【夏の日の想い出・第三章】(1)

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この物語は「夏の日の想い出」「続・夏の日の想い出」に続くメインストーリー部分です。この物語は昨年7月に「続」を書いた後、ずっとエピソードを書いてきたのですが、このあたりで一度メインストーリーの部分を書いておきます。
 

 
私と政子は高2の時に「ローズ+リリー」という女子高生歌手ユニットとして活動し『明るい水』『その時』『甘い蜜』という3枚のCDを出した所で、私が実は男の子であったというのが週刊誌にスクープされ、それがきっかけで活動停止を余儀なくされた。
 
その後私たちは大学の受検勉強もあったので1年半ほど活動を休み、大学に入ってから活動再開したのだが、政子はこの活動再開に消極的であった。
 
政子の両親は高校2年の春にタイに転勤になったのだが、政子は大学受験で頑張りたいからといって、日本にひとりで留まった。ところがそれで歌手活動などしていたというので政子のお父さんはかなり怒っていて、すぐにも政子をタイに連れていく、などと言っていたのだが、そこをほんとに勉強頑張るからといって何とか勘弁してもらった。それもあって、騒動がひどくて、まだ私たちが高校にも出て行けずにいた時期は、政子は本当にもう歌手活動はしない気になっていたようであった。
 
しかし勉強の方を熱心にしていても、詩は勝手にできる。それで「こんなのできたよー」と言って私にFAXで送ってくるので、私が曲を付けてMIDIとボカロイドでMP3にまとめてインターネットディスクにアップロードする。それは私と政子の他は仁恵くらいしか聴いていなかったものの、政子は満足そうだったし、仁恵は「おふたりさん調子いいじゃん」などと言っていた。
 
そういうことを重ねている内に、政子も「歌手はしなくても、曲作りはしていきたいな」などと言い始めた。そして春になって、私たちのベストアルバムを作るなんて話が出て来た時、一応過去の音源を流用するので、私たちの歌は録音しなかったのだが、政子はやはり少し歌の練習もしようかな、などと言って自宅にカラオケのシステムを入れて、毎日たくさん歌を歌い始めた。
 
それでもやはり政子のやる気は上がったり下がったり、どちらかというと下がる方が多くて、高3の秋頃になっても、政子は「やはり私歌手としてはカムバックしないかも」などと私には言っていた。
 
そういう政子の気分を変えていった、最初のきっかけになったのは、やはり高3の11月に、沖縄で難病と闘っているローズ+リリーのファンの女子高生(麻美さん)がいると聞いて、応援のためふたりで会いに行った時だったと思う。政子は病室で彼女に頑張ってね、私たちも頑張るからと言い、「また歌ってもいいかな」などと口にした。そして沖縄から帰ってきた後、私と政子はその時までに作り溜めていた曲をスタジオを借りて一緒に歌い録音した。
 
この録音は2年半後に『Rose+Lily after 1 year, 私の可愛い人』というタイトルで発売することになった。
 
次に政子のやる気を起こさせたのが、大学に入ってすぐの頃にふたりでやったラジオ番組である。これは私たちのデビュー曲『明るい水』の作曲家である鍋島康平さんの一周忌の記念番組だったのだが、その中で私たちは司会者の役得と称して、生で歌を披露した。その反響は凄まじくて、大量のメッセージやファンレターが押し寄せ「ずっと待ってるから、きっと復帰してね」というファンからの声に、政子もかなりやる気を起こした感じであった。
 
この放送はあまりにも反響があり、それに刺激されて別の放送局でローズ+リリーの特集が放送されることになり、そこで私たちはその放送用に新しい音源の制作をした。この音源について更に他の放送局や有線放送などからも、その音源がもらえないかという引き合いが多数来たので、私たちは『恋座流星群』ほか数曲をCDにプレスして(JASRACにも登録の上)、各地の放送局や有線放送、カラオケ配信元などに頒布した。そこで『恋座流星群』は、CDショップでもiTunesなどでも買えないのに、放送局のリクエスト番組にリクエストを出すと掛けてもらえるし、カラオケ屋さんでも歌える、という不思議な曲となり、CDは出ていないのに大手のランキング上位に入るという珍しい現象も起きた。そして放送やカラオケによるこの曲の印税は当時の私と政子にとって貴重な収入源となった。
 
この番組をした頃は私たちはどこのプロダクションとも契約していなくてフリーの身であったが、翌月、それまで1年半にわたって私たちとの接触を禁じられていた、ローズ+リリーの本来のプロデューサーである(須藤)美智子が私たちと会い、再契約。ローズ+リリーは名義上復活したが、やはり政子はその段階では自分はまだステージなどで歌う気にはならないと言った。それで美智子はこの夏にアルバムを作って年末くらいに発売しようかと提案し、音源制作だけならまあいいかなあ、という政子、そしてそのくらいの活動ならいいんじゃないと言ってくれた、政子の両親の意向も踏まえて、ローズ+リリーは当面音源制作だけで活動していくことになった。
 
政子がフル活動できない状態の中で、私には活動の機会をたくさん出したいという美智子は、ちょうどボーカルが喧嘩して飛び出してしまったロックバンド、《クォーツ》と私が組まないかという提案をしてきて、《ローズクォーツ》という新ユニットが生まれるに至る。
 
このユニットでまずは『萌える想い』という曲を出した所、配信とCDで合わせて10万枚を売るまずまずのヒットとなり、取り敢えず好調な立ち上がりを見せた。このユニットでは更に年末に『バーチャル・クリスマス』、翌年3月に『春を待つ』、7月に『一歩一歩』という曲を出し、ファーストアルバム『夢見るクリスタル』も出して、それなりのファン層を獲得していった。
 
そんな中、私は2011年の春に性転換手術を受けた。前年に豊胸手術と去勢手術を受けていたし、女性ホルモンもずっと摂取していて、私の身体はもうほとんど女性になっていたのだが、あらためて性転換手術をしてみると、自分の周囲の空気がまるで変わったのを感じた。自分の周囲で何か滞っていたものが順調に動き始めたのを感じたのである。運気が変わる! 私はこの時確信していた。なお、私は10月に20歳の誕生日が来るとすぐに戸籍上の性別を女に変更した。
 
その夏、ローズクォーツの最初のアルバムを出す直前に私たちはローズ+リリーの「メモリアル・アルバム(追悼版)」と称して『Rose+Lily After 2 years』
というアルバムを出した。本当は前年に録音していたのが、なかなか発売できずにいたものであった。一応毎年1枚くらいは作って行こうという話はしていたものの、この時点では政子のやる気の状態を考えると、このアルバムか次のアルバムくらいであるいは、ローズ+リリーのメジャーでの活動は終了かな、という気もチラっとはしていた。そこで美智子から今後の両方のユニットの活動について聞かれても私は
 
