【続・夏の日の想い出】(3)

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3月11日金曜日。私達はその日から東日本のツアーを始める予定で、この日は夕方から仙台近郊の温泉町で最初のイベントを開催する予定であった。現地のコミュニティFMからお声が掛かり、宣伝を兼ねて番組に出演することになり、美智子も含めて全員で仙台市内のその局のスタジオを訪れた。そしてパーソナリティの人に紹介されて「ローズクォーツです」とみんなで一緒に挨拶をした直後であった。
 
突然の激しい揺れがスタジオを襲った。
「きゃー」と私は思わず声を出した。直後、隣にいたマキさんが私をかばうように上にのしかかってきた。
「突然ですが地震です。大きいです」とパーソナリティの人が飛んでいったマイクをつかみ直して叫ぶ。凄いプロ根性だ。スタジオのドアを開けて数人が走り込んできた。美智子が私のそばにしゃがんで「大丈夫?」と訊いた。「はい」私は答える。揺れが収まった時、美智子が私の手を握ってくれていたことに気付いた。
 
「だいじょうぶか?ケイ」マキさんが最初にそういった。
「ありがとう。私は大丈夫。マキは大丈夫?」と私は答えた。
「ああ、俺は平気」
私とマキが「さん」とか「ちゃん」とか付けずに呼び捨てで呼び合ったのはこの時が初めてであった。
 
「地震が収まりました。えー、ローズクォーツのみなさんは無事です」とパーソナリティの人がマイクに向かって言っている。何かありますか?とマイクを向けられた。私はそばにいるマキ、タカ、サトの様子を確認しつつ
「ローズクォーツは全員無事です。みなさん、お怪我などなさっていませんか?今日は歌をお聴かせできませんが、このあと落ち着いて行動してください。放送が聴ける方は報道内容にご注意ください」
と言って、マイクを返した。
「それ、私のセリフだよ」とパーソナリティの人が少し笑いながら言った。
 
下手に動き回るより、ここにいたほうが良いという判断で、私達は放送局にしばらく留まることにした。さすが放送局だけあってどんどん被害状況の情報が入ってくる。巨大な津波が押し寄せてきたのには驚き、テレビでその様子を見て、私達は息を飲んだ。
「何よこれ!?」とふだん滅多に取り乱さない美智子が、かなり感情的な声をあげていた。
 
なお放送局のあった地域は偶然にも津波の被害を免れた。しかし津波の来た地区に挟まれた状態になって、一時期孤立してしまっていた。交通が回復したのはけっこう遅い時間帯であった。
 
その日泊まることになっていたホテルに連絡してみると、通常の営業が困難な状況で、食事なども出せないが、館内で夜を過ごすのは構わないということであったので、ローズクォーツの移動用のワゴン車で何とかそのホテルまでたどりつき、その日はそこの一室で一晩過ごした(1部屋だけ開けてもらった)。ホテル側から食パンを配給してもらったので、それを5人で食べた。
 
翌12日、朝目を覚ますと、いつもの美智子が復活していた。なんとか携帯電話はつながったので、あちこちに連絡していたが、この日はまだどうにも動きが取れない様子であった。被害が東日本一帯の広い範囲にわたっているため、ともかくも予定していたドサ回りのスケジュールはいったん全部白紙に戻さざるを得ないということになり、各地のイベンターと連絡を取っていたが、どうしても連絡の取れないところも多かった。その件に関しては東京の事務所にいる松島さんにフォローしてもらうことにした。
 
また午前中に、私とマキ、タカとサトがそれぞれ組んで近隣のお店などを回り、食料が確保できないか試みた。この際、被災した地域の住民のことを考え、確保できた場合も、最小限だけ買うことを決めていた。私とマキのチームでフルーツの缶詰を2個、タカとサトのチームでポテチを1袋確保できた。しかしこれだけの食料で私達はかなり元気が出た。
 
お昼頃、美智子は「とにかく東京に戻ろう」とメンバーに告げた。どの道が通行止めで、どの道は通れるという情報は随時松島さんに調べてもらうことにして、私達は後ろ髪を引かれる思いで被災地を出発した。
 
運転できるのがマキ、美智子、私の3人なので、3人で交替で運転することにした。(タカ・サトのふたりはペーパードライバーということだった)
 
やはり情報が混乱していて、通れるという情報だったところが実際には通れない場所もあり、その度に地図で確認して迂回路を通るということをしたが、私達はなんとか翌13日の早朝に東京に戻ってくることができた。美智子は取り敢えず15日までお休みにしようということをメンバーに告げた。
 

その3日間、私は政子の家にいって一緒に報道番組を見た。政子は泣いていた。私も泣いていた。各地で様々なイベントが中止されていた。被災地で行われる予定だったイベントが中止されるのはやむを得ないが、なぜ無関係の筈の関西や九州でのイベントまで中止されるのさ?と私も政子も憤っていた。
 
「それでなくても国民全体が沈みがちな状況で、少しでも元気付けるのにイベントは必要だよ」
「なんなら、イベントの売り上げをそのまま被災地に寄付するとかでもいいだろうしさ」
「被災地でしばらくまともな経済活動ができないだろうから、それ以外の地域でその分、頑張らなきゃいけないじゃん」
 
14日の夕方、私は政子や、他の数人のクラスメイトと一緒に大学近くのビア・レストランに集まり「経済活動するぞ!」などと叫んで高いメニューを食べまくった。男の子たちは東北方面のお酒を注文していた。
 
この時、クラスメイトのひとりが、自宅の軽トラを使って、救援物資を被災地に届けてこようかと思っている、というので私は物資の購入に充ててといって取り敢えず50万、彼の口座にその場で振り込んだ。
 
「私自身が購入とか運搬できたらいいのだけど、時間が取れないの。ごめんね」
といったが、彼は振り込まれた金額に驚いたようで
「いや、これだけ援助してもらうと、色々なものが買える。ありがとう」
と言っていた。それを見て「あ、じゃ私も援助する」と言ってやはり数十万単位のお金をその場で振り込むクラスメイトが数人いて、彼の口座の残高はあっという間に200万円を突破していた。
「俺、ちょっとマジでやるよ」と彼は言っていた。
 

その晩、政子の家でお茶を飲んでいた時、政子から切り出した。
「ね、冬、昨日から何か考えてるみたいだけど、何かあったの?」
「あのね・・・・私、性転換手術しちゃおうかと思って」
「いいんじゃない?冬はもう完全に女の子だもん。あんなの付いてるほうが不自然だよ。昨年の春、おっぱい大きくしてすぐにタマ取っちゃったから、そのまますぐに性転換しちゃうのかと思ってた」
「うん。なんか踏ん切りが付かなかったのよね。別にアレに未練とかは無いし実際問題として邪魔でしかないんだけど」
「じゃ何にも迷うことないじゃん。でもどうして急に手術する気になったの?」
 
