【娘たちの卵】(3)

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龍虎と支香が指定されたレストランに入り、紅川という名前を言うと、奥の個室に案内された。ドアを開けてもらって中に入り
 
「おはようございます。田代龍虎と親権者ですが」
と支香が言うと、中に居た紅川社長と田所マネージャーが驚いてこちらを見ている。
 
「ワンティスの長野支香さん?」
「はい。あちこちでお世話になっております。私がこちらの田代龍虎、本名長野龍虎の保護者です」
 
「すみません。長野さん、ご結婚なさっていたんでしたっけ?」
「いえ、独身です。恋人は時々作っていますが」
 
「では龍虎ちゃんは、長野さんとどなたの間の子供なんですか?誰か芸能人か音楽家ですか?芸能人ではない一般の方ですか?」
 
「いえ。この子は私の子供ではなくて、姉、長野夕香と、高岡猛獅との間の子供なんです」
 
「何ですと〜〜〜!?」
 
紅川社長は驚愕のあまり1分近く次の言葉が出なかった。
 

長野支香は龍虎本人にあまり聞かせたくない話なのでと言ったので、同席していたマネージャーの田所が
「龍虎ちゃん、ちょっと私と外に出てよう」
と言って、ふたりでオープン席の方に移動した。
 
それで支香は龍虎のことについて語った。
 
・ワンティスは恋愛禁止だったが、高岡猛獅と長野夕香はデビュー時点で既に事実上の結婚状態にあったので特に容認された。
 
・デビュー時点で既に夕香は龍虎を妊娠していた。それで密かに産み、生まれた子供は友人のミュージシャン夫妻の志水英世・照絵に託された。この時点で龍虎の存在を知っていたのは志水夫妻と事務所社長のみで妹の自分でさえ知らなかった。
 
・ところが高岡と夕香は事故で死亡してしまう。志水夫妻は葬儀に行くと共に龍虎の扱いについて相談しようとしたが事務所社長から追い払われてしまう。
 
・困った志水夫妻は自分たちで龍虎を育てようと決意。自分たちの子供のように可愛がって育てた。高岡側からの「預け料」の支払いも途絶えてしまったのだが、ふたりは自分たちの収入だけで頑張って龍虎を育てていた。
 
・龍虎が5歳の時、病気で入院することになった。あちこちの病院を回ったものの、原因は不明であった。
 
・その最中に志水英世が崖から転落して死亡する。
 
・収入が無くなり入院中の龍虎を抱えて途方にくれた志水照代が、ミュージシャン時代の伝手を辿って、自分に連絡してきた。それで初めて自分は龍虎の存在を知った。しかし自分ひとりではどうにもできないので、上島雷太に相談した。それで上島が、龍虎の入院費などを出してくれるようになった。
 
・この時点で実は龍虎には戸籍が無いことも判明した。上島はその方面に明るい弁護士に頼み、その弁護士もかなり苦労した上で、長野龍虎の戸籍を作ってくれた。結局龍虎は(既に死亡している)長野夕香を戸籍筆頭者とする戸籍に入れられ、叔母である自分が未成年後見人となった。
 
・上島は自分の知人に色々尋ねて、龍虎の症例に該当するような病気が無いか調べてくれた。その結果、渋川市の病院の先生が似た例を医学雑誌に報告していたことが判明。龍虎を連れて訪ねてみると、確かにその病気だということが判明。原因は極めて発見困難な場所にある腫瘍で、手術を受けて摘出した。
 
・龍虎の入院は年中から小学1年まで断続的に2年半にも及んだ。渋川市の病院に辿り着くまで何度も転院している。
 
・それで退院のメドもついたが、困った問題が起きた。龍虎が入院中は良いのだが、退院した場合、自分は仕事が忙しくてとても龍虎の世話が出来ない。志水照代も福井県の実家が大変になっていて、実家に戻らなければならない状態だった。しかし龍虎をひとりで放置できないし、月に1度は渋川市の病院に検診のため連れて来なければならない。
 
・一時は照代が龍虎を連れて福井の実家に戻り、毎月JRで往復しようかとも言っていたのだが、それは病み上がりの龍虎には体力的に辛すぎることだった。
 
・それで悩んでいた時、龍虎は偶然同じ病院に入院していた田代幸恵と知り合い仲が良くなる。それで自分がこの子の退院後のことで悩んでいると言うと、だったら自分ちの子供にならないかと誘った。
 
・田代夫妻は医学的に子供を作れない。それでもし龍虎がうちの子供になってくれたら、自分たちの子供のように育てたいと言った。それで自分、上島、それに田代夫妻で話し合った結果、龍虎は田代夫妻の里子になることになった。
 
・退院して学校に復帰するこになった時、田代夫妻と龍虎で苗字が違う問題で何か他の子から言われていじめられたりしないだろうかと学校側と相談した。だったら「通称・田代龍虎」で学校の名簿には記載すればいいですよ、と校長が言った。それで龍虎は戸籍上は長野龍虎だが、通称・田代龍虎で生活している。
 
・上島から田代夫妻には毎月かなりの額の養育費が支払われているが、田代夫妻は基本的には自分たちの給料だけで龍虎を育てており、上島からの養育費は、バレエなどの高額なレッスンの費用や楽器の購入費などにのみ使用している。
 

「だったら、龍虎ちゃんのデビューに向けて話し合う段階では、田代さんたちと上島先生も入れて話し合った方が良いですね」
と紅川社長は言った。
 
「そうですね。あらためてまた場所を設けて頂ければ」
「でしたら、話し合いに都合の良い日時を指定して頂けませんか。上島先生は物凄くご多忙のようですので」
 
「分かりました。連絡を取ります」
 

そこまで話が終わった所で龍虎たちを呼び戻した。
 
「叔母さんから話を聞いたけど、君もまだ女子中学生なのに、ほんとに今まで大変だったんだね」
と紅川さんは言った。すると龍虎は困ったような顔をして
 
「私、よく間違われるんですけど、男の子です。だから女子中学生ではなく男子中学生です」
 
「何〜〜〜〜!?」
と紅川さんは三度(みたび)絶句した。
 

「でも、君、スカート穿いてるじゃん」
 
「オーディション受ける人はみんなスカート穿いてと言われたもので・・・」
と龍虎が言うと、長野支香は可笑しそうに
 
「この子は可愛いもんだから、小さい頃からみんなにスカート穿かせられたり、振袖着せられたりとかしてるんです。だからこの子にとってスカートは普通の服なんです」
 
「なるほどー」
と言いながらも紅川さんは戸惑っているようだ。
 
「もしかして女の子になりたい男の子とか?」
「みんな『女の子になっちゃいなよ』って唆すんですけど、私は女の子にはなりたくないです」
 
「いや、女の子になりたい男の子を扱ったこともあるので、もしそうなら、デビュー前に性転換手術を受けてもらった方がいいのかなと一瞬思ったのですが、そういうのではないんですね?」
 
