10代の頃から女性ホルモンを飲んでいたので」
「ああ、だったら大丈夫です。それで声も女性のように高いんですね。でも私が検査をしてもいいですか?女性技士の部屋に行かれます?」
 
「あなたでいいですよ」
「分かりました」
 
それで技師さんは桃香の心電図検査をしてくれた。
 

服を着て退出する。
 
眼科に行って視力を測る。耳鼻咽喉科に行って聴力を測る。それで健診項目は終りのようだったのでロビーで待っていたら名前を呼ばれ、封をされた健康診断表をもらう。精算の所に行き、料金を払った。
 
「私、普通に男として生きていけるのかも知れない」
と“桃香”はひとりごとを言った。
 
心のどこかから響いてきた、既に男として生活しているのでは?という“説”は、取り敢えず黙殺しておく。
 

この春に地元のH銀行に入社した吉田邦生だが、当初、何かの間違い(?)で、性別が女子となっていたおかげで最初の2ヶ月ほど窓口係をすることになった(初日は女子制服を着たが2日目からは男子制服を支給してもらってそれを着ている。しかしお客さんからは「お姉ちゃん」とか呼ばれていた)。
 
その後、渉外部門で1人新人男子が辞めたため、そちらの補充として渉外係に移動した。しかし吉田は最初渡された女子の社員証と、後から渡された男子の社員証の両方を保持しており、しばしば先輩の長谷さんから、女子更衣室(女子の社員証が無いと入れない)に掲示するものを頼まれたり、茶碗の片付けなどの雑用を頼まれたりしていた。
 
また同期の女子社員たちと仲良くなり、彼女たち(吉田のことをゲイだと思い込んでいる)は、無防備に吉田のアバートに泊まり込んだりしていた。彼女らは吉田のタンスを勝手に開けて、そこに女物の服も入っているので、
 
「やはり女の子の服を着るのが好きなのね」
 
などと言っていた。
 
(大学のショー劇団に居た時に女役をするために買った服を何となく捨てずにとっておいただけである)
 
しかし吉田は社員証は男子のものも発行してもらったものの、健康保険証が最初に発行された“性別・女”のままになっていることに全く思い至っていなかった。
 

渉外として働き始めてから半月ほど経った6月下旬。
 
先輩の運転する車に同乗して顧客のところに営業に行った帰り、先輩が赤信号で停車したら、後の車から追突されてしまった。
 
田舎ではしばしば、赤信号の変わり目に強引に突っ込む車がいる。それで自分がいつもそういう運転をしていると、他の車もそうだろうと勝手に思い込み、信号の変わり目は前の車は当然突っ込む“だろう”と勝手に想像して、自分もブレーキを踏まずに突っ込もうとする車がある。ところが前の車がちゃんと停まると、追突してしまう。これはそういう事故だった(だから停車する時は自衛のためポンピングブレーキが大事)。
 
なお、こちらの車のドライブレコーダーの記録から、こちらには非は無く、追突した車が全面的に悪いことが警察の捜査で明白になった。
 
しかし先輩と吉田は救急車で!病院に搬送された。
 
追突した車のドライバーがすぐに119番したからである。
 
衝突が低速で車の後部が少し凹んだ程度だったし(向こうの保険で修理してもらったがきっと5万円程度で済んだと思う)、吉田たちはどこも痛くなかったので、この程度のことで救急車なんて恥ずかしー!と吉田は思ったものの、本当に何かあったらやばいので仕方ない。しかし救急車に乗ってて吉田は
 
「救急車って無茶苦茶揺れて、何て乗り心地悪いんだ」
などと思っていた。
 

病院に運び込まれると、先輩も吉田もすぐにMRIを撮られた。その間に銀行から、渉外係の主任さんが駆けつけて来てくれた。しかしふたりとも元気そうなのでホッとしたようである。
 
2人に保険証を出させて病院に提示する。
 
MRIでは異常は見られなかったものの、交通事故は後になって急変する場合もあるので、一晩様子を見ましょうと言われ、2人とも取り敢えず入院になってしまった。
 
先輩は312号室、吉田は314号室に入れられた。着替えが必要だろうということで主任は、渉外係の女子行員・南田さんに連絡して、ふたりの取り敢えず下着とスウェット上下を買ってきてもらった。他にティッシュ・タオル・スリッパなども買ってきてくれている。
 
