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■夏の日の想い出・限界突破(1)

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(C)Eriko Kawaguchi 2013-06-01  
大学1年生の秋。私はローズクォーツの「ドサ回り」で、日本中を慌ただしく飛び回っていた。平日の朝から午後2時くらいまでは大学に出ているので、その後新幹線や飛行機に飛び乗ってあちこち出かけたり、また金曜の夕方から日曜の夕方まではずっとどこかに行きっぱなしになっていた。
 
10月1日の相馬市を皮切りに始まったドサ回りは10月は東日本を中心に回り、11月は西日本を回って、12月12日の博多で打ち上げになっている。
 
★★レコードの町添さんはそのような営業手法に疑問を呈したが、私は個人的にこの全国行脚をやっておきたかった。それは1年半前の2009年2月ローズ+リリーの大規模な全国ツアーが予定されていたのに、週刊誌報道を発端とする大騒動で、吹き飛んでしまい、全国のイベンターさん・放送局さんたちに多大な損害を与えてしまったし、また多くのファンをがっかりさせてしまっていたので、そのお詫びをしたかったのである。
 
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実際にはどこのイベンターさんも暖かかった。
 
「こういうのはこの業界ではよくあることですから気にしないでください。マリちゃんが元気になったらまた一緒に遊びに来てくださいね」
 
などという反応が多かったし、色々とお土産のお菓子やお酒、ご当地歌手のCDなどの頂き物もしてしまった。私はマリとふたりで書いたサイン色紙をたくさん用意して各地に持って行っていたが、
「わあ、ください、ください」
 
といって、たくさんもらわれていった。ローズクォーツの色紙の倍以上配った感じだったし、FM局などで、ローズ+リリーの色紙をリスナーにプレゼントなどという企画をした所もあった。
 

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しかし日中まともに大学の講義を受けたあとで新幹線で各地に出かけ、最終便で戻って来て、翌日はまた朝から大学に出てという生活は極めてハードだった。
 
「ツンツンツン、生きてますか?」と政子につつかれても
「ごめん。死んでる」と答えてひたすら私は寝ていた。
 
「ね、ね、遊ぼうよぉ」
「ごめん。私の身体は好きにしていいから、寝せて」
「じゃ好きにしちゃうんだから」
 
ということで、しばしば私は朝目を覚ますと、ベッドに縛り付けられていたり、チェーンで亀甲縛りにされていたり、ボディペイントを施されていたり、変なものを突っ込まれていたりしていた。
 
「ちょっとぉ、顔に塗られた墨が落ちないんだけど」
「ニューメイクということで」
 
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などというやりとりをしていた。
 
「しかし、よく冬も身体がもつね」
「もってない。もう限界超えてる」
「ローズクォーツ、辞めちゃえば? あのユニット冬がいなくても大丈夫のような気がする」
などと政子はわりと大胆なことを言う。
 
「私が辞めたら売れなくなるよ」
「冬がいても売れてないじゃん」
「うむむ、確かに」
 
「でもさあ、今回のドサ回りは私としては1年半前のローズ+リリーのツアーが直前中止になったことへの、お詫びの旅でもあるんだよ」
「まあ、それは冬、代表して謝ってきてね。はい。サイン私の担当部分100枚書いといたから、残りの部分は冬が書いてね」
「ありがとう。講義の間の休み時間に書く」
 

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結局10月で私が休めたのは26日のみだったのだが、その日政子は唐突にヴァイオリンを買って練習をすると言い出したので一緒に楽器店に行き、取り敢えずの練習用にといって50万円ほどの中国製ヴァイオリンを買ってきた。
 
すると政子は
「私がヴァイオリンを練習するから、冬はフルートを練習して」
 
と言って、政子が中学の吹奏楽部で吹いていたというフルートを私に渡した。
 
「フルートなんて吹いたことないよお。というか私が横笛吹いても音出ない」
「冬は1週間あればどんな楽器でも演奏できるようになるはず」
「そんな馬鹿な」
 
などといった会話を交わしたのだが、その後の一週間北陸方面のドサ回りをしながらひたすらフルートを吹いていたら、とにかくあまり難しくない音域では何とか音が出るようになった!
 