「性転換手術は勘弁して下さい」
 
「あれ?でも君、水着になってたよね?男の子なら、お股の所が膨らみそうなのに」
「私の小さいから」
「いや。待てよ。胸も膨らんでいた気がする」
 

それで支香が説明した。
 
「この子は先ほども説明したように、幼稚園から小学1年に掛けて大病をして。それでかなり強いお薬とかも使っていたので、一時は髪の毛も全部抜けてしまってウィッグを使っていた時代もありますし、お薬の副作用で、男性器の発達も遅くて、ほんとに小さいんですよ。それとやはり副作用で胸も少しだけ膨らんでいるんですよね。ただ、昨年末に完治宣言が出て治療は終了したので、おちんちんも少しずつ大きくなっていくし、胸も小さくなって行くだろうという先生のお話なんです」
 
「そういうことでしたか。じゃもう病気の方はもういいんですか?」
「はい。やはり治療の副作用で、この子、昨年頃は小学2〜3年生の女の子くらいの背丈しかなかったのですが、治療を終えた後、1年ほどで随分背が伸びて、今は小学6年生の女の子程度の背丈はありますね」
 
「へー。じゃ急速に回復してきているんですね」
「おちんちんも伸びたよね?」
「うん。この春からでも2cm近く伸びたかな」
「それは凄い」
「でもまだ摘まめないもんね」
「うん」
と言って、龍虎は恥ずかしがって下を向いている。
 
「ああ、いいよ、いいよ。きっとすぐに大きくなるよ。あ、それでもしかして声変わりも?」
「そうなんです。男性器の発達が遅れているので、声変わりもまだなんですよ」
「なるほどですね」
と言いながら紅川は考えた。
 
声変わり前の男の子アイドルだって!? それはそれは・・・金の卵だ!!
 
「現在の健康状態は?」
「風邪も引かないくらいに丈夫ですよ」
「ほほお。体育の授業には出ているんですか?」
「はい。5月の体育祭の時は、最前列でパフォーマンスしたもんね」
「へー!」
 

そのあたりまで話が進んだ所で紅川社長は、思い出したように言った。
 
「ところでこのオーディションは女の子のオーディションだったのですが、なぜそれに応募したんですか?」
 
「え?女の子のオーディションだったんですか?」
と龍虎は驚いたように言った。
 
「だって『ロックギャルコンテスト』という名前だし」
と紅川さんは言うが
 
「もしかして『ギャル』って女の子のことなんですか?」
と龍虎は訊く。
 
「そうだけど・・・」
と言って、紅川さんは隣にいる田所さんを見る。
 
「ギャルということばは今の若い子たちには馴染みが無いかも知れないですね」
と言って彼女は笑っていた。
 
「そうだっけ?」
と社長。
「そういえばあまり聞かなくなった言葉ですね」
と支香も言った上で
 
「すみません。私はそのオーディションのタイトルをよく見ていませんでした」
と付け加えた。
 
「でも募集要項には芸能事務所と契約していない12-19歳の女性と書いていたと思うんだけど」
 
「済みません。私の友だちが勝手に応募しちゃったんです。自分がオーディション受けたいけど、一人じゃ不安だから一緒に受けてと言われて。書類とか音源とかもその子が勝手に用意して出してしまって」
 
「あ、もしかして埼玉予選で3位になった子?」
「はい。そうなんです。小学2年生以来の親友なんですよ」
と龍虎は答えた。
 
「その子・・・とはただの友だち?恋愛関係とかは?」
「すみません。私、その恋愛というのがよく分からなくて」
 
支香が補足した。
「この子は男性器の発達が後れている影響もあるかもしれませんが、恋愛感情というのが分からないと言いますね。その彩佳ちゃんとは本当に純粋にお友だちですよ、そもそもこの子、友だちは女の子ばかりで」
 
「ええ。私、男の子の友だちってほとんど居ないです」
「へー」
 
「女の子たちからは普通に女の子の友だちと同列に扱われている感じだよね」
「何かそんなことも言われました。中学になって学生服を着て私が学校に出てきたら、今までみたいに付き合えないかもと思ってたけど、その心配は全然無かったって言われました。私、学生服を着てても女の子にしか見えないからとか」
 
「ああ、確かに君は学生服を着たら、女子中学生の男装に見えてしまうかも」
 
「応援団さんですか?と言われたこともあります」
「確かに最近は応援団はどこも部員不足だから、女子部員が学ラン着てやっている場合もけっこうありますよね」
 
「そうなんです。それかと思われたみたいで。だから私、しばしば男子トイレを使えないんですよ」
「追い出されちゃうね」
「え〜〜?だったらまさか女子トイレ使うの?」
 
「できるだけ多目的トイレとかの男女共用トイレを使うようにはしているんですけど、しばしば友だちから女子トイレに連れ込まれちゃいます。それで私が学生服でトイレの待ち行列に並んでいても、誰も騒がないんですよね」
 
「まあ学生服を着てても女の子にしか見えないからね。修学旅行では女湯に連れ込まれたと言ってたね」
「嘘!?」
 
「この子、他の子の裸を見ないようにずっと目を瞑っていたそうです。当時この子の裸は女の子の裸にしか見えませんでした。ちんちんが小さくて肌に埋もれていたので」
 
「恥ずかしかったけど、男湯には入れさせてもらえなかったから」
「まああんたが男湯に入ったら襲われちゃうだろうね。部屋も女子と一緒に寝たよね」
「気心の知れた子たちばかりだったから安眠できました。私は男子部屋に入れられたら安眠出来なかったと思います」
 
「あんた自身も、周囲の男子たちもね」
「そうかも」
 

紅川さんはかなり考えていた。そして言った。
 
「要するに君は、女の子になりたい男の子ではなくて、現在暫定的に女の子である男の子なんだ?」
 
「そんな指摘をされたことはあります。自分では普通の男の子のつもりなんですけど」
と龍虎が言うが、支香は苦笑していた。
 

紅川は少し協議したいから少し待っててくれと言われ、龍虎と支香がオープンスペースに移動した。30分ほどしてから、また部屋に入ってくれと言われて入る。
 
「まあそういう訳で、君は今回のオーディションの優勝者だったんだけど」
と紅川さん。
 
あまりにも驚くことの連続で伝え忘れていたのだろう。
 
「一応女の子のコンテストなので、優勝者は君だけど、第1回ロックギャルは2位の柴田さんにしたいと思う。それで両者ともデビューの方向で」
 
「わっ。柴田さんが2位だったんですか?あの子、凄く明るくていい感じですよ」
「うん。明るい雰囲気なのがいいよね」
と紅川さんも笑顔で言う。
 
「それで君は第1回ロックギャルコンテストに優勝した、新人男の子アイドルという線ではどうだろう?」
 
「やりたいです。私、父と同じ世界に入りたいとずっと思っていました」
「うんうん。高岡猛獅の息子だといえば注目度も凄いだろうし」
と紅川さんは言ったのだが、龍虎は言った。
 