「なんで、ブラとキャミソールとショーツなの?」
「え?クニちゃん、女物を着るよね?」
「なんか誤解されてるなあ。まあいいけどね」
「うん。それでいいんでしょ?サイズはミネちゃん(吉田と同期の窓口係・伊川峰代)から聞いた」
「なるほどねー」
 

18時に夕食が出たので食べた。19時頃になってから、両親と妹が来てくれた。
 
「何だ元気そうじゃん」
「どこも痛くないけど、念のためと言われて今晩一晩入院することになっただけだよ」
「なーんだ」
 
コロナの折、面会時間が40分以内になっているので、両親たちは20時前には帰っていった。
 
20時半頃になってから、女性看護師さんが来て
「吉田さん、お風呂に入ってください」
と言う。
「あ、はいはい」
 
それでお風呂に行くことにするが、この時、着替えが南田さんが買って来てくれた女物の下着しかないことに気付く。
 
「しまった。母ちゃんに男物の下着を持って来てもらうべきだった」
と今更思うが仕方ない。
 
「まあいっか。別に女物でも」
と思い、吉田はそれを持って浴室に行った。
 

351号室が浴室ですからと言われていたよなと思い、そこのドアを開けて入る。中には誰も居ないようだ。換気扇が動いている。きっと換気に気をつけたいるのだろう。脱衣籠がいくつもあり、消毒済の札が貼られている。「使った後はこちらへ」という掲示もある。そこに重ねて後で消毒するのだろう。
 
吉田は服を脱ぎ、タオルだけ持って中に入った。
 
髪を洗い、身体を洗ってから、湯船に浸かっていたら、何か足が痛いような気がした。打ち身かなぁ、などと思い、そこを揉みほぐした。追突はムチ打ちが怖いのだが、先輩も吉田も衝突時には頭をヘッドレストに付けていたし、衝突も低速だったせいか、首の付近はなんともない。
 
お湯がとってもいい湯加減で、それで吉田はうっかり寝そうになった。
 
慌てて起きる。
 
壁の時計を見たら21:02である。
 
しまった!21:00までに上がってくださいと言われていたのにと思い、慌ててあがる。
 
身体をバスタオルで拭き、ちょっとためらいはあったものの、ショーツを穿き、ブラジャーは考えたけど省略してキャミソールを着た。
 
その時、突然浴室のドアが開いたのである。
 
え!?
 
と声を出しそうになった。
 

入ってきたのは女性である。17-18歳くらいに見えた。女子高生だろうか?
 
「あ、すみません。まだ入っておられました?」
「いえ。もうあがります」
 
と言うと、吉田はキャミソール・ショーツの上に病院着を羽織った。
 
女性は
「失礼しまーす」
と言って中に入ってくると、病院着を脱いでしまった。彼女の下着姿が露わになる。
 
待て。男の俺がいるのに、なんでこの子堂々と脱ぐのさ?と思ったが、早く出た方がいいと思う。それで吉田は病院着の紐も結ばずに、脱衣籠の中の服を抱え、籠は「ここに置いてください」という所に置く。ブラジャーを落としてしまったので拾う。そして
 
「ではおやすみなさい」
 
と言って、浴室を出た。そして病室に戻ったが、お風呂に入ったせいか眠くなって、すぐに眠ってしまった。
 

翌日は6時に目が覚める。看護助手のおばちゃんが来て、体温と脈拍を測られた。昨日はお風呂に入っていて足が痛い気がしたのだが、今は特に痛くない。
 
7時に朝食が運び込まれてきたので食べる。食器を廊下のワゴンに下げてからベッドに戻り、スマホでニュースなど見ていたら、7時半頃、看護助手の人が入ってきて、この時、初めて病室の各ベッドを囲っているカーテンが全部開けられた。
 
吉田はまだスマホのニュースを見ていたのだが、何か微妙な違和感を感じて、病室内を見回した。
 
あれ?
 
