【春曙】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2020-08-29
芳野早百合は2020年3月23日(月)に4年間通っていた福岡市内の国立大学を卒業することになっていたのだが、おりからのコロナの影響で卒業式は、総代のみで実施されることになり、一般の学生はライブ配信を見てくださいということになった。(青葉が卒業した金沢市内の国立大学と同じ措置)
早百合は卒業式で着ようと姉から振袖を借りていたのだが、空振りである。仲の良い女子数人と一緒に写真館で記念写真を撮ってもらい、ケーキやケンタッキー、ピザやビールを買い込んで、ひとりの子の自宅でささやかな卒業祝いをした。(全員ダウンして翌朝まで寝ていた)
早百合は、これまで4年間は、大学に比較的近い(?)所にある家賃3.5万円・1K(4.5畳+台所)のアパートに住んでいたのだが、とにかく狭いことと、そもそもここは学生さん専用ということだったので、福岡近郊・筑肥線(市営地下鉄に直通)沿い、筑前前原駅から歩いて5分の木造アパートに引っ越すことにした。卒業の翌日3月24日に、大学生協で紹介してもらった引越業者さんの手で引っ越した。安かったけど、椅子と小型テレビを壊された!(椅子は仕方ないので買い直したが、テレビはこの機会にもうやめることにして買い直さなかった:実は受信料を払ってない)
ここは前住んでいた所より広いのに家賃は3万円!でしかも無料駐車場付きである。実はアパート前面の空きスペース(建蔽率の関係で生じる)に5ナンバーに限り、1台だけ駐めてよいということだった。無料で駐車場が使えるならと思い、早百合はこの機会に車を1台買おうと思った。それで、振袖を貸してくれた仲の良い姉・羽都代に付き添ってもらい、福岡市近郊の中古車屋さんを回って、コミ30万円の赤いパッソを買った。駐車場代はかからないが、車の保険代が掛かるのは仕方ない。
家賃、車の保険、ガソリン代・光熱費・通勤の定期代!で毎月8万円くらい掛かるかなと考え、お仕事頑張らなくちゃなあと早百合は思った。定期は長期間で買った方が割安だしと思い3ヶ月定期を57,520円で買った。高ぇ!と思ったが、これは仕方ない。一応この定期代相当は会社から通勤費として出るはずである(通勤費は1ヶ月定期で計算して毎月20190円支給されるらしいので、差額1000円くらい儲かるはずである)。
ちなみにこれまではバイト先までスクーター(コミ6万円で買ったYamahaビーノ)で通っていたので、通勤費用はガソリン代だけで済んでいた(通勤費補助として毎月1000円もらっていた)。なお、早百合は高校在学中に原付免許を取り(バイク禁止だったのでペーパー・ドライバー)、高校を卒業してすぐにバイトのことを考えて普通免許を取っている。
当時は名前も男名前だし開き直って、自動車学校には男子っぽい服を着て通ったが「君、女の子っぽいとか言われない?」などと随分言われた。自動車学校では“猫をかぶって”男子っぽい写真を使用したが、運転免許センターでは“ちゃんと”女子の格好をして写真に写った。結局自動車学校に通った時が男装した最後である。早百合は大学入学以降、ずっと女装を貫いている。
大学に入ってからファミレスでバイトを始めたが、しばしばお客さんの車の駐車場入れを頼まれ、先輩から「免許持ってるならやってよ」と言われ、実地で鍛えられた(最初は凄く恐かった−実は10分掛かった!)。おかげで駐車場入れは今では大得意だし、実に様々な車の運転経験を得た。
20歳をすぎて改名し、この時は取り敢えず記載事項変更をしたのだが、単純な記載事項変更なので改名した旨が免許証の裏面に記載されただけである。これで1度トラブったので、免許証の再発行をしてもらうため、早百合は再度、自動車学校に通って、中型の免許を取った。自動車学校ではもちろん女で通した。名前も早百合だし見た目も女にしか見えないから、誰も性別を疑わなかった(生徒原簿も女になってた!)。
そして大学卒業直前になって、免許証をゴールドにすることを目的として三度(みたび)自動車学校に行き、自動二輪免許を取った。これは長年原付に乗っていたこともあり、わりとスムーズに取れた。
それで早百合はゴールド免許保持者ということで、今回買った車の保険は少しだけ安くなったようである。
1998.02.27 4:45 出生(呼子町)
2013.04 高校入学
2014.02 16歳
2014.03 原付免許取得(学校には内緒!期限2017.03)
2016.02 18歳
2016.03 普通免許取得でブルー免許(期限:2019.3)
2016.04 大学入学
2018.02.27 20歳
2018.04 改名認可(早矢人→早百合)取り敢えず免許証は記載事項変更。
2018.08 中型免許取得。早百合名義(期限2021.03)
2020.01 性別訂正
2020.02.28 自動二輪免許取得でゴールド免許(期限2025.03)
2020.03.23 大学卒業
ファミレスは3月いっぱいで辞めることにして、3月31日(火)の勤務で終了した。早百合は夜間のシフトが多かったのだが、コロナの影響で3月以降、夜10時で営業終了になっていたので、最後の勤務は夕方16-22時になった。なんか凄い退職金をもらった。他に店長の有木さんから高そうなパーカーのボールペンを記念に頂いた。有木さんは最後まで
「さゆりちゃんを僕のお嫁さんにしたかった」
などと言っていた。
そして、2020年4月1日、早百合はしっかり朝御飯を食べてから、シャワーを浴びて汗を流した。真新しいビジネススーツ(むろんスカート・スーツ)を着て、しっかりお化粧もする。
しかし去年の夏の段階では自分がこういう格好で就職できるとは思いもよらなかったなと思う。これもお遍路のおかげだ。
スマホで時刻を確認する。しっかりマスクも着ける。
マスクは実は足りなくなって困っていたら、昨年のお遍路で一緒に阿波路を歩いた千里さんから「マスク足りてる?」という連絡があり「無くて困ってます」と言ったら「友人の会社がインドネシアから輸入した分があるから」と言って50枚入り1箱送ってきてくれたので、本当に助かった。