「ローズ+リリーの方はインディーズか、どこも拾ってくれるレコード会社がなければ自主制作したアルバムを年に1度くらい配信限定で出して、私は基本的にローズクォーツの一員として仕事していくつもり」
 
などと言っていた。2011年7月18日が来るまでは。。。。。。
 

少し時間を戻そう。
 
マリがライブ活動をできないということでローズ+リリーが限定的な活動になっていた時期、実は私たちふたりは自分たちのユニットの活動以上に楽曲を制作して、他のアーティストに提供する作業を盛んにしていた。
 
きっかけは大学1年(2010年)の9月に宇都宮のデパートでスリファーズと偶然遭遇したことであった(後々考えると、この遭遇自体、あやめの仕業のような気もするのだが)。私がスリファーズのステージの傍に立っているのに気付いた人が盗撮して、新聞社に送り、(意図的に)早とちりした新聞社が「ケイがデビュー間近のスリファーズをプロデュース?」などという記事を書いた。
 
その記事を見た、スリファーズの事務所の津田社長が、本当にスリファーズに楽曲を提供してもらえないかと打診してきて、私はスリファーズのリーダーの春奈が自分と同じMTFであることもあり快諾、彼女たちにメジャーデビュー用の楽曲を提供、その後も継続的に提供していくことになった。
 
一方、私はSPSというガールズバンドの実質的なリーダー、美優と元々知り合いで、彼女たちがコンテストに参加する時にオリジナル曲が必要だというのにメンバーの誰も作曲ができないということだったので1曲書いて提供していたのだが、SPSがコンテストに入賞したことでプロデビューすることになり、彼女たちのマネージング担当がローズ+リリーとも元々親しかったこともあり、SPSにも、その後継続して楽曲を提供していくことになった。
 
また、この時期、引退の瀬戸際に追い込まれていたELFILIESという女の子4人組のボーカル・ユニットを、津田社長の事務所に移籍させて再生を試みることになり、その移籍を私が結果的に仕掛けたことになったので「責任を取って」彼女たちのデビュー曲を制作してと言われ、私と政子は彼女たちにも楽曲を提供した。
 
こうして大学1年の秋から冬に掛けて、各々独立した理由で私たちは新人・移籍アーティストへの楽曲提供を行った。そして、各々が結構なヒットになったのであった。
 

この3組の中で最初にデビューしたのはスリファーズである。スリファーズは△△社の看板ユニット・ピューリーズの妹分ということになっていたが、実際問題としてピューリーズより上手かった。
 
私と政子も彼女たちのデビューイベントに出席した。記者会見で記者から質問が飛んだ。
 
「あのお。全員の年齢・性別が非公開ってなっているのですが?」
「えっと。年齢も性別も見た目で判断してもらえばいいかと」
「年齢は中学生くらいに見えますね。性別は見た目は全員女性に見えますが」
「中学生というのは認めます。性別も女性に見えるなら女性でいいのではないかと」
「もしかして男性なんですか?」
「さあ、どうでしょうか?」
 
「実は3人の中の1人は男です」と彩夏が発言した。
「誰が男か当ててください」と春奈。
「この場にいる記者さん・観客さんに手をあげてもらうってのは?」と千秋。「そうですね。挙手による投票で男ということになった人は性転換してもらいましょう」と彩夏。「でもヒントが無いと投票できないよ」と春奈。
「じゃ、ここでみんなのバストサイズ、公開しちゃおうよ」と彩夏。
という彩夏はどう見ても3人の中でいちばん胸が大きい。
 
「まあ、いいよ。私はBカップです」と春奈。
「私はCカップです」と彩夏。
「ボクはAカップです」と千秋。
「では私が男と思う人、挙手を」と春奈。「ケイ先生、数を数えてもらえます?」
「18人かな」
「では私が男と思う人、挙手を」と彩夏。
「12人」
「ではボクが男と思う人、挙手を」と千秋。
「17人」
 
「ということで、僅差で春奈が男と決まりました」と彩夏。
「じゃ、春奈、性転換してね」と千秋。
「いいよ」と春奈。
 
「でもさ、男から女に性転換するの?女から男に性転換するの?」と彩夏。「どっちにしようか?」と春奈。
「女になるならおちんちん取らないといけないし、男になるならおっぱい取らないといけないなあ」
 
「おちんちん取るなら、私が春奈を取り押さえておくから千秋、はさみでちょん切っちゃって」
「よし、やろうか」
 
「あのお、春奈さんは本当に男なんですか?」とひとりの記者。
「私は自分では女性と思ってます」と春奈。
「あ、そうそう。こないだケイ先生と一緒に温泉に入りましたよ」
 
「あの、すみません。ケイさんはお風呂はどちらに入られるのでしょう?」
 
(この時期はまだ私が性転換手術(造膣術)を受ける前である。ただし睾丸の除去と陰唇の形成手術は完了している)
 
「ケイは私と一緒に入りますよ」と政子。
「じゃ、ケイさんは女湯なんですか?」
 
「そうですね。私は小学校に上がって以降、男湯に入ったことはありません」と私。「でも、学校の修学旅行とかでは男湯に入ってないんですか?」と記者。
「ご想像にお任せします」
 
「マリさん、ご存じですか?」
「ケイは高校の修学旅行の時は女湯に入ってますよ」
「あれ?もうその頃、改造済みだったんでしたっけ?」
「ご想像にお任せします」
 
「えっと本題が分からなくなってしまいましたが。。。。。春奈さんは結局女湯に入るのでしょうか?」
「少なくとも小学校の修学旅行では女湯に入りました」と春奈。
 
かなり時間を掛けて、結局春奈は男のようである、というのが記者や観客たちの共通認識となったようであった。
 
しかしその後、私のピアノ伴奏で3人がデビュー曲『香炉のダンス』を歌うと、記者も観客も3人の歌唱力に驚いたようであったし、特に春奈の出す伸びのある美しいソプラノは、かなりその場にいる人たちにアピールしたようで、男性の歌手がここまでの高音を出せるとは思えず、またまた春奈の性別がどちらなのか、迷う記者も出たようであった。
 
結局、翌日の新聞では「性別不明のリードボーカル」などと書いた所もあった。事務所側もファンから春奈の性別について尋ねられても「申し訳ありませんが、個人情報ですので、お答えできません」という回答をしていた。
 

