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■夏の日の想い出・ビキニの夏(5)

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(C)Eriko Kawaguchi 2013-09-02
 
ライブの後、伴奏陣で簡単に打ち合わせた。
 
主として楽器ソロの入り方である。ギターソロ、ヴァイオリンソロ、サックスソロが同時に入りそうになって慌ててアイコンタクトで調整した場面があったので、その各々の楽曲の箇所について、誰がソロを入れるのかを決めた。また誰もソロを入れなくて少し寂しかった所もあったので、ここは誰がやることにしようというのも話し合った。
 
それで21時半くらいになったので、その後少し飲みたそうにしている人たちを置いて私は帰宅した。
 
少し勉強してから12時頃寝ようかと思っていたら自宅に電話が掛かってきた。たまたま私が電話機のそばにいたので反射的に取った。静花だった。
 
「やった。冬ならたぶんまだ起きてると思ったから」
と言って話し始める。
 
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今日のライブで物凄く興奮した、というのが伝わって来た。よくしゃべる!
 
30分ほどしゃべりまくった所で、父が「何時だと思ってる? いい加減にしなさい」というメモを渡したので
 
「ごめーん。寝ろと言われてるから」
と言うと、向こうも
「あ、私も12時前に寝ろと言われてたんだった」
などと言っている。
 
静花は12月から6月までは事務所の寮に入っていたのだが、大ヒットでランクが上がり、自分でマンションを借りて、ひとり暮らしを始めたのである。寮ならそもそも21時すぎには電話は掛けられない所であった。
 
「じゃ、おやすみー」
「また明日もよろしくー」
 
と言って、寝た。
 

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2日目。基本的には同じ形で進行する。ただし初日に反応が悪かった曲を多少入れ替えた。『カロミオベン』『ニーナ』を外し、『ケ・サラ』とキリンビールの宣伝でもおなじみの『ボラーレ』を入れた。また昨日、演奏に関する打ち合わせをしたおかげで今日はソロの入り方などで「わっ」とか思う所もなく、スムーズに演奏をすることができた。
 
そして・・・ゲストコーナーで出てきたJに対する観客の反応もまた同様だった。ブーイングの嵐である。
 
さすがに事務所側で話し合ったようで、3日目の朝、松原珠妃の名前で、
「Jさんも一所懸命歌っているので、ヤジとかはご遠慮ください」
というメッセージを公式サイトに掲示した。
 
本人も泣いていたので、事務所側も「辞める?」と尋ねたが「やります」ということだったので、3日目以降もさせることにした。しかし3日目・4日目も、観客の反応は同様であった。
 
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「結局、珠妃ちゃんが上手すぎるからなあ」
と井瀬さんは小さな声で言っていた。
 
「最高に上手い歌を聴いていたのが、あれだけ落差のある歌を聴かせられたら俺でもブーイングするかも知れんよ」
「ピコちゃんなら、あんなにブーイングされたらどうする?」
 
「私なら『下手っぴーのピコでーす』とか言って、『よし、ここから先は音を2度ずつ外して歌うぞー』とか言って歌ったりして」
 
「いや、ちゃんと2度ずつ外して歌うなんてのは、正確な音程が取れないとできない技」
「ピコちゃんもスターだな。そういう発想するのは」
 

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そしてその事件は、後から考えてみると、起きるべきして起きたのではないかという気がする。
 
最終日。5日目の前半が終わり、Jが出て行く。これまでと同様にヤジが飛ぶ。
 
今回のチケットは短時間で売り切れているので複数の日程のチケットを取れた観客はほとんどいなかったはずである。毎日観客は異なるのだが、どの日の観客にもJの歌はひどいものに聞こえたのだろう。
 
まあ私もほんとに下手だなと思いながら聞いていたのは確かではあるが。
 
そしてJの歌が終わって、休憩していた私たちがまたステージに戻る。静花は着替えが終わっていて、笑顔でJに近寄り、握手をしようとした。
 
その時だった。
 

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私はなぜ行動を起こしたのか、後で考えても分からない。
 
とにかくダッシュした。そして私がJと静花の間に無理矢理身体を割り込ませるのと、Jが服の中に隠していた刃渡り16-17cmの包丁を構えて静花を刺そうとしたのが、ほとんど同時だった。
 
私は自分が刺されたと思った。私死ぬのかな?と思ってちょっとだけ後悔した。
 
しかしバリバリっという音がする。
 
Jの包丁は私が持っていたヴァイオリンを貫いていた。痛みもしたので少し私の身体にも刺さったなと思ったが、そんなに痛くは無い。
 
Jは私に邪魔されたので、物凄い力で私を張り倒した! 腕力の無い私は吹き飛ぶ。
 
そして再度静花を刺そうとしたが、近くに居たキーボードの人がJに飛びかかる。揉み合いになったが、さすがに男性の力で押さえられたらかなわない。Jは取り押さえられた。
 
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事務所のスタッフが数人駆け込んできて、まずはJの手から包丁を奪い、舌を噛み切らないようにハンカチを口に押し込み、拘束して舞台袖に下げた。
 