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それで何とかふたりで『主よ人の望みの喜びよ』を合わせてみる。
 
「できた!できた!」
「マーサ、この一週間で随分弾けるようになったね」
「冬もちゃんとフルート吹けるようになったじゃん」
「昨日やっと音が出るようになったんだよ」
「やはり冬はどんな楽器でも1週間で覚えるんだな」
 
「たまたまうまく行っただけだって。それにまだ出る音の範囲が狭い」
「まあ、それは頑張って練習すればいいね。じゃ次は8日に『歌の翼』」
「来週は無理。ローズクォーツのレコーディングに加えてELFILIESの録音にも立ち会わないといけない」
「次空くのはいつ?」
「16日かな」
「じゃ16日までに」
「OKOK」
 

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ということで、私はドサ回りとレコーディングで慌ただしい時間を送りながら、休憩時間にひたすらフルートを吹いていた。
 
政子からもらったフルートは「リングキー」なのでポルタメントなどの演奏が可能な反面、正確な音程を出すには穴をしっかり押さえる必要がある。しかしオフセットといって、薬指の位置をずらして押さえやすくなっているため、初心者の私にも何とか吹くことが出来た。
 
ローズクォーツの音源制作(『バーチャル・クリスマス』)が終わり、オフとなった16日(火)。あまりに疲れていたので大学をサボって朝からベッドで寝ていたら、ついでに自分もサボった政子が「ちょっとちょっと」
 
と言って私を起こす。
 
「何? 私凄く疲れてるからもう少し寝せて」
「フルートとヴァイオリンを合わせる約束だよ」
「そうだったね。でもあと30分寝せて」
「10分で起きなかったら、怪しい薬を注射しちゃうぞ」
「怪しい薬って何さ?」
 
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「そうだなあ。何にしようかな。目薬がいいか、うがい薬がいいか」
「ちょっと、ちょっと、そんなの注射されたら死んじゃう」
「じゃ起きて」
 
「じゃ10分後に起きる」
「よし」
 

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ということで、10分後に起き出す。フルートをバッグから出して政子のヴァイオリンと合わせる。『歌の翼』を演奏する。
 
「うん、合ったね。二週間前からかなり進化した」
「冬はもう1年くらい演奏してる人みたいになってる」
「マーサも凄くうまくなったね。子供の頃にやってた時の感覚をかなり取り戻したんじゃない?」
 
「うん・・・・」
「どうしたの?」
 
「なんかさ。自分で弾けてる感じと実際の音の出方に距離があるんだよ」
「ふーん」
 
「ほら9月にさ、アルバムの制作やって、ヴァイオリンを松村さんに弾いてもらったじゃん」
「うん。あの人はうまいよね」
「冬、何だか親しそうに話してたけど、知り合い?」
「ああ、高校時代に一緒に演奏したことあるんだよ。私はピアノ弾いて、松村さんはヴァイオリン弾いて」
 
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「へー! あ、それでさ。松村さんが弾いてた雰囲気ではこんな感じで弾けばこんな感じの音が出る、ってイメージがあるのに、私が弾いてもそうは音が出ないんだよね」
 
「そりゃ松村さんはヴァイオリンのプロだもん。音楽大学のヴァイオリン科を出てるから、無茶苦茶鍛えられてるからね」
「やはり、それって私の腕の問題かなあ」
 
「まあ楽器のせいもあるかも知れないけどね。松村さんのヴァイオリンは多分本体だけで800万円くらいする。弓を入れたら1000万円越える。これ弓とケースと弦と調子笛を入れても58万円だもん」
「うむむ。17.2倍もするのか」
 
いきなり少数点付きで数字が出るのが政子らしいと思った。
 

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「これちょっと弾いてみる?」
 
と言って私は部屋の奥からヴァイオリンケースを出してくる。
 
「あれ?冬ってヴァイオリン持ってたんだっけ」
「まあね」
と言いながらケースを開けて中を取り出すと政子がしかめっ面をする。
 
「何?これ?」
「サイレント・ヴァイオリン」
「これ、ヴァイオリンなの〜?」
「ギターにアコスティックギターとエレキギターがあるようなものだよ。これはいわばエレキ・ヴァイオリンだね」
 
と言って私はヴァイオリンを居間のアンプにつなぎ、音を出しながら調弦する。
 
「なんか変な感じだ」
「まあ、変だけど、ちょっと弾いてごらんよ」
「うん」
と言って弾き出す。
 
「あ、これ結構いい感じ」
「さっきより随分いいね」
「なんかこれ形は違和感あるけど、いい音出るね。これで弾くと、自分が持ってるイメージと実際に出る音の差が割と小さい」
 
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「わずか3週間で、マーサってそちらのヴァイオリンの楽器能力限界を突破しちゃったのかもね」
 
「これ気に入った。このヴァイオリンちょうだい」
「まあ、いいよ。量産品だから私はまた同じの買ってもいいし」
 
「でもこの子弾いて分かった。普通のヴァイオリンでも、もっといいのを買うと、きっと私もっと弾けるよね」
「そんな感じするね。このサイレント・ヴァイオリンは結構良いヴァイオリン並みの音が出るから」
 