「社長、たいへん申し訳ないのですが、もし可能なら、父が誰かというのは例えば20歳くらいまでは伏せていただけないでしょうか?父の名前を使って売り出すのは、父が喜ばない気がします」
 
「なるほど」
 
「社長、工藤夕貴ちゃんがデビューした時、しばらくの間は井沢八朗の娘だというのが伏せられていましたよね。ああいう例にならえませんかね?」
と支香が言った。
 
紅川さんはしばらく考えていた。
「君は純粋な素材として見た時も物凄く光り輝くものを持っている。それなら確かに父親の名は伏せておいたほうがより広い層のファンを開拓できるかも知れないね」
 
この件に付いては、あらためて上島雷太と一緒の席で協議することになった。
 

柴田さんとも話し合いたいということだったので、龍虎たちは退出して必要なら後でまた話をすることにする。それで龍虎と支香はラウンジに行って田代夫妻や彩佳たちと合流した。
 
「ボクが優勝だけど、女の子のコンテストだから、2位の子を第1回ロックギャルということにして、ボクも彼女もデビューという線でいくことになった」
 
「おお!おめでとう。とうとう龍も芸能デビューか」
「詳しいことについては、再度話し合いの場を持つことになったけどね」
「それでデビュー前に手術してちゃんと女の子になるのね?」
「しないよー!」
 

8月9-17日に台湾で行われた男子ウィリアム・ジョーンズ・カップだが、龍良を欠く日本は予選リーグ7戦全敗という悲惨な結果になった。取り敢えず5-8位決定戦に進み、ここで貴司が土壇場でスリーを決め、ブザービーターで逆転勝利する。5-6位決定戦でも貴司や前山ら、若手の活躍で接戦を演じ、延長戦に突入するが、そこで力尽きて敗北。
 
最終的には6位になった。予選全敗したにしてはまあまあの成績である。
 

8月18日帰国し、貴司はそのまま羽田から伊丹に飛んだ。
 
松山10:50(NH5823)13:30羽田15:00(NH31)16:05伊丹
 
千里は前日たまたま大阪に来ていたので、A4 Avantを運転して貴司を伊丹空港まで迎えに行った。
 
「お帰り。お疲れ様。頑張ったね」
「ありがとう。しかしまた6位だし」
「貴司のブザービーターが無かったら8位だったかも知れないもん。よくやったと思うよ」
「ご褒美にセックスとかダメ?」
 
「阿倍子さんとの離婚届けは?」
「え、えっと・・・」
「じゃフェラしてあげるよ」
「おぉぉぉ!!」
 
それで市川ラボの居室に行き、フェラをしてあげたら、涙を流して喜んでいた。
 

その後、晩御飯にすきやきを作り一緒に食べたが、貴司は遠征明けだし今千里と体力を使うこと?をしたので、たくさん食べた。
 
「でもアジア大会マジで頑張ってね」
「うん。頑張って、病床の社長にも報告しなきゃ」
と貴司が言うので、千里は驚く。
 
「社長さん、どうかしたの?」
「僕が台湾に行っていた間のことなんだけど、会議中に突然倒れて入院したんだけど意識不明らしい。原因不明とかで。明日会社が引けたあと、お見舞いに行ってくるよ」
 
「意識不明って、かなり重い病気なのでは?でも貴司の会社で社長が倒れたらやばいんじゃないの?今の社長さんになってから急成長したんでしょ?」
「そうなんだよね。取り敢えず今、先代社長の弟の昌二副社長が指揮を執っているんだけど」
 

その夜も貴司は21時から0時まで市川ドラゴンズのメンバーと一緒に練習した。千里は例によって貴司が練習している間にスペインに移動してレオパルダの練習に参加。日本時間の明け方こちらに戻る。そして朝御飯を一緒に食べてから、甘地駅で「いってらっしゃーい」と見送った。
 

8月18日(月).
 
&&エージェンシーの事務所に大株主の悠木朝道氏が訪れた。
 
「これはこれはどうも。何かありましたか?」
と笑顔で出迎えた斉藤邦明社長は、悠木氏の次の言葉に絶句した。
 
「今日から僕がここの社長になることにした。あなたには退職金1億円払うから1時間以内にここから出て行って。あ。メールアドレスは即削除するから、パソコンの使用は禁止ね」
 

2014年8月18日(月).
 
§§プロの紅川、シックスティーンの鳥田編集長、長野支香、志水照代、田代夫妻、そして上島雷太の会談が都内の料亭で行われた(龍虎は出席しない)。
 
ここで支香・照代・上島の三者から龍虎の出生と病気との闘いに関する説明が再度行われた。龍虎を日本の戸籍に掲載するために弁護士さんがしてくれた作業内容なども上島から説明があった。
 
「この子は奇跡の子ですね」
と鳥田編集長が言った。
「そして類い希な天才だと思う」
と上島雷太が言った。
 
「音楽の才能もダンスの才能も高いです。でも本人はどちらかというと演劇に興味があるようなんですよ」
と田代幸恵が言う。
 
「確認しますが、現在は、健康状態は問題無いんですね?」
「はい。再度健康診断も受けさせてきました」
と言って、長野支香は診断書を提出する。
 
紅川と鳥田が見て頷いている。
「では今は健康そのものなんですね」
 
支香は診断書を渡した時、性別の所が女の方に丸が付いているのに気付き、ギクッとしたが、紅川と鳥田は気付かなかったようである。
 

「2位の柴田邦江ちゃんの方も、繰り上げというのには不満があるけど、大きなチャンスだからぜひやりたいということで、先日も言っていましたように《ロックギャルコンテスト初代優勝者》と《初代ロックギャル》ということで、前後してデビューさせようと思っています」
と紅川さんは言った。
 
「時期的にはいつ頃になりますか?」
「たぶん年末年始付近。だから何かの特別番組ででもデビューさせようかと思っているんですよ」
 
「習い事とかクラブ活動は辞めさせた方がいいですよね?」
「お願いします。芸能活動との両立は無理だと思います」
「ただ、ピアノは直前に発表会が迫っていますし、バレエは年末に発表会があって、龍虎は重要な役どころなんですよ。今辞めると配役のやりくりができないと思うので、そこまではやらせてもいいですか?」
「年内だったらいいです」
「ではそれでよろしくお願いします」
 