11月24日★★レコードから発売されたスリファーズ『香炉のダンス/アラベスク』
は春奈のミステリアス性で関心が広がったのもプラスしたようで26万枚の大ヒットを記録した。
 
また、12月8日◎◎レコードから発売されたSPS『恋愛進行形/炎の砂時計』は8万枚、12月15日同じく◎◎レコードから発売された ELFILIES『Solitude/祭りの夜』も8万5千枚、でどちらもまずまずのヒットであった。
 
ELFILIESは前の事務所では最大売れたCDで3万枚だったので、これが現時点で彼女たちの最大のヒットになった。津田社長も「一発で移籍金分を取り戻したね」
などとご機嫌であった。
 
そして2011年の前半の、私と政子の収入の大半は、この3組のアーティストの楽曲に関する作詞作曲印税だったのである。
 
なお、PVやテレビ番組などでELFILIESのバックで踊っているアンナ・ガールズ(女子中学生5人組のユニット)にも「あれは誰ですか?」という問い合わせが殺到していた。
 
△△社では、アンナ・ガールズに関する問い合わせに関して、彼女たちのプロフィールなどには、その都度回答していたが、敢えてホームページには一切彼女たちの情報は載せなかった。代わりにファンサイトを作りたいという照会をしてきた人たちに彼女たちの写真を提供した。そのためアンナ・ガールズは公式ホームページは無いのに、10個くらいのファンサイトが並立する状況になり、それらのサイトを中心に熱心なファン層が形成されていった。
 
津田社長は「情報は出すだけが戦略じゃないから」と言っていた。
 

この時期、私と政子は他にもスイート・ヴァニラズにもアルバム用とシングル用に1曲ずつ楽曲を提供したし、結構単発での作詞作曲依頼もあり、★★レコードからの依頼で何人かの新人歌手にも楽曲提供を行った。ほんとにこの時期、私と政子はソングライターとしての活動が目立っていた。
 
2012年の春(大学3年の春)からは、上記3組に加えてパラコンズ、スターキッズにも曲を提供するようになり、これら楽曲提供している5組のユニットに私たちの本体活動であるローズ+リリー、ローズクォーツも加えて7組を「マリケイ・ファミリー」「ローズ・ファミリー」などと呼ぶメディアなども現れた。この「ファミリー」には他にも私たちが楽曲提供している数人の歌手を含めて言われることもしばしばあった。
 

後にローズ+リリーの代表曲のひとつとみなされるようになった『神様お願い』
はこんな経緯で生まれた。
 
2010年の12月19日(日)。私はローズクォーツのメンバーと一緒に金沢にいて、その日の午後、金沢市内のライブハウスで演奏を行った。ライブが終わりホテルに戻り、打ち上げに行く前にメールをチェックしていたら、陽奈さんという人から緊急マークの付いたメールが入っていた。私はその名前に覚えがあった。
 
昨年の秋、私と政子は自分達のファンであるという難病の女子高生のお見舞に沖縄まで行っていた。陽奈さんというのはその難病の子のお友達で、彼女が私たちに会いたがっているというお手紙をくれた人であった。
 
メールを開いて私は顔が青ざめた。その難病の子、麻美さんの容態が悪化して危篤状態だというのである。私は陽奈さんに直接電話を入れた。
 
「今晩は。唐本と申しますが」
「今晩は!わあ、ケイさんですか?済みません。緊急メールとかして」
「麻美さんの様子、どうですか?」
「一時期はもう本当にダメかと思ったんですが、奇跡的に持ちこたえてくれています。彼女が息も絶え絶えに、頂いた『恋座流星群』のCDを掛けてと言ったので、ずっとリピートで掛けているんですが、凄く力になっているみたい。意識は無いのに、楽曲が盛り上がるところで身体が反応したりするんですよね」
 
私は自分達の歌にそこまでの力があるとは思いも寄らなかった。
 
「そちらに行きます。お医者さんはどう言ってますか?」
「来て下さるんですか! 凄く力になると思います。お医者さんは覚悟しておいてくれと言っているんですが、私は彼女が絶対頑張れると信じています」
「私も彼女がきっと回復すると信じてるよ」と私は言った。
「ありがとうございます」
 
「着く時間とか分かったら連絡するね」
「はい」
 
私はすぐに美智子の部屋に行き、事情を話してすぐに沖縄に行きたいと言った。
「いいけど、いつ戻ってくる?」
「25日の博多ライブには絶対戻る」
「分かった」
 

私はすぐに航空券の予約サイトにアクセス。小松発・羽田行き最終便1枚と、それから乗り継げる羽田発・那覇行きの最終便2枚を確保した。小松発は20:15。現在18:40。タクシーを飛ばせば間に合う筈だと踏んだ。私は身の回りの荷物だけ持ち、残りの荷物の移動を美智子に頼んで、ホテルから飛び出し、タクシーを捕まえて、高速を使って小松空港まで行って欲しいと頼んだ。
 
タクシーの中から、まずマキに電話して緊急に沖縄に行くこと、次のライブまでには確実に戻ることを伝えた。それから東京にいる政子に電話して、麻美さんが危篤状態であること、お見舞に行くということを言うと、政子も一緒に行くと言ってくれた。
 
「マーサも行くと思ってチケットは確保したから」と私は言う。
「何時発?」
「羽田22:55」
「そんな遅い便があるんだ! 何時に着くの?」
「那覇に深夜1:35」
「寝台とかある?」
「無いよ。飛行機なんだから」
「私、眠いよ−」
「ホテルは最上のを確保してあげるから」
「ほんと?じゃ、頑張る」
 
それから私は陽奈さんに電話して、今夜1:35に那覇空港に着く便でそちらに向かうと伝えた。陽奈さんは来るのはてっきり明日になると思っていたようでびっくりしていた。
「私は今夜は一晩中病院に詰めてますから」
「うん。那覇に着いたらまた連絡するね」
「あ、ちょっと待って」
 
と言って、陽奈さんは少し場所を移動したようである。
「済みません。ここICUなんですが、特別に許可もらって電話を持ち込んだところです。今から麻美の耳元に電話当てますから、よかったら応援のメッセージを頂けませんか?」
「OK」
というと、私は少し緊張してメッセージを語る。
 
「麻美さん? ローズ+リリーのケイです。今からそちらにお見舞に行くからね。絶対頑張ってよね。先月の沖縄ライブには麻美さん、体調不良で来れなかったじゃん。またそのうちライブで行くから、その時は来て欲しいし。こちらも会場に麻美さんの姿があったら元気付けられるからさ。いい?頑張るんだよ。病気に負けちゃだめ。ファイト!だよ」
 

