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■夏の日の想い出・破水(4)

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また学校の友人(たぶん奈緒)・スタジオの友人(きっと有咲)に接触して「まじめで何にでも熱心な女子高生ですよ」という反応を聞いたらしい。
 
一方政子の方も朝の登校の姿はキャッチできなかった。これは政子が遅刻の常習犯で、非常識な時間帯に学校に出てきていたからだと思う。そして補習が終わった後は、図書館に寄った後、川縁を散策。詩を書いてから帰宅していた。ひとり暮らしではあるが、乱れた生活をしている雰囲気は無い。
 
また当時政子には婚約者がいたものの、ちょうどこの調査をしている最中に別れたこともキャッチされていた。つまり政子は絶妙なタイミングでフリーな身になった訳である。
 
また、何度か冬子が政子の家を訪問し、一緒に御飯を作ったりしている様子も見られていた。このふたりはとても仲の良い女友だちのようである、と結論付けた報告書が提出されたらしい。
 
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そのような状況の中で、8月29日に、○○プロがローズ+リリーのプロデュースをしたいという話が来たのに私はびっくりした。
 
○○プロが△△社と関係があるということを私は実は麻布さんから聞いていたのであったが、聞いたまますっかり忘れていて、この話が来てから思い出した。
 
このあたりの経緯だが、○○プロの丸花社長は、私たちが△△社と契約したと聞いてそれなら「私の性別問題」もクリアになり、芸能活動に親が同意したのかと安心して、動いてきたということだったようである。ただ、浦中部長や前田課長は「私の性別問題」自体を知らなかったのだが。
 
私はこの付近のことも逐次畠山さんにも報告していたのだが、偶発的な事件をきっかけに、なしくずし的に事態が推移してしまったので、畠山さんも打つ手が無かったようであった。
 
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一応ローズ+リリーの活動は9月13日の荒間温泉で、リュークガールズの前座を務めるので終了する予定ではあったのだが、畠山さんも和泉も
「たぶんそれでは終わらないよ」
と言った。私もそんな気がしていた。
 
ただこの時点では私も畠山さんもローズ+リリーがメジャーデビューということになるのは年末かひょっとしたら年明けくらいの時期ではと考えていた。
 
それを大幅に早めたのが「上島フォン」であった。
 

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9月12日、私たちのメジャーデビューに関する打ち合わせで★★レコードに行っていた浦中さんは、廊下で偶然上島先生と遭遇する。
 
それで浦中さんは「今度女子高生2人組のユニットを売り出すんですよ。何かいい曲ないですかね」などと言った。この時、浦中さんは特に何か意味があって言った訳ではないと思う。挨拶代わりのようなものである。そして上島先生も「あ、それじゃ何か一曲書いてあげるよ」と言った。これも外交辞令のようなものであり、ほんとに書きましょうという意味では無かったと思う。この業界ではよく「今度一緒にメシ食いましょう」なんて話をするが、それが実現されることは滅多に無い。
 
ところがその夜、上島先生はほんとうに私たちのために『その時』という曲を書いてくださったのである。しかも先生は書き上げたら即、★★レコードの町添部長に電話して
 
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「ローズ+リリーという女子高生2人のユニットに『その時』という曲を書いてあげたので、そちらからすぐCDを出してあげてください」
などと言った。
 
上島先生は当時★★レコードの売上げの2〜3割を稼ぎ出していた売れっ子作曲家であり、上島先生から町添さんへの電話は、「上島フォン」と呼ばれていてレコード会社としては無視できない存在であった。
 
AYAがデビュー直前にメンバー2人が脱落してもそのまま残りの1人だけでデビューすることになったのも上島フォンであったし、map(エムエーピー)という少し不思議なサウンドの女性4人組がデビューできたのも上島フォンであった。後に私たちが『夏の日の想い出』という大ヒット曲を出すことになったのも上島先生からの電話であった。
 
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レコード会社が毎回それに振り回されながらも上島フォンに素直に従って行動してきたのは、それがしばしば突飛な要求ではあっても、結果的には必ずセールスにつながっており、誤りが無かったからである。
 
そしてこの「上島フォン」で私たちのメジャーデビューは決まってしまった。
 

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当時は、この時なぜ上島先生が、それまで全く関わりもなく、無名であった私たちに曲を書いてくださったのか全くの謎であった。
 
