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■夏の日の想い出・高校1年の春(4)

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麻布さんは、このスタジオでのプロ級ミュージシャンの音源制作でのエンジニアというのが主たる仕事であったが、若いわりにコネが多いようでコンサートのPAの仕事も知り合いから特に頼まれると受けていた。ある土曜日にボクがいつも通りにスタジオに顔を出すと、
 
「あ、唐本ちゃん助かった。今日は町田ちゃんが急用らしくて休みなんだよ」
と言われる。
 
「あら」
「今からMURASAKIのライブのPAやりに行くから、ちょっと手伝って」
「はい!」
 
大物アーティストになると、専任のPAが付いていることが多いのだが、この人は半年ほど前にそれまで所属していたグループから「独立」して、まだスタッフが固まっていなかったようで、スポット的に依頼があったらしい。
 
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ボクはスタジオの電話を借りて母に電話し、いつも出入りしているスタジオで、有咲が休んでいて、その代わりを頼まれたので遅くなると連絡した。
 
「遅くって何時頃?」
「たぶん10時くらいになる」
「分かった。気をつけてね」
 
麻布さんが使っているいつもの助手の人2人と一緒に車で会場に入った。大型機材の運び込みは、私の腕力では無理なので、細々としたものを運ぶ。また使い走りをたくさん頼まれるので、ほんとに会場内をたくさん走り回った!
 
「唐本ちゃん、人の顔をすぐ覚えるね」
「はい、それ私、得意です」
「**さん分かる?」
「分かります」
「じゃ、これちょっと伝えてきてくれる?」
 
という感じで、その日はひたすらメッセンジャー・ガールだったのである。
 
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助手の人が配線を確認、モニターの状況をチェックした。
 
「これ少し音出してみたいね」
「唐本ちゃん、そこのマイクから何か歌ってみて」
「はい」
 
と答えると、ボクはステージ中央のマイクの前に立ち、MURASAKIの最新の持ち歌を歌い出す。
 
「うまいじゃん! もう少しマイクに近づいて歌って うん。いい感じいい感じ」
 
その後、ボクは「音出す係」になり、音響確認用に用意していたギター、ベースを弾いてみたり、本番用のドラムスセットに座って、ドンチチャチャ、ドンチチャチャという感じで8ビートのリズムを打ってみたりして、それで麻布さんはセッティングを確認していた。ドラムスは最初の設定があまり良くなかったようで調整に少し時間が掛かっていた。
 
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「しかし君、ほんとに器用だね!」
「器用貧乏というのは、よく言われます」
 
「でも君、あれだけ歌がうまかったら、歌手になれるよ!」
「あはは、なれたらいいですね」
 

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やがてバックバンドの人たちが到着したが、MURASAKI本人の到着は遅れているようだった。そのうちリハーサルを始めなければいけない時間になるのに、まだ本人が来ない。
 
「困ったな。充分な時間の余裕を持って入ってくれることになってたから、リハーサル歌手は用意していないのに」
とプロダクションの人っぽい人が言っている。
 
「誰かリハーサル用に呼び出しますか?」
「いや。それでは間に合わない。本人、電話通じない?」
「通じません」
 
「リハーサル無しでやるか?」
「それはちょっと不安が。。。というか、MURASAKIさん、本番には間に合うんでしょうね?」
「うーん。。。」
 
などという会話があった時、その会話の輪に入っていた麻布さんがチラっとこちらを見た。
 
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「畠山さん、うちのスタッフに歌のうまい女子高生がいるんですが、彼女にリハーサルを歌わせましょうか?」
と麻布さんがプロダクションの人に言う。
 
ボクは一瞬あたりを見回したが、麻布さんの2人の助手はいづれも男子大学生である。まさか・・・・
 
「あ、その子、MURASAKIの歌、歌えますかね?」と畠山さん。
「おーい、唐本ちゃん、ちょっと来て」
 
やはりボクか!
 