小松から羽田までと羽田から那覇までは別の航空会社の便で、乗継ぎは1時間半の余裕がある。私は羽田でいったん外に出て政子と落ち合い、改めて手荷物検査を経て中に入ることにしていた。
 
晩御飯を食べ損なっていたので、政子にコンビニのお弁当を買ってきてもらっていて、ロビーで一緒に食べた。政子には他に私の着替えなども持ってきてもらった。
 
「じゃ、今夜が山なのね?」
「陽奈さんと色々話した感じではどうもそうみたい。お医者さんも今夜乗り切ることができたら、何とかなるかもと言っているって」
「じゃ、お祈りしようよ」と政子。
「うん」
「沖縄ってどっち?」
と聞くので、私はバッグから方位磁針を出して
「えっと。南西だから、こっち」
と指し示す。
「正確な方位が欲しい」
 
「えっとね。ここ羽田空港は、北緯35度33分・東経139度47分。病院のある場所は北緯26度15分・東経127度46分」
と私が携帯の地図アプリを起動して数値を確認して言うと政子は
「ということは方位角141度19分か」と言った。
 
さすが『歩く電卓』である。政子にかかると、こういう複雑な球面三角法の計算も一瞬だ。脳味噌を解剖してみたくなる能力である。
 
「その方位磁針、方位角の数値が入ってるね。見せて」
「うん。但し、東京は地磁気の偏角が6度36分あるから、それを足して」
「じゃ、147度55分。約148度。こちらの方角ね」
と政子はひとつの方角を指さす。
「一緒に祈ろうよ」
「うん」
 
私たちは政子が指さす方角を見て一心に麻美さんの回復を祈った。
 
「冬、五線紙持ってる?」
「うん」と言って渡す。
 
政子は愛用のセーラーのボールペンを出すと、そこに歌詞とメロディ?を表す線を記入しはじめた。
 
「でも冬が五線紙持ってるって珍しい」
「5時半までライブしてたからね。作業用に持ってたんだよ」
「いつもと逆だね」
 
政子は五線紙4枚ほどにわたって、歌詞と<メロディー線>を記入し、タイトルのところに『神様お願い』と書くと、
「オタマジャクシは冬が書いて」
と言って、ボールペンと一緒に五線紙をこちらに渡した。
「OK。でも時間無いから機内で書くね」
 
私たちは手荷物検査を通り、搭乗口まで行きバスに乗って飛行機の傍まで行った。タラップを登り、指定の席に行って座る。私はすぐに作曲作業を開始した。
 
政子の指定した「/\〜」みたいな線の列に沿い、歌詞を見ながら音符を記入していく。歌詞を見ていると政子の祈りが伝わってくる。私も麻美さんの回復を祈りながら音符を書き入れて行った。
 
「聴ける?」と政子が訊く。
「ちょっと待ってて」というと、私は書き込んだ譜面を見ながらパソコンにMIDIデータを入力していった。打ち込み終わったところで、イヤホンで政子に聴かせた。
 
「ここ、これより低く、こんな感じ」とか「ここはもっとゆっくり上がって」
などと言うので、それに従って修正する。
 
そういう作業を30分くらいしているうちに、政子も「これでOKかな」と言う。
「これ麻美さんの枕元で歌おうよ」
「うん」
 
楽曲ができてまもなく、飛行機は高度を下げはじめ、やがて那覇空港に到着。私たちは陽奈さんに連絡し、タクシーで病院に入った。
 

陽奈さんとも麻美さんとも2年ぶりになる。麻美さんのお母さんはやつれた顔をしていた。
「わざわざありがとうございます」
「どうですか?」
「今は小康状態です。このまま回復してくれるといいのですが」
 
私たちはICUの中に入れてもらい、麻美さんの手を握り
「ケイだよ。頑張ってね」
「マリだよ。負けちゃだめ」
と言って激励した。麻美さんは意識が無いのだが、頷くような動作をした。
 
私たちはいったん控室に下がる。
 
「枕元で歌いたかったけどさすがにICUじゃ歌えないから」と言って私たちは控え室で小さな声で作ったばかりの曲『神様お願い』を歌った。陽奈さんがそれをICレコーダに録音。再度ICUに行き、麻美さんの耳元で鳴らしてきた。
 
もう3時すぎなので、4人ともいったん寝ることにする。毛布を用意してもらったので、一方の端でお母さんが、真ん中付近に陽奈さんが、他方の端で私と政子がくっついて寝た。私はライブで疲れていた上に強行軍で金沢から沖縄まで飛んできたので熟睡してしまった。それでも6時に目が覚めた。お母さんと陽奈さんはもう起きていた。お母さんは実際問題としてほとんど寝ていない雰囲気だった。政子はまだ寝ていたので、そっとしておいた。
 
ICUの方に様子を伺いに行くと、ちょうどお医者さんがチェックしていた。「どうでしょうか?」と私が聞くと、お医者さんは少し笑顔を作って
「持ちこたえましたね。峠は越したと思います」と言った。
「良かった!」と言って、私は陽奈さんと手を取り合って喜んだ。
お母さんは喜ぶ元気も無いようだったが、嬉しそうな顔をしていた。
 

その夜は、本当に危ない状態だったので、かなり強烈な薬を使ったため、その副作用もあって、彼女が意識を回復したのは、翌20日の夕方であったが私たちは彼女の顔色がどんどん良くなっていくのを見て、その回復を確信していた。日中、私たちは交代で食事に行ったりしつつ、色々お話をした。
 
「わあ、その曲、娘のために作ってくださったんですか?」
「ええ。羽田で、この病院の方角を向いてふたりでお祈りしていたら曲が浮かんできたので、その場で歌詞を書いて、機内で曲を付けたんです」
「凄い」
「今ちょっと色々事情があって発売はできないですけど、きっとCDの形にしてこちらにも送りますから」
「ありがとうございます。娘は幸せ者です」
 
「『恋座流星群』と同じような感じでのリリースですね?」と陽奈さん。
「たぶん、あんな感じになると思います。色々制約があって、春くらいまで私たちの曲が発売できないんですよね」
 
お昼頃、出張先のインドネシアからやっと戻って来た麻美さんのお父さんが来て、様子を聞き、ほっとしていた。また親戚の人が数人来た。お母さんのお姉さんという人が「あんた寝てないでしょ。寝なきゃダメ」と言うが、お母さんは眠れない様子。結局お医者さんに睡眠薬をもらって少し寝た。
 
昼間は麻美さんの友人も数人お見舞に来て、ついでに私たちとも握手を交わした。2年前にも会ったことのある子たちであった。私が相手の名前を言って挨拶すると「よく覚えてますね!」と言って、向こうはびっくりしていた。
 