後に(10月末にしゃぶしゃぶ店でお会いした時)上島先生は、こんな説明をした。
 
「その日、ちょうど用事が1件キャンセルになって、それで唐突に時間が空いた時に、そういえば浦中さんから1曲書いてと頼まれたなと思って、『明るい水』
のCDを取り敢えず掛けてみたら、ふたりの歌に強烈なオーラを感じた。この子たちはきっとビッグスターになると思ったので、俄然やる気が起きた。そしてジャケ写のふたりの顔を眺めていたら、恋物語のイメージときれいなモチーフが浮かんで来たので、それを急いで書き留めて曲に仕上げたんだよ」と。
 
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ところが11月初旬に今度は上島先生の御自宅を訪問した時に先生は別の説明をなさった。実はその用事をキャンセルさせたのは雨宮先生だったというのである。
 
その日私たちは「新曲をあげるから取りに来て」と言われて、コンサートの前日ではあったものの、上島先生からそんなことを言われたら行かなくてはということで、須藤と政子の3人で御自宅を訪問した。
 
しかし上島先生は多忙で、実際にはなかなか書いてくださらない。その内政子は眠ってしまい、須藤さんも途中でダウンして、結局私だけが起きている状態でもう明け方近くになって『甘い蜜』という作品を1時間ほどで書き上げてくださった。
 
この夜、雨宮先生が来ておられて、結果的には私と上島先生・雨宮先生の3人で徹夜したのであったが、その時に雨宮先生が
 
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「あの時、ライちゃんに用事をキャンセルさせたのは私」
と明かした。
 
本当は上島先生は浦中さんと会った日、別の歌手のライブに招待されていて、そちらに行くつもりでおられたのが、上島先生が『明るい水』のCDを持っておられるのを見て雨宮先生が「この子たち、絶対売れるし、今回は他の人の作品ばかりだけど、この子たち実は物凄く優秀な曲を作る。その内ライちゃんこの子たちに追い抜かれるかもよ。だから将来のライバルにはなむけを贈ってあげなよ」とおっしゃったので、それでライブの予定をキャンセルして曲を書いてくださったのだということであった。
 
結果的に、やはりローズ+リリーのメジャーデビューには雨宮先生が大きく関わっていたようであった。
 
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このメジャーデビューの直前は実に慌ただしかった。私自身の記憶にも混乱があるのだが、当時のダイアリーを元に追ってみると、こんな感じであった。
 
9月12日に浦中さんが★★レコードの廊下で上島先生と遭遇し、その夜、先生は『その時』を書いて下さった。
 
翌13日、ローズ+リリーは「最後の仕事」になる予定だった荒間温泉での仕事に行ったが、上島先生が私たちに曲を書いてくださったという話に驚愕する。須藤さんは私と政子に「この曲とカップリングする曲をあんたたち書いて」
と言ったので、その夜私と政子は『遙かな夢』という曲を書いた。
 
翌14日に私たちがその曲の譜面を提出すると、須藤さんは実際問題として私たちに曲が書けるとは思ってもいなかったようで、びっくりした顔をしたが、譜面を見て「これ凄い良い曲じゃん!」ということで採用してくれた。
 
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このあたりは須藤さんのおおらかな性格が幸いしている。普通ならメジャーデビューしようという時に、それまで何の実績も無かった私たちの曲を採用はしてくれなかったであろう。
 
15日はKARIONの新譜『秋風のサイクリング/水色のラブレター』の録音最終日で、私は学校が終わってからすぐスタジオに入って、深夜までエンジニアとしての仕事をした。この新譜は、それまで、ゆきみすず作詞・木ノ下大吉作曲の曲を中核にCDを出していたのを、森之和泉(KARIONのいづみ)+水沢歌月(私)のペアで書いたものを中核に据えるという、方針の大転換をしたCDであり、実は私にとっての、もうひとつのメジャーデビューでもあった。それでこの音源に関する作業は、非常に重要であった。
 
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(プロデュースは前作から引き続き、私と和泉の共同である。前作ではプロデューサーの名義は畠山さんにしたのだが、このCDからは『karion』の名義でプロデュースを行うようにした。小文字でkarionにすることで歌唱ユニットとしてのKARIONと区別している)
 
このKARIONの新譜に関するスタジオ側の作業は17日水曜日の深夜まで続いた。当時スタジオ自体が今にも倒産しそうな雰囲気だったので、その前に作業を終わらせようと、麻布さんにしても私や他の助手さんにしても必死だった。私は帰らせてもらったが有咲は月水と徹夜している。
 
