【春曙】(6)

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その日、コスモスはA契約のタレント全員と、高校生以上の研修生(B契約)のメンバーをZoom会議に参加させて言った。
 
「これまで、みなさんには女性は26歳になるまで、男性は30歳になるまで、つまり女性は25歳までの、恋愛・結婚・妊娠、男性は29歳までの恋愛・結婚、恋人を妊娠させる行為を禁止していたのですが、これを18歳以上、但し高校生については卒業後については解除したいと思います」
 
タレントたちはお互いに顔を見合わせている。この中で最年長は今年24歳になる桜野レイアだが、彼女はデビューが遅かったこともあり、自分は30歳までは結婚しないつもりと言っている。
 
「契約書はすぐには書き換えませんけど、来年春以降に契約を更新する段階でその条項は削除または変更したいと思います。今年度に関しても、契約書の条文は事実上新しい規定に読み替える扱いにしたいと思います」
 
「実はこれはケイ会長などとも話していたのですが、恋愛もしたことないのに恋の歌とか歌っても、まともな歌唱にならないのではないかという意見もあったんですよね。だってアイスクリーム食べたことのない人にアイスクリームの歌なんて歌えないでしょ?そもそも、こういう個人的なことに事務所が介入するのは、人権的におかしいという弁護士さんからの意見もありました」
 
町田朱美が物凄くホッとしたような顔をしている。彼女にボーイフレンドがいることを知っているのは、コスモス・ゆりこ・ルンバの他は姫路スピカくらいだろう。
 

「ただ皆さんにお願いがあります。ドラマなどに出演している場合、急な妊娠は撮影の都合に影響を与える場合があります。それで3つお願いします」
 
「ひとつ。結婚するまでは確実に避妊して下さい。避妊はちゃんと男性用避妊具を使用し、避妊具はセックスの度に使い捨てして下さい。避妊具の再利用は破損して避妊失敗の原因になりやすいですし、した後にコーラで洗うとかは無意味ですから」
 
とコスモスが言うと、山下ルンバや大崎志乃舞が笑っている。
 
「ひとつ、結婚する場合は半年程度前に事務所に告知して下さい。明日結婚しますとか言われてもスケジュールの調整がつきませんし、テレビ局などにも迷惑をかけることになります」
 
「ひとつ、結婚前の同棲は我慢して下さい。皆さん若いし、好きになったらすぐ一緒に暮らしたいかも知れないけど、そこはやはり各自の立場というものを考えて行動してください」
 

「質問です」
とルンバが言う。
 
「同性との結婚とかは構いませんか?」
 
「全然構いません。同性の場合は婚姻届を出せませんけど、パートナーシップ宣言をするか、結婚式をあげたことをもって結婚したとみなします」
 
「配偶者手当とかは出ますか?」
 
「出します」
とコスモスは即答したが、これには「おぉ」という驚きの声が広がっていた。
 
「但し相手の収入が所得税法に定める控除対象になる場合に限らせて頂きます。同性婚の場合もその金額計算を準用します」
 
「ああ」
 
「相手が失業していたりしない限りはないかな」
「いや、それこそ同性婚の場合は、配偶者手当がもらえるケースあるかも」
「あ、その方があるかも」
 
「産休はもらえますか?」
「基本的に出産予定日の半年前から、出産の半年後までを産休としたいと思いますが、ドラマの撮影などにかかる場合は調整させてください。なお産休中は過去1年の平均報酬額の5割、但し最低20万円最高100万円の範囲で産休手当を毎月支給します」
 
「私は最低の20万円だな」
などと言っているメンツもいる。
 
「アクアちゃんが妊娠したら最高の100万円ですね」
と質問する子がいるが、コスモスは
 
「当然そうなるでしょうね。普段の収入からすると少なすぎるでしょうけど、貯金もあるだろうから、それで我慢してもらって」
と平然として答える。
 
誰も“アクアの妊娠”を変なこととは思っていない!
 

「恋愛禁止解除は高校卒業した人だけですか?」
「中高生は妊娠しないようにしましょう」
と言ってコスモスは朱美をちらっと見た。朱美も頷いた。彼女には山下ルンバから避妊具を渡してあげており、残りが1箱以内になったらすぐ言えと言っている。
 
「妊娠しないなら恋愛まではOK?」
「プラトニックな交際までは」
「キスはOK?」
 
「セックスは我慢しましょう」
「ペッティングは?」
「キスまでが許容範囲かな。ペッティングしてると、入れてなくても性器付近に付着した精子が性器の中まで進入して妊娠ってことも希にあるから」
 
「キスくらいはするよね」
と言ってルンバも町田朱美をチラッと見る。朱美は少し悩むような顔をしていた。
 
そういう訳で、§§ミュージックは6月から恋愛禁止ルールが解除されることになったのである。
 
ただし中学生の町田朱美は高校を卒業するまで、あと4年ほどは(公式には)セックス禁止ということになる。もっとも現在、朱美のボーイフレンド平野啓太は病気治療のため(ペニス切断は免れたものの)女性ホルモンの投与を受けているのでペニスは勃起しない。治療が終了した後、彼の男性能力が回復するかどうかは不明である(医者は期待しないでくれと言っている)。
 

「時代はやはり、リモートセックスよ」
と雨宮先生は言った。
 
「何ですか?それ」
とケイナは尋ねた。
 
ケイナとマリナは夕方テレビ局で遭遇し、この後の予定は無いとうっかりケイナが言ってしまった所「付き合いなさい」と言われて、恵比寿のケイのマンション!に連れて来られたのである。
 
「だってお店で飲むと集近閉になるじゃん」
などと雨宮先生は言っていた。
 
「シューキンペイって中国の大統領だったっけ?」
とケイナが言うので
 
「それは中国の総書記だよ。ほんとはシーチンピン(習近平)だけどね。中国には大統領はいない」
とマリナは訂正する。
 
「集まる、近い、閉鎖空間、というので集近閉。三密よりよほど覚えやすい」
と雨宮先生は説明する。
 
「なるほどー」
 
「それで私のうちで飲むんですか?」
とケイは呆れ顔である。
 
ちなみにここは換気のため24時間換気扇を回している。更にこの2月に窓に防犯器具を取り付けた上で網戸を付け、そこから外気が入ってくるようにした。ちなみにここは32階である。さすがにこの窓から侵入しようとする泥棒はいないだろう。アクアのマンションなら120階にあっても決死の覚悟で侵入を試みる人があるかも知れないが。
 