「それってケイの能力だよね。ごめんねー。私、全然顔も名前も覚えきれなくて」
と政子は言っている。
「マリはクラスメイトの顔も全然覚えないもんね」
「私、それが全然ダメなんだよね〜」
 

夕方、麻美さんは意識を回復したが、まだまだICUから出られる状態ではなかったので、控えめなお見舞をしたが、私たちの顔を見て、涙を流して喜んでいた。『神様お願い』のことを話すと聴きたいというので、今朝ICレコーダに録音したものを聞かせる。麻美さんは嬉しそうにしていた。
 
私たちはその日は宜野湾市の全日空ホテルに泊まった。ゆったりとした部屋を確保できたので政子も満足そうであった。私たちはホテルの部屋であらためてMIDI演奏にあわせて『神様お願い』を歌ってICレコーダに録音。データをお魚のUSBメモリにコピーした。
 
「これ、明日渡してあげよう」と私。
「でも何とか持ちこたえられて良かったね」と政子。
「やはり若いから体力あるからかもね」
「私、若いけど、あまり体力無いかも」
「疲れたら休んでいいんだよ」
「うん」
私たちはその夜、麻美さんが助かった嬉しさも手伝って、かなり深く愛し合った。
 
当時私たちは愛し合う時に枕元に「御守り」の避妊具を置いておき、一線を越える場合は開封するルールだったが、私が途中で何度か「開封する?」と政子に聞いたほど、その日は激しかった。しかし政子は「まだギリギリ越えてない」と言って開封しなかった。
(この「避妊具の御守り」は高校2年の秋に始めて大学2年の秋まで3年間私たちのルールにしていた。その3年間で御守りを開封したのは4回だけである)
 
「だけど陽奈さんが面白いこと言ってたね」
と一息ついたところで政子が言い出した。
 
「うん?」
「私と冬って、それぞれ凄い力を持っているけど、ひとつひとつの力が片方だけにあるって」
「ああ」
「もしかしたら、物凄い天才が出来てしまうところを、このままでは凄すぎると思って、神様がふたつに分割して、私と冬が生まれたんだったりしてって」
 
「面白い見解だね。だったら、こうやって私たちが愛し合って一心同体になると、超天才が復活するのかもね」
「仮面ライダーWみたい」と政子は面白そうに言う。
 
「きっとね。それだから赤ちゃん産む能力も私だけにあるんだよ。冬が赤ちゃん産めなくても私が産めるから、私が産む子供は冬の子供でもあるの」
「うん。そう思わせてもらおうかな。この後、性転換手術して女の身体を獲得したとしても妊娠出産だけは叶わないから」
 
「それと、私たちの作る曲も私たちの子供みたいなものだけどね」と政子が言う。
 
「確かに私たちって、愛し合った後、いい曲が書けてるよね?」と私も言う。「ああ、それは時々思う」と政子。
 
「じゃ、今たくさん愛し合ったから、良い曲が書けたりして」
「よし」
 
と言うと、政子は部屋の引き出しからホテルのレターペーパーを取り出し、そこに愛用のボールペンで、詩を書き始めた。私はコーヒーを入れながら、その作業を見守った。
 
10分ほどで書き上げ『夜間飛行』というタイトルを書いて、こちらに渡した。私はそれを見ながら五線紙に音符を書き入れて行く。
 
「私見慣れてるから、何も感じないけど、たぶんこんなに高速に音符を書いていけるのって、きっと凄い能力だよね」
「政子が詩を書くスピードも凄いと思うよ。それに政子って、ほとんど書き直しをしないよね」
「自分のイメージの源泉をダイレクトに書き出していく感じだから、修正するってのは、あり得ない。冬だって、曲自体の修正はほとんどしないでしょ。アレンジはたくさんいじるけど」
「うん。最初に頭の中に浮かんだメロディーが最高のメロディー」
 
「モーツァルト型だよね。ベートーヴェンの楽譜ってたくさん修正の跡があるけど、モーツァルトの楽譜ってそういうのが全然無いっていうし」
「ああ、モーツァルトには親近感を感じるよ」
 
この日書いた曲『夜間飛行』は、かなり出来が良かったので、アルバムなどに入れたり、他のアーティストに提供したりせず、ローズ+リリーのシングルとして発売できる機会を待ったので、結局リリースしたのは2年後になった。
 

年が明けて2011年の1月、FM局からまたローズ+リリーの特集をしたいのだけど、新しい音源などはないかという打診をされた。
 
そこで私たちは音源制作は完了しているもののまだ発売していないアルバム『after 2 years』の音源の一部を放送局に提供するとともに、『神様お願い』
『イチャイチャしたいの』『帰郷』という3曲を新たに吹き込んだ。
 
『神様お願い』は沖縄で難病と闘病中のファン、麻美さんを応援するのに作った曲である。早めに音源製作したかったので使うことにした。
 
『帰郷』は2010年10月に石巻で作った曲である。ローズクォーツの「どさ回りライブ」で石巻に行っていた時、政子が陣中見舞いに来たので、夜、私と政子のふたりで地元のスナックに行き、少しくつろいでいた。その時、隣に座っていた女性が、東京にずっと行ってて10年ぶりにこちらに戻って来たと言っていて、私たちは何となく彼女と会話していたのだが、その時、突然できてしまったのが『帰郷』であった。(この女性はこの後の震災では実家が全壊したものの本人は無事だった)。
 
その『帰郷』のアレンジを自宅マンションでしていた時、政子が例によって私にあれこれイタズラを仕掛けてきた。政子は私が作業中や電話中によくこういうことをする。「もうやめてよね」などと言ったら、突然やめるので、どうしたのかと思ったら「紙ちょうだい」と言う。
 
「ティッシュペーパー?」
「違う違う。書く紙よ」
「あ、ごめん」
と言って、そばにあったレターセットを渡した。前日姉がマンションにやってきて「押し入れから出て来たからあげる」と言って置いていったベティちゃんのレターセットである。
 
「ベティちゃんってセクシーだな」と政子。
「うんうん。ませた感じだよね」
「思いついた詩にピッタリ」
と言って、政子は私のスカートの中で! 詩を書き上げた。更に私がその詩に曲を付ける間、政子はずっと私のあの付近にイタズラをしていた。そうやってできたのが『イチヤイチャしたいの』であるが、とても作曲経緯を人には言えない曲である。しかしこの曲は上島先生が「エロ可愛い曲だ」と絶賛していたので、今回の音源制作で採用することにした。
 