ローズ+リリーの方の録音作業は、21日の日曜日にスタジオミュージシャンさんたちの伴奏で1日で行われた。政子がきちんと歌えるように、私は18日から前日20日まで、毎晩遅くまで一緒に練習をした。
 
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そのローズ+リリーの録音をした翌日、22日に麻布さんのいたスタジオが倒産した。麻布さんは「未払い分の給料は僕が立て替えておくよ」と言ってその日の内に私と有咲に現金を渡し、その週末にはニューヨークに行ってしまった。
 
この22日には実はKARIONの新譜用のPVの撮影もした。私は髪を振り乱して激しくキーボードを弾いている所を撮影されたが、私の顔だけは映らないように配慮してもらった。
 
このKARIONの『秋風のサイクリング/水色のラブレター/嘘くらべ』のPVは現在でも3本とも動画掲載サイトで見ることができるが、そこでキーボードを弾いている女性プレイヤーが実は私であることに気付いた人は未だに存在しない。
 
元々KARIONに誘われていたのを断って、別途ソロシンガーとしてデビューする方向を模索していた所が、やむにやまれぬ状況ではあったものの他の事務所からデビューすることになってしまったので、そのお詫びの気持ちもあって、私はこのPVには出演したのであった。
 
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「でもいいんだっけ?」
と畠山さんがさすがに心配したが
 
「だって、△△社との契約書では『ローズ+リリーとして』の他での歌唱が禁じられているだけですから。『KARIONとして』キーボード弾くのは全然問題無いです。そもそもあの契約書は法的に無効だし」
と私は開き直って言った。
 

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翌23日、私たちは27日ローズ+リリーのデビューイベントを埼玉県のプールで行うという話を聞く。プールなので、女子水着を着るようにと言われ、政子は私がうまく女子水着を着られるようにと、楽しそうな顔でブレストフォームを一緒に買いに行き、またタックすることを要求した。
 
女装で女子水着を着るような場合に、お股の処理方法があるはずだと言って政子はインターネットを検索していたが、なかなか該当するようなものが見つからない。
 
「以前何かで見たことがあるのよ。タップとかタッチとかそんな感じの名前だった気がするんだけどなあ」
と政子は言った。
 
「タップ、タッチ? タット、タッツ、タック、・・・」
「あ、それだ。タックだよ、確か」
と言って政子はそれでネットを検索してタックの方法を見つけ出した。
 
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私は実際問題として、タックは頻繁にしていたのだが、いきなり出来ては変に思われるかなと思い、最初うまくできない振りをした。
 
すると政子は「私がやってあげる」と言って、私のお股に楽しそうに触りながら協力して、テープタックを完成させた。
 
政子はこの私を「女の子に変身させる作業」がとても楽しかったようで、この日から翌日に掛けて大量の「女子化ソング」を書いた。
 
『女子力向上委員会』『ペティコート・パニッシュメント』『お化粧しようね』
『去勢しちゃうぞ』『美少女製造計画』『男子絶滅計画』『胸を膨らませる君』
『もうおちんちんは要らない』『ハサミでチョキン☆』『オトコノコにあってオンナノコに無いもの・・・トれ・・すよ』『女の子にしてあげる』『お股は軽やかに』『邪魔な物は取っチャオ』
 
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などといった歌があり、私は政子の要求に従い、これらに10月中までに全て曲を付けた。
 
(この間、政子は私にお化粧をしてみたり、お股におちんちんに見立てたフランクフルトソーセージを立ててからハサミでチョキンと切断するなど楽しそうに「私で」遊んでいた)
 

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政子は更に「女子水着姿を人に見られる練習をしよう」と言って、私をプールに連れて行った。そして「さあさ、女子更衣室に行きますよ」などと言って私を強引に女子更衣室に連れ込んで着替えさせる。
 
そしてプールではデビューイベントの時の演出を練習した。政子のアイデアは成功すれば、かなりインパクトがあると思ったので、私は素直に受け入れて、熱心に練習した。
 
プールの両端から飛び込み、同じ速度で泳いで、同時に中央のステージに上がるというもので、そのためふたりのペースを合わせる練習を25日と26日の2日間、たくさんした。
 

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そして、私たちは9月27日の『その時/遙かな夢』の発売日を迎えたのであった。
 
 
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