ちなみに、ここには雨宮先生のほか、ケイナとマリナ、ケイとマリ、そしてたまたま来ていたので付き合うことになった、ローズクォーツのタカとスターキッズの鷹野さんが居る。ちなみにタカは星居隆明の愛称=ステージネームだが、鷹野さんの愛称は“おたかさん”であり、“たか”と呼ばれることはない。
 
飲んでいるのは、雨宮先生とケイナ・タカ・鷹野の4人で、妊娠中のマリナとマリはもちろん、ケイもお酒は飲まない。
 

「今どき、お仕事はリモートのテレワークでしょ?テレビ番組でもリモート出演、学校はリモート授業、買物はリモートでオーダーを入れるネット通販、デートもリモートデートでリモートキスして、リモートセックスだよ」
と雨宮先生は言う。
 
「リモートデートまでは分かりますが、リモートキスというのは?」
「お互いにスマホで自撮りしている状態で各々のスマホに映っている相手とキスするのよ」
「つまりスマホとキスするんですか?」
「スマホは事前にちゃんとアルコール消毒しておいてね」
 
「あまり楽しくない気がする」
と鷹野は言うが
 
「いや、恋人同士なら、それも遊びとしては楽しいかも知れないよ」
とケイは言った。
 
「昔は、電話口で自分の手の甲にキスしてチュッと音を立てると、向こうも同様にして返すなんてやったもんだけどね」
と雨宮先生。
 
「ああ、それはわりとありかもですね」
とマリナも言った。
 

「それでリモートセックスというのは?」
「こういう道具があるのよ」
と言って雨宮先生が出してきた道具(?)に
「何です、これ?」
とタカがしかめ面をして言った。
 
2個セットのようである。片方の道具には丸い穴が空いていて、片方は円柱上で先端は半球状になっており、要するに**ルドーのようである。ということは穴が空いているのは、要するに**ホールなのだろう。
 
「これ1990年代にアメリカで開発された歴史のある道具なんだよ」
「へー!」
「当時はドライブベイだったんだけど、PCMCIAを経て、現在はUSBになった」
 
「ドライブベイって何でしたっけ?」
とケイナが訊いたが、これはタカが知っていた。
 
「子供の頃に見たことある。親父のパソコンの前面に棚みたいなのがいくつか並んでいて、そこにハードディスクとかCDドライブとかを挿入して簡単に接続できるようになっていたんだよ」
 
「へー」
 
「それ以前はパソコンの筐体を開けてCバスというのにボードを差しこまないといけなかったから大変だったらしい。素人にはディスク増設なんて無理だった。それが凄く楽になった。でもドライブベイは、デスクトップでしか使えなかったし、すぐにUSBとかFire Wire (=IEEE 1394, アイトリプルイー1394)とか出て来たから多分すぐ廃れたと思う」
 
「まあそんな感じ。でも今はインターフェイスをUSBにして生き残っている」
 

「要するに、**ホールと**ルドーのセットですか?」
と鷹野が訊く。
 
「ただのセットじゃない。男がここに自分のちんちんを入れて出し入れするとその出し入れがネット経由で相手に伝わり、こちらの棒が伸び縮みする。だから、本当に相手としている感覚になれるのよ」
 
「それ、どちらにもコンドームを装着する前提ですよね?」
「そうしないと摩擦で痛いと思う」
「ゼリーが必要かも」
「それも投入した方がいいかも知れない」
 
「だけどそれ男は気持ちいいかも知れないけど、女は気持ちいいもんですか?」
とケイが疑問を呈する。
 
マリは
「それ興味ある。雨宮先生1個ください」
と言ったので、雨宮先生は
「じゃこれをあげるよ」
と言った。
 
誰か新しい彼氏とするのかなとマリナは思った。しかしマリナは言った。
 
「男の人は穴さえあれば入れたいかも知れないけど、私、個人的にはそんなの自分の身体に入れるのは嫌です」
 
「うん。実はそういう意見が多くて、売れ行きは今一なのよ」
と雨宮先生。
 
「それとこれ男同士・女同士のセックスには使えないのよね」
「ああ」
「それも随分言われたんだけど、同性セックスに対応させる妙案が無くて」
 
「それは原理的に不可能な気がする」
とケイは言った。
 
凸と凹を電子的に変換するのは簡単だが、男同士の場合は相手の出し入れがこちらの穴の深さに変換されたとしても全然気持ち良く無い。結局各々が勝手に**ホールを使うのと変わらない。女同士の場合は能動的に動く側が無いので、結局各々が勝手に**ルドーを使うのと変わらない。
 

板付社長の会社は結局、ザマーミロ鉄板という鉄板焼きのお店かとも思われるような名前から、サワークリーム食パンという、パン屋さんかとも思われるような名前に改名された。
 
板付社長は言った。
「長年、君たちに24時間・365日の女装義務を課していたけど、それを解除したい。お仕事する時は出入りの時も含めて女装しておいてもらわないと困るけど、プライベートでは男装してもいいよ」
 
「私には意味ない解除だなあ」
とマリナは言った。
 
「まあマリナちゃんは今更男装とかしないよね」
と常務も言った。
 
でもケイナは物凄く喜んでいて、早速事務所からの帰りにスーパーで男物の下着やズボンなどを買っていた。
 

三鷹の自宅マンションに帰ってからその男物の服を身につける。
 
「なんかケイナじゃないみたいだ」
とマリナは言う。
 
「自分でも違和感ある!」
とケイナは言った。
 
「何年ぶりだっけ?」
「2008年以来だから12年ぶりかな」
「でもハワイでは男装もしたね」
「ブラジャーが透けて見えてたけどな。しかしブレストフォームも外したから、なんか物凄く頼りない」
「ブラジャーくらい着けたら?」
「仕事の時は着ける」
 
ケイナはその日の昼食の時、唐突に言った。
「この後、明日の夕方までオフだからさ、温泉にでも行かない?」
「どこも休業しているのでは?」
 
ふたりが「ザ・ドサ廻り」で訪れた温泉も、しばしば休業していたのを取材のために開けてくれたりしていた。
 
「それが緊急事態宣言の解除でぼちぼち開ける所が出て来てるんだよ。伊豆白浜のJ温泉が再開したというお知らせが出てた。当面は宿泊人数も浴場に入る人数も制限するらしい」
 