前原駅から電車に乗って勤務先の最寄り駅・博多まで行く。地上に上がって、会社のあるビルまで行く。3階までエレベータで上がる。会社はエレベータを降りて右手廊下を行き、左に曲がって少し行った所にある。
ドアが開いていない。
遅刻してはいけないと思い早めに出て来たので現在は8:00である。会社は9:00からだ。ちょっと早すぎたかなと思い、いったん、フロア内のトイレ(むろん女子トイレ)に行ってきてから、まだ開いていないドアの前で待っていた。
8:30になってから、50歳くらいの女性が通り掛かる。この向こうに入っているビジネス専門学校の先生かなと思った。
「あなたどこの人?」
と尋ねられた。
「はい。○○産業に今日から勤めることになっているのですが」
と早百合が答えると、女性は言った。
「○○産業は倒産したよ」
「え〜〜!?」
「コロナの影響で経営している教室が全部営業できなくなっちゃってさ。あそこは狭い教室で生徒さんたちの身体に触ってポーズを指示しながら教える方式だったから、その方法ではとても営業できなかったらしい。普通のスポーツジムとかでも休業している所多いもんね。ここは家賃の安い、ビル内の窓もない部屋が多くて換気もよくなかったし。実は生徒さんから感染者が2人で出たらしいよ」
「わぁ」
「そもそも去年の消費税アップで、こういう業種はみんなまっさきに経費カットの対象にされて生徒さんが減ってて、かなり経営が苦しくなってたみたいで、1月の給料も2月の給料も遅配になっていたらしい。実は小切手の不渡りまで出したとか。それで銀行取引停止になったまま、取り敢えず営業してたけど、3月は直営店舗が全部営業できなかったし、本社勤務の人たちにも3月分の給料が支払われなかったので、社員が全員出社しなくなって事実上倒産」
「きゃー。私どうしよう?」
しかし3ヶ月も給料出なかったら、誰も出て来なくなるだろうな。
「取り敢えず今日は帰ってゆっくり寝てさ、明日にでもハローワークに行きなよ」
「ああ、ハローワークですよね」
「求職情報サイトとか見るのもいい」
「そうですね」
「今日は帰って美味しいものでも食べて、少し落ち着いたほうがいい」
「そうします」
それで早百合は会社に出社できないまま、取り敢えず前原の自宅アパートに帰還したのであった。言われた通り、駅前のJAで牛肉とケーキを買ってきて焼き肉をしてケーキも食べたら、なんか少し気分が良くなった。
「こんなことなら3ヶ月定期なんて買うんじゃなかった」
と早百合は布団の上に下着姿で寝転がって、つぶやいた。
3月27日、青葉がその日水泳の練習のため、津幡の“火牛スポーツセンター”に行ってみると、体育館の前に見馴れない建物が建っているので
「何だ何だ?」
と思う。見ていたら、女形ズの福石侑香さんが出て来たので尋ねてみた。
「ああ、これ千里さんが建ててくださったバスケット練習場なんですよ」
「千里姉が!?」
「見てみます?」
「ええ」
それで中に入ってみると、ずらーっとドアが並んでいる。福石さんは左端のドアを開けて、青葉を中に入れてくれた。
「本当は部外者立ち入り禁止なんですが、青葉さんなら大丈夫でしょう」
「すみません」
中で5人選手が練習していたが、全員、ビニールシートで区切られた別の区画で練習している。
「内部は15個のストラップに別れています。各々は高さ4mのビニールシートで区切られています。室内は物凄く強烈な換気が掛けられていて、ストラップ間は上の方で繋がっているといっても、実際に隣のストラップと空気が混じり合う可能性は低いです。各ストラップの端に換気扇が回っていて、強烈な排気をします。実際、結構な風が吹いているでしょう?」
「ええ。わりと風がありますね」
「それで誰かがコロナに感染したとしても、ストラップで分けられた別の区域で練習していた選手に感染させる確率はとても低いんですよ」
「なるほどー」
「換気扇の向こうは目の細かいフィルターが設置されているので、ウィルスがこの練習場の外に出て行く可能性はほとんどないということでした」
「ああ、二重壁なのか」
火牛体育館自体もそういう仕組みになっている。
「各ストラップはバスケットコートの長さ28mあって、端にはゴールがあります。途中に木の板でできた人形が置いてあるので、それを敵選手に見立てて、そのガードをかいくぐってゴールまで走り、シュートするという練習をしています。ゴールはリモコンで自由に角度が変えられるので、様々な角度からのシュート練習ができます」
「結構便利ですね」
「バスケット協会からは、当面チーム練習はせずに個人練習に徹して欲しいとか、ボールの共用をやめて、結果的にはパス練習も控えて欲しいという要望が出ています」
「パス練習もしちゃいけないんですか!」
「それで人形の中には横向きの穴が開いていてネットがつけてあるのもあります」
と言って、福石さんは実際にその人形のある所まで青葉を連れて行ってくれた。
「なるほどー。これでパス練習をする訳ですか」
「これ、バスケットのイベントでやる、スキルズチャレンジで使うパスターゲットの人形と同じ仕様なんですよね」
「あ、それ見たことあります」
スキルズチャレンジというのは、レイアップシュート、パス、ドリブル、フリースロー、3Pシュートを、できるだけ早く連続して行うという競技である(掛かった秒数で競う)。むろんシュートは全てゴールに入らなければ次に進めない。パスも人形のネットにちゃんと放り込まないと先に進めない。
「でもこれいつの間に建てたんですか?数日前に来た時は無かったのに」
「3日で建ったみたい。私もびっくりしたけど、今、普通の体育館での練習は事実上禁止ですからね。みんな夜間にジョギングとか、道路でドリブルとかして身体がなまらないようにしていたみたいだけど、これができてみんな喜んでいますよ」
「これ建設許可はどうしたんだろう?」
「工事に伴う仮設建設物は、建築許可が必要ないとか、千里さん言ってましたよ」
「うーん」
と青葉は考え込んだ。
確かに工事中に建てた仮設建築物かも知れないが、これ工事に必要な建設か?