録音は1月中旬にローズクォーツのメンバーに伴奏してもらって、私と政子の2人が歌い1日で3曲を収録した。放送は下旬であったが、私たちが提供した音源を掛けながら、スリーピーマイスの3人がナビゲートしてくれた。
 
スリーピーマイスは私たちがデビューしたすぐ後くらいにデビューした3人組のボーカル・ユニットだが、顔出しNGというポリシーを貫いている。そのスリーピーマイスにとって、映像の見えないラジオというのは絶好のメディアなので、彼女たちのラジオへの出演は多い。彼女たちは3人で漫才のようなノリで楽しく楽曲を紹介してくれて、番組への反響は良かった。
 
するとそれに刺激されて、カラオケ・有線放送などの各社や他のラジオ局からも音源を提供してもらえないかという打診が相次いだので、私たちは昨年似たような感じで限定リリースした『恋座流星群』と同様に、この3曲に加えて春くらいに発売予定(だったが震災で予定が吹き飛び結局7月に発売した)のアルバム『after 2 years』から、政子が中学生の時に書いた詩に曲を付けた『用具室の秘密』、スカイヤーズ伴奏でローズ+リリーが歌う『Spell on You』
を加えて5曲入りのシングルを2000枚限定でプレスし、放送局、有線放送、カラオケなどに頒布した。
 
むろん沖縄の麻美さんにも1枚送った。
 

ところがそんなことをしていた直後に大震災が起きて、日本中であらゆるものがリセットされた感じであったが、その超自粛ムードで「ポポポポーン」以外の広告が無くなってしまったような時期に、『神様お願い』や『帰郷』が震災復興への祈り、また津波の被害や原発事故で故郷を追われた人たちが、いつかあそこに戻りたいという願いを込められているようだと言われ、かなりラジオ局や有線放送でオンエアされた。また震災と関係無く『Spell on You』は格好良い曲なのでカラオケで歌う人がかなり出た。
 
4月20日、★★レコードでは所属している12組のアーティストから1曲ずつ提供してもらった「震災救済アルバム」を1枚3000円(単独ダウンロード1曲300円)で緊急発売した。売上額の全額を被災地に寄付するという企画である。このアルバムにローズ+リリーの『神様お願い』が収録された。他にはAYAの『手をつなごう』、百瀬みゆきの『私のふるさと』なども収録されていた。
 
ローズ+リリーは2009年1月発売の『甘い蜜』から2011年11月発売の『涙のピアス』
まで2年10ヶ月もの間、シングルを発売していなかったのだが、この曲はその時期に唯一単独購入が可能になった楽曲だった。
 
震災救済アルバム内の『神様お願い』の単独ダウンロード数は公表はされなかったものの実際には6月までに150万件あったことを私たちは町添さんから聞いた。100万を越えているのではというのは、ネット上の噂でもかなり流布していて「隠れたミリオンセラー」と呼ばれていた。
 

大学2年の夏頃以降のことを書く前に、もうひとつ「ローズクォーツのリーダー」
問題のことを書いておこう。
 
5月下旬に○○プロで「被災地巡り」のツアーをして欲しいということを言われた時、私たちは電気事情の悪い避難所では、やはり電気を使わない楽器で演奏をしなければということで、どういう楽器を使うか、みんなで御飯を食べながら話し合っていた。その時、タカが「そのあたり、リーダーとしてはどう思う?」
と発言した。
 
みんながマキの方を見るが、マキは何も言わずに黙っている。たまりかねて美智子が「マキちゃん、どうよ?」と聞いたら
 
「あ、リーダーって俺?」などと言う。
「リーダーがマキじゃなかったら誰なのさ?」とサトが言うが、マキはおもむろにこんなことを言い出した。
 
「いや、俺、クォーツのリーダーではあるけど、ローズクォーツのリーダーって決めてなかったんじゃないかという気がして」
「はあ?」
「何のこと?」
「だってローズクォーツは、クォーツとケイが合体したユニットだから。その時点でちゃんとリーダーを決めておくべきだったんだろうけど」とマキ。
 
「そんなの別にわざわざ決めなくても、マキがリーダーだと思ってたけど」と私。「同じく」とタカ。
「右に同じ」とサト。
 
「それで?最近少しいじけてたのは?」と美智子。
「ああ、こないだの音源制作で自作曲を出さなかったのはそのあたりか」とタカ。
 
「いや、実際問題として、ライブではだいたいサトの合図で演奏始めることが多いし、MCはケイがしてるし、レコーディングでもケイが全体のまとめをしてるし、ローズクォーツの会計はだいたいタカがしてくれているし、配信での個別ダウンロードでは、一番多いのが上島先生の作品、その次がケイの作品で、その次が民謡で、俺の作品って、あんまり個別ダウンロードされてないし、ラジオ局とかに出演した時はだいたいケイとサトでほとんどしゃべっているし・・・・」
 
「ああ、ほんとにいじけてるな」とタカ。
「それぞれがみな得意なことしているだけだから気にすることないでしょ」と美智子。「ローズクォーツのポリシーはマキの考え方が基本になってるんじゃない?」と私。
「そうそう。でもそれをあまり口に出してしゃべってくれないから、ラジオとかでは、俺とケイでしゃべってる。もっとたくさんしゃべってもいいのに」とサト。
 
「んだ。まあ、俺もあまりしゃべらないけど。レコーディングでもマキがいつまでも悩んでるからケイが『じゃ、とりあえずこうしてみよう』と言って作業が進んでいく。マキの指示を待っていると完成に100年かかる。ライブで合図をサトが出すのも同様の理由だろ?」とタカ。
「会計もマキがやったらどんぶり勘定になっちゃうからタカがしてる」とサト。
 
「じゃ、投票であらためてリーダーを決めない?」と私。
「ああ、それいいかもね」とタカ。
「じゃ、私が議長するね」と美智子。
 
「リーダーはタカだと思う人?」「0人」
「リーダーはサトだと思う人?」「0人」
「リーダーはケイだと思う人?」「1人」ここでマキが手を挙げた。
「リーダーはマキだと思う人?」「3人」私とタカとサトが手を挙げた。
 
「ということで、多数決でローズクォーツのリーダーはマキに決定」と美智子。私とサトとタカが拍手する。
 
「いいのかなあ・・・俺がリーダーで・・・」
「投票で決まったし、頑張ってよ」と美智子。
「うん。じゃ、少し頑張ってみる」
 
ということで「少し頑張ってみた」マキが、次に書いた曲『南十字星』は良い出来で、個別ダウンロードでも、同時に発表した曲がみな凄すぎたので順位としては4位であったが、それまでの作品のダウンロード数に比べると格段に多かったので、マキも少しだけ自信がついたようであった。そのあと結構レコーディングでも積極的に意見を出すようになった。
 