「地震と津波のせいかな・・・・・」
「へ?」
「あの地震の時、仙台の放送局にいてさ、ほんとに凄い揺れを実体験して。その後津波の様子とかも見て。こちらに戻ってくる時も、津波の爪痕をけっこう見たし。そして今、福島があんな状況なの見たりしていて、私の頭の中で何か変化が起きたの。なんか、今までの生き方ではダメって。中途半端はやめて、自分が進むべき道を進んでいくべきじゃないかって」
 
「大きな災害とか、個人的にも何か不運なことがあったりした時って、自分の基本に立ち返ることになるからね、人って。冬の場合、自分の性別問題にそろそろ決着を付けるべき時が来ていたんだろうね」
「うん。そうかも」
「今性転換しておけば、20歳の誕生日過ぎたら、戸籍上の性別も変更できるんでしょ」
「うん。それはすぐやるつもり」
「でも、身体も戸籍も女の子になって、そのあとの自分の生き方、ちゃんと考えてる?」
「これから考える」
「ふふ。冬が戸籍上も女性になっちゃったら、私も冬と結婚してあげられなくなるしね」
「え?」
「私に対してそういう気って無かった?」
「ちょっとだけ」
「うふふ」
「マーサとは女友達という線でいいんだよね」
「そういうことにしとこうね。あの日のことも秘密だしね」
「うん」
 

昨年の春、私が去勢手術を受ける前夜。手術を受ける病院近くのホテルまで付いてきてくれた政子と私は、1度だけ、秘密の体験をした。それはふたりだけの心の中にしまっておく約束である。
 
翌15日、私は美智子に近いうちに性転換手術を受けたいと思うと電話で言った。美智子は「おめでとう」と言ってくれた。
「それで完全な女の子になるわけだ」
「ええ。赤ちゃんは産めないけど」
「手術受けたらしばらく休養期間が必要だよね」
「はい。でも仕事があったら死ぬ気で頑張りますから」
「死なれちゃ困るんだけど。今冬に死なれたら私借金が返せなくなっちゃう」
「すみません」
「じゃ、手術の日程が決まったらすぐ連絡してくれる?」
「はい」
 
それから私は母に電話して性転換手術を受けるつもりだということを言った。母は一度会いたいと言い、私はレストランの個室で会って話した。母は手術を受けること自体には反対はしないと言ってくれた。まだ19歳なので手術に同意書が必要だというと、サインしてくれた。
 
ただ母は私の気持ちが揺れていないか、突然そういうことを思ったのはなぜなのか、一時的な気持ちで手術を受けようとしていないか、などといったことを尋ねた。私はほんとはまだ少しだけ気持ちが揺れていたのだけど、母とそういうことを話している内に、気持ちがしっかり固まってきた。
 
母との話が穏やかな雰囲気の中で終わってから、私は前々から接触していて、気持ちが固まったらお願いしたいといっていたコーディネーターの方に連絡して手術を受けたいと伝えた。コーディネーターの方は私とその日のうちに面談し、私の気持ちがしっかりしていることを確認すると、私の日程が厳しいことも配慮してできるだけ早い時期に手術日程を入れてくれると言ってくれた。その日の夕方連絡があり、3週間後の4月3日に日程を入れることが可能だということだった。すぐに美智子に連絡するとそれで調整するといわれたので、折り返しコーディネーターの方に連絡して私の手術日程は決まった。すぐに女性ホルモンの摂取を一時中止するよう言われた。実は3月11日の地震の後飲んでないと言うと、それはとても好都合だと言われた。
 

翌16日。ローズクォーツのメンバー4人は都内の事務所に出社した。美智子は各地でいろいろなイベントが中止になっており、様々なものが混乱の極致であると言っていた。3月12日にダウンロード開始予定になっていた「雅な気持ち」はいったん公開が保留になっていたが、上島先生と美智子、それにレコード会社の町添部長とが急遽話合った結果、中身はそのまま、タイトルを「春を待つ」と変えて、17日に公開されることになった。CDは19日発売予定だったがプレスしなおさなければならないので月末くらいの発売になるということだった。
 
「なんで『雅な気持ち』はダメで『春を待つ』ならいいんですか?」とマキが不満そうに言ったが、美智子は
「大人の事情を察してよ」と言った。この件ではたぶん私達以上に上島先生も不満であったろう。それでも、★★レコードの売上の2割くらいを稼ぎ出している上島先生の作品だからこそ、とにかく発売だけはできることになったんだろうと私は想像した。様々な作品が軒並み発売中止になっていた。
 
美智子は私が来月頭に性転換手術を受けることになったこともみんなに伝えた。「おお」といった歓声があがる。
 
「それで冬ちゃんの体調考えて4月いっぱいはライブとかはお休みにする。どっちみち、今日本列島全体が自粛ムードで、新たな日程組めないんだ。予定していたイベントはいったん全部キャンセルになっているしね」
 
「被災地のイベントの中止は仕方ないですけどね」
「なんでこうなるんだろうね。私も誰かに文句言いたいけど、言えないのさ」
と美智子も憤懣やるかたない様子であった。
 
「で3月中は、主として九州方面のライブハウスを攻めてみようかと思って。とりあえず被災地から遠いし、少しは、やりやすいと思うのよね。今コネを使って、一本釣り方式でどんどん照会している」
「わあ」
 
「既に5ヶ所の出演が決まった。あと10個は取るからね。取り敢えず、18日は伊万里市のライブハウスに行くから」
「伊万里?えっと長崎県でした?」
「間違える人いるけど、あそこは佐賀県。冬ちゃんも今月はもう大学は行かなくてもいいんだよね」
「はい。大丈夫です」
「じゃ、今回は九州に行きっぱなしで、ずっとエスティマで移動するから」
 

そういうわけで私達の震災後最初のツアーが始まったのであった。
 
私達自身が地震の時に仙台にいたこと、そして凄い状況の現地の道を走って東京に戻ったことをライブでも語った。そして会場には募金箱を置かせてもらい、また私達のライブの売り上げについては会場代・旅費その他の実費を除いた部分の全額を被災地復興に寄付することにした。寄付は赤十字にではなく、現地でボランティア活動している団体に提供する方式とした。赤十字への寄付では、被災者の手に渡るのに時間がかかるが、現地に今すぐ様々な物資や手助けが必要な状態だと、震災後ずっと連絡を取り続けている当地のFM局の人からきいていたためであった。提供する団体もFM局の人に個人的に紹介してもらった。
 