まあ、何か言われたら、法務関係の人に動いてもらおう、と青葉は思った。
青葉は2020年4月1-8日に東京で水泳の日本選手権に出る予定だったのだが、コロナの影響で、東京五輪の延期もあり、選手権そのものが中止になった。
それで青葉は4月1日は〒〒テレビに出社し、この日は午前中、コロナ関係の取材で金沢市内数ヶ所をまわった他、午後には中日新聞ニュースを読んだ。一応17時で退出させてもらい、夕方からは津幡のプライベートプールで泳いだ。
しかし青葉の高校・大学時代の友人の中には、色々大変だった子も多かったようである。
上野美津穂(富山大学心理学科)は新しく引っ越した金沢市内のアパートから、市内・X電子の本社に出勤した。美津穂は2週間の新人研修を経て、同社のカウンセリングルームで助手として勤務する予定だった。
ところが、研修前に配属予定の部署に挨拶に行こうとカウンセリングルームに行ってみると、カウンセラー室長が過労で倒れて病院に運ばれたという。もうひとりの相談員も3ヶ月前から不調で休職しているということで、美津穂は新人研修はキャンセルになり、初日からひとりでカウンセラー室を任されることになってしまった。いきなり「カウンセラー室主任・上野美津穂」という名刺を渡されてしまう。
元々こういう電子部品を作っている会社は精神に不調をきたす人が多く発生しがちな上に、コロナの影響でストレスが限界を越える人が続出しているようで、美津穂は医務室の看護師さんに手伝ってもらい、整理券を配って初日だけでも10人の社員さんの相談に乗った。相談希望者が多すぎて、予約の受付などできない状態であった。美津穂は精神的にくたくたに疲れて帰宅し、友人の世梨奈が言っていた「逃げるは恥だが役に立つ」というフレーズをリフレインしていた。
石井美由紀(G大芸術学部)は金沢市内の北陸造形というデザイン事務所に出て行ったのだが、インフルエンザ?でスタッフが大量に倒れているということで、納期の迫っているポスターを3人(専門学校出身の20歳と21歳に美由紀で他の2人は美由紀より若い)で1日で20枚も書くというハードなお仕事からスタートした。
初日は深夜3時まで掛けて何とか作業を終えたものの、まだまだ仕事がたくさんあるということで、インフル(?)で休んでいる社員が回復して出てくるまでは、随分ハードな仕事が続きそうであった。
美由紀は
「うちの母も現役からは遠ざかっていますが、高岡短大・産業造形学科(*1)の出身で、絵はうまいし、イラレもフォトショも私より熟知しているんですが、手伝いに呼んだりしたらいけません?」
と尋ねた。すると
「大歓迎!」
ということだったので、翌日からは母と一緒に出勤することになった。3人が4人になっただけで、随分“絶望感”が減った!し、母の華麗な技に歓声があがっていた。しかし母は
「こんなに仕事あるの!?」
と絶句していた。一応、母の体力を考え、22時で帰すことにした。母はバイト待遇で時給1500円でお願いしますということだった(美由紀本人より単価が高い!)。
マスクと消毒用アルコールが不足しているということだったので、青葉に頼んで少し分けてもらい、インフルに倒れなかった2人の社員さんも
「助かる!」
と感謝していた。
なお、インフル(本当に?)で倒れていた社員が復帰し始めたたのは4月中旬以降、全員揃ったのはゴールデンウィーク前で、母との親子出勤も4月いっぱいまで続くこととなった。倒れていた10人の内8人は入院していて、内6人は人工呼吸器まで付け、一時は面会謝絶で家族とも会えない状態だったということだった(本当にインフルだったのか?)。
最後に復帰した社長(42)は、頑張ってくれた4人(美由紀の母を含む)に感謝し、特別ボーナスをくれた。
(*1)高岡短大は2010年に富山大学に吸収され、富山大学芸術文化学部(通称・富大芸文:とみだい・げいぶん)となった。北陸で貴重な国立の美術系学部である。この界隈では県立だが金沢美術工芸大学(通称・美大)がいちばんレベルが高いが、富大芸文も少人数教育で結構しっかりした教育をおこなっている。
鶴野明日香(H大経営学部)は小松市発祥の全国企業(現在の本社は東京)に就職したので、入社式と新人研修は東京で行われた。研修は基礎研修を東京でおこなった後全国の支社をまわって、各地の工場で生産されている色々な製品を見た上で、6月から金沢支店に配属される予定だった。それで明日香は6月から金沢市内にアパートを借りようと思っていた。
公共交通機関が恐いので、青葉のアクアを借りて東京まで自分で運転して行き、入社式に参加した。コロナの影響で入社式は入社する社員全員にホテルの部屋が割り当てられ、各々の部屋でリモートで社長その他のお話を聞くという方式で行われた。
午前中の入社式の後、お昼を食べてから研修会場に移動しようとホテルの前で待っていたら、社長が出て来て、どこかに移動しようとしていた所で、運転手さんが倒れる現場に遭遇する。運転手さんは救急車で病院に運ばれたが、社長の車を運転する人がいない!ということで、たまたまその場に居合わせた明日香が、社長の車を運転して1日社長の行動に付き合うことになった。
そして!この日、そつなく社長の秘書代わりを務めたことから、明日香は社長に気に入られてしまい「明日からも頼む」と言われてしまった。それで明日香は新人研修は免除になり、本社の秘書室に配属されて、社長のドライバーを務めることになってしまったのである。先輩秘書さんたちの目が恐かった!が、吉永さんという30代のベテラン秘書さんが親切にしてくれたので助かった。
3日目に唐突に掛かってきた電話の相手がドイツ語で話しかけてきたのをそつなくちゃんとドイツ語で応答して、副社長秘書に転送したら、みんなが「こいつ、なかなかやるじゃん」という目で見てくれて、少し居心地がよくなった。でもその後、ドイツ語で掛かってきた電話はみんな明日香に回されるようになった!