「よし、そしたら普通のヴァイオリンの良いのも買いに行こうよ」
「まあそうだね。その子はその子としてやはりアコスティック・ヴァイオリンの感覚はちゃんとつかんでおく必要あるし」
 
「50万のヴァイオリンを突破してしまったとしたら、次は500万?」
「いきなり10倍になるのか!」
「500万くらいなら冬、出せるよね?」
「うん、まあ出してもいいよ」
「だって50万のヴァイオリンを3週間で限界突破したら100万くらいではまた3週間で限界突破しちゃうよ。500万なら450万円分、27週、約半年もつんじゃないかな」
 
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「マーサそんな計算してたら3年後には2500万くらいのヴァイオリンを買うことになる」
「う、それはさすがに辛いな」
 
「それに500万のヴァイオリンだと入手するのに時間がかかりそうだよ。マーサ、割とすぐ欲しいでしょ?」
「今日欲しい」
「数百万クラスのヴァイオリンはたぶん納期が1〜2ヶ月掛かる」
「それ我慢できない」
 
このあたりは、ワガママと言えばワガママなのだが、2ヶ月経ってしまうと多分もう政子は冷めてしまって練習しないだろう。でも私は今政子にヴァイオリンを覚えさせるのは色々な意味で好都合だと思っていた。音感を付けさせる意味でも、そして音楽への情熱を高めるためにも。
 
「ヤマハのArtidaとか買ってみる?」
「何それ?」
「世界のヤマハだからね。量産品だから価格は95万円くらいだけど、どうかしたハンドメイドを軽く越える品質があるよ。多分マーサでも限界突破に数ヶ月かかると思うから、それを弾いてる間に良さそうなヴァイオリン探せばいい」
 
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「あ、七星さんが、良いコンデジは下手な一眼より上質とか言ってたね」
「そそ。Artidaはまさに良いコンデジという雰囲気。国産品で量産品だからどこかにきっと在庫があるよ」
「じゃ、冬、在庫のある所を調べて」
「はいはい」
 
私は笑って置いてそうな所数件に電話してみた。すると幸いにも3件目で在庫があるというところが見つかった。
 
「YVN200S, YVN200G どちらもあるって。とりあえず確保しておいてくれるらしいから、行ってみよう」
「わあい! でそのSとGの違いは?」
 
「Sはストラディバリウス・モデル、Gはガルネリ・モデル」
「あ、その手のには怪しいのが多いと七星さんが」
「それは事実だけどヤマハのは大丈夫だよ」
「なら行って弾いてみよう」
「うん」
 
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そういう訳で私たちは在庫を確保しておいてくれた楽器屋さんに行ってみた。
 
政子が試奏してみる。両方のヴァイオリンで『G線上のアリア』を弾く。
「Sの方が好みかな」
 
「うん。マーサ、ストラディ・タイプの方が良く音が出てる。そちらの方が相性いいみたいね」
 
「じゃ、これ1個くださーい」
と政子が言うので、店長さんが戸惑っている雰囲気。90万の商品をこんなに簡単に決めるとは思っていなかったのだろう。私たちはユニクロのトレーナーにジーンズで、全然お金がありそうに見えないし!
 
「あ、えっと2年ローンくらいに致しましょうか?」
「現金で払います。今すぐ振り込みますので、口座番号教えて頂けますか?」
と私は答える。
 
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「はい!」
 
私たちはヴァイオリン本体(95万)と弓(15万)、ケース、それに弦はナイロン製のを予備まで含めて2セット買うことにした。結局ケースはおまけしてくれた。金額を確認してその場で携帯から振り込む。店長さんが着金を確認して商品を渡してくれた。更に電子チューナーまでおまけに付けてくれた。
 
「これがあれば私がいない時でも音を合わせやすいよね」
「うん多分。調子笛ではなんかうまく合わせきれないから、いつもピアノの音で合わせてたよ」
「ああ、そう言う人は結構いる」
 

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買って帰ってから早速私が弦を張って調弦し、政子に渡す。
 
弾き出す。
 
58万円のヴァイオリンよりはぐっと良い音が出るし、さきほどのサイレントヴァイオリンよりも良い音が出る感じだ。
 
「すごく良い感じだね」
「うん、私この子凄く気に入った」
 
「私のフルートと合わせてみる?」
「うん、合わせよう、合わせよう」
 
ふたりで『歌の翼』を演奏する。58万円のヴァイオリンと合わせた時とは全く雰囲気が違う。
 
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