「だったら予約取れないのでは?」
「電話してみる」
 
それでケイナが電話してみると、偶然にも直前にキャンセルがあったということで、予約が取れたのである。
 
「じゃ行ってこよう。1泊で」
「まあいいけどね」
 

それで6月1日(月)の午後、ふたりは一緒に“アクアのアクア”に乗ると、マリナが運転して伊豆白浜までやってきたのである。
 
ケイナが男装していることもあり、旅館の人はローザ+リリンとは気づかず、普通の夫婦連れと思ったようであった。
 
ここはわりと高級旅館なので(だから予約が取れた)料理は部屋まで持って来てくれる。
 
「料理美味しいね〜、ここドサ廻りでも来ていいんじゃない?」
「少しほとぼり冷めてからならね」
「まあ確かに来週来たら何か言われそう」
「あんた男じゃないの?とかね」
 
「だけど俺たち違法なことはしてないよな?」
「まあ確かに昨年秋のローズクォーツのツアーの時は女の身体だったからね」
 
以前、やむを得ず何度か女湯に入ったのは、まあ忘れることでいいかな、とマリナも思った。
 

浴室の人数制限のために、各々の客に入浴時間帯が指定されていた。夕食は18時だったのだが、お風呂は19:30-20:00という時間帯を指定されていた。
 
それで食事が済んで少し一息してから「そろそろかな」と言って、お風呂に行くことにする。一緒にお風呂セットを持ち大浴場に向かう。
 
男女別れる所でケイナは
「じゃまた後で」
と言った。マリナは「あっ」と思った、
 
「そちら(男湯)に入るの?」
「俺男だし」
 
「ドサ廻りの取材では女湯に入っていたのに」
「仕事だし貸し切りだったし。でもこれからはプライベートではこちらに入るよ。だって、俺チンコあるんだぞ。いいだろぉ。お前にはチンコ無いもんな」
 
とケイナは得意そうに言って、マリナに手を振ると男湯と書かれた暖簾の方に向かった。
 
なんか小学生が「俺ドラクエ買ったんだぞ。いいだろぉ」みたいな感じだ。
 
マリナは急に寂しい思いがした。ローザ+リリンを結成してから12年、いつもケイナと一緒に行動してきた。お風呂については実際には一緒に男湯に入ったことの方がずっと多い。昨年秋に定山渓で唐突に2人とも女になってしまった後は一緒に女湯に入っていた。
 
いづれにしてもマリナはケイナといつも一緒にお風呂に入っていた。
 
でも今日、ケイナは男湯に入り、マリナは女湯に入らなければならない。
 
「性別が違うんだから仕方ないよね」
と自分に言い聞かせたものの、初めてケイナと自分の間に溝を感じた。
 
「男と女って、その間に物凄く大きな溝がある気がする」
 
そんなことを考えながら、マリナは首を振ると、女湯と書かれた暖簾の方に向かった。
 

マリナは脱衣場で服を脱いで裸になると、タオルとシャンプーセットを持ち、浴室に入った。人数制限されているので、中に居るのは6人くらいである。本来はここは定員20-30人の浴室のようで、洗い場も15個ある。
 
マリナは洗い場で軽く身体全体にシャワーをかけると、髪を洗い、顔と胸を洗い、腕を洗い、お腹そしてお股を洗う。お股を洗っていて再度自分が女であることを意識する。ここに男性器が付いていた頃のことを実はマリナは忘れかけていた。凄く遠い昔のことのようだ。足を洗い、足の指先は手の指で指圧するかのように洗った。
 
再度身体全体にシャワーを掛けてからタオルとシャンプーセットを持って浴槽まで行き、浴槽の縁にそれを置いて、マリナは湯船に浸かった。
 
近くでビクッとした人の気配がある。
 
見るとアクアである!
 
「あれ、アクアちゃんか」
「マリナさんですか。びっくりしたぁ。マリさんが来たかと思って逃げなきゃと思った」
 
「あはは。マリちゃんが女湯に居るアクアを見たら、大喜びだろうね」
「ツイッターにアクアは女の子になってたと書かれそうです」
「あの子は言っていいことと、いけないことの区別がつかないから」
「マリナさん、ボクが女湯にいたこと言わないでもらえます?」
 
「去年秋に会ったのは言っちゃったけど」
「そういえばそうでした!」
「でも女湯に居るアクアなんて今更じゃん」
「そんな気はしますけどねー」
 
マリナはアクアと会話しながら、彼女(彼?)の身体を観察していた。身体付きは完璧に女の子の身体付きである。これなら女湯に居ても誰も不審に思わないし、むしろ男湯に入ろうとしたら、追い出されるだろうなと思う。
 
バストはBカップサイズより、少しあるけど、きっとブレストフォームによる偽装なのだろう。水中なのでやや見えにくいが、お股には何も無いように見える。でもタックによる偽装なのだろう。この子はそもそもアセクシュアルっぼいから、女性の裸を見ても何も感じないだろう。だから女湯に居てもあまり問題無いとマリナは思った。
 
厳密には違法だけどね!
 

マリナはアクアと結局10分くらい話していたが、女将さんが回ってきて、あと10分で交替になります、と告げたので一緒にあがることにした。アクアのフルヌードを見ることになるが、腰のラインも完全に女の子だし、この子を男と思えという方が無理だとマリナは思った。
 

一方、男湯に入ったケイナは服を脱ぐと、お股に男性の印がぶら下がっているのを見て、内心「男に戻れて本当に良かった」と思いながら、浴室に入る。それで洗い場で身体を洗うが、お股に付いているものを洗う時にも、男である喜びを感じていた。やはり男はいいよ。女の身体になってた時は最悪だった。なんでマリナは女として生きることを選んだんだろうな。男の方が絶対いいのに、などと思っている。
 
それでまあ適当に身体全体を洗ってから、浴槽に入る。
 
その時、近くでビクッとする人があった。
 
見るとアクアである。
 
「あれ、アクアちゃんか」
「ケイナさんですか。びっくりしたぁ。ケイさんが何で男湯に入ってくるんだと思った」
 
「ケイは自身、男湯に入ったこと無いって言ってたね」
「あの人、幼稚園頃に性転換したんですか?」
「小学5年生の時にビキニの水着を着ていた写真があるから、少なくともその前には性転換していたんだと思うよ」
 
「凄いなあ」
「アクアも高校卒業前に性転換すればよかったのに」
「僕、女の子になるつもりはないですよー」
「隠さなくてもいいのに。だいたいよく男湯に入れたね」
「つまみ出されそうになりましたが、ちんちんを見せて男だと納得してもらいました」
「ああ、ちんちんはいいね」
 