Jを取り押さえたキーボードの人が手を押さえてうずくまっている。
 
「どうしました?」と井瀬さんが声を掛ける。
 
「彼女を取り押さえる時に少し手を切った」
「見せて」
 
と言って怪我の箇所を見ている。
 
「こりゃあかん。ちょっと下がって治療してきて」
「うん」
 
それで彼は自力で舞台袖に消える。
 

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さて。
 
観客は、あまりの事態にシーンとしていた。
 
突飛すぎる事態だったので、ドッキリ企画ではないかと思ったという人もこの時かなり居たようである。笑おうとしたものの、周囲が沈黙しているので笑えなかったと、後にネットなどに書いていた。
 
この時、本領を発揮したのが静花である。
 
マイクを取ると、ひとこと言った。
 
「お騒がせしました。演奏を続けます」
 
そのとたん会場が物凄いざわめきとなった。すると静花は
 
「静かに!」
 
と大きな声で言う。マイクも使わずに肉声で、この武芸館の大会場に自分の声を響き渡らせた。観客がこのひとことでさっと鎮まった。
 
「さあ、演奏するよ」
と井瀬さんの方を向いて大きな声で言う。この時、静花はこの大きな会場を完全に支配していた。
 
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舞台袖では、マネージャーの青嶋さんが両手で×印を作っている。演奏を中止しろという指示だが、静花は無視した。
 
「キーボードどうしよう?」
と井瀬さんが言ったが、静花は
 
「ピコちゃん、弾いて。あんた、ヴァイオリンよりキーボードの方がうまいはず。どうせヴァイオリン壊れちゃったし後半はヴァイオリン抜きね」
と笑顔で言う。
 
「OK弾くよ」
と私は静花に負けない大きな声で応える。
 
それで井瀬さんも「よし、みんな位置に付いて。演奏するぞ」と言う。
 
全員が所定の位置に付き、私たちは演奏を再開した。舞台袖で青嶋さんが天を仰いでいた。
 

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この最終日、後半のカンツォーネは何だか物凄く盛り上がった。
 
ちょっと異常な事態があったこともあり、観客としても何かに酔わないとたまらない感覚だったのかも知れない。
 
所定の曲を演奏し終わり(『恋のスピッカート』で私はキーボードをヴァイオリンの音に設定し、タッチコントロールを駆使し、まるでヴァイオリンをスピッカート演奏しているかのように弾いた)、幕も降ろさないまま、アンコールで『初恋の丘』
『黒潮』と歌っても観客が収まらない。そこで静花は
 
「アンコール本当にありがとうございます。みなさんのご声援にお応えして、もう一曲。黒潮の英語バージョンを歌います」
 
観客席から「えー!?」という声があがったが静花は平然としている。そして私たちの方に目で合図をするので、私たちはふつうに『黒潮』の演奏を始める。
 
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そして静花は英語で歌い始めた。
 
観客は物凄く乗って、物凄い拍手をする。
 
そして凄まじい熱狂の中で武芸館ライブは終了した。
 

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この日が本当に「スーパースター・松原珠妃」が誕生した日だと思う。
 
あのトラブルが起きた後の事後処理は、美事だった。ひとつ間違えば観客のパニックが起きていてもおかしくなかった状況である。
 
中止しろという指示を守らなかったというので、社長からの厳重注意、罰金までくらったものの、珠妃の人気は急上昇した。そしてCDのセールスもまた上昇し始めて、この事件の一週間後には250万枚を超えた。勢いが停まらず、レコード会社も慌ててどんどんプレスする。私は300万枚は超えたなと思った。
 
なおサードアンコールで静花が歌った英語歌詞だが、本人が即興で作りながら歌ったものらしかった。私も協力して後で一緒に書き出してみたものの「こりゃかなり添削しないとダメだね」というくらい酷い英語だった。でもそういうでたらめ歌詞で歌いきってしまうのがスターである。
 
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事件を起こしたJは駆けつけた警察に逮捕され取り調べを受けたが、珠妃も怪我したキーボード奏者(軽傷で一週間で現場復帰できた)も、告訴しないと言った。緊急上京した両親と社長が話し合い、厳重戒告の上で懲戒解雇、CDは廃盤・店頭回収、キーボード奏者の治療費を含めて示談金300万円という線で和解。その示談結果を受け、Jは起訴猶予になり釈放された。本人も事務所に来て珠妃たちの前で泣いて謝罪した。
 