と思った。
 
実は自分以外の入室者が全員女性なのである。
 
みんな年齢の高い人ばかりである。
 
6人部屋だが、真ん中の列を使わずに4人だけ入れているようである。
 
左側のベッドは60歳くらいの女性、左前は80歳くらいの女性、正面は40代くらいの女性である。
 
最近はあまり男女気にせず病室に入れるのかなあ、などと吉田は思った。
 
8時頃、診察室に来てくださいと言われたので整形外科の診察室に行く。
 
「どこか痛いとかはありませんか?」
「昨日お風呂に入っていた時に右足のこのあたりが痛い気がしたのですが、今はもう痛くないです」
 
「そこMRIで見てみようか」
と言って、吉田はリアルタイムMRIの部屋に行った。
 
「どのあたりが痛かった?」
「このあたりですが」
 
「うーん。特に異常は見られないなあ」
「だったら気のせいでしょうかね」
 
医師はその周囲もかなり見ていたが、特に異常は見られないようだった。
 

結局、何かあったら受診してくださいということで退院許可が出た。それで吉田は病室に戻り、荷物をまとめて、同室の人たちに
「退院します。みなさんお大事に」
と声を掛けてから病室を出た。312号室を覗いてみたが、先輩は居なかった、先に退院したか、あるいは診察中か。
 
なお銀行に退院することを報告すると
「念のため明日まで自宅療養して。明後日から出社して」
と言われたので、自分のアパートに戻ることにした。
 
なお、病院代は後日会社から支払われるということだったので、吉田個人は何も払う必要は無かったが、医療費の金額のメモだけ渡された。電話で銀行に金額の報告もしておいた。
 
なお退院の際に、次受診する時のためと言われて診察券を渡された。
 
診察券には
 
《吉田邦生 1997.08.28生 F》
 
と印刷されていたのだが、"F"という表示に問題がある(?)ことに、吉田は全く気付かなかった!
 

“桃香”は健康診断を終えた後、病院を出て駅まで歩いて戻る。
 
その途中で千里と遭遇した!
 
やばっ!と思った。
 
千里は京平・奏音・早月・由美を連れている。
 
「桃香、ここで何してるの?」
「いや、ちょっと用事があってこちらに出て来たんだよ」
「どんな用事?」
「いやもう終わったんだけどね」
 
「だったら、ディズニーランドに付き合ってくれない?京平が早月たちを連れていってあげたーいとか言うから出て来たけど、1人で子供4人は、なかなか辛いと思ってた」
 
「分かった、付き合うよ」
 

早月が「おかあちゃーん」と言って、“桃香”に抱きつく。結局、“桃香”が早月と奏音の手を引き、由美を抱っこした千里が京平の手を引いて、ディズニーランドに入園した。代金はむろん千里が全員分払う。
 
小さな子供連れなので、ジェットコースターのようなものには行かない。
 
蒸気船マークトウェイン号に乗ったり、シアター系のものを見たりするが、これだけでも結構楽しむことができた。京平はイッツ・ア・スモール・ワールドを随分気に入っていたし、早月と奏音はシンデレラのフェアリーテイルホールに見とれていた。アリスのティーパーティーは、京平と桃香で乗って来た。早月・奏音には「あんたたちにはまだ早い」と言っておいた。
 
たっぷり遊んで夕方、パークを出る。
 
「千里、ここまでどうやって来たの?」
「セレナに子供4人乗せてきたよ。チャイルドシートを4つ取り付けられるから便利。助手席に桃香が乗れるから一緒に浦和に帰る?」
「あ、うん」
と答えながら、桃香は、やばいやばいと思っている。
 
ところがそこに電話が入ったのである。
 
「あ、はい、はい」
と千里が相手と話している。
 
「分かりました。取り敢えずそちらに向かいます」
と言って電話を切る。
 

「急用?」
「うん。桃香は日帰りの予定だったんだっけ?」
 
「いや、3〜4日滞在する予定で実は“ホテル”取っておいたんだけど」
「何だ。だったら、悪いけど、この子たちをそちらに連れてってくれない?セレナ運転して」
「私が運転しても大丈夫?」
「浦安から“緑区”くらいまではぶつけないよね?」
と千里が言うので桃香は
 
季里子の家に泊まっているのがバレてる〜!と思う。
 
「女の子だけなら一緒に泊められるよね?京平は性転換する訳にもいかないし、仕事中おとなしくしてるだろうから私が連れてくから」
「分かった」
「それで早月たちは、7月4日の朝、川島さんちに連れてきてくれない?」
「了解」
 
桃香は完全にバレてる〜と思った。
 
「あとさ、桃香、保証人が2人必要でしょ?1人は私が署名してあげるよ」
「なんでそんなことまで知ってるの〜〜?」
 
でも助かるので、桃香は身元保証書を出して千里に署名捺印をしてもらった。
 
「川島千里じゃなくて、村山千里なの?」
「近いうちに籍を抜くから、フライング」
「ああ。抜くんだ?」
「結婚したいからね」
「えっと、誰と?」
「むろん貴司とだよ」
「彼、離婚したの?」
「まだだけど、離婚は近いと思う」
「へー」
「心配しなくても、“もう1人の桃香”とも結婚してあげるから。だから重婚かな。桃香も重婚だから、いいよね?」
 