それで龍虎はピアノは9月の発表会までで辞め、ヴァイオリンは夏休みいっぱい、バレエは年末の発表会で辞めることにしたのである。部活については学校教育の一環ということで、この後で再度調整した結果、2月の新人大会をもって退部することで学校側・事務所側の了承を得た。龍虎は最終的に3月に歌手デビューすることになったので、3月以降はプロということになり、アマチュア規定に引っかかって、それ以降は大会に(歌唱者としては)出られなくなるので、その直前まで部活を続けることになった。
 

龍虎の実の両親が高岡猛獅と長野夕香であることは、龍虎本人の希望通り、20歳になるまでは伏せることになった。
 
「それに実は高岡のご両親との問題もあるんですよ」
と長野支香は説明する。
 
「龍虎の戸籍を作った時、夕香は母親であることが裁判によって認められて、夕香の戸籍に龍虎は入籍したのですが、父親が高岡猛獅であることも当時DNA鑑定により明らかにはなったのですが、高岡の父、龍虎の祖父に当たるはずの人がそのようなことは認められないといって、龍虎の父親欄に高岡猛獅と記載することに反対しているんです」
 
「それはまたなぜ?」
 
「高岡が亡くなった後、お父さんは様々な人に高岡の知人だとか友人だとか言われて、随分詐欺のような目に遭っているんですよ。実は高岡の隠し子だと主張してきた人もあって、その時はDNA鑑定で否定されたのですが、そのような経緯から疑心暗鬼になっているんです」
 
「ああ」
 
「それでこちらは当時DNA鑑定書などもお見せして、丁寧に説明したし、上島さんにも話して頂いたのですが、心を開いて下さらなくて」
 
「いや、気持ちは分かる気もします」
 
「それで無理することもないだろうということになって、龍虎の父親欄は取り敢えず空白のままにしているんです。ですから法的には高岡猛獅との親子関係は未認定の状態なので、その状態のまま高岡猛獅の息子であると公表するのは、お父さんの感情を害することになります」
 
「その状況ならやはり当面伏せておいた方が良さそうですね」
 
「ですから公表するのは最低でもお父さんが軟化して下さった後ということに」
「ええ。そうしましょう」
 

「しかし上島先生は、龍虎ちゃんのいわばお父さんに近いポジションで支援して来られたんですね?」
 
「それでアルトさんには、僕自身の隠し子かと疑われて説明に苦労しました」
「ああ、それは上島先生の普段の行いが」
などと紅川さんは言っている。
 
「その件については全く面目ないです」
と上島は謝った。春風アルトは元§§プロのタレントであり、紅川は父親にも等しい存在である。
 
「だから龍虎は言いますね。ボクにはお母さんが4人(長野夕香・長野支香・志水照代・田代幸恵)、お父さんが4人(高岡猛獅・上島雷太・志水英世・田代涼太)いるって」
 
「いい人たちに守られていると思いますよ」
と紅川は言った。
 
この日の打合せで龍虎が§§プロから男の子タレントとしてデビューすることが決定。契約書を準備して、上島にも内容を確認してもらった上で今月中くらいに契約を結ぶことが決まった。実際には翌週8月25日(月)に契約書に長野支香が押印して契約は発効した。
 

千里はサマーロックフェスティバルの後、KARIONの全国ツアーにフルート・篠笛の奏者、および幕間ゲストとして参加するゴールデン・シックスのメンバーとして帯同した。ゴールデンシックスの方は、例によってメンバーは毎回違うのだが、千里がKARIONの演奏にも参加することになったことで、今回、カノン・リノン・タイモ(千里)の3人は固定となった。
 
ツアーはまずは東京から始まる。
 
2014.08.16(土) 東京国際パティオ
2014.08.17(日) 大阪ユーホール
2014.08.20(水) 金沢スポーツセンター
 
17日の大阪公演に出た後、18日に帰国して伊丹に飛んできた貴司を迎えて一晩市川ラボで過ごした。19日朝甘地駅で貴司を見送り、仮眠した後、市川ラボや先日購入したアパートを見てから、新大阪に移動してサンダーバードで金沢に移動。確保してもらっているホテルに泊まった。
 
甘地16:09-16:50姫路17:14-17:58新大阪新大阪18:16-21:00金沢
 
朝9時、1階ラウンジに朝食バイキングに行く。ここでカノン・リノンおよびこの日の公演に参加した、朝風月夜(美空の姉)、菱川典恵(千里の知人でレディ加賀に所属するシューティング・ガード)、大阪公演にも参加してもらった京都在住の入口孝子(元DRKのメンバー)と、朝食を取りながら打ち合わせる。
 
「ところで今日の楽器担当は?」
「私はグロッケンシュピール、梨乃はギター、千里はベース、孝子がヴァイオリン、月夜さんがキーボード、菱川さんがドラムス」
と花野子が説明する。
 
金沢公演ということで、千里が菱川さんに
「ちょっとドラムス叩いてくれない?」
と言って呼び出したのである。彼女は高校の軽音部でドラムスを打っていた。孝子は京都在住なので「金沢も近いよね?」と言って来てもらった。彼女は学校の先生なのだが、夏休み中なので有休を取って出てきてくれた。月夜さんは偶然金沢の友人の所に来ていて、昨夜ついでに美空に会いに来た所を徴用した。
 
「なんかうまくまとまっている気がする」
「でも私が居なかったらどうしてたの?」
と月夜が訊く。
「その時は北陸にいる知り合いに電話掛けまくって」
「何かひとつでも楽器出来たら、それをやってもらう」
「後は、花野子や千里を適当にコンバートして」
 
「花野子と千里が全国に知り合い居るから、その人脈で何とかなるのよね〜」
などと梨乃は言っていた。
 
「どうにも頭数が足りない場合は、赤字になるけど北海道から誰か呼ぶ」
「主婦してる子もいるから多分誰か空いてる」
「サーヤとかは来てくれる確率が高い」
「サーヤの場合は彼氏も一緒だな」
と言っていると、菱川さんが
 
「彼氏は子供のお世話係?」
などと言う。
 
「もちろん女装させて出演させる」
「彼の女装は全く違和感無い」
「女装趣味?」
「諸事情で、彼はしばしば女装させられる」
「女装してサーヤと並んでいる所で『どちらが男でしょう?』と訊くと多くの人が、サーヤの方が男だと思う」
 
「ああ、そういう夫婦は居そう」
「サーヤは小さい頃、お兄さんと一緒に遊んでいると、だいたい姉と弟だと思われていた」
「ああ、そういう兄妹は居そう」
 
「でも今日はフルートが居ないね」
 
大阪公演では滋賀県在住の大波布留子がフルートで参加したのである。彼女は銀行に勤めているので平日は動けない。
 
「そこはやはり千里にベース弾きながらフルートも吹いてもらうということで」
「さすがに無理!」
 

控室にはJR西日本(後援)の魚重さんも来ていた。本番1時間ほど前に、SHINに連れられて青葉とその友人たちが入ってくる。会場前に居たから拉致してきた、などとSHINは言っていた。
 