「でもケイナさん、性転換したわけじゃなかったんですね」
「こないだは女湯で出会ったね」
「済みません。僕が男湯・女湯のどちらにいたかってあまり言わないでもらえます?」
「名古屋で女湯にいたことは言っちゃったけど」
「そういえばそうでした!」
「でもアクアが女湯に入るなんて普通すぎて誰も問題にしないよ」
「そうですかねー」
 

ケイナはアクアと会話しながら、彼の身体を観察していた。名古屋の温泉で会った時はBカップ程度のバストがあり、女体偽装していたのだろうが、今見ると胸はふつうに男のように平らだし、股間にはちゃんと男のシンボルが付いてる。小さいけど!まあこんなに小さいのではまだ声変わりが来るまで2年くらいかかるかもという気がした。
 
それまでは§§ミュージックは大きなセールスを上げ続けるだろう。
 
“アフター・ボイスチェンジ”の§§ミュージックがどうなるのかは、誰にも予想がつかない。大きく売上が落ちることだけは確実だ。アクアの売上が半分を占めているTKRも多分無事では済まないだろう。
 
そんなことを考えると、この子には去勢してもらった方がいいのではという気さえしてくる。
 
もっとも既に去勢済みでは?という疑惑もあるけどね。さすがに水面の上から見るだけでは睾丸があるかどうかまでは分からない。触ってみる訳にもいかないし。
 

そういう訳で、男湯に入ったケイナも、女湯に入ったマリナも、それぞれアクアと遭遇したのだが、そのことはアクアからあまり言わないでと言われたこともあり、お互いにも話さなかった。
 
しかしケイナは久しぶりに男湯に入れてとても満足だった。
 
その夜は妊娠6ヶ月のマリナに負担が掛からないように、横向きの体位で結合した。ケイナは普段より自分の男性器が元気が良い気がした。たぶん半日ほどタックを解除していたからかなという気もした。
 
ふたりは翌日のお昼近くに精算して旅館を出、ふたたびマリナの運転する“アクアのアクア”で東京に戻った。
 
この後、ケイナは仕事に出る時は女装だが、帰宅すると男装にしていた。男装中のケイナは凄く男らしくてこれまでにない魅力があるような気はした。しかしマリナは少し寂しい思いでそんなケイナを見ていた。
 

その日、本家の方のマリはひとりで“アクアのアクア”を運転し、板橋区のS3丁目駅まで来た。
 
実は以前電車に乗ってたら“いつの間にか”この駅まで来ていて(恵比寿駅から東京駅に行こうとしてなぜ三田線のS3丁目駅に辿り着くのかは不思議である)、取り敢えず降りてみたが、駅そばにパン屋さんがあったので買ってみたら凄く美味しかったのである。そこでそのパン屋さんのファンになり、何度か買いに来ていたのだが、今コロナ禍の中で電車使用禁止を町添社長直々に言われているので、車で買いにきたのである。方向音痴のマリが無事こんな所まで来られるのは、この車に搭載されている最新のオンライン・ナビのおかげだ。
 
「あ、無くなってる!」
 
そこに3月に来た時はあったパン屋さんが無くなっているのである。ドアは閉じられ、ガラス戸に書かれていたパン屋さんの名前は消され、看板も撤去されていた。
 
マリは通りがかりのおばちゃんに尋ねてみた。
 
「ここのパン屋さん無くなったんですか」
「ああ、そうなのよ。美味しかったのにね。コロナのせいで、お客さんが減ってやっていけなくなったらしいよ」
 
「そんなあ」
とマリは声を挙げた。
 
「もしかして遠くから来たの?」
とおばちゃんはマリが車のそばに立っているので、この車で来たのかと思ったようである。
 
「えっと恵比寿から来たんですが」
「結構遠くから来てるね!ここからは少し落ちるかも知れないけど、わりと美味しいパン屋さんがそこの通りを少し行った所にもあるよ」
 
マリは興味を持った。が行き着く自信が無い。
 
「あのぉ、すみません。もし良かったらそこまで同乗して案内してもらえませんか?」
「だったら私が運転してあげるよ」
「すみません!」
 
それでそのおばちゃんが“アクアのアクア”を運転してくれて、ほんの1分程度でそのパン屋さんまで辿り着けたのである。途中結構複雑に曲がったので、これ自分ひとりでは無理だったと思った。
 
「ありがとうございました!」
「お互い様、お互い様。でもこの車可愛いね!」
「でしょ。私アクアのファンだから発売されてすぐ買ったんですよ」
「私もアクアのファン」
「だったらエア握手」
「うん。エア握手」
と言って、おばちゃんはマリとエア握手して降りていった。
 

それでマリはその木村パンというお店でパンを買ったが、そのビルの店舗一覧を何気なく見ていたら、4階に“サワークリーム食パン”という名前があることに気づいた。
 
「あれ?上の階にもパン屋さんがあるのかな」
 
それでマリはパンの包みをいったん車の中に入れドアをロックした上で、ビルの中に入り、エレベータに乗って4階まであがってみた。
 
“サワークリーム食パン”という白い真新しい文字が書かれたドアがある。マリはそのドアを開けて「ごめんください」と言った。
 
中にいた女性が驚いたような顔でこちらを見ている。
 
「マリちゃん、おはようございます。こちらへは何か?」
と言っているのはマリナである。
 
「あれ〜。マリナちゃんだ。おはよーございまーす」
と言ってマリは室内を見渡す。
 
「あれ?ここパン屋さんじゃないの?」
とマリは言った。
 

「やはりそういう間違いをする人が出るな」
と言ったのは、マリナに少し顔立ちの似た、でも少し背の低い女性である。
 
「あ、マリさん、こちら、うちの姉の歩(あゆみ)です」
「歩です。お世話になります」
「マリです。お世話になりまーす」
 
「あ、祝賀会の時に、マリナちゃんの戸籍をカメラに映した人だ」
「あれ、さすがに叱られました」
と歩は言っている。
 
「結局ここは?」
「うちの事務所ですよ」
「ローザ+リリンの事務所って、たしかザマーミロ・トッパンとかいう名前だったのでは?」
「ザマーミロ鉄板だったのですが、鉄板焼き屋さんと間違えるという意見があったので、サワークリーム食パンに改名しました」
 
「なんでパンを売ってないのよ!」
「すみません。パン屋さんはしてないもので」
 
「まあそれでパン屋さんと間違われるようですね」
と歩が言うと
 
「そうだ。だったらパン屋さんも営業しようよ」
などとマリは言っている。
 

板付社長は外出していたのだが、社長の奥さん(常務)がコーヒーを入れてくれたので3人は応接セットで話をした。
 
「マリちゃんはこの付近で何かお仕事?」
「それがさあ」
 
と言って、マリはS3丁目駅そばにあったパン屋さんが好きだったので買いにきたら無くなっていて、通りがかりのおばちゃんに、近くに別のパン屋さんもありますよと言われてこのビルの1階のパン屋さんを教えてもらったのだと言う。
 