彼女は田舎に帰ってやり直しますと言っていた。この程度で済ませる条件として、親元で1年間は暮らすことというのを事務所側が提示し、両親も了承していた。
 

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ちなみに、私もちょっと怪我していて、包丁の先で少し切ったようで、下着にかなり血が付いていたものの、ライブが終わる頃までにはもう血も止まっていたので、静花から「ああ、これは怪我の内に入らない」と言われた。傷跡も残らなかった。
 
ヴァイオリンはまた新しいの(前のとだいたい似たような価格帯で今度は国産ではなくドイツ製のヴァイオリンで E.H.Rothという銘が入っていた)を事務所の社長が買って渡してくれた。更に急遽決まった8月の全国ツアーにも帯同できないかと打診されたが、さすがに1ヶ月掛けて全国飛び回るのは親が許してくれないと言ったら、結局、東京・横浜・仙台・札幌・名古屋・大阪・神戸・福岡・沖縄という「日帰り可能!?」の公演にだけ付き合ってと言われ、それ以外の公演は他のヴァイオリニストさんを手配してもらった。
 
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(8月1-31日の14-16日を除いた28日間で全国28ヶ所を巡るという恐ろしいツアーで、さすがの静花も話を聞いた時に「きゃー」と言っていた)
 
「社長から札幌や沖縄も日帰り可能って言われたんですけど、ほんとに日帰りできるんですかね?」
と私は井瀬さんに訊いた。
 
「ああ、朝1番の飛行機で飛んで、最終便で帰ればいい。行きっぱなしの俺たちよりハードな気もするけど」
「あはは」
 
「それより、この日程表を見てごらんよ。要するにピコちゃん、土日に全部アサインされてる。メインの会場ではピコちゃんにヴァイオリンを弾いて欲しいという意味だよ」
「ああ」
 

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また7月のライブで持ち歌が『黒潮』『恋のスピッカート』だけで寂しかったということで、急遽楽曲も3曲制作された。
 
イメージビデオの撮影をした縁でドリームボーイズの蔵田さんにも『夏少女』
という曲を書いてもらった。蔵田さんは『たこやき少女』というタイトルで作ったのだが、こちらの事務所の社長がそれは勘弁してと言って『夏少女』というタイトルに改訂。歌詞もタコヤキ!と連呼する所を夏夏!という連呼に変えさせてもらった。
 
それからニジノユウキ作詞・木ノ下大吉作曲『アンティル』という曲があった。この「ニジノユウキ」は実は松原珠妃のペンネーム(「虹の松原」という連想)だが、そのことはかなり後まで公表されなかった。「アイドルが作詞作曲するとイメージが」と社長が渋ったためである。「この曲は『黒潮』のアンサーソングだね」と木ノ下先生が楽しそうに言っていた。アンティルは英語の until とAntilles諸島の掛詞である。
 
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アンティル諸島は北米と南米を結ぶ長大な列島で、メキシコ湾流と大きな関係があり、黒潮:日本海流から、海流つながりなのである。歌詞の中にアンティル諸島の島の名前が「キューバ、ケイマン、ジャマイカ、ハイチ」とか「セント・クリストファー、アンティグワ・バーブーダ」とか「セントビンセント・グレナディーン」などと大量に出てくる。この歌はカラオケで受けたし小学生の間で、この島名連呼が大流行した。
 
そして最後の3曲目がゆきみすず作詞・すずくりこ作曲『可愛いアンブレラ』
というまさにアイドル歌謡!という感じの可愛い曲であったが、私はこのクレジットを見て仰天した。
 
「すずくりこさん、耳が回復したんですか?」
 
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元アイドルのすずくりこ(田中鈴厨子)が昨年原因不明の病気で倒れ耳が聞こえなくなったというのは大きなニュースになっていた。それですずくりこは歌手を引退せざるを得なくなったのである。
 
「いや、回復してない。全く聞こえないらしい。でも作曲はできるんだそうだ」
「へー!」
と私は本当に驚いた。
 
「ベートーヴェンみたいですね」
と井瀬さんも感心したように言う。
 
「元々、このふたり、スノーベル時代からけっこうペアで作詞作曲してたらしいよ。でも当時は自作曲を歌うとアイドルのイメージが崩れると言われて、他人名義にしてたんだって」
「へー」
 
この3曲は7月下旬にバタバタと録音され(私は音源製作でもヴァイオリンを弾いた)、8月頭に『黒潮』のアコスティック版・英語版(専門家に書いてもらった英語歌詞)ハウスミックスも入れた5曲入りミニアルバムとして発売された。
 
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夏の日の想い出・ビキニの夏(5)

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