(全国企業の秘書室だから、英語がペラペラの人は多いものの、フランス語やドイツ語ができる人は、そう多くないようである)
なお、娘が大企業の地元ブランチに就職して喜んでいた両親からはぶつぶつ言われたが、明日香としては若い内だけでも東京暮らしを経験しておくのはいいと思った。
それで、明日香は都内にアパートを借りることにし(最初の数日はホテル暮らし)、さいたま市に住む、青葉の姉・千里さんに頼んでアパートを探してもらったが、結局経堂駅の近くの1DKを借りることにした。経堂から本社のある赤坂までは小田急・千代田線で20-30分である。
実は千里さん自身が1月まで住んでいた所で「解約し忘れていた」!?という話だった。荷物も、冷蔵庫・洗濯機・電子レンジ・エアコンなどが残っており、
「人が使っていたものでもよければ使っていいよ」
ということだったので
「全然気にしません」
と言って、使わせてもらうことにした。おかげで、一人暮らしを始めるための初期費用が随分節約できた。契約は、桃香さんの名義になっていたのを礼金だけ払って、明日香の名義に書き換えてもらった(桃香さん自身は北区に住む彼女の家に入り浸りでここには住んでいなかったと千里さんは言っていた。桃香さんと千里さんの関係ってよく分からないなあと明日香は思った)。
なお、押し入れの中に古い銅鏡(?)の入った桐の箱があり、その箱だけ置かせておいてという話だった。その鏡が魔除けにもなるということだった。ここは4階の9号室なのだが、どうも住人が少ない。郵便受けを見る限りは、各階の8,9号室だけに住人がいるようである。4階も隣の408号室に20代の夫婦(多分奥さんは男の娘)が住んでいる他は他の部屋は空き部屋である。明日香は、たぶんここはあまり“人が住むには”適していない物件をたぶん青葉に言って結界を作らせ、各階の8,9号室付近だけ人が住めるようにしたのではと思った。そしてこの鏡が結界の要(かなめ)なのだろう。それでこんな便利な場所なのに家賃が安い(49000円)のだろうと思った。
但し、千里さんは2年後には出るようにと言っていた。きっと結界の期限が切れるのだろう。でも2年後にはたぶん貯金とかもできて給料もあがっているだろうから、もう少しお値段のする所に移動してもいいかなという気はした。
なお世間的に不足しているマスクは秘書室のスタッフについては、会社から充分な量が支給されたので助かった。
田中世梨奈(H大国際学科フランス文化専攻−でもフランス語ができない!)は、金沢市内に借りたアパートから、入社することになっていた市内のJ交易という会社(何の会社かは知らない)に出て行ったのだが、この会社は倒産していた(芳野早百合と同じパターン)。
友人たちにメールしていたら明日香から連絡があり、とりあえずハローワークに行ってみてはというので行ってみた。相談員さんとあれこれ話していて、結局ファミレスのスタッフに応募することにし、面接に行った。それで採用されたので、取り敢えずここでバイトしながら本格的な仕事を探さなきゃと思っていたのだが、勤め始めて1週間で、コロナの影響で店舗が閉鎖されてしまった!
再び途方に暮れていたら、青葉が声を掛けてくれた。
「世梨奈、泳げたっけ?」
「25mくらいなら」
「だったら、うちのプールの監視員しない?」
「する!」
「給料安いけど」
「気にせん、気にせん」
ということで、明日香は4月17日から津幡のアクアゾーンでプールの監視員をすることになったのである。
「ここなら実家からも通える気がする」
「アパート解約したら?」
「違約金取られない?」
「取られるだろうけど、ずっと払っていくのよりマシだと思う」
「よし、解約しよう。自炊する自信無かったし」
「ああ、御飯は大事」
それで不動産屋さんに行ってみたのだが、入社するはずだった会社が倒産して、取り敢えず働くことにしたバイト先もコロナで閉鎖されてという事情を説明すると
「今は大変ですもんね」
と言われ、結局4月通告なので、5月分の家賃まで払ってもらったら、違約金は免除しますということだったので、解約することにして実家に戻った。荷物はお父さんが軽トラを借りてきて運んでくれた。(敷金は6月頭に丸ごと戻って来たので、なんか得した気分だった)
さて、青葉の友人の中で、最もまとも?に働き始めることができたのが(男子だが)吉田邦生(よしだ・ほうせい)である。
彼はH銀行金沢支店に就職することになっており、初日は本店のある富山市内の工場跡地!で野外入社式をした後、南砺市の研修センターに移動して研修に参加する。この時、吉田は誤って女子として登録されていたことが分かり、女子制服を渡され、ついでにお化粧のレッスンまで受けたが、性別は(多分)修正してもらえたようだったので、男子行員として働き始めることができるだろうと考えた。
新人研修は4月1日(水)から7日(火)まで行われた(土日は休み)。それで8日には、本来の配属部署である金沢支店で勤務が始まるので、吉田は大学時代から住んでいる金沢市内のアパートから、金沢市南町のH銀行金沢支店へとバスで出かけて行った。ここは香林坊と武蔵ヶ辻のちょうど中間付近で多数の銀行が通りに並んでいる、銀行街である。ここの隣はみずほ銀行、お向かいは明治安田生命になっている。
吉田は青いビジネススーツの上下を着て出て行った。初日は業務開始の30分前、8:00に集まって下さいということだったので、それより少し早い7:50頃に銀行に着くように行った。通用口で社員証をタッチしてゲートを通り、建物内に入る。ゲートの所に立っていた女子社員からゲート傍にある出退勤記録器に社員証をタッチするように言われたのでタッチした。これがタイムカード代わりのようである。
「今の時間帯は自動的に“出勤”と表示されます。それで間違っていなかったらそのまま通って下さい。違う場合はタッチパネルで訂正して下さい」
と言われた。
その人から紙を渡されたので、その紙に印刷されている部屋番号の所に入る。研修の時に一緒だった伊川さんを見たので手を振って隣に座った。
「いよいよ、本番だね。緊張してない?」
「してない、してない」
「初日は全員30分ずつ窓口に座らせられるという話だったね」
「まあ窓口は実践しておいた方がいいよね。どの部門で働くにしても」
「クニちゃん、どこの部門に配属されるとか通知あった?」
「まだ来てない。後で話があるのかな」
吉田は本来、女子行員のみのはずの、窓口業務に配属するという辞令を渡されていたのだが、性別間違いが判明したので、あらためて配属先は通知すると言われていたもの、まだその連絡を受けとっていない。
この日、H銀行金沢支店に配属された新入社員は、吉田・伊川を含めて8人だった。男子3名(吉田を含む)と女子5名である。8:00に支店長さんが来て挨拶をして簡単な訓示をされた。その後、吉田以外の2人の男子が各々名前を呼ばれて別室に移動した。そして他の人はこちらへと言われて、吉田と女子5名はまた別の部屋に移動した。控室と書かれている。その下に付いている赤いマークは何だろう?と吉田は思った。
全員今日は初日なのでビジネススーツを着ている。吉田以外の5人はスカートタイプのビジネススーツだが、吉田はパンツタイプである!