「ちょっと試食させてもらったら美味しかった。個人的には駅前にあったパン屋さんより好きかも。わりと気に入ったから、ここまた来ようかな」
 
「この1階のパン屋さんも今月いっぱいで閉めるんですが」
「嘘。なんで?」
 
「ご主人が年で朝早く起きるのが辛いんだそうです」
「そんなあ。せっかく好きになったのに」
「残念でしたね」
 
そんなことを言っていたらマリは言った。
 
「ねえねえ、この会社、せっかくパン屋さんみたいな名前なんだから、パン屋さん営業しない?」
「そういう意見はありましたが、開業資金も無いし、スタッフもいないので」
 
「開業資金なら私が出してあげるよ」
とマリは言う。
 
マリナと歩は顔を見合わせた。
 
「でも場所は?」
「S3丁目駅そばのパン屋さんがあった物件を買ってさ、ここの1階のパン屋さんの施設も買い取って、そこでパンを焼いて、駅前で売る。この場所じゃお客さんの数が限られるけど、駅前なら売れると思う」
 
「うーん。お金さえあればできる気がする」
とマリナ。
 
「確かに駅前はパン屋をするには最高のロケーションだよね。コロナの影響でこれまで外食してた人たちがお惣菜とかパンとか買って帰るもん」
と歩は言っている。
 
「だからその資金を出すよ」
とマリ。
 

「それ実行するなら、ビジネス的なことに慣れている人にさせないとダメよ」
と常務が出て来て言った。
 
「同感です。マリちゃんがやったら、絶対欺されて、お金だけ取られるよ」
とマリナも言う。
 
「こちらの事務所の常務さんでしたっけ?それ頼めません?手数料も払います」
「じゃちょっと社長と相談してみる」
 
ここでマリがビルの前に車を駐めっぱなしにしていると聞いて、慌てて歩が下に降りていくと、ちょうど駐車監視員の人が調べている所だった。
 
「済みません。すぐ動かします!」
と言って歩は運転席に飛び込むと、近くの時間貸し駐車場にアクアを移動した。
 

しかしこのパン屋さんを作っちゃうという件は進められることになったのである。
 
駅そばの店舗(3坪)は鉄道会社関係の不動産屋さんの所有で分譲はしないということだったが、月額5万円で貸すということだったので借りることにした。またサワークリーム食パンのあるビル1階のパン屋さんは、御主人と交渉した結果、パン製造の設備一式を300万円で売ってもらえることになった。ここも賃貸物件だったのだが、不動産屋さんとの話し合いで7月からマリがここの借主となることで不動産屋さんは同意してくれた。マリはこの2つの店舗を運営するための会社“マリ・ベーカリー”を取り敢えず資本金1000万円で設立することにした(設立作業はケイの婚約者・木原弁護士がしてくれた)。保健所の審査その他は、若葉に頼んだら、専門家を派遣してくれて、無事検査が通るようにしてくれた(衛生に関わる一部の設備を交換した)。
 
そういう訳で1階のパン屋さんには木村パンあらため“サワークリーム食パン”の看板が出来て、S3丁目駅のそばにも同様の看板ができて、本店でパンを焼き、駅前店でもそれを売るという方式が確立したのである。
 
肝心のパンの職人だが、本当に板付社長のお孫さんが、ここに“店長”の肩書きで入り(社長はマリ)、元のパン屋さん(木村パン)の奥さん(御主人よりは7歳若い74歳)が、彼女にパン焼きを指導してくれることになった。更には自家製酵母も譲って頂けることになった。
 
「いや、50年ほど育てて来た酵母を死なせてしまうのが忍びない思いだったから、受け継いでくれる人が出て私は嬉しい」
 
と奥さんは言っていた。それで、元のパン屋さんの味が受け継がれることになったのであった。
 
「採算とか何も考えなくていいから。美味しいパンを作ることだけを考えてね」
とマリは言った。
 
「ありがとうございます。私もまだパン屋さんに勤めて2年だけど頑張ります」
と板付社長のお孫さん・月隈愛は言った。しばらくは彼女の母・月隈好奈(板付社長夫妻の長女)も手伝ってくれることになった。
 
また若葉が、エヴォンの元チーフメイドでお菓子作りのうまい白崎秋菜という女性を紹介してくれたので、彼女を副店長に任命して手伝ってもらうことにした。それ以外に製造補助兼販売員としてパートを2〜3名雇う(木村パンは御主人と奥さんの2人だけでやっていた)。パンの個包装は自動包装機を導入した。包装には単価は高いもののバイオマス・ポリエチレンを使用している。(製造日表示などとともに、その旨をプリントしている)
 

駅前店の売り子は、この事務所のタレントで、スカイロードkomatsuのそっくりさんだけど女!というkomatta(本名:滝沢小鞠−たきさわ・おまり)が「私パン屋さんやりたい!」と志願したので、彼女(彼?)に駅前店の店長をしてもらい、他にパートの女子を数人雇うことにした。komattaはこれまで毎月のギャラ3-5万円!だったのがパン屋さんの店長になったおかげで毎月30万円の給料をもらえるようになり「給料の桁を数え間違った!」と叫んでいた。
 
もっともパートの女子大生は店長をふつうに男だと思っていたようであった!
 
本人はFTMでもビアンでもない(本人の主張)ものの、長年契約に従って、24時間365日、男として暮らしているので“今更女子トイレとか入れん”ということらしい。そして komatsu のそっくりさんだけあって美男子である。
 
(本当に駅の男子トイレを使っていた−女子トイレに入るのは痴漢でもしている気分になるとか−過去に通報されたこともあるらしい!)
 