それでもやはり人前でしゃべったり、交渉事などは不得手な様子で、対外折衝などは基本的には美智子か私が、細かい技術的な打ち合わせではタカが行くことが多かったし、ラジオ番組でのトークは相変わらずほとんど私とサトでしゃべっていた。
 

そういう訳で、私と政子は大学1年の夏に、正式な芸能活動契約を結び、歌手としてカムバックしたものの、実際にはボーカル・デュオとしてはほとんど休眠状態が続き、『恋座流星群』『神様お願い』という2つの一般発売しないCDを出したほかは、他のアーティストへの楽曲提供をするだけの、限定的な活動を続けていた。
 
そのような状況をひっくり返す元になったのが2011年7月22日に突然発売することになった,ローズクォーツの『夏の日の想い出/キュピパラ・ペポリカ』
というシングルだった。
 
7月18日夜、私は高校時代からの親友、仁恵の誕生日に政子と一緒にお祝いをしに行ってて、突然『キュピパラ・ペポリカ』という不思議な曲ができてしまった。その直後、私たちに高校生の時以来、楽曲を提供してくれている売れっ子作曲家の上島先生から電話が掛かってきて、面白い曲が出来たので歌って欲しい。すぐCDも発売しちゃおう、などと言って、先生が★★レコードの町添部長に直接電話を入れて4日後の22日に発売するという話を付けてしまった!
 
★★レコードの売上の2〜3割を稼ぎ出している上島先生の気まぐれなので、町添さんも緊急に対応せざるを得なかったようであった。曲が出来てから4日後にCDを発売するなんて無茶苦茶すぎたが、美智子は19日朝からローズクォーツのメンバーを招集し、2日間で録音をした。収録した曲は『夏の日の思い出』
『キュピパラ・ペポリカ』『聖少女』『不思議なパラソル』『南十字星』
『斎太郎節』の6曲である。
 
この時、多重録音の回数を少しでも減らして、できるだけ短時間で音源を完成させたいということから、政子にも音源製作に参加してもらった。
 
そして音源は21日の早朝ミキシング作業が終わり朝9:54に★★レコードに持ち込んだ(21日朝10時がタイムリミットと言われた)。★★レコードでは緊急に工場に回してプレス作業をした。工場からは全部プレスしてから納品してもらうのではなく、とにかくプレス終わった分をどんどん持って来てもらう対応をし、来た分を社員が車や飛行機で全国各地のCDショップへ運んだ。それと並行して、社内でもCD-Rを使って1万枚焼いた。結局発売初日に東京など大都市のショップで売った分はこのCD-R版になった。(このCD-R版『夏の日の思い出』
は後にプレミアムが付いて未開封美品はヤフオクで1万円以上で取引されていた)
 
★★レコードではこれまでローズクォーツの曲はだいたい10万枚程度売れていたので、今回も工場には10万枚の発注をしたつもりだった・・・・が、とにかく緊急の作業で、やりとりに混乱があり、10万枚の発注が2回なされた形になって工場では24日の日曜日までに20万枚プレスしてしまった。伝票を見て担当の南も青くなった(10万枚は売値1億円分)のだが、それが結果的に怪我の功名になった。
 
このシングルは事前の宣伝も何も無しでのいきなりの発売であったにも関わらず最初の一週間で15万枚売れてしまったのであった。10万枚しかプレスしていなかったら品不足になるところだった。24日夜時点での売上速報値の合計が8万枚あったのを見て、町添部長はすぐ更に30万枚の追加プレスを命じた。
 
宣伝も力を入れた。各地のFM局に頼み込んで生番組を中心に『夏の日の思い出』
『キュピパラ・ペポリカ』『聖少女』の3曲を盛んに流してもらったのだが、『夏の日の思い出』は何か郷愁を誘うような曲、『キュピパラ・ペポリカ』はとにかくも不思議な曲、そして『聖少女』は何か癒やされていくような曲、として各局のパーソナリティさんたちに気に入ってもらい、途中から自主的にかなり流してもらった。
 
私たちも22日から31日に掛けてローズクォーツの4人で日本列島を駆け巡り、全国50ヶ所でキャンペーン・ライブとサイン会を行い、また各地のFM局にも生出演した。またこのキャンペーンで移動している最中に、宮城県の仙台市内で撮影した映像をPVとして編集しyoutubeに上げたら凄まじいダウンロード回数になり、これが有償ダウンロードもかなり押し上げたようであった。
 
ダウンロード販売の方は、iTunes, レコチョク, 着うたフルはどうしても販売開始が月末以降になってしまったので、それまでは★★レコードが運営している有償ダウンロードサイトでのみ売っていたが、会員登録していなくてもクレジットや電子マネーで購入できるし、DRMフリーに設定していたのが好感されたようで、そこからのダウンロードだけでも月末までに10万件を超えた。(★★レコードとしては自社サイトでのダウンロードは利益率が高いので、かえって助かる)
 
そういう訳で、この曲は発売後わずか10日間でCDとダウンロードあわせて45万枚を売り、月明けからは通常のCD流通網にも乗り、iTunes, レコチョク, Amazon, 着うたフル, でも売るようになって、売上は伸び続け、10月末にはとうとう100万枚を超えて、ローズクォーツとして初のミリオン・ヒットになったのであった。
 

2011年11月25日に私は★★レコードの町添部長と都内の料亭で昼食を取りながら会談をしたのだが、その席で部長から「君は見事に復活したね」と言われた。
 
「この世界ではどんなに売れていた歌手でも、いったん休養をはさんでから、復帰した場合、どうしても以前ほどの売上は出ないものだ。君はローズ+リリーで何十万枚ものセールスを上げてはいたけど、その後1年半くらいの休養期間があったからね。ローズクォーツという形で君がこの世界に戻ってきて最初のCDが10万枚だったから、まあまあの線かなと思っていたら、『夏の日の思い出』
で100万枚突破。これはほんとにレアなことだよ」
 
「ありがとうございます。それも私たちの休養期間に、部長が、未発表音源を駆使してベストアルバムを出してくれたり、私たちをラジオの生番組に出してくれたり、諸事情で一般販売はできなかったものの『恋座流星群』『神様お願い』
をプレスして放送局やカラオケなどに配ってくれた、お陰だと思います。あれでファンのテンションが維持されましたから」
と私は答えた。
 
「うん。ファンってのは熱心に応援してくれていたファンほど、いったん冷めてしまうと、なかなか購買行動に戻ってくれないものだからね。しかしローズ+リリーの方のアルバムも好調だね」と言われる。
 