「でも全額寄付すると、給料方式のマキ・サト・タカはいいけど、マージン式のあなたは無給になっちゃうけどいい?半額でも充分貢献できるよ?」
と美智子は言ったが
「私はレコードの印税もあるからいいです」
と答えた。私は作曲している曲もあるので、結果的に他のメンバーより多く印税をもらっている。またローズクォーツの活動が始まってからローズ+リリーの曲もよくダウンロードされるようになっていて、その分の加算もあった。政子も「ローズ+リリーの印税で学資がまかなえてる」と言っていたが、私もそういう状態であった。
 
「ただ会社の方は大丈夫?」
「それは気にしないでいい。某氏に少し出させるから。私自身もローズ+リリーの印税で生活費は出てるしね」
美智子はローズ+リリーの楽曲のほとんどの編曲者になっているので、その分の印税収入があるのである。
 
さて、これまでのドサ回りではマキ・タカ・サトの3人はずっとエスティマで移動していたのであるが、私は毎日東京から現地往復だったので、今回はほんとに3人と話す機会が増えた。会話は楽しかったが「ケイがいると、さすがにどぎつい下ネタは出せないな」などとタカは言っていた。私は笑って流しておいた。確かに私は男の子たちのその手の会話にはついて行けないんだ。高校時代だって辛かったんだから。そうそう。私は震災以来マキとは愛称呼び捨てで呼び合っていたが、このドサ回りの間に、タカ・サトとも愛称呼び捨てで呼び合うようになっていた。
 
だいたい現地には先行して美智子が行っており、様々な交渉をしたり、下準備の手配などをしていた。ホテルは私と美智子が一緒。マキ・タカ・サトの3人で一部屋(おおむねツインルームにエクストラベッドを入れてもらったり、和室のある所では和室を利用したりしていた)というパターンが多かった。松島さんはこのツアーの最中は、東京の事務所でお留守番であったが、土日にはこちらに来てお手伝いをすることもあった。
 

この九州ツアーでは、オープニングに「上を向いて歩こう」を演奏した。みんな知っている曲で、何となく元気が出る歌ということで選んだものである。相変わらず民謡の収集は続け、私は毎日一晩で民謡を覚えるというのをやっていた。しかし毎日その民謡のバンド用譜面を1時間程度で書きあげる美智子も凄い。
 
美智子は若い頃、ホテルのラウンジなどでピアノの弾き語りなどをやっていたらしい。実はレコード(CDの時代ではない!)も何枚か出したことあるそうだが全く売れなかったとか。その頃作曲した曲も数十曲あるというので、いちど聴かせてくださいと言ったが、恥ずかしいからダメなどと言っていた。ただ当時の名前がローズ+リリーの曲の大半の編曲者としてクレジットされている「はらちえみ」というのは聞いていたので私はネットで検索して1曲だけ美智子の歌っているデータを発掘した。可愛い路線の歌い方だった。「きゃー、この曲のレコ−ドは私も持ってないよ」と本人がびっくりしていた。
 
「でもさ、私があの宇都宮のイベントで譜面見せて冬に歌ってみてといって、初見で冬が歌ったでしょ」
「うん」
「あの時、冬の歌を聴いた瞬間、私は冬の才能に感嘆したのよ。でも凄く惜しいと思ったんだ」
「何が?」
「男の子なのが惜しいと思ったの。これで女の子なら絶対売れると思ったんだもん」
「あはは」
「それで政子ちゃんのことばに乗せられるようにして女装させてみたら凄く可愛くなっちゃったじゃん。それを見た瞬間、この子を絶対売りだそうと思ったんだ、この路線で」
「でも多分、私もそういう素質が元々あったんだと思うな。あまり強く意識したことは無かったけど。私、元々小さい頃とか、女の子の友達とばかり遊んでいたから。きっとたまたまスイッチが入る機会が無かっただけ」
 
「ところでさ、冬」
「うん?」
「政子ちゃんとは何も無かったの?ここだけの話」
「えっと・・・・その件は何も起きたことは無いというのが公式見解です」
と私は言った。
「ふふふ。そっか。じゃ、私もそう思っておくことにしよう」
と美智子は笑っていた。
 

3月の九州ツアーはどこでも好評のうちに終了した。
 
4月になり私はタイに渡り性転換手術を受けた。ふつうはペニスを切断・睾丸を摘出してヴァギナと外陰部およびクリトリス・新しい尿道口を形成するという大手術であるが、私の場合既に睾丸は摘出済み、外陰部も形成済みなので、ペニスを切断、ヴァギナとクリトリスを形成して尿道を付け替えるだけとなり、ふつうよりかなり軽い手術ということだったが、それでも凄まじく痛かった。それで完全な女になれた喜びを感じる余裕ができたのは手術の翌月になってからだった。
 
実際問題として手術が終わってからペニスが無くなった自分の股間を眺めた時も、特に何も感じなかった。自分自身としてはそこには既に何も付いていないかのような認識でいたので、完全な女性型になったその部分を見ていても自分にとってごく自然な状態のようにしか思えなかったのである。それはいわば、イボか魚の目でも取ってもらったような感覚に近かった。おしっこをする時も今までより出やすい(出てしまいやすい)感じはあるものの大差は無い気がしていた。
 
むしろ新しく出来たヴァギナという器官はちょっと面白い器官という気がしていた。その後毎日ダイレーションをすることになるのだが、シリコンのスティックを挿入する度に実は私は軽い性的な興奮を感じた。でもここに「ホンモノ」が入れられる日は来るのかな・・・? ま、結婚はできないだろうけどHくらいはしてみたいという男の子は現れるかも知れないな、などと私は漠然と考えていた。
 
手術にはまた政子が付き添ってくれた。麻酔から覚めた時に政子は私にキスして「これで女の子になれたね。おめでとう」と言ってくれた。政子のその言葉はけっこう私の心の支えになった。政子は数日後、包帯が取れたら即私の形状をチェックして「完璧だね。クリトリスはここかな?」などと言って触っていた。ヴァギナにも指を入れて「おお、入る入る」などと言って喜んでいた。
 