「ところでうちの会社の社員名が紛らわしい」
と言ったのは、本店副店長の秋菜である。
 
「社長がマリさん、副社長がマリナさん、本店店長はマナさん、副店長の私がアキナ、駅前店店長はオマリさん」
 
「確かに似たような名前が並んでるね」
と34%出資して副社長になったマリナは笑っていた。
 
マリが100%出資した会社なんて半年で潰れると言われ、マリナはあまりに多忙すぎるケイに頼まれてお目付役として第2株主になった。特別決議を否決できる34%の株主になったのも、マリの暴走を止めるためである。
 
なお株式会社マリ・ベーカリーの社員はこの5人だけである。但しマリとマリナの月給は当面の間1万円!である(他の3人は当面30万円)。
 

そういう訳で、サワークリーム食パンは本当にパン屋さんになってしまったのであった。もっとも、パン屋さんのほうの「サワークリーム食パン」は株式会社マリ・ベーカリーの運営なので、実は芸能事務所のサワークリーム食パンとは無関係!だが、まるで1階パン屋さんの事務所が4階にあるかのように見える。一応パン屋さんの経理も板付社長の奥さんがまとめてしてくれる(手数料を払う)。
 
このパン屋さんの方は、愛の若いセンスで売れ筋のパンを作ったこと、これまでどちらも10-18時の営業だったのを、本店は18時で閉めるものの、駅前店はお昼時と通勤・夕飯時間に合わせ 11-13, 16-20時という営業時間に設定したら、おりからのテイクアウトブームもあって物凄く売れた。
 
更には駅前店について閉めている時間帯(6-11, 13-16, 20-)も店舗前に設置した“パン自動販売機”(PayPay, EDY, SUICA, PASMO対応)にパンを並べるようにしたら、この自販機が物凄い回転率になった。特に朝の通勤時間帯は凄く売れた。リフト機能付きで腰を曲げたり又はかがめたりしなくても取り出せるタイプである。これはスカートを穿いていて腰をかがめにくい女性に好評だった。
 
「この自販機のパンはまだ温かくて、ほとんど焼きたて」
という口コミが広がり、物珍しさもあって、わざわざ休店時間帯に自販機狙いで来る人まで出た。(6-20時の間で30分単位で補充。実際には21時頃まで買える)
 
なお、駅前店への配送・自販機補充は、専任のスタッフ(男子大学生)を2名(午前担当と午後担当)雇っている。
 
それでわずか半年で採算ベースに乗り、本店長・本店副店長・駅前店長の給料は50万円に改訂された(社長・副社長の給料は1万円のまま!)し、スタッフも増員することになった。また(そんな広告などは出していないのだが)マリちゃんがパン屋さんを始めたと聞いて買いに来る人もあった。
 
「駅前店の店長さん、すっごい美形だよ」
「ちょっとスカイロードのkatahiraに似てるよね」
などという噂も立ち、その店長を見るのにやってくる女子大生などもいたとか。
 
もっとも本人はkatahiraではなくkomatsuのそっくりさんで売っていたのだが!ちなみに、店長がまさか女だと思う人など1人もいなかった!!
 

女装義務が解除されて以来、ケイナはオフの時間には頻繁に男装で出歩くようになり、何だか楽しそうに見えた。マリナは妊娠の月数が進んできたので、お仕事の時以外はできるだけ出歩かないようにし、身体を休めているように言われている。また、リモートの仕事が多いが、リモートの仕事は三鷹のマンション内に設置した防音室に中継用機材を持ち込んでもらったので、そこから参加し、一切外に出ずにお仕事ができるようになっていた。
 
しかしずっと1日中自宅にいるとつまらない!
 
妊娠って大変なんだなあ、とマリナはあらためて思った。大阪の友人・渚はもう臨月に入っている。それでローザ+リリンのスケジュール管理についても出産までは東京の愛華が代行することにしている(但しこの子はわりとうっかりなので美咲さんにもお願いして、しっかり者の渚が復帰するまでダブルブッキングに気をつけておいてもらうようにした)。
 
なお買物については“付き人”のデンデン・クラウドに週2回やってもらっている。彼にはついでに愛華の買物までしてもらっている(やはり週2回)。
 

その日ケイナは午後の時間はオフだったので、マリナを自宅に置き、ひとりで吉祥寺まで行った。もちろん男装である。タックも解除しているのでお股が何だか開放的な気がする(ぶらぶらするのが変な気分)。
 
吉祥寺に行くならと、マリナから頼まれたものを、愛華の自宅にデリバリー(愛華の夫にはケイナと認識されずマネージャーか何かと思われた気がした)した後でPARCOに行く。洋服でも買おうかと思い、レディスファッションのコーナーで物色していたのだが、途中で
 
「あ、俺男だった。だから男物の服を着ていいんだ」
と思い、メンズファッションのお店に移動する。
 

なんかよく分からない!
 
10年以上、男物なんて買っていなかったから、最近のトレンドとかがさっぱり分からないのである。女物の流れのようなものなら分かるのだが。
 
適当にジャケットとズボンを買う。お会計の時
「贈り物ですか?」
と訊かれた。
 
へ?なんでそう思う?と思ったが、自分が着ると言うのが何か恥ずかしい気がして、つい
 
「はい」
と言ったら、包みにリボンを掛けてくれた。
 

俺、こういう格好してても、ひょっとして女に見えたりする?などと悩みながらお店を出て少し歩いていた時、ケイナは“あれ”のポジションが気になった。
 
それでお店とお店の間の少し通路のある所に入る。向こう側は事務スペースになっているようだ。他人の目がないので、ケイナは“あれ”のポジションを手で直した。
 
その時、ふと向こうに誰かがいる気配がしたので、そちらを見た。30代の女がいる。
 
キャー、こんなことしてる所見られたら、変態か何かと思われるのではと思い、慌ててあの付近から手を離す。
 
そして2秒後。
 
ケイナは気づいてしまったのである。
 
この通路の奥は鏡面になっている。そしてそこに映った“30代の女”と思ったのは自分自身の姿であったことに。
 

早百合が4〜5月に勤めたバス会社について、新聞やテレビは事実上倒産したという報道をしていた。支払われなかった5月分の給与については、労組が経営陣と交渉していたものの、原資が全く無いということで支給のメドは立たないようであった。どうも会社のビルや土地、バス車両などについても全て借金の担保になっていて、どうにもならないようである。会社はかなり酷い債務超過の状態だったようだ。連鎖倒産も出そうな感じである。
 
早百合はさすがに疲れた気がして、少し精神的に休んでから次の仕事を探そうと思った。幸いにも学生時代の貯金があるし、ファミレスを辞めた時にたくさん退職金をもらっているので、多少の期間は無職でも何とかやっていける。
 
春に買ったパッソに乗り、別府の鉄輪(かんなわ)温泉まで往復して来たら、わりと気が晴れた。向こうには1泊したが、宿泊者数を制限して本来の半分の定員で運用しているようだったし、お風呂に入る時間も指定されていて、どうも入浴者数も人数制限をしているようだった。
 
四輪なので、実は車中泊が可能である。実際早百合は行く時は由布岳PAで、帰りは大刀洗PAで車中泊し、6/01-04の、4日がかりの、のんびりとした旅となった。
 

早百合はコンビニのバイト募集に応募してみようかと思い、募集広告の掲示されていた、博多区内のコンビニに行ってみることにした。なぜ博多区かというと、まだ6月いっぱいまで残っている定期券が使えるから!というのが理由だった。
 
それで6月8日(月)、地下鉄を博多駅で降りて、そのコンビニまで歩いて行く。
 
わりと歩く!
 