50代の女性副支店長・耶麻代さんが演壇に立つ。
「それではこの後、皆さんには窓口業務を初日は1人30分ずつ体験してもらいますが、これは練習ではなく本番です。お客様のことをよく考えてお仕事してください。なお、コロナの影響でこういう体制を敷いていますので気をつけて下さい」
と言って、副支店長は対策の要点を説明した。
その上で副支店長さんが指示すると、そばに控えていた女子行員(通用口で部屋番号の札を渡した人で“長谷”という名札を付けている)がこの部屋にいた新入社員全員に紙袋を配った。紙袋には各々名前が書いてあり、それを各自が首からさげている社員証を見ながら配っていた。
「その中にはとても大事な健康保険証と年金手帳、業務中につけておく名札、給与振り込みの口座届け出用紙、などが入っています。
年金手帳は名前等に間違いが無いかどうかを確認の上、こちらに提出して下さい。会社で預かることにしています」
「あのぉ、制服っぽいものが入っているのですが」
「はい。みなさんには、研修の時にも制服を配っておりますが、この4月から新しい制服が制定されました。4月8日から使用する契約になっていたので、研修の時は従来の制服をお配りしたのですが、今日から男女とも新しい制服になりますので、それを着て勤務してください」
「男子にも制服ができたんですか?」
「女子だけ制服というのは男女差別だという意見がありましたので、今回からは男女とも制服が定められました」
へー。それで自分に渡された紙袋にも制服が入ってるのかと吉田は納得した。
「サイズは研修の時に着ていただいたものと同じサイズのものを各々の方に配っていますが、もしサイズが合わないようだったら交換しますので言って下さい」
年金手帳は全員自分に渡されたものについて、名前などが間違っていないことを確認の上、副支店長の前の机に置いた。それで副支店長は退席し、各自着替えて下さいということになる。着替える場所は、洋服店のフィッティングルームのようなものがこの部屋には10個ほど並んでいるので、そこで着替えて下さいということだった。
それで各自適当な着替えルームに入って着替える。
吉田は上着を脱ぎ、ズボンを脱いだ。紙袋の中から上着っぽいものを出してワイシャツの上に着る。そしてズボンらしきものを出して穿こうとして・・・手が止まる。
スカートじゃん!
困ったなあ、また何か手違いがあったのかなあと思い、悩んでいたら、伊川さんの声がする。
「クニちゃん、まだ?」
「ミネちゃん、どうしよう?また間違えられたみたいでスカートが入ってた」
「ああ」
と言って、彼女は着替えルームのカーテンを開けちゃった!
「ウェストサイズは合うの?」
「どうだろう?」
「穿いてみたら?」
「え〜?」
「サイズ確認するだけよ」
「うん」
と言って、吉田は取り敢えずそのスカートを穿いてみる。
「サイズはピッタリみたいね」
と言って、伊川さんは吉田のウェストの所に指を入れてみている。吉田は女子にこの程度されて変に興奮したりはしない。
「じゃ、サイズはこれでいいから、このサイズのズボンに交換して下さいと言えばいいよ」
「そうするか」
と言って、吉田はスカートを脱いでここに着てきていたビジネススーツのズボンに穿き替えようとした。ところがそこにさっきの女性社員・長谷さんが入ってきて言った。
「今から窓口業務始めます。全員来てください」
「あのぉ」
と吉田が制服が違うことを言おうとしたのだが
「話があるなら後で。すぐ来なさい」
と言われてしまう。
吉田は伊川さんと顔を見合わせる。
「後で着替えればいいよ。取り敢えず行かなきゃ」
「うん」
それで吉田は仕方なく、スカート姿のまま、長谷さんの後を、他の新人社員と一緒に付いて行ったのである。
店舗内まで来てから長谷さんに言われた。
「あんた、なんでお化粧してないのよ?」
「あ、えーっと」
と吉田が何と説明しようか迷っていたら伊川さんが横からヘルプ(?)してくれる。
「済みません。この子、お化粧しなきゃいけないこと知らなかったらしくて。クニちゃん、そこのトイレでさっとしてきなよ」
と言って、伊川さんは自分のお化粧道具を吉田に手渡した。
「あんたバイトとかもしたことなかった?女は仕事をする時は、お化粧必須だよ。すぐして来なさい」
「はい、すみません」
それで吉田は仕方なく、近くにあるトイレに入ってお化粧しようとした。最初男子トイレに入ろうとしたのだが、吉田の社員証を入口のセンサーにかざしてもドアが開かない、試しに女子トイレの方でかざすと開いた!それで吉田はしかたなく、女子トイレに入り、そこの洗面台の鏡を使って、伊川さんの化粧道具を借りて、メイクをしたのである。ちなみに吉田は世梨奈たちに“鍛えられて”いるので、女子トイレに入るのはわりと平気である!