「あれ?人差し指全部入っちゃった」
「ちょっと〜」
「あはは、冬のバージンもらっちゃったのかも」
「え〜!?」
「でも女の子同士だし、たぶんノーカウントだよ」
「そうか?」
これはむろん私がダイレーションなど始めるより前だったので、ほんとに私は政子にバージンをあげちゃったのかも知れないという気はしている。政子は私のバージンも冬にあげたんだから、あいこかな、なんて言っていた。私は苦笑いした。
 
政子はせっかくタイまで来たので、その機会にバンコクに長期出張中の両親にも会ってきた。私が手術を受けたというのを聞き、政子のお母さんも御見舞いに来てくれた。私はまだ手術の後の痛みで苦しんでいたが、お母さんにまで声を掛けてもらい、ちょっと元気が出た。私は現地には10日ほど滞在して帰国した。
 

4月中はローズクォーツのライブ活動はお休みになったが、私は帰国後毎日のようにマキたちと電話やチャットで話したり、日によっては私のマンションの近くのファミレスなどで会ったりしていた(例によって私のマンションに他のメンバーを入れることは厳禁されていた。私がマンションに入れてもいいのは、両親と姉、美智子と松島さん、政子や女性の友人だけということになっていた)。
 
体調はほんとに辛くて、1ヶ月休みをもらったのが嬉しかった。これは無理はできなかったなと思った。身体を休めていても頭のほうは働いているので私はその期間にたくさん曲を作った。政子もいろいろ詩を書きためていたのでそれに曲を付けるのもしたし、私自身で作詞・作曲した曲も10曲以上あった。この時期、ほんとによくいろいろな発想が得られた。この時期かなり色々な夢を見たが、その夢から覚めた時に頭の中に残っていたメロディーを急いで書き留めたものもいくつかあった。
 
ローズクォーツの他のメンバーも4月はそれぞれの過ごし方をしていた。マキはウッドベースを弾いてみたいと言い出して、1個買ってきて練習していた。タカは美智子に言われて三味線教室に通っていた。サトは最初お正月に買って、私が少しだけ弾いた箏を少し練習しようとしていたがすぐにギブアップして横笛を数種類、全国各地から取り寄せて練習をしていた。音階がそれぞれの地区で違って奥が深いと言っていた。尺八にも手を出していたがなかなか音が出ないと言っていた。
 
箏の方は結局私がもう少し練習することになった。しかしなにせ身体に無理が効かないので、箏を自宅にしばらく置かせてもらい、先生に出張授業をしてもらうなどというブルジョア的なことをしてしまった。しかしこの1ヶ月間でけっこう弾けるようになった。
 
ローズクォーツの活動は5月3日の四国高松でのライブから再開された。私の体調に配慮して連休中はゆったりとしたスケジュールでライブが組んであった。しかし1ヶ月ぶりのステージはまだ少しいろいろと不調であった私を一気に元気にしてくれた。
 
「いやあ、ステージ始まる直前まで、ケイ大丈夫かな?と思ってたんだけど、前奏を始めたとたん、元気なケイが戻って来たね」
とマキは言っていた。
「ステージが私を呼んでいるのよ。観客席が私に力をくれるのよ」
私は本気でそんな感じがしてみんなに言っていた。
その夜は地元イベンターとの打ち上げには美智子とマキが出席して私は早めに休ませてもらった。
 
その後、4日は徳島、5日は高知、6日が松山、7日が広島、と都市のライブハウスを巡っていき、8日の岡山のライブで、ゴールデンウィークのツアーは終了した。
 
ゴールデンウィークの終了後、私達は7月に発売する予定のシングルと、同時に発売する予定の初アルバムのレコーディングに入った。シングルと称していつも6-7曲入れているが、アルバムなら何曲にするんですか?と美智子に訊いたら
「うーん。20曲くらいかな」
などと言っていた。
 
上島先生は新しい作品用にと「一歩一歩」というマーチ風の曲を書いてくれた。なかなか恋が進展しない状況の中で少しずつ彼に近づいていこう、という歌詞ではあるが、雰囲気的に東北の復興に向けての一歩一歩でもあることは、みんなが感じていた。いつもはマキの曲と私の曲を1曲ずつ入れるのだが、今回マキは「パス」と言って曲を出さなかった。そこで私と政子の作品「恋の勇者よ」と私が仙台で被災した時に突然「降りてきて」書いていた作品「峠を越えて」を入れることにした。有名曲としては「コンドルは飛んでいく」と「上を向いて歩こう」を入れた。「コンドルは飛んでいく」はS&G版ではなく、それより古いスペイン語版を元に新しい訳詞を付けた。
 
 遙かな故郷(ふるさと)の空よ、海よ、田畑よ。
 待ってておくれ。
 いつか私も帰る、愛するあの家へ。
 仲間と共に。
 ああ、空を飛ぶ鳥よ、私を連れてって。
 お前の見た故郷を、私に教えて。
 幸い実るあの大地のことを。
 
 連れてってよ鳥よ、あの故郷へ。
 私はきっと帰る、仲間と共に。
 
そして定番化している民謡としては「相馬盆唄」を入れた。現地で民謡酒場を営んでいたものの、原発事故で今関東方面に避難している人がいると聞いて、美智子が交渉し、その人とその人の知り合い数名に参加してもらって、都内のスタジオで収録した。
「あんた、福島県の出身?」
などと聞かれた。
「いいえ。東京出身です。母の実家が岐阜県なので生まれは岐阜県なのですが」
「あんたの唄い方は、民謡教室とかで教える唄い方じゃないから。直接この界隈出身のお友達か誰かに習った?」
「ええ、まあそんなものです」
と私は曖昧に答えておいた。
「でも、私はそういう唄い方の方が好きだよ」
と民謡酒場のオーナーさんは言っていた。
 

なお今回のシングルとアルバムの制作にあたっては、基本に返ろうということで原則としてローズクォーツの4人だけで演奏することにしてサポートミュージシャンは入れないことにした。その分、けっこうな多重録音もした。タイトル曲の「一歩一歩」は重厚なブラスバンドのようなサウンドを出したが、これは私とサトが各々4回ほどキーボードを弾いてブラス楽器の音を重ねたもので、(キーボードでは同時に5〜6本の指でキーを押しているので)40〜50人編成の大型ブラスバンドで演奏しているかのような凄いサウンドに仕上がった。
 
アルバムの方は、上島先生が4曲書いてくれて、その中の「夢見るクリスタル」
という曲をタイトル曲に使用することを決めた。マキが8曲、私が10曲、各々書きためていた曲を出したが、マキの曲が4曲、私の曲が6曲採用となった。
「まだ足りないなあ。20曲くらいにしたいのよね。全員明後日の水曜日までに最低1曲作ってきて」
「俺達もですか?」とサト。
「うん。タカちゃんもね」
「作曲なんて、したことねー」
 