「はい」
と返事して、ボクはそちらに行く。
 
「これ今日のセトリ(セットリスト:歌う曲目)なんだけど、歌える? 何なら歌詞カード見ながら歌ってもいいけど」
と訊かれる。
 
ボクはざっと曲目を見ていった。聴いたことのある曲ばかりである。
「全部歌えます。これアンコールは***と***ですか?」
「よく分かるね!それも歌える?」
「はい」
 
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「よし、じゃ君、ちょっとリハーサルで代わりに歌ってくれる?」
「はい、やらせてください」
 
「よし、リハーサルを始める。バンドの方、よろしくお願いします」
 
一方で畠山さんは「会社に連絡して、誰か合い鍵持たせてマンションに行かせて。ひょっとしたら寝てるのかも知れん。その時は叩き起こして連れて来いって」
と若い人に指示を出していた。
 

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そういう訳で、ボクはなかなか到着しないMURASAKI本人の代わりにリハーサルで歌うことになってしまった!
 
最初の曲の前奏をバックバンドの人たちが始める。ボクは笑顔でそのスタートを見てから、前を向き直し、歌を歌い始めた。
 
ここのホールは、以前倫代に誘われて地元のオーケストラの定期演奏会で来たことがある。その時は、観客席に座ってステージを見ていた。小学校・中学校で、他の会場ではあるがステージに立って歌うという経験は何度か合唱部でした。しかしその時は観客席には多数の人がいた。
 
今、観客席にいるのは、PAの麻布さんと助手の人、それにプロダクションの畠山さん、それにレコード会社の関係者だけである。
 
その空っぽの観客席に向かって歌うのは少し変な感じもしたが、ボクはそこに満員の観衆がいることを想像して歌っていった。
 
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間奏部分ではボクはマイクのスイッチを切って手拍子を打ったり、またアドリブでダンスをしたりした。
 
1曲目の演奏が終わる。
 
「ありがとうございました。なんかこうしてるとMCでもしたくなりますね」
などとボクは調子に乗って言ってみたのだが
 
「じゃ、しゃべってみて。但し1分以内」
と畠山さんから指示が出る。
 
「了解です。今歌った曲は、終わってしまった恋を歌ったものです。恋の歌というのは多いですが、特に終わった恋を歌う歌は多いですね。私も失恋は何度かしましたが、悲しくて涙が出てきます。でもいつか人は立ち上がらなければなりません。ですから明るい希望を持てるような曲も必要なんです。それでは次の曲はそういう恋への希望を歌った曲です。****聴いて下さい」
 
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ボクは心の中で秒数をカウントしながらしゃべった。そして2曲目の演奏が始まる。
 
そんな感じでボクはセットリストに書かれていた曲を順に歌っていった。演奏していくにつれ、バンドの人たちの調子が上がっていくのを感じる。音の走りが良い。ボクも遅れないように、しっかり歌っていった。
 
最初は直立で歌っていたのだが、調子が出てくるとこちらもアクションを付けながら歌いたくなってくる。アドリブでいろいろダンスをしながら歌っていく。あまり調子に乗って、間奏部分でクルリと1回転バレエのピルエットのようにして回転したが、その回転の途中で歌い出すタイミングが来てしまった!
 
あまりお腹に力が入らないところだが、そこは根性で声を出してしっかり歌い始める。
 
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畠山さんが笑っていたが、ボクはお辞儀をして歌い続けた。麻布さんは少し咎めるような視線だったので、心の中で「ごめんなさい」と言った。
 
やがて10曲歌った所で5分間の休憩と言われる。あ、これが《テイク・ファイブ》だよね、とボクは思った。
 
休憩時間にはうがいをして飴をなめた。その休憩時間にMURASAKIが寝ていたのをプロダクションの人が起こして、今から連れてくるという連絡があったことを聞いた。良かった、良かった。
 
まだすぐ到着する雰囲気ではないので、後半のリハーサルもボクが歌って進行する。後半はボクはステージを歩いてみたり、いろんなアクションをしながら歌った。そして、アンコール前の最後の曲をボクが歌った所で、MURASAKI本人が、やっと到着した!
 