雨の日は大変そうだなという気はする。
 
そして中に入ろうとした所で、中から出て来た男性とぶつかりそうになる。
 
「ごめんなさい」
「すみません」
 
と言ってからお互い顔を見て驚く。
 
「芳野さん!」
「高橋君!」
 
それは3月まで勤めていたファミレスの後輩、高橋慶生だった。
 
「久しぶりですね。お仕事先、この辺でしたっけ?」
「いやあ、それが色々あって」
と早百合がどう説明すればいいのか分からずに悩むような顔をすると
 
「良かったら少し話しません?」
と彼が言うので、早百合はお店に入るのをやめて、コンビニの駐車場で!少し立ち話をした。
 
今のご時世、換気問題を考えると屋外で話すのが良い。むろん2人ともマスクをつけている。
 

「いやさ、3月31日でお店を辞めて、4月1日に入社予定の会社に行ってみたら、そこ倒産していたのよ」
 
「ありゃ」
 
「それでハローワークに行ったら、**観光を紹介されてさ」
「ありゃあ」
 
「先月の給料が出なくて、翌日にはもう福岡支店のビルは中に入れないようになってて。私物置いてた人が困ってた」
 
「それは困りますね!」
 
「まあそれで、無職になっちゃったから、コンビニのバイトにでも応募しようかなと思ってきてみたんだけどね」
と早百合が言うと、高橋君は言った。
 
「芳野さん、うちに復帰しません?」
「え〜〜〜!?」
 
「コロナの影響で大学が休みになって、実家に帰る学生が相次いで」
「移動するなと政府とかは言ってたのに」
「ね?」
と彼も言う。
 
「あと、子供が家に居るから、母親が出勤できなくて」
「ああ」
 
「それで大量に人がやめて、今どこの店もスタッフが全然足りないんですよ」
「なるほどー」
 
「ね、ちょっとうちに来てみません?芳野さんみたいな経験者は好待遇で歓迎ですよ」
 
「でもたくさん退職金もらったのに」
「それはこれまでの功績に対する報酬ですもん。復帰しても返せなんて言われませんから」
「返せと言われたら困る」
 

それで高橋君が強く勧めるので、早百合は彼と一緒に地下鉄で3月まで勤めていたロイヤルホストのM店まで行ったのである。店長の有木さんは嬉しそうな顔で
 
「いらっしゃい」
 
と言い、事情を聞くと
 
「今からでも即復帰して欲しい」
と言った。
 
「今からですか!?」
「明日からでもいいけど」
 
そして有木さんは言った。
 
「実はどこの店も人手が足りなくてさ。僕は7月からはS店の店長に異動することになってる。店長・夜間店長クラスでも退職者が多くて、閉鎖した店舗もあるけど、それより退職者が多いから人事部も頭を痛めている」
 
「あぁ」
 
「それで後任のM店の店長を誰か推薦してくれと言われて、君の後任で副店長になった島野君や、夜間店長の佐鳥君をはじめ、何人かに声を掛けてみたんだけど、みんなから断られてさ」
 
「ああ。店長なんて激務だもん」
 
「だから、芳野さん、復帰して7月からここの店長してくれない?」
 
「ちょっと待って下さい。そうだ、この高橋君は?」
と早百合は焦って言う。
 
「こんなドジに店長なんてやらせられん」
と有木店長。
 
「ああ。それは言えてますけど、無茶苦茶言われてますね」
と早百合は笑って言った。
 
「おやじ、全く遠慮が無いんだから」
と高橋君も笑っている。
 

早百合は彼のことばに疑問を感じた。
 
「おやじ?」
 
「あれ?知らなかったっけ?店長は僕のお父さんだよ」
「嘘!?苗字が違うのに」
 
「いやあ、それが僕があまりにも忙しくて家庭を顧みなかったもんで、女房に離婚されちゃってさ」
「え?」
「だから、こいつは女房の元の苗字を名乗ってるんだよ」
 
「え〜〜〜!?そうだったんですか」
 
「本当は芳野さんみたいなしっかりした女性に、こいつと結婚してもらえたら、こいつも何とかなるかと思っていたんだけどね」
と有木店長。
 
「待ってください。店長自身が、私を“僕の嫁さんにしたかった”とか言ってたのに」
 
「うん。“嫁さん”という言葉は、時々誤用してる人がいるけど、息子の妻のことだからね。だから、僕は最初から、こんなしっかりした人が、こいつの奥さんになってくれないかなあ、と思ってたんだよ」
 
「ちょっと待って下さい」
 
「僕は芳野さんこと好きですよ」
などと高橋君は言っている。
 
「店長じゃなければ、こいつと結婚してもらってもいいけど」
 
待てぇ!!!
 

「あのぉ、今まで言ってなかったけど、私、実は元は男で性別を変更しているんですけど」
と早百合はとっておきの秘密を告白した。
 
ところが有木店長は
「知ってたけど気にしないよ。君は間違い無く女性だよ」
と言うし、高橋君も
 
「僕も過去のこととか全然気にしません。芳野さんは素敵な女性だもん。もしそれで子供ができなかったとしても僕は構いませんよ」
と言った。
 
そういう訳で早百合の“最終防波堤”はあっけなく崩れたのであった。
 

それで早百合は言ったのである。
 
「結婚のお話は辞退させて頂きたいですが、店長はやってもいいです」
「助かる!」
 
それで早百合は翌日6月9日(火)からこのお店に“店長代理”として復帰し、7月以降はここの店長になることになったのであった。
 
副店長を務めていた島野さんや夜間店長の佐鳥さんも
 
「芳野さんが戻ってきてくれるなら安心!」
と喜んでいた。
 
でも結局、定期券代、1ヶ月分損した!
 