化粧水をして乳液を塗り、ファンデをコンパクトで塗ってチークを入れる。アイカラーを2段階で塗り、アイライナーを入れて、アイブロウを入れる。そしてマスカラを塗って、指先でカールさせる。最後にリップを塗る。吉田は研修の間、伊川さんに唆されて毎日メイクの練習をしたし、元々ショー劇団時代にも練習してた下地があったので、わりときれいにメイクすることができる。我ながら可愛いじゃんという気がした。実際メイクを終えて、店舗内に戻ると
「あら、あんた可愛いじゃん。メイク自体はうまいね。感心感心」
と長谷さんに褒められた。
吉田を含めて女子(?)6人はその後30分単位で2人ずつ窓口に座った。
最初は伊川さんと楢崎さんがやり、他の4人はそれを少し離れた所から見ている。次に吉田と鈴中さんが投入された。
吉田はそつなく、振込の処理、口座開設の処理、定期預金の満期払い戻しの処理、オンラインのパスワードを忘れてしまったという40代女性の対応、などをこなした。自分の業務をちゃんとこなしただけでなく、隣に座っていた鈴中さんが困っているふうだったのにも
「それは三瀬さんの所に持って行って」
と声を掛けたりもした。
それで30分の業務を終え、最後の組、沼田さん・北村さんに交替した。
「あんた、なかなかやるじゃん。もう午後からはそのまま実戦に投入できそう」
と長谷さんに言われる。
それで本当にこの日、吉田は午後いっぱい(13-15時)、女子制服のまま窓口に座ったのであった。伊川さんも同じく13-15時に座った。他の4人は店舗内で様々な雑用をしていた。
15時で銀行は窓口を閉める。そこで吉田は長谷さんに言った。
「済みません。渡された制服がスカートだったので、時間も無かったし、今日はこれで勤務したのですが、できたらズボンに交換して欲しいのですが」
「なんで?あんた足に傷があるか何かでスカート穿きたくない?」
「いえ。私、男子なので」
長谷さんはキョトンとしていた。
「なぜ男子が女子制服を着ている?」
「それを渡されたので」
「あんた、最近流行の女の子になりたい男の子?」
「なりたくないですー」
それで伊川さんが口添えしてくれた。
「この子、研修の時も性別間違えられたんです。この子の名前は邦生(ほうせい)なんですけど、よく“くにお”と誤読されるんですよ。それで実際に勤務に入ってもらうまでに、性別は訂正しておくという話だったのですが」
「訂正されてなかったみたい」
と吉田も言う。
「え〜〜?それは御免。でもあんた、女子制服着てても全然違和感無いじゃん。メイクもうまいし。女装趣味とかあるの?」
「無いですー」
「女装趣味が無いわりには、お化粧上手いですよね」
と伊川さんはわざわざ疑惑を拡大するようなことを言う。
「男子制服を用意するのは問題ないけど、あんた女子制服が似合っているから、このまま女子として勤務してもいいよ。本当は女子制服着たいんでしょ?」
「着たくないですー」
「でもあんたの声は女の子の声に聞こえる」
「これは一種の芸です」
「ああ、ゲイバーか何かに勤めてた?うちは借金で失敗したとかでない限り、その手の学生時代の前歴は気にしないよ」
なんか誤解されまくっている気がする。でも長谷さんはすぐに吉田の身体に合う男子制服を用意して渡してくれた。
「あれ?これ上着のボタンの付き方が違う」
「そりゃ男子制服は右前で、女子制服は左前だよ」
「さっきは全然気づかなかった」
「つまり右前でも左前でも違和感無く着られるほど、左前の服を着ているということか」
「いや、そんなことは無いんですが」
「その女子制服も持っててね。どちらを着て勤務してもいいから」
などと長谷さんには言われたので、どうも吉田の“性向”は誤解されたままのような気もした。
配属に関しては、貸付け部門にも、渉外部門にも、定員の空きがないらしく、男子制服を着てもいいから、このまま窓口部門をやってほしいと言われ、吉田は了承した。
「むろん女子制服で勤務してもいいからね」
「遠慮します」
この日は、吉田がせっかく女子制服を着ているからというので、新人女子(?)6人で記念写真を撮ったが、この写真を吉田が
「参ったよ」
などと言って、世梨奈に見せた所、それが幸花の手に渡り、霊界探訪の6月放送分の中で放送されてしまったのには、吉田もぶっ飛んだ。放送後には女子制服姿の吉田を見ようと、わざわざH銀行金沢支店に来た人たちもいたようだが、その時点では吉田は渉外に出来た空き(新人男子が1人、うつ病!になって退職したので)に充填される形で渉外部門に異動していたので、誰も女子制服姿の吉田を見ることは無かった。吉田は人と話す仕事は大好きなので、そつなく渉外の仕事を務めた。
でも吉田は、渉外に異動した6月の中旬まで、約2ヶ月間、窓口でにこやかに来客に対応した。吉田が女子制服を着たのは初日だけだったのだが、男子制服を着ていても吉田は、お客様から「お姉ちゃん」などと呼ばれ、どうも女性と認識されている気がしていた。更には「H銀行さんは女子でもズボンが選べるんですね」などと勝手に感心している女性客もいたので、吉田は曖昧に微笑んでいた。
またこの新人女子(?)の内1ヶ月で退職した北村さん以外の5人は結構仲よくなったので、しばしば5人で吉田のアパートに集まり、楽しくおしゃべりしたりした。吉田のアパートが選ばれたのは、コロナの問題があるので飲食店などに行くのを避けた結果である。誰か女子のアパートに男子(?)である“クニちゃん”を入れるのは問題があるということで、結果的に吉田の所に他の4人が集まる形になった。でも鈴中さんが料理得意で、色々おつまみなど作ってくれるので、結構助かった。
吉田はこの4人全員から“クニちゃん”と呼ばれたが、長谷さんまで“クニちゃん”と言っていた。吉田のアパートがわりと金沢市の中心部から近いので、ここは場所的にも便利だった。それで女子社員のたまり場とされ、しばしばここで泊まっていく女子たちまであり、結果的に吉田は台所で寝るはめになる夜も多かった。いつの間にか衣装ケースが置かれてみんなそこに洋服を入れていたし、吉田が彼女たちの下着とかを洗濯するはめになる。室内の物干しに干していたらみんなそれを取って、吉田の前で!着替えていた。背中のファスナーを上げるのとかも頼まれる!