「曲から先に作る場合は、適当にぱらぱらと楽器を弾いていて、何かいい感じのモチーフが浮かんだらそこから発展させる。歌詞から先に作る場合は、何か詩を書いて、それにコード進行を付けていけばいい。メロディは自然に定まる。コード進行は何と言っても1度・4度・5度・1度が基本。曲の構成は唱歌形式といって、AABAと4小節ずつ4回重ねるのが基本で、これにサビを入れるのが日本のポップスの普通の形。ま、あまり1度に言っても頭に入らないだろうし、不完全だったら、きっとケイちゃんとマキちゃんが直してくれるよ」
 
翌日、月曜日。私は大学の講義が終わった後、政子と、最近わりと親しくしている南野博美の3人でファミレスに行き、夕食を食べていた。私はチキン・ステーキ・セットを頼んだ。
「最近、やたらとお腹が空くのよね。4月にあまり食べられなかった反動かも」
「冬子は体重制限とかは無いの?太りすぎたら契約解除!みたいな」
「アイドルじゃないからね。一応常識的な範囲でとは言われてる」
「常識的ってどのくらいの範囲なんだろ?」
「今45kgだけどね。50kgまでは許容範囲かなあ。60kgになったらさすがにダイエットしろと言われると思う。逆に40kgは切るなと言われてる。体力持たないからって」
「ああ。でも女の子になって、そのあたりの体質って変わった?」
「うん。やはり脂肪が付きやすい気がするよ。意識してカロリーコントロールはしておかないと」
 
「もう手術跡とかは痛まないの?」
「気にすると痛くなるから、気にしないことにしてる」
「やっぱ、大変なのね」
「自分で選んだ道だし。最近ようやくおっぱいの方はあまり気にならなくなった」
「ああ、豊胸も痛いんだ」
「むしろ、胸のほうが下の方より痛かった」
「きゃー」
「当時、けっこう苦しんでたよね」と政子。
「私も貧乳だからなあ、いっそ豊胸しちゃおうかとも思うけど、そういう話を聞くとためらっちゃう」
「私みたいに、よほどの必要性がない限り、手術はしないほうがいいと思うよ」
 
「冬子は顔はいじってないんでしょ?」
「うん」
「じゃ、元々女顔なんだね」
「それはマーサからよく言われてた」
「顔のパーツの配置が女性的みたいね。高校時代にクラスメイトで占いのできる子がいたんだけど、その子からも冬の顔は女性的だっていわれてた」
「顔か・・・・」
「ん?何かひらめいた?」
「マーサ、五線紙ちょうだい」
「うん」といって、政子がバッグの中から五線用紙を出してボールペンと一緒に渡す。
私は突然思いついたモチーフと歌詞を急いでその用紙に書き留めた。少し考えてその展開形まで書いていく。私はかなり歌詞を書いてから、タイトルの所に『Every Face』と書いた。
 
「だけどさ、冬」
「ん?」
「あんた、なんで自分で五線用紙を持ち歩かないのよ?」
「あはは、いいじゃん。マーサが持ってるから」
「私と一緒じゃない時はどうしてるの?」
「バンドのメンバーと一緒の時は誰かからもらう」
「誰もいなかったら?」
「その時は仕方ないからコードとか階名とかで記録しておくよ」
「でも政子はいつも五線用紙を持ち歩いてるの?」と博美。
「うん。私は作曲はしないんだけどさ、冬がこうやって五線紙ちょうだいというから、私が持ち歩いてる」
「えー、冬子専用なんだ!」
「感謝してますよ」と私は曲の主メロディーの部分を書きながら笑顔で言った。最初に思いついたモチーフは、サビの部分に使う。
 

この場で書いた曲「みんなの顔」は美智子も気に入って、サブタイトル曲として使うことになった。私のが更にもう1曲、マキのが1曲採用となったほか、サトとタカが書いた曲も1曲ずつ採用された。ただし私とマキの手でかなりの修正をさせてもらったのだが。ともかくもこれで19曲となった。
 
「20曲にしたかったけど、この19曲で行こうかな」
「アルバムには、民謡とか有名曲とかは入れないんですか?」
「うん。アルバムはオリジナル曲だけで行く」
「いろいろ、こだわりがあるんですね」
「まあね」
こんな時の美智子はほんとに楽しそうである。
「カバー曲のアルバム、民謡のアルバムもそのうち出すつもり」
「なるほど」
 
「一応発売日の予定は、シングルが7月1日、ローズ+リリーのメモリアルアルバムが7月8日、ローズクォーツのファーストアルバムが7月15日の予定」
「ああ、とうとうあの録音が世に出るんですね」
「うん。ローズ+リリーの作品としては2年ぶりになるね」
「メモリアルって追悼版?」
「そう。ローズ+リリーはもう復活しないから、追悼版」と私は笑って言う。
「ローズ+リリーの追悼版を出してからローズクォーツのファーストを出す。それで世間へのメッセージは充分だと思うのよね」と私は続けて言った。
 
美智子も頷いていた。これは私としてもこの3人の前で言っておきたかったことだ。そもそもこのアルバムを出すのを録音してから1年近く待ったのはローズクォーツのアルバムが(美智子が満足する品質で)出せるようになるのを待つためであった。
 
「あと、冬ちゃんの写真集を2冊。昨年撮った18歳の写真集と、これから撮影する19歳の写真集。発売は同時にする予定。6月末に店頭に出そうと思ってる」
「今年はどこで撮影するんですか?」
「松島。宮城県ね。敢えて被災地でやる」
「えーっと、水着ありですよね」
「水着写真の無い、女の子の写真集なんてあり得ない」
「あはは」
「で、今回政子ちゃんにも1枚だけ入ってもらうことにした」
「契約事項には触れないんですか?」
政子の芸能活動契約は、楽曲の録音とそれに伴う最低限の活動のみと限定になっていたはずである。
 
「政子ちゃん、来月20歳になるからね。契約事項を見直すことで昨日電話でだけどお父さんと話して合意した」
「ああ」
「基本線は変わらないんだけど、少しだけゆるくしようという方針かな。ローズクォーツの4人で映る写真も1枚入れるつもりだったんだけど、ある筋からのお達しでダメといわれたのよ」
「いや、女の子の写真集に野郎を写してはいかんです」とサト。
 