それを言っていたら、高橋君が言った。
 
「僕の通勤定期、実は今週いっぱいで切れるんですけど、その芳野さんの定期使わせてもらったらダメかなあ」
 
彼の自宅は堅粕らしい。それであそこのコンビニで遭遇したのである。あれはちょうど出勤途中だったらしい。
 
「22歳女って書いてあるけど?」
「5歳くらい違ってもバレませんよ」
「自動改札通る時に、女性を示す赤いランプが点くけど」
「女装して通勤しようかな」
「だったら、女性クルーの制服着て勤務してね」
 
彼は身長が165cmくらいなので、女の服を着せたら、ひょっとすると女に見えるかも知れない。わりと優しい顔立ちでもあるし、男性にしては、わりと撫で肩である。彼は腕力も無いし(早百合でも持てた20kgの段ボールを彼は持てなかった)、きっと男性ホルモンが弱いのだろう。
 
まあ捕まらないようにしてね、と言って早百合は彼に定期券を渡した。
 
そして翌週、性別曖昧な感じの服装(ライトイエローの女物ポロシャツに水色のスリムジーンズ。眉を細く削り、喉仏が目立たないようスカーフまで巻いていた)で出勤してきた彼に、早百合は女性クルーの制服(もちろん下はスカート)のLLを渡したのであった!
 
「これ本当に着ないといけないですか?」
「もちろん」
と言うと、彼はマジで悩んでいた!
 

「アクアさんは、男子制服・女子制服作って、Mさんが男子制服、Fさんが女子制服で通学していたらしいけど、僕たちはふたりとも女子制服だね」
 
と言って、西湖Mと西湖F(聖子)は、お揃いのS学園女子制服を着て並び、和城理紗(千里の眷属で§§ミュージック社員)に記念写真を撮ってもらった。
 
「まあ女子高には男子制服は無いから」
「今考えたら最初の3ヶ月くらい、よく男の身体のまま女子校に通ってたよね」
「あれはバレなかったのが奇跡だと思う」
 
西湖は1月に2人に分裂し、片方が男、片方が女だったので、男の西湖は1年半ぶりに男性器が復活したのだが、彼はその男性器をいつもタックしているし、ブレストフォームも着けている。お仕事では“女優”あるいは“女性アイドル”として扱われているので、女体偽装しておく必要があるからであるが、女子高に通学している西湖Fのようにクラスメイトの女子生徒たちと“濃厚接触”したりすることはないので何とかバレずに済んでいる。
 
でも結局、Mちゃん、オナニーとかしてないみたいねとFは思っていた。タックした状態ではオナニーのしようがないが、それで西湖は小学6年の時以来、もう6年間オナニーをしていない(精液の採取をした時だけ)。既に男性として不能になってないか?とFは疑っている。
 
体型も高校1年の春までは中性的だったが、秋以降女の身体になってから、随分女性的な体型に変化してきた。骨盤なども発達してきているのを自分で認識している。1月に分裂した時は、2人ともそのボディラインを引き継いでいるので、西湖Mの体型は今既に女性的になっている。でも本人は男として生きて行くにしても別に男らしくなりたい気持ちはないから女性的な体型で構わないと言っている。
 
「おっぱいくらい、あってもいいよね?」
「それは悩むなあ」
「ちんちんくらい、無くてもいいよね?」
「それは無いと困る」
「使ってないくせに」
 
西湖はもう6年間、立っておしっこしていないので、いざタックを外して立ってしようとしても、おしっこの出し方が分からないかもとFは想像する。
 

ちなみにMも服は女物しか着ないし、そもそもこのアパートには男物の服が存在しない。ドラマでアクアMのボディダブルをする時は男物の衣装を着るが、それはあくまで衣装に過ぎないし、それを着る場合も下着は女物のままである(下着の線が透けて見えるのは構わないと言われている−アクアが男物の下着を着けるなんて許せないというファンが多いらしい)。
 
「でもようやく学校が再開されるね」
と和城理紗は言った。
 
「ええ。長かったですね。でも当面は週に3日の登校なんですよ」
 
生徒を出席番号で奇数・偶数に分け、月水金に登校する組と火木土に登校する組に分割した。ただし芸能人の子は、土曜日が忙しいので全員月水金の組に入れられ、そのあおりで一部の一般の生徒で奇数番号なのだけど、火木土の組に入れられた子もある。
 
休みになる日は動画サイトに掲載される授業の動画を見て勉強し、レポートを書かなければならない。これがかえって毎日登校しているより大変だ。
 
西湖は、これって2人いなきゃ無理だったよなと思っていた。
 
3月中旬から仕事が減っていたのが、番組の収録が再開されて仕事がまた増え始める傾向にある。これからまた忙しくなるかな、と西湖は思っていた。
 
なおアクアのボディダブルやリハーサル役は2月までは、葉月(西湖)、姫路スピカ、佐藤ゆかの3人で分担していたのだが、3月中旬以降は仕事量が減ったので、スピカが抜けて、葉月・ゆかの2人だけで回していた。しかし6月以降また仕事が増えそうということで、(スピカも忙しくなってきたので)南田容子が加わることになっている。ちなみに南田容子は、スピカとわりと雰囲気が似ており、ケイさんが一度間違えたこともある。
 
また最近花ちゃん(山下ルンバ 8月で22歳)の仕事量が増えてきているので、リハーサル役として、信濃町ミューズ最年長の悠木恵美(今年20歳)が起用されることになった。
 
花ちゃんはCDとかをあまり出していないので、売上としては、高崎ひろか・品川ありさより少ないものの、忙しさでは、あけぼのテレビの帯番組を担当することになったこともあり、アクアさんに次ぐ忙しさかも。それに花ちゃんって、§§ミュージックのタレントさん全員のお姉さんみたいな感じでみんなが頼りにしてるし、と西湖は思った。
 
(アクアと高崎ひろかが選出された第1回ロックギャルコンテストに上位入賞して研修生になったので、実は§§ミュージックの最古参)
 

その日、マリナとケイナは午前中新宿のスタジオでローズクォーツの音源制作をした後、午後1番にテレビの情報番組に自宅からリモート出演した。この日は仕事はこれで終わりなので、この後はオフになる。
 
「ちょっと出かけてきていい?」
とケイナが言うので
 
「お土産はミスドがいいな」
とマリナは言った。
 
「OKOK。何か適当に買ってくるね」
「うん」
 
それでケイナは出かける準備をするのだが、女物の服を着ている!ローラ・アシュレイのシックなドレスだ。マリナが眺めていると、ケイナはちゃんとメイクもした上で
 
「じゃね」
と言ってドレス姿で出かけて行ってしまった。
 
なぜ男装ではなく女装なのだろう?と疑問は感じたものの、ローラ・アシュレイの服を着たケイナに、マリナは親近感を覚えた。
 
 
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【春曙】(6)