「でもここなんでこんなにたくさん予備の布団があるの?助かるけど」
「いや、学生時代からここに泊まってく子が多かったから」
「それ女子?」
「そうなんだよなあ。俺に対してみんな無警戒で」
「ああ、私たちも無警戒」
と楢崎さんなどは笑っていた。どうも伊川さんも含めて、彼女たちは吉田のことをゲイなのだろうと思っているふしがあったが、まあいいことにした。
ちなみに吉田自身の衣装ケースに、女性用下着やスカートなどが入っているのは早々に発見され「やっぱりねえ」などと言われた。
4月から就職することになっていた会社が行ってみたら倒産していた、芳野早百合はとりあえずその日、自宅でぐっすり寝た後、翌日ハローワークに行ってみた。
「ああ、コロナ関連の倒産は今少しずつ起きてきているみたいなんですよ」
とハローワークの職員さんは言っていた。
「英語はできます?」
「STEPの準一級取りました」
「かなりできますね。それ以外の外国語は?」
「一応大学では第2外国語でフランス語を勉強しました。それ以外に中国語はわりとできます。韓国語は読み書きするのと、自分でしゃべるのはいいんですが、聞き取りは少し苦手です」
「それだけできたら心強いですよ。ExcelとかWordは?」
「MOS 2016を取りました」
「運転免許は?」
「中型免許を持っています」
「簿記は?」
「日商の二級を持ってます」
「だったら、勤め口はいくらでもありそう」
と言われたものの、実際の求人票を検索しても、なかなか良さそうなものがない。そもそもこの季節は求人が少ない。更にコロナで採用を手控える所が増えているようだ。
「東京勤務とかは?」
「仕事がなければ行ってもいいですけど、できたら福岡市近郊で」
「プログラムは組めます?」
「組めますけど、時間の制約が厳しすぎるのが」
「確かにあの業界は残業が酷いですからね」
「しかもサービス残業でしょ?」
「それが問題なんですけどねー」
結局、北部九州全般で営業している貸し切りバス会社の福岡支店が募集していた事務職に応募した。面接に行くと、こんな時期に求職していた理由を訊かれるが、4月から就職する予定だった会社が倒産したということを言うと
「それは大変でしたね」
と同情された。
それで採用になり、早百合はバスの予約・配車の作業をする部門に投入された。早百合が英語の他に中国語(北京語)もできることから、外国からの観光客への対応にも期待されたようだった。またExcelに詳しい社員が3月で辞めたとかで、早百合は前任者が大量にExcelで組んでいたフォームなどのメンテも頼まれた。早百合はマクロなどを見ていて、これって“プロ”の造りだと感心した。とても筋の良い組み方がされていた。素人が組んだマクロはしばしば解読不能である。
事務所にはコロナ対策で次亜塩素酸水のミスト発生装置が置かれていたし、窓は常時開放されていた。
なお、この会社は事務所が祇園駅の近くなので、買った定期(筑前前原−博多)がそのまま使えて、ラッキー☆と思った。
また早百合が中型免許を持っていることから何かの時のために「大型二種」を取ってくれないかと言われ、これは主として勤務時間外に、プロの運転手さんに習って練習した。
「あんた筋がいい」
と褒められる。
「ずっとファミレスのバイトしてて、お客さんの車の駐車・出庫をしていたからかも」
「だったら、色んな車を体験してるね」
「ええ。おかげで。4tトラックまでは運転してます」
「ああ。大型に慣れていると思った」
(実はうっかり?お酒を飲んでしまったお客さんのトラックを営業所まで運転していったことが数回!ある。どう考えてもサービスの範囲を超えていたが、飲酒運転を見逃す訳にもいかなかった。実際見逃した場合はお店が責任を問われる場合もある。帰りは、酔ってない!ドライバーが荷物運搬のついでにファミレスまで乗せてくれた)
それで1ヶ月ほどの練習を経て、連休明けに試験場に行き、一発試験を受けて合格。大型二種の免許を手にした(2016年3月に普通免許を取り3年以上経過しているので、大型二種の受験資格ができていた)。実際、早百合は5月下旬、福岡市内の女子高の遠足に投入された。女子高なので、女性の運転手さんが歓迎されたのである。しかもコロナの影響で1台の乗車人数を15人に制限していたため、台数が必要だった。
「やはり女になれて良かったなあ。女性だから頼むと言われるのって凄く快感!」
と早百合は思った。
2020年3月25日(水).
この日某自動車メーカーから“アクアのアクア”が発売され。ローザ+リリンのマリナは発売されたばかりの新車を受けとった。
「すっごく可愛い」
とマリナは嬉しそうな顔で、納車してくれた車屋さんに言ったのだが、ケイナは
「これに乗るの〜?」
と嫌そうな顔をした。確かに男の人には可愛すぎるかもね!
「大丈夫だよ。私かデンデンが運転するし」
「デンデンが運転してたら、盗んだ車ではないかと思われたりして」
「ああ、それはありそう」
実際にデンデンは車の回送中に警官に捕まり!マリナが身元引き受けに行くハメになった!それでケンネルの提案で、デンデンには運転手の制服?っぽいものを着せることになったが、この顛末も『夜はネルネル』で放送された!
警察に捕まるシーンやマリナが引き取りに行くシーンは再現ドラマだが、警官役は元プロレスラーのタイガー沢村がゲスト出演しており、捕まったデンデンは縞模様の古典的な囚人服を着せられ、マリナは豪華なドレスとゴージャスな指輪を付けて貴婦人風の装いで引き取りに行くという演出になっていた。
しかしどうも最近この番組はデンデンを“いじる”番組になりつつあるなと、マリナは思った。デンデン自体は全然面白くないのだが、デンデンが天然でやらかしてしまう失敗が笑いを呼ぶのである。ひょっとしたら、それがデンデンの才能(?)なのかも?
ところで“アクアのアクア”であるが、90台限定の特別限定車が制作された。
“スピカのアクア” 30台
“花ちゃんのアクア” 30台
“白鳥(しらとり)のアクア” 30台
である。アクアのアクアは彼(彼女?)のイメージカラーである水色(アクアブルー)でアクアのロゴマーク(波模様)に、招き猫アクア、などが入っているが、各々の特別限定車はこのようになっている。
スピカのアクア
車体はブルー(スピカブルー)、スピカのロゴマーク(☆型)、パンダ・スピカ
花ちゃんのアクア
車体はライトオレンジ、花ちゃんのロゴマーク(ハイビスカス)、ルンバに乗る花ちゃん
白鳥(しらとり)のアクア
車体は白(スノーホワイト)、リズムのロゴマーク(列車のヘッドマーク風)、 白鳥(はくちょう)リズム
それ以外の各種スペックは“アクアのアクア”と同じで、ベンチシートやエアロパーツなどもそのままである。
“30台限定”というのは実は一般発売の台数で、各々の1号車(010201, 010301, 010501)は、スピカ・花ちゃん・リズム自身に引き渡された(事務所から各々へのプレゼント:経理的には報酬の一部)。但し、まだ運転免許を持っていない白鳥リズム(4月から高校生)は、実際に運転できるのは18歳になって免許を取った後(正確には高校卒業後)になり、今後3年間はマネージャーの本田覚か村上麗子が運転することになる。
この各30台の販売に関しては、メーカーで購入希望者を募集して抽選で決定したが、希望者の数があまりにも物凄かったので最終的に各98台に増やすことになった。(本人がもらったものまで含めて99台)