そういう訳で私達は5月はシングルとアルバムのレコーディングに没頭した。更にその合間を縫って、私は宮城県の松島に行き、写真集の撮影をした。政子も一緒だったので、楽しい撮影旅行になった。私と政子のツーショットは10通りのパターンで撮影したのだが、その中のどれか1枚を収録することになる。これは水着ではなく、ふたりともワンピースを着た写真である。
 
「ミニスカにしようかとも思ったんだけどねえ」
と美智子は言っていた。
「でもローズ+リリーの復活みたいな感じにはしたくないのよ。これはあくまで同窓会みたいな雰囲気。だからワンピースがいいかなと思ったんだ」
このふたりで映った写真は、写真集の最後のページに掲載され、その縮小版が写真集の裏表紙にも印刷されることになった。
 
5月末の土曜日、私達はいつもの事務所ではなく、大手○○プロダクションのビルに呼び出された。部長の浦中さんが出てきたので、私は
「お世話になっております。ご無沙汰しておりました」と挨拶した。
部長さんと聞いて他の3人が驚いている。ちなみに肩書きは部長にすぎないが実質的には、このプロを切り盛りしている人である。
 
「うん。ご無沙汰。ローズクォーツに僕が絡んでいたことは知ってた?」
「聞いてはいませんでしたが、たぶんそうだろうと思っていました」
実は上島先生がうっかり漏らしたのを聞いていた訳だがそれは聞かなかったことにしておく。
「まあ、そういうわけで、ローズクォーツのプロモーションに関しては、今後うちも表に出て本格的にやっていくから」
「ありがとうございます」
 
「それで本格的なプロモーションを7月から始める前にね、6月一杯は、被災地めぐりをしたいということで須藤君からいわれたのでね。こちらの営業網で、それをフルサポートすることにした」
「そういうわけで、みんなを○○プロさんに引き合わせたの。これまでも色々陰でサポートしてもらっていたのだけど、今回は陰でという形では難しいから」
「これって3月にする予定で中止になっていた、東日本のドサ回りの代りですね」
「そう。但し、福島・宮城・岩手の避難所をひたすら巡る」
「なるほど」
 
「で、今回はちょっといくつか須藤君と話し合ったことがあってね・・・」
「うん。第一にバンド名を名乗らない、第二に持ち歌を歌わない、第三にCDなどの物販をしない」
「え?それって全然プロモーションにならないのでは?」
「そう。宣伝行為とみなされることをしない」
「ああ」
 
「実はこないだ★★レコードの町添君とも話したんだけどね。被災地を応援しますなどといいつつ、商売や自己宣伝の手段としてやっている連中も一部いるよね、などという話になってね」
「それは確かに・・・・」
「で、いっさい商売にならないことを誰かにさせてみようという話になって。それなら、ちょうどいい素材がいるということで、ローズクォーツを推薦したんだよ。これって演奏能力の高いアーティストでないと務まらないから」
「ありがとうございます」
 
「だから、一切プロモーション行為はしない代わりに、その分のバックアップをする。移動に掛かるガソリン代・ホテル代などの費用や食費なども全部こちらで負担するし、現地でCDを売らない代わりに、来月からの君たちの新曲やアルバムの発売に関しては大きな広告打ったりしてサポートする」
「それはむしろありがたいです」
と私とマキがほとんど同時に言った。
 
「君たちは過去の有名ヒット曲とかたくさん歌っているから、今はやりの曲やそういう曲を中心にステージを構成して欲しいんだ。それが避難所にいる人たちには楽しめるだろうしね。リクエスト受けて即興で演奏するというのもよくやっているらしいから、そういう形式も採り入れて」
「はい」
「もちろん、君たちの持ち歌をリクエストされた場合は、歌っていいけどね」
「分かりました」
 

そういうわけで、私達は6月の1ヶ月間、福島・宮城・岩手の避難所300ヶ所ほどを巡るツアー?に出かけたのであった。1日10ヶ所程度を回るというハードなスケジュールで、休日には15-16ヶ所回る場合もあった。幸いにも?今受けている大学の講義の中には出席を取る講義が無かったので、私はその1ヶ月間、大学の方はサボることにした。その間の講義の内容に関しては、政子や他の数人の友人に頼んでできるだけ詳しいノートと録音を取ってもらい、ノートはFAXで送ってもらい(こちらはグリーンファックスを使ってパソコンで受信)、録音のほうは毎週末に政子が新幹線で東北まで往復してもってきてもらったので、それを元に私は毎日夜に勉強した。
 
電力事情の悪い被災地を巡るということで、私達は電気を使う楽器は一切使わないことにした。マキはアコスティックベースを使うことも考えたが、やはり電気増幅しないと音量不足ということで、かさばるがウッドベース(コントラバス)を持ち歩くことにした。タカはアコスティックギターである。サトはかなり迷ったが、生のドラムスセットを設置・撤去していると1日10会場こなすのは辛いということでアコーディオンと曲によってはピアニカを使うことにした。私はマイク無し、肉声で体育館規模の会場に声を響かせなければならない。
 
美智子と、★★レコードの高山さんが先行して翌日行く会場の選定と交渉、必要と思われる場合は下見をして、私達ローズクォーツの4人はそれを追いかける形でエスティマで移動した(会場を選定するとはいっても事実上絨毯爆撃に近かった)。レコード会社の人にスタッフに加わってもらったのは、○○プロよりも田舎ではネームバリューがあって、自治体などに働きかけやすいためである。
 
ホテルはだいたい3部屋ツインを取り、私と美智子で1部屋、マキと高山さんで1部屋、サトとタカで1部屋というパターンであった。ホテル事情もあまり良くないので避難所めぐりした地域からかなり距離を移動した所のホテルに泊まることもあった。
 
初日はいきなり牡鹿半島の某港町の避難所から始めた。津波で壊滅的な打撃を受けた町である。オープニングの歌を何にするか私達は悩んだ末に中島みゆきの『地上の星』を選んだ。無理に元気づけようとするような曲は避けようということでは意見が一致したのだが、この曲ならメッセージを受け止めてくれる人には奮起を促すこともできるし、よいのではということで話がまとまった。
 
そのあとリクエストを求めると「SCARLET KNIGHT」、「ヘビーローテーション」、「レーザービーム」「Sunshine sunshine」などといった曲がリクエストされる。ポップスは得意なので私達はどんどんリクエストに応じて演奏した。ポップスばかり続いて年齢層の高い人が遠慮してるかな?と思っていたら「最終便」という声が飛ぶ。
 