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そこで、その後の2曲を本人に歌わせることになった。
 
寝起きのせいかあまり調子が出ないようだったが、さすがプロで、無難に曲をまとめていた。ボクは手拍子を打ちながら歌を聴いていた。
 
リハーサルが終わった所で公演前の休憩に入るが、ボクは畠山さん、そしてPA卓のところから立って近づいてきた麻布さんと笑顔で握手をした。
 

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やがて開場し、お客さんが入ってくる。席は7〜8割埋まった感じであった。
 
麻布さんの2人の助手の内、ひとりはPA卓の所で麻布さんの隣に座り、操作の手伝いをしている。もうひとりはステージの傍にいて、モニタースピーカーの類いの調整をしている。私はコンサート中は、主としてそのステージ側の助手の人のそばに居て、時々、そことPA卓との間を往復して、伝言を伝えていた。
 
曲の合間には色々彼から話しかけられる。ああ、男子大学生としてはそばに女子高生がいれば、いろいろお話とかしたくなるよなあ、などと思いながらボクは彼の話を聞いていた。あまり女の子と話すのは慣れてない純情男子という感じで、話題もあまり女の子が興味を持たないような話が多かったが、ボクは笑顔で相槌を打っていた。
 
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やがて21時前にライブが終了する。ここのホールの規則で21時半までに撤収を完了しなければならないので、この後は大忙しである。いろいろ荷物を持って車に運んでいく。機材を全部積んで、車がホールを出たのは21:35であった。
 
「お家まで送っていくよ」と言われたのだが、最寄りの駅まででいいです、と言って駅で降ろしてもらった。麻布さんからポチ袋をもらったが中身は1万円も入っていてボクはびっくりした。ボクは駅のトイレで父に見られてもいい程度の服装に着替えてから家に電話し、迎えに来てもらって帰宅した。
 

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次の水曜日、バイト先の厨房の奥で和泉と話していた時、和泉が「そうそう」
と言って話し始めた。
 
「こないだ、***ホールでMURASAKIのライブがあったんだけどね。本人直前までマンションで寝ていて、プロダクションの人が起こしに行って連れてくるなんて事件があったらしいんだよ。これ内緒ね」
と和泉。
 
「へ。へー!」
「あの人、前にも似たようなことしてて、その時は公演開始が30分遅れて曲を少しカットする羽目になったんだよね」
「ああ」
 
「今回もリハには間に合わなくて。たまたま現場のスタッフにMURASAKIの曲を歌える女子高生がいて、リハでは代わりに歌ったんだって」
「ふーん」
「ファンだったのかなあ。そういう人が偶然いて助かったって、うちの社長言ってたよ。なんか凄く歌がうまかったらしいんだよね。しまった、連絡先きいてて、うちに勧誘するんだった、とか言ってた」
 
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「あれ?和泉ってMURASAKIと同じ事務所?」
「うん。私は契約している訳じゃなくて、単に顔出してるだけだけどね」
「はあ」
 
「ちょっと私もその子の歌って聴いてみたかったね。MURASAKIの曲って歌いにくい曲が多いからさ。それを畠山さんが褒めるほど上手に歌いこなすって、結構な歌唱力のある子じゃないかなと思うんだよね」
 
「ああ、あの畠山さんって人が社長?」
「うん。そうだよ。って、畠山さん、知ってるの?」
「あ・・・えっと・・・そのMURASAKIのリハで歌った女の子というのがボクだったりして」
「えー!?」
 
「しー、しずかに」
「うん」
と言ったが、ボクたちはサブマネージャーに視線で叱られた。厨房であんな声を出してはいけない。
 
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「冬が歌ったの?」と和泉は小声で訊く。
 
「うん。観客のいないステージだったけど、凄く気持ち良かった」
「わあ。でもよく歌えたね。出たばかりのアルバムの曲もあったらしいのに」
「ボク、一度聴いた曲は歌えるから」
「あ、そうだった! でも聴いた曲をピアノとかで再現できる人はけっこういるけど、歌える人は少ないんじゃないかなあ」
 
「ボク、人の顔とかも1回見ただけで覚えるし、それと近いものかもね」
「なるほどねー」
と言ってから、和泉は
「一度うちの事務所に顔出してみる? 冬にはきっと興味持ってもらえるよ」
と言った。
 
「そうだなあ・・・・・ボク、まだ女子として行動するのに不安があるから、もう少しちゃんと女子高生になれてから、かな」
とボクは言う。
 
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しかし和泉は顔をしかめるようにして
「今既に完璧に女子高生だと思うけど」
と言った。
 
 
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