さて、コロナウィルスの影響で、安倍首相の要請により、3月から全国の学校が休校になったのだが、放送業界にも影響が出て、2月下旬から、番組の生収録を控える動きが出始めた。
最初に一般の観客を入れていた番組を無観客に変更する動きが出て、やがて収録を中止して、撮影体制を見直す所なども出始めた。放送は過去の番組の再放送が多く行われた。
コスモスは紅川相談役に沖縄から来てもらった。そしてT医科大学の下田准教授、ケイ会長、特別アドバイザーの山吹若葉・村山千里・丸山アイも入って緊急の対策会議をおこなった。
その上で、コスモス・紅川・下田先生の3人で各放送局で、§§ミュージックのタレントが出演している番組のプロデューサーにコロナ対策に関しての会談を申し込んだのである。
コスモスがここで実質引退している紅川さんを担ぎ出したのは、やはりその威光にすがりたいからである。紅川に義理のあるプロデューサーもわりといる。それに引退した身ということにはなっていても、名目的には∞∞プロの副社長という肩書きは強烈である。
コスモスたちの話し合いの内容は、各番組の感染対策や今後の制作方針を詳しく聞くのと、それでは足りないと思われる点について改善を申し入れることであった。その場合の、対策費用に関して一部負担してもよいとコスモスたちは申し入れた。
実際に話し合ってみると、各番組とも手探りの所が多く、やはり対策が少し不足している所が多かったが、コスモスたちからの要請を受けて改善を約束してくれた所が多く、対策費用の負担や必要な設備等(ビニールシート等)の提供を受け入れてくれた所もあった(実際対策はしたくても予算が取れない、と悲痛な表情のプロデューサーもいた)。
アクアがレギュラーになっている番組はみんな要望を聞いてくれた(アクアに辞められると困る)。費用負担については、§§ミュージックが番組のスポンサーに名を連ねる形で行うことにした。
しかしどうしてもこちらの要請内容を受け入れてくれないプロデューサーもあり、コスモスたちはやむを得ないので、その番組からはタレントを引き上げさせてもらうと伝え、向こうもやむを得ないですねと言った(事実上の交渉決裂)。
そういう訳で、§§ミュージックのタレントたちは3月に入るあたりから、収録の一時休止と、交渉決裂との影響で仕事がだいたい半分くらいになった。学校を卒業して、このあと、どれだけ忙しくなるのだろうと思っていたアクアでさえ、仕事が激減して急に暇になり、拍子抜けしたのである。
コスモスはこういう制作体制はおそらく5月くらいまで続くと予想し、その間にアクアのアルバムを制作することにした。他に、ひろか、ありさ、スピカもアルバムを作ることにした。(一度に全員はできないので、このメンツの制作が一段落したら、リズム、花ちゃん、ロンド、ネオンの制作に移る予定)
それと同時に、仕事の減ったタレントたちの仕事を作るのと、顔を売る目的で、丸山アイの提案でネット放送局を立ち上げようということになった。
充分なコロナ対策を実施した状態の制作現場から、歌番組やバラエティなどを制作して放送しようというものである。放送時間は、若い人たちの生活時間帯に合わせるのと、所属タレントに中高生が多いこともあり、夕方17時から深夜2時まで9時間の放送ということにした。但し22時以降は再放送や既存のビデオ作品を流すことをメインに考える。土日祝日は朝8時から16時まで8時間の特別放送枠も設定する(16-17時は放送休止)。
この放送制作のために、コスモスとケイは、運営会社《§§メディアサービス》を設立。ネットのバックボーンを持つトリプルスター(TKRの親会社のひとつ)、映像制作会社の大和映像にも資本参加してもらった(他にムーラン・亀山社中・フェニックストライン・サマーガールズ出版も資本参加している)。資本金は“取り敢えず”10億円である。(初期の設備投資で3億円飛んだ)
実は大和映像も、コロナ影響下での撮影・制作の方法について手探りだったので、潤沢な予算が使えるこのプロジェクトに乗ったのである。ここで色々と実験的なことをして、それを在来局の制作にも活かそうという魂胆があった。この点で、コスモスたちと、大和映像・大曽根さんたちの利害が一致したのである。
放送局の名前は“あけぼのテレビ”と決めた。コロナで暗い時代だけに、新しい夜明けを目指そうという趣旨であった。
社長には多数のコネを持ち、また実際にたくさん活動できる人物として、春風アルトさんを担ぎ出した。アルトさんも美音良ちゃんがそろそろ1歳になり、少しは子供の手が離れてきた所だった(実際にはアルトさんが1日中飛び回り出張も多いので、子供の世話は上島さんがずっとしていて“主夫”化することになる)。
副社長がコスモス、専務が大和映像の坂口さん(大曽根部長の腹心)、常務がトリプルスターの松浦さんである。ケイ・千里・若葉・丸山アイも取締役に名前を連ねている。また社外取締役として、大手住宅メーカーの取締役でもある宮崎和斗さん、元サッカー選手の大川隆史さん、にお願いした。
この資本構成・取締役メンツには、放送業界の人もレコード会社も入れていない。そういうしがらみの無い形で構成することで、かえって各放送局やレコード会社と付き合いやすくなるだろうという紅川さんの提案でこういう形になった。紅川さんは相談役の肩書きを引き受けてもらった(名前だけであり無給)。
基本的には大和映像およびサンシャイン映像制作(*2)のスタッフで撮影を行い、トリプルスターの回線で配信することにした。番組は有料番組と無料番組があり、1ヶ月1000円の会費を払っていれば、有料番組(1枠100-300円)も見放題とすることにした。また有料番組も冒頭5分間だけは無料で視聴できる。実はこれが結果的に売上を大きく伸ばす力となった。
(*2)サマーガールズ出版・§§ミュージックの各々の映像制作部門を合併させる形で、2020年1月に発足した。所属タレントのPV制作が主な仕事。3月上旬の震災復興イベントのネット中継では、★★チャンネルのスタッフと共同で撮影・ネット放送をおこなった。これが良いウォーミングアップになった。
若い視聴者が多いことが予想されたので、支払いは、クレカ(VISAデビットやauウォレット・JCBプレモなどを含む)以外に、携帯払い、ビットキャッシュ、PayPayネット決済などもできるようにした。このあたりは若葉がとりまとめてくれた。実際、ビットキャッシュ払いが物凄く多く、中高生の加入者が多いことを想像させた。
番組の制作は大田区のサテライトオフィスで行うことにして、そのための改造を3000万円掛けて3月中におこなった。撮影・放送用の機器が、おりからのリモート勤務の広がりで不足したので、一時的に足立区の研修所の機材を運び込んで使用したりもした。
3月中旬にこのことを告知した所、アクア人気を背景にいきなり加入希望者が100万人も来て、さすがのコスモスも度肝を抜かれた。実をいうと、5万人から10万人程度だろうと予想していたのである。急遽サーバー増強とネット技術者確保のために奔走することになる(回線はトリプルスターが枠を確保してくれたので、安定放送できる見込みとなる)。
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【春曙】(1)