その年、ローズ+リリーはふたつのアルバムを出した。昨年録音したものの発売がのびのびになっていた『Rose+Lily after 2 years』と、今年録音して秋に発売した『Rose+Lily after 3 years』である。
 
部長と会談した時点で『after 2 years』は45万枚ほど、『after 3 years』も35万枚ほど売れていた。アルバムが好調だったため、ローズ+リリーのシングルも制作されることになり、ほんの10日ほど前にふたつのシングル
『涙のピアス/花模様』と『可愛くなろう/恋の間違い探し』が発売されたばかりであった。ローズ+リリーのシングルは2009年1月に『甘い蜜/涙の影』
以来、2年10ヶ月ぶりの発売であった。アルバムのセールスに押されているのかシングルも好調に売れていて、ランキングの上位に入っていた。
 
「そうですね。私も夏頃まではローズクォーツを中心にやっていき、ローズ+リリーの方は、アマチュアに近い活動で続けていってもいいかな、くらいに思っていたのですが、ローズ+リリーの方も売れているので、そちらも考えて行かなければいけませんね」
 
と私もその時点ではそんな答え方をしていた。
 

部長からはもうひとつ、私の恋愛問題についても尋ねられて、私は正直に答えておいた。
 
私はその年の秋に、高校の同級生であった木原正望と久しぶりに再会し恋愛関係になった。私は自分の性別問題があったので、結婚などは考えられないと思っていたのだが、彼のお母さんが私のことを気に入ってくれて、今すぐ婚約みたいな話になってしまったのだが、私が「自分はまだフリーでいたい」とわがままなことを言い、現時点での婚約を謝絶した。
 
そして正望が弁護士志望で、どっちみち大学を出たあと法科大学院に通い、司法修習生をして、弁護士になり、としていたら、どっちみち結婚できるのは7年くらい先だからということで、私たちの関係は7年後に再度考えることにしようと言って、それまでは婚約もせずに「恋人」という関係でいようということで同意したのであった。
 
町添部長も、その話を聞いて、個人の問題だから強制したりはできないけど、今の時点での婚約は歓迎できないが、7年後ならまあいいかななどと言ってくれた。
 
正望との関係が進展する一方で私は政子との関係についてもお互いの気持ちを再確認することになった。
 
私と政子は高校生の頃から、しばしば性的な接触をしてはいたものの、あくまで「友だち同士のふざけ合い」と称していて、お互いの関係も「恋人」ではなく「友だち」であると周囲に主張していた。(誰も信じていなかったようであるが)
 
ローズ+リリーとしてキャンペーンやコンサートで地方に行った時、私たちは何度か同じ部屋で寝て、かなり深く愛しあっていたので、それに気づいた美智子は私たちに避妊具を渡して「好きだったら仕方ないけど、妊娠だけは避けて」と優しく言った。しかし実際には私たちは当時本当に「友だち」意識だったので、避妊具を使うような行為まではしていなかった。
 
ローズ+リリーを休止することになった後も、私と政子はしばしば政子の家などで愛し合っていたし、高校を卒業した後は実質同棲状態になった。しかし私たちはあくまでも自分たちは友だちであると言っていた。その高校を卒業した直後に私たちは1度自分たちの関係について話し合ったこともある。
 
「冬は私を恋人にしたい?友だちでいたい?」
「もうしばらくは友だちでいたい」
「へへへ。実は私も今の所まだ友だちでいたい。とっても仲の良い友だち」
「うん。私とマーサって、とっても仲がいいよね」
 
そんなことを話して、私たちは「友だち」のままでいた。その関係は私が去勢しても性転換し戸籍上の性別を女に変更した後でも、ずっと変わらなかった。
 
しかし、正望からプロポーズされ、その返事をいったん保留した晩、私は政子にとうとう「好き」と告白してしまった。そして政子も「好き」と言ってくれた。
 
「なぜ正望君と結婚できないと思うの?」
「正直に言う。私、マーサのことが好きだから」
「私も冬のこと、好きだよ」
 
その夜、私たちは、ふたりが女同士になった後で2度目のセックスをした(1度目はじゃれあっている内にハプニング的にしてしまったもの)。それはふたりが初めてお互いを恋人と認識した上でしたセックスだった。そしてもうふたりは恋人になったからということで「避妊具の御守り」のルールも終了にした。
 
それで、私と政子は恋人になったのだが、政子とちゃんと恋人になってみると、政子を愛すのと別の次元で、正望も愛せる気がしてしまった。そのことを政子に言うと、自分も私への愛と今付き合っている彼氏との愛とが矛盾しないと言う。
 
そういう訳で、私と政子はお互いを恋人として認識しつつ、各々自分の彼氏との愛も維持していくことになったのであった。(琴絵から「大胆な二股」と言われた)
 
私は翌日正望に会い、婚約はできないけど、ずっと恋人でいたいと言った。正望は泣いていたが、恋人でいられるならそれでもいいと言い、私がその気になった時は、すぐに受け取ってくれるようにと、私に婚約指輪を買ってくれた。
 
私はその指輪をサイズ確認のために宝石店で1度だけ付けたが、正望の愛が伝わってきて、もうその場で受け取ってしまいたい気分になったけど我慢した。
 

この11月25日(金)の町添さんとの会談のメインの議題は、実は新年からのFM番組の話であった。年内で放送終了する予定の番組の後番組(30分・月〜木)をローズクォーツでやってくれないかという依頼だった。
 
私たちはローズクォーツの4人に美智子・花枝・政子も加わって7人で企画を考えてデモ版のシナリオを作成し、月曜日に録音して提出したのだが、それがスポンサーの意向でNGになったという連絡が翌日あった。町添部長はとても申し訳無さそうに電話口で言っていたし、私たちもその手のことはよくあるので気にしていなかったのだが、その更に翌日30日、町添さんがうちの事務所に突然来訪した。
 
私たちはその日からレコーディングに入ったところで、みんなスタジオの方に行っていたのだが、町添さんが来て美智子・私・政子の3人に会いたがっているという連絡を留守番をしていた花枝から受けて、レコーディングの指揮はタカに頼んで(マキでは作業が進まない)、私たち3人は事務所に飛んで帰った。
 
「お待たせして済みません」と美智子。
「いや、こちらも急に来たからね」と町添部長。
「で、何かありましたでしょうか?」
「実は例のFM番組の企画なんだけどね。それをローズ+リリーでやってもらえないかと思って」
「は?」
 
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【夏の日の想い出・第三章】(1)