待っている間に千里と青葉の龍笛のことが話題になる。青葉が千里の龍笛を聴きたいと言うが「青葉みたいな名人の前で吹くのは嫌だ」と言って拒否する。しかし梨乃が
 
「じゃ千里が露払いで吹いて、青葉ちゃんが真打ちで吹くというのは?」
と提案するので
 
「うーん。まあ、梨乃がそういうのなら」
と言って、千里は荷物の中から煤竹の龍笛を取り出し、自由に演奏した。例によって途中で落雷がある。終わると物凄い拍手である。千里は微笑んで礼をした。
 
「凄い演奏を聞いた」
 
「でも私の演奏は青葉の足下にも及ばないよ」
と千里が言うので青葉は
 
「こんな凄い演奏をしてから、そんなプレッシャー掛けないでよ」
と言って、花梨製の龍笛を取り出す。青葉が吹き始める。この世の物とは思えない美しい音がする。
 
『こうちゃん』
と千里はポーカーフェイスのまま語りかけた。
『大丈夫だ。任せろ』
『うん』
 
青葉の龍笛演奏で部屋の中の色々なものが震動していたのだが、その中にJR西の魚重さんが持っている紙袋の中の皿のようなものがあったのである。
 
それがパリンと割れる。
 
何かが飛び出す。
 
その瞬間《こうちゃん》は千里の影から飛び出してその出てきたものを捕獲し、そのままどこかに運んでいった。
 
その他、窓ガラスが割れ、TAKAOのギターの弦まで切れてしまった。
 

物凄い拍手があった。しかし青葉は謝った。
 
「ごめーん。できるだけ控えめに吹いたんだけど、あれこれ物を壊しちゃった」
「ガラス代は私が弁償するからいいよ」
と冬子が言った。土居さんがガラスを交換してもらうために管理人室に向かう。TAKAOの弦の替えは花恋がすぐ買いに飛び出して行った。
 
「魚重さん、何か壊れたようですが」
「実はこれなんですが」
 
と言って、魚重さんが見せてくれたのは、素焼きの皿である。
 
「私もよく分からないのですよ。今朝、高岡駅に新幹線反対派の方が見えられましてね。神様か何かなさっている方のようでしたが、この皿が新幹線を走らせれば大きな不幸が訪れると言っていると言って、渡されたのを、時間が無かったのでそのまま持って来たんですが。割れちゃったのはやばかったかな」
と不安そうに言う。
 
しかし青葉はその皿を見て
 
「問題ありませんよ。この皿は今はきれいになっています。何かが封じ込まれていたようですが、中にあったものはもう消えてしまっていますね」
 
と言った。
 
「封じられていたものが消えたということは逃げ出したんですか?」
「いえ。消滅しています」
 
それで青葉は千里を見たが千里は無表情である。青葉は千里に対する疑惑を更に大きくした。
 
しかし実はこういうのも千里の布石だったのである。
 
京平をこの世に連れてくるための。
 

神崎美恩と浜名麻梨奈は唐突に&&エージェンシーに呼び出された。見たことの無い若い社員が
 
「社長さんからお話があるそうです」
 
と言う。斉藤さんから何の話だろうと思ったら、社長室と書かれた部屋(以前は休憩室だった)の巨大なテーブルの向こうの立派な椅子に座った見たこともない60歳くらいの人物が言った。
 
「君たちとの作詞作曲契約を解除するから」
 
「どういうことでしょう?それと済みません。そちら様はどなたでしょうか?」
 
「僕は先月ここの社長になった悠木だ。君たちの書く曲は平凡で全く詰まらない。だから契約解除する。今後XANFUSの音楽はダンスナンバーに定評のあるガラクン・アルヒデト君に依頼することにした。以上」
 
ふたりは顔を見合わせた。ガラクン・アルヒデトは30年前にハウスで一世風靡した人だ。生楽器演奏・ライブ感重視のXANFUSとは音楽性が違いすぎる。そもそもふたりは彼がまだ音楽活動をしていたこと自体を知らなかった。しかし争っても仕方ない。
 
「分かりました。これまでお世話になりました」
とふたりは答えた。
 
それで2人は社長室を出た。そこに外出から戻ったふうの見知った事務員、横浜網美が入って来たので、ふたりは彼女に小声で話し掛けた。
 
「社長交代したの?」
「そうなんです。私も何が何やらさっぱり分からなくて」
「後で話せない?」
「それがここの所、無茶苦茶忙しくて」
「じゃ網美ちゃんの時間が取れた時に連絡して」
「はい」
 

KARIONのツアーは続いていた。
 
2014.08.23(土) 札幌体育センター
2014.08.24(日) 宮城ハイパーアリーナ
 
24日は北海道から移動してきてライブをやっているので、そのまま仙台市内で1泊した。この日にはアジア大会に出場する男子代表Aチームのメンバーが発表され、貴司は入っていた。千里は仙台のホテルから電話しておめでとうを言った。
 
「ところで社長の容態は?」
「全く進展が無い。まだ50歳なのになあ」
「お見舞いには行ったの?」
「行ったけど面会謝絶で会えなかった。実際僕みたいな素人が見てもどうにもならないけどね」
「心配だね」
 
貴司たち男子日本代表は25-29日に第6次合宿、8月30日から9月6日にはオーストラリア遠征をこなすことになっている(*1).
 

(*1)史実では8月26日代表発表、8.27-31に第6次合宿、9.1-8にオーストラリア遠征なのを、物語の都合上2日ずらしています。
 

「それで金曜日に医者と話したんだけど」
と貴司が言った時、千里は最初社長さんの話かと思った。しかし違った。
 
「今回も結局受精卵は子宮に定着しなかったんだよ」
 
あ・・・そちらの話か。
 
「それで医者は言ったんだよ。今回使用した精子は物凄く優秀な精子だった。多分これ以上優秀な精子というのは存在しないだろう。だからそれでも着床しなかったということは、これは阿倍子の卵子では妊娠困難だと。それで医者は卵子を誰かから借りないかというんだよね」
 
「でも阿倍子さんには女の親族が誰もいないんでしょ?」
「うん。それで阿倍子の友人で誰か提供してくれる人がいないかと言ったんだけど、あいつ、友だちも全く居ないんだよ。学校時代も会社員時代も孤立してて」
「ああ」
 