「3代目コロムビアローズさんですね?」と私は客席に確認した。リクエストした男性が頷いている。「『最終便』という曲は久保田早紀さんにもあるんですよね」と私は確認した理由を客席に説明する。「カラオケ屋さんに行って曲名集を見ていると並んでいるんです。同名曲があるのでは他に『卒業』とか『ありがとう』とか『少年』とかもありますね」などと私は束の間のトークをする。
 
「さて行けるかな?」といいつつメンバーの方を振り返ったが、振り返る前からタカとサトが焦っている雰囲気は感じ取っていた。わざわざ客席とやりとりしていたのも半分は彼らに思い出す時間を与えるためであった。しかしマキは何とかなりそうな顔をしている。私はサトが横に置いていたピアニカを取ると、いきなりメインメロディをそれで吹いた。それでみんな記憶が戻ったようであった。他のメンバーが改めて前奏を演奏し、私は歌を歌い出した。
 
これで演歌派が勢い付いたのか、そのあとは「海雪」とか「虹色のバイヨン」
とか「庄内平野・風の中」とか次々と(比較的新しい)演歌ばかり来た。が、みんな偶然にも演奏経験のある曲だったので、無難に演奏することができた。最後は民謡で締めようということで、私達は斎太郎節を演奏した。それまでのリクエスト大会で会場はかなり熱くなっていたので、立ち上がって踊り出す人も出た。会場で一緒に歌っている人もたくさんいる。私達は会場とひとつになった感覚に酔いながら、この被災地応援ツアーの最初のステージを終えた。
 
ステージが終わった後、サトがピアニカの件で「ケイと間接キス」などと言って喜んで?いた。「小学生じゃあるまいしー」と私は笑ってスルーした。
 
今回のツアーでリクエストされる曲は、やはり避難所の年齢層が幅広いことから、ポップスから演歌、洋楽から唱歌、ジャズから民謡まで様々であった。AKB48, 嵐,Perfume, 福山雅治, SuperFly, 氷川きよし, 水森かおり, LadyGaGa, Taylor Swiftあたりはやはりリクエストが多かった。「素敵な貴方」をリクエストされた時は客席の中からタバコを1本頂いて、火は付けないもののそれを咥えながら歌った。(未成年だから火を付けたら違法。ちなみにローズクォーツは全員非喫煙者)
 
「被災者の方に物を配るボランティアは多いですが、被災者の方から物をもらっていくボランティアは珍しいですね」
などと、タバコをもらった時に私が言うと、会場がどっと沸いた。
 
会場のステージにピアノが置いてある場合は、私かサトがそれを演奏に使わせてもらう場合もあった。ただ特定の鍵盤が押しても音が出ない時や、音程がけっこう狂っている場合もあり焦った。
 
持ち歌の中では「萌える想い」「さくら」「花鳥風月」の3曲が1日に1度はリクエストされる感じだった。バンド名を名乗っていなくても顔を見ただけで私達を認識してくれるファンがいることを有り難く感じた。しかし実はローズクォーツで出している曲の中で最もリクエストが多かったのは「ふたりの愛ランド」であった。私は被災地の人達を元気付けるのにはこっちがいいだろうということで、女声と男声のひとりデュエット版で歌うことにした。どこの会場でもこれには歓声が上がっていた。
 
「いいの?ケイ」とマキが心配してくれたが「開き直った」と私は笑顔で答えた。
「ただし今回の避難所ツアー限定ね。それでもう封印。聴き納め」
 
今回のツアーはけっこうハードだったが、いろいろ刺激されるものもあった。私はこのツアー中にしばしば着想を得て曲を書いた。これは後に2枚目のアルバムに収録されることになる。秀逸な曲が多く、上島先生も「若さゆえの感性だね。今回はケイちゃんの曲に勝てる曲を書く自信が無いよ」などと褒めてくれた。おかげでそのアルバムのタイトル曲として上島先生が書いてくれた曲は凄く力の入った曲になったのだがそれはまた後の話である。
 
6月下旬の岩手県の某避難所で巡り会った中学生の巫女さん(最初てっきり普通の女の子と思ったら、本人からの申告でMTFと知り、ほんとにびっくりした)は私に強烈なインパクトを与えてくれて、私は次の会場に移動する車の中で「聖少女」という曲を書いた。エキゾチックなコード進行が今までのローズクォーツには無かった新しい世界を開く曲で、11月くらいに発売するシングルのサブタイトル曲になることになった。
 
その避難所には偶然にも何人もMTFの人がボランティアなどで来ていて、私達は後日、都内で集まった。その会合はとても盛り上がり、時々定期的に集まろうということで意見一致したのであった。また私はあの「中学生巫女」の青葉ちゃんからヒーリングを受けた。実はまだかなり痛みが残っていた性転換手術の跡も、昨年受けて、未だに時々痛みを感じる豊胸手術の跡も、青葉ちゃんのヒーリングでとても楽になった。
 
「手術で物理的には女性器が出来てるけど『気』が通ってないの。このままだと、これは身体に出来た傷とみなされてふさがっちゃう。ダイレーションで物理的に広げても、傷を広げているだけ。だから私がちゃんと『気』を通してあげるね。それができれば、これは傷ではなく、冬子さんの本物の器官になる」
と青葉ちゃんは言っていた。青葉ちゃんのこの特殊な『気の調整』のため私は大学の夏休みの間、仕事が休みの日を使って6回、青葉ちゃんの住む富山県まで通った。その結果、明らかに今までと自分のヴァギナの感触が変わってしまったのであった。更には「生理」みたいなものまで始まってしまった!
 
青葉ちゃんはその『気』の状態を維持しやすくするための「心の持ち方」も教えてくれた。青葉ちゃんにはその後も継続してヒーリングをしてもらうことになった。
 
少し時間を戻して7月1日。新しいシングルが発売になった日、私達は午前中にFMに出演し、お昼と夕方には都内のレコード店でインストアライブをした。FMの影響力は凄く、その日の内に新曲は3万ダウンロードを記録した。ライブの方も盛況で、そのライブの録画を店内のテレビで流したりもしてもらえたおかげでCDがその日その店だけでも1000枚売れた。
 
「どうも『コンドルが飛んでいく』の新歌詞版が好評みたいなの」と美智子が言った。
「楽曲別のダウンロード数が、トップはもちろんタイトル曲の『一歩一歩』で2位が『峠を越えて』なんだけど、『コンドルが飛んでいく』が『峠を越えて』
に迫る勢いで個別購入されている。それでさ、これを是非15日発売のアルバムにも収録してくれと言われて」
「えー!?変更間に合うんですか?」
「★★レコードの町添部長が何とかすると言っていたから。それで急遽今からアルバム版を収録する」
 