やはりどうも全てバレているようだ。
 
「保証人のあと1人は洋彦(きよひこ)おじさんに頼んだら?親戚の方がいいんでしょ?」
「でも70歳未満と言われたんだけど」
「洋彦おじさんは1950年の12月生まれじゃなかったっけ?」
「そうか。まだ69歳か!」
「農業は、身体が動く限りは定年とか無いから、信用度は高いと思うよ。あまり景気にも左右されないし」
「それはあるよな」
 
それで桃香は洋彦伯父に電話してみると、保証人はOKということだった。
 

セレナに奏音・早月・由美を乗せ、桃香が運転席に座って、セレナは出発する。千里は実は《いんちゃん》に助手席に“不可視”状態で乗って、桃香が危ない運転をしないように見てて欲しいと頼んでいる。
 
千里自身は、ドライバーの矢鳴美里さんがアテンザを運転して迎えに来てくれたので、それに京平と一緒に乗って、呼び出されたスタジオに向かった。
 
用事は楽曲の簡単な修正だった。すぐに修正は終わり、9時頃には浦和に帰ることができた。この日は彪志が先に帰っていて、御飯を作ってくれていた!
 
「ありがとう!」
 
「あれ?早月ちゃんたちは?」
「ちょっとお友達のところにお泊まり」
「千里さんは一緒でなくていいんですか?」
「うん。桃香の親戚の家なのよ。京平は幼稚園があるから連れ帰ってきたけど、女の子3人は7月4日まで預かってもらうことにした」
「ああ、それがいいかも。千里さん、本当に忙しそうだもん」
と彪志も言った。
 
なお、この日、千里2のほうは福岡の金田町に行き、アクアのヌード写真撮影に立ち会っている。
 

千葉の紫尾家では、早月たちは大歓迎された。早月は季里子を見ると
「あ、きーママだ」
と言って、なつく。
 
しかし季里子は
「桃香がこのセレナを運転してきたの?どこにもぶつけなかった?」
とまず別の問題を心配した。
 
「ちゃんと慎重に運転してきたよ」
と答えつつ、危うく壁にぶつけそうになったのは、ギリギリでブレーキが間に合ったからなあと内心冷や汗を掻いている(いんちゃんもその瞬間は冷や汗を掻いた)。
 
「でもどうしたの?」
と季里子は訊いた。
 
「7月4日に信次さんの三回忌があるから、それに出るのに子供たちを連れて千里が出て来たんだよ。でも千里は忙しいから、4日まで預かってくれないかと言われたんで、取り敢えず預かってきた」
 
「ふーん。千里さんと会ったんだ?」
「何もしてないよ」
「まあ子供連れては変なことはできないよね」
 
季里子としても最近桃香はあまり浮気はしていないようなので、まあ信用してもいいかなと思った。
 
「奏音ちゃんは優子ちゃんの娘か。似てるね」
「よく似てるよな。縮小コピーって感じ」
 
この日はホットプレートを2つ出して焼肉をしたので、奏音も早月も楽しそうであった。来紗と伊鈴も久しぶりに早月と会ったので、なんかハグしてた!むろん奏音ともすぐ仲良くなった。
 
寝る場所は、元々子供部屋を来紗・伊鈴・早月・由美の4人で使えるように衝立で4分割しているので、そこに来紗・伊鈴・早月・奏音が寝て、由美は小さいので、桃香・季里子の部屋に一緒に寝せた。
 
でも子供部屋の4人の女の子たちは遅くまでおしゃべりとかしていて、季里子の母に叱られた。
 
この体制で7月4日朝まで紫尾家は賑やかな状態が続くのであった。
 
そして早月たちが居ないので京平はお母ちゃんを独占できて、嬉しそうであった!
 

なお、伯父のところに保証人の署名をもらいに行く件は
 
「桃香が運転するなんて危ない」
と言って、季里子が早朝から自分の車(アクセラ)に桃香を乗せて往復してくれた。
 
それで桃香は6/30の朝一番に身元保証書と健康診断書を会社に提出することができた。
 
 
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【春銅】(4)