「だったら、卵子の提供をしてくれるボランティアの女性グループに依頼しましょうかねと医師は言ったんだけど、その時、僕、思いついてさ」
「うん」
「僕の知り合いの女性で、阿倍子と同じAB型で、提供してくれるかも知れない人がいるから、その人に頼んでもいいかと言った」
 
「それ知り合いという所がミソね」
「そうなんだよ。僕の親戚では近親交配になってしまう。阿倍子はそれでいいと言った。実は前の旦那との不妊治療の時も、何度か他人の卵子を借りたらしい」
「なるほど」
「それでもダメな場合は最後は子宮まで借りる。つまり代理母という手もあるけど、できたら阿倍子も自分で産みたいというんだよね」
「まあ卵子も子宮も他の人となると、養子を取るのと変わらないしね」
「そうそう。しかも代理母の場合、日本の法律では実子として入籍するのが難しい」
「特別養子縁組するしか無いよね」
 

「そういう訳で、他人の卵子を借りてもダメだったら、もう不妊治療は打ち切った方がいいと医者は言った。そうハッキリ言ってくれるのは嬉しいと阿倍子も言った。前の旦那とやってた時はエンドレスで何年もやっていて、苦痛でしか無かったらしいから」
 
「それは辛いよね。子供を産む道具になってしまったようなもんだよ」
「うん。だから不妊治療が長引く間に、どんどん夫婦仲は冷めていったらしい」
「養子でいいじゃん」
「だよね。だから年内に妊娠成功しなかったら、子供無しでいいから、一緒に夫婦だけで暮らして行こうよと僕も言った」
 
「それは困る」
と千里は主張しておく。
 
「えっと・・・その件はまた後で話し合うとして」
「ふーん」
 
つまり阿倍子さんが年内に妊娠してくれればいいんだな。
 
貴司は言う。
 
「それで単刀直入に。千里の卵子を貸してくれないか?うまい具合に阿倍子も千里もAB型だから、子供が生まれて育った時に親と血液型が合わないことに悩まなくて済むだろ?」
 
こちらが思っていた通りの展開になったなと千里は思っているのだが、取り敢えずこう言っておく。
 
「私に卵子がある訳ないじゃん」
 
これは“眷属たちに”聞かせるためでもある。
 
「あのさぁ。話が面倒になるから、そういう嘘はこの際、やめて欲しいんだけど」
 
「じゃこうしない?誰かは明かせないけど、阿倍子さんと同じRH(+)AB型の女性に卵子を提供させる。ただそれが誰かは詮索しないで欲しいし、その採卵する時や事前に生理周期を確認したりする時、貴司も阿倍子さんも、その病院には近寄らないで欲しい」
 
「分かった。それでいい」
と貴司は言った。
 
「じゃその女性に都合の付く時に一度こちらの病院に来てメディカルチェックを受けてもらいたいんだけど」
 
「分かった。伝えておく」
 

8月25日(月)、青葉が千葉に出てきた。先月設置された社務所と、市が作っていた駐車場の様子を見に来るためである。もっと早く出てきたかったようだが、部活が忙しかったようだ。千里はこの日、朝一番の新幹線で東京に戻った。
 
千里:仙台6:36(はやぶさ2)8:07東京
青葉:高岡6:32(はくたか1)8:41越後湯沢8:49(Maxとき310)9:55東京10:08-10:46千葉
 
(北陸本線は大阪方面が上りで、上越新幹線は東京方面が上りなので、越後湯沢を境に列車番号は奇数/偶数が切り替わる。第三セクターのほくほく線もはくたかの番号に合わせてある)
 
先行して葛西の駐車場に飛んでもらった《こうちゃん》に東京駅まで迎えに来てもらい、それで千里がインプに乗って千葉市まで行き、まずは季里子の家で桃香を拾う。千里が「これ赤ちゃん産まれたお祝い」といって祝儀袋を渡すと桃香は仰天している。でもお母さんが「赤ちゃん見ていって下さい」と言うので、あがって愛でてきた。ついでに来紗ちゃんにもウエハースのおやつをあげたら喜んでいた。
 
その後、桃香を乗せて彪志のアパートに行って彼を拾い、それから千葉駅で青葉を迎えた。
 

「でもちー姉がL神社の巫女してたなんて全然知らなかった」
と青葉は言っている。
 
舗装や社務所の工事などの件で、いちいちL神社の誰かに入ってもらうのは面倒だし、手間を掛けて悪いので青葉と直接話すことにしたのである。
 
「まあ訊かれなかったから言っていなかっただけで」
 
「例のパワーストーンの御守りを提案したってのも、ちー姉なんでしょ?」
「そうだけど。招き猫のストラップは谷崎潤子ちゃんの提案」
「あれも可愛いね!」
「普通の招き猫も売ってるし、高崎のだるまも売っている」
「なんか縁起物が増えてるみたいだ」
 

神社に向かう車内では桃香の就職先が決まったことも話題になった。お茶の水付近にある広告代理店である。
 
「大学で学んだことを全く活かせない仕事で不満はあるんだけどね。何か仕事しないといけないし」
「千里さんの方はいかがですか?」
「今の所32連敗かな」
と千里は適当に言っておく。実際には就活など何もしていない。大学院を出たら作曲とバスケットだけに専念するつもりである。
 
「千里、真正直に性転換していることを言うからだよ。黙っていればバレる訳ないのに」
「それはアンフェアだと思うから」
 
そんな桃香と千里の会話を聞いて、青葉は何か考えているようだった。
 

やがて玉依姫神社に到着し、市が作った駐車場の端に駐める。駐車場には他にも車が3台駐まっている。
 
「普通乗用車17台と大型1台駐められるんですね」
「駐車場にトイレまで出来ている」
 
「こんなに必要なのかなと思ったけど、社務所に詰めてくれている真知ちゃんによれば、これが全部埋まって、更に路駐している時もあるらしい」
 
「それ1人では対応出来ないよね?」
「L神社から応援呼んで4人くらいで対応することもあるって」
「嘘みたい・・・」
 
「関東不思議探訪で完全に定点観測点になっちゃったから。毎週何かレポートやってるもん。ネタが無い時は境内でキスマラソンとかギター曲芸引きとか企画やってるし」
「え〜〜〜!?」
「ローカル番組だと思って過激なことしてるな」
 
「大型バスで来る人もあるんですか?」
 
「こちらが土日にだけ社務所を開けると最初テレビで流れたから、土日限定の市内観光バスがここをルートに入れちゃったのよね。千葉秘境ツアーだって」
「確かに秘境だ」
「それで神社のトイレに長蛇の列ができてしまうんで、市も急遽トイレを作ったんだよ。2台分の駐車スペース潰して」
 