ということで、私達は翌日スタジオに緊急招集された。
「ケーナの音を入れて欲しいという強い要望があったんだけど、サトさんケーナ吹ける?」
「触ったこともないですが・・・・」
「じゃ今覚えて」
「ひぇー」
「尺八は吹けるよね?」
「一応音は出せます」
「じゃケーナの音も出るよ」
用意されたケーナは日本国内で女竹という竹で作られたもので、比較的音が出しやすいものということであった。
 
サトが美智子が連れてきていた先生に習って必死でケーナの練習をしている間に、他のメンバーは編曲や曲想などの確認をしていた。
「シングルではヤラビ(S&G版で使用されたメロディアスな部分)からいきなりワイノ(舞曲部分)に飛んだんだけど、今回はちゃんと途中のパサカージェ(行進曲部分)も演奏しようと思う」
「いいですね」
「実はCDの収録時間がまだ7分残ってるから長いバージョンが入れられるんだ」
「なるほど」
 
「日本語歌詞にするかスペイン語歌詞にするか悩んだんだけどさ。シングルが日本語歌詞だから、こちらはスペイン語で行こうかとも思ったんだけど」
「はい」
「冬はスペイン語できたよね?」
「少しですが。花祭りもスペイン語で歌いましたし」
「じゃ、発音とかチェックするから今から歌って」
というので、私はキーボードを弾き語りでスペイン語歌詞を歌った。
 
美智子が連れてきていたペルー人の女性から何ヶ所か発音上の指導を受けた。
「ここはペルーではこんな感じで発音するんです」
「なるほど」
 
そういうわけで、5〜6時間にわたる事前練習の末、急遽追加になった「コンドルは飛んでいく」アルバム版の録音がおこなわれた。サトはケーナを一応吹けるようになったが、演奏技術が合格水準に達していないと言われた。「さすがに数時間では無理ですよ」とマキが言う。
 
「仕方ないなあ・・・・この部分、先生が吹いてくださいませんか?」
ということで、ケーナの部分はサトに演奏法を教えに来てくれていた先生が吹いて下さることになった。
「でもライブでは吹いてもらうから練習しててね」
「ははは・・・・」
 
その他のラテン楽器に関してはキーボードにラテン楽器のサウンドデータをインストールし、私とサトとの2台で合奏したらひじょうに深みのあるサウンドになり、ケーナの先生も「すばらしい!」と褒めていた。私は女声と中性ボイスで多重録音の重唱をした。行進曲部分は歌を入れずにブラスバンド風のサウンドを加えた。ここはケーナが主役になるのでほんとにサトに吹いてもらいたかったところであった。また舞曲部分には私の歌うメロディーにプラスしてマキ・タカ・サトのコーラスも加えた。
 
最初スペイン語歌詞だけの予定だったのだが、聞いてみると少し寂しいかなといわれ、結局ヤラビの所はスペイン語で歌ったあと、日本語でもう1度歌うことにし、ワイノの所は日本語とスペイン語を交互に数度歌いながらフェイドアウトしていく形に改められた。そんな風に調整しながらやっていたので録音は結局その日の深夜すぎまで掛かったのであった。
 

翌週は「ローズ+リリー」のメモリアルアルバムが発売になった。録音は昨年おこなったものである。2年ぶりのアルバムであったが、好評な売れ行き・ダウンロードであった。ローズクォーツの方でリリースしている『あの街角で』
『私にもいつか』も含まれているので、両方を聞き比べて論評するブログなども見受けられた。『私にもいつか』は両者がほとんど同じアレンジでボーカルが1人か2人かの違いなのだが、『あの街角で』は対照的なアレンジであったので、それを聞き比べようということで、この曲がアルバムの中の個別ダウンロードではいちばんカウントが多かった。(上島先生の曲を抜いてしまったので私はちょっと恐縮したが、上島先生は気にしている様子は無く「次はもっと力(りき)入れて書くから」などとおっしゃっていた)
 
『あの街角で』のローズ+リリー版は「チーズケーキ」、ローズクォーツ版は「フルーツタルト」と評しているものもあり、面白い表現だと私は思った。
 
演奏もローズクォーツ版(下川先生のアレンジ)はサトのシンセサイザを使ったオーケストラサウンド、マキのベースとタカのエレキギターをフューチャーしているが、ローズ+リリー版(美智子のアレンジ)は近藤さんのアコスティックギターと松村さんという方の生ヴァイオリンのみでほとんどの部分を演奏しており、ドラムスさえ入れてなかった。私は同じ旋律で同じ歌詞を歌っているのだが、伴奏が異なると、ほんとに全然違う曲に聞こえてしまうのである。
 
アルバム全体の売れ行きの初動の数字を分析していた美智子がいった。
「元々のローズ+リリーのファンが5割、ローズクォーツのファンが5割という雰囲気だね」
「へー」
「ローズ+リリーのファンは10代から20代前半の、女子7割男子3割だった。女の子のユニットには珍しく女性ファンが多かったのよね。
ケイの中性的な魅力に惹かれたのかもね」
「あはは」
 
「ところでさ『ふたりの愛ランド・裏バージョン』の話」
「あ、はい?」
「あれはね。私なりのファンへの謝罪。ローズ+リリーの時はケイの性別を誤魔化して売っていたわけだから。それに決着を付けておきたかったの」
「・・・・」
「冬にはちょっと辛いことさせちゃって、申し訳無かったけどね」
「いいの。割り切ったから」
「でも、もう男の子の声は封印しちゃおうか。今後は作品には使わない」
「いいの?」
「うん。だって冬はもう完全な女の子だもん。男の子の声をファンの前に晒す必要は無い。まあ、避難所ツアーの時は特別だったけどね」
「うん。あれは宴会芸の範囲ということで」
と私は笑った。
 
「ふふ。それでね、ローズ+リリーのファンは女の子が多かったんだけど、ローズクォーツのファンは男女半々くらいなのよね。年代的にも少し高めで20代から40代まで均等に広がっている。それで、今回のローズ+リリーのメモリアルアルバムはローズクォーツではあまり動いていなかった10代の人が結構買っているし、女性の比率のほうが少し高い。女性6割くらい。それで双方のファンが買っているなと考えた」
「なるほど」
「政子ちゃんとまた組んで活動したい?」
 
「ううん、ローズ+リリーは年に1度くらいのアルバム制作限定で。私は今はローズクォーツのメンバーだから」
「うん、それでいいよ」
と美智子は笑顔で答えた。
 
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【続・夏の日の想い出】(3)