「これ簡易トイレ?」
と言って桃香は覗いているが
「水洗!?」
と言って驚いている。
 
「トイレ自体は循環式。水道も下水道も不要。手洗いだけ神社の所まで来ている本管から水道を引いてきた。電気も神社から引っ張っていった。まあ結構な工事費が掛かったみたいだけど。特に循環式は普通のトイレより設置費が高い。でも市としてはエコを強調したかったみたいね。トイレの外装も木だし。それも間伐材を原料とした木製パネルを貼り付けている」
 
「こんな小さな神社なのにぃ」
「駐車場が神社の4倍の広さあるな」
 

青葉たちが行った時は、L神社・巫女長の辛島さんが社務所に詰めていた。青葉が来ると聞いて、自ら出てきたらしい。真知はちょうどお昼を買いに行っているということだった。
 
「千里ちゃん、なんで巫女服を着てないのよ?」
と辛島さんは言っている。
 
「非番ですから」
と千里。
 
「私が転出した後は、千里ちゃんに巫女長やってもらおうかと思っていたのに」
「すみませーん。大学院出るから、普通の企業に就職予定なので」
 
辛島さんの夫が来年春から越谷市の神社の宮司として赴任するこになっているので、辛島さんもそれに合わせてL神社を辞め、そちらの神社の巫女長になる予定である。
 

境内には記念写真を撮っているカップルや、裏手の玉砂利を敷いた場所に置かれたベンチに座っておしゃべりしているカップルもいる。ここは見晴らしがいいので、どうも格好のデートスポットにもなっているようである。
 
社務所では飲み物(缶・ペットボトル・紙コップのコーヒー)と3個入り100円の大福も販売している。コーヒーはコンビニなどで使用されているポーションを使用するタイプなので時間による劣化が無く、結構美味しい。大福は千葉市内の和菓子屋さんのものだが、夕方までには売り切れてしまうことが多いという。
 

「でもなんか縁起物が増えましたね」
と彪志は社務所の奥に並べてある縁起物を見ている。
 
「そのだるまですけど、味のあるだるまが1体並んでますね」
「これでしょ?これは手作りだから。値段も高いのよね」
 
他のが数百円なのに、それだけ3000円なのである。
 
「それが売れることもあります?」
「売り切れちゃう」
「あら」
 
「手作りは生産量に限度があるから、それを無理言って月に20体だけ分けてもらうことにしたんだけど、7月も売り切れたし、8月分もここに置いているのでおしまい。これが売れたら9月上旬までは入って来ない」
「すごーい」
 
「招き猫のストラップも飛ぶように売れている」
「凄いですね」
 

千里が提案して製作されたパワーストーンの御守りを見る。
 
「きれいだな」
と桃香が見ている。
 
「うちの巫女さんが石の仕入れ先を厳選してくれたので」
「原価が高くなってしまいましたけどね。でも直輸入だから、中間コスト不要で、何とかこのお値段に抑えられたんですよ」
 
「そうだ。そのパワーストーンの御守り、8個セットでください」
と言って青葉が1万円札を出すと
 
「神社の設立者さんにはタダで」
と辛島さんは言ったのだが
 
「辛島さん。代金を受け取ってください。多分これ購入しておかないといけないみたいだから」
と千里が言う。
 
「ちー姉、私に何をさせる気〜?」
などと言いながら青葉は代金を払ったが、受け取ると驚いたように
 
「これほんとにパワーが入ってる!?」
と言う。
 
「え?どれどれ?」
と言って辛島さんがそのパワーストーンを見る。
 
「あら、ほんとだ。きっと当たりなのよ」
などと言っている。
 
千里はチラッと祠の中で頬杖を突いてこちらを見ている《姫様》を見た。可愛くウィンクしている。
 
むろん青葉が受け取る直前に姫様がパワーを注入してしまったのである。
 

真知がお弁当を“7つ”買ってきたので、社務所の中で一緒に食べた。真知がその内のひとつを祠の方に向かって高く掲げるとすーっと消えるので、桃香が目をゴシゴシしていた。食べている内にお客さんの団体が来たので、青葉と千里も巫女服を着て対応した。
 
「今日はまだ曇っているからいいけど、ふだんの日は日中暑くないですか?」
と青葉が心配して真知に訊く。
 
「お客さんが途絶えている時は倉庫の方に行って休むこともありますよ。向こうは狭いし閉鎖空間になるから結構エアコンが効くんですよ」
「ああ。裏手に倉庫がありましたね」
「あそこは縁起物とかの保管庫兼、休憩所ということで。布団も置いてるし」
「なるほどなるほど」
 
「こちらの社務所も、ここの販売窓を閉めてエアコン掛ければ結構涼しいです」
「でも窓を開けていたらエアコンはほとんど無意味」
「なるほどー」
「窓を開けている間は扇風機の出番」
「なるほどー!」
 

適当な所で神社を出た。弁当のからなどゴミはインプレッサに積んで持ち帰った。弁当のからはちゃんと7つあった!
 
青葉は夏休みが終わるまで彪志の所に滞在するということだったので2人を彪志のアパートで下ろし、青葉にはお小遣いと称して1万円あげた。桃香は大学に行くということだったので、大学北門前で下ろし、自分は「用事があるから数日留守にするね」と言っておいた。
 
それで千里は東京に出ると東京駅で貴司を迎えた。インプレッサに乗って、一緒に北区の合宿所まで行く。30分ほどの束の間のデートであった。
 
「じゃまた頑張ってる」
「うん。ありがとう」
 
それでキスをして別れた。
 

千里はその日は葛西のマンションに泊まり、翌日8月26日には新幹線で大阪に行き、豊中市の産婦人科に行った。
 
「細川貴司から卵子の提供を頼まれた者です」
と名乗り、まずは健康診断を受けた。血液検査なども受ける。
 
「なるほど。細川さんの奥さんと同じRH+AB型なんですね」
「そうなんですよ。それで頼むと言われて」
「ちなみにご結婚は?」
「独身です」
「妊娠などの経験は?」
「ありません」
「性体験は?」
「たくさんあります。以前恋人がいたので。非処女ですので安心して膣の中に機械とか突っ込んで下さい」
 
「分かりました。卵子を採取するのに針を卵巣に刺しますが、この場合、極めて低い確率で卵巣が傷付いて、将来の妊娠に影響が出る可能性もあるのですが、卵子の提供をなさいますか?」
 
「はい。そのリスクは承知の上で卵子の提供をすることにしました」
 
「ちなみに、細川さんとのご関係は?」
「バスケットボールの後輩なんですよ。実は先輩に命を助けて頂いたことがあるので、何かの機会に恩返しがしたかったんです」
 
「そういうことでしたか」
 
生理周期について質問されたので、千里は2日前に生理が来たばかりであると答えた。
 
「凄い。それだとちょうど細川さんの奥さんと同じタイミングですよ」
「それは良かった」
「だったら、サイクルの操作などしなくても、ちゃんと体外受精ができますね」
 
医師は「これは答えたくなければ答えなくてもいい」と言ってこの質問をした。
 
「細川さんのご主人が、卵子提供者について、細川さんの奥さんだけでなく、細川さんのご主人本人にさえも、卵子提供者が誰なのか報せないで欲しいという要望を出しておられるのですが、その理由をご存知ですか」
 
「それは奥さんに私と細川さんとの関係を邪推されないためです。私は細川さんのご主人のバスケ部の後輩ですが、細川さんには純粋に尊敬の気持ちをもっていて恋愛感情はありません。しかし古い知り合いで男女と知られると恋愛関係を疑われる可能性もあります。私は細川さんの同輩の既婚女性から今回の話を頂いたのですが、実際細川さん本人とも2年ほど会っていませんし、肉体関係も存在しないので、そのあたりでよけいな思惑を生じさせないためにも、卵子提供者が誰かは誰も知らない状態にして欲しいと言いました。ですから、ボランティアの卵子提供者、くらいに思っておいてもらった方がいいんです」
 
「なるほど。そういうことでしたか。分かりました。もちろん私も病院のスタッフも守秘義務を守りますので」
 
「よろしくお願いします」
 

病院を出た後で、千里は《いんちゃん》たちから訊かれた。
 
「千里、卵子を提供するといっても卵巣自体が無いのでは?」
「今回の件に付いては、大神様から言われたんだよ」
「ああ。そうだったんだ?」
「本当の卵子提供者を病院の先生に見せたくないんだって。だから私は実はダミーなんだよ」
「ああ」
「だから卵子を提供する日に、私は病院のベッドに寝るけど、実際に卵巣に針を入れられるのは、別の女性。そのあたりは大神様がうまく処理してくれるって」
 
「大神様の操作なら、心配しなくてもいいか」
と《いんちゃん》は言った。
 
千里はこの日、新幹線で岡山まで行き、明日のKARION岡山公演のために用意してもらっていたホテルに入ってぐっすりと眠った。この日は生理と称してスペインでの練習は休ませてもらった。
 

8月下旬。
 
夏休みのツアーを行っていた明智ヒバリはこの日がラスト公演であった。今年の春デビューして最初のCDは8000枚という、まあまあの売れ行きであった。§§プロでは海浜ひまわり・千葉りいなが相次いで引退。それで本来は秋くらいにデビューする予定だったヒバリが早めにデビューすることになった。ライブは全国6ヶ所の600-900人程度のキャパの会場を回り、だいたい9割くらいの入りである。大成功とは言えないものの、ほどほどの“スタート”となり、紅川社長もホッと胸を撫で下ろしていた。
 
ところが、この日の幕間でゲストの中堅歌手・鉄金ウラン(作曲家のガラクン・アルヒデトの内縁の妻)が歌った後、後半のステージに出てきたヒバリは最初の歌を演奏している途中に唐突に歌うのを中断し、そのあと、まるで錯乱したかのような動きをした。
 
慌ててステージサイドに立っていたマネージャーの月原が駆け寄るが、ヒバリは彼女を振り払い、不気味な笑い声をあげるだけで、正気では無い様子だった。伴奏も中断。幕が下ろされ、結局ライブは中止になってしまう。払い戻し扱いになったが、実際には返金を申し出た人はほとんど居なかった。
 
そしてヒバリの動向はこの後、全く不明となった。事務所はマスコミの取材に対してもノーコメントを貫き、ヒバリの死亡説までネットでは流れていた。
 

KARIONのツアーは続いていた。
 
2014.08.27(水) 岡山桃太郎メッセ
2014.08.30(土) 福岡マリンアリーナ
2014.08.31(日) 沖縄なんくるエリア
2014.09.06(土) 愛知スポーツセンター
2014.09.07(日) 横浜エリーナ
 
8月31日には実は大宮でローズ+リリーのライブも行われたのだが、冬子はこういうルートで那覇から大宮までわずか2時間44分で移動した。
 
12:00 KARIONライブ開始
14:23 KARIONライブ終了
14:24 会場を出て染宮のバイクで那覇空港へ
14:27 那覇空港到着。走って保安検査場まで行く。荷物を持っていないのですんなり通過。バスに乗って江藤社長所有のGulfstream G650に乗り込む。14:50 G650が那覇空港を離陸。
16:45 G650が調布飛行場に着陸(*2)
16:50 ヘリコプターに乗り込む
17:00 ヘリコプターが大宮市内のヘリポートに到着
17:05 加藤課長が運転する車に乗り込む
17:08 大宮アリーナ到着
18:00 Rose+Lily開場
19:00 Rose+Lily開演
20:00 幕間(AYA)
20:15 後半開始。ここに千里も参戦
 

(*2)本当は調布飛行場は滑走路が短すぎてG650は離着陸できません。しかしこの物語では離着陸できることにしています。これはこの後出てくる札幌への飛行も同様です。
 
Gulfstream G650の離陸距離は5858ft(=1786m) (標準大気・標高ゼロ・最大離陸重量の場合)だが、調布飛行場の滑走路は800mしかなく、全く足りない。
 

ところでこのKARIONの那覇公演には千里もゴールデンシックスのタイモとして参加しているほかKARION自体の伴奏にも参加している。一方で千里はローズ+リリーの大宮公演にも若宮萌鴎として参加した。それでは千里はどうやって移動したかというと、こういうルートであった。
 
13:10 ゴールデンシックスの幕間パフォーマンス終了
13:15 染宮のバイクで那覇空港に到着
14:00 JL914羽田行き離陸
16:25 羽田到着
羽田空港16:55-17:13浜松町17:20-17:27東京18:00(やまびこ153)18:26大宮
18:30 ★★レコード鶴見係長のバイクで会場へ
18:35 会場到着
19:00 Rose+Lily開演
 
要するに那覇公演では千里がどうしても必要な『雪のフーガ』を前半に演奏し、後半のフルートや篠笛は風花に吹いてもらうことにし、千里は幕間のゴールデンシックスのパフォーマンスが終わった所で、★★レコード・染宮さんのバイクに乗って那覇空港に移動した。これは実は、ライブ終了後にケイを移送する時のシミュレーションも兼ねていたのである。
 
千里も荷物は財布や笛類を入れたバッグのみなので手荷物を預ける必要もなく素早く保安検査場を通過して羽田行きのJALに乗り込む。そして羽田からはモノレールと山手線で東京駅に移動し、新幹線!で大宮まで行くのである。会場に到着したのは18:35で、千里は5時間20分で到着出来たことになる。この日の千里の移動に関しては、★★レコードの実験の色彩が強かった。
 
 
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【娘たちの卵】(3)